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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#492: 僕らはうまくいくさ

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スペンサー・トレイシー(1900‐1967)とキャサリン・ヘプバーン(1907‐2003)といえば、数多くの作品で共演し、ハリウッド史上最高の名コンビと謳われた二人である。

トレイシーの遺作であり、主演女優として生涯、史上最多の4回のオスカーを手にしたヘプバーンが2度目の主演女優賞を授与された作品として知られるのが『招かれざる客』(Guess Who's Coming To Dinner‐1967)である。
この黄金コンビの最後の作品である。

独立系の映画人、スタンリー・クレイマーは、以前から『真昼の決闘』を製作したり、監督として『渚にて』を撮ったりして、良心的な作品を世に送り出していたが、本作もまた人種問題を真正面から描いた問題作であった。


スペンサー・トレイシーはサンフランシスコの一流新聞社の社長で、人格者として知られている。
妻のキャサリン・ヘプバーンは画廊を経営している。
二人は、いわゆる上流階級に属するリベラルで進歩的なアメリカ市民であった。
娘のキャサリン・ホートンが結婚しようとする相手を連れて家に帰って来るところから話は始まる。

母のヘプバーンは、娘から婚約者を連れてきていると報告を受け、驚いたがすぐに喜んで祝福する。
しかし、現れたシドニー・ポワティエを見て、声が出ない。
娘の婚約者が黒人だったとは…

やがて、父トレイシーが帰宅する。
ポワティエはトレイシーに言う。
「私たちは愛し合っています…、結婚に対するご両親の承諾を得るためにこちらへ伺いました…」
トレイシーはヘプバーン同様茫然とする。
自分は新聞社主として、これまでもリベラルで進歩的な論調を展開してきたが、我が娘が黒人と結婚すると言い出すとは想像だにしなかったことだった。
ポワティエは国際的にも著名な医師で、今夜、ニューヨークに発ち、その後ジュネーブのWHO(世界保健機関)の要職につく予定だという。
トレイシーは苛立つ。
そんな急な話があるものか、娘の結婚、しかも相手は黒人…。



ヘプバーンが言う。
「娘は赤ん坊の頃からよく笑う明るい子だった。でも、あんな幸せそうな顔は初めて。だから喜んでやりたい。信念を貫き通す娘を私は誇りにしたい。」
だが、トレイシーは答える。
「即答するのは無理だ。お前は娘の情熱にほだされて冷静な判断を失っている」

その頃、ポワティエの両親も空路でサンフランシスコへ向かっていた。
息子から結婚するという電話を受けたが、相手の娘のことは何も知らされていない。
長年、郵便配達人をしながらポワティエを育て上げた父(ロイ・E・グレン)と母(ベア・リチャーズ)はやはり驚愕する。

トレイシーの親友であり、よき相談相手でもある司教(セシル・ケラウェイ)が訪問してくる。
司教は結婚話を聞き、当人たちにも会って結婚を祝福するが、トレイシーが不機嫌なのを見て言うのだった。
「君はあの男に腹を立てているのじゃない。誰よりも自分自身に苛立っているんだ」
トレイシーは反論する。
「君には子供がいない。こんな時の父親の気持ちがわかるはずがないんだ。世間の目は冷たい。偏見はどの世界にもある」
それを聞いて司教は言う。
「君を30年間尊敬してきたが、今日は情けなく思う。君を床にねじ伏せてやりたい」

ポワティエの両親が到着し、お互い当惑しながら挨拶を交わす。
父親同士は、事態の進展が少しせっかちすぎるということで、意見が一致する。
母親の方は、それぞれ息子と娘のことを理解し、この結婚話を進めることで気持ちがひとつになっていく。

ポワティエの母リチャーズは、トレイシーに言うのだった。
「あの二人は強く求めあっています。あなたと主人には、あの子たちの気持ちが少しもわかっていないのです。あなたが奥様と結婚したときの感情はもう燃えカスになってしまったのですか?」

一方、ポワティエは、白人と結婚してもうまく行きっこないという父親グレンに食って掛かっている。
「古びた信念を唯一最良のものだと頑強に押し通す、そんな世代が死に絶えるまで僕たちは重荷を背負うんだ。決して自由になれない。僕はあなたの息子で、あなたを愛している、今までも、これからもずっと。だが父さんは自分を黒人だと考えている。でも、僕は一個の人間として生きたいんだ」

トレイシーは一人でじっと考え込んでいたが、やがて決意の表情になって、皆を集めておもむろに話し始める。

***
恋の情熱というものは知っている。彼(ポワティエ)が娘に抱く情熱は、そっくりそのまま私がかつて妻に抱いたものだ。確かに年を取って燃えカスになった。だが、言っておくが、記憶は健在だ。鮮やかに無傷のまま残っている。110歳まで生きても残るだろう。
彼の過ちは、我々の意向を尊重しすぎたことだ。結局は親の意向などどうでもいい。肝心なことは、二人の気持ち、愛情の深さ、絆の強さ、それが私たち夫婦の半分でもあれば大丈夫だ。
君たちを待ち受ける困難は想像もつかないが、私は乗り終えた。私と妻とお母さんの三人で説得すればお父さんも折れるだろう。
覚悟の上だろうが、世間の風当たりは強い。この国の大多数の人間が、君たちに反感を覚え嫌悪の感情を示すだろう。それを乗り越えねばならぬ。これから先の一生涯、毎日、無視するのもいい。世間の偏見と頑迷さを憐れむのもいい。盲目的な憎しみや無知の恐怖を。
だが、必要なときには固く手をつなぎ世間をののしってやれ。君たちの結婚は騒ぎになるだろう。論争を巻き起こすだろう。
すばらしい二人が、たまたま恋に落ち、たまたま肌の色が違った。どこの誰がどれほど騒ぎ立てようがかまわん。何よりも悪いことは、君たち二人が互いをよく知り、理解し合い、互いの気持ちを知りながら、結婚しない、ということだ…

***
トレイシーは、ポワティエの父親の肩を叩き、みんなをディナーの部屋へ案内するのだった…

♪ ♪ ♪
かつて『花嫁の父』で娘を嫁にやる父親像を演じたトレイシーはここでもなかなかの芝居をしている。
白人と黒人の結婚は、アメリカではいわばタブーで、州によっては違法とされているところがあるほどである。
これからの二人の人生において持ち上がるであろう様々な困難や、軋轢を、親は当然心配するのである。
それは相手の両親も変わることはない。

しかし、母親同士は二人の真剣な愛情に打たれて理解を示すのだが、父親同士はなかなか納得することができない。
日頃進歩的な考えを持っているトレイシーにしても、ことが自分の娘のこととなると話は別である。
自らの信条を揺るがすような事態になって煩悶せざるをえない。

一方、ヘプバーンは、娘を信頼し、結婚に理解を示しながらも、葛藤する夫を見守る微妙な感情を涙にうるんだ目で表現している。
特に、明らかに黒人に好感を持っていない画廊の支配人(ヴァージニア・クリスティン)が興味本位でヘプバーンにご注進に来たところを、解雇を告げて追い帰すシーンなどは、ヘプバーンの気風の良さが出ていて胸がすく思いがする。



ほとんどは家庭の中での会話劇に終始するが、ドラマとしては大団円に向って次第に盛り上がっていき、ラストのトレイシーの大演説によって締めくくられる。
脚本を書いたウィリアム・ローズに、オスカー脚本賞が授与されている。

なお、娘役を演じた新人キャサリン・ホートンは、ヘプバーンとは姪と叔母の関係だったそうだ。
出演作はこれ以外に数本あるらしいが、私はその後見た記憶がない。

ポワティエはこの映画でもなかなかスマートでかっこいい役どころである。
世界的にも著名な医学博士で、国際機関でも要職につくという設定だが、気になったのは、ポワティエが著名な医者などではなく、たとえば、機械技師だとかウェイター、あまり売れない芸術家だったりしたならば、この作品はどのようにストーリーが組み立てられたのか、ということであった。
黒人作家で公民権の運動家であったジェームズ・ボールドウィン(1924‐1987)などは「黒人はこの映画を何一つとして理解することはできない」と語っている、
この映画が良心的で意欲的な作品であることは間違いないとしても、アメリカにおける人種問題というのが、やはり我々が想像する以上に複雑で根の深い問題であることを示している。

♪ ♪ ♪ ♪
ポワティエとホートンが空港に降り立つタイトル・バックから流れているのが、“GLORY OF LOVE”という曲である。
映画の音楽はフランク・デ・ヴォールが担当しているので、この作品のために書かれたテーマ曲かと思っていたが、よく耳にしたメロディーでもあり、調べてみたら、1936年に“IN THE CHAPEL IN THE MOONLIGHT”なども書いているビリー・ヒルが作った古いナンバーであった。
同年、ベニー・グッドマンで全米トップとなった大ヒット曲である。 

 ♪ 少しあげて 少しもらって
   たまには少し傷ついて
   少し笑って 少し泣く
   それが恋の物語…

たとえ泣くことがあっても愛のない人生は意味がない、という人生哲学の歌が、男女混声コーラスでムーディーに歌われ、まるで全編のテーマ曲のように使われている。
サウンドはヘンリー・マンシー二風で、デ・ヴォールのセンスの良さが光っている。

なお、本稿のタイトルの「僕らはうまくいくさ」というのは、劇中、司教役を演じたセシル・ケラウェイ(好演)が、二人が結婚するという話を聞いて、「ビートルズだ」と言って口ずさむのが「僕らはうまくいくさ、うまくいく」という歌である。

曲名は、そう、“WE CAN WORK IT OUT”(恋を抱きしめよう)であった。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「プロポーズしてみることに意義がある」(蚤助)

#493: Little Girl Blue

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#472で取り上げたミュージカル『ジャンボ』(Billy Rose's Jumbo‐1935)は、リチャード・ロジャース(作曲)とロレンツ・ハート(作詞)の名コンビ(画像)による作品であったが、多額の費用をかけて製作されたという。

なにしろサーカスが主な舞台で、アクロバット的なシーンやスペクタクル的な演出も多い上に、主人公が象のジャンボ君だったので余計に費用がかさんだようだ。
さらに当時の世界的な不況もたたって、客の入りがあまり芳しくなく、上演は5ヶ月ほどで打ち切られてしまった。

1962年になって、日本でも人気が高かったドリス・デイの主演で映画化された。
彼女が出たミュージカルとしては、『パジャマ・ゲーム』以来5年ぶりの作品であり、ワクワクしながら映画館に通ったファンもいたようだ。
念のために言っておくが、ドリス・デイが象のジャンボを演じたわけではない(笑)。

 (ドリス・デイ)

象のジャンボの芸を売り物にするサーカス一座と、ライバル関係にあるサーカス団のもめごとを背景に、それぞれの一座の団長の娘と息子のロミオとジュリエットばりの恋物語がからむというストーリーだった。
以前も取り上げた“MY ROMANCE”(#472)は、このミュージカルから生まれた名曲だが、もうひとつ忘れてはならない曲がある。
“LITTLE GIRL BLUE”という曲で、『ジャンボ』のハイライトとなるナンバーである。
映画ではいずれもドリス・デイが歌った。

音楽評論家の山口弘滋氏によると、映画が最初日本で封切されたときには、この二曲がカットされていたのだそうだ。
ミュージカルの主要ナンバーの二曲のシーンをカットして劇場公開する凄まじい神経の持ち主がいたことに愕然とする。

“LITTLE GIRL BLUE”は、タイトル通り、ブルーなムードにあふれた美しいバラードである。

 ♪ そこに座って 指折り数えているだけ
   何ができるのか ただそれだけを指折り数えるしかない
   不幸な少女の悲しみを

   そこに座って ただ雨の滴を数えているだけ
   降りかかる雨の数を もう気づくべきだ
   できるのは雨を数えることくらいだと

   何をしても無駄 打ちのめされている
   希望はやせ細っていく ああ 誰かここに
   悲しみを知る少年を 連れてきてくれないか…

本当に落ち込んでいる精神状態というのはこんな感じではなかろうか。
何かしなくてはいけないと思いながら、何もすることができない。
雨に濡れながら、泣こうにも泣くことができない。
励ましの声も、慰めの言葉も無駄なのである。
周囲の人間ができることは何もない。
できることがあるとしたら、ただ、同じような悲しみを知る人間がそばに寄り添ってやることだけなのだ…



