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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#472: 私の恋には何もいらない

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“MY ROMANCE”…

今回も、本ブログにこれまで何度も登場した作曲家リチャード・ロジャースと作詞家ロレンツ・ハートのコンビによる作品である。


ミュージカル『ビリー・ローズのジャンボ』(BILLY ROSE'S JUMBO - 1935)のために書かれたナンバーで、翌年ポール・ホワイトマン楽団でヒットしたというのだが、これは調べたからわかったのであって、もちろんその演奏は知らない。
オリジナルのステージは、あまり人気が出ず半年もたずに上演打ち切りになったと記録にある。
ちなみに、ビリー・ローズというのはアメリカ芸能界の大興行師として名高く、この作品も彼の製作によるものだった。

♪ ♪
記憶にあるのは1962年にドリス・デイ主演で映画化された同名作品(邦題『ジャンボ』)の方で、華やかなサーカスを舞台に、確か巨象のジャンボが人気の一座の物語だったと思う。
監督が『上流社会』(HIGH SOCIETY)などを撮ったチャールズ・ウォルターズ、脚本はシドニー・シェルダンであった。
例えば、サーカスシーンなどは、舞台の上より映画の方がいろいろなシーンを撮って見せられるだろうし、その他おそらく映画化にあたって相当脚本に手が加えられたのではなかろうか。
映画の方はまずまずの出来だったと思う。

で、この映画版では“MY ROMANCE”をドリス・デイが歌った(“BILLY ROSE'S JUMBO/Original Soundtrack”)。

もちろん、当時まだ小学生だった私にこの歌の良さがわかったはずがない。

♪ ♪ ♪
この曲に真面目に向き合ったのはビル・エヴァンス・トリオの名盤中の名盤“WALTZ FOR DEBBY”を聴いてからのことである。


(WALTZ FOR DEBBY/Bill Evans Trio)

エヴァンスのピアノに絡むスコット・ラファロのベース、控えめながらメリハリのついた的確なサポートを送るポール・モチアンのシンバル、この三者によるコラボレーションは繊細にしてスリリングでいつまでも心に残った。
それは高校生のときであったが、私はエヴァンス・トリオの演奏を通じて、この曲の美しいメロディを覚えたのである。

♪ ♪ ♪ ♪
ミュージカルのために書かれた曲なので、ヴァースがついている。

  ♪ 手にキスをしようなんて思わない
    あなたが大好きなのに
    ひざまずいたり あわてたりすることもないの
    必要ないんだもの…

以下コーラス…

    My Romance Doesn't Have To Have A Moon In The Sky
    My Romance Doesn't Need A Blue Lagoon Standing By...

    私のロマンス(恋)には 空の月なんていらない
    そばにひろがる 青いサンゴ礁もいらない
    5月じゃなくてもいいし 夜空に輝く星も
    人目につかない隠れ家も 優しいギターの音色もいらない
    私の恋には スペインのお城だっていらない
    ときめきのリフレインに合わせたダンスもいらない
    しっかりと眼を開けば 素敵な夢は叶えられるの
    
    私の恋には何もいらない あなた以外には… 

ロマンスという語は、単に「恋」とした方がスッキリしそうだ。
「何もいらない、ただあなたの愛があれば」というただそれだけの歌なのだが、並べられているものは「ロマンス」のいろいろなシチュエーションの数々だ。
その中に「5月」が入っているところをみると、恋するには最適の季節だということなのだろう。
誕生月が5月の方々に心からおめでとうと言いたい(笑)。

だが、そうした恋のおぜん立てのようなシロモノはすべていらないと、あえて宣言したうえで、最後に「必要なのはあなただけ(But You)」とオチをつけるのである。

確かにスペインのお城なんて別に無くたっていいし、足元にサンゴ礁なんて全然いらないし、やっぱり君がいれば幸せだってこと…そりゃそうだろう(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
(LEE WILEY)  (TUCK & PATTI)

さて、この歌、ヴォーカルではどうだろうか。
秀逸な歌唱といわれる二組を紹介しておこう。

昔からベスト・レコーディングとされているのがリー・ワイリー。
夜のムードでしっとりと「私の恋」を語りつくしている。

もうひとつ、比較的新しいところで、ギターとヴォーカルの夫婦ユニット、タック&パティ。
女性歌手のパティ・キャスカートが歌い、夫のタック・アンドレスがギターを弾くという最小のユニットである。
パティのソウルフルな歌唱、タックの少しフォーキーなジャズ・ギターがすばらしい。
ただし、この二組は我がライブラリーにはないのが残念。

そして我がライブラリーの棚を掻きまわしてみると…


(MY ROMANCE/Carly Simon)

カーリー・サイモン。
主に80年代に活躍したシンガー&ソングライターだが、近年相次いでリリースしているスタンダード集の1枚で、アルバムタイトルにもしている。
歌詞をゆっくりと味わうように秘めた恋心を歌いあげている。


(BOOK OF BALLADS/Carmen McRae)

そして大推薦盤がカーメン・マクレエ。
ドン・アブニーのピアノのイントロに続いて、少し渋めで抑え気味に歌い出すが、隅々まで心配りのきいたカーメンらしさがよく出た名唱である。
彼女の歌唱の磁場を計測することができたならきっととても強い磁力にちがいない。
聴き込むほどに惚れ直すスルメのような歌唱、これはすごいよ。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
“MY ROMANCE”は、あなた以外何もいらないと歌うが、二人が愛を育んでいく過程で、お互いの本性が見えてきて、小さな違和感や嫌悪感が次第に大きくなっていくこともあるだろう。
そのとき、あなたはどうするか?
自分を無理に納得させて付き合い続けたり、はたまた立ち止まってみて二人の関係を考え直してみたり、大いに思い悩むのではなかろうか。

お悩みの節にはぜひこういう選択肢もご一考願いたいものである。

本日の一句
「過ちと知りつつ前へ行くスリル」(蚤助)
相当無責任だと自覚はしているのですが…(笑)


#473: オーティス・レディング

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1967年12月10日、ソウル・シンガー、オーティス・レディングは、自家用飛行機の事故によって世を去った。
26歳の若さであった。

今回は、彼の歌唱で有名になった代表的なナンバーを2曲、メドレーでお届けする。


まずは死の前年の66年に全米ヒット・チャートに入った“TRY A LITTLE TENDERNESS”。

英国のレグ・コネリーとジミー・キャンベルの二人の作品にアメリカのハリー・ウッズが手を加えた作品である。
1932年に出版された古い歌で、ミュージカル女優のルース・エッティングやビング・クロスビー等が歌ったが、あまりヒットしたという記録は残っていない。
古いオーソドックスなスタンダード・バラードとして細々と歌い継がれてきた曲なのである。

先輩格に当たるサム・クックがライヴ・アルバムで歌っていたのを聴いて、彼を敬愛するオーティスが自分でも歌いたくなったのだという。
力強く、情感をこめてドラマチックに歌い、発表されてから実に34年後に初めてチャート入りしたという珍しい楽曲である。



♪ ♪
内容は女性に対する男性の優しい思いやりの必要性を説いたものだが、もちろん女性が歌っても一向に構わない。

 ♪私は知っている あの娘がかなわぬ夢を追いかけ続けていることを
  そんな娘に ほんの少しでも優しくしてあげてほしい
  それが あなたの役割なんだ ほんの少しでも優しくしてほしい…

スローテンポでゆっくりと歌い始め、徐々に雰囲気を高めていき、エネルギーが充満したところで、一瞬のブレイク、どこまでも果てしない高みに向かって突っ走る。
聴く者のハートがわしづかみにされ遥かかなたへ持っていかれそうになるほどの高揚感がある。

この曲、ジャズ系の歌手では、クリス・コナー(左)、アン・バートン(中)、フランク・シナトラの三者三様の名唱があり、どれも素晴らしい表現力である。



ただ、オーティスのヒットで、同じソウル系のアレサ・フランクリンをはじめ、次世代のアーティストを含む多くのミュージシャンがこの曲の魅力を再認識、スリー・ドッグ・ナイトのリバイバル・ヒットがこれに続いた。

なお、この曲、64年の映画『博士の異常な愛情』のオープニングに使われたとき、ニューヨーク・タイムズ紙が“SICK JOKE”と評したという(笑)。
なにしろスタンリー・キューブリックの映画だからね(笑)。

♪ ♪ ♪
オーティスが死ぬ3日前に録音され、死後の68年の春に全米トップ・ヒットになったのが“(Sittin' On)The Dock Of The Bay”(ドック・オブ・ベイ)である。

作者はオーティス自身と、白人ながら「ブッカ―T&MG'S」などで活躍したメンフィス・サウンドの立役者、ギタリスト兼プロデューサーのスティーヴ・クロッパー。
クロッパーは「オーティスはいつ、どこででも、時間さえあればギターを手にして曲を作っていた」と語っているが、この曲はオーティスがサンフランシスコ滞在中に大枠が書き上げられたという。

ある暑い朝のこと、まぶしい太陽が眼前のサンフランシスコ湾に降り注ぎ、波と光の饗宴のような美しい光景に触発され、その素直な情感を譜面に綴った。
後にオーティスのマネージャーのアドバイスとクロッパーの協力で完全な作品となった。

波の効果音と耳に残る印象的なベース・ラインのリピートから始まり、途中効果音としてカモメの鳴き声を入れながら、メローなギターが歌いだし、そして最後は口笛とともにフェイドアウト…
オーティス・レディングの墓碑銘ともいうべき名曲で、グラミー賞の最優秀R&B歌曲賞を受賞している。



♪ ♪ ♪ ♪
なぜ多くの人がこの曲に魅かれるのか、それはこの曲にセンチメンタリズムや一種の厭世感、あるいは滅びの美学の要素が濃厚に漂っているからである。
オーティスは67年の秋に喉のポリープの手術を受けていて、それが穏やかで、一抹の寂しさを感じさせる要素となっていると説く人もいる。

何よりも、彼自身が初のナンバーワン・ヒットとなったことを知る由もなく黄泉の国に旅立ったということが聴く者にある種の思い入れをさせていることは否めない。
いずれにしても、この曲に漂う無常感を表現するのに、このときの彼の歌声ほどぴったりするものはない、ということだけは断言できる。

 ♪朝日を浴びて座っている 夕方になっても座っているだろう
  港に入る船を眺めながら そして出港していくのを見ながら

  湾のドックに座って 潮の満ち引きを見ながら
  ただ湾のドックに座って 時間をつぶしている

  故郷のジョージアを離れて フリスコ・ベイ(サンフランシスコ湾)に向かった
  何も生きがいがなかったから 何もいいことが起こりそうになかったから

  だから ただ 湾のドックに座って 潮の満ち引きを見ながら
  湾のドックに座って 時間をつぶしている…

サンフランシスコ湾のドックに座って日がな一日を過ごす男の姿が目に浮かぶようだ。
もっとも、現在の経済情勢その他に鑑みると、「要するにホームレスの歌?」という声が聞こえてきそうな気がするのが、ちょっぴり残念ではある(笑)。

私の愛聴盤は、その昔中古で入手した彼のベスト盤2枚組のLP…



オーティス・レディングの歌はみな汗びっしょりなのである。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「一人寂しく」は言い古された言葉だけれども、男の孤独にはどこかユーモラスな面があったりする。

本日の一句
「鍋の具に湯加減を聞く独り者」(蚤助)

#474: キャロル・リードと子役

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最近、芸達者な子役たちが、映画やテレビで活躍している。
そのうちの何人かは、ドラマ、CM、歌、バラエティ番組などメディアでその姿を見ない日はないほどの人気者になっている。

かつて、私の同僚が御子息を芸能プロダクションに登録し、時々、芸能活動らしきものをさせていたという身近な例もあった。

日本で子役といえば、主として観客を泣かせるための役割が与えられてきたことが多かったのではなかろうか。
少なくとも、人格を持った一人の人間として、子どもを登場させることはあまりなかったように思う。


キャロル・リード(1906‐1976)という映画監督は、夜のシーンと子役の使い方が抜群にうまく、彼の映画ではたびたび夜の場面が登場するし、子役が大人以上の演技力を発揮する。

彼の作品の子役は、単なる子どもではなく、成人のミニチュアである。
幼稚という言葉の正反対にある早熟な大人に似た子どもなのである。
したがって、無邪気というよりも、大人の分身として文字通り恐るべき役割を担っていることが多い。

♪ ♪
例えば、彼の代表作と見なされている『第三の男』(THE THIRD MAN‐1949)では、ジョゼフ・コットンに向かって、子どもが「人殺し!人殺し!」と叫んで追いかけていく。
その不気味さは驚くべきもので、「人殺し!」という子どもの声は、大人の声を代弁するような響きを持って迫ってくる。
コットンは恐怖におののき、懸命に逃げ出さざるを得なくなるのである。

『落ちた偶像』(THE FALLEN IDOL‐1948)や『文化果つるところ』(CUTCAST OF THE ISLANDS‐1951)などに出てくる子どもも、“悪の権化”のようだったり、“大人の象徴”のようだったりする。
いわば、子どもを大人の世界の鏡としているのである。
もっともこれはイギリスの演劇の伝統に則った取り扱いなのかもしれない。

彼の作品の子どもは、一般的に子どもらしい素直さや無邪気さはなく、むしろイギリス人の頑固さや毅然とした行動力があり、現在の大人が失いつつある礼儀さえ身につけていることがある。
彼がアカデミー監督賞を受賞したミュージカル映画『オリバー!』(OLIVER!‐1968)でさえ実質的な主役は、したたかに生きる子どもたちであった。

