象狂象こと、西岡恭蔵は1948年三重県志摩半島の生まれである。
実家は真珠の養殖業だった。
大阪の大学で、歌好きの連中が集まってコンサートを開催していた大阪フォーク・スクールで大塚まさじと出会い、関西フォーク伝説の喫茶店「ディラン」に出入りするようになった。
「ザ・ディラン」やその後を継いだ「ディランII(セカンド)」というグループはそうして生まれたのだが、西岡自身は「ザ・ディラン」を脱退してからも、彼らのレコーディングに参加したり、楽曲を提供したりして、つかず離れずという不思議な関係が続いたのである。
(西岡恭蔵)
西岡恭蔵の代表曲“プカプカ”は『ディランにて』(1972)という彼のファーストアルバムに収められていた。
フォークというよりも和製ブルースと呼んだ方がよさそうな名曲である。
♪おれのあん娘は タバコが好きで
いつもプカ プカ プカ…
と歌いだされる。
♪
朝日新聞の土曜版には「be」という別刷りの紙面がついていて、「うたの旅人」という連載記事がある。
2011年2月26日の「be」の「うたの旅人」の見出しは「『あん娘』のモデルは誰 西岡恭蔵・作詞作曲『プカプカ』」というものだった。
いくつかの伝説を生んだ曲だが、記事によると、「あん娘」のモデルは、ジャズ歌手の安田南だという。
もっとも、これは以前からよく知られていたようだが、私は誰がモデルかなんてことはあまり気にしたことはなかった。
安田南といえば、1970年代のFM東京の人気深夜番組「気まぐれ飛行船」で片岡義男とDJをやっていたことが思い出される。
私は、彼女のヴォーカル・アルバムも2枚ほど持っているのである。
(安田南)
“プカプカ”が生まれたのは1971年だが、この年、日本の音楽史に特筆される出来事が起きた。
伝説の「中津川フォーク・ジャンボリー」事件である。
メジャー路線を走るアーティストは、聴衆から「帰れ」コールを浴びて、殺気立ったイベントとなったのだ。
最大の被害者は吉田拓郎であったが、安田南も被害を受けた。
なぎら健壱の「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)によれば、こういうことになる。
少々長いが、引用したい。
***
それは(中略)2日目午後10時頃、ジャズ・ヴォーカリストの安田南がステージに上がっているときに起こった。最初の数分はジャンルの違う安田の唄に対し珍しさもともなって拍手を送っていたが、やがて目指すフォークと違うのを見てとるとすぐにそれは「帰れ」の声に変わった。
何回となく舞台からその「帰れ!」に抗議する気丈な安田であったが、それがかえって客の反発を食らい、「帰れ!」の声は1万人の大合唱に変わった。それが合図だったように、袖からデモ隊がステージに向かい始めた。それを阻止しようとする実行委員やガードマン(主催者はガードマンを雇ってないというが)が、デモ隊を押しとどめるも、それを振り切ってついにデモ隊はステージを占拠してしまうのである。
安田は憮然としてその連中とやり合うのだが、その声も「帰れ!」「引っ込め!」の声にかき消されてしまう。
マイクは占拠され、そこから何をいいたいのかよく分からない、一方的な討論会が始まった。
「入場料に対する疑問」
「ジャンボリーの意義とは」
「テレビを中心とする取材に対する批判」
「商業主義批判」
「音楽舎は出ていけ」
まともな意見だけをまとめると、だいたいこのようなことになるのだが、討論をする彼らもまた猛烈なヤジを食らうのである。しかし彼らはそれに臆することなく、一方的な討論はますます熱くなっていくのである。
30分ほどして安田がステージ上で「こういう状態になって、ここでみなさんがたが討論をはじめることは一向にかまいません。ただし、みなさんの中で、たとえば3人ぐらい、安田南の歌を聞いてもいいかなあとか、鈴木勲の演奏を聞いてもいいかなあと思う方があれば、できたら私は、唄いたいと思う訳です。唄うために私はここに来ました」と会場に向かっていうと、客席からは拍手が起きる。
始めは面白がってマイクを占拠してしまった連中をあおっていた観客も、いつまで経っても結論どころか進展すらみせないその討論会にイヤ気がさし、露骨なヤジを飛ばすがもうそれでは止まらない状況になっていた。
