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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#452: 君去りし後

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前稿で「今日は俺だ」と言い残して、リチャード・ウィドマークが命を落としてしまったので、それを受けて本稿では「君去りし後」である(笑)。

“AFTER YOU'VE GONE”(邦題「君去りし後」)は、1918年、ヘンリー・クリーマーの詞にターナー・レイトンが曲をつけたとても古い歌である。



クリ―マーとレイトンは、ボードビリアンで歌手兼ピアニストとしてコンビを組んでいて、ミュージカルのスコアも共同で書いている。
他の楽曲では“WAY DOWN YONDER IN NEW ORLEANS”(1922)も有名で、こちらも現在でもサッチモの歌などで時折耳にすることがある。
フレディ・キャノンのポップ・ロック路線の歌もヒットした。

さて、“AFTER YOU'VE GONE”だが、スタンダードのソングブック集などでは、大抵最初か2〜3曲目に登場する。
アルファベット順に曲が並ぶことが多いからだが、この曲より前に出てきそうなのは“AFTER HOURS”とか“(AN) AFFAIR TO REMEMBER”くらいのものだろうか。

ところどころどこかで聞いたようなメロディが顔を出すが、それもそのはず、当時流行していた曲のメロディを引用して即興的に作られた歌だからである。
当時から盗作ではないかとの噂が絶えなかったようだが、まあ、流行した曲の良いとこどりのようなものなので、それがかえって親しみやすく、特にスイング派、ディキシー系ミュージシャンのお気に入りの楽曲となった。

1920年代に人気のあったマリオン・ハリスという白人女性歌手の録音が最も古いものとして知られているが、その後、ブルースの皇后ベッシー・スミスをはじめ、アル・ジョルソン、ソフィー・タッカー、ルイ・アームストロングら多くの歌手や楽団がカヴァーするようになった。

コール・ポーターはこの曲から“ANYTHING GOES”(1934)を作ったと言われているが、なるほど歌い出しの部分はそっくりである。



 ♪ あなたは去って行った 私を泣かせたまま
   あなたは去って行った その事実は間違いない
   きっと哀しくなって ブルーな気持ちになる
   愛する人がまた恋しくなる
   忘れないで あなたが後悔する時が きっと来る
   いつか寂しくなって 今の私のように
   心がズタズタになって そしてまた私を求めるだろう…

こんな内容だが、実は歌い手によって歌詞が違っていることが多い。
そんなに難しい内容ではないのだが、いろいろな解釈が可能だということからきているようだ。
主人公が、男か女かでまるで違うものになるし、怒って突き放しているのか、悲しんで未練タラタラなのか、それぞれの解釈ができるのだ。
しかし、基本的なところは上記のような内容である。

意地悪く考えると、曲の出来上がりがやっつけ仕事のようなもので、歌詞もどちらかといえば曖昧というような楽曲が、スタンダード・ナンバーの系列に連なるというのは、作者の意図とか才能とかいうものを超えて、歌ったり演奏したアーティスト、またそれを支持した多くの聴衆の力によるものだということになるのかもしれない。

作者コンビの意図は、単純に恋人が離れて出て行こうとするのを引き留めているという歌であろう。
ところが、主人公は恋人にフラれて「きっと寂しくなって私のことが恋しくなるのよ!」なんて、結構自惚れが強い女性のようなイメージがある。
しかも「あなたは悲しみに耐えかねて、私を求めることになるのよ」と来るから意外に図々しい女である(笑)。
男女の別れの歌は演歌と共通する世界ではあるが、このあたりが演歌の世界との決定的な違いのような気がする。
ただ、フラれたのは女性だという保証はどこにもないわけで、やはりこういう思考経路というのは女性であろう…というただの蚤助の偏見かもしれない(笑)。

その証拠に(?)、この曲を十八番にしていたのが、ジャック・ティーガーデン(1956)。
彼は実にふてぶてしく歌っている(笑)。
おそらくこれを凌ぐヴァージョンはないだろう。


(THIS IS TEAGARDEN !/Jack Teagarden)

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「さよならも言わずに去って行った髪」(蚤助)   

#453: 柳よ泣いておくれ

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今回のロンドン・オリンピックは、女子ボクシングが競技種目となったため、全競技に女子選手が参加するという初の大会だそうである。
また、参加204の国・地域がすべて女子選手を派遣したという。
さらには、日本の選手団は女子選手の方が男子よりも多く、あれやこれやで、ロンドン・オリンピックはなんだか女子選手にとって画期的大会といえるかもしれない。

さて、スタンダード曲にも女性の立場からみて、画期的と形容したい作品がある。
女性には非常に珍しいことであったが、ブロードウェイの演劇界に携わっていたアン・ロネルというピアニストがいた。
彼女は1930年代の初めに女流のソングライターとして注目され始め、映画音楽も手掛けるようになった。
女性として初めて映画音楽の担当としてクレジットされ、サウンドトラック用の指揮までこなしたということで知られている。
そんな彼女の作品(作詞・作曲)の中で最もよく知られているのが、“WILLOW WEEP FOR ME”(邦題は「柳よ泣いておくれ」とか「柳はむせぶ」)である。

 (アン・ロネル)

この曲は、1932年に出版されたが、ジョージ・ガーシュウィンに捧げられたものである。
当時の音楽出版業界の慣例にはなかった「献辞」つきの曲として話題になったという。
ロネル女史とガーシュウィンとの結びつきはよくわからないが、映画『アメリカ交響楽』でもわかるように、このころのガーシュウィンの名声は頂点を極めていたので、彼女としては偉大な先輩への敬意から捧げられたのかもしれない。
ただ、それにしては、歌の内容があまりにも悲しい失恋のバラードなので、そのあたりの関係がいささか謎めいている(笑)。

 ♪ 柳よ、私のために泣いておくれ
   海に注ぐ川のそばまで 枝を曲げて
   私の打ち明け話を聞いておくれ
   
   恋の夢は去ってしまった
   愛らしい夏の夢は終わった
   川に涙を落とす私を残して
   柳よ、泣いておくれ…

こんな感じの歌だが、悲痛なムードがたっぷり漂っている。
リフレインのところで、リズム・チェンジがある少し珍しい構成で、オクターブを使ったり、ブリッジで短調に転調するなど印象的なメロディ・ラインを持っていて、歌曲としても難曲のひとつではないかと思う。

風にそよぐ柳の枝といえば、日本では風流なイメージであり、場合によっては、この季節にふさわしい幽霊の登場の舞台にもなる(笑)。
しかし、あちらでは、柳といえば失恋の象徴らしく、“WEAR THE WILLOW”という成句もある。
直訳だと「柳を身に着ける」ということになるのだが、実はズバリ「失恋をする」という意味である。

女性のウェットな面が色濃い作品なので、初演のアイリーン・ベイリーやこの曲をヒットさせたルース・エッティングをはじめ女性歌手によって歌われることが多いが、おそらく誰もが認める最高の歌唱はビリー・ホリデイのものであろう。

 (ビリー・ホリデイ)

ただし、ビリーの歌は、ブルージーで、侘しささえ感じられるこの失恋の歌に、多少「投げやり」というより、「捨て鉢」な気分を加えた素晴らしい表現力をみせた名唱であるが、痛々しさが先に立って、いささかやり切れない気分になってしまうのが難点である。
彼女の晩年の重要なレパートリーとなった曲だが、元々悲しい歌ゆえに、彼女が歌うといっそう悲しくなってしまうのだ。

このビリーの“WILLOW WEEP FOR ME”だが、1962年にアメリカ人監督のジョセフ・ロージー(1909‐1984)が撮ったフランス映画『エヴァの匂い』(EVA‐冒頭画像)に、ビリーの1954年録音のヴァーヴ盤が出てきて、レコードの歌声が何度も流れて強い印象を残した。

ロージーは50年代の赤狩りでイギリスに亡命し、二度とハリウッドに戻らなかった人だが、ルイ・マルの作品を観て、ヌーヴェルヴァーグに共感し、その代表的女優であるジャンヌ・モローを使って映画を撮りたいと願っていた。
一方、モローはまだ若いころ、ジャン・コクトーから、ジェームズ・ハドリー・チェイスの小説『悪女エヴァ』という本を借り、その際、いつかスターになったら映画でこの役を演じなさいとアドバイスされた。
スターになったモローは、そのアドバイスを実現させようと、これを映画化するために奔走したのである。

主演のモローは当時34歳で、ミシェル・ルグランのジャジーな音楽とヴェネチアの街のモノクロ映像とともに、謎めいた悪女として登場する。



“WILLOW WEEP FOR ME”が選曲されたきっかけは、ロージーが打ち合わせにモローの別荘を訪れると、彼女が山のように積まれたビリー・ホリデイのレコードに囲まれていたことだった。
二人ともビリーの歌が好きだったのである。

劇中、モロー扮するエヴァが読んでいる本もビリー・ホリデイの自伝『LADY SINGS THE BLUES』であり、レコード・プレイヤーのターンテーブルにはいつもビリー・ホリデイが乗っていた。

余談だが、この映画を観たフランソワ・トリュフォーは、娘を「エヴァ」と名付けたそうである。

♪♪♪♪♪♪
こちらは「泣く」のは「柳」ではなく人間ですが…

本日の一句
「番組表号泣とある生放送」(蚤助)  

#454: いまなんどきだい?

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『お江戸日本橋』という歌がある。
正確には端唄と言うのか、俗謡と言うべきなのかわからないのだが、とりあえず民謡としておこう。

60年代の中頃だったろうか、様々な言語を駆使して「歌う通訳」という異名もあったカテリーナ・ヴァレンテが、日本語で歌った『お江戸日本橋』がとても懐かしい。
ザ・ピーナッツでヒットした『情熱の花』のオリジナルは彼女のものだったし、宮川泰がザ・ピーナッツのために提供した「ウナ・セラ・ディ東京」や滝廉太郎の「花」(♪春のうららの隅田川〜)を器用な日本語で歌ったりしていた。

おっと、ここは隅田川ではなく、日本橋の話だったね…(笑)

 (日本橋)

『お江戸日本橋』という民謡は「♪お江戸日本橋七つ立ち〜」と始まるのだが、この「七つ」というのはいったい何時ころなのだろうか。

昔の時間の数え方というのは、一日を昼と夜の二つに分け、それぞれを六つに分けるというのが基本だった。
当然昼と夜というのは季節によって長さが違うので、それぞれの時間、すなわち「いっとき(一時)」の長さは一定ではない。
これが「不定時法」という時刻の数え方である。

日が昇って明るくなって日の入りまでが「昼」、日没から次の夜明けまでが「夜」で、「昼」「夜」それぞれの間を六等分して六つ、五つ、四つ、九つ、八つ、七つと数えるのだそうだ。
数が順番通りになっていないのは、平安時代以来の「時の鐘」を打つ数に基づいているというが、なぜそうなっているのか正直よくわからない。

「不定時法」ということならば、現在の時刻とは単純比較はできないのだが、季節を昼夜の長さが同じ春分の頃とすれば、日の出の「明け六つ」は午前6時、五つが8時、四つが10時、九つが正午、八つが午後2時、七つが午後4時、日の入りが「暮れ六つ」で、以下、五つ、四つ、九つ、八つ、七つとおよそ2時間刻みで続くことになる。

したがって、七つというのは、概ね午前4時頃になるが、『お江戸日本橋』はさらに「♪高輪夜明けて提灯消す」と続く。
まだ暗い4時に日本橋を出発して、高輪で明るくなったので提灯を消したのであろう。

ところで、落語の「時そば」では、そば代十六文を「八(ヤー)」まで数えたところで、「いまなんどきだい?」と聞き、「九つ」と答えさせて、一文ごまかすわけである。

 

そのやりとりを見ていて真似をしようとした粗忽者、「八(ヤー)」ときて、「なんどきだい?」と聞いたところまではよかったが、「四つ」と言われて、かえって損をしてしまう。
昔の時刻の数え方を知らないと、最初の客が「九つ」にそばを食うところを、粗忽者は「四つ」だとずいぶん早すぎるじゃないかという疑問が生まれそうだ。
だが「九つ」は真夜中で、「四つ」は夜の10時頃なので、あまり不自然ではない。
要は「九つ」の前が「四つ」だったというのがこの「時そば」という噺のポイントになるわけである。

♪♪♪♪♪♪
ところで、落語「時そば」でいつも連想するのが“I DIDN'T KNOW WHAT TIME IT WAS”(1939)というスタンダード曲である。
「何時だったか分からなかった」というのだが、『時さえ忘れて』という邦題がつけられている。
アメリカ屈指のソングライター・チーム、リチャード・ロジャースとロレンツ・ハートのコンビが作った作品。
ファッショナブルな人は時間を忘れないということを暗に読み込んだもので、さすがに一流の詩人でもあったハートらしいと評される一方で、アルコール中毒気味だった彼が前後不覚になる弁解を歌詞に託したものとする皮肉な説もあって、なかなか面白い作品である。

冒頭にヴァ―スが出てくるがこんな感じである。

 ♪ 若かった日々
   ジムやポールと踊り 他の男の子とキスもした
   いつも魔法にかかったようで 夢の中にいた
   そして今 私は世間知らずだったと気がついた…

主人公は女性らしいことがわかるのだが、歌はこう続いていく。

 ♪ 何時だったろう あなたに会ったのは
   素晴らしい時 まさに最高だった

   あれは何日のことだったろう
   あなたの5月のように温かい手が 私の手を取ってくれたのは
   生きていること、若いということ、
   夢中になってあなただけのものになることは
   なんて素晴らしいことだったか

   あれは何年のことだろう 人生がつらくなったのは
   愛が欲しかったのに あなたの目からは消えていた

   年をとって 思い出は古くなるけど しわにはならない
   
   賢くなった私は 今が何時かわかるようになった…

訳のまずさはお許しいただくこととして、基本的には少しほろ苦い恋の歌である。
この手の歌は無数にあるだろうが、その中でも格別の名歌として知られるようになったのは、57年の映画『夜の豹』(PAL JOEY)の中で、フランク・シナトラが歌ったことが決定的となった。
シナトラは「おんな唄」も上手いのだ。

