スペンサー・トレイシー(1900‐1967)とキャサリン・ヘプバーン(1907‐2003)といえば、数多くの作品で共演し、ハリウッド史上最高の名コンビと謳われた二人である。
トレイシーの遺作であり、主演女優として生涯、史上最多の4回のオスカーを手にしたヘプバーンが2度目の主演女優賞を授与された作品として知られるのが『招かれざる客』(Guess Who's Coming To Dinner‐1967)である。
この黄金コンビの最後の作品である。
独立系の映画人、スタンリー・クレイマーは、以前から『真昼の決闘』を製作したり、監督として『渚にて』を撮ったりして、良心的な作品を世に送り出していたが、本作もまた人種問題を真正面から描いた問題作であった。
♪
スペンサー・トレイシーはサンフランシスコの一流新聞社の社長で、人格者として知られている。
妻のキャサリン・ヘプバーンは画廊を経営している。
二人は、いわゆる上流階級に属するリベラルで進歩的なアメリカ市民であった。
娘のキャサリン・ホートンが結婚しようとする相手を連れて家に帰って来るところから話は始まる。
母のヘプバーンは、娘から婚約者を連れてきていると報告を受け、驚いたがすぐに喜んで祝福する。
しかし、現れたシドニー・ポワティエを見て、声が出ない。
娘の婚約者が黒人だったとは…
やがて、父トレイシーが帰宅する。
ポワティエはトレイシーに言う。
「私たちは愛し合っています…、結婚に対するご両親の承諾を得るためにこちらへ伺いました…」
トレイシーはヘプバーン同様茫然とする。
自分は新聞社主として、これまでもリベラルで進歩的な論調を展開してきたが、我が娘が黒人と結婚すると言い出すとは想像だにしなかったことだった。
ポワティエは国際的にも著名な医師で、今夜、ニューヨークに発ち、その後ジュネーブのWHO(世界保健機関)の要職につく予定だという。
トレイシーは苛立つ。
そんな急な話があるものか、娘の結婚、しかも相手は黒人…。
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ヘプバーンが言う。
「娘は赤ん坊の頃からよく笑う明るい子だった。でも、あんな幸せそうな顔は初めて。だから喜んでやりたい。信念を貫き通す娘を私は誇りにしたい。」
だが、トレイシーは答える。
「即答するのは無理だ。お前は娘の情熱にほだされて冷静な判断を失っている」
その頃、ポワティエの両親も空路でサンフランシスコへ向かっていた。
息子から結婚するという電話を受けたが、相手の娘のことは何も知らされていない。
長年、郵便配達人をしながらポワティエを育て上げた父(ロイ・E・グレン)と母(ベア・リチャーズ)はやはり驚愕する。
トレイシーの親友であり、よき相談相手でもある司教(セシル・ケラウェイ)が訪問してくる。
司教は結婚話を聞き、当人たちにも会って結婚を祝福するが、トレイシーが不機嫌なのを見て言うのだった。
「君はあの男に腹を立てているのじゃない。誰よりも自分自身に苛立っているんだ」
トレイシーは反論する。
「君には子供がいない。こんな時の父親の気持ちがわかるはずがないんだ。世間の目は冷たい。偏見はどの世界にもある」
それを聞いて司教は言う。
「君を30年間尊敬してきたが、今日は情けなく思う。君を床にねじ伏せてやりたい」
ポワティエの両親が到着し、お互い当惑しながら挨拶を交わす。
父親同士は、事態の進展が少しせっかちすぎるということで、意見が一致する。
母親の方は、それぞれ息子と娘のことを理解し、この結婚話を進めることで気持ちがひとつになっていく。
ポワティエの母リチャーズは、トレイシーに言うのだった。
「あの二人は強く求めあっています。あなたと主人には、あの子たちの気持ちが少しもわかっていないのです。あなたが奥様と結婚したときの感情はもう燃えカスになってしまったのですか?」