♪ ♪ ♪
キャロル・リードは、1947年の『邪魔者は殺せ』(ODD MAN OUT)で一挙に世界中で名前を広く知られるようになった。
『第三の男』同様、夜に強いリードの特色がよく出た作品で、彼の最高傑作に推す人もいる格調の高いサスペンス・ストーリーである。


(ジェームズ・メイスン)

ジェームズ・メイスン演じるアイルランド独立運動の指導的立場にある活動家が、資金調達のため、同志とともに工場の会計事務室を襲う。
逃走の際、格闘した警備員を殺害、自らも肩に銃創を負って、仲間の自動車から振り落とされ、警察に追われながら夜の街を彷徨う物語で、昼に始まり、夜から未明にかけて終わるおよそ半日間を、ダイナミックに描いている。


(ジェームズ・メイスンとキャスリン・ライアン)

光と影の対比を駆使したロバート・クラスカーの夜の映像が見事だし、リードの斜めの構図を多用した場面転換の巧みさで大いにサスペンスを盛り上げる。

独立への強い意志をもちながらも“邪魔者(ODD MAN)”とされてしまう瀕死の男の孤独感、疎外感と、彼と接触する市井の人々の人生の断片が次々と展開されていく。
雨がそぼ降る夜の街(ベルファストでのロケーションだという)がやがて白い雪に覆われていく救いようのない寒々しい寂寥感と、サスペンスとしての面白さは、あるいは『第三の男』を凌ぐかもしれない。
ただし、主人公メイスンの性格描写にはやや違和感を覚えてしまうのだが…

♪ ♪ ♪ ♪
ところで、この作品にも、やはり子どもが出てくるのである。

一般市民は、メイスンを警察に売ったりすると独立運動の組織からどんな報復を受けるかわからないので、できれば事件にかかわり合いたくないと思っているのだが、子どもたちはメイスンを単純に英雄視していて、警察をからかう材料にしたりしている。

防空壕に逃げ込んだメイスンが、撃たれた傷に苦しんでいる。
そこへ転がってしまったボールを取りにきた小さな女の子が見つけてしまうのだが、この女の子が次にどういう行動をとるのかという新たなサスペンス効果が生まれるのである。

映像の大胆な構図を考慮した演出、テンポの早い編集の巧みさといった映画の技術の粋を完全に自家薬籠中のものとしたキャロル・リードは、それだけでは満足できず、おそらくは登場人物をどう描いたらいいのか考え抜いた末、子どもこそが表現の可能性をもっとも広げるものだという結論に達したのであろう。


(キャスリン・ライアンとジェームズ・メイスン)

さて、お立ち会い…
果たして、瀕死のメイスンには救いの朝は来るのであろうか…

個人的には、ラストシーンは美しくドラマティックで、有名な『第三の男』のラストシーンよりも好ましい、とだけ言っておこう。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
小林登先生(東大名誉教授)は小児科の世界的権威の名医であるが、「子どもは天才である」と断言している。
子どもにはあらゆる可能性、限りない未来が期待できるばかりではなく、大人には想像もつかないような行動を実行してしまう“意外性”がある。

キャロル・リードはこの子どもの素晴らしさをサスペンスあるいはスリラーの演出に見事に活かした第一人者ではなかろうか。

本日の一句
「出演といってよいのか遺影役」(蚤助)

#475: ピアニストを撃て

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フランソワ・トリュフォーが国際的成功を収めた長編デビュー作『大人は判ってくれない』(Les Quatre Cents Coups‐1959)と、トリュフォーの名声を不動のものにした彼の最高傑作(と思われる)『突然炎のごとく』(Jules et Jim‐1962)の間に作った小品が『ピアニストを撃て』(Tirez Sur Le Pianiste‐1960)である。


ギャング映画のパロディのような作品だが、やや騒々しすぎる嫌いがあって、私の好みの作風ではない。

主人公に自分の少年時代を投影させた『大人は判ってくれない』のような作品ではなく、仲間割れしたギャングを兄弟に持つピアニストが事件に巻き込まれる、いわゆる暗黒街もので、トリュフォーはこれをサスペンス仕立てにはせず、歌手のシャルル・アズナヴール扮する主人公の愛の遍歴の物語のように撮っている。
一言でいえば、自分がふがいないために妻を自死させてしまった男が、またしても恋人を死なせてしまう、という物語なのである。
新しい感覚の作品とは思っても、どこか物足りないような気がするのはそのせいかも知れなかった。

それにもかかわらず、ある意味では強い印象を残す一本である。

エルトン・ジョンが1973年にリリースした『ピアニストを撃つな』(Don't Shoot Me I'm Only The Piano Player)というアルバムは、この作品にインスパイアされたもので、このアルバムから“クロコダイル・ロック”と“ダニエル”というエルトン・ジョンのエヴァーグリーン・ヒットが生まれていることも、その理由のひとつである。

♪ ♪
場末のダンスホールのピアノ弾きシャルレ(シャルル・アズナヴール)は、かつて新進のコンサート・ピアニストだった。
彼を売り出すために興行主と関係を持ってしまった妻テレーザ(ニコール・ベルジェ)は苦悩の日々を送っていたが、シャルレは妻の苦しみを理解できず、自殺に追い込んでしまったという苦い過去を持っている。

ダンスホールでウェイトレスをしているレナ(マリー・デュボワ)は、シャルレがコンサート・ピアニストだったことを知っていて、彼を立ち直らせたいという夢を持っている。

シャルレは四人兄弟で、まだ小学生の末弟と同居している。
アパートの隣室に住む娼婦クラリス(ミシェル・メルシエ)が時々シャルレとベッドを共にしたり、末弟の身の回りの世話をしている。
ほかの兄弟二人は、ギャングに追われている。
ギャングは、その二人の居場所を突き止めるために、末弟を誘拐し、二人が隠れている山小屋に向かう。

ダンスホールのオーナーはレナに恋していたが、彼女がシャルレと恋仲になったことを知って、嫉妬からレナと喧嘩となり、仲裁に入ったシャルレに誤って殺されてしまう。
シャルレとレナは、警察から逃れるとともに、末弟を救出するため、やはり山小屋に向かうが、山小屋では銃撃戦が始まり、レナはギャングに撃ち殺されてしまう…

トリュフォーは、主人公が過去の過ちを乗り越えて、女性の愛情も獲得、メデタシ、メデタシのハッピー・エンドとなるようなハリウッド的予定調和の作品にはしていない。
最後に、オーナー殺しの正当防衛を認められたシャルレは、ダンスホールに戻ってくるのだが、そこで新しいオーナーから新入りのウェイトレスを紹介される。
おそらく三度目の悲劇が繰り返されるのではないかという可能性を暗示して、映画を締めくくるのである…。

♪ ♪ ♪
この作品には、シャルレをめぐる三人の女が登場する。

一人目は、おとなしい妻テレーザで、シャルレの回想の中にしか登場しない。
レストランのウェイトレスをしていた彼女に、シャルレはプロポーズする。

 (ニコール・ベルジェとシャルル・アズナヴール)

回想のほとんどは、二人の結婚生活が破綻をきたす様子を描くことに終始する。
テレーザが自殺をする直前、「夜が来れば、だんだん暗くなっていくのを止めることはできない」とシャルレに独白するが、シャルレの方は、妻の苦悩をきちんと受け止めることができず、肝心なところで逃げてしまったのである。

二人目のクラリスという娼婦は、陽気なグラマーで、シャルレの末弟の面倒をみたり、人情味のある女として描かれている。
商売とは関係なく、時々シャルレと寝ているのだが、二人のベッドシーンは明るいお色気にあふれていて、この映画の中でシャルレが最も楽しそうな表情をしている。
もっとも、クラリスが結婚のことなどまったく考えていないからなのかもしれない…(笑)


(ミシェル・メルシエ)

クラリスがベッドで乳房を見せるシーンがあるが、シャルレは「映画ではこうするのさ」と言って、シーツで乳房を隠してしまう。
これは、当時の映画における性の表現の偽善性に対するトリュフォー流の皮肉だったと言われている。
事実、この映画以降、ベッドシーンで女性の乳房をシーツなどで隠す演出は見られなくなったそうである(笑)。

三人目は、健康的で行動力のあるレナである。

シャルレがレナと一緒に帰宅するシーンが面白い。
シャルレは、彼女の腕をとった方がいいか、何かしゃべった方がいいか、誘った方がいいかと一人悩むのだが、結局、思い切って「一杯やらないか」と誘うことにすると、すでに彼女はそばにいなくなっている(笑)。
そこで、彼は、「これで良かったんだ。他のことを考えよう。アート・テイタムは素晴らしい。エロール・ガーナーは才能がある」などとピアニストらしい内心を語るのだが、それはナレーションで処理されていて、何だかとても可笑しい。

この後、レナは自分のアパートにシャルレを誘う
部屋にはコンサート・ピアニストだった頃のポスターが貼ってあり、レナは彼を立ち直らせて、復帰させることを夢見ていた。
この二人のベッドシーンは映像も音楽も実に甘美に撮られている。


(マリー・デュボワとシャルル・アズナヴール)

また、ダンスホールの主人とレナが喧嘩を始めると、シャルレはその場を離れ、無関心を装ってピアノを弾き始めてしまう。
これが何とも情けないのだが、小柄なアズナヴールがうまく雰囲気を出している。
結局、この後、仲裁に入って主人を殺めてしまうことになるのだが…

そして、最後にはレナはギャングに射殺されてしまうのだが、彼女の死体が雪の降り積もった山の斜面を滑り落ちていくシーンは、健康で行動的な存在だっただけに、その分余計に哀れをそそるものがある。

♪ ♪ ♪ ♪
ハンフリー・ボガート(あるいは「木枯らし紋次郎」でもよいのだが)のような孤独なヒーローは、他人と何も関わり合いを持ちたがらないが、いったん関わるととことん関わってしまうところがある。
つまり、通常、孤独なヒーローというものは自分は何も信じていないという振りをしているだけなのだが、この映画の主人公シャルレはとことん虚無的で本当に何も信じていない人物として描かれている。

そこがトリュフォー的というべきかもしれないし、ヌーヴェルヴァーグの感性というものなのかもしれないと思う次第である。

本日の一句
「タクシーを拾い未練を捨てに行く」(蚤助)



#476: 中国症候群

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あらかじめお断りしておくが、今回は、別に尖閣諸島をめぐる「反日デモ」だとか「愛国無罪」とかいう中国の風潮について論じようというのではない。

世界を震撼させた東電・福島第一原発の事故だが、改めて原子力のもつリスクを世界中に広く知らしめることになった。


今から30年以上も前の1979年3月28日のこと。
ペンシルヴェニア州にあるスリーマイル島の原子力発電所で炉心溶融という重大な事故が発生したが、この事故の起きる半月ほど前、一本の映画がアメリカで公開された。

『チャイナ・シンドローム』(THE CHINA SYNDROME‐1979)と題されたこの映画は、スリーマイル島の原発事故を予見したものとして、話題を呼び、大ヒットした。

“シンドローム”というのは、近年“メタボ”とか“メタボリック・シンドローム”などという言葉とともに知られるようになった医学用語だが、この映画の影響もあってか、「○○症候群」という風に他の言葉と組み合わせて、社会現象などを表す言葉として広く使われるようになっている。

映画の原題は「中国症候群」で、映画の中のセリフとして語られる言葉である。

アメリカで原発がメルトダウンを起こしたら、融けた核燃料が地面を貫いて、地球の反対側の中国まで影響を及ぼしてしまう、というものである。

核燃料が溶融して大地を溶かしながら地球の反対側に向かって沈んでいき、途中地下水と反応して大規模な水蒸気爆発などを起こし、広範囲にわたって放射性物質をまき散らすおそれがあるというのである。

メルトダウンが起きたら核燃料が地球の中心を通り越して、反対側の中国まで浸透していくというのは、考えるだけで恐ろしい話だが、科学的にはこういう現象は発生しないという。
さらには、地球儀を見れば容易にわかることだが、アメリカの地球の反対側が中国というのも誤りなのである。
だが、それでもこの「チャイナ・シンドローム」という言葉のもつイメージはとてつもなく大きな「恐怖」である。



♪ ♪
ジェーン・フォンダ、ジャック・レモンのほか、この作品の製作者でもあるマイケル・ダグラスが出演している。

監督はジェームズ・ブリッジス、ひと頃流行したパニック映画にせず、上質のサスペンス・ドラマに仕立てている。
もちろんエンターテインメントとしてもとても面白いのだが、それでいて原発の安全性への疑問に対して、はっきりとした主張を述べている。
それもそのメッセージをことさら言いつのることをしていない。
少なくとも、ジェーン・フォンダもマイケル・ダグラスも、原発のリスクを訴える立場のジャック・レモンでさえも、役柄の上で「原発反対」などと声高に叫んだりはしない。

♪ ♪ ♪
ジェーン・フォンダはローカルTV局の女性リポーターである。
硬派のニュース・キャスターをめざしているが、現在は他愛もないローカル・ニュースを担当している。

ある日、原発の特別番組の取材を担当することになるが、彼女にとってはステップアップの絶好の機会になるはずであった。
腕利きのカメラマンで気心の知れたマイケル・ダグラスを連れて、現場に出向くが、管制室を見学中に、原発で何らかのトラブルが発生し、管制室がにわかにあわただしくなった場面に遭遇する。
撮影禁止場所だったにもかかわらず、ダグラスは密かに管制室の様子を撮影する。
ダグラスはそのフィルムを専門家に見せ、重大事故の発生につながる可能性があったことを知る。
だが、原発側からはこのトラブルに関する何の発表もなかった。