 (BLACK COFFEE)

ペギー・リーの名盤『BLACK COFFEE』は、スローなヴァ―スを丁寧に歌い上げ、コーラス部分では一転スイング・テンポになって見事な快唱を聴かせる。

インストも名演が多いが、ここでは以下の2枚を挙げておく。
どちらも「ソニー」という名前の二人のミュージシャンで、最初が何度か登場したピアニスト、ソニー・クラークの名盤『SONNY CLARK TRIO』と、アルトとテナーの名手、ソニー・スティットの『SONNY STITT WITH THE NEW YORKERS』である。
クラークの方は名盤の誉れの高い一枚だが、アルバム冒頭のこの曲をスインギーに演奏している。
スティットの方は、ハンク・ジョーンズのピアノ・トリオを従えて、アルトのワン・ホーンによる気持ちのよい快演が聴ける。
どちらも1957年の同じ年に録音されているのが奇遇である。

 (SONNY CLARK TRIO)

(SONNY STITT WITH THE NEW YORKERS)
  
もう一枚、珍しいところで、ブラジル・ポピュラー音楽(MPB)の女王ガル・コスタが、この曲をポルトガル語ではなく英語で歌っている『PLURAL』(89)。
彼女はお気に入りの歌手の一人だが、一時期、自らのアルバムに必ずスタンダード曲を英語で収録していた時期があった。
このアルバムでは他に『BEGIN THE BEGUINE』も歌っているが、どちらもなかなかの聴きもので、彼女の実力が超一流のものであることを示している。

 (PLURAL)

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「時計屋のせがれ必ず遅刻する」(蚤助)

#455: 自堕落なバカンス

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猛暑の中、五輪メダリストの銀座パレードに観衆50万人というニュースには驚いた。
ロンドン・オリンピックが狂熱のうちに終わったと思ったら、今度は熱闘甲子園、さらにU20女子サッカーW杯、そして引き続きパラリンピックの開催である。
今夏は道理で記録破りの暑さが続くはずだ。

今年のお盆は、避暑がてら帰省してダラダラと過ごさせてもらった。
その間、川柳仲間の篤姫さまからお誘いのメールなど頂戴し、お気遣いいただき恐縮してしまったが、今回は次の機会の楽しみにさせていただいた。

下北…といえば、東京では「下北沢」のことになるようだが、東北では当然「下北半島」のことである。
その下北に帰京する直前一泊旅行に出た。

むつ市で遠戚の墓参をした後、数年ぶりの「恐山」に向かった。

恐山は「日本三大霊場」のひとつと紹介されることが多いが、他の二か所の「霊場」はどこかというと「白山」(石川県)、「立山」(富山県)らしい。
ただし、「三大霊地」とか「三大霊山」という言い方もあるらしく、この場合「霊地」は「恐山」、「立山」、「川原毛地獄」(秋田県)、「霊山」の方は、「恐山」、「高野山」(和歌山県)、「比叡山」(滋賀県)とされているようだ。
いずれも「恐山」が入っている。
やはり、日本有数のパワースポットということになりそうだが、なんだかなあ…(笑)。

曇天ではあったが、何年かぶりの真夏の恐山は想像以上に明るい光景であった(冒頭画像)。

菩提寺の境内には木造建ての温泉がいくつかある。
浴槽はヒノキ造りで主に宿坊の泊り客が利用するのだろうが、観光客も入浴でき、入浴客が結構いた。
硫黄分の多い湯に、タオル1本あれば自分も汗を流したい気分だった。
ただし日が暮れてからの入浴だと、かなり勇気を要するような佇まいではある(笑)。



実は、本州最北端の温泉地「下風呂温泉」でうまい魚介類を堪能したかったのだ。
かつて泊ったことがある「長谷旅館」は作家の井上靖が宿泊して小説「海峡」を執筆したことで「海峡の宿」として有名である。
何よりもここで供された料理が抜群で、もう一度堪能したかったというのが本音であった。
あまり手をかけた料理ではないが、津軽海峡、下北半島の海の幸、山の幸のおりなすハーモニーとコラボレーションは筆舌に尽くせぬ豊潤なものだった。

残念ながら、今回は生憎、どこも満室ということで諦めざるを得なかったので、代わりの宿泊地を「薬研(やげん)温泉」に決めた。
ずいぶん昔のこと、我が家にあった奥薬研(おくやげん)の渓谷の絵葉書(セピア色のモノクロ写真)を見て密かな憧憬を抱いていたのだった。
ところが、かつて秩父宮夫妻も宿泊されたという奥薬研の宿(カッパの湯)は現在は地元の日帰り温泉施設になっていた。



大畑川は高低差があまりなく全体にのっぺりとした印象の河川だが、魚影はそこそこ濃そうだし、紅葉の時期にはさらに素晴らしい風景を見せてくれるだろう。
十和田湖や奥入瀬渓流に勝るとも劣らない風情だが、何よりも人の入り込みが多くなさそうなのが大変魅力的である。



この日は「ホテル・ニュー薬研」に投宿した。
温泉は単純泉のようだが、なかなか良いお湯であった。

朝、目覚めると前線の影響かシトシト雨が降っている。
チェックアウトのとき雨はすでに上がっていたが、全体に曇天で一部に黒い雲が見えたり、陽が射したり何だか妙な天候だった。
途中の車中、雨に見舞われたものの、本州最北端の大間は雨が降っていなかった。
風がやや強い。
神戸、大阪、名古屋など県外ナンバーの車が多い。
立派なキャンピングカーも何台か見かける。
「オーマの休日」…(笑)。



さすがマグロの町「大間」である。
公衆トイレの男女標識はマグロだった(笑)。

対岸の北海道は見えなかったので、大間から佐井に向かったが、強風と波浪のため奇勝「仏ヶ浦」への遊覧船は欠航であった。
ちょっぴり残念だが、仏ヶ浦の駐車場から光景を遠望したのみであった。



川内にある道の駅に寄って食事をとることに決め、一路川内ダムに向かう。



食券を買って、座席を確保しようと奥に向かったところ、正面に見知った顔が見える。
なんと、M市のM市長で、TVの取材のため撮影で農作業姿であった。
上京の機会に、蚤助の職場を訪ねてくれたり、まことに恐縮してしまうが、今回も差し入れなど頂戴してしまった。
しかも、TVの撮影クルーにいたのが、これも久しぶりに顔を見たK君であった。
おそらく30年ぶりくらいのご無沙汰であったが、偶然とはいえ、まことに奇遇であった。
M市長とK君、おそらくやらせのTV番組だったに違いない(笑)。



食事後、帰途についたわけだが、下北半島のある時間のある地点で、偶然出会うというのはどれほどの確率なのか知る由もないが、何だか奇跡的なことのようである。

自堕落な夏休みを送った末の、唯一アクティヴな行動の起こした邂逅であった。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「ドラマではオレの故郷は左遷の地」(蚤助)

#456: 夢見る頃をすぎても

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ハンガリー生まれの作曲家シグムンド・ロンバーグの代表作と言えば、かつてとり上げた“LOVER COME BACK TO ME”か、あるいは“SOFTLY, AS IN A MORNING SUNRISE”を挙げる人が多いだろう。

オペレッタを作曲していたロンバーグだが、アメリカに渡ってからはブロードウェイでも活躍するようになった。
ヨーロッパ出身ということもあってか、どことなく洗練された曲調に持ち味があり、上記の二曲にしても、少し大時代的な雰囲気が漂う格調の高い名曲である。
後にはハリウッドで映画音楽の作曲家に転身した。

彼が、MGMの『THE NIGHT IS YOUNG』(35)という映画のために書いた“WHEN I GROW TOO OLD TO DREAM”という曲が大好きである。
映画の方は、誰の記憶にも残らない大コケした作品のようだが、ワルツ調のこの曲は当時から話題になり、現在でもなお歌い継がれている名歌のひとつである。
ロンバーグにしては、どちらかといえばシンプルな美しい小品である。
『夢見る頃をすぎても』という素敵な邦題がつけられている。
作詞はオスカー・ハマースタイン二世で、先にできてきたロンバーグのメロディーを聴いて、その美しさに見合う詞をつけようとしたという。



ハマースタイン二世がミュージカル『南太平洋』(台本と作詞)を発表してまもなくの49年頃に書いたエッセイ『NOTES ON LYRICS』(作詞に関する覚書)に興味深い記述があるので、簡単に紹介しておきたいが、拙訳抄なのでご容赦願いたい。

♪♪♪♪♪♪
DREAMという語は、酷使されすぎて過労気味の言葉なのではないか。
だが今でもよく使われているのはいろいろな美しい意味を含んでいるからなのだろう。

1935年に、シグムンド・ロンバーグと映画で歌われる曲(WHEN I GROW TOO OLD TO DREAM)を作った時のことである。
ロンバーグはとても美しいワルツ曲を書き、私はそのメロディーに恋してしまった。
私にこの曲に合う歌詞をつけられたら、みんなもきっとこの曲に恋するだろうと思った。
最初の二日間で思いついたのが“When I Grow Too Old To Dream”というタイトルだった。
とっても歌いやすいし、スムース、曲のムードにもぴったりで、このタイトルのために曲が生まれたように感じた。

“When I Grow Too Old To Dream. I'll Have You To Remember”
とフレーズが簡単に出てきたが、もう少し突き放してみることにした。

すると突然、夢見るには年をとりすぎるって、何時のことだろう? どんな夢が年齢と関係があるのだろう? 実際年をとれば今まで以上に夢を見るのじゃなかろうか? 振り返って過ぎた事柄を夢見るのではなかろうか? こんな馬鹿げた歌詞が頭に浮かぶとは! そんなことを考えてしまったのである。

しかし、他のタイトルもいろいろ考えたのだがどれも好きになれなかった。
そして、DREAMという言葉には特別な意味があるという結論に達した。
恋をするという夢は現在と未来のものだけと考えていたけど、過去となってしまった場合もあるだろうと…
それで作った歌詞はこうなった。

 ♪ 夢を見るには年をとりすぎても
   あなたのことは忘れない
   夢見る頃をすぎても
   あなたの愛は心の中で生き続ける

私はこういう風にしたのだが、DREAMに対する概念が他の人に理解されるかどうか確信はなかった。
この歌は別れの歌で、残りの歌詞はこう続けた。

 ♪ だからキスして 愛しい人
   そしてお別れしよう
   夢見る頃を過ぎても
   あなたのキスは心の中で生き続ける

実際、この歌は誰もが好きになり、ロンバーグも映画のプロデューサーも監督も脚本家も、音楽出版社もみんな気に入ってくれた。
映画は公開されて大コケしてしまったけれど、歌の方はヒットした。
数ヵ月後、歌の意味について尋ねられて「よくわからない」と答えたら、大笑いされてしまった。
ソングライターにとって大事なのは、理知的な分析や意味論などの学術的な正しさではなく、歌が与える感覚を作曲者と作詞者が共有することだ…

♪♪♪♪♪♪
長いエッセイを無理やり抄訳したので、少々分かりにくいと思うが、要は酷使されている(使い古されて少々陳腐化している)DREAMという言葉を使って、シンプルで美しいメロディーにぴったりする歌詞をつけようとする名作詞家の打ち明け話である。

作曲したロンバーグ自身の生涯は、スタンリー・ドーネンの手で『我が心に君深く』(DEEP IN MY HEART-54)というミュージカル映画になった。
この映画、フレッド・アステアやジーン・ケリーなども出演して、そのショウ場面がなかなか見応えがある。
ロンバーグを演じたのはホセ・ファーラー。
ファーラーはロンバーグにとても似た風貌だったのだそうだ。
劇中、ファーラーが“WHEN I GROW TOO OLD TO DREAM”を歌う。
ファーラーの歌というのも珍しいが、主人公ロンバーグにとっても大切な歌であったようだ。

♪♪♪♪♪♪


何と言っても、ナット・キング・コールの『AFTER MIDNIGHT』(56)の歌唱が素晴らしい。
40年代のヒット曲を中心に、気の合ったミュージシャン仲間が集まってセッションをしたという態のリラックスした快唱が聴ける。
この曲の伴奏をしているのが、ジャズ・ヴァイオリンの名手スタッフ・スミスで、コールのメロウなヴォーカルとのコラボレーションがとても良い。



もう一枚は、美女ダイアナ・クラールがそのナット・キング・コールに捧げたトリビュート・アルバム『ALL FOR YOU』。
ピアノのベニー・グリーン、ギターのラッセル・マローンらを従えた直球勝負のジャズ・ヴォーカルを聴かせ、グラミー賞をはじめ様々な音楽賞を受賞した。
これで彼女は一躍ジャズファンの注目を浴びることになった。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「枯れてるが夢まだ少し胸にある」(蚤助)



#457: ジャンバラヤ

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ジャンバラヤといえば、今やファミリー・レストランや居酒屋あたりのメニューにも登場するポピュラーなメニューである。
主にアメリカ南部のルイジアナ州あたりで食べられている郷土料理で、レシピこそ千差万別だが、基本はコメに野菜、肉、魚介類などを用いた炊き込み風のご飯である。
ミシシッピー河を中心としたデルタ地帯はケイジャン地方と呼ばれるが、かつてアメリカ領となった一帯を支配していたスペインの料理にルーツがあるらしい。
ジャンバラヤの起源はどうやらパエーリャのようだ。

そのジャンバラヤをタイトルにした楽曲“JAMBALAYA (ON THE BAYOU)”は、若くして亡くなったカントリー歌手ハンク・ウイリアムス(1923-1953)によって作られた。
一方で、実はハンクが別人から譲り受け、自分の名前で著作権登録したのだという説も残されているいわくつきの曲である。

1949年にプロ・デビューしたとき彼は25歳、53年に29歳の若さで亡くなるまでの実質4年間の音楽活動の中で、以降のカントリー・ミュージックの基礎を作り上げるという大仕事をたった一人で成し遂げてしまった不世出の音楽家であった。

