Quantcast
Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
Viewing all 315 articles
Browse latest View live

#431: 直立猿人

$
0
0
現在使われている世界史の教科書を開いたことはないが、おそらく蚤助が学生時代に学んだ内容とはだいぶ違っているだろう。
石油ショック、イラン・イラク戦争、アフガン紛争、果ては9.11など、当時は思いもよらぬ出来事だったし、先史時代にしてもさまざまな分野の研究成果によって新しい知見が加えられるようになっている。

♪♪♪♪♪♪
進化論によれば「猿人」とか「原人」が人類の祖先とされている。
長い間、アウストラロピテクスなどの「猿人」から、ジャワ原人や北京原人その他の「原人」(ホモ・エレクトゥス)が生まれ、そこからネアンデルタール人などの「旧人」(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス)が出てきて、最後にクロマニョン人などの「現生人類」(ホモ・サピエンス・サピエンス)が出てきたと説明されてきた。

しかし、最近では、この考え方に疑問を生じさせる証拠が数多く発見されているという。
現生人類は、「猿人」とか「旧人」などと呼んできたものが生息していた時代にはすでに生息していたらしいというのである。
つまり、人間は必ずしもサルのような動物から進化してきたというわけではなく、サルと、サルに似た絶滅動物と、現生人類の祖先というそれぞれの種の系統があったというわけだ。
誤解をおそれずに言うと、「人類ははじめから人類として存在していた」可能性があるということなのだ。

「直立猿人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)として知られるジャワ原人の化石は、1891年、インドネシアのジャワ島で発見された。
オランダ人の解剖学者で医師のユージン・デュボアの手になるもので、サルと人類の間をつなぐ「ミッシング・リング」である猿人の化石の探索のためジャワ島を訪れたという。
デュボアは、同島のソロ川近辺の発掘を行い、そこで頭骨を発見した。
さらに、およそ1メートル離れたところから歯を1本、さらに15メートル離れたところから大腿骨1本を掘り出した。
これが、ジャワ原人と呼ばれるもので、ピテカントロプス・エレクトゥスという学名をつけられた。
日本では「直立猿人」と呼ばれているのだが、現在では「猿人」ではなく「原人」という位置づけになっているようだ。

デュボアは、この動物を「直立歩行をしていたものでサルとヒトの中間型である」と考えたが、頭骨と歯と大腿骨が数メートルも離れたところで発見された状況で、これがどうして同一の体に属していたものと判断できるのか、素人ながら疑問に思う。
当時でも専門家の間で異論があったというが、これらの骨が同一の個体である証拠は全くなく、むしろそれぞれ別の動物の体の一部と考える方が自然であり、「直立猿人」はデュボアの進化論的想像力だけだったと言えるのではないだろうか。

それは「北京原人」にもいえることで、化石の現物は第二次世界大戦中に失われてしまったので、今日では再調査すらすることができない。
現在の化学検査やハイテク技術の使用によって、より精緻な結論が出ていた可能性が高いのではないかと言われている。
すなわち、人類の進化の過程を示す物的証拠になり得えないという結論である。
無論、これもひとつの仮説に過ぎないわけであるけれども…

と、ここまでが長い長い前振り…(笑)

♪♪♪♪♪♪
ジャズ・ジャイアンツの一人であるチャールス・ミンガス(1922-1979)は、気難しく、バンドのメンバーの一人や二人はすぐ殴り倒してしまうようなボスだったが、晩年車椅子姿で、当時のカーター大統領に声をかけられ、感極まって号泣したというエピソードが伝えられている。
どうも同じ人物とはとても思えないのだが…(笑)。

およそモダン・ジャズの世界で、ベースの器楽奏者として、作曲家として、あるいはバンド・リーダーとして、彼ほどヴァイタリティと野心に満ち、飽くことを知らぬ自己主張と前進意欲にあふれたミュージシャンはいないだろう。

そのミンガスが、1956年、32歳のときに吹き込んだのが『直立猿人』(PITHECANTHROPUS ERECTUS)で、怖いミンガスの代表のような作品である(笑)。



1956年といえば、マイルス・デイヴィス、クリフォード・ブラウン=マックス・ローチを始め、アメリカ東海岸のミュージシャンたちがアグレッシヴなジャズ演奏に真剣に取り組んでいる最中であった。
ハード・バップが新しい潮流から一挙にジャズの主流になろうとしていた時期でもあり、ミンガスはひときわ異彩を放つグループ表現を繰り広げていたのだった。

その異彩ぶりは、主として即興演奏に表れていた。
いわゆる伝統的な決まりごとを排し、その折々のプレイヤーの心の動きを重んじ、奔放に演奏させるのである。

本作では、チャールス・ミンガス(b)、ジャッキー・マクリーン(as)、J・R・モンテローズ(ts)、マル・ウォルドロン(p)、ウィリー・ジョーンズ(ds)というわずか5人のミュージシャンでなんとオーケストラに匹敵する彩りを見せている。
ミンガスの地の底から響いてくるような重厚なベースを中心に、各メンバーのエネルギーに満ち溢れたプレイによるところが大きい。
つまり、集団的即興演奏の中に、ひときわ偉大な輝きを放つミンガスがいるので、自然とその特異なパーソナリティに他のメンバーが巻き込まれていくようだ。
これがミンガス・ミュージックの基本路線なのである。

 1. Pithecanthropus Erectus
 2. A Foggy Day
 3. Profile Of Jackie
 4. Love Chant

以上、4曲が収録されているが、タイトル曲の#-1は、『Evolution(進化)』『Superiority Complex(優越感)』『Decline(衰退)』『Destruction(滅亡)』からなる4楽章のトーン・ポエムで、切れ目なく演奏される。
テーマ部分と奔放な集団的即興演奏とのコントラストが鮮やかで、初めて文学的といってもよい手法を用いたジャズとしてリスナーの耳目を引いた。

このアルバムは、#-1によって語られることが多いが、ガーシュイン兄弟のスタンダード曲である#-2の霧深きロンドンをイメージしたサックス陣による車のクラクションを模したユーモアあふれるアレンジや、#-3で披露されるジャッキー・マクリーンの素晴らしいアルト・ソロ、#-4の親しみやすさなど、実は聴きどころが多いのである。

ミンガスの音楽の特色として、よく「抗議」や「怒り」があげられるが、彼の音楽がそれらを諧謔的なユーモアで包み、しかもミンガス・サウンドともいうべき編曲・演奏技法によって構築されている点は忘れてならないだろう。
ミンガス・ミュージックの原点ともいうべき1枚である。

彼のアルバムは、後年のアルバムも含めて、どれも非常に高水準のものばかりで、失敗作は1枚たりともないとここに断言しておきたい、とキッパリ(笑)。

♪♪♪♪♪♪
「俺をチャーリーと呼ぶな、チャールスと呼べ」と怒鳴ったミンガス、バンド・メンバーのトロンボーン奏者ジミー・ネッパーを殴って歯を折ってしまったミンガス、生前は理解されず売れなかったエリック・ドルフィーの才能を高く買っていたミンガス、晩年になってジョニ・ミッチェルとのコラボレーションをするなど他の音楽家に深く敬愛されたミンガス…
どれもミンガスの姿であり、かなり複雑な人物だったと言えよう。
怒り、挑戦的、風刺、教会音楽、風物詩、デューク・エリントンへの限りない敬愛などいろいろな面を持っていた。
とりわけ生涯を通じて「怒り」を持ち続けた音楽家であった。

翻ってわが身を考えると、自分の「怒り」なんて実にささやかなもので、せいぜいこんなところだろうか…

「まあ一杯言われて溶ける怒りです」



#432: しのぶれど音に出にけり

$
0
0
本ブログにも何度か登場したウイントン・ケリー(1931-1971)は、蚤助のお気に入りピアニストの一人だが、ジャマイカ生まれだった。
そのせいか、どことなくエキゾチックな響きやゆったりとしたビート感覚は、幼少の日々を過ごした西インド諸島の気候とか風土から得たものなのだろう。

彼のピアノの特徴は「ころがるような」スインギーなタッチと溜めの利いたフレージングだろうと思う。
以前書いたように(#349)、ハッピー・スインガーであるが、明るさのなかにそこはかとなく漂う哀感が、まさに「しのぶれど音に出にけり、ウイントン・ケリー」というわけである(笑)。
数多くのセッションに参加したが、一時期ナンバーワン的ピアニストという存在であったことは確かだった。

彼がマイルス・デイヴィスのクインテットに在籍したのは、1959〜1963年のおよそ4年間だったが、力強くクリーンなタッチと内面からこみ上げてくるような豪快なスイング感は、最良のモダニストと呼びたいほどのプレイを披露していた。

ケリー在籍中のマイルスは、ハード・バップからモード・ジャズに移行中で、必ずしもケリー自身のスタイルに合った音楽とは言えなかったが、そこは生来の器用さでうまく対応していた。



マイルスが1959年に名盤『KIND OF BLUE』をレコーディングした時、レギュラー・ピアニストだったケリーがスタジオに行くとビル・エヴァンスがいた。
マイルスは曲によってエヴァンスとケリーを使い分けようと考えていたが、ケリーはそうとは知らず、自分がクビになったと思って、スタジオの隅で落ち込んでいた。
それを慰撫したのがポール・チェンバース(b)とジミー・コブ(ds)だったという。
後のウイントン・ケリー・トリオのメンバーである。
結局、ケリーは1曲のみの参加となるのだが、それはこのアルバムの基本的コンセプトがエヴァンスの音楽性に大きく依存していたからである。

ケリーはそれ以降も4年にわたって、チェンバース、コブとともにマイルス・グループのリズム・セクションを担うことになるのだが、グループの仕事がオフのときは、ケリーがリーダーとなって、同じ面子でトリオで活動を行った。
そして、1963年の春、三人はマイルスの元を離れ、ウイントン・ケリー・トリオを正式に発足させることになる。
以後、ケリーが体調を崩して亡くなるまで、ケリーはほぼこのトリオで活動したのだった。

ケリー自身のリーダー作として、ジャズ喫茶で大人気だった『KELLY BLUE』(1959)をここで紹介しておきたい。
ケリーの代表作の1枚であるとともに、ファンキー・ブームの渦中で生まれた最もシンボリックな成果としてひときわ輝かしい作品である。

 [A] 1. Kelly Blue / 2. Softly, As In A Morning Sunrise / 3. On Green Dolphin Street
 [B] 1. Willow Weep For Me / 2. Keep It Moving / 3. Old Clothes

[A]-1と[B]-2は、ケリー〜チェンバース〜コブのピアノ・トリオに、ボビー・ジャスパー(fl)、ベニ―・ゴルソン(ts)、ナット・アダレイ(cor)の三人のホーン奏者が加わった演奏。
ゴルソンは当時新進のテナー奏者として注目されており、テナーとフルートを持ち替えて演奏するジャスパーはここではフルート1本に絞って吹いている。
特にアルバムのタイトル曲では、ジャスパーのフルートが絶妙の雰囲気を作り出している。
当時ジャズの世界では、フルートはまだまだ新参の楽器だったが、ファンキーな味付けにもってこいのスパイスの役割を果たすこととなった。
このイントロを数小節耳にするだけで、当時の熱い空気がよみがえってくるような気がする。

[A]-2の“SOFTLY, AS IN A MORNING SUNRISE”は、この曲の代表的名演として有名なもの。
このほか、ケリーはアップテンポの曲で真価を発揮していて、粒立ちの揃った美しい音色のシングルトーンで、単純明快に溌剌と弾き、これにコブがリム・ショットでアクセントを完璧につけてスイングする[A]-3など、イースト・コースト派の覇気と同志的結合が最大限に発揮された作品となっている。

ケリーは多彩な才能を持ったミュージシャンだった。
サッカーにユーティリティ・プレイヤーというのがあるが、ジャズ・ピアノの世界ならさしずめ彼がそれに該当するだろう。
ソロイストで良し、歌の伴奏者として良し、同時にスモール・コンボでも、ビッグ・バンドにおいても優れた才能を発揮したのだった。

ある評論家が述懐したように、「アール・ハインズ〜ナット・キング・コール〜ウイントン・ケリーという楽しき系図」は、今では断絶した歴史上のものになってしまったのが、かえすがえすも残念なことである。

♪♪♪♪♪♪
世の中、団塊の世代を筆頭にして、渋い大人たちが、趣味の世界や、レジャーやファッション・トレンドやらのブームや流行発信の一翼を担っているようです。
これも少子高齢化のひとつの現象なのでしょうか。
そういえば、「チョイ悪オヤジ」というのもちょっと話題になりましたね。

「健診もオヤジ世代はチョイ悪だ」

#433: ジャズと自由は手に手をとって…

$
0
0
明治から昭和にかけて活躍したジャーナリストの宮武外骨(1867-1955)を評したものにこんな一文があるそうだ。

「天下無比の鬼才である。徹頭徹尾思った通り書く直情径行の男である。左顧右眄しない男である。人間がサッパリしているから、文章がキビキビしている。グングン書きまくってサッサと切り上げる。実に鮮やかなもの…」

この一文は森鴎外が書いたものと伝えられている。
「…だそうだ」とか「…と伝えられている」と書かざるを得ないのは、本当に鴎外の筆になるものかどうか不詳だからなのだが、とにかくこれを読んであるミュージシャンをイメージしてしまうのだ。
「書く」を「弾く」、「文章」を「演奏」に替えれば、まるでセロニアス・モンクの音楽の批評のように思えるのである。

♪♪♪♪♪♪
ジャズ界の奇人として知られるセロニアス・モンク(1917-1982)については、これまでもあちらこちらで触れてきた(特にこちらを参照)。

今や映画監督として名匠の域に達しているクリント・イーストウッドが、製作・総指揮を執ったドキュメンタリー映画『ストレート・ノー・チェイサー』(1989)は、モンクのプライヴェートの奇行とともに、彼の音楽と人物像を余すところなく描き出していた。
芸術家であるが故の妥協を許さぬ姿勢や完璧主義、あるいは繊細な性格からくる言動とが、多くのエピソードとともに、彼のイメージを実態とは違う形で世に伝える要因になったのではないだろうか。

ステージでピアノを弾いていて、興が乗ってくると独特のステップで踊り始めたことが何度となくあった。
家族によれば、子供のように純粋だったということなので、そのナイーブさが、彼を奇人に見せることになったのかもしれない。
難解といわれた彼の作品も、独特のハーモニーとパーカッシヴなピアノ奏法、他人にはない抜群のタイム感覚が目立つために誤解されたところがあると思う。
意表をつく自在のアクセントと不協和音によって予期せぬスリルを生みだし、他方では絶妙な間のとり方によって潜在的なビートを無限に創り出していくような気にさせられるのである。

それにしても、無名だったモンクがそのキャリア初期の演奏を録音したブルーノート時代(1947-1952)に、“Ruby My Dear”“Straight, No Chaser”“Well, You Needn't”“Off Minor”“Criss Cross”“Epistrophy”“Monk's Mood”、そして“'Round About Midnight”など、彼の代表的なオリジナル曲がすでに作曲され、演奏されていたということに驚かされる。
モンクは世に出る前から多くの名曲を生み出していたのである。
それらの楽曲は、美しいメロディを持つものから不協和音を駆使したものまで、一聴してモンクの曲とわかるユニークな個性で彩られている。

♪♪♪♪♪♪
今日では、ピアノ・ソロのアルバムがかなり作られるようになった。
キース・ジャレットなどが代表的な存在だが、かつてはソロ・ピアノが代表作となりうるピアニストといえば、アート・テイタムとセロニアス・モンクくらいのものだった。

天才的でピア二スティック、ヴァーチュオーソだったテイタムはともかく、モンクはずば抜けたピアノのテクニックを持っていたわけではないが、音楽そのものの自由をとことん追求する人であった。
「自由」と簡単にいうけれども、そう単純なことではない。
一定の枠組みからはずれた途端に、アーティストはすべてを自分で創意、選択していかねばならないのだ。
それはとてつもなく苦難にあふれた厳しい道なのではないだろうか。