この曲は、1958年のニーナ・シモンのデビュー・アルバム(『ファースト・レコーディング』)を決して忘れてはならない。
ジュリアード音楽院でクラシックを学んでいた彼女だが、貧しい家族のために夜はクラブでピアノを弾き辛うじて生計を立てていた。
もっとも、彼女ならそういう生活を「不幸」だとは感じなかったであろう。
どんな境遇にいても、自分の音楽を奏でることが彼女にとっては無上の喜びであったはずだからだ。
クラシカルなタッチの個性的なピアノ弾き語りが、曲想と見事にマッチしてすばらしい効果をあげている。
ニーナ・シモンだけの美しい祈りの音楽である。



また、フィニアス・ニューボーン・ジュニアの『HARLEM BLUES』も力作である。
アート・テイタム、オスカー・ピーターソンの流れをくむ天才ピアニストであり、「アート・テイタムの再来」と称賛されるほど華やかなデビューを飾った。
88の鍵盤を両手でフルに使うピアニスティックなプレイは舌を巻く素晴らしさである。
だが、不幸なことに、彼は精神を病んで、音楽家としてまともに活動することができた期間は短かかった。
あふれるほどの才能がありながら、正当に評価されることのない存在であった。
だが、音楽家仲間からの評価は非常に高かったのである。
このアルバムでは、ベースにレイ・ブラウン、ドラムスにエルヴィン・ジョーンズという二人の巨匠が参加して、リラックスした演奏を繰り広げている。
1969年にこのメンバーで録音したスタジオ・セッションのうち、没にされてお蔵入りになったものを、1975年に発掘発売されたものである。
どのトラックも素晴らしい演奏で、なぜ没にされたかわからないほどである。
“LITTLE GIRL BLUE”は、人生の寂しさがにじみ出た哀愁に満ちたバラード曲だが、この三人は力強くスウィングさせ、聴きほれてしまう。


本日の一句
「プロセスが面倒くさくできぬ恋」(蚤助)

#494: 夜のブルース

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1941年12月、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、アメリカは第2次世界大戦に参戦した。
当時の日本は軍歌ばかりだったが、アメリカはスウィング・ジャズで賑わい、そうした中で、この名曲は生まれた。
“BLUES IN THE NIGHT”で、邦題は原題をそのまま訳した『夜のブルース』である。


作詞ジョニー・マーサー、作曲ハロルド・アーレン、同年の同名映画のために書かれ、映画の中では、アーレンの親友ウィリアム・ガレスピー扮するブルース歌手が歌ったという。

この映画、私は未見なのだが、それもそのはず本邦ではどうやら公開されなかったようだ。
この歌は、同年のアカデミー主題歌賞にノミネートされたが、惜しくもジェローム・カーンの“THE LAST TIME I SAW PARIS”(雨の朝巴里に死す)にオスカーをさらわれてしまった。
とはいえ、息の長いスタンダードとして現在もなお歌い継がれている。

歌謡曲というか演歌っぽい雰囲気のタイトルだが、歌謡曲の世界にも、タイトルに“ブルース”とついた歌は、昔からずいぶん作られてきた。
しかし、以前もこちらでふれたように、その大半は本物のブルースではないブルースである(笑)。

最近でこそ、本格派の日本人のブルース歌手も登場してきて、ブルースに対する誤った認識も次第に正されてきている。
ひと昔、いやふた昔くらい前くらいの平均的日本人のブルースに対するイメージといえば、暗くて悲しいウェットな世界というものだったであろう。
ブルースという言葉が持つそういった感覚的な部分を借りて、歌謡曲の世界のブルースが次々と生み出されてきたわけである。

黒人の大衆歌であるブルースは、もちろん暗く悲しい要素はあるが、明るく楽しいブルースだってあるのだ。
ブルースとは、音楽的には、三行詩の歌詞による12小節という型が典型的な様式である。
そういう意味では、最も世に広く知られていると思われる“ST. LOUIS BLUES”もブルースの形式に則っていないのだ。
この“BLUES IN THE NIGHT”もブルース的なムードは色濃いのだが、サビ(ブリッジ)が16小節であったり、AABA形式にこだわっていなかったり、厳密な意味でのブルースとはいささかスタイルを異にしている。

作曲者のアーレンは、作曲を依頼された当初は12小節のブルースを考えていたようだが、結局、都会的なセンスの持ち主であった彼が書いたのは、ブルースの雰囲気を十分持っていながら、より洗練されたこの作品だったのである。

♪ ♪
歌詞はこんな感じである。

 ♪ 俺がまだガキのころ おふくろがよく言っていた
   女が甘い言葉で近づいてきて お前に色目を使ってくるけど
   女は二つの顔を持っている いつかお前は夜に棄てられ
   ブルースを歌うはめになる

   雨が降り出した ほら汽車の音が聞こえる
   フーイー 寂しげな汽笛だ 土手を横切って吹き抜ける
   フーイー フーイー エコーが戻ってくる
   それが夜のブルースさ

   夜風が木々をざわめかせ 月が光を消したなら
   夜のブルースが聞こえてくる

   大きな都会を渡り歩いて 暮らしてきた
   うまい話を いっぱい耳にした
   学んだのはひとつだけ 人は二つの顔を持っている
   おふくろが言っていた
   夜のブルースが残るだけだと…

故郷のおふくろの忠告をしみじみと回想する内容で、たとえストレートに歌ってもジャジーに聞こえるというとても得な歌である(笑)。

映画は、白人ジャズバンドが、獄中で黒人たちが歌うこの歌を聞いて、自分たちのレパートリーにして旅回りをするハナシらしいが、登場人物が次々と死んでいくというのだから、ある意味呪いの歌といってもいいかもしれない。

♪ ♪ ♪
世の中は、嘘と偏見に満ちている。
当てになるものなどありはしない。
笑顔で近づいてくるやつには下心がある。
きれいごとばかりがまかり通って、誰も本音は話さない。
嘘に騙されるのは、騙される方が悪いのさ。

この曲が世に出た41年に当時まだ新人歌手であったダイナ・ショアがヒットさせ、その後、彼女の愛唱曲として定着した。
ダイナは女性歌手なので、甘い言葉で色目を使ってきたり、二つの顔を持つのは「男」として歌っているのはもちろんである。
画像は、彼女がRCAに吹き込んだブルース曲集『ブルースの花束』(BOUQUET OF BLUES)である。
パンチの利いたオーケストラの前奏に続きスローテンポで歌い始める。
リード、ブラス、ストリングス、それぞれのアンサンブルも散りばめられ、少しハスキーな彼女の歌声には、気品に満ちた知性的な雰囲気が横溢している。
ジャズ・センスを発揮した堂々とした歌唱である。

なお、この曲は、大ヒットした映画『オーシャンズ11』(OCEAN'S ELEVEN‐2001)にも使われていたが、こちらはクインシー・ジョーンズによる演奏であった。

♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「だましてるつもりのカレをだましてる」(蚤助)

#495: 春の如く

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まだまだ寒いこの時季の話題としてはいささか気が早いが、『春の如く』(IT MIGHT AS WELL BE SPRING)は、春にちなんだ歌の代表的なものである。
戦後初めて日本で公開された“総天然色映画”の『ステート・フェア』(STATE FAIR‐1945)の主題曲であった。

この映画の日本封切りには面白いエピソードがある。
カラー映画に字幕スーパーを入れる技術が確立していなかったこともあって、劇場によっては、映写の前にストーリーの説明をしたり、舞台に立てたセリフの紙を画面にあわせて一枚ずつめくったり、オリジナル・フィルムのままで上映したり、苦心の対応をしたものの、まるで理解できず困惑した観客が多かったそうである。


アメリカ中西部のアイオワ州を舞台に、年に一度開催される家畜や農産物の大規模な品評会“ステート・フェア”をめぐる農家の哀歓を描いたものである。

この歌は映画のヒロイン(演じたのはジーン・クレイン、彼女は歌えないので、ルーアン・ホーガンが吹き替え)のために書かれたものだが、作詞をしたオスカー・ハマースタイン二世は大変悩んだといわれている。
ヒロインのキャラクターが、草木の芽が萌え立つ“春”をイメージするものとされたからである。
ステート・フェアの開催時期は収穫の秋なので、この季節の違いをどうするか、でジレンマに陥ったというわけである。
そこで、ハマースタインは作曲者のリチャード・ロジャースに相談した。
「ヒロインが、本当は秋なのに、まるで春のように感じさせる上手い手があれば…」というハマースタインに対し、「そう、それだよ」とロジャースが応じて、結果出来上がったのがこの歌であった。

難しいのが、原題にある“MIGHT AS WELL”という語である。
英語が得意とはいえない私でも、婉曲的な表現であることはわかる。
ところで、さて何と訳すのか…悩むところである。
辞書にはいくつかの意味や語法が記載されているが、どうやら「〜する方がましだ、〜するのも同様だ、〜するようなものだ、〜するのと同じだ」という意味が一番ぴったりくるようだ。

“YOU MIGHT AS WELL〜”だと「〜してみたほうがいい」というニュアンスになるし、“WE MIGHT AS WELL〜”だと「〜してみてもいい」といった感じになる。
ただ単独で“MIGHT AS WELL”と使うと、「まあそれでもいいよ」といったニュアンスになるようだ。
時々、私が職場の同僚とかわすやりとりを例にすると、“JOIN ME FOR A DRINK?”(一杯やっていかないか?)、“MIGHT AS WELL”(まあそれでもいいよ)、という使い方ができるのだ。
なかなか便利な表現ではないか(笑)。

♪ ♪
で、歌の中身はというと…

 ♪ 嵐の中の柳のように 心が休まらない
   操り人形のように 飛び跳ねて
   春の熱(Spring Fever、風邪?)にかかってしまったのか
   春じゃないと分かっているけど
   夢見心地で 満たされない気分
   まるで唄うべき歌がないナイチンゲールのよう

   クロッカスも バラの蕾もなく
   コマドリもはばたかない
   憂鬱なのに とても明るい気分
   私の心はまるで春がきたよう…

恋心の高まりはよく春に例えられるが、この歌も恋する喜びを歌っているのだ。
春でもないのに春のように心が燃えるのである。
厳密にいえば、春を歌っているわけではないが、気分は春という、ハマースタイン苦心の作であった。
その苦労が功を奏したのか、ロジャースによってまことに美しい旋律がつけられたこの曲は、アカデミー映画主題歌賞を獲得する。
さらに、映画自体も、1962年にはボビー・ダーリン、アン・マーグレットらが出演し、リメイクされている。

♪ ♪ ♪
本来が女性の歌であることは、誕生の背景からもお分かりだろうが、シナトラやメル・トーメ、ディック・ヘイムズなど男性歌手も歌っている。
特段技巧を凝らす必要のある歌ではないので、誰もが、自分のフィーリングでストレートな唱法で歌っているのが特徴的である。

ご紹介したいのは、ブロッサム・ディアリーの歌である(画像)。
ここでの彼女は自らピアノを弾いて全編フランス語で歌っている。
ちょっぴりブルーな気分で、けだるい春の訪れを感じさせるような歌い方で、ユニークな名唱を披露している。

余談だが、このジャケットで彼女は眼鏡をかけている。
眼鏡は印象を変える一番手軽で効果的な小道具である。
映画では、ド近眼を演じたマリリン・モンロー(『百万長者と結婚する方法』)やファッション・グラスがよく似合ったオードリー・ヘプバーン(『シャレード』)などが思い出されるが、ジャズ・シンガーで眼鏡をかけた女性といえば、目の不自由なダイアン・シューアと、晩年のエラ・フィッツジェラルド、それにこのブロッサム・ディアリーくらいしか知らない。

ブロッサムのフランス語の歌唱は、風情があって新しい感覚である。
まるで、いままでおメメが悪かったことを隠していた女性が、ある日突然、エレガントな眼鏡をしてきて周囲を驚かす、そんな光景に似ている。

インストでは、クリフォード・ブラウンがライオネル・ハンプトン楽団の一員としてヨーロッパ楽旅に出たとき、親分のハンプトンに内緒でフランスのミュージシャンと密かにパリで録音したものが、みずみずしいイマジネーションにあふれていて素晴らしい。
やはり私の永遠のアイドルだ。
画像はCDのジャケットだが、私が所有するのは、その昔フランスのヴォーグが出した『CLIFFORD BROWN COMPLETE PARIS COLLECTION』と題する別テイクも含めたLP三枚組のボックスセットで、学生時代にアルバイト代を貯めてようやく入手した宝物である。



♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「口紅の色を変えたね春はすぐ」(蚤助)
   

#496: そして今は…

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“ムッシュ10万ボルト”というニック・ネームで知られるジルベール・ベコー(1927‐2001)は、実に情熱的でエネルギッシュな歌手だったが、彼のデビューはピアニストとしてであった。

画像では分かりにくいが、彼の特注ピアノは、鍵盤に向って右側の脚が短くて、客席から死角にならないよう鍵盤が見えるように設計されていたという。
特に政治的な意味があるわけではないと思うが、右側に少し傾斜しているピアノというわけである(笑)。
50年代から歌を歌い始めるとともに、自ら作曲もするようになっていった。




彼の代表的な歌100曲を集めたのが、『100 CHANSONS d'OR/BECAUD』(フランス輸入盤)という4枚組のCDアルバムである。

現在は廃盤になっているようだが、これを2,000円くらいの安値で入手したときの喜びは掛け替えのないものであった。
もっとも、フランス語のインナーシート(解説書)はあるものの、日本語の文章が一言もない。

彼の初期の作品で、フランス帰りのアメリカの歌手ジェーン・モーガンが歌ってヒットした“DAYS THE RAINS CAME”は、“LE JOUR OU LA PLUIE VIENDRA”(雨の降る日)という58年のベコーの作品であった。
また、エヴァリー・ブラザースが歌いスタンダード化している“LET IT BE ME”は“JE T'APPRTIENS”(神の思いのままに)だし、80年にニール・ダイアモンドと共作した映画『ジャズ・シンガー』のサントラ“LOVE ON THE ROCKS”やマレーネ・ディートリッヒのレパートリーであった“MARIE, MARIE”も彼の作品である。

その他、『ぼくの手』(MES MAINS)、『十字架』(LES CROIX)、『闘牛』(LA CORRIDA)、『小さな愛と友情』(UN PEU D'AMOUR ET D'AMITIE)、『プロヴァンスの市場』(LES MARCHES DE PROVENCE)、『無関心』(L'INDIFFERENCE)といった作品もベコーのヒット曲である。
これらの作品がすべてこの4枚組に収録されているわけではないが、ベコーの音楽的なキャリアが一通りたどることができるようになっている。

♪ ♪
彼の生涯の中でも重要な地位を占める作品は、『ナタリー』(NATHALIE)、『バラはあこがれ』(L'IMPORTANT C'EST LA ROSE)、『そして今は』(ET MAINTENANT)の三曲であろう。
特に『そして今は』は、ピエール・ドラノエの書いたオリジナルのフランス語による歌詞に、カール・シグマンの手で“WHAT NOW, MY LOVE”というタイトルの英語詞がつけられて、英語圏でも、フランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリー、アンディ・ウィリアムス、シャーリー・バッシー、ソニー&シェール、サラ・ヴォーン、ベン・E・キングほか、多くの歌手が歌うようになった。
この歌を最初に英語詞で歌ったのは、やはりジェーン・モーガンだったが、ベコー自身も英語詞で歌ったものがある。

日本では越路吹雪や布施明などによって歌われている。
越路吹雪は、内藤法美のアレンジ、岩谷時子の訳詩によって、徐々に盛り上がっていくオーケストラの伴奏をバックにしつつ、意外にあっさりとした歌唱を聴かせる。
また、ずいぶん前、たしかNHK紅白歌合戦でこの歌を披露した布施明は、文字通りの大熱唱だった記憶がある。

♪ ♪ ♪
この作品の誕生のエピソードには諸説あるようで、どれが真実かは判然としない。

 ♪そして今は 何をすればいいのか
  あなたが去ってしまった今
  夜がやってくるのはなぜ
  朝は意味もなく巡ってくる
  
  あなたは大地を残していってくれた
  だがあなたのいない大地なんてちっぽけなものだ
  そして今 何をすればいいのか
  これ以上泣かないために 自分を笑うことにする
  そうすれば 朝には あなたを憎むことができる

  そしてある晩 鏡の中に
  私の末路がはっきりと見えるだろう
  さよならのときには 花もない 涙もない
  私には 何もできない…

こんな感じの内容だが、少なくとも失恋のどうしようもない心境を歌う曲であることは間違いない。  
  
一説には、ベコーが恋仲だったブリジット・バルドーと別れたときに書かれたといわれている。


(ベコーとバルドー)

他方、作詞者のドラノエが語る誕生の顛末はこうである。

1961年のある日、ベコーは飛行機の中で、恋人に会いに行く女優(オルガ・アンデルセン)と会った。
翌日、またもや偶然に、ベコーは彼女と機中で一緒になったが、そのとき彼女は悲しみに塞いでいた。
彼女の恋は一晩のうちに破綻してしまっていたのだ。
ベコーは彼女と昼食をともにしたが、その時、ピアノにもたれながら彼女はこうつぶやいた。
「そして今、何をしたらいいのかしら」と…。
ベコーはすぐ、曲ができたとドラノエに電話してきた。
結局、この歌は一日で完成してしまったのだという。

自作自演したベコーの歌は、早鐘を打つ心臓の音を想起させるボレロのリズムに乗って、静かに歌い始め、次第に感情を込めていく。
伴奏もピアノとベースのシンプルなものから、楽器もアレンジも複雑になっていきとことん盛り上がっていく。
ラヴェルの“ボレロ”と同じような展開で、まことにドラマティックな歌唱になっている。
ベコーの歌は62年のフランスのヒット・チャートを大いに賑わせた。

♪ ♪ ♪ ♪
定年を迎えたサラリーマンの「そして今は」…

本日の一句
「窓際は家にもあった定年後」(蚤助)

#497: 芭蕉全句集

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年が明けてから『芭蕉全句集』(角川文庫)を熟読していた。
松尾芭蕉(1644‐1694)の、現在知られている980余句におよぶ全作品を訳注したものである。
現代語訳付きというのが我ながら情けないが、それは致し方あるまい。

ご承知の通り、俳句には「有季定型」という基本ルールがある。
すなわち、季語があって、五・七・五のリズムを持っていることである。
これは「連歌」にルーツがあって、五・七・五・七・七を次々とずっとつなげていくわけであるが、その一番最初にくる五・七・五の「発句」が独立してやがて「俳句」となったわけである。
したがって、芭蕉の句は、本来は「発句」と呼ばれるべきものなのだが、現在の俳句を確立した正岡子規の登場以降は、子規以前の「発句」をも含めて、俳句と呼ぶようになったとされている。

いま『芭蕉全句集』を読み終えて、自分なりに日本人の自然に対する感性について思いを巡らせている。


人気の俳人、黛まどかさんがこんなことを語っている。

「画家モネが大きな蓮池を描いた『睡蓮』には、蛙やトンボが一匹くらい飛んでいてもいいはずなのに、一匹も描かれていない。
西洋の絵画には、ごく一部の例外を除くと、小動物や昆虫が描かれていることがない。
一方、日本の場合には、鳥獣戯画でも琳派でも、虫や蛙や小動物というのは重要なモチーフとして描かれている。」

「ゴッホが弟のテオにあてた手紙に『日本の芸術を研究してみると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者である、日本人自らが、花のように自然の中に生きている。これこそ、真の宗教ともいえるのではないだろうか』とある。
ゴッホは日本人の自然観や観察眼、生き方を非常に賛美しているが、そのゴッホでさえ、自らの絵に小動物や昆虫を描くことはなかった。
詩でも、それらを描いた作品は極端に少ない。
花の周りを飛ぶ蜂や蝶が何かの比喩として登場することはあるが、それもやはり例外的なものである。
ヴェルレーヌの詩集に『蛙』という文字を見つけて、よくよく読んでいくと、『蛙が鳴けば、あたりを込めて悪寒が走る』というようなフレーズだった。
非常に忌み嫌うべきものとして描かれているのである。」

20世紀の初頭に来日したフランスの医師で哲学者であったクーシューという人が、フランスに最初に俳句を紹介したとされているが、黛さんによれば、クーシューは「動物を描くとき、日本人は動物たちと同じ立場でいようとする。日本人は、人間を基準にして動物を考えない。それどころか、未発達の動物たちの魂と同じ高さに身を置こうと努める」と書いているそうだ。

♪ ♪
蛙の詩人として有名だった草野心平を例に出すまでもなく、日本の詩歌では、小動物や昆虫は詩的な対象になる。

世界で最も有名で、人口に膾炙した俳句といえば、おそらく「古池や蛙飛こむ水のおと」であろう。
芭蕉庵の傍らには池があったそうだから、舞台はその池でのことなのであろう。
静かに水をたたえた古い池に、蛙の飛び込むポチャンという水音がする、というだけの句であるが、解釈や鑑賞は多様・多彩で、種々の見方ができる句だという。

それまでの俳諧では、詠む対象を和歌の伝統に則って把えていた。
「蛙」というのは、和歌や俳諧の世界では一般的に「鳴く」存在として認識され、「跳ぶ蛙」という動的な存在として把握する発想は、非常に珍しいが、初期の俳諧にいくつか先例がみられるという。
だが、この句のように、五・七・五に込められた幽玄、閑寂の趣と相俟って、当時はまことに斬新で革新的な対象把握だったのだそうだ。



この句については、今なお様々なアプローチで研究が続けられているというが、背景には、芭蕉本人の理解が変化したことがあるようだ。
この句の初案は「山吹や蛙飛こむ水のおと」だったことが知られていて、『袋草紙』(歌人たちが腕を競い合う歌会・歌合の実態、古今の和歌や歌人たちのエピソードを記した書)の故事に依拠した滑稽味の強い作品だった。
上五を「古池や」に改めた後、芭蕉は「啓蟄の喜び」という新たな解釈をするようになったという。

♪ ♪ ♪
『袋草紙』の故事というのは、こんな話である。

小倉百人一首でもその名を知られる平安時代末期の歌人、藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん1104‐1177)は、『袋草紙』で、平安中期の能因法師(988‐1058?)と帯刀節信(たてわきときのぶ)の逸話を紹介している。

能因法師といえば、やはり小倉百人一首の歌で知られるが、のちに西行や芭蕉のアイドルとなった歌人で、当時から風流に執心する「数寄者」として有名であった。
東宮の警備長であった帯刀節信も「数寄者」だったことから、初対面ながら二人は意気投合してしまう。

能因は、懐中から錦の小袋を取り出し、「これは私の宝物です」と言って袋の中の鉋屑を取り出した。
淀川にかかる長柄橋を造ったときのものだと言う。
当時の歌人にとって、長柄橋は古来歌枕として有名で、古い物の代名詞であり、その鉋屑といえば、数寄者にとってはこのうえなく貴重なものであった。

とても喜んだ帯刀は、今度は自分の懐中から紙に包んだものを差し出した。
能因が開いてみると、ひからびた蛙のミイラ。
帯刀は「これは井手の蛙です」と言った。
井手は京都の地名だが、奈良と京都を結ぶ「山背古道」が通っていて、万葉の時代から多くの歌に詠まれてきた土地柄である。
井手は「山吹の里」ととしても知られ、清流には鰍蛙の鳴き声が響いていたことから、井手の枕詞は「山吹」と「蛙(かはづ)」とされていた。
その井手の蛙の干物(ミイラ)を持ち歩く帯刀に、能因は大いに感嘆して、それぞれ懐に戻し、別れていったという。
お互い数寄者同士、「お主、なかなかやるな」といったところであろう。

清輔朝臣は「さすがは数寄者、見習うべき」と紹介しているそうだ。

もっとも、「いくら宝物だといって大事にされたとしても、干物にはなりたくねえ」とは、蛙の独白である(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪
つい「古池や…」のハナシが長くなってしまったが、「蛙」のほかに、小林一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」という句も有名である。
また、村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」など、日本の絵や詩歌に登場する小動物は、決して点景ではなく、主題そのものである。
蛙も雀も冬蜂も、人間の添え物や比喩ではなく、主人公になっている。

さらに、先に挙げたクーシューの記述そのままの世界ではないかと思われる作品があるので、もう一句『芭蕉全句集』から引く。

「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
仕掛けにかかってしまった蛸なのだが、海にはいい夏の月が上っている。
明日の朝には、蛸壺ごと引き揚げられてしまう。
朝までの束の間に、蛸は淡い夢を見ているのだ。
このとき芭蕉の魂は蛸と同じ次元にある。
一体化であり、同化であり、いつしか作者と対象である蛸との境目が無くなっている。
はかなき夢を見ているのは蛸であり、そして芭蕉自身である。
そして読者もいつしか、蛸と同じようにはかなき夢に思いをはせる。
加えて、あまたの命を包む海上に輝く月光…
何ともいえない句柄の大きさを感じさせる。