一方、ポワティエは、白人と結婚してもうまく行きっこないという父親グレンに食って掛かっている。
「古びた信念を唯一最良のものだと頑強に押し通す、そんな世代が死に絶えるまで僕たちは重荷を背負うんだ。決して自由になれない。僕はあなたの息子で、あなたを愛している、今までも、これからもずっと。だが父さんは自分を黒人だと考えている。でも、僕は一個の人間として生きたいんだ」
トレイシーは一人でじっと考え込んでいたが、やがて決意の表情になって、皆を集めておもむろに話し始める。
***
恋の情熱というものは知っている。彼(ポワティエ)が娘に抱く情熱は、そっくりそのまま私がかつて妻に抱いたものだ。確かに年を取って燃えカスになった。だが、言っておくが、記憶は健在だ。鮮やかに無傷のまま残っている。110歳まで生きても残るだろう。
彼の過ちは、我々の意向を尊重しすぎたことだ。結局は親の意向などどうでもいい。肝心なことは、二人の気持ち、愛情の深さ、絆の強さ、それが私たち夫婦の半分でもあれば大丈夫だ。
君たちを待ち受ける困難は想像もつかないが、私は乗り終えた。私と妻とお母さんの三人で説得すればお父さんも折れるだろう。
覚悟の上だろうが、世間の風当たりは強い。この国の大多数の人間が、君たちに反感を覚え嫌悪の感情を示すだろう。それを乗り越えねばならぬ。これから先の一生涯、毎日、無視するのもいい。世間の偏見と頑迷さを憐れむのもいい。盲目的な憎しみや無知の恐怖を。
だが、必要なときには固く手をつなぎ世間をののしってやれ。君たちの結婚は騒ぎになるだろう。論争を巻き起こすだろう。
すばらしい二人が、たまたま恋に落ち、たまたま肌の色が違った。どこの誰がどれほど騒ぎ立てようがかまわん。何よりも悪いことは、君たち二人が互いをよく知り、理解し合い、互いの気持ちを知りながら、結婚しない、ということだ…
***
トレイシーは、ポワティエの父親の肩を叩き、みんなをディナーの部屋へ案内するのだった…
♪ ♪ ♪
かつて『花嫁の父』で娘を嫁にやる父親像を演じたトレイシーはここでもなかなかの芝居をしている。
白人と黒人の結婚は、アメリカではいわばタブーで、州によっては違法とされているところがあるほどである。
これからの二人の人生において持ち上がるであろう様々な困難や、軋轢を、親は当然心配するのである。
それは相手の両親も変わることはない。
しかし、母親同士は二人の真剣な愛情に打たれて理解を示すのだが、父親同士はなかなか納得することができない。
日頃進歩的な考えを持っているトレイシーにしても、ことが自分の娘のこととなると話は別である。
自らの信条を揺るがすような事態になって煩悶せざるをえない。
一方、ヘプバーンは、娘を信頼し、結婚に理解を示しながらも、葛藤する夫を見守る微妙な感情を涙にうるんだ目で表現している。
特に、明らかに黒人に好感を持っていない画廊の支配人(ヴァージニア・クリスティン)が興味本位でヘプバーンにご注進に来たところを、解雇を告げて追い帰すシーンなどは、ヘプバーンの気風の良さが出ていて胸がすく思いがする。
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ほとんどは家庭の中での会話劇に終始するが、ドラマとしては大団円に向って次第に盛り上がっていき、ラストのトレイシーの大演説によって締めくくられる。
脚本を書いたウィリアム・ローズに、オスカー脚本賞が授与されている。
なお、娘役を演じた新人キャサリン・ホートンは、ヘプバーンとは姪と叔母の関係だったそうだ。
出演作はこれ以外に数本あるらしいが、私はその後見た記憶がない。
ポワティエはこの映画でもなかなかスマートでかっこいい役どころである。