 (ハンク・ウィリアムス)

“JAMBALAYA”はハンクの死の前年の52年に自らの歌で録音され、同年の夏から翌年の3月にかけて大ヒットした。
ハンクは生涯脊髄の持病に悩まされていたが、その苦痛から逃れるため薬物とアルコール依存症となり、彼の生命を奪ったのもその薬物とアルコールであった。
53年の元旦、新年のショーに向かう途中、藪医者(ニセ医者という説もある)が処方した薬とウイスキーを口にしてハンクは急死してしまうのだ。
彼が死へ旅立った時も、軽快に明るく疾走するヴォーカルと、ツボを押さえた素晴らしいバック・サウンドのレコードは、全米に流れていたのであった。

歌の内容は、アメリカ南部特有の言い回しがあってなかなか難しい。
“JAMBALAYA (ON THE BAYOU)”のBAYOUというのは「緩流河川」という訳語もあるが、河川が緩やかな流れになったり、湖沼が入江のようになったりしてできた沼沢地帯の総称で、ミシシッピー州やルイジアナ州あたりによく見られる地形だそうである。

基本的には、水辺(水郷)でジャンバラヤを食べて大騒ぎしよう、という歌なのである。
ジャンバラヤのほか、“Crawfish Pie”(ザリガニのパイ)とか“File' Gumbo”(オクラのシチュー)を食べるんだとか、軽快なテンポで歌われることが多いが、ほかにもルイジアナのローカルな地名が歌詞に出てくるので、これを聴くと都会に住むアメリカ人でも、さぞかし相当なエキゾチック気分を味わっただろうと想像してしまう(笑)。

 (Crawfish Pie/ザリガニのパイ)

 (File' Gumbo/オクラのシチュー)

だが、おそらく最も多くの日本人の耳に残っている“JAMBALAYA”といえば、カーペンターズのヴァージョンであろう。
やはりハンク同様、若くして亡くなったカレン・カーペンターの軽やかでキュートな歌声と、スチール・ギターなどのバックの音色が、絶妙の楽しさを醸し出している。
コーラスも見事だし、アメリカン・ポップスの最も良質なもののひとつではないかと思う。

 
(ナウ・アンド・ゼン/カーペンターズ)

そして、弱冠14歳のときに全米ネットのテレビ番組で、この歌をパンチの利いた個性的な歌唱で披露し、一躍人気者になったブレンダ・リーが速いテンポのロック・ビートで歌ったヴァージョンも忘れがたい。
余談だが、ブレンダといえば、初期の弘田三枝子は彼女の歌い方に似ていたし、後年の風貌は何だか畠山みどりを連想してしまう蚤助である…(笑)。

 (ブレンダ・リー)

さらに、ジョー・スタッフォード。
彼女が歌うと、カントリー・ソングも、そのカントリー風味が薄らいで、素敵なポピュラー・ソングに仕上がってしまう。
心が癒されるヴォーカルである。

 (ジョー・スタッフォード)

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「空気澄み水清くして人住まず」(蚤助)

#458: ジョニー・B・グッド

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大のジャズ・ファンで知られるクリント・イーストウッドが監督した映画『バード』(BIRD-1988)は、不世出のジャズ・ミュージシャンであった“バード”ことチャーリー・パーカーの生涯を余すところなく描いた作品である。

 
(映画『バード』)

映画の中で、フォレスト・ウイテカー扮するパーカーが、50年代に台頭してきたロックンロールをうんざりとした顔で聴きながら、そのあまりに単純な曲調に「奴らは何でみなBフラットなんだ」と吐き捨てる場面が出てくる。
天才的なアルト・サックス奏者で、モダン・ジャズのパイオニアであった彼にとって、ロックンロールの単純さは許せなかったのである。
高度な技法と音楽理論を追究し、ジャズをダンスの伴奏音楽から鑑賞に値する芸術の域に高めることに心血を注いだパーカーにとって、ロックンロールは音楽の退行であり破壊的な行為に思えたに違いないし、芸術性や創造性に背を向け、大衆に迎合する消耗品に見えたのだろう。

しかし、一方で、ロックンロールの単純さと簡潔さはティーンエイジャーを中心に支持を広げていった。
能天気で単純なメロディーに乗せて、簡潔に自分の気持ちを吐露するというスタイルは大衆から愛されていくようになった。

♪♪♪♪♪♪
1977年に打ち上げられた太陽系の外の惑星探査機ボイジャーの1号機と2号機は現在もなお稼動しており、1号機は2020年頃、2号機は2030年頃までは地球と交信できるそうだ。
地球との交信、すなわち電波が地球に到達するまでの時間は片道およそ半日以上かかるくらいの距離を現在も飛行中とのことなので、ボイジャーは地球から最も遠いところにある人工物ということになる。

 (ボイジャー1号)

このボイジャー探査機には地球や人類の情報を記録した金メッキの銅板レコードが積載されているのをご存じだろうか。
「地球の音」(The Sounds Of Earth)という地球外知的生命体へ向けたメッセージである。
世界55の言語での挨拶(日本語も含む)やバッハやベートーヴェンの音楽、ザトウクジラの鳴き声などの録音のほか、日本の尺八による邦楽演奏も収録されているそうだ。
そして、ロックンロールの代表曲として、チャック・ベリーの“JOHNNY B. GOODE”が収録されているのである。
別にチャーリー・パーカーの言を引用するまでもなく、“JOHNNY B. GOODE”も、他のロックンロール同様、実に単純な曲である。

 ♪ ルイジアナのずっと奥 ニューオーリンズの近く
   緑の森の道の行き止まり
   土と木で作った小屋が建っていた
   住んでいたのは田舎者の少年 その名もジョニー・B・グッド
   彼は読み書きをろくに学んだことはない
   でも 鳴り響くベルのようにギターを弾くことができた

   行け!行け! ジョニー! ゴー! ゴー!…

歌い出しの部分など、吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の世界と全く変わらない(笑)。
「ンダ、ンダ」と同意される人も多いんでねべが?。

しかし、スピード感のあるリズムとビート、陽気さ、簡潔さ、典型的なロックンロールのすべてが備わっている。
この曲が始まるとノリノリとなってその場がお祭り騒ぎになってしまう屈指のロックンロールのスタンダードであり、ベリーのレパートリーの中でも最も人気の高い曲といっていいだろう。

この歌の主人公ジョニーには様々な説があったようだが、後にベリー自身が書いた自叙伝の中で、「ジョニーは当時の僕のヒーローだったジョニー・ジョンソン、そして自分自身のことでもある」と述べている。
おそらくベリーは、自分を奮い立たせるような気持ちで曲を作ったのであろうと想像する。

♪♪♪♪♪♪
“JOHNNY B. GOODE”は、ロバート・ゼメキスの大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(BACK TO THE FUTURE-1985)に登場した。
1955年にタイムスリップした主人公の高校生マーティ(マイケル・J・フォックス)が、指を負傷したギタリストの代役でこの曲をステージで演奏する。
負傷したギタリストはチャック・ベリーの「いとこ」という設定であり、マーティの演奏中にベリーに電話をかけ、受話器を通じて演奏を聴かせる。
新しい音楽を探していたベリーは未来からやってきたマーティの演奏を聴いてこの曲を着想する、というタイム・パラドックスになっているのに感心したものだった。

 
(Marty Plays “Johnny B. Goode”)

なお、演奏中にマーティは興奮して、ベンチャーズ流のいわゆる「テケテケ奏法」や、ジミ・ヘンドリックスの背中で弾くパフォーマンスなど、55年以降に登場する演奏テクニックを披露してしまったため、困惑した観客に向かって「君らには早いが子供の世代には分かる」という何とも素晴らしいセリフを吐いている。
非常にうまく作られた頭の良い映画である(笑)。
封切り時に、今は無い新宿歌舞伎町の映画館で、あまりの面白さに、続けて3回も観てしまった思い出深い作品であった。

この曲が初めてではないが、チャック・ベリーの特徴的なギターのイントロやリフは、音楽史に残るアイデアであり、それが無かったならば、ロックの方向性はまた違ったものになっていたかもしれない。
以後に登場するロック・ミュージシャンはみんなチャック・ベリーの子孫たちと断言してもよいだろう。

今もなお飛行を続けるボイジャーに積まれた“JOHNNY B. GOODE”で、チャック・ベリーもバッハ、ベートーヴェンという地球を代表する音楽家“3B”の一人として、宇宙人に認知される日がいつか来るのかも知れない。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「夏休み終えて財布は冬休み」(蚤助)

#459: Cutie Pies(その1) 

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「歌は世につれ、世は歌につれ」などと言うが、なかなかの名言である。

歌手の特色も多分に世につれのところがあるが、蚤助がポップス少年だった50年代末〜60年代後半にかけては、自分の個性というよりもその時代や流行に合わせたキャラクターが主流だったように思う。
トップ・スターやヒット曲に、みんな右ならえしてしまうような傾向が強かったのではないだろうか。
アーティストの方にしても、現在のようにマルチ・タレント性が求められるわけではなく、ただ歌えればよかったことも、そういう傾向に拍車をかけていたところもあるだろう。

いずれにしても、洋の東西を問わず、柳の下のドジョウ狙いのスターやヒット曲作りが得意なポップス界、昔も今もあまり変わらない世界ではある。

♪♪♪
確か63年頃のジョニー・ティロットソンに“CUTIE PIE”というヒット・チューンがあったが、本稿のタイトル「CUTIE PIES」もズバリ「カワイコちゃん達」という意味である。
蚤助の記憶に今なお鮮明に残る「キューティ・パイ」を何人かとり上げてみたい。
彼女らはみんな甘く夢見る乙女心のような歌を聴かせてくれた。

♪♪♪♪
まず最初は「昔ケーシー、今キャシー」のケーシー(キャシー)・リンデン(KATHY LINDEN)。
1939年、アメリカはニュージャージー州出身、58年に19歳でのデビュー曲“BILLY”は全米7位の大ヒットとなった。
ちょうどティロットソンの“CUTIE PIE"が流行った63年に歌手生活をやめたようだが、およそ6年の間に、何枚かのヒット・シングルと、この時代のポップ・アイドルとしては珍しくもアルバムを1枚残しているようだ。

彼女のレパートリーは当時主流だったカントリー系のナンバーが多かったようだが、アイドル・シンガーとしては歌も上手い方で、基本的にはアメリカン・ポップスの王道を踏まえたものだった。
ところが、59年にリリースされたシングル盤『グッドバイ・ジミー・グッドバイ/悲しき16才』の彼女の歌声は、別人のように甘いロリータ・ヴォイスなのである。


(シングル盤の別ジャケット)

A面の“グッドバイ・ジミー・グッドバイ”は、全米ヒットチャートの11位を記録した。
「さよならジミー、また会いましょう、いつの日かわからないけれど…」と歌われるのだが、ジミー君にとってはあまり未来への希望がない内容である(笑)。
でも、ここでの彼女の歌声は少しハスキーで可憐なこともあって、リンデンちゃんに何を言われてもジミー君はあまり悪い気はしなかっただろう(笑)。
ただこのジミー君、諸国の旅に出かけるらしいのだが、特に兵隊に行くというわけでもなさそうなので、一体どういう男なのか皆目見当がつかない。
ジャック・ヴォーンという人が作ったちょっと不思議な内容の歌である。

♪♪♪♪♪
B面の“悲しき16才”(HEARTACHES AT SWEET SIXTEEN)は、日米ともに“グッドバイ〜”のB面で、しかも日本だけで売れ、アメリカ本国では全くヒットしなかった。
日本ではザ・ピーナッツがカバーしてヒットし、出場した紅白歌合戦でこの曲を披露している。

イントロや間奏部の「♪ヤヤヤーヤ、ヤヤヤヤ…」が印象的で人気を得た。
さらに特徴的なのが、伴奏に木琴(シロフォン、ザイロフォン)が使われていることだ。
出だしの一音「♪コォン〜」から始まり、やけに女々しい歌詞(当り前か!)と、それを強調するかのような少し舌足らずなヴォーカルにかぶさる木琴の軽やかな音色が素晴らしい。
これだけを聴くと、リンデンちゃん、いやガールズ・ポップの代表的な一曲と言いたくもなるが、前述の通り日本だけのヒットなのである。
ただし、これ以降「悲しき〜」という邦題が次々とつけられていくようになった。

ザ・ピーナッツは音羽たかしの日本語訳詞で歌ったが、オリジナルの歌詞の大意はこんな感じである。

 ♪ ひとりぼっちで座っている私 全くブルーだわ
   彼 新しい娘を見つけたりしないかしら
   どうか無視してくれますように
   16才の心の痛み(Heartaches At Sweet Sixteen)

   彼 学校で今日話しかけてこなかった
   そっぽを向いてばかり
   どうしたらよかったの なんて言ったらよかったの
   16才の心の痛み

   無理だわ 私
   ちっとも彼を振り向かせられない
   私 死にたくなっちゃうわ…

乙女チック過ぎて少し恥ずかしくなるが、なかなか良いではありませぬか(笑)。
蚤助は、リンデンちゃんの可憐な歌声にウットリとした口だが、発売された彼女のシングル盤のジャケットには彼女のポートレートは写ってなかったので、清楚な女学生風の女の子であろうとひそかに想像していた。
後年になって、想像していたよりも大人びた女性で、さらにはレコーディング当時(20歳)すでに一児の母親だったと知った時は心底驚いたものである。



歌はアッパレなほどのカマトト、女はバケモノ、女は恐ろしいと純情少年の心の中にしっかりと刻みつけられた瞬間であった(笑)。 

それにしても、アメリカのSIXTEEN(16才)の女の子というのは、なにか特別な年齢、特別な存在なのだろうか。
二ール・セダカ“HAPPY BIRTHDAY SWEET SIXTEEN”、ジョニー・バーネット“YOU'RE SIXTEEN”、チャック・ベリー“SWEET LITTLE SIXTEEN”、ザ・クレスツ“SIXTEEN CANDLES”、サム・クック“ONLY SIXTEEN”、など16才を歌った作品は山ほどあり、ポップス少年がすっかりおじさんになってしまった今でも謎である。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「初恋の行きつ戻りつする心」(蚤助)