ジャック・レモンは管制室の責任者でトラブルに直面した当事者だったが、計器の表示の誤りに気付いて、間一髪のところで大惨事を辛うじて免れていたのだった。
レモンは次第に、原発の安全性に疑問を抱き始め、過去の資料を調べ直すと、そこで義務付けられているはずの検査が長期にわたって行われておらず、多額のコストを伴うこともあって、定期検査報告書が不正に作成されていたものであることを知る。

そこで、レモンはフォンダやダグラスの協力を得て、マスコミを通じて世間に告発しようとするのだが…


(ジェーン・フォンダとジャック・レモン)

♪ ♪ ♪ ♪
フォンダは凛々しく毅然としていてなかなか良いが、特にレモンがシリアスな役柄に徹していて見事である。
自分の仕事に誇りを持ち、原発の安全性に疑いを持っていなかったが、トラブルの原因は徹底的に究明しようとする、そういう人物の描き方も説得力があった。

終盤、原発の安全性を信じて疑わず、レモンの行為を膨大な損失をもたらす背信的なものと判断し、暴力も辞さない実力行使に出る原発会社側と、事故発生の兆候が現実のものとなることを命がけで阻止しようとする原発技師レモンとのサスペンスあふれる攻防を描くが、小難しい理屈を述べるのではなく、エンターテインメントとして一気に見せてしまう手腕が素晴らしい。

巻き込まれ型サスペンスの常道をいく作り方だが、レモンは、この映画でカンヌ国際映画祭の男優賞を授与されている。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
フォンダが、管制室の責任者レモンに、自分が目撃したトラブルについて取材をしようとすると、彼はその取材を歓迎せず、こう言う。

 「記者にとっては悪いニュースがいいニュースだ」

なるほどと思わせる至言である。

本日の一句
「王の耳いいニュースしか聞こえない」(蚤助)

将来、きっと「スリーマイル」「チェルノブイリ」「フクシマ」と原発事故三題噺のように伝えられていくだろうことに思いを馳せ、はたまた故郷喪失の危機に直面する多くの人々のことを考えると、心が痛むのである。

#477: 西部劇と聖夜

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西部劇と聖夜の取り合わせというのはミスマッチである。
拳銃やライフルといった銃器とクリスマスのような宗教的要素というのは基本的に相反するものだが、私の知る限り、ジョン・フォードが撮った『三人の名付親』(3 Godfathers‐1948)という作品が、この両者を関連付けた一本である。

 (三人の名付親)

寡聞にして他の例を知らないのだが、クリスマス向きの西部劇というのは比較的珍しいのではなかろうか。
この作品はクリスマス興行用に製作されたものだというから、当然といえば当然である。

原作は、日本ではあまり知られていないが、ピーター・B・カインという作家が「サタデイ・イヴニング・ポスト」に掲載した同名小説である。
この小説は五回も映画化されている物語で、そのうち二本をジョン・フォードが監督している。
ちなみに、フォード以外で知られているのは、ウィリアム・ワイラーがチャールズ・ピックフォード主演で撮った『砂漠の生霊』(Hell's Heroes‐1930)という作品で、このストーリーをベースにしている。


フォードは、まず自らのキャリアのごく初期にサイレント映画『恵みの光』(Masked Man‐1919)という作品をハリー・ケリーの主演で撮った。
フォードはサイレント時代にハリー・ケリーが主演した数多くの映画を演出しているのだが、そのリメイク版の『三人の名付親』にはジョン・ウェインを主演に起用し、しかも彼に銀行を襲撃させ、赤子の子守までさせている(笑)。

映画は「初期のウェスタンの輝けるスター、ハリー・ケリーの思い出のために」というような献辞で始まるが、ハリー・ケリーは、本作製作の前年(47年)に他界していた。

この映画には、その息子、ハリー・ケリー・ジュニアが重要な役どころで登場する。
主人公三人組の一人としてである。
以後、フォードは、ジュニアをフォード一家に迎え入れ、主として西部劇の脇役として多くの作品で使うことになるのだが、残念ながら俳優としては、親父を超えることはできなかったようだ。

 
(左から、ハリー・ケリー・ジュニア、ジョン・ウェイン、ペドロ・アルメンダリス)

♪ ♪
西部の三人のお尋ね者(ウェイン、アルメンダリス、ジュニア)は、銀行強盗に失敗し、灼熱の砂漠に逃げ込む。
保安官のウォード・ボンドらに追跡され、水を求めて彷徨う中で、三人は打ち捨てられた馬車を発見する。
馬車の中には、身重の母親(実はボンド保安官の姪)が瀕死の状態で横たわっていた。
三人は苦労した挙句、無事に出産させることに成功して、請われて名付け親となるが、母親は赤ん坊を託したまま亡くなってしまう。

三人は追っ手から逃れつつ、赤子の命を救おうと苦闘し、砂漠をさすらううちに、母親が持っていた一冊の聖書に導かれて、次第に贖罪の旅のようなものになっていく。
やがて、ジュニア、アルメンダリスの順に死んでいくが、二人の思いを受け継いで赤子を抱いたまま歩き続けるジョン・ウェインを、幻となって現れ励まし続ける。

一方、保安官ボンドは、三人が姪を殺した犯人だと誤解したまま、復讐の念に燃えて執拗に跡を追うが、ようやくたどりついた町の酒場で、彼が目撃したのは思いもかけないものであった…

♪ ♪ ♪

(ジョン・ウェイン)

たとえば、上記のように、宗教的な香りが漂う場面が随所に登場する。
物語の展開に重要な役割を果たすのが聖書であるし、ジョン・ウェインと赤ん坊が町にたどりついたのがちょうどクリスマスの日で、その町の名も「ニュー・エルサレム」である。
三人のお尋ね者は、まるでキリスト誕生の日に現れた三人の聖者のように描かれているのである。

この作品、ウェスタン・フリークとして知られるエッセイストの芦原伸の好著『西部劇を読む事典』(生活人新書)で『必ず観ておきたいクラシック西部劇30選』にリストアップされている1本である。
フォードらしいユーモアとペーソスがほどよくミックスされていて、西部劇というよりは、むしろ舞台を西部に設定したクリスマスの寓話というべき作品かもしれない。

三人組の残りの一人、ペドロ・アルメンダリスは、メキシコの役者で、やはりフォードの作品でアメリカ映画デビューした。
その後各国で活躍したが、『007ロシアより愛をこめて』(1963)で英国情報局のトルコ支局長を演じ、これが遺作となった。
ちなみに、息子のアルメンダリス・ジュニアも007シリーズに出演していた。

三人が保安官らに追われる原因となった銀行強盗について、そのアルメンダリスの吐く意見である…

「銀行強盗より牛泥棒の方が楽だ。牛は撃ってこない」

ネバダ・スミス』で、ブライアン・キースがスティーヴ・マックィーンに言う「ウサギは撃ってこない」というセリフとまったく同旨である。

ちなみに、この映画をモチーフにして製作された作品は、85年のフランス映画『赤ちゃんに乾杯!』(3 Hommes Et Un Couffin‐コリーヌ・セロー監督)、87年のアメリカ映画『スリーメン&ベビー』(Three Men And A Baby‐エミール・アドリアーノ監督)などがあり、いずれも続編が製作されるほどのヒット映画になった。

♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「火の車知らず乳飲み子欠伸する」(蚤助)

#478: 追いつめられて

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上司が行った犯罪をカバーしていくうちに、次第に自分が犯人として特定されていく…

組織に属する人間にとっては、何だかとても恐ろしい話だが、ケネス・フィアリングの原作小説である。
小説では主人公があまりにも自己中心的に描かれていて、あまり感情移入できなかった記憶があるが、これを映画化したのが『大時計』(The Big Clock)という作品である。
ずいぶん昔のこと、テレビで深夜放映されたのを観て、なかなかサスペンスあふれるミステリー映画になっていると感心した記憶があるが、それ以降、一度もお目にかかったことがない。


調べてみたら、1948年の作品で、監督はジョン・ファーローだった。
この人、女優のミア・ファーローの父親で、監督としての評価はさほど高くはないが、器用な人だったようである。
タヒチ語の辞典を編集したり、『八十日間世界一周』の脚本にも参加していた。

その『大時計』だが、舞台は大きな出版社(新聞社?)で、そのビルの屋上に大きな世界時計がついていて、それが題名の由来である。
社長(チャールズ・ロートン)が、情婦の部屋を訪ね、嫉妬から女を殺してしまう。
社長は腹心の部下に打ち明けるが、部下は、別の犯人を捜し出すというアイデアをひねり出す。
その調査チームのリーダーに抜擢されたのが社員のレイ・ミランド。
実は、彼は直前まで情婦の部屋にいて、入れ替わりに社長が部屋に入っていくところを目撃していた。
しかし、調査が進んでいくにつれて、徐々に状況が自分が殺人犯であることを示唆していくようになる…というサスペンスだった。

ちなみに、レイ・ミランドの妻役がモーリン・オサリヴァンで、彼女はミア・ファーローの母親で、つまりこの映画はミアの父と母が関わった作品ということになる。

♪ ♪
これをリメイクしたのが、1987年の『追いつめられて』(No Way Out)である。

これと同じ邦題『追いつめられて…』(1959)というのがあって、「…」があるかないかの違いであるが、こちらは原題を『Tiger Bay』というイギリス時代のJ・リー・トンプソンの佳作スリラー、人気子役だったヘイリー・ミルズの映画デビュー作でもあった。

さて、リメイク版は、ロジャー・ドナルドソンの監督作品で、舞台をペンタゴン(国防省)に変えてあるのが現代的である。
ミランドの役がケヴィン・コスナーの海軍将校、社長ロートンの役が国防長官のジーン・ハックマンで、旧作よりもぐっと大物になっている。
上司のしでかした殺人の容疑をかけられた部下が逃げ回りつつ真犯人探しをするという物語の骨子は同じだが、CIAとか、KGBとか、国家機密とか出てきてスケールアップしている。

これが難しいところだが、大きくなった分、旧作の持つ小粒だがヒネリの利いた都会派ミステリーという味わいが失われているのが残念である。
ただし、少ししょぼくれたミランドよりもコスナーの方がはるかに生きがいいし、ハックマンはロートンの芝居よりもクサくないし、情婦役を演じたショーン・ヤングのセクシー度は旧作とは比較にならない。


(ショーン・ヤングとケヴィン・コスナー)

旧作で腹心の部下に扮したのはジョージ・マクレディで、とても上手く演じていた印象があるが、新作の方ではウィル・パットンが演じた。
これも現代的なのだが、彼はゲイという設定で、そこに忠実な部下という以上の意味が込められているようだ。


(左:ケヴィン・コスナー、中:ジーン・ハックマン、右:ウィル・パットン)

土壇場で彼は叫ぶ。
「権力を持っている者は何でもできるのだ」

コスナーは身の潔白をはらそうとするほど追いつめられていく。
クライマックスのペンタゴンの建物内の逃亡劇や、犯人とされる人物が写っているというピンボケの写真がデジタル処理によって画像がクリアになっていく過程は、観ていて脈拍が上がる。

今の世の中、サスペンスによってしか描けない真実があることに、あらためて気づかされる作品である。

♪ ♪ ♪
本日の一句
「隠しごと見つかりそうな脳スキャン」(蚤助)

#479: 孤独な場所で

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フランク・ロイド・ライトの下で、建築を学んだこともあるニコラス・レイ(1911-1979)は、ニューヨークで左翼演劇の活動に加わった後、映画監督となった。
アメリカ映画の巨匠のひとりであり、ヌーヴェルヴァーグの作家たちからリスペクトされる映画作家であった。

私は、『理由なき反抗』(Rebel Without A Cause‐1956)や『北京の55日』(55 Days At Peking‐1961)などという作品で彼の名を知った。

ドロシー・ヒューズのサイコ・サスペンス小説を彼が映画化したのが『孤独な場所で』(In A Lonely Place‐1950) である。
ヒッチコックのタッチにも似たムードをもつフィルム・ノワールで、自尊心が強く激しやすい危険な男をハンフリー・ボガートが好演、共演したグロリア・グレアムが驚くほどいい女ぶりを見せる。
50年代のフィルム・ノワールの代表的な女優で、私が好きなひとりである。

 (グロリア・グレアム)


有名な脚本家だが、長いことまともなシナリオを書いていないボガートは、プライドが高く、ちょっとしたことでキレて暴力に走る男である。

ある日、エージェントからある小説の映画化を引き受ける。
しかし、本を読む気にならず、その本を読んだというクラブのクローク係を自宅に連れ帰り、内容を語ってもらうことにする。
彼女に謝礼を渡して帰宅させたが、翌日の早朝、彼女が死体で発見される。

警察でアリバイを聞かれたボガートは、向かいのアパートに住む女、グレアムのことを思い出す。
彼女は、前夜クローク係が一人で帰って行ったことを証言する。

それが縁で、二人は親密になっていく。

警察はボガートへの容疑を捨てきれず、再びグレアムの証言を得ようとするが、彼女は無視する。
ところが、ボガートの友人である刑事の妻がうっかりとその話を口にしてしまったことから、ボガートがまだ警察に疑われていると激怒する。


(グレアムとボガート)