(中略)僕はといえば周りにいる連中と一緒にステージに対してヤジっていたが、シラケたステージに嫌気がさし、サントリー・レッドをあおり、やがてそれが効いてそのままそこで寝てしまった。
ちなみにこの安田の後に出番を控えていたのが『ザ・ディランII』であったのだが、彼らは散々待たされた挙げ句、とうとう出演出来ずに終わってしまったのである。
71年『フォーク・ジャンボリー』はこの騒ぎを最後に、終わりを告げるのである。
***
“プカプカ”のリズムはとても明るいが、かなり深刻な歌詞で終わる。
違和感というか、人を何かザラついた気持ちにさせる。
♪おれのあん娘は うらないが好きで
トランプ スタ スタ スタ
よしなって言うのに おいらをうらなう
おいら 明日死ぬそうな
あたいの うらないが ピタリと当たるまで
あんたとあたいの 死ぬときわかるまで
あたいトランプやめないわ
スタ スタ スタ…
彼は作詞家であった彼の愛妻(KURO)の三回忌に自ら命を絶ってしまう。
1990年4月のことで、50歳であった。
だからというわけではないが、彼は若い頃から「死」というものを意識していたのかもしれない。
(KURO)
さらに、モデルとされた安田南も1980年代の初めに忽然と姿を消してしまう。
いわゆる「失踪」であるが、彼女のその後の消息が報じられたのは、2009年に病死したというニュースであった。
彼女は終生へヴィー・スモーカーであった。
西岡恭蔵が安田南をモデルにしたという理由はよくわからないが、歌のヒロインである「あたい」のプロフィールは、一般にイメージされる安田南そのままである。
♪遠い空から 降ってくるっていう
「幸せ」ってやつが あたいにわかるまで
あたいタバコをやめないわ
プカ プカ プカ…
「幸せ」は空から降ってくるわけもないが、いつか、もしかして、そんなことがあるかも、という淡い希望、願望を感じさせる。
残念なことだが、作者の西岡恭蔵、モデルとされた安田南、この二人はきっと「幸せ」ってやつを探し損ねてしまったのであろう。
♪ ♪
本日の一句
「幸せになりそこなった辛の文字」(蚤助)
実家は真珠の養殖業だった。
大阪の大学で、歌好きの連中が集まってコンサートを開催していた大阪フォーク・スクールで大塚まさじと出会い、関西フォーク伝説の喫茶店「ディラン」に出入りするようになった。
「ザ・ディラン」やその後を継いだ「ディランII(セカンド)」というグループはそうして生まれたのだが、西岡自身は「ザ・ディラン」を脱退してからも、彼らのレコーディングに参加したり、楽曲を提供したりして、つかず離れずという不思議な関係が続いたのである。

西岡恭蔵の代表曲“プカプカ”は『ディランにて』(1972)という彼のファーストアルバムに収められていた。
フォークというよりも和製ブルースと呼んだ方がよさそうな名曲である。
♪おれのあん娘は タバコが好きで
いつもプカ プカ プカ…
と歌いだされる。
♪
朝日新聞の土曜版には「be」という別刷りの紙面がついていて、「うたの旅人」という連載記事がある。
2011年2月26日の「be」の「うたの旅人」の見出しは「『あん娘』のモデルは誰 西岡恭蔵・作詞作曲『プカプカ』」というものだった。
いくつかの伝説を生んだ曲だが、記事によると、「あん娘」のモデルは、ジャズ歌手の安田南だという。
もっとも、これは以前からよく知られていたようだが、私は誰がモデルかなんてことはあまり気にしたことはなかった。
安田南といえば、1970年代のFM東京の人気深夜番組「気まぐれ飛行船」で片岡義男とDJをやっていたことが思い出される。
私は、彼女のヴォーカル・アルバムも2枚ほど持っているのである。

“プカプカ”が生まれたのは1971年だが、この年、日本の音楽史に特筆される出来事が起きた。
伝説の「中津川フォーク・ジャンボリー」事件である。
メジャー路線を走るアーティストは、聴衆から「帰れ」コールを浴びて、殺気立ったイベントとなったのだ。
最大の被害者は吉田拓郎であったが、安田南も被害を受けた。
なぎら健壱の「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)によれば、こういうことになる。