#460: Cutie Pies(その2)

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「♪急いで急いで急いで汽車ポッポ…」と歌ったのは森山加代子だったが、21世紀の現在では汽車ポッポの歌というのは生まれにくい状況にあるし、今後もきっとないだろう(笑)。
曲のタイトルは『恋の汽車ポッポ』(Train Of Love)。




この歌は、60年、ポール・アンカが当時ガールフレンドだったアネットにプレゼントした曲である。
アネットはディズニーの秘蔵っ子だったカワイコちゃんで、もちろん本人が歌ったのだが、当時日本ではアネットのレコードを発売する契約会社がなかったこともあり、英国のアルマ・コーガンの歌がヒットした。
日本語バージョンでは、森山加代子のほか、かまやつひろし、目方誠などのシングル盤が出ていたと思う。

♪♪
アネット・ファニセロ(Annette Funicello)は、イタリア系移民の長女として、1942年ニューヨークで生まれた。
一家はやがて西海岸に移り住み、ダンス好きの少女として育った。
55年13歳のときに学校行事でダンスを披露したところ、たまたま見に来ていたウォルト・ディズニーの目にとまった。
ちょうどABCテレビでスタートした番組『ミッキー・マウス・クラブ』のダンス&コーラス・チーム「Mouseeteers」のオリジナル・メンバーとしてアネットという名前で活動し始めると、たちまち一番の人気を集めるようになった。
現代の日本の芸能界でいえば、AKB48の総選挙で一位に選ばれたというところだろうか(笑)。

♪♪♪
彼女のソロとしてのデビュー曲は、57年ワルツ調の“HOW WILL I KNOW MY LOVE”(恋人なんてわからない)で、『ミッキー・マウス・クラブ』の中で初めてソロで歌った曲だった。
このデビュー曲はあまり話題にならず不発だったが、ディズニー・プロはアネットをポップ・アイドル歌手として売り出すことに本腰を入れ始める。

今春惜しくも兄のロバートの方は亡くなったが、ロバートとリチャードのシャーマン兄弟は、ディズニーの映画やテーマ・パークの音楽のソングライター・チームとして有名である。
このシャーマン兄弟が彼女のために“TALL PAUL”という曲を提供し、これが大ヒットする。
タイトルにポールとあるが、後に仲良くなるポール・アンカとは無関係で全く偶然だったようだ。
このときアネットは17歳で、一躍アメリカのティーンアイドルになった。

そして、ポール・アンカ(Paul Anka)の登場である。
二人は映画で共演しそれを機にロマンスの噂が急速に広まっていったというが、このあたりは現在の芸能ジャーナリズムとまったく変わらない(笑)。
ともあれ、二人の仲が話題となっていた中、アネットはポール・アンカの作品だけを収録したアルバムをリリースし、これに収録されていたのが“TRAIN OF LOVE”というわけであった。

♪♪♪♪
エクボのかわいい田代みどりが、61年に漣健児の日本語訳詞でカバーしてヒットさせたのが“パイナップル・プリンセス”(PINEAPPLE PRINCESS)である。
昨今は懐メロ番組などに出演しているようで、つい最近テレビで見かけたら、現在もなおエクボが昔のままだったのが嬉しかった(笑)。
もちろん、“パイナップル・プリンセス”を歌っていた。
そういえば、この歌、松島トモ子もレパートリーにしていた記憶がある。



この曲もやはりシャーマン兄弟の作で、アネットの本邦デビュー盤として発売された。
明るく楽しい歌で、舞台はワイキキ、ウクレレやスティール・ギターが重要な役割を果たしていた。
まだまだ日本人がそう簡単にハワイに行けるような時代ではなかったが、幼心にも未知の南国の島の風景が見えるような気がしたものである。

 ♪ パイナップル・プリンセス 彼はいつも私をそう呼ぶの
   丘の上でウクレレを弾きながら
   パイナップル・プリンセス 大好きさ
   いつか結婚して 僕のパイナップル・クイーンになるんだよ…

プリンセス(王女)とクイーン(女王)を使い分けていることを知って、さすがと感心した思い出があるが、考えてみれば英語が日常語の世界なのだから当たり前のハナシだった(笑)。

歌は「オアフ島の少年がワニに乗って入江からやってきたとき、知ったの、彼と結ばれるんだってこと。彼はバナナの木の上や水上スキーをしながら、青い海の中でも歌うのよ、ウクレレを弾きながら…」などと続く。
海にワニ(?)とか、素潜りをしながらウクレレを弾く(?)とか、疑問符がいっぱいつきそうな歌なのだが、軽いハワイアン・ビートに乗った健康的で可愛い歌声を聴くと、大らかな別世界に連れ出されるような気がしたものだった(笑)。  

♪♪♪♪♪
彼女は、63年頃からは、折からのサーフィン・ブームを受けて、フランキー・アヴァロンなどと「ビーチ物」(Beach Party Film)に主演するようになる。
若者の恋愛騒動に、歌あり、水着姿ありのディズニーお得意の夏向け娯楽映画で、スティーヴィー・ワンダーやビーチ・ボーイズがパーティ場面に登場したりするので、ポップス・ファンにとっては無視できないシリーズであった。

ほかには、多分、まだ本格的なビキニスタイルではなくセパレート水着姿のアネットのおへそを見たい若者が大勢いたのであろう。
ただし、彼らはアネットのおへそだけでドキドキしてしまう純情な若者たちだった(笑)。

(THE BEST OF ANNETTE)

アネットの歌手活動は、55年から65年のほぼ10年間だが、それらは上記CDにほぼ網羅されている。

彼女は60年代の半ばに結婚、育児のために引退した。
80年代にカントリーのアルバムを出したり、映画に出演したりしたこともあるようだが、その後「多発性硬化症」という難病に冒されて闘病中ときく。
健康問題は気の毒だが、明るくかわいいおばあちゃんになっていてほしいと思うのである。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「健康に良いものばかり摂って肥え」(蚤助)

#461: Cutie Pies(その3)

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“You're not a kid anymore”(もうキミは子供じゃないよ)という男声のバックコーラスにそそのかされて、若い女の子が“I want to be Bobby's girl”(アタシ、ボビーの彼女になりたいの)などと思いのたけを告白してしまう歌があった(笑)。
タイトルは“BOBBY'S GIRL”、歌ったのはマーシー・ブレーン(MARCIE BLANE)。

『ボビーに首ったけ』というとてもうまい邦題がつけられたこともあって、日本では伊東ゆかり姉さんの歌が、マーシー・ブレーンのオリジナル盤と並んで大ヒットした。
アメリカでは62年にヒットチャートの第3位まで上昇している。


マーシー・ブレーンは、1944年、ニューヨークのブルックリン生まれで、この曲が流行った当時は、芳紀18歳の現役女子大生であった。
この頃十代の女性歌手が大流行で、次から次へとアイドル歌手が登場したのだが、彼女はその代表選手の一人である。

♪♪
“BOBBY'S GIRL”は、イントロの男声コーラスの後、彼女の「語り」が入る。

 ♪ When people ask of me
   What would you like to be
   Now that you're not a a kid anymore…

この語りが、アメリカの女の子を強く感じさせ、日本の当時の十代のポップス少年たちにはとても魅力的に思えたものである。
少し強調されたエレキベースの音と、彼女の語りがこの曲の成功だったといえるかもしれない。

ヘンリー(ハンク)・ホフマンとゲイリー・クラインのコンビが作った曲で、歌の内容はこんな風である。

 ♪ 言うべきことはわかってる すぐ答えられるわ
   たったひとつ ずっと望んでいたの
   ボビーの彼女になりたい
   ボビーの彼女になりたいって…
   それがアタシにとって 一番大事なことなの…

女の子が切ない想いを告白するのである。
もう忘却の彼方だが、これが恋心というものだったか(笑)。
「毎晩家にいて、ボビーから電話がないかと思っているけど、ボビーには別の彼女がいる」と涙ぐんでいる。
そして、ボビーがきっと私のものになる日がくることを祈る、と心に決めているのである。

そんな彼女の想いを一身に集めているボビー君とはどういう奴かわからないのだが、ちょっとカッコ良い秀才か、もしくはスポーツの得意な人気者なのであろう。
あるいは両方兼ね備えた「憎いあんちくしょう」かもしれない。

この歌の主人公は、アメリカの女の子にしては、とてもシャイで控えめ、おとなしいので、絶滅危惧種に指定しておきたいような女学生である。
まあしかし、これもおそらくカマトトだろうから、そう簡単に女性を信じてはいけない、諸君(笑)。

マーシー・ブレーンはこのほかマイナー・ヒットを出した後、65年頃には芸能界から消えていった。

♪♪♪
余談だが、彼女のポートレイトは、これまでシングル・ジャケットの写真がほとんど唯一のもので、どれも同一のショットが使われているようだ。
気の毒なことに、彼女があまり可愛く写っている写真は見たことがない。



    
失礼ながら、このポートレイトを見ると、ちょっとエジプトのスフィンクスを連想してしまい困惑させられる。

いつだったか、アメリカのテレビ番組で歌うマーシー・ブレーンの古い動画を見た人が、マーシー・ブレーンはブスだった、と何かにはっきり書いていたのを読んで、「エッ、まさか、やっぱり」と思った記憶がある(笑)。

♪♪♪♪
現在入手できる彼女のアルバムはこれ1枚であろう。
このアルバムでは“BOBBY'S GIRL”ではないが、ドイツ語で歌ったものも収録されていて、なかなか興味深い。
あのビートルズだって、ドイツ語で歌ったナンバーを録音していた時期があったもんね(笑)。



♪♪♪♪♪
なお、このアルバムジャケットの彼女のポートレイトでは、特段の美人ではないが、ごく普通の女の子で、ブスというのはあんまりだ、と言っておきたい。
蚤助にとっては、誰がどう言おうとマーシー・ブレーンはCUTIE PIE(カワイコちゃん)なのであった(笑)。

♪♪♪♪♪♪
本日の一句
「好きな子の前では空気薄くなる」(蚤助)

#462: Cutie Pies(その4)

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今回はリンダ・スコット嬢の登場である。

カワイコちゃん歌手は大勢いたわけだが、男性オールディーズ・ファンには、今でもアネットと並んで根強い人気がある。

リンダ・スコットが他の歌手と決定的に違ったのは、“DON'T BET MONEY HONEY”(賭けごとはおよし)や“YESSIREE”(イエスサリー)など自ら曲も書いてヒットさせてしまったという点であろう。
ソングライターとしての才能も発揮した彼女は、実はどこにもいるようで意外にいなかったアイドルであった。


リンダちゃんは、1945年ニューヨーク、クイーンズ生まれ、8歳のときに全米のアマチュアコンテストで優勝をしたほどなので、歌の才能に恵まれていたのは間違いない。
ハイスクール時代にステージで歌う彼女を見たレコード会社の幹部が気に入って、デビューにつなげてしまったという。

デビュー曲は1961年の“I'VE TOLD EVERY LITTLE STAR”(星に語れば)で、あれよあれよと言う間に全米3位の大ヒットとなってしまう。
16歳の高校生スターの誕生である。

♪ ♪
実はこの曲は彼女のために作られたものではなく、1932年の古いミュージカル『MUSIC IN THE AIR』で使われたジェローム・カーン(曲)、オスカー・ハマースタイン二世(詞)という巨匠コンビによるスタンダード・ナンバーであった。

 ♪ お星さまのひとつひとつに語りかけた
   あなたをどれだけ思っているか
   
   小川にまで語りかけた
   思いのたけをあけすけに

   「恋をしてるの?」と友が言う
   「イエス」と答える私
   認めちゃったらいいのに
   答えがイエスなら…

こんな内容の歌で『小星に語らん』という邦題もある。

それまでの音楽の主流からすると、歌の作り手と歌い手とは明確に分かれていたのだが、この頃からポール・アンカ、二ール・セダカをはじめ、リンダ・スコットのように自分で歌を作り自作曲を歌う人が出始めてくるのである。



♪ ♪ ♪
新人歌手の将来なんて誰にもわからないが、運よくビッグ・ヒットが生まれると、とりあえずはアルバムが欲しくなる。
しかし、アルバムを一枚を埋めるだけのオリジナル曲がない場合が通常である。
そこで登場するのがスタンダード・ナンバーである。
これをアレンジャーの才能に任せて、ポップな中にも新人のオリジナリティを出させながら歌わせるのである。
したがって、新人のほとんどは、スタンダード曲を歌わされることになる。

リンダちゃんの場合、デビュー曲がたまたまスタンダード・ナンバーであったというわけである。
このスタンダード曲を、彼女は“♪タン・タ・ラン…”と可愛い声で実に楽しげに歌っているのだが、彼女のヴォーカルについては、ジャズ批評誌の「女性ヴォーカル」にも登場するほどで、本格的なヴォーカル・ファンにも決して無視できない魅力を持っている。

なお、彼女の“I'VE TOLD EVERY LITTLE STAR”は、カンヌ映画祭でデヴィッド・リンチが監督賞を受けたミステリアスな映画『マルホランド・ドライヴ』(MULHOLLAND DR.‐2001)のサウンドトラックに実に印象的な使われ方をしている。

♪ ♪ ♪ ♪
彼女の日本でのデビューは、本国アメリカでのデビューからほぼ1年後の62年のことであったが、実は通常のレコードではなく、ソノシートでリリースされた。

ソノシートというのは朝日ソノラマ社の登録商標で、他社はフォノシートといっていたようだ。
写真のフィルムのようにペラペラした盤にポートレイトなどが印刷されていて、いわゆるピクチャー・レコードとしても楽しめるようになっていた。
リンダちゃんのソノシートはヤマハがキング・レコードを通じて販売していという。