基本的にモンクは固く自分の城を守る人で、全体の構成を考慮して共演者と協調しようとする姿勢は持ち合わせていなかったので、共演者がモンクの音楽をキチンと理解し得るか否かで演奏の成否が決まってしまうところがある。

したがって、彼が長い不遇の時期を経て、ピアノ・ソロであれば共演者の力量にかかわず自らの孤独な試みを完全に表現できると考えたとしても不思議ではない。

モンクは「ジャズと自由は手に手を取って歩み行く」と言った。
モンクの音楽についての考え方を端的に表したものである。

彼の無伴奏ソロ・アルバムは、1954年パリで録音されたヴォーグ盤に始まる。
手持ちのLPは『THE MONK RUNS DEEP』と題されたものだが、現在リリースされているCDではジャケット違いで『SOLO ON VOGUE』というタイトルになっていると思う。



[A] 1. 'Round About Midnight / 2. Reflections / 3. Smoke Gets In Your Eyes / 4. Well You NeedN't
[B] 1. Portrait Of An Ermite / 2. Manganese / 3. Eronel / 4. Off Minor

モンクに最初のソロ・プレイの機会を与えたのは、アメリカではなくフランスだった。
パリで開催されたジャズ・フェスティヴァルに出演のため渡仏したモンクに話をもちかけ録音にこぎつけたわけだが、フランスのジャズ関係者のセンスを称えずにはいられない。

長年暖めてきた彼の音楽がまるで堰を切ったように全編にあふれだしている。
ソロで演奏できる喜び、自分の奏でる一音一音が音楽になっていく喜びに満ちた明るい演奏で、多分に興奮気味でさえある。

[A]-1は、モンクの数あるオリジナル曲の中でも最も広く親しまれているが、ここでは神秘的なムードを生かして、独特の間とハーモニーによる豊かな表現力を見せている。

ジェローム・カーンのスタンダード[A]-3はモンクの愛奏曲だが、生命力にあふれたプレイで、哀しみの情感のようなものがあふれていて極めて人間臭い。
いつまでも心に残る演奏である。

このアルバムでのモンクのピアノは、豊かな色彩とサウンドを感じさせ、こういうモンクを愛するジャズ・ファンは多いのではなかろうか。

そして、さらに有名なのが『THELONIOUS HIMSELF』(1957)である。



 1. April In Paris
 2. Ghost Of A Chance
 3. Functional
 4. I'm Getting Sentimental Over You
 5. I Should Care
 6. 'Round About Midnight
 7. All Alone
 8. Monk's Mood

すべてバラード曲だが散漫で冗長なところが全くなく、一音一音がただならぬ美を紡ぎだしている。
本作には彼独特の沈鬱さや、難解な語法による曖昧さがなく、孤高の美意識からくる光を放っている。
ここでのモンクはとても機嫌がよい(笑)。

中でも9分を超える#-3の“Functional”には、モンクの音楽性が凝縮されている。
ちょっと古い感覚のブルースでありながら、その強力なスイング感と衝動は、非常に高い水準の表現だと思う。
これは彼が外部の世界に突き付けた最高の即興演奏であろうし、これに匹敵するのはロリンズとミンガスのいくつかの作品ぐらいのものであろう。
この1曲だけでも、世界のジャズ・ファンに与えた衝撃は相当なものだった。

また初ソロ・アルバムでも演奏した#-6は、慎重の上にも慎重を重ねて音を選び出しているようで、自らの音楽に対する真摯な姿勢がリスナーの心を揺さぶる。

唯一、#-8はジョン・コルトレーン(ts)とウィルバー・ウェア(b)のトリオによる演奏である。
当時、この3人にドラムスのシャドウ・ウィルソンが加わったモンクのカルテットは、ニューヨークの「ファイヴ・スポット」に長期出演していて、マイルス・クインテットから一旦離れたコルトレーンがモンクから音楽的滋養を多分に吸収して大きく飛翔するきっかけになる伝説的グループであった。

モンクのピアノ・スタイルは、白紙のキャンバスに絵の具をたらす偶発性に依拠した技法ドロッピングを駆使したジャクソン・ポロックの絵画を思わせる。
それぞれの色が鮮やかにキャンバス上を舞い、それぞれは独立していながら、全体を構成する上でどれも欠くことができない。
ポロックの抽象絵画と同様に、難解に響くモンクス・ミュージックのサウンドの向こうに美しい世界がある。

♪♪♪♪♪♪
最近は、いかにものジャズ喫茶はもちろんのこと、カフェ、バー、スナックなどに限らず、居酒屋や寿司屋、果ては蕎麦屋などというところまでBGMにジャズが流れている店が多くなりました。
たぶん有線放送なのでしょうが、演歌や歌謡曲などが流れていてもおかしくないような店構えでジャズが聞こえるというのはそれはそれで悪くないものです。
ただし、「ジャズが流れるラーメン屋はまず間違いなくまずい」と経験的に知ったところです。
これを密かに「ダーメンズの法則」と呼ぶことにしております(笑)。

「戸開ければジャズが飛び出す縄暖簾」
ラーメン屋といえば、メディアに取りあげられたり、有名人が来店した折りに撮影されたと思しき店主の写真を店内に展示しているところがあります。
あれって、たいてい店主が腕組みをしているのですが、何でだろう…。

「メニューより色紙ばかりが目立つ店」


#434: 花嫁の父

$
0
0
若いころ、確か山本有三の短編だったと思うが、娘を嫁にやる父の心境を描いた佳編を読んで「娘を嫁にやる父親というものはそんなに辛いものか」と思った記憶がある。
タイトルはもうすっかり忘れてしまったが、当時はおそらく女房の父親のことを重ねて読んでいたのだと思う。

時は移り、1年前に我が娘を嫁にやった。

♪♪♪♪♪♪
娘を人にやるのが惜しくてたまらない父親が、結婚式の夜、放心状態になっているところへ、新婚旅行先から娘が元気に電話をかけてくる。
娘の声を聞いたとたん、哀れな父親は嬉しさのあまりオロオロしてしまうのである。
映画『花嫁の父』(Father Of The Bride-1950)のエンディングだが、父と娘の人情の機微を、もっぱら父親の立場から描いたアメリカ映画であった。

以前こちらで少し触れたが、あらためてじっくり観直してみたのである。
以前にも触れたが、若いころは、これから結婚しようとする二人の立場で観ていた作品が、今やスペンサー・トレイシーとジョーン・ベネット夫妻の立場でストーリーを追っている自分がいるのである。

スペンサー・トレイシー(冒頭の画像)は、彼の遺作となった『招かれざる客』(Guess Who's Coming To Dinner-1967)で花嫁の父を演じたが、この『花嫁の父』でもなかなかの好演である。
軽妙さと重厚さがほどよくブレンドされたこの父親像はなかなか好もしい。
ジョーン・ベネットも、娘の結婚が決まると式に向けて事務的にテキパキと事を進める母親役をうまく演じている。



♪♪♪♪♪♪
映画の冒頭、トレイシー自身のナレーションが入る。

  結婚とは単純なもので 男と女が出会い 恋をして結ばれる
  その子供が成長し 異性に出会う
  また恋をして結婚 その繰り返しだ

  単純どころか 極めて単調だが
  結婚式になると 話は違う

  父親という存在は
  まだ幼い娘にとっては 神か英雄みたいなものだ
  やがて娘はパーマをかけ パーティへ

  その日から 父親はパニック
  男が寄ってくれば
  娘が奪われると 心配し
  寄ってこなければ 魅力がないのかと 心配する…

それまで父(トレイシー)は、娘(エリザベス・テイラー)をほんの子供だと思っていた。
20歳になった娘は突然、この人と結婚したいといって一人の青年(ドン・テイラー)を連れてくる。

母親(ベネット)の方は娘が結婚するときいて大喜び、娘のことよりウェディング・ドレスはどうする、自分が式に着る服は、などとはしゃぎ始めてしまう。
父親はそれも苦々しいのである。
で、母親に、婿になる男がどんな人物かわからん、人殺しや詐欺師かも知れん、などと言って脅かすので、今度は母親の方が心配になってしまう。

  「心配事は人に預けるのが一番だ」

父親の独白である。

幸い婿はしっかりとした青年で、結婚を許さざるを得ない。
ところが、無事に結婚式を済ますまで、父は夜もろくろく眠れない。
なるべく式は内輪にと考える父だが、なかなか思い通りにいかず、招待客の人選でもめたりするが、娘の意向をきくことでケリがつく。

自宅の婚約披露パーティで、父親はキッチンにこもって客の飲み物を作っていると、客の一人に「スピーチはどうする?」と尋ねられ、「これが終わったら」と答える。
その客が言う。

「脚光を浴びる最後の機会だ。あとは女が仕切る。結婚産業の手先になるんだ。結婚式を大きな演劇公演に仕立て上げる。君の出番は支払いの時だけだ」

何かと気のもめることばかりで、娘は挙式の直前になって破談にしてくれと泣きだしたり、またすぐに仲直りしたり…

そして式の当日、父親は一生懸命、客で埋まった家の中をウロウロと歩き回るのである。
娘の花嫁姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった。



その晩、がっくりと沈み込む父のところへ、新婚旅行先の娘から電話がくる。
父の顔は途端に喜色満面となるのであった…

♪♪♪♪♪♪
どうやら娘を持つ父親というものはみな同じような心境になるものらしい。
その点、監督のヴィンセント・ミネリがうまく描いたことから、たいそう共感を持って世の父親たちに迎えられたようだ(笑)。

久しぶりの礼服が小さくて悪戦苦闘するトレイシーを見ていると、まるで自分のことのように思えるし、次第に膨れ上がっていく結婚費用に頭を痛め、しまいには、娘に1500ドルやるから二人で駆け落ちをしろと勧めたりするのが実に可笑しい。
また、トレイシーが客に振る舞うためのマティーニを作って待っているのだが、マティーニ以外の飲み物ばかり注文されるのも、なかなかとぼけていて面白いエピソードである。

リズの末弟を演じているのが『ウエストサイド物語』でジェット団のリーダー、リフ役をやってブレイクしたラス・タンブリンだし、婿の母親を演じているのが『オズの魔法使』のビリー・バークで、黄色いレンガ道を歩いて行けとドロシーを導く良い魔女役だった。
また、テレビの人気シリーズ『ナポレオン・ソロ』にも出ていたレオ・G・キャロルが式をコーディネートする業者役になって出てくるなど、脇役もなかなか興味深かった。

それにしても、撮影時芳紀18歳だったエリザベス・テイラーの美女ぶりは驚きである。
本作の純真な花嫁姿から、その後の結婚や離婚遍歴を、一体、当時の誰が想像し得ただろうか(笑)。

♪♪♪♪♪♪
映画の冒頭で、男に囲まれれば囲まれたで、囲まれなければ囲まれないで、いずれにしても娘のことを心配する父親のナレーションが出てきます。
まあ、本作のリズのような娘だったら、とてもよく理解できます(笑)。

どこの誰とはいいませんが、ある父親の感慨…

「賢いなウチの娘を振ったカレ」(蚤助)   

#435: 幕末太陽傳・前編〜サヨナラだけが人生だ

$
0
0
勧 君 金 屈 巵
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離
唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の五言絶句『勧酒』である。
書き下し文では「君に勧む金屈巵(きんくつし・金の杯)/満酌辞するを須(もち)いず/花発(ひら)いて風雨多し/人生別離足(おお)し」とされているようだ。

井伏鱒二は、上田敏や堀口大學と同様、外国の詩歌をただ訳出するだけでなく、完全に「日本語の詩」に変容させた。
井伏の訳詩はどこか不思議でユーモラスであるが、『勧酒』はこうである。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガセテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
井伏を文学の師と仰いだ太宰治は「さよならだけが人生だ」という師の言葉を『グッド・バイ』で引用した。
また太宰と同郷の寺山修司は「さよならだけが人生ならば人生なんかいりません」と返歌を書いている。
寺山は井伏の訳にネガティヴなイメージを読み取ったのだろうが、ペーソスを感じられこそすれ、人生を嘆く雰囲気はあまりないのではなかろうか。
『勧酒』は「人生は別離ばかり、だからこそ今こそこの酒を楽しもう」という感慨であろう。
寺山は、おそらく太宰のイメージにひきずられたのに違いない(笑)。

さらにこれに留まらず、映画監督川島雄三(冒頭画像)が書いた本のタイトルが『花に嵐の映画もあるぞ』であり、今村昌平が編んだ川島の評伝が『サヨナラだけが人生だ〜映画監督川島雄三の生涯』、同じく藤本義一が書いた評伝が『川島雄三、サヨナラだけが人生だ』という風に、いずれも井伏訳『勧酒』の一節が引用されている。
川島は、井伏鱒二の大ファンであり、「サヨナラダケガ人生ダ」という一節を愛用していたという。

川島雄三(1918‐1963)は青森県下北半島の田名部町(現むつ市)生まれで、太宰や寺山と同じ青森出身であった。
生涯51本の作品を監督、何よりも日本映画における最高傑作喜劇として名高い『幕末太陽傳』(1957)を撮ったことで名を残している。
よく知られているように、難病である筋委縮性側索硬化症(ALS)に冒されていて、生前「この種の病気を抱えながら有名人になったのは、オレとルーズベルトくらいだ」と自嘲していたという。

♪♪♪♪♪♪
2012年は日活創立100周年にあたるが、それを記念して『幕末太陽傳』のデジタル修復が行われ、昨年からカンヌ国際映画祭をはじめ世界各国で巡回上映され、日本でも一般公開された。
そのデジタル修復版が、先般、NHKのBSプレミアムで放映されたが、画面も音声も実に鮮明で素晴らしい仕上がりとなっていることにあらためて驚いた次第である。



今更何だと言われそうだが、これは傑作である。
半世紀以上前の時代劇であるが、かねてから熱狂的な支持者を得ているカルト的映画であり、1999年にキネマ旬報が行った「オールタイム・ベスト100〜日本映画編」では総合5位(コメディとしては最高位)にランクされている。

この映画が製作された前年(1956)に日活は『太陽の季節』(古川卓巳監督)と『狂った果実』(中平康監督)を大ヒットさせていたが、これらの映画を契機に登場した太陽族に対する世間の風当たりは強く、日活内部でも「太陽族映画」へのアレルギーがあった。
そんな中で、川島の提出した脚本(川島、田中啓一、今村昌平の共同脚本)は、まさしく時代設定こそ幕末ではあるが太陽族を彷彿とさせるものであったこと、それまで高尚な文芸映画より一段低いものとみなされていた喜劇映画であったこと、石原裕次郎、小林旭、二谷英明らのスター俳優を脇役に回してジャズ・ドラマー出身のフランキー堺を主役に据えたことに加えて、セット予算など製作費の問題、川島監督自身の処遇問題などが重なり、映画の完成まで日活上層部との軋轢が絶えなかったという。

さて、前口上も長くなったところで、いよいよ本編…

♪♪♪♪♪♪
文久2年(1862)暮れの品川宿。
夜の街道筋で馬上のイギリス人と志道多聞(二谷英明)ら攘夷の志士達がひと悶着。
   (注)志道多聞は後の井上馨である。

鉄砲で手を撃たれ懐中時計を落とす多聞。
すかさず野次馬の中から飛び出してそれを頂戴するのが主人公の佐平次(フランキー堺)。

映画のタイトルとともに画面は一転、現代(昭和32年当時)の品川。
「東海道線の下り列車が品川駅を出るとすぐ…」という加藤武による軽妙なナレーションと、ディキシーランド・ジャズ風の演奏で、アーヴィング・バーリンの『ALEXANDER'S RAGTIME BAND』が聞こえてくる。
音楽担当は黛敏郎だが、いかにもこれから面白い映画が始まるという予感がしてくるから不思議だ。
スタッフ、出演者のオープニング・ロールに重ねて品川が紹介された後で「さがみホテル」のネオンが映され、画面は「相模屋」の行灯に変わる。
時は再び文久の幕末へ…実にうまい導入部である。