車を猛スピードで飛ばすボガートは、危うく事故を起こしかけたドライバーと口論になり、相手を殴り殺そうとする寸前でグレアムが止める。

ボガートの暴力的な性格が表面化してくると、グレアムは不安になり、ひょっとしたら彼が犯人なのではないか、という疑念が次第に芽生え始めていく…

♪ ♪
甘さのほとんどないストーリーだが、見終ったあとでもザラッとした不安感が残る奇妙な味の作品で、カルト的ファンがいるのも頷ける。

特に、グレアムが証言するために警察へ姿を見せるシーンは素晴らしく、クラッとするほど妖艶である。
いかにも裏がありそうなミステリアスなムードを漂わせているが、ストーリーが進んでボガートとの仲が睦まじくなっていくにつれ、その魅力が増していくようだ。
そして、ボガートが暴力的な本性を見せ始めると、それまでボガートの立場でストーリーを追っていた観客は、いつの間にかグレアムの方に感情移入していくような仕掛けになっている。

だが、すべての人間にロマンスが訪れるわけではないし、めでたく成就するロマンスばかりとは限らない。
結局、ボガートは再び孤独な場所に戻って行かざるを得なくなるのである。

なお、余談だが、劇中、ボガートとグレアムが、ナイトクラブで酒を飲んでいるシーンが出てくる。
グランド・ピアノの端に座っていて、黒人女性のピアノの弾き語りを聴いているのだが、この歌手はハダ・ブルックス(1916‐2002)である。
美貌の歌手・ピアニストで、レナ・ホーンに似ているという人もいるようだが、私はむしろカーメン・マクレエを連想した。
歌っていたのは“I Hadn't Anyone 'Til You”というバラード曲である。

♪ ♪ ♪
本日の一句
「喋らなきゃとっくに晴れていた疑惑」(蚤助)

#480: 夜の静けさに(前)

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このところ映画ネタが続いたので、ここいらで目先を変えて、音楽ネタにしよう。


ノーマン・ジュイソン監督の『夜の大捜査線』(1967)は名作の1本である。
シドニー・ポワチエ扮するフィラデルフィアの敏腕刑事と、ロッド・スタイガー演じる南部の田舎の警察署長が丁々発止と渡り合うサスペンス・ミステリーであった。

と、またまた映画のハナシになっていきそうだが、この映画、邦題が全くセンスが感じられず、私は気に食わないのだ。
原題は“In The Heat Of The Night”(夜の熱気の中で)というもので、クインシー・ジョーンズの同名の主題曲とレイ・チャールズのソウルフルな歌が、この名作を名作たらしめるのに大いに寄与している。

♪ ♪
この映画でなぜか思い出してしまうのが、“In The Still Of The Night”(邦題『夜の静けさに』)というスタンダード・ナンバーである。
“Heat”と“Still”、熱気と静けさ、まるで対照的な言葉であるにもかかわらずである。

なんとなく似たタイトルだということもあるが、映画の二人のキャラクターが見事に対照的だったりするからかもしれない。
すなわち、スタイガーの頑迷さが“Heat”だとすれば、ポワチエのクールさは“Still”だったからだ。

コール・ポーターの代表的なラブ・ソングで、彼の作品にしてはただただロマンティックで大甘な曲だ。
大学のフットボールの花形選手と、身分を隠したプリンセスとの恋の行方を描いたミュージカル『Rosalie』(1937)のために書いたもので、エリナー・パーカーへ寄せる恋心を、主演のネルソン・エディが歌ったのが初演だそうである。

歌の内容は、

♪月の航海を窓から見ていると/ぼくの思いは君へと彷徨っていく/ぼくが君を愛しているように/君もぼくを愛してくれるだろうか?/ぼくの伴侶に/夢にまでみた人になってくれるだろうか?/それともこの夢は消えてしまうのだろうか…

という調子だが、ポーターの作品にしては割に平凡な歌で、タイトルの「静けさ」とは逆に、情熱的な求愛の歌なのである(笑)。

楽曲の構成は、ヴァースなし、コーラス部72小節、メロディーは美しいが、全音符の箇所が多くシンプルなので、普通に歌うとたいていの場合、間延びしてしまう。
正直いって、この曲を原曲通りのバラードで歌ったら、何ともカッタるくなること、必至なのだ。

♪ ♪ ♪
ところが、こういう曲をジャズの人たちはよく取り上げるのが面白いところである。
自分の個性をどう出すかが勝負なので、思い思いのリズムやテンポ設定で演じられる。

冒頭の画像は、40年代に少女歌手としてデビューし実力派のシンガーとして活躍したトニ・ハーパーの代表作『Night Mood』(1962)だが、マーティ・ペイチの編曲によるビッグ・バンドをバックにミディアム・テンポで軽快に歌う。
伴奏のバンドも抜群のスウィング感で、実に好ましい。


(Julie London/All Through The Night‐1965)

ジュリー・ロンドンは、バド・シャンク、ラス・フリーマン、ジョー・パスなど歌伴がうまい猛者を従えて情緒たっぷりに聴かせる。

ほかにも、フランク・シナトラがミディアム・スウィング、ジョー・スタッフォードが倍速スウィング、シンガーズ・アンリミテッドがゆったりとしたボサ・ノヴァでと、それぞれが自らのスタイルでこの歌を披露している。


(Ella Fitzgerald Sings The Cole Porter Songbook‐1956)

おっと、忘れちゃいけない、エラ・フィッツジェラルド。
“Begin The Beguine”の作曲者ポーターへの敬意を表するためであろうか、ビギンのリズムで歌う。
伴奏はバディ・ブレグマン編曲のビッグ・バンド。
エラは伴奏がオーケストラであろうが、小さなコンボであろうがまったく関係なく、いつでも「ファースト・レディ」の名にふさわしい素晴らしい歌唱を聴かせる。
エラの作品に駄作はない、これってほんまエラいこっちゃデ…

♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「長い夜短い夜もあるひとり」(蚤助)

#481: 夜の静けさに(後)

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前稿の続きである。


実は“In The Still Of The Night”(夜の静けさに)の同名異曲が存在する。
こちらの方は、Doo Wop(ドゥー・ワップ)の名曲で、“In The Still Of The Nite”(夜の静けさの中で)と表記されることもある。
“Night”のスペルが違っているが、これは、前稿で取り上げたコール・ポーターの同名曲と混同しないようにという配慮によるもので、別に、私の語学力のせいではない…(笑)。

1987年の大ヒット青春映画『ダーティ・ダンシング』(Dirty Dancing‐エミール・アドリアーノ監督)のサウンドトラックに使われ、発表されてから何度目かのヒットを記録した。

♪ ♪
「ファイヴ・サテンズ」(冒頭画像)という、5人組のドゥー・ワップ・グループがオリジナルである。
サテンというのは「繻子」のことで、非常に柔らかな絹織物だが、その名の通り、滑らかなヴォーカル・ハーモニーのグループであった。

リード・ヴォーカルのフレッド・パリスは、高校在学中に最初のコーラス・グループを結成しマイナー・ヒットを飛ばしたりしていた。
ところが、グループの活動が本格的に軌道に乗る直前、メンバー全員が兵役のため陸軍に入隊してしまう。
音楽活動はそこで中断されるかと思われたが、ここで彼の身に奇跡的なインスピレーションが訪れるのである。

フィラデルフィアの基地に配属されたパリスが、歩哨の任務に就いたある夜のこと、夜明けの前が一番暗いというが、時計の針が午前5時を回るころ、まだ闇夜の中に立つ彼の頭の中に突然ある旋律が浮かんだ。
これが、愛すべき傑作バラード“In The Still Of The Night”誕生の瞬間であった。




♪ ♪ ♪
歌はこんな内容である。
パリスはお約束通り、night、tight、light、might、may、pray…と韻を踏んだ歌詞をつけている。

 ♪ 夜の静けさの中で、ぼくは君を抱いた
   強く抱きしめた、なぜって君のことを愛したから
   ぼくは決して君を離さないと約束した
   夜の静けさの中で
   5月の夜のことを忘れない
   天の星は明るく輝いて
   ぼくは希望を抱き、そして祈った
   君の大切な愛が続くようにと…

レコーディングは、1956年の2月26日、コネチカット州のとある教会の地下室で行われ、ミリオン・セラーを記録することになるのだが、パリスは、レコード会社からわずか35ドルの小切手をもらっただけだったという。
しかも、彼がこの自作自演の曲がヒット・チャートを駆け上がっていくのを知るのは、陸軍の任務で日本に駐留していたときであった。

当時の黒人ミュージシャンのおかれた環境は、現在では信じられないほどのものだったわけだが、大物であったサム・クックのように、自分で会社を作って著作権を管理できた人は例外的な存在であった。

ブルース、ジャズやロック、果てはラップ・ミュージックに至るまで、黒人が創造した音楽を、白人が模倣、収奪していくという基本的な構造は、昔からまったく変わっていないことを知るべきだと思う。

♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「車窓から深い暗闇見る夜汽車」(蚤助)

#482: 明日に向って…

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昨日、本ブログの累計来訪者が10万人を突破したようだ。
開設したのが2008年4月のことだから、およそ4年8ヶ月かかったことになる。
10万人目のアクセスをされた方がどなたか存じ上げないが、これまで来訪されたすべての方々にこの場を借りて御礼申し上げたい。
これからさらに「明日に向って」ネタ切れになるまで続けていきたい。

で、今回が『明日に向って撃て!』のハナシになったのは、まったく偶然で他意はない(笑)。


1970年の『明日に向って撃て!』(Butch Cassidy And The Sundance Kid)は、従来のハリウッド伝統の西部劇とは一線を画すモダンなウェスタンで、アメリカン・ニューシネマの台頭を決定づける作品であった。

監督のジョージ・ロイ・ヒル(1922-2002)は、元々映画畑の人ではなく、ブロードウェイの脚本・演出家として出発し、テレビ・ドラマの演出を経て映画界入りした。
突然モノクロというか、セピア調になったり、スティル(静止画面)を使ったり、やや技巧に走りすぎて鼻につくところもあるのだが、冒頭のシーンなどはサイレント時代の『大列車強盗』あたりを意識した作りをしていて、新感覚というよりは、むしろ懐古趣味の人というべきかもしれない。
『モダン・ミリー』(Thoroughly Modern Millie‐1966)や『スティング』(Sting‐1973)にもそのノスタルジックな趣向はいかんなく発揮されていた。

大ヒットした作品なので、多くの人がご存知だと思われるので、ストーリーについては詳しくふれない。
ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドという実在した二人のギャングが、大胆不敵な列車強盗に成功するが、逃亡劇の果てに官憲の一斉射撃を浴びてはかなく死んでいくという挫折の物語が、バート・バカラックの軽快な音楽にのって現代感覚たっぷりに表現された傑作であった。

史実に基づいているとはいえ、二人は大都会ニューヨークで遊んだりするし、最後には南米ボリビアまで出かけたりして、なんだか西部劇らしくないと感じられたものだが、『スティング』でも共演するポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのコンビが絶妙であった。

♪ ♪
この作品で、とりわけ斬新だったのは、ブッチ役のポール・ニューマンが女性教師エッタ役のキャサリン・ロスを自転車に乗せて走り、それにB. J. トーマスの歌う“Raindrops Keep Fallin' On My Head”(雨にぬれても)がかぶさるシーンである。



この異色西部劇のいわば間奏曲にあたるような部分で、ジョージ・ロイ・ヒルの演出には青春の匂いが漂っている。
エッタがブッチとサンダンスという二人の男に愛され、しかも彼女の方も二人に好意を抱いているというそこはかとない描写もなかなか味がある。
このシーンは、その後テレビ・コマーシャルなどにずいぶん模倣されたものだが、私の最初の印象も「まるでCMみたいだ」と思ったものである。

♪ ♪ ♪
ロイ・ヒルの演出で感心したシーンをもうひとつ。

強盗被害にあった会社が雇った最強の追跡者たち(遠景で登場するのみ)に、眼下に急流が走る崖っぷちまで追いつめられたブッチとサンダンスのやりとりである。
ご参考までに、テレビ放映された日本語字幕をノーカットで再録させていただく(笑)。
Bはブッチ(ポール・ニューマン)、Sはサンダンス(ロバート・レッドフォード)のセリフである。

[ブッチが崖の上から]
B「飛び降りよう」

[サンダンスはこわごわと崖下を見て]
S「地獄行きだぞ」
B「水が深いから大丈夫だ。下まで追って来ねえよ」
S「分かるもんか」
B「遊びで飛ぶと思うか」
S「俺は嫌だ」
B「飛ばなきゃ死ぬぞ。他に逃げ道はない」
S「一発だけ撃たせろ」

[サンダンスの顔を覗き込みながら]
B「早く!]
S「うるさい。俺は撃ちあう」
B「殺される。死にてえのか。先に飛ぶぜ」
S「ノー」
B「じゃお前が先だ。何で飛ばないんだ」

[サンダンスがブッチを見て首をすくめる]
S「泳げないんだ!」

[ブッチは声を上げて笑い出す]
B「関係ないさ。どうせ死ぬんだ」

やっと決心したサンダンスは大声を上げてブッチと一緒にダイビングしていく…

♪ ♪ ♪ ♪
二人の関係がこのやりとりの中で見事に表されていると思う。
二人はアウトローだが、青春の真っただ中にいるという感じがとてもよく出ていて実に好ましい描き方である。
特に、「I Can't Swim」という別にとりたてて何ということもないサンダンスことロバート・レッドフォードのセリフは、忘れがたい一言になってしまったのだから不思議といえば不思議である。