日本人の感性の特徴を考えるヒントを与えてくれた一冊である。

#498: 降っても晴れても

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新聞によれば、東京都の猪瀬知事が気象庁の天気予報を批判し話題になっているという。

2月6日に都内でも大雪の恐れがあるとした同庁の発表について、知事はツイッターで、1月14日(成人の日)に予報を外した同庁が「責任逃れ」や「自己保身」のため、「過剰に積雪量を見積もった」とつぶやいた。

8日の記者会見で、つぶやきの根拠を問われた知事は、「深夜に空を見ても、雪が降る気配が全くなかった」と、これまでデータにこだわってきたノンフクション作家らしくない回答をしたうえ、「(気象庁は)心理的にぶれるんじゃないか」と、持論を曲げなかった。

記事は、なんとなく猪瀬知事を揶揄しているような感じもするが、これに対して、気象庁が「予報は科学的知見に基づいており、心理的影響は全くない」と真面目に回答しているのが妙におかしい。

まあ、雪や雨が降ろうが降るまいが、降っても晴れても、今のところ私にとってはあまり影響はないのだが、明日、もしも“THE END OF THE WORLD”(世界の終わり)だったらどうするか。
巨大隕石が落下してくるとか、核ミサイルが降ってくるとかしたらどうする。
食い止める手立てはもはやなく、地球から脱出もできない。
そんな最後の日に一緒に過ごしたい人は、あなたにいるだろうか。

案外、幸せというのは最後の日に一緒にいたい人がいる、というシンプルなことなのかもしれないと思う。


“COME RAIN OR COME SHINE”という曲は、かつて「照るか曇るか」(降れば土砂降り、晴れれば日干し)なんて迷訳・珍訳もあったが、現在では『降っても晴れても』という邦題が定着している。

ハロルド・アーレンの書いたメロディを聴いた作詞家のジョニー・マーサーは、すぐ出だしの歌詞を思いついてメモをしたところ、アーレンが“Come Hell Or High Water”(どんな障害があろうと)と続けた。
それをマーサーがすぐさま“Come Rain Or Come Shine”と訂正して受けて、たちまちにして歌が出来上がったという。

ちなみに“Come Rain Or Come Shine(Come Rain Or Shine)”を英英辞典で調べると,
“Spoken whatever happens or whatever the weather is like: Don't Worry. We'll be There‐rain or shine”などと出ていて、「どんなことが起ころうとも」というような意味のようだ。

ルビー・ヒル、ファニタ・ホール、パール・ベイリーなど黒人ばかりの出演者で上演された『セントルイスの女』(1946)というミュージカルのために作られた。
このミュージカルは、当初リナ・ホーンが主演の予定であったが、スケジュールの調整が不調に終わり、主演がパール・ベイリーに変更されたが、興行的には失敗作だったようだ。
ところが、作曲者のアーレンはこの曲を捨てきれず、別のミュージカル『ブルース・オペラ』(1957)でも使ったが、このミュージカルも当たらず、降っても晴れてもどころか、土砂降りだらけの、どうやらあまり験の良くない曲のようなのだ(笑)。

♪ ♪
 ♪ 私は あなたを愛した誰よりも あなたを愛したい
   山のように高く 河のように深く 降っても 晴れても
   …
   あなたは 私を愛した誰よりも 私を愛してほしい
   降っても 晴れても 幸せな時も そうでない時も
   お金があろうと なかろうと 二人が一緒なら素晴らしい…

「じーんせい、楽ありゃ苦もあるさー♪」と思わず水戸黄門をしてしまうような歌であり(笑)、貧乏かもしれないけど楽しくやっていける、幸せも不幸せも二人ならば苦にはならない、どんなことがあろうとも離ればなれにならない、ずっとそばにいるよ…
そんな求愛の歌でもある。

“OVER THE RAINBOW”などを作ったアーレンは、小粋なメロディと洗練されたコード進行をもつ作品を残していて、どちらかといえば通人好みのする作曲家であった。
マーサーの詞の方は熱烈な表現の割には、さほど洒落た歌詞とも思えないが、メロディの流れとはよくマッチしていて、職人芸を感じさせる。

この曲、原曲はバラードなのだが、バラードとして歌うタイプと、アップ・テンポでスインギーなナンバーとして歌うタイプの2系統に大別されるようだ。

 (Sarah Vaughan)

『SARAH VAUGHAN IN HI-FI』でのサラ・ヴォーンは、当時の彼女の特徴である粘っこいフレージングを生かしたエモーショナルなバラード唱法の名唱を披露している。

 (The Four Freshmen)  (The Hi-Lo's)

一方、この曲、コーラス・グループの手にかかると、アップ・テンポのナンバーとなることが多いと思う。
オープン・ハーモニーの魅力を世に知らしめたモダン・ジャズ・コーラス・グループの最高峰フォア・フレッシュメンは、アルバム『THE FOUR FRESHMEN & FIVE GUITARS』で、早いテンポのサンバ調のリズムをバックに、まことに楽しさあふれるコーラスを聴かせる。
またフォア・フレッシュメンの後輩グループ、ハイ・ローズは、1978年の再結成アルバム『BACK AGAIN』で、これまたアップ・テンポで弾むようなコーラスを展開している。

演奏ものにも、素晴らしいものが多いのだが、ピアノ・トリオに限っていえば、代表格はビル・エヴァンスとウィントン・ケリーであろう。

 (Bill Evans)  (Wynton Kelly)

どちらも私好みのプレイだが、ピアノ・ジャズの素晴らしさを堪能させてくれる名演である。

いずれにせよ、テンポがどうあろうとも、この曲の魅力が変わるというわけではない。
それぞれの歌手、ミュージシャンの解釈の違いが、テンポの設定やフレージングに作用し、この曲に新しい生命を吹き込んでいる点を楽しみたい。

♪ ♪ ♪
都知事がクレームをつけた天気予報、個人的には降っても晴れてもいいのだが、やはり「晴れ」というのは人の心をウキウキさせるのは確かである。

本日の一句
「予報士が君住む町も晴れという」(蚤助)


#499: テレビ放送60年

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今年はテレビ放送60年だそうである。
1953年2月1日、日本放送協会(NHK)がテレビの本放送を開始、半年ほど遅れて民間の日本テレビが放送を開始した。
テレビ放送開始のころの受信契約者数はわずか866台だったそうだが、今や一家に一台どころか、一人に一台の時代である。

我が家に初めてテレビ受像機が登場したのは、いつ頃だったであろうか。
私が小学生に入ったばかりのころであったろうか。
それまで、ご近所のテレビのある家で近所の子供たちと一緒に見せてもらっていたのだが、何かの都合で、テレビを見させてもらうのを断られた日の、ひどく悲しくて悔しかった気持ちは今でも鮮明に覚えている。

また、初めてテレビのカラー放送の画面を見たときの驚きも忘れられない。


テレビ放送開始以来、常に第一線で活躍している代表的なタレントといえば、やはり黒柳徹子であろう。
現在に至るまで一貫してレギュラー番組を持っている唯一のタレントであり、おそるべきマルチ・タレントである(笑)。

 (黒柳徹子)

大ベストセラーとなった『窓際のトットちゃん』を例にあげるまでもなく文筆家としても有名であるが、放送60年ということで、彼女の書いた『トットチャンネル』を通勤電車の中で久しぶりに再読することにした。

テレビ草創期のエピソードをユーモラスに描いたトットこと黒柳徹子の青春記であるが、テレビ放送史ともいうべき貴重な証言記録にもなっている。

新潮文庫版の解説の劇作家飯沢匡は、こう書いている。

「今は笑いが日本の社会にも迎え入れられているが、テレビなどで見かけるのが果して『上質』かどうか。私には『悪ふざけ』としてか映らないのである。(中略)この『トットチャンネル』に、ちりばめられたユーモアは私は大いに珍重したい。(中略)このユーモアがこの『トットチャンネル』には、ふんだんにあるのが大きな強味である。しかし私にはこのユーモアは大へん悲しく映るのである。ということは、よく考えるとこのユーモアは総て『錯誤』から来る笑いである。いうなら失敗譚の連続なのである。
 失敗譚でないユーモアはないといえるかも知れない。必ずそこには『笑い者』にされる人間がいるのである。私は『笑いには必ず加害者と被害者がいる』といっているが、この際、被害者は黒柳さんであり加害者はまだテレビに不慣れであったNHKのスタッフたちなのである。」

テレビの笑いは「悪ふざけ」だと言う飯沢の言うとおり、放送60年の現在のテレビに映るのもやはり「悪ふざけ」ばかり、出演しているのも、人を笑わすのではなく、人に笑われるタレントたちである。
さすが飯沢は慧眼である。
私はいわゆるお笑い番組はもうほとんど見なくなっている。

彼は、里見京子、横山道代とともにラジオの人気番組「ヤン坊ニン坊トン坊」で黒柳を起用し、タレントとして世に出した人物であり、黒柳にとっては師というべき存在であった。

その飯沢は、上の文章に続けてこう書いている。

「私もよくNHKのスタッフには泣かされたものだ。今でもディレクターと称する不慣れなプロとはいえないていのサラリーマンたちが背延びして失敗するのの飛ばっちりを受けることがあるが、私は老人であるから怒って彼らを畏怖せしめることが出来る。こんなことをすればイージイ・ゴーイング(事勿れ主義)なサラリーマンから敬遠されるのは理の当然で仕事は来なくなるから始末はよいが黒柳さんは新入社員、しかもタレントの研究生から出発したのであるから正にこの一書は今日のお若い人々が大好きなサクセス・ストーリイ(成功物語)といえるかも知れない。私は新劇の世界で一応サクセスしてから放送界に身を挺したのであったから大幅に自由がきいたが黒柳さんは正にその逆であった。」

テレビ放送がまだよちよち歩きのころ、一人の少女が何も知らぬ放送の世界に飛び込み、初めて録音された自分の声を聞いて自分の声にショックを受けたり、テレビカメラのケーブルを踏むと画像がつぶれると思い込んだりしながらも、やがて個性的なタレントとして大きく開花していくひたむきな姿を「上質なユーモア」で描いている。

飯沢によれば、『窓際の…』にせよ、『トットチャンネル』にしても、黒柳のこの上質なユーモアがなければ単なるセンチメンタルしか残らないと言い切っている。

♪ ♪
この本で、通勤電車の中で笑いをこらえるのに苦労したのは、私の笑いのツボにはまった箇所がいくつもあったからである。

【笑いのツボ・その1】
あるNHKのスタッフは、入局時の書類の「趣味欄」に「相撲」と書いた。
そこまではよかったが、「特技欄」には「うわ手投げ」と書いたために、ボーナスの額が他の人より少なかった。

【笑いのツボ・その2】
時報を告げる前の数秒間「火の元には充分お気をつけください」などと一口メモ風のコメントを言うことになっていたが、アナウンサーが「税金は進んで滞納いたしましょう」とやってしまった。
直後、時報が鳴ってニュースの時間になってしまい、訂正する間がなかった。

【笑いのツボ・その3】
休み時間に麻雀をして、時間ぎりぎりに天気予報のスタジオに駆け込んだアナウンサー、「明日はトンナン(東南)の風!」と読んでしまった。

【笑いのツボ・その4】
いつもは相撲の中継を担当しているアナウンサー、駆り出されたバスケットボールの中継で、「土俵の下からの大きなシュートです」と実況した。

中でも車内でこみ上げる笑いを抑えるのに苦労したのが、「拙者の扶持」というエピソードであった。

当時、NHKでは本番当日に出演者に出演料を現金で払っていた。
時代劇に出演したある新劇俳優、本番前に出演料の入った茶封筒を受け取った。
いつもなら、鍵のかかるロッカーに入れておくのだが、本番直前ですっかり忍者役の扮装をしていたので、何気なく衣装の懐中に仕舞った。
彼の役は密書を殿様に届けるというものだったが、途中、敵に斬られて虫の息になる。
味方の忍者が駆け寄るので、その密書を渡し、本人は息絶えるという段取りになっていた。

さて本番、途中まで順調に進んだ。
ついに大勢の敵に囲まれ、遂に斬られるクライマックスの場面になった。
敵に斬られて「ウ〜ム」と倒れてもがいていると、味方の忍者が近寄って来た。
虫の息で、近づいて来た味方の忍者に言った。
「ふところの…ふところの、密書を殿へ…」

味方は急いで、もがく忍者のふところに手を突っ込み、手に触ったものを取り出した。
テレビカメラが近寄り、手元をクローズ・アップすると、「密書」と書いてあるはずのものは、NHKの出演料が入った茶色い封筒だった。
味方は、ハッ!と気がついて、思わず「これは…」と言ってしまった。
もがいている忍者の方も、何かおかしいと薄目で見てみると、なんと先ほど受け取ったばかりの出演料…。
このとき、忍者はちっとも騒がず、「それは拙者の扶持でござる。密書は、もっと奥…」と言って息絶えた。
味方は、ふところのもっと奥に手を突っ込み、見事に密書を殿に届けた…。

この話はNHK中に瞬く間に広がったという。
それにしても、この俳優、「扶持」という台本にもないセリフがすぐ出てきたのはやはりすごかったというべきであろう(笑)。

これらは、録画技術もないナマ番組でテレビドラマの放送が行われていたことによるハプニングである。

なお『トットチャンネル』は、1987年に斉藤由貴の主演で大森一樹の手で映画化されたが、カラー放送の試験放送で、黒柳が顔の左右を青と白に塗り分けられて撮影されたというエピソードが映画の中にも出てきて、それがとても強い印象だったことが思い出される。

♪ ♪ ♪
本日の一句
「時代劇ピアス穴ある姫の耳」(蚤助)


#500: はるばる来たぜ、500回!