相模屋に佐平次が仲間3人(西村晃、熊倉一雄、三島謙)を引き連れて入ってくる。
芸者を挙げて夜を徹してドンチャン騒ぎ、太鼓を自ら叩くフランキーは、ドラマーらしくジーン・クルーパ流にクルクルと撥を回したり、実に楽しい演出である。



翌朝、ひとり残った佐平次、請求書を持ってきた若衆(岡田真澄)に、「ほう、こんなものかい。あれだけ遊ばしてもらって、ばかに安いねえ」などと言ってはぐらかし、酒の追加を頼んだりして支払いを先延ばしにする。
散々気を持たせた挙句、あっけらかんといかにも愉快そうに開き直る。

「ところがだ、この俺が一文も懐に持ってないってんだから、面白いじゃねえか」

佐平次は、店に居残って働いて返すことになる。

しかし、この男、大変な才人なのであった。
相模屋中を駆け巡って大活躍をするのである。

勘定をため込んだ高杉晋作(石原裕次郎)ら攘夷志士からはカタを取ってくる、女郎のこはる(南田洋子)に入れ揚げた末に、年季が明けたら一緒になろうという起請文が衝突してしまった仏壇屋の親子(殿山泰司、加藤博司)の前では、自分で書いたばかりの起請文を懐から取り出し、包丁を片手にこはるに対して「てめぇはよくもこの俺に!」と芝居を打ってその場を収め、親父の方から小遣いまでせしめる。

こはるとおそめ(左幸子)は相模屋の一番人気を争うライバル同士で、何かにつけていがみ合っている。
時には取っ組み合いまでする。
助監督を務めていた今村昌平は、本気で喧嘩させるように、南田洋子と左幸子の双方にお互いの悪口を吹き込んだ、と述懐している。
映画関係者っていうのは人がワルイね、ホント(笑)。

こはるに差をつけられつつあるおそめは、ふと厭世観にかられ、おそめにぞっこんの貸本屋の金造(小沢昭一)と心中未遂事件を起こして、テンヤワンヤの大騒ぎに発展させたりする。

そうしているうちに、要領のいい佐平次を女郎衆が放っておくわけがない。
「いのさん」とか「居残りさん」とか呼ばれるようになっている。
こはるとおそめがお互いに言い寄るものの「胸の病にゃ女は禁物」と受け流し、寝起きする行灯部屋で薬の調合に専念するのである。
このあたりは、川島監督の現実の姿が投影されているかのようだ。

佐平次は、陽気でありながら他人とは深い関わりを持とうとしない。
「へいへい、何でげしょう」と明るい声を上げて飛び出していく佐平次が、行灯部屋に戻り、独りになったときに見せる深い翳り、佐平次は重篤な胸の病を抱えているのである。
こうした底抜けの陽性と深淵をのぞくような虚無の両面性は、フランキー堺にしか演じられなかったのではなかろうか。
川島雄三監督の「喜劇で傑作を作り、喜劇映画の地位を向上させたい」という覚悟というようなものも感じられる。
結局それは生涯を通じて貫かれることになるのだが…。

ここから、相模屋の放蕩息子の徳三郎(梅野泰靖)と女中おひさ(芦川いづみ)の駆け落ち事件、攘夷の志士達の企みなどいくつかのエピソードが並行して描かれていく。

女中おひさは、父の大工長兵衛(植村謙二郎)の借金のカタに働かされているが、結局借金を支払えずついに女郎として店に出されそうになる。
相模屋の放蕩息子徳三郎は何かとおひさのことが気にかかっていて、二人はついに駆け落ちを企てるが、両親(金子信雄、山岡久乃)の知るところとなり、土蔵の中に幽閉されてしまう。

一方、、高杉らは御殿山にある英国公使館の焼き打ちを狙っていたが、肝心の絵図面が手に入らない。
徳三郎・おひさと攘夷志士たちというこの二組の頼るところはやはり佐平次なのだった。

さてさて、『幕末太陽傳』、物語が佳境に入ったところではありますが、予定の時間が到来してしまったようで…
前編はひとまずここまで、後編を乞うご期待…

♪♪♪♪♪♪
世の中、腰の軽い佐平次ばかりではありません。
こういうヒトもいるのです。

「ハイハイと返事軽くて重い腰」(蚤助)
本作の脚本の根幹は、古典落語にありますが、その落語的世界に血を通わせ肉付けをし、現代風のテンポで描かれています。
「居残り佐平次」を軸に「品川心中」「三枚起請」「お見立て」など遊郭を舞台にした落語が脚本に盛り込まれていますが、特に落語「居残り佐平次」では、佐平次は身体の具合がよくないので品川に養生に来た、という設定になっています。
それにしても、品川の女郎屋をまるでサナトリウムのように見立てるのが、落語のすごい発想力だと思います(笑)。

#436: 幕末太陽傳・後編〜首が飛んでも動いてみせまさあ

$
0
0
前稿を受けて『幕末太陽傳』の後編…

日活は歴史の古い映画会社であるが、この映画は製作を再開して三周年記念作品だということで、日活のオールスター・キャストが組まれた。
フランキー(佐平次)、裕次郎(高杉晋作)のほかに、南田洋子(女郎こはる)、左幸子(女郎おそめ)、芦川いづみ(女中おひさ)、二谷英明(志道多聞)、小林旭(久坂玄瑞)、小沢昭一(貸本屋金造)、西村晃(気病みの新公)、熊倉一雄(呑み込みの金坊)、殿山泰司(仏壇屋倉造)、金子信雄(相模屋伝兵衛)、山岡久乃(女房お辰)、梅野泰靖(息子徳三郎)、市村俊幸(杢兵衛)、岡田真澄(若衆喜助)など、キャスティングも見事にはまっていて、いずれも好演である。

フランキーは、芸名通りバタ臭い持ち味を売り物にしていて、ミュージシャンからコメディアンに転身して間もないころではあったが、古典落語の主人公を生き生きと演じている。
学生時代からジャズと同時に落語にも夢中になっていたというから、この役は願ってもなかったことであったろう。
羽織を投げ上げてヒョイと着てしまう仕草などは、まさしく佐平次そのもので喝采したくなるほど軽妙で粋であった。

♪♪♪♪♪♪
さて…
佐平次が相模屋の中をあまりにチョロチョロと動き回るので、幕府の密偵ではないかと疑った攘夷の志士たちは、佐平次を試すことにする。
高杉は、佐平次を舟で品川沖に連れだし、英国公使館焼き打ちの計画を打ち明けたうえで、刀を抜いて「斬る」と脅し、佐平次の出方を見ようとする。

ここで佐平次は反骨心をみせる。
怯えるわけでもなく、媚びるでもなく、見事な啖呵を切るのである。

「へへえ、それが二本差しの理屈でござんすかい。ちょいと都合が悪けりゃ『こりゃ町人、命は貰った』と来やがら。どうせ旦那方は、百姓町人から絞り上げたおかみの金で、やれ攘夷の勤皇のと騒ぎ回っていりゃ済むのだろうが、こちとら町人はそうはいかねえ」

「手前ひとりの才覚で世渡りするからにゃ、へへ、首が飛んでも動いてみせまさあ」

この映画の根幹をなす庶民のヴァイタリティがみなぎった名セリフである。
黒澤明の時代劇だと武士の方から見た庶民や町人が描かれるところだが、川島の世界ではあくまでも庶民の心情に重きが置かれ、視線も庶民側に貫かれているのである。

佐平次は、女中おひさから徳三郎との駆け落ちの相談をされていたが、当然タダでは引き受けない。
おひさは大枚十両支払うというのだが、「でも今すぐじゃないんです。毎年一両ずつ貯めて、十年経ったら返します」というおひさに、佐平次は答える。

「十年経ったら世の中変わるぜ」

明治維新はこの六年後で、佐平次の言う通り、世の中は大きく変わっていくのである。
労咳でセキが止まらぬ佐平次の十年後は果たしてどうなっていることやら…

だが、土蔵の中に幽閉されている徳三郎と女中おひさを一計を案じて助け出した佐平次は、一方で、英国公使館の普請をしていたおひさの父長兵衛を通じて絵図面を入手し、攘夷志士たちに手渡す。
やがて御殿山の公使館の方角からは、闇夜を通して炎が上がる。
「お前さん方を逃がせば、おいらここには居らんねえ身体だ、なあに潮時」と言いながら二組を同じ船に乗せて逃がしてやる。



佐平次が相模屋に戻ると閉店時間(大引け)である。
いざ、いよいよ遁走しようとするその時、千葉の在所から出てきたお大尽杢兵衛(市村俊幸)につかまってしまう。
田舎者を嫌うこはるは杢兵衛から逃げ回っているので、杢兵衛は、しつこくこはるの消息を聞きたがる。
「実はオッ死んじまったんで」と煙に巻こうとするのだが、今度は「寺はどこだ、お参りするべえ」と付きまとわれる。

近くの墓地に連れていって、適当に誤魔化そうとするが、普段は要領のいい佐平次が杢兵衛相手ではサッパリ通用しない。
「あっしなんか若うござんすから、墓にはとんと縁がねえもんで」と言うと、杢兵衛に「いんや、おめえさっきから妙に悪い咳こいてるでねえか」と指摘され、佐平次はさすがに暗い表情を見せる。
ついに業を煮やした佐平次は、杢兵衛の「地獄さ落ちっど〜!」の声を背に全力疾走で逃げ出す。
海沿いの街道を走り去っていくのである、「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」と叫びながら…。
エンドマーク。

♪♪♪♪♪♪
さらに、いくつか書いておきたい。

まず、川島監督の幻のラストシーンのエピソードである。
佐平次が幕末のセットから飛び出して、現代の品川の街並みへ走り出すというのである。
至るところに映画の登場人物たちが現代の姿でたたずみ、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去るというものだったらしい。
このアイデアの数少ない賛同者の一人だった小沢昭一によると、小沢は自転車に乗った貸本屋姿で、フランキーを見送るというものだったという。
しかし、フランキー本人や他のスタッフからあまりにも斬新過ぎると猛反対されて、現行のヴァージョンになったのだという。
もっとも、フランキーは後年になって監督の言う通りにしておけばよかったと述懐している。

この映画の幻のラストシーンは、映画のセオリーを無視しているが、なかなか面白いアイデアで、後年様々な映画人によって試みられ、あるいは実験されている。
川島監督の一番弟子だった今村昌平は長編ドキュメンタリー映画『人間蒸発』(1967)で、ラストシーンの部屋がセットであることをわざわざ観客に明かしているし、寺山修司の『田園に死す』(1974)のラストでは、東北地方の旧家のセットが崩壊すると、その背後から新宿駅東口の雑踏が現れるという衝撃的な映像を撮っている。。

また、ヌーヴェルバーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの傑作『気狂いピエロ』(Pierro Le Fou-1965)には、ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが車で逃走するシーンが出てくるが、突然ベルモンドが振り向きカメラに向かってセリフをしゃべる。
カリーナが「誰に言ったの?」と聞くと、ベルモンド答えていわく「観客にさ」。
こういった手法は、スクリーン上の虚構の世界を一気に崩壊させてしまうものすごい効果を持っているのである。

ラストの落語「お見立て」のエピソードに登場する杢兵衛を演じた市村俊幸(愛称はブーちゃん)はナット・キング・コール流のピアノ弾き語りの名手で、黒澤明監督の『生きる』(1952)や裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督-1957)などにも出演していた。
そのブーちゃんとフランキーによる「地獄さ落ちっど〜!」「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」という掛け合いはジャズ・ミュージシャン同士のインタープレイに相当するのではないか思うと、ますます楽しくなってくる。

川島監督の弟子は、今村昌平をはじめとして、野村芳太郎、中平康、浦山桐郎、藤本義一などがいるが、俳優としてはやはりフランキー堺の存在が大きいであろう。
フランキーは生前の川島と東洲斎写楽の映画を作ろうと約束していたそうだが、川島が早世してしまったので、独自に研究を続け、1995年『写楽』(篠田正浩監督)を企画・製作した。
年齢の関係もあって、写楽役は真田広之に譲り、フランキーは蔦屋重三郎役を演じたが、生前の川島は「写楽はフランキー以外考えられない」と語っていたそうである。
フランキー自身は師・川島との約束を果たした翌1996年死去した。

♪♪♪♪♪♪
舞台となった「相模屋」は実在した旅籠だそうで、事実、高杉晋作や久坂玄瑞らが逗留し、御殿山に建設中だった英国公使館の焼き打ちを計画していたと伝えられています。
建物は現存しませんが、品川区の歴史館に模型が保存されているそうで、これによると『幕末太陽傳』の相模屋のセットは細部に至るまで忠実に再現されているようです。

日活上層部に「太陽族映画」と警戒された『幕末太陽傳』ですが、もちろん佐平次は太陽族ではありません。
キャストを見てもわかるように、騒々しくて体制に反抗的である攘夷の志士たちこそ幕末の太陽族そのものでしょう。
彼らは「憂国の志士」でもあったわけですが、時代は変わっても、そこここに憂国の志士はいるはずです…

「居酒屋に憂国の志士たむろする」(蚤助)

#437: デューク・ジョーダンのことなど…

$
0
0
映画の世界でリメイクというのは珍しくないが、自分の旧作を自らリメイクしてしまうというのはそんなに例があるわけではない。
知る限りでは、アルフレッド・ヒッチコックの『暗殺者の家』(THE MAN WHO KNEW TOO MUCH‐1934)を『知りすぎていた男』(原題同じ‐1954)に、ハワード・ホークスのコメディ『教授と美女』(BALL OF FIRE‐1941)をミュージカル『ヒット・パレード』(A SONG IS BORN‐1948)に、ジョージ・マーシャルの傑作西部劇『砂塵』(DESTRY RIDES AGAIN‐1939)を『野郎!拳銃で来い』(DESTRY‐1954)に仕立て直したのが記憶にあるのみである。

♪♪♪♪♪♪
ロジェ・ヴァディム(1928-2000)は、いわゆるフランスのヌーヴェル・ヴァーグに属する映画監督である。
ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダらトップ女優と次々と結婚したり、子供を設けたり、いやはや何ともうらやましい…いや…けしからぬ男であった(笑)。
本業はプレイボーイといった方がよいかもしれない。

彼は、監督第二作目にあたる『大運河』(SAINT-ON JAMAIS‐1956)で、全編ジョン・ルイスの書いたスコアによるモダン・ジャズ・カルテットの演奏を用い、大変好評を博し、いわゆる「シネ・ジャズ」という分野を開拓した一人である。

 (NO SUN IN VENICE / M.J.Q)

いみじくもこの年、ルイ・マルも『死刑台のエレベーター』(ASCENSEUR POUR L'ECHAFAUD)で、マイルス・デイヴィスの即興演奏を使って大成功を収めたのだった。

 (ASCENSEUR POUR L'ECHAFAUD / MILES DAVIS)

映画音楽にジャズを使い始めたのが、ハリウッドではなくフランスのヌーヴェル・ヴァーグの映画人だったというのが面白いところで、これ以降ジャズは映画音楽というジャンルの中でもある種特別な存在感を示すようになっていく。

♪♪♪♪♪♪
ヴァディムの監督第4作目に当たるのが『危険な関係』(LES LIASONS DANGEREUSES‐1959)だった。
原作は18世紀末にコデルロス・ド・ラクロが書いた「姦通小説」(!)だが、映画化に当たっては舞台を現代に移し替え、スワッピング(夫婦交換)の原点を示す官能的な作品に仕上げている。
このあたりはさすがにヴァディムの得意なテーマだったが、背徳的な内容だとして、フランス本国ではパリ以外での上映と海外への輸出が一時禁止されるなどの騒ぎとなった。
だが、半世紀以上も経った現在の目から見るとそれほど目くじらを立てるような内容とも思えない。
それだけ世の移り変わりが激しいということなのだろう。