そういえば、J・リー・トンプソンの戦争大作『ナバロンの要塞』(The Guns Of Navarone‐1961)で、爆薬の専門家である伍長を演じたデヴィッド・ニーヴンも「泳げないんだ」というセリフを吐いていたのを思い出した。

そして、ラストの二人の壮絶な死である。



ニューシネマの特色のひとつは、若者たちの死んでいく姿をどう描写するかという点にあったと思うが、これは、アーサー・ペン『俺たちに明日はない』(Bonnie And Clyde‐1967)、デニス・ホッパー『イージー・ライダー』(Easy Rider‐1969)そして本作の鮮烈なラスト・シーンが一連のイメージに連なっていると言えるであろう。
それは当時のアメリカの若者たちの深い挫折感の反映であったことは言うまでもない。

今考えると、『明日に向って…』というのはなかなか意味深長な邦題ではなかったか。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「親に子の遺影抱かせる酷なやつ」(蚤助)


#483: 森田村の四季

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青森県西津軽郡森田村…

村内に「つがる地球村」という何とも大きな名前がついたレクリエーション施設があって野外円形劇場が設営されている。
青森勤務時代に、「けやぐ柳会」同人のT沢氏に誘われて、杉田二郎、堀内孝雄、因幡晃、ばんばひろふみが出演したフォーク・ジャンボリーというサマー・コンサートを同劇場まで聴きに行ったことがある。

その森田村はリンゴと米の産地だった。

「だった」と過去形なのは、今はその森田村が存在しないからである。
2005年2月11日、周辺の木造町、柏村、稲垣村、車力村と町村合併して「つがる市」となったのだ。



森田村という自治体は消えたが、その名はまだしっかりと残されている。
一枚のCDとしてである。


1990年代の半ば、森田村は、ジャズ・ピアニスト、作・編曲家、バンド・リーダーとして世界的に活躍する秋吉敏子に、村の生活をテーマにした作曲を委嘱した。

戦後、旧満州から九州に引き揚げてきた秋吉が、別府でピアノを弾き始めたのが1946年のことで、1996年というのは彼女の音楽生活50周年という節目の年にあたった。
この年、記念行事で多忙だった彼女がもっとも情熱を注いだのが、自ら率いるビッグ・バンド(秋吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチャリング・ルー・タバキン)による記念レコーディングだった。
彼女は、森田村に足を運んで1年の生活をテーマに作曲し、それを記念アルバムの中心にすることにしたのである。

アルバム・タイトルは『FOUR SEASONS OF MORITA VILLAGE』とし、その内容はカラフルで変化に富み、生命の躍動感にあふれた見事な作品となった。
ジャズの伝統的な要素を生かしながら、そこに日本人としての独特な響きや自身の個性を加えて、秋吉敏子という音楽家のジャズ・サウンドの集大成というべきものになっている。

♪ ♪
アルバムは1996年7月に、ニューヨークのクリントン・スタジオで収録された以下の7曲で構成されている。

  1.Dance Of The Gremlins
  2. Four Seasons Of Morita Village: Repose
  3. Four Seasons Of Morita Village: Pollination
  4. Four Seasons Of Morita Village: Norito
  5. Four Seasons Of Morita Village: Harvest Shuffle
  6. Retro Zone
  7. China Remembered (My Teacher, Mr. Yan)

このうち#-2から#-5までの4曲が、組曲“フォー・シーズンズ”である。

まず、#-1はアルバム巻頭を飾るワルツタイムで快調にスウイングする。
#-6は、タイトル通り、レトロ調のスインギーなナンバーで、彼女には珍しくクラリネットがリードするアンサンブル、ルー・タバキンのテナーをはじめソロ・プレイヤーとオーケストラのエキサイティングな対話とやりとりがハイライトとなっている。
#-7は、旧満州時代に少女だった秋吉にピアノを教えてくれた楊(ヤン)先生に捧げられた曲で、思い出と再会の喜びにあふれた中国風の抒情的な旋律が美しい。

♪ ♪ ♪

(岩木山の夕景)

組曲“フォー・シーズンズ”は大作である。

ヴィヴァルディの協奏曲“四季”にせよ、アストル・ピアソラの“ブエノス・アイレスの四季”にせよ、いずれも「春」から始まるのだが、リンゴと米の産地である森田村は収穫の秋がハイライトとなるので、あえて第1曲を冬のイメージ“Repose”にしたという。
リポーズは「休息」とか「静寂」とかの意だが、雪深い東北の冬、農作業の始まる春をじっと待っている冬、静かで冷たい空気を破って突然樹木から落下する雪の音などがイメージされていて、聞こえてくる津軽三味線が「津軽」の空気を濃厚に表現している。

第2曲の“Pollination”は「授粉」だが、タイトル通り、春が来てリンゴの花が咲き、授粉作業に忙しい季節である。
村全体で農作業にいそしみ、それがなごやかな雰囲気の中で行われている。
タバキンのフルート・ソロは春の陽光を思わせ、ボサ・ノヴァ風の軽やかなリズムが耳に心地よい。

第3曲の“Norito”は「祝詞」で、夏である。
リンゴの樹や田畑の手入れをし、秋の実りを願って、幾多の祈りの行事(夏祭り)が行われる季節でもある。
ここでは森田村で実際に行われていた祭りの祝詞が用いられている。
日本的な情緒が漂う曲で、ベース・ソロ、テナー・ソロが力強いアドリブを展開していく。
バンドとソロのコントラストがスリリングで、広大なイメージが広がる。



終曲の“Harvest Shuffle”は、文字通り収穫の歌である。
森田村の秋は喜びの季節である。
力強いアフター・ビートのシャッフル・リズムで収穫を祝い、楽しむ気分を出している。
リスナーまで身体をスウィングさせたくなる曲で、唸るようなビッグバンドの迫力には圧倒される。
森田村の四季はこの秋の豊かな収穫によってクライマックスを迎える。

♪ ♪ ♪ ♪
秋吉敏子は、今日まで数多くのビッグ・バンドのアルバムをを録音しているが、「ダウンビート」誌の人気投票や批評家投票でビッグバンド、作・編曲家部門の1位を総ナメするほどの人気と評価を誇っていた。
しかも、どのアルバムも全曲自分の作曲と編曲のみで通しており、それでいながらポピュラーな人気を得てきたことも素晴らしいことであり、ジャズマスター賞の受賞なども遅きに失したくらいである。

このアルバムも、秋吉のピアノ、夫君タバキンのテナーとフルート、ウォルト・ワイスコフのテナー、ジム・スナイデロとデイヴ・ピエトロのアルト、スコット・ホイットフィールドとパット・ハレーランのトロンボーン、ジョー・マグアレリのトランペット、ダグ・ワイスのベース、テリー・クラークのドラムスなど優秀で多彩なソロイストを揃えていて、ソロとオーケストラの見事な対話を楽しむことができる。

ルパング島で発見された小野田少尉をモチーフにした『孤軍』(1974)や、世界に公害の悲惨な状況を広く知らしめた水俣病を素材にした『ミナマタ』(1976)など、大きなテーマからイマジネーションを広げたオリジナリティあふれる傑作を発表してきた秋吉=タバキン・オーケストラだが、この作品もそれら傑作群の一つに列せられるべき作品であることは間違いない。

津軽に何らかの縁のある人、興味を持っている人はぜひ一聴してほしいアルバムである。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「地元紙が県人と書く郷土愛」(蚤助)

#484: 青い天使

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貧しいユダヤ系ドイツ人の移民の子であったジョセフ・フォン・スタンバーグ(1894-1969)の長く苦しい生活体験は、彼の監督作品に深い人生の翳りをもたらし、ほろ苦い味わいを与えた。

スタンバーグ最大の功績は、ドイツ生まれの無名の踊り子であったマレーネ・ディートリッヒを発見し、たちまちのうちに20世紀最大のスターに育て上げたということであろう。
無声映画からトーキーへの移行期において、スタンバーグはドイツ映画界きっての大プロデューサーであったエリッヒ・ポマーに招かれてドイツに渡った。
アカデミー主演男優賞の第1号でもあった名優エミール・ヤニングスの相手役にディートリッヒを起用して作ったのが『嘆きの天使』(1930)であった。

スタンバーグとディートリッヒが初めて組んだ作品で、ドイツ映画特有の息苦しいような暗さの間に、ほのぼのとした生きる喜びや、他人から見れば滑稽に見える人間の愚かな行為を巧みに織り込んだ明暗のくっきりした名品であった。
本作を皮切りに、しばらくの間、世界の映画ファンは次々と発表される絢爛たるスタンバーグの耽美的世界にあふれた諸作に眼を見張るばかりだった。

本作の原題は“Der Blaue Engel”(青い天使)で、劇中のキャバレーの名前であるが、主人公にとっては人生を破滅の道へと導く踊り子の「堕天使」としての暗喩であったかもしれない。
『嘆きの天使』というのはなかなかいい邦題である。


港町ハンブルグで、教室と下宿以外は何も知らない謹厳な教授のラート(エミール・ヤニングス)は、独身のままで初老を迎えていた。

ある日、学生の持っていたブロマイドから、彼らがキャバレーの踊り子に熱を上げていることを知り、学生を誘惑するなと談判をしに、踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)の楽屋を訪れる。
ローラはこの謹厳実直で真面目な教授に、面白半分でウィンクをしたり、歌を聞かせたりしたおかげで、ラートは彼女の魅力にすっかり囚われてしまう。
生まれて初めての感情にしびれたように連日彼女の楽屋を訪ねるのである。


(エミール・ヤニングスとマレーネ・ディートリッヒ)

そんな姿を学生たちは冷やかしはやし立てるので、怒ったラートは頭ごなしに怒鳴りつけるが、それが学生たちの反感を買い、彼のボイコット運動が次第に広がっていく。
ラートはついに長年親しんだ学校を追われ、やむなくローラのところに転がり込む。
彼は全身の情熱を捧げローラに求婚、彼女の亭主の座に収まり、旅回りの一座に身を任せることになる。

時は巡って…
ラートは、今や妻ローラのブロマイドを酒場で売り歩くまでに落ちぶれていた。
商売に抜け目のない座長が、ラートを道化役者に仕立てて、かつて教鞭をとっていたハンブルグで興行することを思いつく。

ラートはまっ白いドーランを塗り、道化役を演じる。
客席にいたかつての同僚や教え子たちは笑い転げ、野次を浴びせかける。
哀れなラートはやっとの思いで舞台を降りると、そこで見たのはローラが若い座員といちゃつく姿であった。
ラートはすっかり逆上して男につかみかかるが、その殺気だった行動に驚いた他の座員たちに叩きのめされて、拘束着を着せられてしまう。

ハンブルグの裏町を彷徨うラート。

翌朝、かつて教鞭をとった教室で、道化姿の男の死体が襤褸のように転がっていた…

♪ ♪
この作品の魅力は、当時の一代の名優ヤニングスの名演技である。
彼のトーキー第一作として企画された作品である。

主人公ラートは、ラストで狂気の中で、昔教鞭をとっていた教壇に倒れこんで死んでいくのだが、それは学生たちに世間のことに無知だとバカにされてきた場所でもあった。
ラートが教職にしがみついていた半生は、人生と格闘するという経験とは無縁な世界であった。
だからこそ彼は最後に逃げるようにして、教壇にしがみついて死んでいくのである。
この作品の肝はこの皮肉にある。
教職者こそ、人間というものをもっともよく知らなければならないのである。

だが、この作品を不滅のものとして輝かせているのは、ヤニングスの名演技もさることながら、無名の踊り子から大抜擢され、その脚線美を惜しげもなくあらわに歌いまくったディートリッヒの妖しいまでの美しさにある。
ディートリッヒという20世紀を代表する「シンボル」の一つが生まれた瞬間を現在の我々も見ることができるのである。

もっとも、この作品の前半の彼女はぞくっとくるほどの美しさは思いの外まだない。
脚は細くて長いが、ウェストが太めで、当時の美の基準に従えば、ど真ん中のストライクなのだろうが、現代の目で見るとスタイルが良いとは必ずしも言えない。

ルックスにしても、美しいというよりも可愛い田舎娘といった雰囲気である。
ところが、物語が後半に入って、彼女がヤニングスを冷たくあしらい出すあたりから、俄然彼女は輝き始めるのである。
それは、まさしくスタンバーグが意図した演出なのだ。
この作品はストーリーの展開通りに撮影されたという。
これが映画デビューであったディートリッヒが、ストーリーを追うごとに洗練されていく過程を意識的にフィルムに焼き付けているように見える。

♪ ♪ ♪
ローラ役には、グロリア・スワンソン、レ二・リーフェンシュタール、ロッテ・レーニャが検討されたが、スタンバーグが気に入らずキャスティングは難航を極めたそうである。
そんな中で、彼はベルリンでたまたま観たミュージカルに出演していたディートリッヒを発見するのである。

劇中でディートリッヒは歌を何曲か披露するが、評判になった“Falling In Love Again”(また恋をした)がやはり良い。
 ♪ 私の心は 恋こそすべて、できるのはただ恋をすること…
すぐ恋に落ちてしまうが、その恋を愛として持続できないローラの本質を歌っているようだ。
彼女の代名詞となったかのような歌だ。