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ようやくたどり着いた500回目!

区切りのテーマは、我ながらベタだと思うのだが、単純に500という数字にちなんで、“500 MILES”、『500マイル』もしくは『500マイルも離れて』という邦題で知られるあの懐かしきアメリカン・フォーク・ソングである。
1マイルは1.6095344km、約1.6kmなので、500マイルといえば、804.672km、およそ800kmで、東京から尾道あたりまでの距離である。


ロバート・アルドリッチの『北国の帝王』(Emperor Of The North Pole‐1973)やハル・アシュビーの『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(Bound For Glory‐1976)といった映画にも描かれていたが、1930年代のアメリカの大不況時代に「HOBO(ホーボー)」と呼ばれていた放浪者たちがいた。
彼らは仕事を求めて貨物列車に無賃乗車しながらアメリカ各地を「方々(ほうぼう)」旅していた。
彼らは貧しかったので、一度故郷を出たきり二度と戻れない者も多かった。

“500 MILES”の作者はHEDY WESTとクレジットされている。
ヘディ・ウエスト(1938‐2005)というのは、ジョージア州出身の女性フォーク・シンガーで、1959年にニューヨークに出ると、ピート・シーガーに才能を認められ、1961年にファースト・アルバム『HEDY WEST』をリリースする。
“500 MILES”はこのアルバムに収められていたのだが、この歌は元々彼女の故郷ジョージア州あたりのホーボーたちによって歌われていたもので、ヘディはこの歌を故郷の祖母から聞かされたという。
本来トラディショナルな歌なのだ。

一聴するとどこか宗教的な匂いもするのだが、特に関連づける必要はなく、惜別や故郷への哀愁を素直に歌ったものだと考えればいいのではなかろうか。

 ♪ あなたが私の乗る列車に乗りそこねたら
   私が行ってしまったと知るだろう
   汽笛の音だけが聞こえるはず
   100マイル …
   主よ 私は1、 2、 3、 4、500マイルも故郷から離れてしまった
   
   私にはシャツもなく 1セントも持っていない
   主よ こんなに離れていては 私は故郷に帰れない
   こんなに離れていては…

ヘディは60年代に活躍したようだが、日本ではあまり注目されることはなく、私も彼女の歌声を聞いたことはなかったのだが、最近ではYouTubeなどで視聴できるようだ。
ヘディのものはバンジョーだけを伴奏に、あまり洗練されてはいないが、シンプルで素朴な歌い方でそれなりに味わいがある。

♪ ♪
この曲は、キングストン・トリオ、ブラザース・フォーなどのフォーク・グループがカヴァーし、エルヴィス・プレスリーも歌っていた。
ビルボードのトップ10入りさせたのはカントリー歌手のボビー・ベアで、貧しい流れ者の望郷の歌にしては明るく陽気すぎるのが?だった。
何といっても、この歌、私が一番最初に耳にしたモダン・フォーク・トリオのピーター・ポール&マリー(PP&M)の印象が強い。
今は亡きマリー・トラヴァースの感情を内に込めたクールなヴォーカルと奇をてらわないストレートなアレンジに好感が持てた。
そういえば、ボブ・ディランの不朽の名作“BLOWIN' IN THE WIND”(風に吹かれて)も、オリジナルのディランのヴァージョンよりもPP&Mの方が素直な歌い方で、より多くのリスナーに支持されたのではないかと思う。、

 (PP&M)

ヘディがこの曲を発表した翌1962年、PP&Mはデビュー・アルバム『PETER, PAUL & MARY』で既にこの曲を取り上げ、以後、彼らのレパートリーのひとつとしていった。
シンプルでとても歌いやすく、今でも耳にするたびに、胸がいっぱいになってしまう懐かしい歌である。

♪ ♪ ♪
500マイルという距離が当時の放浪者たちにとって、どれほど長い距離だと感じられたのか知る由もないが、2008年4月以来、およそ4年10か月かけて500回に到達した本ブログ、だからこそ本稿は短かめにあっさりと終えておきたい(?)。

本日の一句
「カラオケはマイクを握るまでのこと」(蚤助)

#501: 手に手をとって

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1930(昭和5)年前後に作られた楽曲は、アメリカを震源に世界中が深刻な影響を被った大恐慌の反動か、妙に明るい曲が多い。
たとえば、『明るい表通りで』(ON THE SUNNY SIDE OF THE STREET)、『私の青空』(MY BLUE HEAVEN)、『君微笑めば』(WHEN YOU'RE SMILING)などである。
世の中が暗ければ、せめて音楽くらいは明るくということなのだろうか。


『サイド・バイ・サイド』(SIDE BY SIDE)という曲が作られた1927年は、アメリカの経済状態が下降線をたどり始めた年で、そうして生まれた明るい歌の一つであった。

ハリー・ウッズが作詞・作曲したもので、ヴォードビルのショー・ナンバーとして人気を呼んだ。
ビング・クロスビーがいたリズム・ボーイズをフィーチャーしたポール・ホワイトマン楽団のレコードがヒットしたという。

 ♪ お金なんてなくても ボロをまとっても
   手に手をとって 一緒に旅をすれば
   きっといいことがあるさ…

こんな他愛のないノー天気な歌で、メロディーも歌詞と同様に単純で底抜けに明るく、人の心を元気にしてくれるのは間違いない。
ショーの一場面を飾るにふさわしい明朗な歌ではあったが、逆に、ショーのステージを離れて一人歩きするのがなかなか難しい内容だったとも言え、その後しばらくの間は人気のある歌とは言えなかった。

♪ ♪
ところが、1953年、ケイ・スターの歌う『サイド・バイ・サイド』が突然リヴァイヴァル・ヒットしたのである。
バックのビッグ・バンドもどこか懐かしいサウンドであり、彼女の明るい歌声と抜群のノリの良さは、リスナーを一様に元気にさせてくれたのだった。
今や『サイド・バイ・サイド』といえば、ケイ・スターの代名詞ともなっているし、おかげでこの曲もポップス、ロック等非常に幅広いジャンルの歌手に取り上げられるようになった。
いわば、すっかり出世してしまったわけである。

我が国では、何といっても若き日の江利チエミの歌が、大向うから「ウマイ!」と声がかかりそうなほどの好唱で、いかにも彼女のキャラクターにピッタリ合ったナンバーだと思う。
定番通り、サビの部分から日本語の歌詞になるのも、なかなか素敵である。

もうひとつ、忘れてはならないのが、女優の吉田日出子である。
日本製のミュージカルとして、ロングランも記録したオンシアター自由劇場の伝説の舞台『上海バンスキング』(斎藤憐の戯曲)。
その主演をつとめた彼女が、日本語で歌った『サイド・バイ・サイド』は、必ずしも上手くはないのだが、とても説得力のある歌い方である。
歌と演技と「手に手をとって」戦前のジャズ・ソングのムードをよく再現している。
さすが名女優というべきである。

♪ ♪ ♪
“SIDE BY SIDE”は、〜と並んで(With)、一緒に(Together)、位置(関連)が近い(Close)というような意味だが、ひところ社会的な問題になったこんなのも「サイド・バイ・サイド」と言えるかな?

本日の一句
「さあ飲もう裏金部長ついている」(蚤助) 

#502: 本が書けそう

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掲帯電話をはじめ、パソコン、スマートフォンなどが当たり前の現代の若い人にとっては、もはや死語かも知れないが、かつて「ペン・フレンド」とか「文通」といったことが、若者の間で盛んだった時代があった。
これらは活字文化の中で育った世代に共通する思い出深い言葉かもしれない。
自筆の文字や文章を通じて、豊かなイメージの広がりを楽しんでいたのだ。


たとえば「文通」である。
学生や若者向けの雑誌などの読者のページなどに掲載される「ペン・フレンド求む!」などという投書が女学生の名前だったりすると、ヒマを見て手紙を書くのである。
特に相手の女学生が「吉永小百合」などという美少女風の名前だったりすると、思わず頑張っちゃうわけである(笑)。
相手からも返事が来て、何回かやりとりをしているうちに、よせばいいのに「写真を送ってください」などと書く。

やがて、リンゴのような頬のとっても健康そうなセーラー服姿の女の子の写真が送られてくる。
もっとも、こちらの方もジャガイモに学生服を着せたような写真を送っているので、だいたいはそのあたりで文通が終わるというのが相場であった。
そうして、イメージと現実とのギャップを埋められないまま、自らの愚行を深く反省するのであった(笑)。

♪ ♪
「ペン・フレンド」は「ペン・パル」ともいうが、フレンドと同様に“PAL”は「友達、仲良し、仲間」という意味だから、本ブログのタイトル「けやぐ」に相当する言葉である。

以前にもミュージカル『パル・ジョーイ』(PAL JOEY)について書いたが、作曲家のリチャード・ロジャースは作詞家ロレンツ・ハートとのコンビの時代が最高だったと思う。
ロレンツ・ハートという作詞家は単純な言葉を使いながら、ちょっとひねった表現をし、都会派でとにかく粋なのである。
その『パル・ジョーイ』の中の一曲が、“I COULD WRITE A BOOK”である。
最近では、“Twitter”やら“Facebook”なんていう双方向のコミュニケーション・ツールもあるくらいだから、ちょっとませている子供ならば、ひょっとしたらこの歌の文句みたいなものをすでに書いているかもしれない。

 ♪ ABCDEFG 勉強しなかったので 綴りがよくわからない
   1234567 大きな数字は数えられない
   けれど 習ったことは使いたくて うずうずしている
   時間を無駄にしたくない
   鉄は熱いうちに打とう

と、ここまでがヴァース(前振りの語り)の中身で、続いてコーラス(本編)では、

 ♪ I COULD WRITE A BOOK 書けと言われりゃ本にだって書ける
   あなたの歩き方や 囁き方について
   つまり あなたについて
   私の恋については 本が書けるほど…

という風なことを歌っている。
要するに「あなたとの恋のいきさつなら本に書けるほど、私は素敵な恋をしている」と言っているのだ。
単純だけれども実に巧みな表現ではなかろうか。
続いて、前書きは「私たちの出会い」で、あらすじは「どんなに私があなたを愛しているか」ということ、最後のページで「世間の人は、どうしたら友達が恋人に発展するかを知るだろう」とまるで一冊の本の内容のように展開していく歌詞が面白いし、説得力がある。
メロディもシンプルな良さがあり、それが粋な歌詞とうまくマッチしている。

基本的にはシンプルな歌だが、ジャズ・シンガーが好んでレパートリーにし、今でも多くの歌手によって歌われている。

1940年の舞台で創唱したのはジーン・ケリー、彼はこの舞台で注目され、二年後にハリウッド入りし、スター街道を歩み始めるのである。
57年の映画化(『夜の豹』、何というひどい邦題をつけてくれたのだと、またまたここで嘆いておこう!)ではフランク・シナトラが畢生の名唱を聴かせた。
圧倒的にヴォーカル・ヴァージョンが多く、歌っている顔ぶれも、シナトラを筆頭に、ベティ・カーター、ダイナ・ワシントン、トニー・ベネット、キャロル・スローン、アニタ・オデイ、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルド等々、まさにオールスターズである。