世界的にも著名な医学博士で、国際機関でも要職につくという設定だが、気になったのは、ポワティエが著名な医者などではなく、たとえば、機械技師だとかウェイター、あまり売れない芸術家だったりしたならば、この作品はどのようにストーリーが組み立てられたのか、ということであった。
黒人作家で公民権の運動家であったジェームズ・ボールドウィン(1924‐1987)などは「黒人はこの映画を何一つとして理解することはできない」と語っている、
この映画が良心的で意欲的な作品であることは間違いないとしても、アメリカにおける人種問題というのが、やはり我々が想像する以上に複雑で根の深い問題であることを示している。
♪ ♪ ♪ ♪
ポワティエとホートンが空港に降り立つタイトル・バックから流れているのが、“GLORY OF LOVE”という曲である。
映画の音楽はフランク・デ・ヴォールが担当しているので、この作品のために書かれたテーマ曲かと思っていたが、よく耳にしたメロディーでもあり、調べてみたら、1936年に“IN THE CHAPEL IN THE MOONLIGHT”なども書いているビリー・ヒルが作った古いナンバーであった。
同年、ベニー・グッドマンで全米トップとなった大ヒット曲である。
♪ 少しあげて 少しもらって
たまには少し傷ついて
少し笑って 少し泣く
それが恋の物語…
たとえ泣くことがあっても愛のない人生は意味がない、という人生哲学の歌が、男女混声コーラスでムーディーに歌われ、まるで全編のテーマ曲のように使われている。
サウンドはヘンリー・マンシー二風で、デ・ヴォールのセンスの良さが光っている。
なお、本稿のタイトルの「僕らはうまくいくさ」というのは、劇中、司教役を演じたセシル・ケラウェイ(好演)が、二人が結婚するという話を聞いて、「ビートルズだ」と言って口ずさむのが「僕らはうまくいくさ、うまくいく」という歌である。
曲名は、そう、“WE CAN WORK IT OUT”(恋を抱きしめよう)であった。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「プロポーズしてみることに意義がある」(蚤助)
トレイシーの遺作であり、主演女優として生涯、史上最多の4回のオスカーを手にしたヘプバーンが2度目の主演女優賞を授与された作品として知られるのが『招かれざる客』(Guess Who's Coming To Dinner‐1967)である。
この黄金コンビの最後の作品である。
独立系の映画人、スタンリー・クレイマーは、以前から『真昼の決闘』を製作したり、監督として『渚にて』を撮ったりして、良心的な作品を世に送り出していたが、本作もまた人種問題を真正面から描いた問題作であった。
♪
スペンサー・トレイシーはサンフランシスコの一流新聞社の社長で、人格者として知られている。
妻のキャサリン・ヘプバーンは画廊を経営している。
二人は、いわゆる上流階級に属するリベラルで進歩的なアメリカ市民であった。
娘のキャサリン・ホートンが結婚しようとする相手を連れて家に帰って来るところから話は始まる。
母のヘプバーンは、娘から婚約者を連れてきていると報告を受け、驚いたがすぐに喜んで祝福する。
しかし、現れたシドニー・ポワティエを見て、声が出ない。
娘の婚約者が黒人だったとは…
やがて、父トレイシーが帰宅する。
ポワティエはトレイシーに言う。
「私たちは愛し合っています…、結婚に対するご両親の承諾を得るためにこちらへ伺いました…」
トレイシーはヘプバーン同様茫然とする。
自分は新聞社主として、これまでもリベラルで進歩的な論調を展開してきたが、我が娘が黒人と結婚すると言い出すとは想像だにしなかったことだった。
ポワティエは国際的にも著名な医師で、今夜、ニューヨークに発ち、その後ジュネーブのWHO(世界保健機関)の要職につく予定だという。