余談だが、この作品はナチス・ドイツ誕生の前夜に製作された。
世界大恐慌のさなかであった。
ナチスは1933年になってこの作品を上演禁止にした。
原作がノーベル賞作家トーマス・マンの兄ハインリッヒ・マンが書いた小説だったからである。
ハインリッヒは、フランスに亡命し反ナチ活動に従事したのである。
また、スタンバーグを追ってアメリカに渡ったディートリッヒも、ヒットラーからの再三にわたる帰国命令にもかかわらずついにナチスの国に戻ることはなかった。

そして、以降、スタンバーグとディートリッヒの結びつきは監督と演技者というだけにとどまらず、公私ともにまばゆいばかりの黄金時代を築いていくのであった。

♪ ♪ ♪ ♪
本当の人間の価値は、肩書きを失ったときに発揮される。
そういう意味では、この作品のラート教授のような人間は世にたくさんいるのではなかろうか。

本日の一句
「肩書きがとれて無力がよくわかり」(蚤助)


#485: To Swing Or Not To Swing

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芸術というのは、鑑賞者の感受性に負うところが大きいので、その評価はなかなか難しい。
とりわけ、伝統を打破するような革新的な芸術であれば、人によって意見が分かれるのは当然のことであり、正しく評価されるまでには相応の時間がかかるというものであろう。


12月5日、デイヴ・ブルーベックが亡くなった。
ブルーベックの名前は知らずとも“TAKE FIVE”を聴けば、おそらく大半の人が知っていると答えるに違いない。
訃報にも“TAKE FIVE”について触れているものがほとんどであった。

特にアメリカでは桁外れの著名人であった。
「タイム」誌の表紙を飾った数少ないジャズ・ミュージシャンであり、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマンなどと肩を並べるほどの国民的ヒーローであった。

♪ ♪
だが、彼ほど毀誉褒貶の激しいピアニストはいなかったのではなかろうか。
アメリカ人は誰もがジャズを聴くというのは大きな間違いで、日本人がみな柔道や茶道を心得ていて歌舞伎や能に深い教養を持っているというのと同様の誤解である(笑)。

彼は、積極的に全米の高校や大学をめぐってジャズ・コンサートを開き、ジャズを知らない人たちにジャズへの関心を抱かせるという地道な活動をしてきた。
ジャズの啓蒙活動という点を高く評価する人々がいる一方、彼をけなす人々のキーワードというのは、「彼のピアノはスウィングしない」というものであった。

ジャズ・ピアニストでスウィングしないというのは致命的なことだが、それは彼が学生のころ、現代音楽の巨匠ダリウス・ミヨーに師事したこと、さらに作曲法をシェーンベルクに学んだということも影響しているのだろう。

ざっくりと言えば、スウィング感というのはフォー・ビートの二拍目と四拍目を強調することで生まれるフィーリングのことだが、彼はあえてそれをやらずに平板なビートでブロック・コードを多用したフレーズを積み重ねる。
クラシカルと評してもいいかもしれないが、彼は、そういう平板なビートを選択することで、ジャズの新しい側面を探求し、やっていることは難解なのに、それをとても親しみやすい形で表現したのである。

そんな彼のピアノと、シルキーでビター・スウィートにスウィングするアルトのポール・デスモンドを中心にしたカルテットは、ワン・アンド・オンリーの存在であった。

♪ ♪ ♪
日本では、かつてジャズの普及はいわゆるジャズ喫茶という閉鎖的な場所を中心に行われてきた。
私が学生のころ、スピーカーの前でうなだれて瞑想するかのようにシリアスに聴くというスタイルが本物のジャズ鑑賞の作法とみなされていた。
当時のジャズ評論家の方々の中にも、あまりにも深刻な聴き方をして、インプロヴィゼーション(即興演奏)の素材となったスタンダード・ナンバーのメロディすら口ずさめない人がいたりして、何と「歌心」のない聴き方をするのだろうと苦い思いをしてきたものである。

そういう環境の下では、ブルーベックの音楽はジャズ喫茶などで流されることはほとんどなく、明朗な“TAKE FIVE”などそもそも相手にすべき存在ではなかったのだ(笑)。

しかし、明るく楽しいというのもジャズなのである。

“TAKE FIVE”には「休憩5分」という意味もあるので、何かと忙しい年末のこの時期、ちょっと手を休めて、ひとときブルーベックを聴き直してみよう。
とはいえ、ブルーベックはおびただしい数のアルバムを録音しているのだ。

♪ ♪ ♪ ♪

(DAVE DIGS DISNEY)

「ダウンビート」誌でベスト・コンボに選出されたり、カレッジ巡りなどで一般聴衆の心をとらえていたブルーベック・カルテットは、57年にウォルト・ディズニーのアニメ映画主題歌集を録音した。
このアイデアは、ブルーベックがディズニーランドを訪れた時に生まれたものだそうだが、ディズニーの愛らしいテーマ集は、室内楽的な性格を持ったカルテットにとってはぴったりだったようである。
数あるブルーベックのアルバムの中でも愛すべき一枚で、特に、元々「プリティ」なポール・デスモンドのアルトは、その持ち味がよく出ている。


(NEWPORT 1958)

バート・スターンが撮った名高い『真夏の夜のジャズ』(Jazz On A Summer's Day)は1958年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルの記録映画だが、このアルバムはその初日に出演したブルーベックのレギュラー・カルテットが、その後に出演するデューク・エリントンの曲ばかりを演奏したステージのライブ盤である。
映画は二日目からのステージを撮っているので、ブルーベックは映画に出てこなかった。
ポール・デスモンドは、エリントン楽団のアルトの至宝ジョニー・ホッジスのプレイを模したりして遊び心にあふれたソロを披露し、ブルーベック・カルテットのリラックスした好演が聴ける。


(AT CARNEGIE HALL)

ブルーベック・カルテットの集大成とも言うべき63年カーネギー・ホールでの実況アルバムで、2枚組の大作だが世界中でヒットした。
満員の聴衆を前に、メンバーも張り切っている。
全12曲演奏しているが、当時のブルーベックのレパートリーの主要ナンバーがずらりと並んでおり、その点でもとても魅力的である。
スタジオ録音のようなキメ細やかさには欠けるが、その分、生き生きとしたプレイが楽しめる。
ここでの“TAKE FIVE”はだいぶテンポが速いが、アルバム『TIME OUT』収録のオリジナル演奏とは違った面白さを感じさせる。
この伝説的カルテットの人気絶頂期をとらえたアルバムである。

以上、3枚のアルバムを改めて聴きなおしてみて、デイヴ・ブルーベックのピアノは、“SWING A LA BRUBECK”というか、ブルーベック流にスウィングしていたというのが、私の見解である。

享年91歳というから、長寿と言えるだろう。
冥福を祈りたい、合掌。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「弔電にあだ名参列者が笑う」(蚤助)
「ミスター・ノー・スウィング」、「ミスター変拍子」、「ミスター・ジャズ・ゴーズ・トゥ・カレッジ」などなど…



#486: この世の終わり

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今年の冬至(12月21日)は、例のマヤ暦による終末論が一人歩きして、世界中の好事家たちの耳目を集めた。

マヤの長期暦というのは5125年(187万2千日)をサイクルとするもので、マヤ文明の起源と世界の始まりを一致させるために作られたものだそうだ。
マヤは高度な天文の知識を持っていた文明として知られているが、その最盛期に考案されたものだという。

2012年の冬至に区切りを迎えたマヤ長期暦は、紀元前3114年8月11日を始期としている。
この始期を「ゼロの日」というらしい。
「ゼロの日」から187万2千日目が今年の冬至にあたるというのだ。

数年前から、マヤ文明は「終末の日」→「人類の滅亡」→「世界の終わり」を予言していたというデマゴーグやジャーナリズムなどが、無責任な情報を世界中に垂れ流していた。
しかし、マヤは予言などしていないし、ましてや終末論などとは全く無縁であった。

長期暦の1サイクルが終わると、再び「ゼロの日」から新たな長期暦が始まると考えられているのである。
要は、大晦日になって、翌日から新しい年を迎えカレンダーが変わるのと全く同じことであり、マヤの長期暦も新しいカレンダーとなる、ということに過ぎない。


「この世の終わり騒動記」といった塩梅だったが、そのものズバリ「この世の終わり」をタイトルにした名歌がある。

“THE END OF THE WORLD”である。

 ♪ なぜ太陽はまだ輝いているの
   なぜ波は浜辺に打ち寄せるの
   知らないのね これが世界の終わりだってことを
   あなたがもう愛してくれないから 世界の終わりだってことを

   なぜ鳥たちはまだ歌っているの
   なぜ星は空で輝いているの
   知らないのね これが世界の終わりだってことを
   あなたの愛を失ったとき 世界は終わったということを

   朝 目覚めて思うの
   なぜすべては前と同じなの
   わからない わからない
   どうやっていつもの暮らしが続いていくのか

   なぜ私の胸はドキドキしているの
   なぜ私は泣いているの
   知らないのね これが世界の終わりだってことを
   あなたが別れを告げたとき これで世界は終わったことを…

1963年、女性ポップ・カントリー歌手スキーター・デイヴィス(1931-2004)の大ヒット曲である(画像は、スタンダード曲を中心に録音した65年のアルバム『SKEETER SINGS STANDARDS』)。
作詞は“TOO YOUNG”を書いたシルヴィア・ディー、作曲はアーサー・ケントである。
日本ではブレンダ・リー盤もよく聴かれたが、やはり一人二重唱のスキーターが一番であろう。

♪ ♪
スキーター(SKEETER)という珍しい名前は、「蚊」(モスキート)のことで、幼いころから元気で走り回る娘だったことからつけられたニックネームだという。
交通事故による親友の死と自らの負傷、結婚生活の破綻、乳癌との戦いなど、どちらかといえば悲しい人生を送った彼女だが、良質なヒット曲がたくさんある。
女性カントリー歌手の先駆者のような存在で、タミー・ウィネットやドリー・パートンなど後の女性カントリー歌手に大きな影響を与えた。

私もカラオケなどで歌うことがあるが、一聴のんびりとした曲調の中に、少し自己中心的な意識が秘められているような内容である。

『この世の果てまで』とか『この世は果てても』といった邦題がつけられたためか、ひと頃、結婚式の披露宴で流されたりしたこともあったようだ。
失恋、別れの歌の決定版のような歌詞なのだが、何を勘違いしたのであろうか、この曲が流された結婚披露宴のカップルのその後の運命が気にかかる(笑)。

♪ ♪ ♪
この歌を聴くと、思い浮かべるのが「伊勢物語」に出てくる次の和歌である。

「月やあらぬ 春や昔の春ならむ 我が身ひとつはもとの身にして」
(月は同じではないのか、春は昔の春ではないのか、私だけが以前と変わらないのに)
恋を失ってから自分は以前のまま悲しみに暮れているのに、周りの時はずっと流れている、ということを詠じている。
失恋を嘆いているうちに、時の流れに取り残されてしまったという喪失感がよく表されていると思う。

♪ ♪ ♪ ♪
失恋の痛手というのは「伊勢物語」にしても“THE END OF THE WORLD”にしても、古今東西共通したものがあるのに違いない。

でも現代だと、意外にもう少しドライでライトな感覚かもしれないと思ったりする。

本日の一句
「失恋を癒すスイーツバイキング」(蚤助)
 

#487: 中央自動車道

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年が改まって、本年ものんびりと記事を綴っていくので、引き続きよろしくお願いしたい。


昨年末に起きた笹子トンネルの天井板崩落事故。
同様の構造のトンネル事故はアメリカでも起きていたそうだが、その教訓が生かされず、死傷者を出してしまったのはまことに残念なことである。

笹子トンネルのある中央自動車道が全面開通したのはもう30年以上前の1982年のこと。
東京の世田谷区の高井戸インターから愛知県小牧ジャンクションまでの総延長距離366キロの自動車専用道路である。
計画策定から完成まで四半世紀を要した日本の物流の一大動脈であり、背骨の役割を果たす重要な役割を担っている。

中央自動車道は、いまだ戦後の影が日本のあちらこちらに残っていた1957年に国土開発縦貫自動車建設法に基づいて、主要な整備路線のひとつとして定められた。
基本的には、江戸時代に整備された甲州街道と中山道に沿う形で計画が作られた。

実際に着工されたのは1962年のことだったが、当時最先端の土木技術を駆使しながら進められたにもかかわらず、全線開通までに20年以上要したことになる。
山間部を縫うように走るため難工事が続いたのである。
全長8キロ以上の恵那山トンネルをはじめあわせて39のトンネルが掘られた。
そのひとつが笹子トンネルであった。

甲府盆地のどのルートを通るかで山梨県内の南北論争もあったし、釈迦堂パーキングエリアの建設中に縄文時代の遺跡が発見され、その発掘調査のため工事が遅れたという事情もあった。

♪ ♪
この高速道路の歴史は、高度経済成長を通じて右肩上がりであった戦後日本の歴史とオーヴァーラップする。
計画が策定された1957年当時の名目GDP(国内総生産)は6.7兆円、着工の1962年が12兆円、そして全線開通した1982年は271兆円である。
中央自動車道の完成には、米国に次いで世界第2位となった日本の経済大国としての自信とプライドが秘められているのである。

♪ ♪ ♪
中央自動車道といえば、ユーミンの“中央フリーウェイ”が思い出される。

1976年、彼女のデビュー4作目にあたるアルバム『14番目の月』に収録されたもので、彼女のデビュー盤のプロデュースを手掛けた「ムッシュ」こと、かまやつひろしに捧げられた曲である。

76年といえば、中央自動車道が全通する6年も前のことであるが、歌詞にも出てくる米軍の調布基地、サントリーの武蔵野工場、東京競馬場など東京の府中市辺りのルートはすでに開通していた。