ヴァディムは、当時、結婚したばかりの女優アネット・ストロイベルグを起用、そして本作が遺作となってしまった美男俳優ジェラール・フィリップ、ヌーヴェル・ヴァーグのミューズ的存在だったジャンヌ・モローが主演した。
この映画、ヴァディムの官能性に長けた演出になかなか見るべきものがあり、彼の代表作の一本といえよう。

そのヴァディムが1976年になって『危険な関係』をリメイクしたのである。
邦題はやや陳腐だが『華麗な関係』(UNE FEMME FIDELE)というもので、今度は舞台を原作の書かれた時代により近い19世紀初めに設定していて、登場人物の名前も変更されていた。

参考までに出演者を紹介しておくと、ジェラール・フィリップの役どころはジョン・フィンチ、同じくジャンヌ・モローはナタリー・ドロン、アネット・ストロイベルグはあの「エマニエル夫人」ことシルヴィア・クリステルだった。
そして音楽は、アメリカ出身でパリで活躍していたモート・シューマンとイージー・リスニング界のピエール・ボルトが担当、クラシカルな美しさを感じさせるスコアを提供したものの、映画ともども完全にコケてしまい、オリジナル版を超えることはできなかった。

オリジナルの『危険な関係』の方は、「シネ・ジャズ」の模範ともいえるモダン・ジャズが映画の官能を助長する働きを担っていた。
そのオリジナル版のタイトル・バックに、音楽担当はセロニアス・モンクのクレジットが映し出されるが、モンク・グループ(カルテット)の演奏は映画の前半部分を中心に流れる。
『大運河』や『死刑台のエレベーター』のように、この映画のために書かれたり、演奏された音楽ではなく、すでにニューヨークで録音されたレコードによるものだったという。
これは新録音の話し合いがつかなかったからという単純な理由だったそうだ。
したがって、世に出ている本作のサウンドトラック盤には、このセロニアス・モンクの演奏は収録されていない。

映画のためのオリジナル曲はフランスのジャック・マレーと、当時フランスに滞在していたピアニストのデューク・ジョーダンが書き、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが演奏した。
ジョーダン、ケニー・ドーハム(tp)、ケニー・クラーク(ds)らを擁したフランスの俊英サックス奏者のバルネ・ウィランのクインテットが映画のパーティの場面で顔を見せる。

映画はフランスで撮影されたが、音楽はニューヨークで録音された。
このためヴァディムと音楽プロデューサーのマルセル・ロマーノがアメリカに飛んだ。
撮影と音楽の録音が別々に行われたため、映画に顔を見せるドーハムとクラークはサントラの演奏には加わっていない、という妙なことが起きる。

途中の姦通の場面あたりから、ジャズ・メッセンジャーズやデューク・ジョーダンらの演奏になり、『危険な関係のブルース』(原題は“NO PROBLEM”)が流れる中で映画が終わる。
この曲はジャズ・メッセンジャーズの演奏で大ヒットしたのだが、どういうわけか作曲者としてクレジットされたのはジャック・マレーの名前のみで、真の作曲者のデューク・ジョーダンはこの印税をもらいそこねた、という笑えないハナシがある。
それにしても、全編モンクの音楽というわけではないのに「セロニアス・モンク」の名前だけがクレジットされたり、ジョーダンの名前が無視されたりするのも、当時のモンクとジョーダンのジャズ界に占める位置づけや知名度が影響していたことは間違いないだろう。
いかにもジャズ界のいい加減、といって悪ければ大雑把なところではなかろうか(笑)。

♪♪♪♪♪♪


デューク・ジョーダン(1922-2006)は、1940年代の後半、チャーリー・パーカーとの歴史的な演奏もあったが、元々華やかなスポットライトを浴びるというタイプのピアニストではなかったことに加え、人が良すぎることも災いして、60年代に入ると不遇を託つことになり、結局はタクシーの運転手で糊口を凌がざるを得なくなるなど、一般的にはほとんど忘れられていた存在であった。
むしろ、クリフォード・ブラウン=マックス・ローチ・クインテットの名演で知られる『JORDU』や『危険な関係(NO PROBLEM)』の作曲者としての方が有名だった。
事実、彼は10年ほどジャズ界から遠ざかっていたのだが、70年代に入ると心機一転ヨーロッパを中心に演奏活動を再開した。



『FLIGHT TO DENMARK』とタイトルされたこのアルバムは、彼のカムバック直後の1973年にコペンハーゲンで録音されたもので、これによって、ジョーダンは大躍進を遂げるきっかけとなるのである。

 [A] 1. No Problem / 2. Here's That Rainy Day / 3. Everything Happens To Me / 4. Glad I Met Pat
 [B] 1. How Deep Is The Ocean / 2. On Green Dolphin Street / 3. If I Did - Would You? / 4. Flight To Denmark

北欧の雪景色の中に立つジョーダンの写真を使ったジャケットも秀逸だが、演奏も「哀愁のピアノ」が輝きを放っている。
デンマークの新進べーシスト、マッズ・ビンディングとオスカー・ピーターソン・トリオのドラマーとして高名だったエド・シグペンを従えてのトリオ演奏だが、趣味が良くかつバランス感が素晴らしいアルバムである。

[A]-1は何度となく演奏してきた代表的名曲「危険な関係のブルース」だが、おやっと思うほどのスロー・テンポで、シグペンのシンバル・ワークと、ジョーダンの枯淡の味わいともいうべきピアノが微妙に絡み合い、切々と訴えかけてくるものがある。
ビンディングのベースも好演である。
このほか、[A]-2と3、[B]-1と2のスタンダード曲では、淡々と鮮やかに綴るアプローチが忘れがたいが、自作のワルツ曲([B]-4)やエンディングのアルバム・タイトル曲も渋いながらコクのあるピアノ・タッチが楽しい雰囲気を生んでいる。

♪♪♪♪♪♪
その昔、デューク・ジョーダンがインタビューの予定時間に1時間も遅れた、という記事を読んだことがあります。
セロニアス・モンクだったらよくあるハナシで済むところですが、人柄のよいジョーダンに理由を尋ねると、来る途中、転倒した老人を見かけたので、救急車を呼び、病院まで付き添って、医者に事情を説明してやったのだと答えたそうです。
いかにも、善人デューク・ジョーダンの人間性を表すエピソードですが、厳しい競争社会である音楽界の中ではそれが裏目に出ることも多々あったことだろうと思います。
『危険な関係』の印税もらい損ね事件などは、その最たるものでしょう。

とはいえ、彼の温かくてほのぼのとした人間性とピアノを愛するファンは日本にも大勢いたのです。
サラリーマン川柳風にいえば、デューク・ジョーダンというピアニストは、

「誰からも好かれたままで出世せず」(蚤助)
という存在だったかもしれません。

#438: ザンパノの嘆き

$
0
0
どんな高尚な芸術映画であっても、スターの演ずる主人公にはどこか普通の人々とは異なる部分があるものだ。
容姿、スタイル、ファッションであったり、能力、知識、技能、勇気、忍耐力、闘志、体力など何でもいいのだが、どこかしら市井の人々と一線を画すようなキャラクターに設定されることが多い。

イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニの『道』(LA STRADA‐1954)では、知恵遅れの女の無垢な魂と無知で粗野な男の救い難さが提示されている。
ただし、二人の間には人間的な心のふれあいだとか、素朴さだとか、そんなものがまるでない。
ただ可哀想な女の地に這いつくばるような姿に、観客は次第に暗い思いに引き込まれていくのである。

しかし、全編に漂うもの悲しい情緒の中で底抜けの無欲、純真な心にふれると、埃にまみれながらも路傍で可憐に咲く一輪の草花を見つけたような感動を呼び起さずにはいられない。
さらにニーノ・ロータによる哀切で甘美な主題曲のメロディと相まって忘れ難い印象を残す名画である。



♪♪♪♪♪♪
海辺の砂丘の陰にある寒村。
小さなあばら家に、少し知恵遅れのジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)が、母親と妹たちと住んでいる。
ある日、旅回りの大道芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)がやってくる。
自分の体に鉄鎖を巻きつけ、それを引きちぎってみせるというだけの芸ともいえぬほどの見世物をする芸人なのだが、ちょうど自分の姉を死なせてしまい、代わりにジェルソミーナを買い取って、助手とは名ばかりの奴隷のように酷使するのだ。



オート三輪で村々を巡り、鎖切りの芸を披露して小銭を稼ぐザンパノは、粗暴で、猜疑心が強く、狡猾で、獣のように荒々しくジェルソミーナを欲望のはけ口としてしまう。
動作がのろく、言葉も人並みではないので、ザンパノは彼女を役立たずと罵り、鞭で追い回す。
いくらかでも余分な金が入るとすぐ飲んだくれて、娼家にしけこむのある。
さすがにジェルソミーナもたまりかねて逃亡を試みるが、たちまち見つかって殴られるという生活であった。

 

冬が来て、二人は小さなサーカス団に身を寄せる。
ザンパノと昔馴染みの綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)は、何も変わらぬザンパノの無知と野蛮を毛嫌いしているが、ジェルソミーナにはやさしく接する。
彼女の靄のかかったような小さな頭に残るメロディをバイオリンで奏でて聴かせる。
そしてこう諭してやる。

「どんなものでも何かの役に立つんだ。たとえばこの道端の小石だって意味がある。空の星だってそうだ。君もそうなんだ」

ザンパノはそれが面白くない。
彼は激情にかられてナイフを振り回し、大暴れした末に警察につかまってしまう。、
ジェルソミーナはいっそこのまま綱渡り芸人について行こうかとも思うが、どんなつまらぬ道の小石にも意味があるものだと言い聞かせ、じっとザンパノの出所を待つことにする。



二人はまた旅に出るが、一夜を借りた修道院からザンパノが聖器を盗もうとするのを知って、ジェルソミーナは初めて猛烈に反対をする。
素直に聞き入れるザンパノではなく、さらに綱渡り芸人を見かけたことも相まって、怒りに狂い彼を殺してしまう。
ジェルソミーナは激しい衝撃を受け、大声で泣き出す、
それでもザンパノから離れずに泣きじゃくる彼女にさすがのザンパノもたまらなくなり、泣き疲れて眠ってしまったのをこれ幸いと路傍に遺棄して立ち去ってしまうのだった。

歳月は流れて…
ザンパノは相変わらず放浪の大道芸人である。
ある港町で、昔ジェルソミーナが口ずさんでいたもの悲しいメロディを耳にする。
洗濯女に聞くと、ここに流れてきて病気で死んだ乞食女が口ずさんでいた、という答え。
ザンパノは、暗い海辺にうずくまり、可哀想なジェルソミーナのことを思い浮かべて獣のように泣きわめく。
それは、彼が初めて見せる涙だった…

♪♪♪♪♪♪
フェリーニは大好きな監督である。
世評名高い『甘い生活』は、蚤助にとってはやや難解であったが、この『道』は通俗的ともいうべきストーリーではあるが、ラストシーンの荒くれ男の男泣きは、いわゆる自然主義の文学の世界とは少し違った優れて映画的な表現だと思う。
イタリアのネオ・リアリスモから人生派ヒューマニズムへ軸足を移した最初の名作といわれる所以でもあろう。

ザンパノはジェルソミーナの死を知って号泣するが、もはや彼には救いは訪れて来ないだろう。
天使のようなジェルソミーナをないがしろにした罪は、もはや赦されることはない。
ザンパノの嘆きは遅きに失したのだ。
人を愛したことのないザンパノは暗い夜空の下で浜辺の砂を握りしめながら、深い後悔にさいなまれるのだ。

骨太な作品を撮り続けたフェリーニが、無名の庶民の姿を厳しい眼差しで描き、こんな映画を後世に残してくれたイタリアの映画人に敬意を表さずにはいられない。

♪♪♪♪♪♪
ジュリエッタ・マシーナは小柄で愛くるしい女優で、文字通りマダム・フェリーニでもありました。
フェリーニの「カビリヤの夜」でもジェルソミーナに似たキャラクターのヒロインを演じていてこちらも好きな映画でした。
アンソニー・クインは、粗暴なのにどこか哀しさを持った難役をうまく演じていました。

若い頃、大道芸人(現在だとストリート・パフォーマーというのかな)を見かけたら、一緒にいた年長の友人が「ザンパノみたいだな」と言ったのを思い出します。
当時の蚤助は、何のことかまるで判らなかったのでありますが…(笑)。

「芸人も肥やしで済まぬことがある」(蚤助)



#439: 内なる声の協奏曲

$
0
0
ジム・ホール(1930- )というギタリスト(こちら)は、1950年代に登場したバーニー・ケッセル、タル・ファーロウ、ハワード・ロバーツ、ジミー・レイニーなど白人のジャズ・ギター奏者の一人である。
ウエスト・コーストでデビューし、55年にドラムスのチコ・ハミルトン率いる室内楽スタイルのグループで活躍、その後サックスのジミー・ジュフリー・トリオのメンバーとなった。

映画『真夏の夜のジャズ』のオープニングは、ジミー・ジュフリー・トリオの演奏から始まった。
あの1958年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにおける、テナーのジミー・ジュフリー、ヴァルヴ・トロンボーンのボブ・ブルックマイヤー、そしてギターのジム・ホールという、一風変わった楽器編成による演奏である。
そこでのジムは、地味なバッキングに徹しているかのように聴こえるが、その後人口に膾炙するようになる“インタープレイ”の走りとでもいうべき演奏を行っている。

温かで少しこもったような音色のジムのギターは十分個性的ではあるが、音量がさほど大きくなく繊細なので共演のミュージシャンもあまりパワフルなプレイスタイルの人は向かないのである。

ジム・ホールは基本的にライヴよりもスタジオ向きのミュージシャンなのだと思う。
彼のギターは、ライヴ録音では迫力に欠けると感じられることがあるが、丁寧に作り込まれたレコードでは、彼の良さがフルに発揮される。



彼の録音したアルバムの中で、最大のヒット作品といえば『アランフェス協奏曲』(CONCIERTO‐1975)であろう。
この作品はポール・デスモンド(as)、チェット・ベイカー(tp)というホーン奏者の参加がスケールの大きい演奏に寄与している。
しかもこの二人はちょっとクールな響きのプレイヤーで、パワーや音量の大きさで勝負するタイプではなく、あくまでデリケートな音色と表現を見せるミュージシャンなので、ジムの共演者としては最適と言える人材であろう。

さらにはピアノにローランド・ハナ、ベースにロン・カーター、ドラムスにスティーヴ・ガッドが加わっており、まさにオールスターズといってよい顔ぶれである。

 [A] 1. You'd Be So Nice To Come Home To / 2. Two's Blues / 3. Answer Is Yes
 [B] 1. Concierto De Aranjuez

中でも、LPのB面全部を占めるおよそ20分に及ぶ『アランフェス協奏曲』が最大の聴きものである。
今更説明の必要もないスペインの作曲家ホアキン・ロドリーゴのギター協奏曲の名作である。
蚤助は、本家クラシカルの演奏では、例の映画音楽の大家と同姓同名だが別人のギター奏者ジョン・ウィリアムス(伴奏はルイ・フレモー指揮フィルハーモニア管弦楽団)のものを愛聴している。



1950年代末にはマイルス・デイヴィスとギル・エヴァンス編曲・指揮のオーケストラとのコラボレーションによる演奏を契機にジャズの世界でも人気曲となった。



数あるジャズ演奏の中でも、マイルス〜ギルによるものと、このジム・ホールによるものが甲乙つけがたい演奏だが、元々ギター協奏曲なので、ジムの方がより正統的と言えるかもしれない。
ある意味でこの曲のジャズ・ヴァージョンとして理想的な演奏であろう。
短調による明瞭なテーマ部を持つ曲想から、そもそもわが国では非常に人気の高い曲なのだが、それだけに“ジャズ・ヴァージョン”に対する評価はことのほか厳しいものがあった。
しかし、ドン・セベスキーの編曲は巧みで、原曲のムードと味わいを生かした肩肘を張らないどちらかといえば軽妙なものに仕上げている。