トレイシーは苛立つ。
そんな急な話があるものか、娘の結婚、しかも相手は黒人…。

ヘプバーンが言う。
「娘は赤ん坊の頃からよく笑う明るい子だった。でも、あんな幸せそうな顔は初めて。だから喜んでやりたい。信念を貫き通す娘を私は誇りにしたい。」
だが、トレイシーは答える。
「即答するのは無理だ。お前は娘の情熱にほだされて冷静な判断を失っている」
その頃、ポワティエの両親も空路でサンフランシスコへ向かっていた。
息子から結婚するという電話を受けたが、相手の娘のことは何も知らされていない。
長年、郵便配達人をしながらポワティエを育て上げた父(ロイ・E・グレン)と母(ベア・リチャーズ)はやはり驚愕する。
トレイシーの親友であり、よき相談相手でもある司教(セシル・ケラウェイ)が訪問してくる。
司教は結婚話を聞き、当人たちにも会って結婚を祝福するが、トレイシーが不機嫌なのを見て言うのだった。
「君はあの男に腹を立てているのじゃない。誰よりも自分自身に苛立っているんだ」
トレイシーは反論する。
「君には子供がいない。こんな時の父親の気持ちがわかるはずがないんだ。世間の目は冷たい。偏見はどの世界にもある」
それを聞いて司教は言う。
「君を30年間尊敬してきたが、今日は情けなく思う。君を床にねじ伏せてやりたい」
ポワティエの両親が到着し、お互い当惑しながら挨拶を交わす。
父親同士は、事態の進展が少しせっかちすぎるということで、意見が一致する。
母親の方は、それぞれ息子と娘のことを理解し、この結婚話を進めることで気持ちがひとつになっていく。
ポワティエの母リチャーズは、トレイシーに言うのだった。
「あの二人は強く求めあっています。あなたと主人には、あの子たちの気持ちが少しもわかっていないのです。あなたが奥様と結婚したときの感情はもう燃えカスになってしまったのですか?」
一方、ポワティエは、白人と結婚してもうまく行きっこないという父親グレンに食って掛かっている。
「古びた信念を唯一最良のものだと頑強に押し通す、そんな世代が死に絶えるまで僕たちは重荷を背負うんだ。決して自由になれない。僕はあなたの息子で、あなたを愛している、今までも、これからもずっと。だが父さんは自分を黒人だと考えている。でも、僕は一個の人間として生きたいんだ」
トレイシーは一人でじっと考え込んでいたが、やがて決意の表情になって、皆を集めておもむろに話し始める。
***
恋の情熱というものは知っている。彼(ポワティエ)が娘に抱く情熱は、そっくりそのまま私がかつて妻に抱いたものだ。確かに年を取って燃えカスになった。だが、言っておくが、記憶は健在だ。鮮やかに無傷のまま残っている。110歳まで生きても残るだろう。
彼の過ちは、我々の意向を尊重しすぎたことだ。結局は親の意向などどうでもいい。肝心なことは、二人の気持ち、愛情の深さ、絆の強さ、それが私たち夫婦の半分でもあれば大丈夫だ。
君たちを待ち受ける困難は想像もつかないが、私は乗り終えた。私と妻とお母さんの三人で説得すればお父さんも折れるだろう。
覚悟の上だろうが、世間の風当たりは強い。この国の大多数の人間が、君たちに反感を覚え嫌悪の感情を示すだろう。それを乗り越えねばならぬ。これから先の一生涯、毎日、無視するのもいい。世間の偏見と頑迷さを憐れむのもいい。盲目的な憎しみや無知の恐怖を。
だが、必要なときには固く手をつなぎ世間をののしってやれ。君たちの結婚は騒ぎになるだろう。論争を巻き起こすだろう。
すばらしい二人が、たまたま恋に落ち、たまたま肌の色が違った。どこの誰がどれほど騒ぎ立てようがかまわん。何よりも悪いことは、君たち二人が互いをよく知り、理解し合い、互いの気持ちを知りながら、結婚しない、ということだ…
***
トレイシーは、ポワティエの父親の肩を叩き、みんなをディナーの部屋へ案内するのだった…