♪ ♪ ♪ ♪ ♪
彼女の初アルバムは、デビュー曲の“I'VE TOLD EVERY LITTLE STAR”にちなんだのだろうか、星に関する曲ばかり集めたもので、それに初期のヒット曲、入手困難曲、珍しいクリスマス・ソングなどを加えたコンピレーション・アルバムがこのCDである。



“COUNT EVERY STAR”(星を数えて)、“A THOUSAND STARS”(お星さまがいっぱい)、“STARS FELL ON ALABAMA”(星降るアラバマ)、“WHEN YOU WISH UPON A STAR”(星に願いを)のほか、べンチャーズやシャドウズなどエレキギター・バンドのインスト曲として知られる“BLUE STAR”(ブルー・スター)や、ホーギー・カーマイケルの大スタンダード“STARDUST”(スターダスト)は聴きものである。
特に“STARDUST”はヴァ―スから歌っていて、コーラスに入る“♪Sometimes I Wonder...”と歌う声は可憐そのもので愛おしさが募るばかりである(笑)。

残念なことに彼女のヒットは1964年を持って途絶えてしまい、ガール・ポップの人気アイドルから、文字通り「スターダスト」(星屑)の一人となってしまう。
それというのも、この年ビートルズがアメリカに登場し、ポップ・シーンが大きく変貌していくのである。
彼女はこの新しい時代の波に乗れなかったのだった。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「電灯はオフに星空オンにする」(蚤助)
   

#463: Cutie Pies(その5)

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ケーシー(キャシー)・リンデン、アネット、マーシー・ブレーン、リンダ・スコットとこれまで綴ってきた『Cutie Pies』4人は、いずれもブルネットであったが、今回初めてブロンド娘の登場である。


ダイアン・リネイ(DIANE RENAY)は、1946年フィラデルフィア生まれで、小さい時分から芸能界を目指して、演技や歌、ダンスのレッスンに明け暮れていたらしい。
自分の歌のデモ・テープを制作してレコード会社への売り込みを図ったり、学生時代には美人コンテストで優勝したり、いずれにしても芸能活動には積極的だったようだ。

♪ ♪
1962年、16歳のとき、めでたくレコード会社と契約することができ、デビュー曲“LITTLE WHITE LIES”をリリースする。

64年には、有名な作曲家、プロデューサーのボブ・クリュー(BOB CREWE)と出会い、彼の曲“NAVY BLUE”(ネイビー・ブルー)を発表した。
作詞はエディ・ランボーとバド・レハク、レコードのプロデュースもクリューが担当した。

この曲、アメリカではチャートの6位まで上昇、日本では伊東ゆかり、九重祐三子、パラダイスキングらが競作し、日米両国にまたがる大ヒットとなり、ダイアン・リネイの代表的ナンバーとなった。

 (ダイアン・リネイ)

 (伊東ゆかり)

♪ ♪ ♪
ネイビー・ブルーというのは米国海軍の制服の色だが、この曲では直接その色について歌っているわけではない。

 ♪ ブルー、ネイビー・ブルー
   私は目いっぱいブルーなの
   だって私のステディが「船に乗るぜ」(Ship ahoy)って
   海軍(ネイビー)に入っちゃったんだもの

   彼は落ち着いたら 私を彼女にしてくれると言ったのに
   世界中を旅して回らきゃならなくなったの

   昨日、東京から手紙と土産が届いたの
   ゼンマイ式のおしゃべり人形
   「一緒にいてくれたらいいのになあ」って言うの

   ブルー、ネイビー・ブルー
   私は目いっぱいブルーなの
   だって私のステディが「船に乗るぜ」(Ship ahoy)って
   海軍(ネイビー)に入っちゃったんだもの…

ブルーなのは、どうやらステディの彼を待つダイアンの心模様らしい(笑)。
ステディの方は、彼女のそんな心を知ってか知らずか、世界中を巡れると嬉々としているようだ。
こんな風にちょっぴりおセンチな歌なのだが、この18歳のブロンド娘ダイアンは、ウキウキするようなリズムとメロディの楽しい伴奏に乗せて一生懸命歌っていた。

♪ ♪ ♪ ♪
このヒットの後、同年“KISS ME SAILOR”(キス・ミー・セイラー)、“GROWN' UP TOO FAST”(おませな水兵さん)などの「水兵もの」をリリースした彼女は、海兵隊のようなコスチュームと錨のマークを好んで使用し、これがダイアンのそれからのイメージを決定づけてしまった。



♪ ♪ ♪ ♪ ♪
“NAVY BLUE”がヒットしていた64年に、ダイアンの日本ツアーが企画されたことがあったが、実現しなかったという。
理由は、彼女が飛行機で太平洋を渡るのが嫌だったからだそうである。
どうせなら「船に乗るぜ」とか言って、船(特にネイビーの軍艦)を使えばよかったのに…(笑)。

いずれにしても、他のアイドル歌手と同様、ダイアンの時代も長くは続かなかった。
直接的にはこれといったヒットも出なくなったのが原因ではあるが、そもそもオールディーズとか、アメリカン・ポップスと言われるものが、ロック・ミュージックの台頭、音楽の主流となっていくのと反比例するように、徐々に衰退していくのであった。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「制服にトップが趣味を入れたがる」(蚤助)


#464: ネバダ・スミス

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スティーヴ・マックイーン(1930-1980)は60年代の初めから『荒野の七人』(THE MAGNIFICENT SEVEN - 60)、『大脱走』(THE GREAT ESCAPE - 62)などの話題作に次々と出演し、大スターへの道を歩み始めた。

その彼が『華麗なる賭け』(THE THOMAS CROWN AFFAIR - 68)の撮影の前に、一本の西部劇に出演した。
『ネバダ・スミス』(NEVADA SMITH - 66)である。
この年、ロバート・ワイズの大作『砲艦サンパブロ』(THE SAND PEBBLES)にも出演し、オスカー候補となっていて、彼の俳優キャリアの中でも重要な年であった。

マックイーンは、『大脱走』にしても『パピヨン』(PAPILLON - 73)にしても、脱走や脱獄を繰り返す不屈の男を演じることが多かったが、『ネバダ・スミス』でも同じような役柄だった。


19世紀末、ゴールド・ラッシュに湧くアメリカ。
白人の父とネイティブ・アメリカンの母を持つ16歳のマックス・サンド(スティーヴ・マックイーン)は、父の友人を名乗る3人組の男たちに両親を惨殺されてしまう。
彼らは父の金が目当てだった。

怒りに燃えるマックスは復讐の旅に出るが、道中、自らの未熟さから荒野をほとんど飲まず食わずで放浪する破目に陥った挙句、銃器商人であるジョナス・コード(ブライアン・キース)に拾われ、射撃を教えてもらうのだった。


(左:ブライアン・キース/右:スティーヴ・マックイーン)

さらにジョナス・コードから、ガンマンとして生き抜くための基本的な手ほどきを受け、ナイフ使いのジェシー(マーティン・ランドー)、監獄に収監中のボウドリー(アーサー・ケネディ)、そして金塊強盗の首領フィッチ(カール・マルデン)という両親の仇3人組の姿を追い続け、順次彼らに迫っていく…

♪ ♪
何といっても、当時36歳だったマックイーンが16歳の少年を演じるのは相当無理がある(笑)。

だが、そこはかとないユーモアを漂わせた表現力、俊敏なアクションで、ドラマが進行するにつれて当初感じた違和感が次第に薄れ、脇を固める多くの名優達を相手に逞しく成長していく若者の姿を見事に演じている。



時として、中途半端な演出に堕してしまうことがあるヘンリー・ハサウェイは、ここではシャープで軽快な演出ぶりを見せて面白い作品に仕上げている。

冒頭で、両親が惨殺される場面は、現在の映画ならばおそらくリアルな残酷シーンとして描くところであろうが、マックイーンが暗い家の奥に消えていくショットをうまく処理することによって、その悲惨さと悲しみを表現している。
より強い刺激を求める現代の観客には物足りない表現かもしれないが、ハサウェイの演出家としてのセンスと才能の片鱗を垣間見た気がする。

すべてを見せずに観客の想像力に訴える演出というわけだが、マックイーンが失意のうちに両親の遺体ともども家を焼き払うシーンは、ジョン・フォードの傑作西部劇『捜索者』(THE SEARCHERS - 56)を連想させる。
このあたりは、ハサウェイのフォードに対するオマージュかもしれない。

♪ ♪ ♪
主人公の混血児マックス・サンドことネバダ・スミスはハロルド・ロビンスの大ベストセラー小説『大いなる野望』(THE CARPETBAGGERS)における魅力的な脇役であるが、これをヒッチコックに高く評価されたシナリオライターのジョン・マイケル・ヘイズが脚色した。

この小説は、64年にエドワード・ドミトリクが映画化をしたが、主人公を演じたのがジョージ・ペパードで、役名はジョナス・コード・ジュニアだった。
つまり、ネバダ・スミスに拳銃の手ほどきをしたジョナス・コードの息子である。
『大いなる野望』での脇役ネバダ・スミスがあまりに魅力的な人物に描かれていたために、その人物が主人公に仕立て上げられることになったというわけである。
今風にいえば『大いなる野望』のスピンオフ作品ということになろうか(笑)。

そちらで、ネバダ・スミスを演じたのはアラン・ラッドで、彼の遺作となった。
彼のキャリアの中でも「シェーン」と並んでベスト・アクティングと評価される名演であった。

『ネバダ・スミス』は後に作られた物語の方が時代が古いという珍しいケースでもあった。

♪ ♪ ♪ ♪
マックイーンがブライアン・キースに拳銃を習う時、こんなやりとりがある。

 「俺は走ってるウサギをライフルで撃てる」
 「ウサギは撃ち返してこない。それに狭い酒場じゃライフルは不利だ」
 「酒場には近づかない」
 「仇は学校の先生じゃないんだろ。教会の前で待ってても見つからんぞ」



単なる復讐劇にとどまらず、世間知らずの少年が彼を気遣ういろいろな人たちと出会いながらも、結局は自らお尋ね者になってしまい、最後には復讐や殺人の虚しさを悟るという、人間の成長ドラマとして仕立てられている。
封切時、ただマックイーンの格好良さを面白がって観ていた作品だが、あれから半世紀近く経過した現在の目で観ると意外なほど渋くほろ苦い後味であった。
もちろん嫌いな味ではない。

この作品、決してオールスター・キャストというわけではないが、共演者がそろって演技派で固められているのに改めて驚いた。

スミスの後見人夫妻のジョン・ドーセットとジョセフィン・ハッチンソン、銃と人生の生き方を教えるブライアン・キース、悪役としての登場は珍しいカール・マルデン、脱獄に協力したものの毒ヘビに咬まれ裏切られたと思いながら死んでいくスザンヌ・プレシェット、スミスが入獄してまで復讐を果たそうとする仇アーサー・ケネディ、スミスを改心させようと努力する神父ラフ・ヴァローネ、残忍なナイフの殺し屋マーティン・ランドー、スミスを一度は捕縛した保安官ポール・フィックス、模範囚パット・ヒングル、刑務所長ハワード・ダ・シルヴァ、傷ついたスミスを介抱する先住民の娘ジャネット・マーゴリンなど、キャスティングが見事である。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
面白いのはこの当時はこんなすばらしいキャラクターが生み出されても単純にシリーズ化しなかったことだろう。

映画のアイデアがほとんど枯渇しかかっている最近のハリウッドならば、さしずめ「続・ネバダ・スミス」「新・ネバダ・スミス」「ネバダ・スミス・パート4」「ネバダ・スミス都会へ行く」てな具合になったに違いない(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「エンドマーク出たら現実待っている」(蚤助)

#465: 月蒼くして

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1950年代はウイリアム・ホールデン(1918‐1981)にとって、ハリウッドの頂点を極めた時期だった。

出演した『サンセット大通り』(Sunset Boulevard/50)、『第十七捕虜収容所』(Stalag 17/53)、『麗しのサブリナ』(Sabrina/54)、『喝采』(The Country Girl/54)、『ピクニック』(Picnic/55)、『慕情』(Love Is A Many-Splendored Thing/55)、『戦場にかける橋』(The Bridge On The River Kwai/57)など、ざっと挙げただけでも映画史を彩る素晴らしい作品ばかりである。

この時代の彼は30代の働き盛りだった。
『サンセット大通り』から『麗しのサブリナ』まで、ビリー・ワイルダーの作品だが、50年の『サンセット…』でオスカーにノミネートされ、53年の『第十七…』でオスカーを授与されている。

彼はオスカー俳優となった年、『第十七…』で共演したオットー・プレミンジャーの作品に出演した。


プレミンジャーといえば、比較的シリアスな作品が多い監督(兼役者)だが、意外にも『月蒼くして』(The Moon Is Blue)という、まるでスタンダード・ナンバーにありそうなロマンティックなタイトルのシチュエーション・コメディである。

もともと、F・ヒュー・ハーバートの舞台劇の映画化で、51年にブロードウェイで初演、舞台の演出もプレミンジャーだったそうだ。
ある若手の建築家が、風変わりな駆け出しの女優に惹かれてしまい、婚約を解消したばかりの元フィアンセやその父親までも巻き込んだ、一夜の騒動を描いている。

♪ ♪
エンパイア・ステート・ビルにオフィスを持つ新進建築家ウイリアム・ホールデンは、ロビーで風変わりな女性マギー・マクナマラを見かけ、興味を持ったので展望台まで追いかけて行って声をかける。
あの手この手で口説こうとするのだが、マクナマラの言動が少し風変わりなので、結局「口説かない」という条件で、自分のアパートに連れて行く。
二人は、ホールデンと婚約を解消したばかりのドーン・アダムスと出くわし、その後、彼女の父親でプレイボーイ紳士のデヴィッド・ニーヴンも現れる。
そして、ニーヴンまでも、奔放で愛嬌のあるマクナマラに惹かれてしまう…

 (左:マギー・マクナマラ、右:ウイリアム・ホールデン)