演奏は、セクステットによるもので、オーケストラによるものではないが、チェット・ベイカーのトランペットはスペイン的なムードを出しつつ美しいトーンで、マイルスのプレイを彷彿とさせる。
アルトのポール・デスモンドの透明感のあるクールでブルージーな孤独感あふれるプレイもジムのギターにぴったりであり、この二人のホーン奏者の共演によって、ジムの名演は生まれたといっても過言ではない。

ここでのジムのプレイは、ギターのために書かれた曲であるにもかかわらず、決して大向こうの受けを狙おうとするものではなく、彼の内なる肉声であるかのようだ。
その肉声は訥々とした語り口、独特の温かな音色と相まって、聴く者に親密にエモーショナルに語りかけてくる。
そして、『アランフェス協奏曲』がこんなに官能的な音楽だったのかと改めて実感することになる。

これは、常に自らの内なる声を聴衆に伝えることを尊んだミュージシャンによる優れた“協奏曲”として末長く記憶されるべき一枚である。

♪♪♪♪♪♪
ジム・ホールのギターのウォーム・トーンとややくぐもった音色は、元々独学でギターをマスターしたところからきたのかもしれません。
彼はこのアルバムの大成功後も、肩の力を抜いたいぶし銀のような演奏を淡々と披露し続けています。

「“手を抜く”と似てるが違う“力抜く”」(蚤助)

$#440: 汲めども尽きぬ面白さ

$
0
0
アドリブ奏者としてジャズ史にその名を残すミュージシャンは多い。
だが一方で、作編曲をよくし、グループのサウンドや表現に心を砕いたプレイヤーもいて、アート・ファーマー(1928‐1999)はそういうミュージシャンの一人であった。

ポール・デスモンド(as)と同じように、トランペット奏者ファーマーに失敗作はない。
その音色もデスモンドのように美しい。

その上、ファーマーのプレイは知的である。
高度なテクニックを駆使しながらも、常に易しく表現する。
彼のラッパは「易しさ」だけではなく、「優しさ」にも溢れている。
音色はふくよかで、心が和むモダン・ジャズというのを聴いてみたければ、彼の演奏に耳を傾けるとよい。

モダン・ジャズの世界では、テナーの雄だったコールマン・ホーキンスの逞しい男性的な音色に、スムーズで柔和なレスター・ヤングのフレイジングという組み合わせを理想とするホーン奏者が多かった中で、音色もフレイジングもレスター・ヤングのプレイを模範とするミュージシャンたちも多かった。
いわゆる“クール・サウンド”のプレイヤーの多くがそうだったし、50年代中頃までのマイルス・デイヴィスもそうだった。

ファーマーは、そんな若き日のマイルスがそのまま歳を取らずにスタイルを完成していったかのようなプレイをした。
モダン・トランペッターとしてマイルスにも比肩しうる安定性と成熟を兼ね備えていたが、マイルスとの決定的な違いは一定の枠内から決して破目をはずそうとせず、優等生的なプレイがともすれば「上手いけれどもスリルに乏しい」などという辛口の批評につながっていた。

ファーマーのアルバムの中で、彼の良さが最も現れたのが『MODERN ART』(1958)だと思う。
当時新人であったベニー・ゴルソン(ts)、ビル・エヴァンス(p)とともに、フレッシュな演奏というのはかくあるべしというみずみずしいプレイを展開している。
他のメンバーはベースにファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー、ドラムスはデイヴ・ベイリー(ds)。
このメンバーのうちゴルソンとファーマーは、翌59年に「ジャズテット」というユニットを結成することになるのだが、このアルバムの全体のサウンドや演奏などの基本的コンセプトは「ジャズテット」の登場を早くも示唆している。
もっとも、ジャズテットはメンバーの移動が激しく、アレンジにも意外と新鮮味が乏しく必ずしも成功したグループとはいえない、と思うのであるが…(笑)。



 [A] 1. Mox Nix / 2. Fair Weather / 3. Darn That Dream / 4. The Touch Of Your Lips
 [B] 1. Jubilation / 2. Like Someone In Love / 3. I Love You / 4. Cold Breeze

特に、アルバム冒頭の『Mox Nix』はファーマーのオリジナルだが、冒頭飛び出すビル・エヴァンスのピアノが面白い。
ファンキーっぽくプレイしてくれと言われて、生真面目に弾き始めたものの、これがどうにもファンキーらしくならないのだ。
エヴァンスにしてみれば、ファンキーなピアノは自分のスタイルではないのでこれが精一杯だったということなのか、もとより自分のスタイルを決してはみ出すまいという意思表示なのかは分からないが、エヴァンスのピアノを愛する人ならばぜひ聴いていただきたい演奏である。

また、エンディング近くに聴かれるゴルソンのテナーとファーマーのトランペットのユニゾンのコーラスは実に美しい。
楽器は違っても音色が酷似しているのである。

ゴルソンは不思議なミュージシャンで、作編曲者として一流の存在であるが、テナー奏者としては、ファンキーなゴルソンとクールなゴルソンが目まぐるしく入れ替わる。
どんなフレーズを吹くかでホーキンスとヤングの音色を変幻自在に吹きわけているように聞こえてしまう。
彼のテナー・プレイを好むファンと嫌うファンがはっきりと分かれてしまう所以でもある。

ジャズテットではゴルソンのオリジナル曲が多くなるが、ここでは[A]‐2の一曲のみであり、上記のファーマーの曲を除けばあとは他のジャズ・ミュージシャンのオリジナルと、趣味の良いスタンダード歌曲ばかりである。
しかし、それらの楽曲の多くがあたかもゴルソンのオリジナルのようなサウンドになっているのが聴きどころで、その秘密はファーマーとゴルソンによって醸し出されるハーモニーにある。

ファーマーとゴルソンは2ホーン+3リズムというオーソドックスなフォーマットによる演奏と見せかけながら、主題部分にさりげない効果的な装飾を施し、即興演奏の部分はよくコントロールされたソロを展開することによって、これを通常のハード・バップの演奏とは一線を画す風格のある秀作にしている。
楽理にふりまわされることなくどの楽曲も楽しい演奏に終始しているのは、ふくよかなゴルソンのペンによるハーモニーとリフ等によるもので、汲めども尽きぬ面白さに満ちている。

ファーマーは一般的な人気を得たトランペット奏者とは言えないが、根強いファンを持つトランペッターの一人であったことは確かである。
クリフォード・ブラウンやクインシー・ジョーンズと共演したデビュー間もなくの録音でも好ましいプレイをしていたが、まったくこの人は若いころからすでに老成していたのであった。

以来、生涯を通じてクリーンヒットを放ち続けたが、もしかしたらすべての器楽奏者の中でアート・ファーマーこそ、最も過小評価されたミュージシャンであったのではないかと思ったりするのである。

♪♪♪♪♪♪
6月に入っていよいよ梅雨入りも間近です。
原発再開問題が取り沙汰されている折り、真夏の電力不足問題にも直結する今夏の天候が気になるところです。

「大ジョッキあっぱれ女夏を飲む」(蚤助)

#441: 善玉、悪玉、卑劣漢

$
0
0
身長193センチ、体重89キロという恵まれた体格を生かし、“デューク”(ジョン・ウェイン)亡き後、アメリカを代表するアクション・スターとして君臨したのがクリント・イーストウッド(1930‐)である。

さすがに昔日のように華麗なアクションを披露することはかなわぬご老体となってしまったが、その代わりと言ってはナンだが、監督業を見事にこなしていて、素晴らしい作品を次々と送り出し、「名匠」というべき存在になっている。

西部劇ファンの一人としては、彼の若き日、連続TV西部劇『ローハイド』のカウボーイ姿が懐かしい。
『ローハイド』でお茶の間のスターになった彼を、映画人にしたのはセルジオ・レオーネとドン・シーゲルという二人の映画監督であった。

セルジオ・レオーネはいきなり彼を『荒野の用心棒』(A Fistful Of Dollars‐1964)の主役に抜擢し、世界的なブームとなったイタリア製西部劇(マカロニ・ウェスタン)のトップスターに押し上げた。

マカロニ・ウェスタンは日本での呼称で、欧米ではスパゲッティ・ウェスタンというようだが、いずれにしても本場ハリウッドの正統派西部劇と比較して、どこか揶揄するような響きがあるのは否めない。
いっそパスタ・ウェスタンとかピザ・ウェスタンとしたら良かったのに…なんてくだらないことを考えてしまう(笑)。

マカロニ・ウェスタンの売り物は本場の西部劇にはない残酷な描写と、最大の見どころである決闘シーンの斬新なアイデアであろう。
しかし、本場の西部劇と違うのはどうやらそれだけではなさそうだ。
マカロニ・ウェスタンのほとんどはスペインでロケが行われていて、アメリカ西部の空気とは湿度とか吹きぬける風とか、何だか微妙に異なっているような気がする。

レオーネ=イーストウッドのマカロニ・ウェスタンは『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』(For A Few Dolars More‐1965)、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(The Good, The Bad And The Ugly‐1966)の三本で、俗に「ドル箱三部作」とか「名無しの三部作」とか呼ばれている。
いずれも大ヒットした作品であること、イーストウッド扮する主人公は「ジョー」、「モンコ」、「ブロンディ」と呼ばれるがこれは単なる渾名であって本名は最後まで明かされないことから、「名無し」と呼ばれるようになった。
また、三部作といっても主人公の服装と性格が似ているだけで、シリーズ作のようにストーリーの展開等に相互に関連性があるわけではなく、ゆるやかな関係なのである。



映画監督のクエンティン・タランティーノは、この三部作のうち「続・夕陽のガンマン」を最高傑作に推している。
封切時には邦題に「地獄の決斗」というサブタイトルがつけられていたが、ビデオ化にあたって外されている。
原題は「善玉、悪玉、卑劣漢」で、隠された金貨をめぐって争う三人のガンマンの物語である。

善玉に相当するのは主人公のイーストウッド、悪玉はリー・ヴァン・クリーフ、卑劣漢はイーライ・ウォーラック。


(卑劣漢と善玉)

 (悪玉)

死臭を求めるハゲタカか野ギツネの如き風貌のリー・ヴァン・クリーフは、眼光鋭く、悪役を演じるために生まれてきたような俳優である(笑)。
ハリウッドの本場西部劇ではもっぱらチンピラ風の役回りで、開幕直後に殺されてしまう役が多かった。
『真昼の決闘』では保安官ゲイリー・クーパーに復讐をしにやってくる一味や、『リバティ・バランスを射った男』ではリー・マーヴィンの手下として登場したりしたが、『夕陽のガンマン』で復讐に燃える初老のガンマン役を演じて注目度が高まり、端役に終始したハリウッドとは異なり、マカロニ・ウェスタンでその才能を再発見された役者の一人だった。

この作品、残酷とユーモアがほどよくブレンドされているのが抜群で、特にウォーラックが演じた愛嬌のある卑劣漢の使い方がうまい。
ウォーラックの西部劇といえば、あの名作『荒野の七人』(The Magnificent Seven‐1961)の山賊の親玉が有名である。
ちょっと見には、残忍非道、凶悪な風貌なのだが、その面構えにもかかわらず、実は研究熱心なインテリ俳優で、アクターズスタジオの創立メンバーでもあった。
舞台俳優としては、古典劇、シリアス・ドラマ、コメディなどを演じ、幅広い演技力の持ち主であった。
オードリー・へプバーンとピーター・オトゥールが共演したウィリアム・ワイラーのコメディ『おしゃれ泥棒』(How To Steal A Million‐1966)でのアメリカの大富豪役などが懐かしい。

決闘シーンのアイデアも、この三人が互いに敵となって三すくみの状態になるという心理戦になるのが面白かった。

開巻まもなくウォーラックがイーストウッドに言う。

 「この世には二種類の人間がいる。ドアから入る奴と窓から入る奴だ」

そしてラスト近く、今度はイーストウッドがウォーラックに言う。

 「この世には二種類の人間がいる。銃を構える奴と穴を掘る奴だ」

エンニオ・モリコーネによる実に印象的な音楽と相まって長尺を全く感じさせない西部劇だが、物語の途中から、善玉と卑劣漢とのコンビで金貨の隠し場所に向かうロード・ムーヴィー風になるのもなかなか面白かった。

クリント・イーストウッドはマカロニ・ウェスタンで銀幕のスターになったわけだが、ハリウッドに戻ってからはドン・シーゲルの『ダーティ・ハリー』(1971)のハリー・キャラハン刑事役でさらに大きな人気を得るようになった。
イーストウッドがシーゲルを恩人のひとりと感謝する所以でもある。
クリント・イーストウッドの活躍する舞台は西部の荒野から大都会へと移ったが、その基本的スピリットは荒野の風を背負ってゆく男なのであった。

♪♪♪♪♪♪
160分を超す長尺の作品です。
邦題は「続・夕陽のガンマン」となっていますが、劇中では日中と夜間のシーンだけで、「夕陽」の場面は登場しないのが、昔から変だと思っていました。
看板に偽りある映画ですが、地球は丸いんだからまあいいか…(笑)

「裏側では夕陽こちらでは朝陽」(蚤助)





#443: サウンド・オブ・サイレンス

$
0
0
ポール・サイモンとアート・ガーファンクルの二人は、1950年代にも一度トムとジェリーというロックン・ロールのデュオ・グループを結成したことがある。
当時はエヴァリー・ブラザーズが彼らのアイドルだったようだ(こちら)。

その後、別々に行動して再び出会ったとき、二人の音楽的嗜好はロックン・ロールからフォーク・ミュージックに移っていた。
再度サイモン&ガーファンクルとしてデュオを組んで音楽活動をし始めた。

サイモンとガーファンクルは、ポップス史上において非常に重要なデュオであったし、優れた楽曲、歌唱をいくつも残している。
中でも『サウンド・オブ・サイレンス』(THE SOUNDS OF SILENCE)は傑作といってよいだろう。



サイモンの作詞・作曲による63年の作品で、64年3月にリリースされた彼らのデビュー・アルバム『水曜の朝、午前3時』(WEDNESDAY MORNING, 3AM)の中の1曲として収録された。
デュエットとアコースティック・ギターだけの伴奏で歌われた。

だが、このアルバムは全く売れなかった。

翌年の6月、プロデューサーのトム・ウィルソンは、ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』のレコーディングに参加してスタジオから出てきたばかりのマイク・ブルームフィールドらミュージシャンに声をかけ、この曲に彼らの演奏をオーヴァー・ダビングする。
エレクトリック・ギター、12弦ギター、ベース、ドラムスを加え、フォーク・ロック調にアレンジし直したのだった。

これをボストンのラジオ局が放送したところ、折から流行の兆しを見せていたフォーク・ロックへの注目度もあって大好評を博すようになった。
このオーバー・ダブ・ヴァージョンは、じわじわとヒット・チャートを上昇、66年の1月には、デイヴ・クラーク・ファイヴの『オーバー・アンド・オーバー』に替わって、ビルボード誌で全米ナンバー・ワン・ヒットとなった。
蛇足ながら、『サウンド・オブ・サイレンス』の次にナンバー・ワン・ヒットの座についたのはビートルズの『恋を抱きしめよう』(WE CAN WORK IT OUT)だった。

サイモンとガーファンクルはそれぞれ別々に渡欧していたが、サイモンはあきらめてかけていた全米ナンバー・ワンの吉報を滞在先のロンドンで知らされるのである。
サイモンはロンドンで初のソロアルバム『PAUL SIMON SONG BOOK』(66)の録音をしていて、そこでもこの曲を彼自身のギターのみを伴奏にして、やや粗っぽいが力強いヴォーカルで歌っている。
このヴァージョンは、なかなかヒットに恵まれない当時の彼の複雑な心境が表れているようだ。