イントロを聴くだけでも分かる通り、従来の歌謡曲とは完全に一線を画す斬新なサウンドを持っていて、当時ニュー・ミュージックと呼ばれた。

ユーミン自身が作詞作曲を手掛け自ら歌うスタイルも新鮮であった。
シンガー・ソングライターという言葉も一般に流布していない時代である。
戦後の困難を克服してきた世代の次に登場した新しい世代なのだった。
彼女が作るおしゃれで、爽快感あふれるサウンドと、若い女性の感性を反映した歌詞は、新しい日本の社会を代弁していた。

昨年デビュー40周年を迎え、それぞれの時代を映す幾多の名曲を発表してきたユーミンだが、“中央フリーウェイ”は荒井由実時代の最高傑作のひとつであろう。
アルバム『14番目の月』もチャート1位を記録した。

♪ ♪ ♪ ♪
昨年末、笹子トンネルの天井板崩落事故の後にも自動車事故が続いた笹子トンネルだが、年末年始の帰省時期とも重なってそれなりの渋滞が見られたようだった。
交通事故の被害者はお気の毒としか言いようがない。
一方、渋滞に巻き込まれるのは被害者でもあるが、他方では自ら渋滞の原因に加担する加害者のひとりでもある。
こちらの方は、お疲れ様というべきであろうか。

本日の一句
「渋滞の先頭にいる優越感」(蚤助)

#488: ワルツの女王

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新年早々、パティ・ペイジの訃報が届いた。
1950年代に「ワルツの女王」の愛称で一世を風靡した女性歌手である。

40年代の半ば、19歳の彼女はラジオ局の専属歌手として働き始め、ある番組を担当することになった。
その番組のスポンサー企業の名前が「ペイジ・ミルク」という食品メーカーだったことから、クララ・アンという名の女の子はパティ・ペイジと名乗ることとなった。

1950年に録音した“TENNESSEE WALTZ”(テネシー・ワルツ)にはじまり、“DOGGIE IN THE WINDOW”(ワンワン・ワルツ)から“I WENT TO YOUR WEDDING”(涙のワルツ)と一連のワルツ調のポピュラー・ソングを歌って、日本でも大変な人気を集めた。
ドリス・デイダイナ・ショアジョー・スタッフォードといった同世代のシンガーの中でも、彼女は最高のヒット・ソング・メイカーとして50年代に君臨した。


当時のポピュラー音楽市場における彼女の占有率はもの凄かった。

曲としての面白味には欠けるが健康的で実にのどかなホーム・ソング“MOCKIN'BIRD HILL”、ランキングではトップにはならなかったが軽くミリオンセラーを記録した“WOULD I LOVE YOU? (LOVE YOU, LOVE YOU)”、カントリー・バラードを歌わせたら第一人者であることを証明した“CHANGING PARTNERS”などのレコードも売れに売れ、マーキュリー・レコードは彼女のおかげで有力レーベルとなった。
“テネシー・ワルツ”がパティの歌声の多重録音で制作されたのも、弱小レーベルだったマーキュリーがバックコーラスを雇う資金がなかったから、というハナシが残されている。
また、1952年、14歳の少女、江利チエミはパティのこの曲でスターになったのだった。

♪ ♪
古き良き時代のアメリカン・ポピュラー音楽の典型ともいうべき優美なオーケストラ伴奏とともに、よくコントロールされた声でしとやかに歌う彼女は、おそらく50年代最高の女性歌手のひとりだった。
その勢いたるやドリス・デイですら敵わなかった。

私などは、かつて彼女がバート・ランカスターとジーン・シモンズ主演の映画『エルマー・ガントリー』(ELMER GANTRY‐1960)に出演していたと知って、それを確認するためだけに映画館に足を運んだ記憶がある。
もちろん封切り時ではなく、後年リバイバル公開されたときであったが…(笑)。
もっとも、この映画は主演の二人はもちろんのこと、娼婦役を演じたシャーリー・ジョーンズをはじめ出演者がみな好演で、リチャード・ブルックスの秀作だったのは儲けものだった。

パティは、ジャズ至上主義のゴリゴリのジャズ・ファンからみると、大勢いるポピュラー歌手のひとりに過ぎず、評価に値しないとする向きもあろう。
だが、バンド・シンガーからスタートした経歴からもわかるように、ジャズのフィーリングやセンスは十分であった。

特にアレンジャーのピート・ルゴロの編曲・指揮になるフル・バンドで録音した『IN THE LAND OF HI-FI』(1956)というアルバムは、彼女のジャズ・センスを堪能できる一枚であるし、同じくピート・ルゴロの編曲・指揮で『THE EAST SIDE』と『THE WEST SIDE』の二枚を録音している。
これら三枚のアルバムは、絶妙のスウィング感とロマンティックなフィーリングでヴォーカル・ファンを楽しませている。

ヒット・チャートに登場した以上の曲のほかに、彼女は幾多のアルバムでスタンダードの名唱、快唱を残した。
たとえば、彼女の陽性のキャラクターがよく出た“IT'S A SIN TO TELL A LIE”(嘘は罪)、コンガとベースの伴奏のみで静かにスタートし、次第にギターやコーラスが加わりシャッフル・ビートで盛り上がっていく“MACK THE KNIFE”、歌詞の一語一語をソフトに丁寧に噛み砕くように歌った“RELEASE ME”のほか、“YOUNG AT HEART”、“YOU BELONG TO ME”、“LOVER, COME BACK TO ME”(恋人よ我に帰れ)などは、時を超えて聴かれるべき歌唱だと思う。

♪ ♪ ♪
彼女の葬送曲にふさわしいのはやはりこれだろう…

 ♪ 私は彼と踊っていた テネシー・ワルツに合わせて
   たまたま昔の友だちを見かけ 愛する彼を紹介したの
   二人は踊り出し 友だちは私から彼を奪っていった

   思い出すわ あの夜のこと
   そしてあのテネシー・ワルツ
   今ならわかる 失ったものの大きさを
   そう私は大好きな彼を失ってしまったの
   あの夜 流れていたのは
   あの美しいテネシー・ワルツ…

カントリー畑のピー・ウィー・キングとレッド・スチュワートの共作“TENNESSEE WALTZ”である。
後年、テネシー州の州歌に認定されている。
よりによってこんな悲しい内容の歌を州歌にしなくとも…と思うが、アメリカというのは、つくづくオモロイ国である。

この曲は、50年代を描いたあらゆる懐古的な映画やドラマに挿入されてきたといっても過言ではない。
確実に当時の懐かしい雰囲気を甦らせてくれる名曲である。
最近でも、ホリー・コール、今をときめくノラ・ジョーンズがカバーしているし、日本でも綾戸智絵や村上ゆき、ケイコ・リーなどが個性的に歌っている。

「ワルツの女王」というだけではなく、偉大なヴォーカリストの一人としてパティを長く記憶にとどめておきたい。
享年85歳、合掌。

♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「ラストワルツ踊った人と共白髪」(蚤助)

#489: 夜ごとの美女

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かつて、ブリジット・バルドーが「生きながらにして伝説だった」と評し、我が高峰秀子が逢ってすっかり「気に入っちゃった」と書いたのが、フランスの美貌の俳優ジェラール・フィリップ(1922‐1959)である。

惜しむらくは36歳で亡くなってしまったので、スクリーンに登場する彼の姿は永遠に若いままである。
それが羨ましくもあり、痛ましくもある。


そのジェラール・フィリップを、フランス最高の俳優に育てあげたのがフランス映画の巨匠ルネ・クレール(1898‐1981)であった。
ジャック・フェデー、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネといった監督とともにフランス古典映画のビッグ5のひとりといわれるが、中でも最も重鎮だった人ではなかろうか。
ドイツのフリッツ・ラング、ソ連のエイゼンシュタイン、アメリカのチャップリンに比すべき存在だとする人もいる。
いずれにしても、トーキーの基本的な技法を確立した映画監督であった。

第二次大戦中、母国を離れ、ハリウッドで仕事をしているのはフリッツ・ラングと同様だが、クレールは戦後帰国してからも、ジェラール・フィリップを起用し、映画史に残る傑作を何本か撮っている。
中でも『夜ごとの美女』(Les Belles De Nuit‐1952)は、シュールな感覚のロマンティック・コメディで、私のお気に入りの一本である。

♪ ♪
近所の自動車修理工場の娘シュザンヌ(マガリ・ヴァンデュイユ)が思いをよせる、しがない音楽教師のクロード(ジェラール・フィリップ)は、うるさすぎる現実の世界にすっかりくさっていた。

今日も、ピアノを弾くクロードの耳に修理工場からエンジンやクラクションの騒音が聞こえてきて、ピアノに集中できず、眠れぬ夜が続いている。
学校に行けば生徒にバカにされ、念願の作曲コンクールに出品する作品の出来具合もはかばかしくない。
クロードは、さる良家の女の子にピアノを教えているが、女の子が奏でる単調な音階を聴きつつ、壁の絵を見ていると夢の世界に入ってしまう。

時は1900年、自作曲を夜会で披露したクロードは、若い貴婦人エドメ(マルティーヌ・キャロル)に好意を寄せられ、紹介されたオペラ座の支配人から彼のオペラの上演を約束される。
夢からさめると、少女の母親は夢の貴婦人エドメなのだった。



「昔はよかった」とつぶやく老人(パロー)の言葉をきっかけに、再び夢の世界でエドメに逢い、オペラの上演を迫るが、ここでまた昔を懐かしむ老人が現れて、夢は1830年のアルジェリア討伐に変わっていく

クロードは勇敢なラッパ手で、アルジェリアのレイラ姫(ジーナ・ロロブリジーダ)と邂逅し抱きあう。
現実のレイラは、クロードがいつも通うカフェのレジ係だった。
そこへまたしても昔を懐かしむ老将軍が現れ、夢はルイ16世時代の貴族の邸宅となり、クロードは現実のシュザンヌとその名も同じ令嬢シュザンヌと愛をささやきあう。

しかし、夢から覚めればクロードは、書留を届けにきた郵便配達人と喧嘩したり、滞納した家賃のかたにピアノを取り上げられそうになったり、挙句の果てに幼馴染の警官に毒づいて留置所に入れられてしまう。
留置場のベッドで、クロードは夢の続きを見る。

ルイ16世時代では、シュザンヌと駆け落ちの約束をし、アルジェリアではレイラ姫から月の出に逢引を誘われ、1900年ではエドメからディナーの後で忍んでくるように囁かれる…

♪ ♪ ♪
夢が佳境に差し掛かったとき、釈放にきてくれた友人たちに起こされ、クロードは一刻も早く夢の世界に戻ろうとするのだが、友人たちは彼が自殺するのではないかと怪しみ、彼の身の周りを警戒するようになる。

クロードがようやく夢の世界に戻ったときには、すべて美女たちと約束した時刻は過ぎていた。
エドメのところでは彼女の夫に見つかり決闘を挑まれ、アルジェリアではレイラ姫の兄弟たちに襲撃され、シュザンヌは革命の急進派に拉致されてしまった後だった。
シュザンヌを追って牢獄に赴いたクロードは逮捕され、ギロチンで処刑されることになってしまう。

そこで夢はさらに時代を遡って、ルイ13世時代、ボナシュ夫人(マリリン・ビュフェル)と逢瀬を楽しむ。
ボナシュ夫人は、現実の世界では眼鏡の郵便局員なのだが、今度は三銃士に襲われて命からがら逃げ出し、やっと夢から覚める。

今度は夢の続きを見るのが怖くなり、眠るまいと頑張るのだが、ついウトウトしてしまい、決闘だ、ギロチンだという騒ぎから逃れるために逃げに逃げ、原始時代からノアの方舟の大洪水時代、ローマ帝国時代などを走り抜け、ようやく現実に舞い戻る。

そこへクロードの作品がオペラ座で上演されるというニュースが飛び込み、クロードとシュザンヌはめでたく結ばれる…

♪ ♪ ♪ ♪
何とも盛り沢山でハチャメチャなストーリーだが、この夢と現実を行ったり来たりする旅がわずか90分足らずの間に縦横無尽に展開されるのである。
ルネ・クレールの演出力おそるべし。

まず、場面展開の技法のサンプル集といった具合で、舞台の場面展開のバリエーションのようだ。
一部ロケーションもあるが、スタジオ撮影はほとんどシンプルな書き割りセットを使っていること、公開当時はオペラを侮辱しているといわれたらしいオペレッタ風の歌が効果的に使われていること、などクレールのセンスが面白い。

アルジェリア侵攻の描写は、フランスの国旗にバックの書き割りの風景が変わっていき、最後にその国旗がボロボロになっていくというモンタージュ処理をしているのが見事だし、クロードの友人トリオの警官、薬屋、修理工の絡みや、クロードが穿いているズボンの破れ穴、オートバイやクラクションなど珍妙な騒音を奏でるオーケストラ演奏など、そこかしこに散りばめられたギャグの楽しさを挙げればきりがない。

「今はひどい時代だ。昔は良かった」とつぶやく老人を演じるパローは、夢の世界のどの時代にも登場して同じようなセリフを吐く。
なぜか恐竜の生きる時代に存在している原始人の彼が、やはり「昔は良かった」と言うのがとても可笑しい。
アンモナイトや三葉虫の時代でも「昔は良かった」と言うのかよ、と突っ込みたくもなる(笑)。