インストではマイルス・デイヴィス・クインテットが、かの有名なマラソン・セッションの4枚のアルバム中、2枚目にリリースされた『RELAXIN' WITH THE MILES DAVIS QUINTET』(1956)で取り上げている。
レッド・ガーランドのピアノのイントロから、マイルスが寛ぎに満ちた粋なトランペットを吹く。
「卵の殻の上を歩く」と形容された彼のミュートによる繊細で軽妙な語り口が堪能できる。
マイルスの軽妙さに対するテナーのジョン・コルトレーンはフレーズの持続と伸びやかさと気迫のこもったソロをとる。
続いて、ガーランドの右手が躍動感にあふれたプレイをして、テーマに戻る。
ポール・チェンバースとフィリー・ジョー・ジョーンズのコンビは、例によって新鮮なバックアップをしている。
マイルスのオリジナル・クインテットによる唯一無二の名演奏である。

♪ ♪ ♪
振り返ってみると、経緯はよく覚えていないのだが、中学生のころには山口県の男子中学生、高校生のころは名古屋の女子高生が、私の「ペン・フレンド」であった。
山口のカレには結局一度も会うことはなかったが、名古屋の女子高生の方は、夏休みの北海道旅行の途中、わざわざ我が家に立ち寄ってくれたこともあったし、私が東京の大学へ進学すると、わざわざ上京してデートらしきことをしたこともあった。
よく日焼けした活動的な女の子であったが、お互いアルバイトやら学業やら忙しくなったせいか、文通の方はやがて自然消滅してしまった。

本日の一句
「ワープロの手紙乱筆許せとは」(蚤助)


#503: CMソングと思いきや…

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かつて、この歌が国産車のテレビCMに使用されたのを知って、「やはり考えることはみな同じ」と思ったことがある。
それは日産の人気車種であった「サニー」のコマーシャルで、使われていた歌はズバリ“SUNNY”であった。
歌っていたのは、確かダスティ・スプリングフィールドだったと思う。
60年代のイギリスの歌姫であったダスティは、なかなか豪華なアレンジのジャズ・ワルツ風に歌っていたのではなかったか。


“SUNNY”(「サニーは恋人」という邦題もある)は黒人のシンガー・ソングライター、ボビー・ヘブ(1938‐2010)が、1966年に放ったソウル・ナンバーで、ビルボードのシングル・チャートで全米2位の大ヒット曲となったが、キャッシュボックスのチャートでは確か全米1位を記録したと思う。
同時に、R&Bチャート、カントリー・チャートでも上位に入る非常に珍しい楽曲となった。
当時、ラジオ深夜番組の熱心なリスナーであった蚤助少年は、同じころ流行っていた黒人ソウルのウィルソン・ピケットやジェームズ・ブラウンらの熱い歌声と異なり、黒っぽさをあまり感じさせないヘブの歌声と洗練されたアレンジに強く惹かれたものだった。



それもそのはず、ヘブは、白人の音楽であったカントリー・ミュージックの中心地であるテキサス州ナッシュヴィルの生まれで、12歳のときにはカントリー界の重鎮であったロイ・エイカフの推薦もあって、黒人として初めて、伝統的なカントリー・コンサート“GRAND OLE OPRY”に出演していたほどなので、白人の音楽とは親和性があったのだろう。
その後、ギターを師事したチェット・アトキンスの後押しで、音楽界にデビューする。

“SUNNY”が書かれたのは1963年のことで、アメリカの大統領ジョン・F・ケネディが暗殺された11月22日の翌朝、先に音楽界に入っていたヘブの兄が強盗に襲われて命を落とすという事件が起こった。
ヘブが悲嘆に明け暮れ、神に祈る日々の中で生まれた曲だという。

真偽のほどは判らないが、ヘブ自身の歌でレコーディングする以前から、この曲は他のアーティストによって歌われていたとのハナシがあり、一説には“SUNNY”を世界で最初にレコーディングは日本の弘田三枝子だったというのだが、これはトリヴィア的なエピソードである(笑)。

 ♪ サニー 昨日までの私は 土砂降りの人生
   でも 君の笑顔が 私の痛みを消してくれた
   暗い日々は去り 光に満ちた日が訪れる
   君は 真実そのもの アイ・ラヴ・ユー

   サニー 太陽を与えてくれてありがとう
   愛を与えてくれてありがとう
   君は すべてを私に託してくれた
   まるで 背が10フィート(3メートル)になったみたいさ

   サニー 真心をありがとう
   何から何までありがとう
   風に吹かれる砂のように 砕けてしまった人生が
   岩のように固まった

   サニー 微笑みをありがとう
   優しくしてくれてありがとう
   君は 命の火花 大切な宝物
   君は 真実そのもの アイ・ラヴ・ユー…

「背が10フィートになったみたい」(Now I Feel Ten Feet Tall)というのが面白い表現である。
「サニー」は恋人の名前であろうし、明るい陽射しという意味も込められている。

ヘブの自作曲は3000曲に及ぶといわれているがどれも当たらず、ヒット曲といえば“SUNNY”一曲だけなのだが、60年代に生まれた不朽のスタンダード曲として、ジャズからソウル、ポップスまで、幅広いミュージシャンにカヴァーされており、カヴァーの数は500以上に及ぶという。

CMソングに起用されたダスティ・スプリングフィールドをはじめ、ホセ・フェリシアーノ、スティーヴィー・ワンダー、ウォーカー・ブラザーズ、シェールなどのヴァージョンがすぐ頭に浮かぶのだが、日本ではちょうどグループ・サウンズ花盛りのころで、スパイダーズやカーナビーツが録音している。

 (BLUE BURTON/Ann Burton)

だが、ボビー・ヘブ以外のアーティストで個人的に好きなヴァージョンといえば、オランダのアン・バートンが世界的評価を得る契機となった“BLUE BURTON”で、ピアノ・トリオを伴奏に小粋に歌っているジャズ・ヴォーカルが断然素晴らしい。

 (CALIFORNIA DREAMING/Wes Montgomery)

インストでは、ウエス・モンゴメリーの“CALIFORNIA DREAMING”、よく歌うウエスのギターが活躍する。
フェイバリット・ヴァージョンである。

なお、最近では、奥田民生が「自動車」にちなんだ曲を集めた“CAR SONGS OF THE YEARS”というちょっとユニークなアルバムで、ヘブのオリジナルに比較的忠実なカヴァーを披露している。
ここで歌われた理由というのが、やはり「日産サニー」にこじつけてというのだから、本当に「CMソングと思いきや…」である(笑)。

♪ ♪
「君はぼくの太陽だ」という趣旨の歌は、“YOU ARE MY SUNSHINE”や“YOU ARE THE SUNSHINE OF MY LIFE”などと同じ発想だが、“SUNNY”の方がどこか敬虔さが感じられるのは、大統領暗殺、兄の非業の死という、曲が誕生した経緯を知っているからかもしれない。

本日の一句
「新婚のころは太陽いま空気」(蚤助)

#504: 不運を糧に…

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アラバマ州の高校時代に野球選手として活躍したパーシー・スレッジ(1941‐)は、野球でメシが食えるほどの実力がないことを自覚、高校卒業後に建築現場で働いた。
1965年のこと、仕事を首になってしまい、それと同時に付き合っていたガールフレンドにも去られてしまうという不運に見舞われた。

傷心を抱えながらも病院の雑用の仕事を見つけ、週末になると地元の“THE ESQUIRES COMBO”(エスクァイアーズ・コンボ)というバンドとともに地方のクラブで歌い始めたが、まったくの無名にすぎない存在であった。


ある夜、彼はいつものようにクラブのステージに立つが、突然、バンドのレパートリーが歌えなくなってしまった。
内心あわてたものの、彼は平静を装い、バンドのメンバーでベースのカルヴィン・ルイスと、オルガンのアンドリュー・ライトに即興で歌うから適当に伴奏をつけてほしいと言った。
このとき、バンドが演奏したのは、ブルージーなソウル・バラードで、彼はいつものように熱唱した、もちろん歌詞はアドリブだった。

多分にハプニングで生まれたこの作品は、後にサザン・ソウル、R&Bの傑作中の傑作ラヴ・バラード、“WHEN A MAN LOVES A WOMAN”(男が女を愛するとき)につながっていくのである。
カルヴィン、アンドリュー、パーシーの三人は、職を失って恋人に去られたときのパーシーの苦悩の体験に基づく歌詞をつけ、ソウル・バラードとしての体裁を整えて、レコードを自主制作した。

この曲のクレジットには、パーシー・スレッジの名前はなく、カルヴィンとアンドリューの名のみ記されている。
名曲の誕生に大きく貢献したというので、パーシーが権利を二人に譲ったのである。

さらに幸運だったのは、パーシーが働く病院の患者の中に音楽プロデューサーがいたことであった。
そのプロデューサーの縁によって、パーシーはオーディションを受ける機会を得、アトランティック・レコードと契約を交わすことになる。
アトランティック・レコードは、この曲を全米リリースするのだが、手違いによって実際に発売されたのは、新しく仕立て直した録音の方ではなく、オリジナルのヴァージョンの方だったという。



「瓢箪から駒」で、パーシーのこのデビュー曲は、1966年の大ヒットとなり全米1位を記録、これはアトランティック・レコードにとってもレーベル史上初のゴールド・レコードとなった。

 ♪ 男が女を愛するとき 何にも考えられなくなる
   世界と引き換えにしかねない 見つけたこの宝物と
   彼女に欠点があろうとも 見えやしない
   親友にだって背を向ける 彼女をこき下ろしたりすれば

   男が女を愛するとき 最後の金を使っても
   必要なものは手放したくない
   すべての安楽を捨て 雨の中で眠るかもしれない
   彼女がそう望むなら

   持っているものは何でもやった 大切な愛を手放したくなくて
   お願いだから 冷たくしないでくれ…

♪ ♪
この曲には、女に惚れてしまった男の弱さと女々しさとともに、恋する男の一途さや純情さが同居している。
レコーディングが、愛する人と別れてからまだそんなに日が経っていない1966年の早い時期だったこともあって、パーシー・スレッジのどちらかといえば無骨な歌い方が、かえって愛する苦悩がじわりとにじみ出す熱い絶唱となっているところが、大きなポイントであろう。
 
また、アメリカで、オリジナルとカヴァー曲が両方とも全米1位となった例は、スティーヴ・ローレンス(63年)とダニー・オズモンド(71年)の“GO AWAY, LITTLE GIRL”、リトル・エヴァ(62年)とグランド・ファンク・レイルロード(74年)の“LOCO-MOTION”があるが、本作もパーシー・スレッジ(66年)だけでなくマイケル・ボルトン(91年)が全米1位を記録して、グラミー賞の最優秀男性ポップ歌手部門を受賞している。

なお、ジャニス・ジョプリンをモデルにしたマーク・ライデル監督の映画『ローズ』(ROSE‐1979)に主演したベット・ミドラーが、劇中でこの曲をサザン・ソウル色の濃いロック・ビートで歌い、私は舌を巻いたものだ。
彼女の「歌なら何でも来い」というような幅の広いヴォーカル・スタイルに感嘆した曲でもあった。

♪ ♪ ♪
本日の一句
男から気骨(きこつ)を奪うペアルック (蚤助)

#505: ゴムまりの唄?