所属レコード会社のCBSは、早速大ヒットしたこのフォーク・ロック・ヴァージョンを収録したアルバム『SOUNDS OF SILENCE』を発売することにした(66)。



メロディには英国的な薫りも感じられるし、美しいハーモニーとともに彼らの個性が確立されているのが分かるような仕上がりになっている。
アコースティックとエレクトリック、双方のヴァージョンを聴き比べてみるのも一興である。

67年には映画『卒業』(THE GRADUATE)の挿入歌として使われてからさらに有名になった。
『卒業』はなかなか良くできた映画で、監督のマイク・ニコルズを売り出し、主演したダスティン・ホフマンをスターに押し上げた。
セックスが大きなテーマだが、とても爽やかな印象を残したのは、ニコルズの演出もさることながら、サイモンとガーファンクルの歌声の貢献度が高いようだ。
映画にはほかに『スカボロ・フェア』や『ミセス・ロビンソン』といったこのデュオの代表作が使われている。



『サウンド・オブ・サイレンス』というタイトルは実に洒落た言い回しだと思う。
「静寂の音」とか「沈黙の音」というのか、日本語にはなかなか置き換えられない語感である。

この歌の「僕」の友は暗闇である。
ハロー・ダークネスと冒頭で呼びかけている。
暗闇に向かって、友よ、また話をしよう、と言う。
幻影がそっと忍び寄って、僕の眠っている間に頭の中に種をまく。
頭の中の幻影は、静寂の中に根をおろしている…

夢の中で僕は一人で石畳を歩いている。
ネオンの光は夜と静寂の音を裂いて、僕の目を射抜いた。
光の中で、大勢の人を僕は見た。
人々は声なき歌を作り、誰も静寂の音をかき乱そうとはしない。

「癌が広がるような静寂を君は知らないんだ」と夢の中の僕が言う。
その言葉は音のない雨のように。静寂の井戸の中にこだまする…

こんな内容である。
抽象的な雰囲気を持った歌詞で、きちんと韻を踏んでいるところなど、形式はオーソドックスなのだが、言葉の使い方、表現の仕方など、新しい歌になっている。

だが、難しい歌詞である。
「僕」の夢の中はサイレント映画のように音のない世界なのだろうか。
「癌が広がるような静寂」(Silence Like A Cancer Grows)などという表現は、それまでの歌の世界には決して無かったであろう。

「ネオンの神」(The Neon God)という言葉も出てくる。
人々は自分たちが作ったネオンの神を崇拝する。
それは光る文字でお告げの言葉を照らし出し、沈黙の音でこうささやく。
「預言者の言葉は地下鉄の壁とアパートの部屋に書かれてある」

ある種の文明批評のような歌である。
しかし社会へのプロテストという激越さは全くなく、幻想的なメロディの中にちょっと恐ろしげでクールな夢の情景が淡々と歌われている。
都会の住人の疎外感をシンボライズしているようなイメージなのだが、この曲の発表当時よりも21世紀の現在の方が、一層切実に迫ってくるのではないかと感じるのは蚤助だけであろうか。

♪♪♪♪♪♪
「SILENCE IS GOLDEN」(沈黙は金)と申します…

そりゃそうでしょう、こういうこともあるんですから。

「しゃべらぬとバカも三年分からない」(蚤助)

#444: サムシング

$
0
0
ビートルズとして最初にレコーディングされたジョージ・ハリスン(1943‐2001)の曲は、1963年の“DON'T BOTHER ME”だった。
ジョージの作品はビートルズ時代に何曲か録音されているが、ヒット曲としてあまり注目を集めることはなかった。
ビートルズの音楽は、あくまでもジョン・レノン&ポール・マッカートニーというソング・ライター・コンビというのが、世界中のビートルズ・ファンの共通認識であった。

(ABBEY ROAD/The Beatles)

ビートルズとしての最後のレコーディングとなった『ABBEY ROAD』(1969)は、事実上、グループが分裂状態にあったにもかかわらず、メンバー4人が有終の美を飾るように、最後の結束を記録した傑作アルバムとして知られている。
粒よりの楽曲を揃えつつ、トータル・アルバムのような意匠を凝らした構成は見事なもので聴き飽きることがない。

このアルバムには、ジョージが書いた美しい曲が2曲収められている。
“HERE COMES THE SUN”と“SOMETHING”である。
多くのファンは、それまでのビートルズに抱いていた印象を改める必要に迫られた。
“SOMETHING”が“COME TOGETHER”と両A面シングルとしてリリースされて大ヒットしたからである。
ちなみにジョージの作品がA面扱いされたのは初めてのことであった。

ジョージがこの曲を作ったのが68年のこと。
同年のビートルズのアルバム『THE BEATLES』(ホワイト・アルバム)のレコーディング中に原型ができたそうだが、アルバムには間に合わなかったというわけである。

ジェイムズ・テイラーがアップル・レコードに移籍して最初にリリースしたアルバム『JAMES TAYLOR』(68)に“SOMETHING IN THE WAY SHE MOVES”という曲が収録されている。
このタイトルをヒントに曲想を得たのだというが、そういうわけで“SOMETHING”の冒頭の歌詞はまさにそのままのパクリである(笑)。

(JAMES TAYLOR/James Taylor)

69年2月25日、すなわちジョージ26回目の誕生日に最初のデモ録音が行われたという。
この録音は、現在『ANTHOLOGY 3』に収録されているが、この曲の素の魅力を味わうことができる。

それから間もなく、ビートルズより先にジョー・コッカーが録音したが、リリースが延び延びとなっているうちに『ABBEY ROAD』が発売され一足遅れてしまった。
コッカーのヴァージョンは、アーシーなサウンドと女声コーラスをバックに、彼のしわがれ声がソウルフルである。
このレコーディングにはジョージも立ち会って仕上がりに満足したそうである。

(THE ANTHOLOGY/Joe Cocker)

ビートルズの公演活動は66年までで、その後はスタジオにおけるレコーディングだけであったが、解散したのが71年、『ABBEY ROAD』の次に先に録音されていた『LET IT BE』が発売され、それがビートルズとしての最後のアルバムとなったのは皆様ご承知の通りである。

♪♪♪♪♪♪
“SOMETHING”とは、彼女の中にある「何か」である。
その「何か」が、ぼくを惹きつける。
他の誰よりもぼくを惹きつけるのである。

彼女が愛をささやくときの「何か」、彼女の微笑みの中の「何か」。
それがこの歌の「サムシング」である。

彼女は聞く。
この愛は育っていくの?…と。
それはわからない。
わからないと、ぼくは言う。

でも彼女の何気ない仕草を見ると、彼女は何もかもわかっているように思える。
ぼくにできることといえば彼女を思い続けることだけだ…

こんな歌詞である。

加えて、ゆったりと下降するテーマ部のベースラインとドラマティックな展開をみせるサビというバラードの常道からすれば少し異質な魅力を持った楽曲だが、そこが人々に愛される理由でもあるだろう。
バックのストリングスも美しさをさらに引き立てている。

♪♪♪♪♪♪
“SOMETHING”はビートルズの楽曲の中では“YESTERDAY”に次いでカヴァーが多い作品とされている。
シャーリー・バッシー、ペリー・コモ、ペギー・リー、エルヴィス・プレスリー、アイザック・ヘイズ、リナ・ホーン、ボビー・ウーマック、チェット・アトキンスに至るまで多方面のカヴァー・ヴァージョンが生まれている。
無論、御大フランク・シナトラもレパートリーにしていたが、ビートルズの楽曲の中で最も優れたものだと評価していた。
しかし、彼はジョージの作だとは知らずレノン=マッカートニーによる作品だとばかり思っていたという。
そういえばマイケル・ジャクソンもジョージの作品だと知って驚いた、しかもジョージとの会話中のことだった、というハナシを何かで読んだことがある(笑)。

ソングライター、ジョージ・ハリスンへの評価はまさしく“SOMETHING”から始まったのだった。

♪♪♪♪♪♪
本日の1句
「見えない字眼鏡かけたら読めない字」(蚤助)

#445: スティーヴィー・ワンダー

$
0
0
スティーヴィー・ワンダー(1950‐)の視力障害の原因は生後すぐの未熟児網膜症だったそうである。
黒人アーティストで、視覚障害を持ち、音楽的素養があるといえば大先輩のレイ・チャールズを彷彿させる。
ソングライターとしての才能のほかに、キーボード、ベース、ドラムス、ハーモニカ等もこなすマルチ・プレイヤーであるし、ソウルフルなシンガーでもある。

デビューしたのが12歳で「リトル・スティーヴィー・ワンダー」として“FINGERTIPS”の全米ナンバー・ワンの大ヒットを放って以来、現在に至るまで第一線で活躍している。

そういう彼が、すっかり声変わりして、名前から「リトル」という形容が取れ、大人のミュージシャンの階段を着実に上っていた68年に発表したのが“FOR ONCE IN MY LIFE”という曲であった。



彼のオリジナル曲だとばかり思っていたのだが、モータウン・レコードの専属ライターであったオーランド・マーデンが作曲したものである。
マーデンはこの前年に、スティーヴィーのために“YESTER ME, YESTER YOU, YESTERDAY”を提供している。
作詞がロナルド・ディーンという人で、作品自体は65年に出版されていて、スティーヴィーが発表する前年にはトニー・ベネットが既に歌っていた。
ベネットの歌は、オーケストラをバックにじっくり歌いあげていて、60年代後半の彼を代表する説得力に富んだ感動的な名バラードに仕上がっていた。

一方、スティーヴィー版は、切れ味のいいギター・カッティングから一気に歌になだれこむオープニングからして、すでに大ヒットが約束されたようなものである。
曲の枠組みからはみ出してしまいそうなほどファンキーな情感にあふれた若きスティーヴィーの歌声には、楽しさとともに切なさも表現されていて、聴く者の心をつかんでしまう。

歌詞をざっくり紹介しておこう。

生涯に一度、私を必要とする人と出会うだろう。
一度だけ、運命の導くところへ行けるだろう。
一度だけ、昔から夢見ていたものに触れることができるだろう。
あなたなら私の夢を現実のものにしてくれるだろう。
生涯に一度だけ、私は言える。
これは私のものだ、誰にも奪えない、と…

こんな感じである。

60年代に生まれた歌曲の中では、最も広いジャンルの歌手にとり上げられている歌のひとつであろう。
「人生で一度だけ」というタイトルの持つ力強さ、人生に対する自信、愛することの歓びを歌いあげる歌詞の魅力が大きいのではないか、と個人的には思っている。

♪♪♪♪♪♪
スティーヴィー・ワンダーのヒット曲をもうひとつ。



ソングライターとして、パフォーマーとして、スティーヴィーが驚くべき成長を遂げて音楽界をアッといわせたのが,72年の名作アルバム『TALKING BOOK』だった。
このアルバムから“SUPERSTITION”(迷信)がシングルカットされ大ヒットを記録する。
それに続くシングル盤として選ばれたのが、スティーヴィー自作の“YOU ARE THE SUNSHINE OF MY LIFE”であった。
歌詞とメロディーはどちらもごくシンプルで、それだけにくっきりした輪郭を持つ歌で、軽いラテンタッチのスイング感を伴ったソフトなバラードとなっている。

歌の内容はこんな具合である。

君は僕の人生の太陽。
だから僕はそばにいる。
君は僕の目のリンゴ。
君は僕のハートの中に永遠にいる。
これが始まりなのだろうか。
百万年も愛し続けていたのに。
この恋が終わるなら、僕は自分の涙で溺れることだろう…

「僕の目のリンゴ」というのは知らなかったが、日本語でいう「掌中の玉」というようなニュアンスの言い回しらしく、それほど大事なものということらしい。
まあ「目の中に入れても痛くない」ということだろうか。
「自分の涙で溺れる」という表現もなかなか面白い。

意外なことに、それまでの長い音楽キャリアの中で、スティーヴィーの全米ナンバーワン・ヒットは“FINGERTIPS”と“SUPERSTITION”とこの曲で3曲目だった。

この曲で連想してしまうのが“YOU ARE MY SUNSHINE”である。
日本で最も知られたアメリカのポピュラー・ソングのひとつではないかと思われる。
「君は僕の太陽、僕のたった一つの太陽、君は空が灰色の時も僕を幸せにしてくれる」という実にハッピーな歌だが、よく知られているように、実は選挙キャンペイン用に作られた歌であった。
ジミー・デイヴィスとチャールズ・ミッチェルという人の共作で、40年に作者の一人デイヴィスがルイジアナ州の知事選に出馬するときに作られたのだそうだ。
この歌の人気のせいかデイヴィスは見事当選を果たしたといういわくつきの歌である。
ただ、この歌は政治色などはまったく感じられないので、典型的なハッピーなアメリカン・ソングとして現在も人々に愛されている。

エラ・フィッツジェラルドは77年のモントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルで、“YOU ARE THE SUNSHINE OF MY LIFE”を例によってご機嫌のノリで歌うが、途中“YOU ARE MY SUNSHINE”を入れて歌っているし、アニタ・オデイもこの2曲を続けて歌ってユーモラスな効果を出していた。

いずれにしても、60年代以降のロック、ソウル系ポップスで、幅広いジャンルのミュージシャンのレパートリーに入れられ、スタンダード化するナンバーはそんなに多くはないが、“FOR ONCE IN MY LIFE”とともに“YOU ARE THE SUNSHINE OF MY LIFE”もその限られた例のひとつとなっている。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「健診の前は健康だったのに」(蚤助)

#446: 探偵物語

$
0
0
1980年頃だったと思うが『探偵物語』という連続テレビドラマが放映されていた。
主演は今は亡き松田優作、探偵役としてなかなか面白い演技をしていた。
彼が亡くなってから一躍再評価され、彼の短い俳優生活を飾る傑作のひとつとされているようだ。

その後、根岸吉太郎監督による同名の『探偵物語』(83)という映画が製作されたが、こちらは原作が赤川次郎であった。
テレビドラマの方とは全く関係はないのだが、この作品でも松田優作は探偵役で出ていて、彼の相手役を務めたのはアイドル時代の薬師丸ひろ子だった。

題名からの連想だが、名匠ウィリアム・ワイラー監督にも『探偵物語』(51)という作品があった。
シドニー・キングズレーの舞台劇の映画化で、フィリップ・ヨーダンとロバート・ワイラーが脚色している。
ニューヨークの警察署の中で、刑事、犯罪者、容疑者、その恋人や被害者など、いろいろな人物が織りなす人間模様を描いたドラマで、一言でいえば群像劇である。

原題は“DETECTIVE STORY”で、よく言われることだが、邦題の方は内容から言っても「刑事物語」とした方が良かっただろう。
誤訳といっても良いかもしれない。

ドラマの中心となるのは、犯罪に対しては全く容赦なく、犯罪を犯す者には一片の同情も持たない厳格な鬼刑事で、これをカーク・ダグラスが演じた。

 (右・カーク・ダグラス/左・エリノア・パーカー)

この頃のカーク・ダグラスは、物事に対して鬼のような形相で立ち向かうという役どころが多かったと記憶する。
この映画でも、拳銃を持った犯人に素手で立ち向かうというようなシーンもあり、カーク・ダグラスお得意の歯をむき出した演技がもの凄い迫力である(笑)。

♪♪♪♪♪♪
ニューヨーク市警21分署の一室。
正義のために一切の妥協を許さない鬼刑事のカーク・ダグラス。
狭い刑事部屋にはたくさんの人間が出入りする。
ケチな万引き女(リー・グラント)、頭のおかしい強盗(ジョセフ・ワイズマン)、ダグラスが目の敵にする堕胎専門医(ジョージ・マクレディ)、ダグラスに抗議しにきた弁護士(ワーナー・アンダーソン)など様々な背景を負った人間たちが交錯する。
さらに同僚の温情刑事ウィリアム・ベンディックス、21分署長ホレス・マクマホンなど警察側の人間もいて、狭い刑事部屋に多くの人物が登場する。
それをウィリアム・ワイラーが堂々とした手綱さばきで、多彩な人物たちを上手に動かしている。
その上各人の性格の違いを際立たせているのも素晴らしい。