♪ ♪ ♪
マギー・マクナマラは舞台でも同じ役を演じ(初演はバーバラ・ベル・ゲデス、ロングランの途中からマクナマラと交代)、この作品が映画デビューであった。
ちょっとジーン・シモンズとデビー・レイノルズを足して2で割ったような雰囲気で、本作でアカデミー賞にノミネートされたが、この年には、同じ新人で『ローマの休日』(Roman Holiday)のアン王女(オードリー・へプバーン)という大本命がいたからね、残念…(笑)。

とはいえ、本作でのマクナマラは実にチャーミングで、すれっからしなのか純真なのかよく分らない娘をあっけらかんと演じている。
彼女の出演映画はとても少なくて、知る限りジーン・ネグレスコの『愛の泉』(Three Coins In The Fountain/54)に出ていたのを知っているくらいである。
惜しむらくは、78年、睡眠薬の過剰摂取により49歳の若さで亡くなった。

この作品での収穫はもうひとつ。
ホールデンの元カノのオヤジを演じたデヴィッド・ニーヴンである。
戦前からハリウッドで活躍し、従軍した後、映画界に復帰していたが、彼らしい少しスケベでお茶目な紳士ぶりをいかんなく発揮して、絶頂期のホールデンを食うほどの芝居を見せている。


(左からデヴィッド・ニーヴン、マギー・マクナマラ、ウイリアム・ホールデン)

♪ ♪ ♪ ♪
だが何よりも、この作品について特筆されるべきなのは、セックスに関するセリフが多い原作の舞台が物議を呼んだこと、それを映画化することでさらに大きな批判があったことである。
もっともプレミンジャーという監督は、タブーを犯すことが大好きだったらしく、例えば『黄金の腕』(The Man With The Golden Arm/55)では、それまで避けられていた麻薬中毒を正面から描いて、識者から誹謗されたり、逆にその勇気を讃えられたりしている(笑)。

いずれにしても、この作品、登場人物が少ない割には入れ替わり立ち替わり人物が出たり入ったり、何かと忙しいロマンスの行方を、プレミンジャーが無駄のない軽快なテンポのよい演出で一気に見せてしまう(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
もともとセリフの面白さで持っているコメディなので、キワドイけれども面白いセリフが次々と紡ぎだされるのだが、特に印象に残る会話がある。
舞台でも山場となった場面らしいが、マクナマラがホールデンに尋ねる。

 「プロの処女って言われたけど、どういう意味なの? 処女っていけないの?」
 「処女といわれて怒る人はいないだろう」
 「プロというのが気に入らないのよ」
 「宣伝してるみたいだからさ」
 「宣伝はだめなの?」
 「売るためだからさ」

この会話の面白さがわかるかな?

セックス関連のセリフが一度も出てこない作品を探すのが難しい現在のアメリカ映画を観ていると、この程度のセリフが物議を醸し出す時代というのは一体何なんだと思えてしまうが、同じ年に製作されたフレッド・ジンネマンの『地上より永遠に』(From Here To Eternity/53)における、例のバート・ランカスターとデボラ・カーによる波打ち際のラブシーンが大胆すぎると見なされたことを思い起こせば宜なるかなという気もする。

結局、ホールデン、マクナマラ、ニーヴン、アダムスのほかには、マクナマラの父親で警官のトム・テューリー、タクシー運転手のグレゴリー・ラトフなど、セリフのある人物はあまり登場せず、極端に経済的なラブ・コメディである(笑)。
なお、ラストシーン、エンパイア・ステート・ビルで観光客カップルで登場する男は若きハーディ・クリューガーであった。
彼には一言セリフがある。
すぐに彼だと分かった人は、かなりの映画通であることを請け合う(笑)。

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本日の一句
「人生の節目にきっとカネか恋」(蚤助)

#466: 名花ディートリッヒ

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だいぶ昔の人で恐縮だが、マレーネ・ディートリッヒ(1901−1992)は、グレタ・ガルボや原節子のように伝説のベールの奥に隠れたりせず、生身のまま、亡くなるまで現役のエンターテイナーとして生きた人であった。


名匠ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督は、ドイツで『嘆きの天使』(Der Blau Engel‐1930)を撮って、ディートリッヒとの最初のヒットを飛ばした。
そして、彼の後を追ってアメリカに渡ってきたディートリッヒをゲイリー・クーパーと組ませて作った『モロッコ』(Morocco‐1930)で世界中の若者の心を奪った。
当時の映画ファンで『モロッコ』を一回しか見なかったという人は珍しいと言われた。
灼熱の悲恋を砂漠の果てに展開し、とりわけディートリッヒが鮮烈な魅力を放ったのである。

さらにスタンバーグとディートリッヒの名コンビは、『間諜X27』(Dishonored‐1931)、『ブロンド・ヴィナス』(Blonde Venus‐1932)、『上海特急』(Shanghai Express‐1932)、『恋のページェント』(The Scarlet Empress‐1934)と立て続けに大ヒット作を発表する。

♪ ♪
スタンバーグはディートリッヒに対する称賛と情熱を何のためらいもなく映像化することができた幸せな男だったのではないかと思う。
もっとも、実生活においては、スタンバーグ夫人から訴訟を起こされて、この二人は別離という結果に終わってしまうのだが…

特に『間諜X27』では、スタンバーグは前作『モロッコ』よりもさらにディートリッヒの魅力を全面に押し出すことに腐心したようだ。

かつて映画評論家の黒田邦雄氏が「スタンバーグはディートリッヒをまるで誇り高き軍人のように演出し、ある意味で軍人の持つエロティシズムを彼女の肉体を通じて描いたような危なくも美しい傑作」と評したように、ディートリッヒという女優の魅力を最大限に生かしたサスペンス風メロドラマである。

♪ ♪ ♪
“間諜”というのは古めかしい言葉だが、スパイのことであり、“X27”というコードネームをつけられた女スパイの数奇な運命を描いている。

戦死した軍人の未亡人ディートリッヒは、今はウィーンの街で夜の女となっている。
それがオーストリアの秘密情報局長(グスタフ・フォン・セイファーティッツ)の目にとまり、スパイとしてスカウトされる。
彼女はその美貌と知性を武器に次々と任務を成功させていくが、ロシア側のスパイである将校(ヴィクター・マクラグレン)との偽りの恋が、本物の恋に変わった時、彼女を待ち受けていたのは銃殺という運命であった…

スタンバーグの原案を元にダニエル・H・ルービンが脚本を書いているが、実在の女スパイ、マタハリをモデルにしているのは明白である。

♪ ♪ ♪ ♪
雨のウィーンでディートリッヒがそのストッキングのゆるみを直すところから映画が始まる。
スタンバーグは美脚など彼女のセックス・アピールを献身的なほど強調していることが観客にもわかる(笑)。

自殺した一人の娼婦が運び出されていく中で、ディートリッヒが低音で吐き捨てるように毒づく。

 「なにさ、あたしは生きることも死ぬことも怖くはないわ」

この退廃的な一言が、秘密情報局長の興味を惹いて、女スパイX27誕生のきっかけとなる。


(ディートリッヒとグスタフ・フォン・セイファーティッツ)

そして、音楽の都ウィーンを主な舞台にしているだけあって、音楽の使い方にも工夫がこらされている。
舞踏会のシーンに流れるのはウィンナ・ワルツであるのは当然だが、ディートリッヒのピアノの愛奏曲が“ダニューブ河の漣”で、オーストリアの山河を流れる美しいダニューブ河が、彼女の祖国への限りない愛情のシンボルになっている。
このあたりは、スタンバーグのロマンティシズムが溢れていて香気豊かである。

また、ロシア側から得た機密情報の暗号は楽譜に音符として記すというアイデアも披露される。

時を経て、X27は貧しいメイド姿で、ロシアの前線司令部に潜入するのだが、このメイドがディートリッヒであることがわからないほどの変装ぶりを見せる。
後年の『情婦』でも見事な変装を見せるが、それまでの登場シーンとは全く異なり、髪の毛を編んでおでこを極端に出し、メイドの服にエプロンを付けて洗濯籠を抱える田舎娘のディートリッヒは、まるで別人であり、観客の目も欺いてしまうのだ。

X27がもたらした情報で、ロシア側のマクラグレンも捕えられるが、彼女は彼を逃亡させてやる。


(ディートリッヒとヴィクター・マクラグレン)

そして彼女は軍事裁判にかけられることになる…

 「判決の前に言いたいことがあれば聴こう」
 「何もないわ」
 「なぜ敵の重要人物を逃がしたのか」
 「たぶん愛していたからでしょう」
 「祖国のために働くことで人生をやり直せたのに、なぜそれができなかったのだ」
 「私にはそんな値打ちがなかったのでしょう」

ディートリッヒが銃殺されるクライマックスのシーンは、どのカットも美しい絵画のようである。

最後の夜、何か望みはあるかと問われた彼女は、ピアノと答える。
ピアノで“ダニューブ河の漣”を弾き終えた彼女は、迎えにきた青年士官(バリー・ノートン)に、鏡を持っているかと尋ねる。
士官がサーベルを抜いて刀身を差し出すと、彼女は刀身に顔を映し、ベールを整える。

雪の積もる刑場に引きだされた彼女は、士官から目隠しを渡される。
だが、かすかな微笑みを浮かべ、その目隠しで士官の目に浮かぶ涙をそっとぬぐってやるのだった。

そして、自らルージュを引いて死化粧を整え、ストッキングのゆるみを直して、銃口の前に屹然として立つ。



銃声、彼女のほっそりとした体は一瞬宙に舞うように崩れ去る。

“ダニューブ河の漣”のメロディがいっせいに湧き上がって、恋に生き恋に死んだ彼女の一生に讃嘆の想いを捧げて物語は終わる…

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
マレーネ・ディートリッヒは、生国ドイツのヒトラーからの強い帰国命令を拒否し、逆にアメリカ国籍を得て、一芸術家として自由の道を選んだ。
女優としての全盛期は、スタンバーグとのコンビ解消後、再び巡ってくることはなかったけれも、ブロードウェイ、ラスベガス、そして世界各地をエンターテイナーとして回り、全盛期に劣らぬ喝采を浴び続けた。

ちなみに齢70歳の半ばになって、日本各地で行った十万円会費の晩餐会は、どこでもたちまち売り切れて、関係者を驚かせたが、この“老嬢”のどこにそんな偉大な吸引力があったのか説明のしようがなかったという。

名花ディートリッヒの生涯が、何だか“間諜X27”の一生とオーバーラップしてしまうのは、果たして蚤助だけであろうか。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「神経の太い人だが痩せている」(蚤助)


#467: のるかそるか

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結果がどうなるか見当がつかないけれども、運を天に任せて物事を決めるときに、「一(いちか八(ばち)か」などというが、これはサイコロの丁半博打から出た言葉だそうだ。
本来「丁」は偶数、「半」は奇数だが、この場合は賽の目ではなく漢字の方から来ているという。
「一」は「丁」の字の上の横棒、「八」は「半」という漢字の上の部分をとった符牒だとか…。


同じような意味で「のるかそるか」という言い方がある。
こちらも成功するか失敗するか結果はわからないけれども、やはり運を天に任せて思いっきりやることで、特に勝負事に使ったりする。
「伸るか反るか」と書くのが正しく「乗るか反るか」は誤りだそうだが、これは語源から来ているという。

これには“やし”が関係している…
無論「椰子」ではない。
また「香具師」となると縁日などで興行や物売りをする人、つまりフーテンの寅さんみたいな人になってしまう(笑)。

ここでは、矢を拵える「矢師」のことで、矢師は竹の曲がりを直すために乾燥させるが、乾燥後真っ直ぐな竹は矢として仕立てられるが、少しでも曲がっていると使いものにならない。
「伸る」は「長く伸びる」「真っ直ぐ伸びる」という意味で、「反る」は「後ろに曲がる」ということである。
矢師は成否を気にしながら竹を乾燥させたことから「伸るか反るか」と言うようになったという。
これホント!(笑)。

英語では、“sink or swim”とか“for better or worse”というらしいが、なるほどね…(笑)。

♪ ♪
で…

『のるかそるか』というスタンダード・ナンバーがある。
タイトルに色気は全くないが、これが立派なラブ・ソングなのである(笑)。
「すべてかゼロか、半分の愛なんてイヤ、それならいっそゼロがいい…」と訴える。

“ALL OR NOTHING AT ALL”という歌で、ズバリ『全てか無か』という邦題もあるがこれはいただけない(笑)。

 ♪すべてをとるか 全く諦めるか
  半分だけの愛など興味はない
  君の心が僕のものにならないのなら
  むしろ何もない方がよい

  愛に中間なんてありはしない
  「もっと愛されたい」と嘆くより
  何も願わぬことを選ぼう

  だから近寄らないで 微笑まないで
  見つめないで 気持ちが揺らいでしまうから…

ちょっと屈折した雰囲気の曲想の割には、べたついた印象になっていないのは、メロディがスマートだからだろうか。
転調が激しく、変化に富むメロディはスリリングでドラマティックですらある。

♪ ♪ ♪
作詞ジャック・ローレンス、作曲アーサー・アルトマンによる1939年の作品。
人気トランペッター兼バンドリーダーだったハリー・ジェームズ率いるオーケストラが、専属歌手だったフランク・シナトラをフィーチャーして録音したものの、発売当時はレコードが8千枚ほどしか売れず、その上「トランペットがうるさすぎるし、歌い方も単調すぎる」とまで酷評され、要は鳴かず飛ばず、大コケした歌だった。

ところが、シナトラが独立し、トミー・ドーシー楽団に移籍してから再録音したところ、今度は全米第2位のミリオン・セラーとなった。

この曲に関する限り、シナトラは若いころより円熟味の出てきた後年のヴァージョン(冒頭画像のアルバム“Strangers In The Night(66)”)の方が断然良いと思う。
激しい情熱、求愛の衝動を巧みに歌い込んだバラードがシナトラの雰囲気にピッタリである。