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1963年のこと、音楽好きの若者が進学した大学で知り合って、ロンデルス(THE RHONDELLS)というバンドを結成した。
メンバーは、ドナルド・ダンネマン(vo,g)、トーマス・ドウズ(vo,g,b)、マーティン・フライド(ds,perc)の3人で、アコースティックを主体にしてクラブやライヴ・ハウスを中心に音楽活動をしていたが、64年、イギリスからビートルズがアメリカの音楽界に進出してきて大旋風を巻き起こし、その影響を受けて彼らも次第にビート・グループへと変貌を遂げていく。

年が明けて、65年、ビートルズのマネージャーのブライアン・エプスタインが経営する芸能プロダクションのアメリカ支社のスタッフが、ニューヨークのクラブで演奏するロンデルスのライヴを聴いた。
彼はロンデルスの演奏を気に入ってエプスタインに有力な新人バンドとしてスカウトしたらどうかと進言した。
エプスタインは大いに興味を示し、彼らのマネージメントをすることを承諾した。
こうして、ロンデルスはエプスタインがアメリカで手掛けた最初のグループとなるのである。


彼らのデビューは幸運に恵まれていた。

エプスタインとマネジメント契約を交わすと、サイモン&ガーファンクルのツアー・メンバーとして採用され、彼らと親交を深めることになったのだ。

他のアーティストのために作品を提供したことのないポール・サイモンであったが、ポールがブルース・ウッドリー(シーカーズのメンバー)と初めて共作した曲を、ロンデルスにプレゼントする。
この曲はサイモン&ガーファンクルとしてコンサートで披露することはあったが、スタジオ録音する予定はなかったのだ。
曲のタイトルは“RED RUBBER BALL”と題されていた。

ポール・サイモンから曲を提供された効果か、ロンデルスはサイモン&ガーファンクルの所属する大手レコード会社CBSと契約することができ、バンド名をザ・サークル(THE CYRKLE)と改めるのである。
一風変わったバンド名で、かつてはジョン・レノンの命名という説が流布されていたが、実際にはエプスタインの指示によるものだという。

前稿の『男が女を愛するとき』と同じく1966年にリリースされたザ・サークルの“RED RUBBER BALL”はランキングを急上昇し、夏には全米2位の大ヒットとなる。

参考までに、当時のビルボードのトップテンを見てみよう(1966年7月9日付)。

  1. PAPERBACK WRITER / The Beatles
  2. RED RUBBER BALL / The Cyrkle
  3. STRANGERS IN THE NIGHT / Frank Sinatra
  4. HANKY PANKY / Tommy James & The Shondells
  5. YOU DON'T HAVE TO SAY YOU LOVE ME / Dusty Springfield
  6. WILD THING / The Troggs
  7. COOL JERK / The Captols
  8. LITTLE GIRL / Syndicate Of Sound
  9. PAINT IT BLACK / The Rolling Stones
  10. ALONG COMES MARY / The Association

1位がビートルズの『ペイパーバック・ライター』、3位にシナトラの『夜のストレンジャー』、4位にトミー・ジェームズ&ションデルズ『ハンキー・パンキー』、5位にダスティ・スプリングフィールド『この胸のときめきを』、6位にトロッグス『恋はワイルド・シング』、9位にローリング・ストーンズ『黒くぬれ』、と懐かしいナンバーが並んでいる。

エプスタインのマネージメント、全米2位のヒット曲ということで、このランキングが発表された翌月の8月には、ビートルズ最後の全米ツアーに同行し、前座とはいえ同じステージに立つ経験をするのである。

♪ ♪
私は、長いこと、タイトルにある“RUBBER BALL”を「ゴムまり」だとばかり思っていた。
1961年頃に流行った曲に、ボビー・ヴィーが「ゴムまりが弾むように、ボクの心は君にところに向っていく…」と歌う“RUBBER BALL”というのがあり、それが文字通り「ゴムまり」だったということもある。
だが“RED RUBBER BALL”の歌の内容をよく吟味していくと、どうやら「ゴムまり」というよりも「風船」と理解した方がよりポエティックになるのではなかろうか。

歌はこんな内容である。

  ♪ 僕は思いもしなかった 君にさよならを言われるとは
    君のことは教訓さ その教えは身に沁みたよ
    今なら分かるよ 海を彩る美しいヒトデは 君だけじゃないってことが
    君の名を二度と耳にすることがなくても その思いは変わらない
    僕はもう大丈夫 最悪のときは過ぎたのさ
    夜明けの太陽は 「赤い風船」のように 輝いて見える…

軽快で弾むような明るいリズムとメロディなのだが、それとは裏腹に、振り回された彼女への決別と皮肉が歌詞に込められている。
別れの歌というのは、このようにさらりと軽く流したほうが、かえって未練がましくなくていいのかもしれない…と思うが、これは強がりかも(笑)。
マネジメントがブライアン・エプスタインということもあるかもしれないが、この歌、どこかデビューした頃のビートルズを感じてしまうのは私だけであろうか。

後年、ニール・ダイアモンド、作者の一人であるポール・サイモン自身もカヴァー・レコードを発表している。

♪ ♪ ♪
“RED RUBBER BALL”の冒頭の歌詞は“I Should Have Known You Bid Me Farewell”である。
「Should Have + 過去分詞」は「〜すべきだったのに(実際はしなかった」という意味だと英文法で習ったはずで、直訳の「〜と知っておくべきだった」とすべきだが、これを「思いもしなかった」と訳してみたわけである。

なお、ビートルズの“I SHOULD HAVE KNOWN BETTER”(邦題「恋する二人」)は映画『A HARD DAY'S NIGHT』の挿入歌だが、これも「Should Have + 過去分詞」形なので、「もっとよく知っておくべきだった(実際は知らなかった)」という意味となる。

このビートルズ・ナンバーのタイトルにこじつけるわけではないが、英詞の訳に挑戦していて「もっと英語を勉強しておくべきだった(実際はしなかった)」と思うことが多々あると、ここに告白しておこう(笑)。

奔放にボール弾んで何処へやら(蚤助)
こちらのラバー・ボールは「ゴムまり」…

#506: 2月の川柳(NHK文芸選評)

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いよいよ弥生3月。
今冬は寒くて雪国は積雪も多かったが、少しずつ春の気配を感じられるところまでようやくやってきた。

今回は久しぶりの“川柳”ネタである。


昨日、NHKラジオセンターから、2月23日(土)放送の『文芸選評・川柳』の作品集が届いた。
放送当日は仕事で勤務先にいた私のところへ、“月刊けやぐ”編集長の蝉坊さんから、拙句が佳作となったとのうれしいメールを送ってくれた。
毎回2000句を超えるといわれる多数の応募作品の中から、入選20句、佳作20句が選ばれて電波にのせられるのだ。

2月の選者は大木俊秀さんで、課題は「姫」、おそらく「ひな祭り」を念頭においたものではないかと推測する。

私の場合、課題が出ると、題の意味などを調べてイメージをふくらませるところから始めることにしている。
「姫」を調べてみると、おおむねこう説明されている。

※ ※
「姫」
女性の美称で、彦(ひこ)の対。
上代では単独で用いて女性一般を表したり、「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」のように下につけたりして用いられた。
平安時代以後、貴人の娘をさしていうようになり、江戸時代の上方(かみがた)では遊女をさしたこともある。
また、小さくてかわいらしく優しい感じであることを表す接頭語として、「ひめゆり」「ひめつばき」「ひめかがみ」などと用いられた。
語源は「日女(ひめ)」で、「ひ」は美称とされる。

※ ※
今回は、この作品集に掲載された入選句・佳作句をご紹介してみたい。
はたしてどんな「姫」が登場したのか。

♪ ♪
課題「姫」 (大木俊秀・選)
ノーはノー会津の姫の心意気 (大塚たえ子)
待望の姫に張り込む段飾り (田村也子)
平成の姫振袖にブーツ履く (森田岑代)
村芝居姫にあらわな喉ぼとけ (堀田 毅)
鼻唄で姫が動かすダンプカー (高橋恵子)
ヘルメット革ジャン脱いで姫になる (大木雅彦)
切札の姫が選挙に打って出る (野口 忠)
整形の前を知ってる姫鏡 (沢田正司)
深窓の佳人演歌は歌わない (平井義雄)
深窓の育ちにしてはよく値切る (田中和正)
我が家には子連れで仕切るもどり姫 (中井耕一)
姫様のつもりか家事も手伝わず (住野尚敏)
新郎がお姫さまだっこによろけ (大嶋千寿子)
プロポーズ躱して月へかぐや姫 (加藤富清)
一姫が清く正しく育ち過ぎ (多田幹江)
坪庭に姫ばかり居る山野草 (山本満喜代)
牛飼いに惚れて都会の姫が来る (山口由利子)
姫会と称して妻はきょうも留守 (指方宏子)
神代から日本を開く姫力 (箕原ひろし)
本物の姫を玉三郎に見る (竹中正幸)

いつまでも姫でありたい化粧ビン (中村充一)
同僚に姫と呼ばれてまだ一人 (中川 光)
小児科の椅子満員のやんちゃ姫 (宍戸智子)
あんみつが好きで漫画にされた姫 (若山 巌)
姫などと私を取りに来た夫 (妹尾安子)
居心地が良くて婚活しない姫 (越澤 孝)
姫だった祖母の箪笥に見た刀 (小長井邦次)
姫だってあくびをするし酒も飲む (増田信一)
機織った姫は年取り杖をつく (原 阿佐太)
独り居の母を見守る姫だるま (堀 敏雄)
家来ども従え姫のランドセル (舟田安良)
おママゴト姫に敷かれるお殿様 (高橋寿久)
終電に乗ってるかしらシンデレラ (石橋直子)
跡継ぎの欲しい老舗に三姉妹 (魚住幸子)
姫育ちだけど気の利くうちの嫁 (山内俊恵)
お見合いをして火がついたお姫様 (田中良之助)
姫鏡台わたしの顔が入るかな (西 幸子)
三十を過ぎても姫は慌てない (池田永紀)
親よりも大事な人が姫に出来 (愛甲敬子)
(敬称略)
さまざまな「姫」が示されているが、いかがであろうか。
今後の句作の参考になれば幸いである。

最後に佳作に抜いていただいた拙句を…

姫君がくわえ煙草をする楽屋


#507: 売り物は恋?

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万国共通の女性の“職業”などと書くと、女性から猛烈に反発を食らいそうだが、歴史上の話として平にご容赦願いたい。
“春をひさぐ商売”というのは、事実として存在したわけで、ものの本にも「人類の歴史において最も古い“職業”のひとつ」などと書いてあったりする。

日本でも戦後間もなく菊池章子の歌で流行った<星の流れに>(清水みのる作詞、利根一郎作曲)という曲が、そういう“職業”の女性の哀しさ、怨みを歌ったものだった。


題名に<LOVE>とあるからといって、必ずしも甘いラヴソングばかりとは限らない。
コール・ポーター(1891-1964、画像)の書いたスタンダード曲<LOVE FOR SALE>のLOVEは、文字通り、売る恋であって、街の女の歌である。
<恋の売り物>という邦題もあるが、特売、バーゲンセールのような印象もあってあまり上等な訳ではない。

<星の流れに>が「こんな女に誰がした」という日本的な怨み節だったのに対し、<LOVE FOR SALE>の方はカラッと明るく洒落っ気さえ感じられる歌である。
それは作詞作曲をしたポーターの持ち味であろうが、語呂合わせのような口調の歌詞とメロディがうまく合っている。

『ザ・ニューヨーカーズ』(1930)というミュージカルの挿入歌としてポーターが書いたものだが、このミュージカルはジミー・デュランテ、ホープ・ウィリアムズなどが出演、168回の公演を記録したという。
タイトルからおよそ想像できるように、夜の街頭に立って男を誘い、ひとときのLOVEを売る女の話だったようだ。

♪ ♪
この名曲について語るについては、R-18といった年齢制限をかける必要があるかもしれない(笑)。
アメリカでは長いこと放送禁止ソングとなっていた曲なのだ。
もちろん歌詞が問題だったからで、特に、めったに歌われることはないが、ヴァースの部分がアブナイ。

 ♪ 人通りの絶えた街に 孤独なお巡りの重々しい足音が響くとき
   私は店を開ける
   月がこの気まぐれな街を見下ろして ニヤリと笑う頃
   私は仕事に出る…

これで街娼の歌だということが暗示されるのである。
日本の<星の流れに>は、歌詞の一節からとった元々の曲名<こんな女に誰がした>というのを、GHQが許可しなかったため、タイトルを変えて発売にこぎつけたということがあったそうだが、日本で<LOVE FOR SALE>が放送禁止になったという話は聞いたことがない。
もっとも、原語の歌を耳にして劣情を刺激される(!)人なんてまずいないであろうし、むしろハッピーなラヴ・ソングと感じる人が多いかもしれないのである。

コーラスはこう歌う。

 ♪ 恋を売ります 若い恋
   新鮮な恋 あまり傷のついてない恋
   恋を売ります 買うのは誰?
   試すのは誰? 天国へ行く気があるのは誰?