クライマックスはまさに破天荒な展開である。
現実に戻るために、原始時代からなぜかジープに乗ってひたすら走るのだが、クロードがギロチンにかけられそうになったフランス革命の時代には、「この時代に止まってはダメ」というギャグもある。

ジェラール・フィリップは断然若々しく光輝いている。
どんなボロ服を着ていても飄々とした持ち味で颯爽としている。

次々登場する美女たちも素晴らしい。
マルティーヌ・キャロルとジーナ・ロロブリジーダの美しさは特筆に値するが、特に、ロロブリジーダのレイダ姫のおへそを出したコスチュームは現在の眼で見ても実にドキドキさせられる。
彼女の代名詞のバストもさることながら、お腹から腰にかけての美しさ、色っぽさといったらたとえようもない(笑)。


(マルティーヌ・キャロル)


(ジーナ・ロロブリジーダ)

ただ一つ苦言を言えば、場面展開が早く、登場人物のキャラクターが次々と変わるので、よほど注意していないと女優たちの見分けがつかなくなってしまうことであろうか。
シュザンヌ役の新人マガリ・ヴァンドゥイユは、眼の大きなかわいらしい女優さんだが、本作以外に出演作がなさそうなのが、とても残念である。

それにしても、ジェラール・フィリップの端正な美男子ぶりと、ルネ・クレールのシュールな感覚とのコラボレーションが見事に成功した傑作で、本作を愛する映画ファンが多いのもうなずける次第である。

なお、余談になるが、原題の“Les Belles De Nuit”というのは、夕方になって開花する「オシロイバナ」、暗くなってから美しい声で鳴く「ナイチンゲール」の異名だそうである。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「夢見る娘(こ)カボチャの馬車に乗りたがる」(蚤助)

#490: 銀界

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14日の「成人の日」。
首都圏は一面の銀世界となった。
朝から雨模様だったが、私の住むさいたま市では午前10時頃からみぞれ混じりとなって、間もなくあれよあれよという間に重く湿った雪が降り始め、積雪はおよそ7〜8センチとなっただろうか。
交通は乱れ、足元は悪く、おまけに寒いということで、晴れ着姿の新成人にはお気の毒だったが、さぞや忘れられない成人式となったことであろう。

我が家の敷地内には隣のアパートの屋根から滑り落ちてきたと思しき雪が小山となっているのだが、除雪に苦労の絶えない雪国でこんなことが起きたら、トラブルとなるのは必至であろう(笑)。
そんなわけで、我が家の周囲はまだまだ雪が解けずに残っている。
だが、東京の雪なんて、雪国の雪が「ダンプカーに満載された塩」だとしたら「眉毛のフケ」のようなものである(笑)。

生まれも育ちも雪国の私としては、踏みしめる雪の感触もまた懐かしい。
もっとも、雪に慣れない人にとっては、たった数センチの積雪であっても、地獄のようなものかもしれないが…

「大雪というがたったの数センチ」(蚤助)

ベランダのガラス越しに、降り積もる雪景色を眺めていたら、一枚のアルバムが頭に浮かんだ。
寺院の庭にうっすらと雪が積もった光景をジャケットにあしらった、尺八の人間国宝、山本邦山、若き日のジャズ作品『銀界』(1970)である。

尺八は、鎌倉時代中期に禅僧覚心(法灯国師)という人が、宋に留学した際、奏法を取得し伝えたもので、覚心は後に和歌山県の興国寺の住職となったので、興国寺が尺八の大本山とされたという。
すなわち仏教との関わりが深い楽器なのである。

尺八は、基本的に無拍の世界の楽器で、きちんと刻まれるビートやスウィングの音楽であるジャズに適した楽器ではない。

若い頃から、邦山はジャズに惹かれていたようだが、それはジャズのもつビートとかスウィング感とかいう「躍動性」ではなく、むしろ「即興性」であったという。
彼は譜面にも強く、クラシックの演奏家との共演も多いが、譜面の通り演奏しなくてはならない音楽よりも、その場で創造していくスリリングな音楽の方が、邦楽の世界に近いと書いている。

邦山は、1960年代の半ばころから、モダン・ジャズのクラリネット奏者トニー・スコットや、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルと共演したりしていたが、1967年の7月、原信夫とシャープス&フラッツとともに、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージに立っている。
そこで、Hozan Yamamotoのバンブー・フルートは並み居る聴衆を魅了してしまうのだが、もちろん、当時は異国趣味や物珍しさということもあっただろう。
演奏曲目も「箱根八里」とか「みだれ」とかいう日本の既成楽曲をジャズに仕立て直したものであった。

♪ ♪
『銀界』が録音された1970年は、大阪万博の年で、帝王マイルス・デイヴィスが電化していって、ジャズとロックの融合が試みられていた頃である。
この作品は、仏教と縁の深い尺八と黒人発祥のジャズとの鮮烈な邂逅、東と西の世界が出会った傑作アルバムである。

演奏メンバーは、山本邦山(尺八)、菊池雅章(p)、ゲーリー・ピーコック(b)、村上寛(ds)で、演奏曲は以下の通り。

  1. 序(Prologue)
  2. 銀界(Silver World)
  3. 竜安寺の石庭(Stone Garden Of Ryoan Temple)
  4. 驟雨(A Heavy Shower)
  5. 沢之瀬(Sawanose)
  6. 終(Epilogue)

全6曲だが、アルバム全体として組曲として聴くべき作品であろう。
#3が秋吉敏子の夫君であったアルト奏者チャーリー・マリアーノの作品で、他の5曲は、当時我が国のジャズ界のトップランナーであった菊池のオリジナルである。
『銀界』は、いわばコンセプトアルバムというべき内容となっている。

邦山の即興演奏家としての資質を見抜いた菊池は、無理にジャズの世界に寄らず、尺八の世界の流儀で演奏をしてもらいたいと注文したという。
また、村上のドラムスは、この世界にぴったりとした、静謐でいながら音楽を感じさせる音を叩き出している。

タイトルにも見られるようにこのアルバムのコンセプトは、甚だ日本的なものだが、メンバーに後年キース・ジャレットとのスタンダーズ・トリオで一挙にベースの巨匠とみなされるようになったゲーリー・ピーコックが加わっている。
彼は当時禅を学ぶために京都で暮らしていて、日本的なるものへの理解は普通のアメリカ人の比ではなかった。
彼は、菊池・村上とのトリオで『EASTWARD』という類まれな傑作アルバムを日本で録音している。

♪ ♪ ♪
このアルバムを初めて聴いたのは学生の頃であったが、外の雪景色を眺めながら、久しぶりに聴く『銀界』は、にわかに吹き付ける風の音や、音もなく降り続く雪の積もっていく音がまるで聞こえるかのようであり、自然の中に深く引き込まれ、そのエネルギーを感じさせる力があるようだ。
しかも、何よりもこの作品に難解なところはまるでなく、演奏が始まり終わるまで、美しい音の世界に誘ってくれるのである。
実に濃密な音楽である。

「自然の音との対話の中に即興演奏の極意はある」(山本邦山)
本日の一句
「雪国で見てるお江戸の雪景色」(蚤助)

#491: 「幸せ」ってやつが、あたいにわかるまで…

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象狂象こと、西岡恭蔵は1948年三重県志摩半島の生まれである。
実家は真珠の養殖業だった。

大阪の大学で、歌好きの連中が集まってコンサートを開催していた大阪フォーク・スクールで大塚まさじと出会い、関西フォーク伝説の喫茶店「ディラン」に出入りするようになった。
「ザ・ディラン」やその後を継いだ「ディランII(セカンド)」というグループはそうして生まれたのだが、西岡自身は「ザ・ディラン」を脱退してからも、彼らのレコーディングに参加したり、楽曲を提供したりして、つかず離れずという不思議な関係が続いたのである。

 (西岡恭蔵)

西岡恭蔵の代表曲“プカプカ”は『ディランにて』(1972)という彼のファーストアルバムに収められていた。
フォークというよりも和製ブルースと呼んだ方がよさそうな名曲である。

 ♪おれのあん娘は タバコが好きで
  いつもプカ プカ プカ…

と歌いだされる。


朝日新聞の土曜版には「be」という別刷りの紙面がついていて、「うたの旅人」という連載記事がある。

2011年2月26日の「be」の「うたの旅人」の見出しは「『あん娘』のモデルは誰 西岡恭蔵・作詞作曲『プカプカ』」というものだった。
いくつかの伝説を生んだ曲だが、記事によると、「あん娘」のモデルは、ジャズ歌手の安田南だという。
もっとも、これは以前からよく知られていたようだが、私は誰がモデルかなんてことはあまり気にしたことはなかった。

安田南といえば、1970年代のFM東京の人気深夜番組「気まぐれ飛行船」で片岡義男とDJをやっていたことが思い出される。
私は、彼女のヴォーカル・アルバムも2枚ほど持っているのである。

 (安田南)

“プカプカ”が生まれたのは1971年だが、この年、日本の音楽史に特筆される出来事が起きた。
伝説の「中津川フォーク・ジャンボリー」事件である。
メジャー路線を走るアーティストは、聴衆から「帰れ」コールを浴びて、殺気立ったイベントとなったのだ。
最大の被害者は吉田拓郎であったが、安田南も被害を受けた。

なぎら健壱の「日本フォーク私的大全」(ちくま文庫)によれば、こういうことになる。
少々長いが、引用したい。

***
それは(中略)2日目午後10時頃、ジャズ・ヴォーカリストの安田南がステージに上がっているときに起こった。最初の数分はジャンルの違う安田の唄に対し珍しさもともなって拍手を送っていたが、やがて目指すフォークと違うのを見てとるとすぐにそれは「帰れ」の声に変わった。
何回となく舞台からその「帰れ!」に抗議する気丈な安田であったが、それがかえって客の反発を食らい、「帰れ!」の声は1万人の大合唱に変わった。それが合図だったように、袖からデモ隊がステージに向かい始めた。それを阻止しようとする実行委員やガードマン(主催者はガードマンを雇ってないというが)が、デモ隊を押しとどめるも、それを振り切ってついにデモ隊はステージを占拠してしまうのである。
安田は憮然としてその連中とやり合うのだが、その声も「帰れ!」「引っ込め!」の声にかき消されてしまう。
マイクは占拠され、そこから何をいいたいのかよく分からない、一方的な討論会が始まった。
「入場料に対する疑問」
「ジャンボリーの意義とは」
「テレビを中心とする取材に対する批判」
「商業主義批判」
「音楽舎は出ていけ」
まともな意見だけをまとめると、だいたいこのようなことになるのだが、討論をする彼らもまた猛烈なヤジを食らうのである。しかし彼らはそれに臆することなく、一方的な討論はますます熱くなっていくのである。
30分ほどして安田がステージ上で「こういう状態になって、ここでみなさんがたが討論をはじめることは一向にかまいません。ただし、みなさんの中で、たとえば3人ぐらい、安田南の歌を聞いてもいいかなあとか、鈴木勲の演奏を聞いてもいいかなあと思う方があれば、できたら私は、唄いたいと思う訳です。唄うために私はここに来ました」と会場に向かっていうと、客席からは拍手が起きる。
始めは面白がってマイクを占拠してしまった連中をあおっていた観客も、いつまで経っても結論どころか進展すらみせないその討論会にイヤ気がさし、露骨なヤジを飛ばすがもうそれでは止まらない状況になっていた。
(中略)僕はといえば周りにいる連中と一緒にステージに対してヤジっていたが、シラケたステージに嫌気がさし、サントリー・レッドをあおり、やがてそれが効いてそのままそこで寝てしまった。
ちなみにこの安田の後に出番を控えていたのが『ザ・ディランII』であったのだが、彼らは散々待たされた挙げ句、とうとう出演出来ずに終わってしまったのである。
71年『フォーク・ジャンボリー』はこの騒ぎを最後に、終わりを告げるのである。

***
“プカプカ”のリズムはとても明るいが、かなり深刻な歌詞で終わる。
違和感というか、人を何かザラついた気持ちにさせる。

 ♪おれのあん娘は うらないが好きで
  トランプ スタ スタ スタ
  よしなって言うのに おいらをうらなう
  おいら 明日死ぬそうな
  あたいの うらないが ピタリと当たるまで

  あんたとあたいの 死ぬときわかるまで
  あたいトランプやめないわ
  スタ スタ スタ…

彼は作詞家であった彼の愛妻(KURO)の三回忌に自ら命を絶ってしまう。
1990年4月のことで、50歳であった。
だからというわけではないが、彼は若い頃から「死」というものを意識していたのかもしれない。

 (KURO)

さらに、モデルとされた安田南も1980年代の初めに忽然と姿を消してしまう。
いわゆる「失踪」であるが、彼女のその後の消息が報じられたのは、2009年に病死したというニュースであった。
彼女は終生へヴィー・スモーカーであった。

西岡恭蔵が安田南をモデルにしたという理由はよくわからないが、歌のヒロインである「あたい」のプロフィールは、一般にイメージされる安田南そのままである。

 ♪遠い空から 降ってくるっていう
  「幸せ」ってやつが あたいにわかるまで
  あたいタバコをやめないわ
  プカ プカ プカ…

「幸せ」は空から降ってくるわけもないが、いつか、もしかして、そんなことがあるかも、という淡い希望、願望を感じさせる。
残念なことだが、作者の西岡恭蔵、モデルとされた安田南、この二人はきっと「幸せ」ってやつを探し損ねてしまったのであろう。

♪ ♪
本日の一句
「幸せになりそこなった辛の文字」(蚤助)

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