♪ ♪ ♪
かつて『花嫁の父』で娘を嫁にやる父親像を演じたトレイシーはここでもなかなかの芝居をしている。
白人と黒人の結婚は、アメリカではいわばタブーで、州によっては違法とされているところがあるほどである。
これからの二人の人生において持ち上がるであろう様々な困難や、軋轢を、親は当然心配するのである。
それは相手の両親も変わることはない。
しかし、母親同士は二人の真剣な愛情に打たれて理解を示すのだが、父親同士はなかなか納得することができない。
日頃進歩的な考えを持っているトレイシーにしても、ことが自分の娘のこととなると話は別である。
自らの信条を揺るがすような事態になって煩悶せざるをえない。
一方、ヘプバーンは、娘を信頼し、結婚に理解を示しながらも、葛藤する夫を見守る微妙な感情を涙にうるんだ目で表現している。
特に、明らかに黒人に好感を持っていない画廊の支配人(ヴァージニア・クリスティン)が興味本位でヘプバーンにご注進に来たところを、解雇を告げて追い帰すシーンなどは、ヘプバーンの気風の良さが出ていて胸がすく思いがする。

ほとんどは家庭の中での会話劇に終始するが、ドラマとしては大団円に向って次第に盛り上がっていき、ラストのトレイシーの大演説によって締めくくられる。
脚本を書いたウィリアム・ローズに、オスカー脚本賞が授与されている。
なお、娘役を演じた新人キャサリン・ホートンは、ヘプバーンとは姪と叔母の関係だったそうだ。
出演作はこれ以外に数本あるらしいが、私はその後見た記憶がない。
ポワティエはこの映画でもなかなかスマートでかっこいい役どころである。
世界的にも著名な医学博士で、国際機関でも要職につくという設定だが、気になったのは、ポワティエが著名な医者などではなく、たとえば、機械技師だとかウェイター、あまり売れない芸術家だったりしたならば、この作品はどのようにストーリーが組み立てられたのか、ということであった。
黒人作家で公民権の運動家であったジェームズ・ボールドウィン(1924‐1987)などは「黒人はこの映画を何一つとして理解することはできない」と語っている、
この映画が良心的で意欲的な作品であることは間違いないとしても、アメリカにおける人種問題というのが、やはり我々が想像する以上に複雑で根の深い問題であることを示している。
♪ ♪ ♪ ♪
ポワティエとホートンが空港に降り立つタイトル・バックから流れているのが、“GLORY OF LOVE”という曲である。
映画の音楽はフランク・デ・ヴォールが担当しているので、この作品のために書かれたテーマ曲かと思っていたが、よく耳にしたメロディーでもあり、調べてみたら、1936年に“IN THE CHAPEL IN THE MOONLIGHT”なども書いているビリー・ヒルが作った古いナンバーであった。
同年、ベニー・グッドマンで全米トップとなった大ヒット曲である。
♪ 少しあげて 少しもらって
たまには少し傷ついて
少し笑って 少し泣く
それが恋の物語…
たとえ泣くことがあっても愛のない人生は意味がない、という人生哲学の歌が、男女混声コーラスでムーディーに歌われ、まるで全編のテーマ曲のように使われている。
サウンドはヘンリー・マンシー二風で、デ・ヴォールのセンスの良さが光っている。
なお、本稿のタイトルの「僕らはうまくいくさ」というのは、劇中、司教役を演じたセシル・ケラウェイ(好演)が、二人が結婚するという話を聞いて、「ビートルズだ」と言って口ずさむのが「僕らはうまくいくさ、うまくいく」という歌である。
曲名は、そう、“WE CAN WORK IT OUT”(恋を抱きしめよう)であった。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「プロポーズしてみることに意義がある」(蚤助)