♪ ♪ ♪ ♪
例によって、手持ちのアルバムからいくつかピックアップしてみたい。

スタン・ケントン楽団の出身の女性歌手はレベルが高い。
アニタ・オデイ、ジューン・クリスティ、ジェリ・ウィンタース、クリス・コナーアン・リチャーズらがいるが、いずれも独立後ソロ・シンガーとしても成功を収めている。

 (Somebody Loves Me/Jerri Winters)

ジェリ・ウィンタースはジューン・クリスティが独立してバンドを抜けた後、ケントン楽団で歌った。
57年録音のこのアルバムは彼女の代表作で、ジャケットもなかなか良い。

 (At The Village Gate/Chris Connor)

ジェリ・ウィンタースの後にケントン・ガールズの一人になったのがクリス・コナー。
ニューヨークのジャズ・スポット、ヴィレッジ・ゲイトでのライヴ盤。
彼女のアップ・テンポの乗りが断然素晴らしい。

 
(My Foolish Heart/Donna Fuller)

ケントン・バンドとは直接関係はないが、ヴォーカル・スタイルがジューン・クリスティやクリス・コナーなどのクール系の実力派ドナ・フラーは、ラテンリズム、パンチのきいたオーケストラの伴奏に伍してスケールの大きな歌を聴かせる。

シナトラ以外は女性シンガーばかりで恐縮だが、これはいたしかたないところ(笑)。

インストでは何といってもこれを筆頭に挙げるべきであろう。

 (Ballads/John Coltrane)

ジョン・コルトレーンの名盤。
エルヴィン・ジョーンズのちょっと中近東風のポリリズム、コルトレーンの硬質な音色のテナーによるハードなバラードの素晴らしさに異議を唱える人はいないだろう。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「経験を積んで迷いが多くなり」(蚤助)
「すべてか無か」の二者択一を迫られると答えに窮した挙句「せめて半分くらいでも欲しい」と言いたくもなるのが人情というもの。

例えば「これは買いか、売りか、あるいは待ちか」などとアレコレ迷う段階ですでに敗北しているようなものだが、これこそ人間の煩悩というものなのだろう。

#468: 恋のダウンタウン

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“DOWNTOWN”というのはニューヨークの街から生まれたアメリカ英語である。
イギリス英語の辞書オックスフォード・ディクショナリーなどには出てないそうである。


そもそも“UP”とか“DOWN”は、地図の上下、すなわち北と南を表していて、別に土地の高低を表しているわけではないようだ。

ご承知の通り、ニューヨークの南側は官庁やオフィス、有名無名を問わず商店、飲食店の立地が多い繁華街なのに対し、北側は主として住宅地域である。
したがって“UPTOWN”(住宅地)“DOWNTOWN”(繁華街)という言い方は、本来ならばニューヨークの市街のみで通用するはずのものだったが、次第に他の都会でも使われるようになった。

その語感から“UPTOWN”は山の手、“DOWNTOWN”は下町というイメージがあるが、山の手の方はまだしも“DOWNTOWN”を下町と解するのは東京の実態に合わない。
そもそも、東京の下町というのは、例えば浅草や深川などのように、海に近い地域を一般的に表す言い方で、そこには海抜が低い町という意味が込められているのである。

英語の意味からすると、現在の東京で“DOWNTOWN”というのは、新宿、渋谷、池袋のような繁華街を指すと考えた方がよい。

♪ ♪
イギリスの女性歌手、ペトゥラ・クラークは、ロック&ポップス史に残る大歌手である。
歌手デビューは7歳のときで、子供ながら第二次世界大戦中は同じジャリタレントだったジュリー・アンドリュースとイギリス軍の慰問に戦地を巡回していたという。

54年にシャンソン歌手のフランシス・レマルクやジャクリーヌ・フランソワの歌で有名な“Le Petit Cordonnier"(The Little Shoemaker)、邦題『小さな靴屋さん』をヒットさせている。
もっとも、アメリカや日本ではエームス・ブラザース盤が大ヒットした。

『恋のダウンタウン』(DOWNTOWN)は、ヨーロッパではすでに大スターであったペトゥラが、初めてアメリカのチャートに登場した曲で、65年の初めにナンバーワンとなった。
イギリスの女性歌手が全米トップになったのは、ヴェラ・リン(“Auf Wiedersehn Sweetheart”)以来13年ぶりの快挙であった。



♪ ♪ ♪
この曲の作者はトニー・ハッチ。
60年代のイギリスのポップスをリードしてきたソングライター兼プロデューサーで、サーチャーズ、デヴィッド・ボウイなど数多くのアーティストを世に送り出していた。
その活躍ぶりから、しばしば“イギリスのバート・バカラック”などと言われている。

ビリー・ヴォーン楽団の演奏で有名になった“Look For A Star”(星を求めて)は彼が18歳のときの作品である。
この曲は、ハードボイルド作家ミッキー・スピレーンが本人役で主演した珍しいサスペンス映画『恐怖のサーカス』(Ring Of Fea‐1954)にも使われ、大ヒットした。
また、ロック嫌いだったフランク・シナトラが初めて軽いロック・ビートで歌った“Call Me”は世界中のシンガーがレパートリーにするスタンダード曲となった。

当時、トニー・ハッチはペトゥラのプロデューサーでもあったが、彼女の自宅を訪ねたトニーが少しメランコリックなこのメロディを聴かせたところ、彼女は気に入りまだメロディだけだったこの曲にすぐに歌詞をつけるよう頼んだという。

 (ペトゥラ・クラークとトニー・ハッチ)

♪ ♪ ♪ ♪
この曲、徹底的に「陽」の歌で、ひたすら「都会ってすてき」と言い続ける。
日本では東京オリンピックの頃にリリースされ、明日や未来を疑うことを知らない当時の明るい息吹が感じられる歌である。

歌詞の方は結構冗長気味でおしゃべりである(笑)。
歌の冒頭だけ紹介しておくとこんな感じである。

 ♪ 一人ぼっちで寂しかったら
   いつも行くの ダウンタウン
   心配事があるときも 騒音やせわしなさに
   救われるの ダウンタウン
   
   街の往来の音楽に耳を傾け 
   ネオンがきれいな舗道をぶらついて
   なぜ気落ちするのかしら
   悩みも気がかりなことも みんな忘れられる
   だからダウンタウンに行こう…

ペトゥラ・クラークはこの曲の大ヒットでアメリカでの芸能活動が広がり、その後、映画『チップス先生さようなら』や『フィニアンの虹』などに出演したり、ブロードウェイのステージに立ったりしてその名がさらに高まっていく。

が、その前に、彼女は、自身が巻き込まれて世間を賑わせることになる大騒動に遭遇するのである。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
彼女はNBCに『PETULA』というテレビショーの番組を持っていた。
1968年、ゲストのハリー・ベラフォンテが歌っているとき、ペトゥラは彼の傍に寄り添って彼の腕を取ったのである。
ベラフォンテはジャマイカの血を引く「褐色の肌」であり、テレビ画面で白人女性が有色人種の腕に手をやったということを、番組スポンサーが問題にし、放映するなら番組を降りると言い出したのである。

公民権法が制定されたのは1964年のことであったが、テレビという当時の先端的なメディアにおいても人種差別的行為が公然と行われていたことの方がショッキングなことである。

しかし、ペトゥラは問題のシーンをカットするよう求めるスポンサー側の強い要求に屈することなくオン・エアさせた。
ペトゥラ・クラークをはじめ、ペギー・リー、バーブラ・ストライサンド、ダスティ・スプリングフィールドなど、いかにも白人の女性シンガーが人種差別的行為に対して毅然とした態度をとったかを知るにつけて深い感動を覚えるのである。

 ♪ あらゆるものがあなたを待っている ダウンタウン
   時間を無駄にしてはダメ 問題かかえて身動きとれないなんてダメ
   悩みも心配事もみんな忘れることができる ダウンタウン
   だから行きましょう ダウンタウン そこではすべてがステキ…

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「やってみろ言うなら手本見せてみろ」(蚤助)

#469: タバコ・ロード

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大恐慌時代のアメリカの貧しい白人農民(Poor White)の話といえば、ジョン・スタインベックが1939年に出版した小説『怒りの葡萄』(The Grapes Of Wrath)が有名である。
これを原作にしたジョン・フォードの名画(1940)もあった(→ #96#133参照)。

今回紹介する『タバコ・ロード』(Tobacco Road‐1941)もプア・ホワイトの生活を描いた物語のひとつである。


大恐慌時代…。
アメリカ南部のジョージア州あたりには人呼んで“タバコ・ロード”というレンガで簡易舗装された道路がある。

その周辺には貧しい小作農民や日雇農民が溢れているが、干ばつなどによって農地は不毛の地と化してしまい、農作物の収穫は全くなく、飢えと闘わなければならないほど落ちぶれているのだった。

様々な職業を転々と渡り歩き、タバコ・ロード辺りの農民の窮状に詳しかった作家のアースキン・コールドウェルは、そうした貧農の姿を描いた小説『タバコ・ロード』(1932)を出版し、ベストセラーとなった。
この小説は、すぐにジャック・カークランドの手によって戯曲化され、その舞台もおよそ7年にもおよぶロングランを記録する。
その舞台劇を『怒りの葡萄』で脚本を担当したナナリー・ジョンソンが映画用に手直しし、ジョン・フォードがメガフォンをとった。

この作品、日本で公開されたのが、製作された1941年から47年後の1988年のことだった。
その間に太平洋戦争が挟まっていることを考慮しても、日本公開が異常なほど遅い。
「農民の悲惨な生活を描いた作品だから長い間輸入されなかった」と説く批評家もいたが、実はジョン・フォードの作品としてはいささか問題があって、評価をするのがためらわざるを得ないところがあるのだ。

♪ ♪
小作農ジーター(チャーリー・グレープウィン)の農地は、今年も不作で何も実らず収入はゼロ。
妻のエイダ(エリザベス・パターソン)、少し知的障害のある20歳の息子デュード(ウィリアム・トレイシー)、適齢期の野性的な娘エリーメイ(ジーン・ティアニー)の4人家族は飢えに苦しんでいる。

ジーターの娘婿ラヴ(ウォード・ボンド)がやってきて、嫁が口をきいてくれないと愚痴をこぼす。
ジーターが言う。

「俺の女房なんぞ結婚から10年間、俺と一言も話をしなかった。俺の人生で一番幸せな10年間だった」

娘婿の愚痴にはお構いなく、一家はラヴを押さえつけて、彼が持っていたカブの袋を奪い取り生のままかじりつく。
これが一家の夕食なのだった。

ジーターが尊敬する元大尉のティム(ダナ・アンドリュース)が、銀行家ペイン(グラント・ミッチェル)を連れてやって来る。
金銭的な援助を期待するが、ティムの懐具合も芳しくなさそうで、くれたのはトウモロコシ数本だけである。
銀行家ペインは「地代100ドル払えなければ立ち退いてもらう」と通告する。

♪ ♪ ♪
未亡人のベッシー(マージョリー・ランボー)は、何かと言えばすぐに讃美歌を歌う変わり者だが、ジーターの息子デュードと讃美歌のデュエットではよく気が合うため再婚を決意する。
妻ベッシーは39歳、夫デュードは20歳と年が離れているので、結婚登録の代書屋は本気にしてくれない。
そこで二人はまた讃美歌を歌い出し、居合わせた他の客たちも巻き込み、その場を何とか取り繕って結婚にこぎつける。

ベッシーは亡くなった亭主の保険金800ドルで結婚記念にデュードのために新車を購入する。
ところがデュードは木にぶつけたり垣根を壊したりして、新車を台無しにしてしまう。

一方、何とか地代の100ドルが欲しいジーターは新婚夫婦の車を盗み、ある紳士に100ドルで売りつけようとするが、その紳士は警察署長だった。
ジーターは拘留されてしまうが、結局、親子の間の諍いとして処理され釈放される。


(チャーリー・グレープウィン)

ラヴがまたやってきて、遂に嫁に逃げられてしまったと嘆くので、待ってましたとばかり、エリーメイは喜んでラヴの後を追って家を出ていく。

食うものもなく、畑を耕したくても種も肥料も買えない苦境にありながら、何とか明るく生きているジーターにしても、とうとうついにこう言わざるを得なくなる。

「街は俺を嫌っている。俺は街じゃ暮らせない。俺も街が嫌いだ。土の上でなけりゃ暮せん。」

妻エイダと二人きりになってしまったジーターはようやく農地から立ち退くことを決断するが、家の中は空っぽで持って行くものが何もない。
カネもなく住む家もない二人はついに救民農場へ行くことにするのだが…

♪ ♪ ♪ ♪
ストーリーを追うと実に悲惨な物語であるが、ジョン・フォードは貧窮農民をコミカルに描くというちょっと風変わりな仕立て方にしている。

フォードは前年の1940年、『怒りの葡萄』を撮ってアカデミー監督賞を授与され、本作の次には『わが谷は緑なりき』(How Green Was My Valley)で、同じく作品賞・監督賞を獲得している。
いわば、フォードが脂の乗り切った頃の名作群の一本といわれているのだが、さほど知名度が高くなく、上映の機会も少ないのは一体なぜだろうか。

識者によると、原作小説の悲惨な描写や露骨な性に関するやりとりをすべてカットして、滑稽な部分だけを残した映画ということのようだ。
考えられるのは、アカデミー監督賞受賞の二作は、貧しい者たちを描き、観客をある意味で相当重苦しい気持ちにさせる要素にあふれた作品が続くので、ちょっと息抜きのためにコメディ仕立てにしたのではないかということである。

だが、スラップスティックは明らかにフォードの柄ではないし、車を巡るドタバタのエピソードや、デュード役のウィリアム・トレイシーのオーバーな演技などは、正直全く笑えるものではない。
悲惨なプロットを中和するための工夫だとしたら、全く滑ってしまっている。
フォードに似つかわしくないテイストだと思う。


(チャーリー・グレープウィンとジーン・ティアニー)

この作品の取り柄は、新人時代のジーン・ティアニーで、ほぼノーメイクの泥だらけで裸足の娘エリーメイを色っぽく演じている。
色仕掛けでラヴから奪うカブに生でかぶりつくシーンなど、実に役者根性のある女優だったことを再認識した。