少々長いが、引用したい。
***
それは(中略)2日目午後10時頃、ジャズ・ヴォーカリストの安田南がステージに上がっているときに起こった。最初の数分はジャンルの違う安田の唄に対し珍しさもともなって拍手を送っていたが、やがて目指すフォークと違うのを見てとるとすぐにそれは「帰れ」の声に変わった。
何回となく舞台からその「帰れ!」に抗議する気丈な安田であったが、それがかえって客の反発を食らい、「帰れ!」の声は1万人の大合唱に変わった。それが合図だったように、袖からデモ隊がステージに向かい始めた。それを阻止しようとする実行委員やガードマン(主催者はガードマンを雇ってないというが)が、デモ隊を押しとどめるも、それを振り切ってついにデモ隊はステージを占拠してしまうのである。
安田は憮然としてその連中とやり合うのだが、その声も「帰れ!」「引っ込め!」の声にかき消されてしまう。
マイクは占拠され、そこから何をいいたいのかよく分からない、一方的な討論会が始まった。
「入場料に対する疑問」
「ジャンボリーの意義とは」
「テレビを中心とする取材に対する批判」
「商業主義批判」
「音楽舎は出ていけ」
まともな意見だけをまとめると、だいたいこのようなことになるのだが、討論をする彼らもまた猛烈なヤジを食らうのである。しかし彼らはそれに臆することなく、一方的な討論はますます熱くなっていくのである。
30分ほどして安田がステージ上で「こういう状態になって、ここでみなさんがたが討論をはじめることは一向にかまいません。ただし、みなさんの中で、たとえば3人ぐらい、安田南の歌を聞いてもいいかなあとか、鈴木勲の演奏を聞いてもいいかなあと思う方があれば、できたら私は、唄いたいと思う訳です。唄うために私はここに来ました」と会場に向かっていうと、客席からは拍手が起きる。
始めは面白がってマイクを占拠してしまった連中をあおっていた観客も、いつまで経っても結論どころか進展すらみせないその討論会にイヤ気がさし、露骨なヤジを飛ばすがもうそれでは止まらない状況になっていた。
(中略)僕はといえば周りにいる連中と一緒にステージに対してヤジっていたが、シラケたステージに嫌気がさし、サントリー・レッドをあおり、やがてそれが効いてそのままそこで寝てしまった。
ちなみにこの安田の後に出番を控えていたのが『ザ・ディランII』であったのだが、彼らは散々待たされた挙げ句、とうとう出演出来ずに終わってしまったのである。
71年『フォーク・ジャンボリー』はこの騒ぎを最後に、終わりを告げるのである。
***
“プカプカ”のリズムはとても明るいが、かなり深刻な歌詞で終わる。
違和感というか、人を何かザラついた気持ちにさせる。
♪おれのあん娘は うらないが好きで
トランプ スタ スタ スタ
よしなって言うのに おいらをうらなう
おいら 明日死ぬそうな
あたいの うらないが ピタリと当たるまで
あんたとあたいの 死ぬときわかるまで
あたいトランプやめないわ
スタ スタ スタ…
彼は作詞家であった彼の愛妻(KURO)の三回忌に自ら命を絶ってしまう。
1990年4月のことで、50歳であった。
だからというわけではないが、彼は若い頃から「死」というものを意識していたのかもしれない。

さらに、モデルとされた安田南も1980年代の初めに忽然と姿を消してしまう。
いわゆる「失踪」であるが、彼女のその後の消息が報じられたのは、2009年に病死したというニュースであった。
彼女は終生へヴィー・スモーカーであった。
西岡恭蔵が安田南をモデルにしたという理由はよくわからないが、歌のヒロインである「あたい」のプロフィールは、一般にイメージされる安田南そのままである。
♪遠い空から 降ってくるっていう
「幸せ」ってやつが あたいにわかるまで
あたいタバコをやめないわ
プカ プカ プカ…
「幸せ」は空から降ってくるわけもないが、いつか、もしかして、そんなことがあるかも、という淡い希望、願望を感じさせる。
残念なことだが、作者の西岡恭蔵、モデルとされた安田南、この二人はきっと「幸せ」ってやつを探し損ねてしまったのであろう。
♪ ♪
本日の一句
「幸せになりそこなった辛の文字」(蚤助)