あまりにも頑ななカーク・ダグラスに、人情派の同僚ウィリアム・ベンディックスが諌めて言う場面がある。

 「風にはなびいた方がいい。さもないと折れてしまうぞ」

キングズレーの名戯曲の舞台ではおそらく警察署の中だけでドラマが展開することになっているのであろう。
映画では、屋外のシーンもちょっぴり出てくるが、カメラは刑事部屋からほとんど外に出ることがなく、それでもニューヨークという街の息遣いを伝える演出は見事な職人技である。

 (中央/カーク・ダグラス)

ワイラーのように上手い人は何を撮らせても上手いことを証明するような立派な作品だが、緊迫した物語は最後まで持続する。
ミステリーものと考えると一級品とは言い難いかもしれないが、刑事部屋の群像があまりにも生き生きしているのが素晴らしいし、限定された空間を通してアメリカの社会の一断面を眺めるという手法は今もなお全く古さを感じさせない。
エド・マクベインの87分署シリーズの原型もこの辺にありそうな気がする。

ラストには意外な結末が用意されているので、機会があればぜひ一見していただきたい作品である。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「大都市に生きる過保護の土踏まず」(蚤助)

#447: 現金に体を張れ

$
0
0
スタンリー・キューブリック(1928-1999)は、死後、巨匠の系列に叙せられた感がある。
元々“LOOK”誌のカメラマン出身だったこともあってか、彼の作品ではカメラが実によく動いた。
また、深い奥行きの出る広角レンズを使いこなしたり、自然光やそれに近いライティングもカメラマン特有の個性だったのではなかろうか。
かつて紹介した『突撃』でも、そういった特徴が見られた。

彼のごく初期の作品で監督2作目くらいに当たる『現金に体を張れ』(THE KILLING‐56)はフィルムノワールの傑作の一本だと思う。
キューブリック27歳のときの作品であるが、公開当時はあまり話題にならなかったようである。
カブリックと呼ばれたりしていたように、キューブリックという名前も一般に知られておらず、何よりもこの邦題でずいぶん損をしたという。

ジャック・ベッケルが撮った,かの有名なフランス映画『現金に手を出すな』(TOUCHEZ PAS AU GRISBI‐54)の二番煎じのような印象を与えてしまったようだ。
『現金に手を出すな』は、ジャン・ギャバンが初老のギャングを演じ、彼のベスト・アクティングと称賛する向きも多い秀作である。
この作品からは“グリスビーのブルース”(LE GRISBI)という名曲が生まれているし、若きジャンヌ・モローやリノ・ヴァンチュラが広く世に知られるようになっていった。

最近知ったところだが、クエンティン・タランティーノの出世作『レザボア・ドッグス』(RESERVOIR DOGS‐92)は、キューブリックの『現金に体を張れ』に大きな影響を受けているのだそうだ。
どちらも犯罪者グループの話であるし、彼ら一人一人の行動が時制を超えて描かれるという共通点があるので、そういえばそうかなという感じがする。

同一の出来事を複数の視点で語り直していくのを「多元焦点化」とか「多元時制」とか呼ぶらしいが、たとえば黒澤明の『羅生門』(50)の語り口を思い浮かべていただければよい。

フィルムノワールの作品だが、ここでの話法に、ひとひねり、ふたひねりもしてあるのが、キューブリックらしい才気を感じさせる。
話法の工夫というのは、登場するギャングたちの計画実行の寸前までの行動を一人一人繰り返して描いている点である。
各人の犯罪への関わり方を、たびたび時間を逆行させて描いてみせるのだ。
それによって、犯罪行為の過程が鮮明となり、意図するようには決してならない人生を運命論的に際立たせることに成功しているわけである。

原作はライオネル・ホワイトの犯罪小説で、脚本はキューブリック自ら手がけた。
キューブリックの意図を受けた撮影監督はルシアン・バラード、キメの粗い画調とカメラワークがハードボイルドの文法のようなものを見事に表現していると思う。
余談ながら、画面のバックに流れるジェラルド・フリードのペンになるモダン・ジャズは、演奏者は不明だけれどもなかなか素敵なサウンドである。

♪♪♪♪♪♪
刑期を終え出所したばかりのスターリング・ヘイドンは競馬場を襲撃して、無血のままで売上金を強奪する計画を立てる。
仲間として引き入れたのが、軍資金を出すジェイ・C・フリッペン、競馬場の馬券売場のエライシャ・クック、競馬場内のバーテンダーのジョセフ・ソーヤー、警備を担当する警官のテッド・デ・コルシアの4人。
ヘイドンは、さらに町のチェスクラブ(碁会所みたいなものか)に勤める元レスラーのコーラ・クワリアニ、射撃の腕を見込んだティム・キャリーの2人をある重要な役割をさせるために雇う。
この2人には計画の全貌を明かさず、他の仲間のことも何も知らせないのである。
集められたメンバーはそれぞれ個人的な事情を抱えているのだった。


(テーブルの左端から時計回りに、テッド・デ・コルシア、エライシャ・クック、スターリング・ヘイドン、ジェイ・C・フリッペン、後ろ向きはジョセフ・ソーヤー)

犯罪に加わるメンバーの生活をさりげなく描いていくのもうまいが、それぞれの職業を生かした犯罪への参加の仕方もまたなかなか面白い。

前述のように、犯罪実行までの各人の行動を繰り返し描くことになるので、同じカットも何度か登場することになるが、それによって犯行経過の全容が明らかになっていくという語り口のうまさが際立つ。
また、ストーリーを要領よく進行させるためか、冒頭、登場人物の心理についてナレーションで説明されるというのも少し奇妙な気持ちがしたものだった。

軍資金の提供者であるジェイ・C・フリッペンについて、ナレーションではこう語られる…

「彼は自分がジグソーパズルの一片だと感じていた。一片が欠けてもゲームは完成しないのだ」

 (スターリング・ヘイドン)

あらすじについてはネタばれになりそうなので控えるが、首領格のスターリング・ヘイドンの計画は用意周到なもので、計画と行動がちょっとした知的ゲームのように構成されていることに舌を巻く。

ヘイドンはこんな科白をいう…

 「人生はお茶の葉のようなものだ」

盛りを過ぎたら出がらしとなってしまうというようなことらしいが、そんな彼の一世一代の綿密な計画は見事に成功するのである。
だが、仲間のひとりエライシャ・クックが不貞をはたらいている妻(マリー・ウィンザー)にもらした一言で、一連の行動が空しい結末に向かっていくことになることを誰も知る由もなかった…

ラストに向かう緊迫したキューブリックの演出が素晴らしいし、現金強奪のリアルなお膳立てと、エアポートに現金が風に舞うラストの無情との落差が衝撃的である。

キューブリックという人には、芸術映画と呼ばれるようなものだけでなく、映画の醍醐味を持ったB級グルメ…ではなく、B級予算の作品をもっと撮ってもらいたかった(笑)。

なお、蛇足だが、『現金に手を出すな』も『現金に体を張れ』も「現金」は“げんなま”と読んでいただきたい。
邦題で「現金」に“げんなま”とルビまでふった映画会社の担当者のセンスに乾杯をしたい。

♪♪♪♪♪♪
デジタルカメラが完全に世を席巻してしまい、今やすっかり周りから姿を消した感のあるフィルムカメラ。
カメラマンだったキューブリックも使っていたのはもちろんフィルムカメラだったに違いない。
街中の写真屋でさえデジカメで撮影というところはごく普通だし、そもそも「DPE」(現像・焼き付け・引き伸ばし)という言葉も次第に死語になりつつある。

先日、未現像の撮影済みフィルムが1本出てきたが、何が写っているのか知るのが怖くて写真屋に持ち込むことがいまだに出来ないでいる(笑)。

本日の一句
「一本のフィルムに新旧カレ写る」(蚤助)

#448: 明日も愛してくれるのかしら?

$
0
0
最初にクエスチョンをふたつ…

第1問) 世の中がロックンロールの時代に突入した1955年以降、アメリカのヒットチャートで最初にナンバー・ワンに輝いた黒人アーティストは誰か?

第2問) それから5年後の61年1月になって、黒人女性のコーラスグループが初めてナンバー・ワンを記録したが、その曲とアーテイストは?

♪♪♪♪♪♪
答1)「THE PLATTERS」で、曲は“THE GREAT PRETENDER”、56年2月のことであった。

答2) 曲は“WILL YOU LOVE ME TOMORROW”、歌ったのは「THE SHIRELLES」だった。

さて、この「SHIRELLES」というグループ名、日本語標記では「シュレルズ」だったり、「シレルズ」だったりするのだが、ここでは「シュレルズ」で統一しておくことに「シレルズ」…

よく若い女性タレントが「全然興味なかったんだけどォ〜、友達が勝手に応募したオーディションに受かっちゃってェ〜、気が付いたらいつの間にかタレントになっちゃってたって感じ〜みたいな」などと言っているが、このシュレルズもそんなところがある、みたいな…(笑)

ニュージャージー州に住むある主婦が、自分の娘が通う学校に歌のうまいアフリカ系の少女4人組が校内のタレント・ショーに出演して、大喝采を受けたことを知る。
娘を通じて自宅のリヴィング・ルームに誘い、あまり気が進まなそうな彼女らを内々にオーディションのようなことをする。
ビジネス感覚があったこの主婦は彼女らの歌をレコーディングさせ、いつの間にか気がつくと彼女ら4人はシュレルズという名前でヒット曲を出す存在となっていた。
ちなみに、シュレルズを世に出した主婦はフローレンス・グリーンバーグといって、彼女らのプロデューサー、そしてついにレコード会社の創立者となった。

♪♪♪♪♪♪
さて、シュレルズのリード・ヴォーカルのシャーリー・オーエンスは、ある日、一本のデモ・テープを聴かされて、この曲をレコーディングするよう勧められた。
テープの歌は曲調がカントリーっぽくて、いわゆる「白っぽい」ものだったこと、どこか60年に大ヒットしたドリフターズの“SAVE THE LAST DANCE FOR ME”(ラスト・ダンスは私に)と似ていると感じたこともあって、シャーリーは歌いたくないと録音を拒否した。

デモ・テープの声はキャロル・キングという名の少女が歌ったもので、当時17歳のキャロルが夫君のゲリー・ゴフィンとともに作った曲だという。
“WILL YOU LOVE ME TOMORORROW”というタイトルがつけられていた。
録音を断られたので、キャロルはシュレルズ好みにポップなバラードに編曲しなおしてようやくリリースにこぎつけた。

この曲は、発売直後から人気は高く、前述の通り全米ナンバー・ワンとなったうえにゴールド・ディスクを獲得する。
これがポップス史に名を残すキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンという名ソング・ライター・コンビによる初の成功作でもあり、歴史的価値をもつ作品となった。

 (キャロル・キングとゲリー・ゴフィン)

曲の構成が教科書のようにきれいに起承転結しているのが時代性であるが、蚤助としては嫌いではない。
歌詞はこんな感じ…

 ♪今夜はあなたは私のもの
  私を優しく愛してくれる
  今夜あなたの瞳に愛の輝きが見えるけど
  明日も愛してくれるのかしら

  これは永遠に続く宝物?
  それともひとときの快楽?
  あなたの溜息のマジックを信じていいの?
  明日も愛してくれるのかしら…

恋人の心変わりがないことを願う、女の子の繊細な心理を表現していて、当時の歌としては斬新だったといわれている。
リード・ヴォーカルのシャーリー・オーエンスは、これをあっけらかんと歌い、バックのシャララ・コーラスがこの頃のアメリカン・ポップスのイノセンスなムードを醸し出している。
なお、バックの演奏にはキャロル・キングが参加しているという。



そのキャロルが71年の名盤『TAPESTRY』で自らレコーディングした。
おそらくシュレルズに聴かせたデモ・テープ以来のことであろうが、伴奏も含めて、人肌のぬくもりが感じられるシンプルなヴァージョンで、歌詞の中の女の子の気持ちを噛みしめるように歌っている。



そして、フォー・シーズンズは68年にリバイバル・ヒットさせている。
ドラムスが鳴り響くオープニングからすでに彼らのスタイルになっている。
フランキー・ヴァリのファルセット・ヴォイスを織り交ぜ、白人ヴォーカル・グループとして実力を存分に示す変化に富んだヴァージョンに仕上げている。

このほか、ロバータ・フラック、リトル・エヴァ、デイヴ・メイソン、ロキシー・ミュージック、メラニー、リンダ・ロンシュタット、ローラ・ブラニガンなど、ロック、ポップス、フォーク、R&B分野の多彩なアーティストによってカヴァーされている。

「シュレルズ」はこの時期に次々と登場するガールズ・グループの先陣を切った存在であり、オリジナル・メンバーのままで長い間良質なヒット曲を出し続けた。
余談だが、グループ名の「SHIRELLES」というのは、リード・ヴォーカルのSHIRLEY OWENSの名前をもじったものだそうである。
さすがにこれは初耳であった。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「別腹はあって自腹はないカノジョ」(蚤助)

#449: ストレンジラヴ博士

$
0
0
先日書いた映画の記事(#447)で、スタンリー・キューブリックやスターリング・ヘイドンが出てきたので思い出した一本がある。

『博士の異常な愛情・または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(DR. STRANGELOVE OR: HOW I LEARNED TO STOP WORRYING AND LOVE THE BOMB)という「異常」に長いタイトルの作品である。
ブラックユーモアの古典的傑作として高く評価されるべき一本である。

米ソ冷戦時代の1963年にスタンリー・キューブリックが製作・監督をしたものだが、この作品にスターリング・ヘイドンが重要な役どころで出演しているのである。

この映画の公開当時「何万という無辜の一般市民を無差別に殺戮した原爆を落とした国が、核兵器のコメディを作るというのは実に不謹慎だ」という論評があったようだ。
そういう考えも有り得べしだが、むしろ核兵器の保有国を徹底的に揶揄した映画と解すべきであり、これを撮ったのは非常に勇気を要したことだったろうと思う。
如何なものだろうか。

♪♪♪♪♪♪
アメリカの軍事基地の司令官スターリング・ヘイドンは、ある日突然「R作戦」の発動を告げる。
これは敵国から攻撃を受けた場合、大統領の権限に関係なく下級の司令官が核報復の命令ができるというハチャメチャな作戦であった。
この司令官、「地球の7割は水で覆われ、人間も7割が水で出来ている」と水の大切さを説いている。
だが「ソ連は水にフッ素を入れている。これはフッ素を口にした国民を駄目にするソ連の恐るべき陰謀だ。だからロシア人はウォッカしか飲まんのだ」とか言って、蒸留水を飲んでいるのである。

狂気の司令官は、核兵器を搭載した爆撃機をソ連の軍事基地に向けて出撃させてしまう。
頭がおかしいとはいえ、作戦にかけては巧みで、進撃中の爆撃機を呼び戻すことは困難な状態にさせているのである。
副官の英国軍将校ピーター・セラーズはそれに気づき、作戦を中止させようとあれこれ奮闘するのだが、作戦中止に必要な暗号は司令官しか知らない。

 (右・スターリング・ヘイドン、左・ピーター・セラーズ)

一方、ホワイトハウスやペンタゴン(国防省)は大騒ぎである。
大統領(ピーター・セラーズ)は、ホットラインでソ連の首相と友達口調で連絡をとるが、相手は泥酔状態で話にならない。
大統領は、司令基地に部隊を派遣し爆撃機を帰還させようと試みるが、基地の守備隊は敵軍の襲来と思い込み米軍同士の戦闘に発展してしまう。

 (右・ピーター・セラーズ、左・ピーター・ブル)

さらにはソ連には恐ろしい報復システムがあることがわかって、政府首脳は著名な学者ストレンジラヴ博士(ピーター・セラーズ)の意見を聞くことにする。
彼はかつてナチの下で働いたマッド・サイエンティストで、今はアメリカで核兵器の開発をしている車椅子の博士である。