またフォードのカットは相変わらずどれも詩情あふれるもので、南部の不毛な農地を描いても美しい。
特に、ジーターとエイダ夫妻が自分の土地を去っていくシーンなどはまことに素晴らしく、ややコントラストの強いモノクロ画面が、まるで芸術写真の一枚のように見える。



♪ ♪ ♪ ♪ ♪
普段「大地」というものを深く考えたことはない。
その大地からの恵みによって生かされているというのに…。

われわれがジーターのように「土の上でなけりゃ暮せん」というような気持ちを少しでも持っていたならば、いざ事故が発生したときその周囲何十キロにわたる土壌を汚染してしまう危険性のある原子力発電所の立地をはたして許すことができたのであろうか。

そうしたことまで考えさせる一本ではあった。

本日の一句
「裸足にはなれぬ過保護の土踏まず」(蚤助)

#470: ラ・バンバ

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1959年2月3日は「音楽が死んだ日」(The Day The Music Died)である。
以前、ドン・マクリーンの“アメリカン・パイ”の稿(#197)”でも触れたが、この日、バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・ヴァレンスという三人の人気ロックン・ローラーが乗った小型飛行機が悪天候のため墜落、全員遭難死したのである。

リッチー・ヴァレンス(画像)はチカーノ(メキシコ系アメリカ人)で、まだほんの17歳に過ぎず、正真正銘の「少年」であった。


1987年のアメリカ映画『ラ★バンバ』(La Bamba)は、やはりチカーノの映画監督ルイス・ヴァルデスが、リッチー・ヴァレンス17年の短くもドラマティックな生涯を、カインとアベル風の愚兄賢弟の物語に仕立てた音楽映画であった。
脚本もヴァルデスが書いた。

賢弟はもちろんヴァレンスの方で、演じたのはルー=ダイアモンド・フィリップス、愚兄の方はイーサイ・モラレスが演じた。


(ルー=ダイアモンド・フィリップス)

ヴァレンス本人とフィリップスとの違いは誰の目にも明らかで、本物の17歳の少年ロッカーは、実にひねた「オッサン顔」なのだった(笑)。

♪ ♪
映画自体はちょっとチープでイージーさも漂う出来栄えだが、カルロス・サンタナとマイルス・グッドマンが担当した音楽の素晴らしさでそんなことはあまり気にならない。
もちろんヴァレンスの楽曲がメインになるのだが、劇中、バディ・ホリーに扮したマーシャル・クレンショウがホリーのヒット曲“Crying, Waiting, Hoping”、エディ・コクランに扮したブライアン・セッツァーがコクランの名曲“Summertime Blues”を披露してくれるからである。
ダイアモンド・フィリップスはヴァレンスの楽曲を歌うが、歌の吹き替えはご存じロス・ロボスである。

ロス・ロボス(Los Lobos)は、ロサンゼルスのチカーノ・コミュニティ出身の人気バンドで、デビュー当初からヴァレンスの“Come On, Let's Go”をレパートリーに取り入れたりしていて、映画のサウンドトラックへの起用はまさにピッタリだったのである。



♪ ♪ ♪
映画のタイトルにもなった“La Bamba”という曲は、メキシコ湾岸のベラクルス州一帯で歌われてきたもので、スペインのフラメンコに代表される情熱的な旋律と、アフリカ系の野性的なリズムが混交したフォーク・ソングであった。

当然のように、アメリカ在住のチカーノたちに受け継がれ、ヒスパニックのコミュニティに欠かせない曲であるばかりか、ポピュラー音楽としても全米に親しまれてきたものである。

“La Bamba”の“Bamba”には諸説あるようだが、スペイン語の動詞“Bambolear”(「ゆらめく」の意)から来たと言われており、そもそもアフリカには「バンバ」と名付けられた地名が多くみられるそうだ。
いずれにしても、一応「ゆらめく」ような動きをする舞曲と考えておけばよかろう。

♪ ♪ ♪ ♪
いとこからこの曲を教わったリッチー・ヴァレンスは、このメキシカン・トラディショナルを激しいロックン・ロール版に仕立てて、歌詞もスペイン語のままで発表した。

ロック版アメリアッチというか、アメリカのロックンロールとメキシコのマリアッチをミックスしたようなサウンドで、一気にたたみかけるパワーと疾走感があり、やや巻き舌のヴォーカルもこの作品の大きな魅力である。

ヴァレンスの最大のヒット・ナンバーは全米チャートの第2位となった“Donna”だが、“La Bamba”は“Donna”のB面にカップリングされ、両面ヒットとなった。
ただし、スペイン語の歌詞ということもあってか、チャート成績はA面ほど上昇せず22位どまりであった。

当時から言われていたことであるが、アメリカのファンの大半はこの曲の歌詞の意味もわからず聴いていたと揶揄されることが多い。

スペイン語の歌詞はこんな具合…

 ♪ ラ・バンバを踊るには ラ・バンバを踊るには
   上品さは少しだけでいい
   少しだけ品がよくって それからさ
   上へ 上へ 上へ 上へ
   君のためさ 君のためさ 君のためなのさ
   
   俺は船乗りじゃない 俺は船乗りじゃない
   船長さ 船長なんだ
   バンバ バンバ バンバ …

と、まあ、ただ調子がいいだけの、どうということもない内容である。
しかし、ヴァレンスの独特の躍動感が、ファンの心を長く深く捉えることになった。
現在では、むしろラテン・ロック、パンク・ロックの原点のナンバーとして“Donna”以上に語られる機会の多い曲となっている。

ちなみに、かつて“ローリング・ストーン誌”が企画したオールタイム・ベスト・ソング500の中で英語詞以外の楽曲で選出されたのは“La Bamba”だけである。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
映画の主題歌として使用されたロス・ロボス盤は、アコーディオンの使用なども含め、オリジナルよりもメキシコ風味が多少濃厚になっていて、映画公開の87年に3週連続全米ナンバー・ワンに輝いている。

このほかハリー・ベラフォンテ、キングストン・トリオ、トーケンズ、新しいところではテックス・メックス・トリオやロス・ロンリー・ボーイズなどがレパートリーにしているが、蚤助にとって特に思い出深いのは、サンドパイパーズとトリニ・ロペスである。



サンドパイパーズは、かつて“グァンタナメラ”などのヒットを出し、ソフト・ロックの世界で独特の存在感を示したグループ。
ことさらラテン・ビートやリズムを強調することなく、ゆったりとしたフォーク・ソング仕様のアレンジで美しいコーラスを聴かせる。



一方、トリニ・ロペスは60年代に一世を風靡したテキサス生まれのラテン系歌手である。
ヴァレンスの直系といってもよい存在で、幾多のラテン臭濃厚な作品を録音した。
特に彼のライヴは陽気で、シング・アロング・スタイルで聴衆を盛り上げて抜群の楽しさであった。
ロペスは63年に“La Bamba”を録音してヒット、彼の日本公演でもオープニングはこの曲だった。

また、66年に映画『悪のシンフォニー』(The Poppy Is Also A Flower)の挿入歌として使われたこともあってまたヒットしている。
余談だが、この映画、イアン・フレミング原作の麻薬捜査のアクション物で、監督がテレンス・ヤング、オールスター・キャストなのだが、007シリーズのような面白さを期待するとがっかりするのは必至である。
念のため(笑)。

ともあれ、簡潔な三つの循環コードからなる“La Bamba”は「メキシカン・ソウル」の表現には不可欠な楽曲なのであろう。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
日本の「17才」といえば花も恥じらうお年頃、その昔、シンシアこと南沙織も歌っていましたね。

それなのに、アメリカの17才っていうのは…

本日の一句
「17才学生証にひねた顔」(蚤助)

#471: 君はどう?

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ずいぶん昔のことになるけれども、あるスタンダード曲で思い出したエピソードがある。


確かテレビ放映されたジュリー・アンドリュースのショウ番組だったと思う。
ゲスト出演した歌手のスティーヴ・ローレンスが作曲家に扮して登場する。
ピアノに向かって新曲を作っているという設定である。
ローレンスが「ぼくは四月のカンサス・シティが好き」と歌うと、妻役のアンドリュースが「あら、私は六月のニューヨークが好きよ」などと突っ込みを入れる。
ローレンスは「なるほど」とつぶやいて、ニューヨークに決める。
続けてローレンスが「彼らはどうだろう?」と歌う。
アンドリュースは「あなたはどうなの?」と言うと、ローレンスはまたその歌詞に決める。
自分の歌詞にいちいちアンドリュースが半畳を入れてくるので、ローレンスはついに「忙しいんだからもうぼくを邪魔しないでくれ」と叫ぶ…

観客がどっと沸いたコントであった。

♪ ♪
これがなぜ観客に受けたのかというと、ローレンスの作っている新曲というのが“HOW ABOUT YOU?”(君はどう?)というラヴソングだからで、この歌詞がギャグになるほどアメリカでは広く知られている歌だということがわかるのである。

1941年の映画『ブロードウェイ』(BABES IN BROADWAY)でジュディ・ガーランドとミッキー・ルー二ーの二人が歌って大ヒットした。
ラルフ・フリード作詞、バートン・レーン作曲による軽快な歌である。

 ♪ ぼくは 六月のニューヨークが好き 君はどう?
   ぼくは ガーシュインの歌が好き 君はどう?
   ぼくは 嵐の夜の暖炉の前 ポテト・チップス 月の光
   ドライヴなんていうのも好き 君はどう?
   フランクリン・ルーズヴェルトの顔もスリルがあって好き
   映画館の暗がりで手を握り合うこと それも好き
   君はどう?…

♪ ♪ ♪
で…

そもそも、このオリジナル歌詞のうち自分が体験したことがあるのはどれだけあるだろうか、と考えてみる。

六月(と秋)のニューヨークは知っているし、ガーシュインの歌も大好きである。
というより、ガーシュインの歌はとてもよく知っている部類の方だろう。

でも「吹雪の夜のストーヴの前」は知っているものの、「嵐の夜の暖炉」というのは未経験で、いつかぜひ美女といっしょに経験したいと妄想する…(笑)。
ポテト・チップスはさほど好きというわけではないが知っているし、月の光、ドライヴも知っている。

ルーズヴェルトの顔?
もちろんアメリカの32代大統領である。
ニューディール政策などで知られ、非常に人気のあった政治家で、三期連続で大統領に選出されている。
この歌が発表されたときは現役の大統領であった。

ずっと後になって、絶頂期のフランク・シナトラはこの部分を「ジミー・デュランテの顔」と歌った。
デュランテは大鼻が特徴のコメディアンで、舞台、映画で大活躍した人気者だった。


(SONGS FOR SWINGIN' LOVERS / Frank Sinatra)

ルーズヴェルトはどうでもいいけど、その次ね…。
映画館で手を握り合うのは、ちょっと古めかしいけど、なかなかいいですな(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪
自分の好きなものを挙げてすぐあとに“HOW ABOUT YOU?”(君はどう?)と聞く他愛のない歌だが、さりげない会話の中の「愛」が感じられるのが粋なところである。
軽快なメロディも相まってジャズ系のヴォーカリストに好んで取り上げられている。
ジャズの小唄(映画の主題歌ではなく、あまり重要ではないシーンなどに挿入される軽い歌で、粋でお洒落なところが身上)の定番曲となっている。

いわゆる「ものづくし」の内容になっていて、都会的な歌の見本のような作品である。
シナトラのように歌い手が歌詞を変えるのが通例で、果たして好きなものに何が出てくるのか聴く楽しみがあるので、絶対ヴォーカルで聴くべき曲である(笑)。

これはお薦め盤が多くて相当頭を悩ますところだ。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
ヴォーカルを聴けと言ったが、まずはインスト(笑)。
ハーブ・エリスのギター、レイ・ブラウンのベースが入った初期のオスカー・ピーターソンのドラムレス・トリオによるスイング感が小粋である。

 
(THE OSCAR PETERSON TRIO AT STRATFORD SHAKESPEAREAN FESTIVAL)

続いて実に洗練された唱法で歌うアニー・ロス。
伴奏はジェリー・マリガン、チェット・ベイカーら腕達者で、ソロもお洒落で粋である。
ロスは、「シナトラの歌、ビリー・エクスタインのルックスはどう?」などと歌っていて、私の仕事ぶりも見てと言う風に堂々と自信にあふれた歌声を聴かせる。
いや、この歌にはまいったね。


(ANNIE ROSS SINGS A SONG WITH MULLIGAN !)

ボサ・ノヴァのミューズ、ナラ・レオンは彼女独特の雰囲気で淡々と歌う。
ポルトガル語で歌われるスタンダードも格別の味わいがある。
「彼女はカリオカ」「イパネマの娘」という別の曲を上手くミックスしたメドレー仕立てで歌っている。


(MEUS SONHOS DOURADOS / Nara Leao)

ビング・クロスビーとローズマリー・クルーニーのデュエット。
この大御所二人が歌うと小唄がぐっと大人っぽくなってくる。
歌詞にやはりシナトラやボブ・ホープが出てくるなど二人の掛け合いが楽しい。
リラックスした二人がこの曲をヴァ―スから歌っているのも興味深い。


(FANCY MEETING YOU HERE / Bing Crosby & Rosemary Clooney)

そして最後は、冒頭画像に掲げたルーシー・アン・ポーク。
ミディアム・ファストで軽快に歌う。
彼女の可憐なお色気が魅力的である。
軽めのアレンジもウエスト・コースト・ジャズの小唄という感じを出していて、ズバリ、大人のジャズになっている。
(LUCKY LUCY ANN / Lucy Ann Polk)

この歌、リチャード・ウィドマークとマリリン・モンローが主演したサスペンス映画『ノックは無用』(Don't Bother To Knock - 1952)にも出てきたと記憶する。
こんなどうでもいいことは割に覚えているんだけどなあ…

いずれにしてもこの歌は「粋」でなければあきまへんのや。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「セクハラを気にし色気のないジョーク」(蚤助)
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