一方、基地では追い詰められたと誤解した司令官が自殺してしまう。
副官の英国将校は彼が残した最後の言葉から暗号を突き止め、何とか全機に帰還命令を出させるように苦闘する。
大統領に話があると言って、公衆電話からホワイトハウスに電話を架けるのが可笑しい。

ついに政府は帰還命令を出すことにこぎつけるが、電気系統に問題があった一機だけは飛行を続け、ついにはテンガロンハットをかぶったテキサス出身の機長(スリム・ピッケンズ)が奇声を上げてロデオのように水爆にまたがって落下していく。

 (スリム・ピッケンズ)

ストレンジラヴ博士は、巨大炭坑の跡地を20万人規模の核シェルターとして、頭脳明晰で健康な男性と性的魅力にあふれた女性を居住させ、放射能半減期の100年間暮らすべしと提言する。
大統領を「総統」と言い間違えたり、手袋をしている右手が興奮してくると勝手に「ハイルヒットラー」とナチ式敬礼をしてしまったりして、どうやらこの博士はドイツ第三帝国に心酔しているようである。
彼は興奮のあまり思わず車椅子から立ち上がりよろめきながら絶叫するのである。

「総統!私は歩けます」

 (ピーター・セラーズ)

ピーター・セラーズはストレンジラヴ博士と大統領と英国将校の一人三役を、巧みなメーキャップとそれぞれのお国訛りで演じ分けている。
実は、キューブリックに爆撃機の機長を含めた四役を要請されたそうだが、役柄のテキサス訛りが嫌で断った。
だが映画の完成後、スリム・ピッケンズの秀逸な演技を観て断ったことをひどく後悔したという。

エンディングは、イギリスの女性歌手で英国の恋人と称されたヴェラ・リン(1917-)の“WE'LL MEET AGAIN”という甘く切ない歌声にのせて、水爆のきのこ雲がダンスを踊っているように次々と画面に流れる。
人類滅亡の瞬間に「♪また逢いましょう」である。

この歌は1939年にロス・パーカー、ヒュー・チャールズの二人によって作られたもので、1943年ヴェラ・リン主演の同名ミュージカル映画の主題歌として使われた。
第二次世界大戦に従軍した兵士への想いを歌って、戦時下の人たちの未来への希望の光となった。
戦勝ということよりも、生きて、親しい人を想い、再び逢いましょうという庶民の普遍的な感情が込められている。
人が辛い境遇を乗り越えて生きる希望を持つためには、他の人の思いやりや支えが必要なのだ。

ヴェラ・リンは今年95歳になるが、3年前の2009年英国のドイツ宣戦布告70周年に際して、彼女のヒット曲を集めたコンピレーション・アルバム『WE'LL MEET AGAIN/THE BEST OF VERA LYNN』(冒頭画像)が発売され、英国内でアルバム・チャートの第1位を記録した。
史上最高齢のアーティストのナンバー・ワン・ヒットということで話題になったほか、英語圏とヨーロッパ各国でも大ヒットとなった。

 ♪また逢いましょう
  どこか、いつかは分からない
  でも明るく晴れた日にまた逢えるでしょう
  あなたはいつもしてきたように笑顔でいて
  青空が暗い雲を遠くへ運び去るまで…

こういう内容だが、この歌にのせてキノコ雲が次々と登場するのである。
キューブリックの強烈な皮肉が感じられる。

邦題は誤訳とする議論もあるが、キューブリックは各国で公開する場合には、原題を直訳することを要求したという。
ストレンジラヴというのは人名だが、日本ではキューブリックの意向を逆手にとって、「DR. STRANGELOVE」を「博士の異常な愛情」と意図的な直訳をしたのだそうだ。
いささか珍妙ではあるが、うまい邦題というべきかもしれない。

なお、この映画の原作はピーター・ジョージの「RED ALERT」(赤い警報)という真面目な政治小説で、これを監督と原作者とテリー・サザーンがブラックコメディに脚色したものである。

いかにも恐ろしいコメディであった。

♪♪♪♪♪♪
「R作戦」の発動のようなことは現実には考えにくいけれども、日本の近隣諸国に様々な面で摩擦的な事象を起こしている国が存在するのも事実である。
将来的に「不測の緊急事態」が発生するリスクが皆無とは誰にも言えないのである。

加えて、大震災のような天変地異はいつどこで発生するか予測不能である。
ということで…

本日の一句

「真夜中の地震寝ぐせのままのアナ」(蚤助)

#450: 人生を賭けて

$
0
0
いよいよロンドン・オリンピックの開幕が迫ってきた。
日本は節電の夏だが、オリンピック期間中はおそらく深夜までテレビ観戦、寝不足の夏という人が多くなるのだろう。

ひと月ほど前のことだが、聖火リレーがスコットランドのセントアンドリュースに到着し、トーチを掲げた13歳の少年を先頭に、人々が一団となってウェスト・サンズという海岸を駆け抜けた、とBBCが報じていた。

これがどうしてニュースなのかというと、この海岸が映画『炎のランナー』(CHARIOTS OF FIRE‐1981)のオープニング・シーンが撮影された場所だったからである。
聖火ランナーたちが白いウェアを着て集団で海岸を走る様子は、映画のシーンそのものだったそうだ。

『炎のランナー』はイギリス人として国家に名誉をもたらすことを目指すユダヤ系の青年ハロルド・エイブラハムズと、宣教師として神のために走るエリック・リデルが、1924年のパリ・オリンピックに出場し優勝するまでを描いたイギリス映画で、第54回アカデミー作品賞の受賞作である。
ロンドン・オリンピックの開催を記念して、デジタルリマスター版が、イギリス国内でリバイバル上映されるという。

スポーツ映画というと、とかく根性ものが連想されるが、さすがに優れた作品はそんなことにはならない(笑)。
文字通りランナーの映画であるが、ひたすら走ること、勝利することに収斂していくのだが、人種、宗教、愛国心、国威発揚などの問題が「速く走る」という陸上競技と直接結びついていて、地味だけれどもスケールの大きな作品になっている。
主人公のハロルドとエリックは実在のアスリートであり、物語も実話だそうだが、彼らをヒーローとしてではなく、とても人間的に描いているのが好ましい。

♪♪♪♪♪♪
時は1919年、名門ケンブリッジ大学に入学したハロルド(ベン・クロス)は天才的な俊足であるが、ユダヤ系であり、そのために差別的な扱いを受けることに耐えられない。
人種偏見への反発から極端な負けず嫌いとなり、短距離ランナーとして勝利することが生き甲斐となっていた。

同じ頃、スコットランドにも天才的ランナーとうたわれるエリック(イアン・チャールソン)がいた。
宣教師の父の中国伝道中に生まれた彼は、自らも神に仕える身として人生を送ろうと考えていた。

この二人の大きな目標は、1924年にパリで開催されるオリンピックに出場し優勝することであった。
ハロルドは、スコットランドでエリックが途中転倒したにもかかわらず最後まで走り抜き、見事一位になったレースを観戦しその勝利への執念に驚愕する。
オリンピックの前年、ロンドンで開催された競技会で、二人は初めて顔を合わせ、エリックが僅差で勝つ。



このレースを観ていたムサビーニ(イアン・ホルム)は、ハロルドの素質を見込んで、ランニング・コーチを引き受ける。
アラブとイタリアの混血だったムサビーニは、プロのコーチだったことから、ケンブリッジ大学当局はアマチュアリズムに反するとしてハロルドを譴責する。
その大義名分の裏には、ケンブリッジ大学のエリート意識からくる人種差別があることを知って、ハロルドは決然と反論し、自分の意思を貫くことにする…

映画はイギリスという国の格式と伝統に批判的な立場をとっているようだが、必ずしもそれらを否定しているわけではない。
ハロルドにしても、イギリスの純血主義に反発しながらも、ケンブリッジ大学のエリート学生であることの矜持や誇りはしっかりと認識しているのである。

ハロルドとともにオリンピック出場の権利を得たエリックは、出場するレースの予選が日曜日(=安息日)に当たると知って、敬虔なキリスト教徒として宗教上の理由から頑として出場を拒む。
やむなく、他の選手が辞退し出場選手を差し替えることで、エリックは別の種目に出場することになる。

この二人は、オリンピックで同じレースで優劣を競うことはなかったが、結局はそれぞれ別の種目に出て強豪のアメリカやドイツの選手を抑え、二人とも優勝を勝ち取り、母国に凱旋することになるのである。

ハロルドが出場するレースには、コーチのムサビーニはスタジアムに行かず、近くのホテルの部屋にいる。
そして聴こえてくる“GOD SAVE THE KING”を耳にして、ハロルドが優勝したことを知るのだが、ここはまさしく名場面である。



ハロルドがひたすら勝利を求めたのは、純粋なスポーツ精神だけではなく、差別を克服したいからであった。

ハロルドとその恋人シビル(アリス・クリージャ)はこんな会話をする。

「ぼくは勝つために走る。勝つのでなければ走らない」
「走らなければ勝てないわ」

このシビルの科白、ジャンボ宝くじについて蚤助がいつも言っている「買わなければ当たらない」に似ていて、何だか可笑しい(笑)。

愛国主義の強い作品のようであるが、それでもこの映画が観る者を引きつけるのは、自分の生き方を断固として曲げない主人公たちの強烈な個性が魅力的だからであろう。
人間、何かに生命を賭けて生きていきたいものだが、この映画は蚤助のようなダメ男には全くできない生き方をした人間の物語である。

ヴァンゲリスの音楽がなかなか素晴らしく、非常に有名になった。
監督はCM出身で本作が監督デビュー作だったヒュー・ハドソン。
今から100年近くも前の話なので、スポーツファッションも現在とは違うし、走り方も違う。
そのあたりの時代考証は相当きちんとやったようだ。
またロケーションの風景にも時代が感じられ、そういうところはイギリスの映画だなとちょっぴりうらやましい気がする。

最後にトリヴィアをひとつ。
本作のプロデューサー(製作総指揮)の一人は、パパラッチに追跡され事故で亡くなったダイアナ妃の自動車に同乗して、やはり一緒に亡くなったドディ・アルファイドだった。

♪♪♪♪♪♪
ロンドンでの日本の選手の活躍を期待しつつ…

本日の一句
「横やりの競技があれば金メダル」(蚤助)


#451: 今日は俺だ

$
0
0
映画監督ビリー・ワイルダーの1940年代の作品のほとんどを、ワイルダーと共同で脚本を書き、製作も担当したのがチャールズ・ブラケットである。
以前、登場した『ナイアガラ』や『失われた週末』のシナリオも彼の手によるものだった。

特に、前者の監督はヘンリー・ハサウェイだったが、今回登場するのもやはりハサウェイが監督し、そのブラケットが製作した西部劇『悪の花園』(GARDEN OF EVIL‐1954)である。
西部劇としては何だか違和感があるタイトルだが、映画の舞台となる先住民のアパッチが名づけたという火山地帯のことである。

この作品、ゲーリー・クーパー、スーザン・ヘイワード、リチャード・ウィドマークというトップスターが共演した作品だが、ハサウェイの演出がいつもの如く半端でB級のテイストになってしまうのが、個人的にはとても残念である。
結構泣かせるセリフが出てくるのでなおさら惜しい感じがするのだ。
脚本はフランク・フェントン。

♪♪♪♪♪♪
元保安官のゲーリー・クーパー、ギャンブラーのリチャード・ウィドマーク、ケチなやくざのキャメロン・ミッチェルは、カリフォルニアの金鉱をめざして乗った船がトラブルで、メキシコのある海岸の町に上陸する。

早速酒場を見つけると、そこで歌っているのがリタ・モレノ。
後に『ウエストサイド物語』(1961)のアニタという当たり役で、日本でも一気に人気が高まった。
アニタは汚れ役だったが、『王様と私』(1956)でのタプティム役は可愛らしかったし、ここでもなかなか初々しい歌声を聴かせる。


(リタ・モレノ)

リタ・モレノの歌を聴きながらウィドマークがクーパーとこんな会話をする。

「美女の歌は世界中で通じる」
「美女でないと?」
「ただの騒音だ」

「誰かが言った。女の言葉は信じるな。だが、女の歌は信じろ、と」
「誰の言葉だ?」
「俺」

そこへスーザン・ヘイワードが金山の落盤事故にあった夫を助けて欲しいと飛び込んでくる。
一人2000ドルの謝礼に釣られるように、メキシコ人のヴィクトル・マヌエル・メンドーサを加えた4人で出かけることにする。

危険な山道を通り鉱山に向かう一行は途中、破壊された集落で野営するが、そこにはアパッチの痕跡が残っていた。
ヘイワードは、鉱山の周辺は火山の噴火で埋まっていること、アパッチが「悪の花園」と呼ぶ一帯であることを告げる。


(ゲーリー・クーパーとスーザン・ヘイワード)

ようやく金山に着いて、坑道からヘイワードの夫ヒュー・マーロウを救出し手当てをするが、アパッチの襲撃の兆候を知り、夜陰にまぎれて出発する。
逃げる途中、キャメロンがマーロウを足手まといに思い始め、口論、マーロウは自ら一行から離れて行く。
キャメロンがマーロウを切り捨てた形になった直後、彼の背にアパッチの矢が当たり命を落とす。
マーロウの行方を探す一行は、やがてアパッチに殺された彼の遺体を発見する。

さらにアパッチの攻撃を受けてメンドーサが死に、残った三人は反撃しながら逃亡を続ける。
迎撃に適した場所を見つけたクーパーは、一人残ってヘイワースとウィドマークを逃がそうとするが、ウィドマークはカード勝負で決めると言って、ウィドマークが残ることになる。

クーパーはヘイワースを安全な場所に連れて行ったあと引き返す。
ウィドマークがイカサマをしたことを知ったからである。

クーパーが現元の場所に着くと、ウィドマークは撃たれて虫の息の状態であった。
そして実に気障なセリフを吐いて死ぬのである。

「太陽が沈む。毎日のように誰かを道連れにしてな。今日は俺だ」

 (リチャード・ウィドマーク)

少し広い額と歪んだ口元、白い歯をのぞかせてハイエナのようにけたけた笑う。
決して死にそうにもないタフな悪党ぶりが際立ったウィドマークだったが、実生活において愛娘が肩身の狭い思いをしないよう気をつかって、次第に善玉の方に回ることが多くなった。
このギャンブラー役は、西部劇俳優、性格俳優としてのウィドマークの真骨頂を示したはまり役であろう。

クーパーは、夕陽の中、ヘイワードとともに帰途につく。
ラストのクーパーの独白もまた泣かせる。

「大地が金だったら、ひと握りの土のために、人は殺し合うのだろう」

♪♪♪♪♪♪
この西部劇、ミッチェル、マーロウ、メンドーサ、ウィドマークの順に死んでいき、最後にクーパーとヘイワードが生き残る。
映画の公開当時、出演料の安い順番に死ぬと言った人がいたらしいが、メンドーサを除けば確かに定石通りのハリウッド流スター・システムをはずさない作品といえるだろう(笑)。

ただ、クーパーはどちらかといえばお疲れ気味でボサッと突っ立っているだけの印象で、その分ウィドマークがもうけ役だったことは間違いない。

それでも、ハサウェイらしく異国情緒あふれる情景は素晴らしいし、断崖絶壁の道を馬が駆け抜ける場面や銃撃戦はなかなかスリルに富んでいたと思う。

最後に、シナリオ、あるいは演出上の難点をひとつ。
ヘイワードが一行を金山に案内するまで少なくとも5日以上かかっているので、マーロウが落盤事故にあってから、一行が救出に向かい彼を救出するまでには少なくとも相当な日数が経過しているはずである。
その間、飲まず食わずで坑道に閉じ込められていたにしてはマーロウは骨折していた程度で、そんなに衰弱してなかったジャン…(笑)。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「金で済むはずのことだがそれがない」(蚤助)

Viewing all 315 articles
Browse latest View live