   詩人たちは 子供っぽい恋の歌でも謳っていればいい
   私はあらゆるLOVEを知っている
   愛のスリルを感じたいなら 私について来ればいい
   恋を売ります…

“売春”という言葉は陰々鬱々とした不潔な感じがするからだろうか、最近では“自由恋愛”とか“援助交際”とか言葉の言い換えをしたりするようだが、どちらにしたって、ポーターの書いたこの曲のように、挑発的だけれど風刺がきいた洒落た雰囲気はまるでしない。

なお蛇足になるが、<LOVE FOR SALE>が世に出た1930年には、アルゼンチンで<YIRA, YIRA>(ジーラ!ジーラ!)という曲も誕生している。
エンリケ・ディセポロが作ったタンゴの名曲で、偶然ではあるが、こちらの方も街娼の歌なのだ。
タイトルは“彷徨う”というニュアンスの言葉で、ズバリ「夜、街頭に立って男の袖を引く女」、すなわち“街娼”という意味である。
厭世的な人生観に立って人生を落ちていく女を哲学的に描写した曲であり、その点では<LOVE FOR SALE>の歌詞の方がより生々しくストレートだとはいえよう。

♪ ♪ ♪
ポーターの作品にはコード進行が面白いものが多く、この曲もしばしばジャズで演奏されたり、歌われたりしている。

演奏ものでは、やはりキャノンボール・アダレイとマイルス・デイヴィスの共演<SOMETHIN' ELSE>が筆頭だろう。
明るいラテン・リズムに乗って、ミュートで軽やかに奏でるマイルスと、それを受けて情熱的なアルトで迫るキャノンボール、不朽の名演である。
   
ヴォーカルになると、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、アニタ・オデイなど大御所が皆そろって歌っている。
特にアニタ・オデイの得意曲であった。
特殊な内容の歌なので、虚構の世界だとはいえ、ちょっと街娼の気分でどれだけリスナーの紳士諸君をその気にさせられるか、そのあたりが腕の見せどころというか、意欲を掻き立てられるところなのだろう。

しかもこの歌はほとんどミディアム以上のアップ・テンポでスウィンギーに歌われるケースが多いし、ラテン・リズムのアレンジで歌う歌手が多い。
歌の内容が甘美なメロディとは関係なく、どちらかと言えば暗いものだけに、逆に明るく歌おうとするのではなかろうか。

本来、女の歌なので、ほとんど女性シンガーが歌うのだが、メル・トーメや最近ではハリー・コニック・Jr.など男性シンガーも歌っている。
その場合は、<私>を<彼女>と歌う。

<I>を<YOU>に、あるいは<HE>を<SHE>にすることで、男の歌が女の歌になり、女の歌が男の歌になってしまうのが、外国の歌の便利なところである。
日本と違って、女の歌をそのまま男が歌う、男の歌を女がそのまま歌うのは、めったにないと言っていいであろう。
それに、もともと<I>も<YOU>も男女共通の人称なので、男女の区別なんてあまり意味はないのかもしれない。
その上、一音節の中に、<ぼく>も<私>も、<君>も<あなた>も、<あの人>も入ってしまうのも便利といえば便利である。

英語に限らず、西洋の言語と音楽の関係をみると、一つの音節がおおむね一つの音符にはまり、加えて、一音節からなる単語が多いので、それは曲の作り方と歌詞に深く関わってくる。
<あ・な・た>と三つの音符を要する日本語と、<YOU>と一つの音符ですむ英語の歌とでは、歌に込める情報量が違ってくるのは当然である。
どちらが良い、悪いというつもりは全くないが、日頃「日本の歌にはとかく主語があいまいな歌が多い」と感じている私としては、そういうところに一因があるかもしれないと思ったりする。

チーママは胸から名刺出してくる (蚤助)

#508: 三人のマーロウ…

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フィリップ・マーロウといえば、ハードボイルドの代表的作家レイモンド・チャンドラーの手によって生み出されたロサンゼルスの私立探偵である。
ハードボイルドな探偵の中では、最も世界的に有名な一人であろう。
チャンドラーの長編7作といくつかの中編小説に登場する人物だが、そのほとんどは映画化されている。

小説の中で姓には“E”の文字がつくのか問いかけられる場面が何度か出てくるが、彼の名前は“PHILIP MARLOWE”と綴るのだ。
年齢の方は、第6作目にあたる<長いお別れ>(THE LONG GOODBYE)では42歳と自称している。
風貌は、身長183センチ、体重86キロ、濃い褐色の髪に茶色の瞳で、作者チャンドラーによれば、最もイメージに近いのはハリウッドの二枚目俳優ケーリー・グラントだという。

映画でのマーロウはアメリカを代表する多くの俳優によって演じられたが、トレンチコートを着て帽子をかぶり、キャメルのシガレットをふかしている姿は、ハードボイルドな探偵のイメージとしてすっかり定着している。


マーロウが登場する最初の作品は<大いなる眠り>(THE BIG SLEEP)だったが、これをハワード・ホークスが1946年に映画化した。
邦題は<三つ数えろ>(原題は“THE BIG SLEEP”)、マーロウを演じたのがハンフリー・ボガート(画像)。

大富豪の娘がマーロウに言う、「あなたって背が高いのね」。
マーロウが答える、「それがどうした」。
こういうやりとりが原作にあるのだが、映画版では、後にボギー夫人となるローレン・バコールがこう言う、「あなたって背が低いのね」。
もちろん、ボギーの答えは「それがどうした」。

チャンドラーはイメージに合わないとしてボギーのキャスティングに反対したというが、身長も含めて、確かにボギーは原作のイメージとだいぶかけ離れている。
だが、機関銃のような早口で相手を追い込んでいくスタイルで、基本的なマーロウ像を作ってしまったのはやはり大したものである。
現在では、マーロウは、ハンフリー・ボガートのイメージとして多くの映画ファンに支持されている。

この作品、非常に複雑なプロットであることも有名で、脚本化に苦労していたノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーの助っ人として、女性SF作家リー・ブラケットとジュールス・ファースマンの二人が加わって脚本を担当している。
ホークスは、ブラケットの実力を認め、彼女を多くの作品で起用することになる。

おそらく、チャンドラー原作の映画化では最も出来のいい作品だと思われる。

♪ ♪
チャンドラーは、ハードボイルドとはいいながら、リリシズム漂う“香気”あふれる文体を持った作家である。
マーロウ第6作目にあたる<長いお別れ>は、どちらかといえばニヒリスト“虚無派”のロバート・アルトマンによって、1973年に映画化された。
<ロング・グッドバイ>(原題“THE LONG GOODBYE”)である。
抒情派チャンドラーと虚無派アルトマンは肌合いが異なり、出来栄えが心配になるのだが、意外や意外、それなりに現代的なハードボイルドに仕上がっていた。


(エリオット・グールド)
マーロウを演じたのはエリオット・グールドで、ダサいキャラクターと面長の顔、それに“貧乏くさい”雰囲気がなかなか良い味である(笑)。
原作から最も離れている映画のようで、ひょっとしたら一番原作の雰囲気を伝えているかもしれないのだ。

脚本はこれもリー・ブラケットが担当している。
さすがはブラケット、舞台を無理に1950年代に設定せず、マーロウと友人テリー・レノックス(ジム・バウトン)との奇妙な友情にストーリーの軸を絞り込んだのが功を奏している。
また、アルコール中毒の作家のスターリング・ヘイドン、嫌味なギャングのマーク・ライデル(映画監督としても有名)、小柄で怪しい精神科医のヘンリー・ギブソンなどを次々と登場させるとともに、結末を原作とは反対にしてあり、立派に70年代のミステリーに仕立て上げている。

原作はマーロウもの、いやチャンドラーの最高傑作と言われていて、私も異存はない。

マーロウものの<プレイバック>には、“If I Wasn't Hard, I Wouldn't Be Alive. If I Couldn't Ever Be Gentle, I Wouldn't Deserve To Be Alive.”という有名な一節がでてくる。
参考までにこの部分、早川書房の清水俊二訳では、「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなければ、生きている資格はない」(59年)。
講談社の生島治郎訳では、「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなければ生きている資格はない」(64年)。
新潮文庫の矢作俊彦訳では、「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きていく気にもなれない」(90年)。

カッコいいセリフが出てくるのは、本作でも同様で、たとえば、居丈高な態度でマーロウに質問してくる警官に対して、法律書を指さしながら「俺が質問に答えなければならないと書いてあるところを教えてくれないか」。

「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」。

「金があるんだ。誰が幸福になりたいなんて思うもんか」。

「警官が嫌われていない場所もあるんだが、そういうところでは、君は警官になれない」。

グールド扮するマーロウが、深夜、愛猫のキャットフードを買いに、ぶつぶつ独り言をいいながら車を走らせる場面が可笑しい。
生意気にもこの猫君がキャットフードのブランドにこだわるのが笑わせる。
猫の名演技である。
また、ヴィルモス・ジグモントのキャメラがすばらしく、夜の描写が上手い。

♪ ♪ ♪
<大いなる眠り>は1978年に、イギリスでもマイケル・ウィナーによって再映画化されたが、そこでマーロウを演じたのはロバート・ミッチャムで、舞台はロンドンに設定されていたこともあって、残念ながらあまりハードボイルドのムードは感じられなかった。


(ロバート・ミッチャム)
ミッチャムが英国に招かれてマーロウを演じることになったのは、75年にディック・リチャーズによって映画化された<さらば愛しき女(ひと)よ>(FAREWELL MY LADY)で、マーロウを好演していたからであった。

チャンドラーの原作の忠実な映画化で、時代設定も1941年となっている。
ミッチャムのマーロウは、やや太め、身体も重そうで、生活に疲れ果てた物憂げな男として描かれており、ミッチャムのいつも眠そうな表情もあってなかなかの説得力である。
グールドともボギーとも違う味わいを出すことに成功している。

脚本はデヴィッド・グッドマンが担当し、イチローも挑戦して届かなかった、ニューヨーク・ヤンキースの強打者ジョー・ディマジオの連続試合安打の記録を点景として巧みに使い、原作の時代色を再現している。
ジャック・オハロランの演じる“大鹿マロイ”も原作のイメージにぴったりで、マーロウが見捨てることができない男の純情さを表現している。

特筆すべきは、シャーロット・ランプリングで、男を利用しつくして殺してしまう悪女を魅力的に演じている。
チャンドラーの原作からそのまま抜け出してきたかのような錯覚に陥るほど、見事にはまっていて、私がイメージする最高の悪女ジャンヌ・モローをしのぐのではないかと思えるほどである。

♪ ♪ ♪ ♪
フィリップ・マーロウは、保険会社の調査員を経て、ロサンゼルス検察の調査員となったが、「口答えが多い」という理由で一方的に解雇され、私立探偵として独立したことになっている。
机の引き出しには、拳銃とスコッチウィススキーのボトルが置いてあり、ヒマな時はグラスを片手にチェスの定石を並べたり、本を読んだりしている。
金や女性などの誘惑には屈しない誇り高き男として描かれていて、依頼人とは必要以上に親しくならない、というのが彼の流儀である。

“To Say Goodbye Is To Die A Little.”
「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(村上春樹訳)
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
キープしたボトル店ごと消えていた (蚤助)

#509: ポップスの王道

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エルヴィス・プレスリーの登場以来、ロックは次第に若者の支持を得ていき、やがてロック歌手、ロック・ミュージシャンがポピュラー音楽界の中心を占め、名実ともに“ロックの時代”となった。

ロックが世界を席巻した1966年のこと、アメリカのヒット・チャートのTOP100に、突然、ゴージャスなフル・オーケストラを伴ったアダルトな雰囲気の男性ヴォーカル・ナンバーが顔を出した。
そして、6月に入ると全米ナンバーワンとなったのである。


歌ったのは、アメリカのポピュラー音楽界の顔、国民的歌手のフランク・シナトラ、歌のタイトルは“STRANGERS IN THE NIGHT”(夜のストレンジャー)で、シナトラの歌が全米ナンバーワンとなったのは、“LEARNIN' THE BLUES”以来11年ぶり、さらにその前は“ALL THE WAY”の16年前に遡るのだった。

<夜のストレンジャー>は、ドイツ音楽界の大御所であったベルト・ケンプフェルト(1923‐1980、画像)が、同年のイギリス映画<ダイヤモンド作戦>(A MAN COULD GET KILLED)のために書いたものであった。

主題曲の方は有名で映画の方はまるで無名で記憶に残らないというケースはいくつもあるが、これもそういう一本で、ロナルド・ニームとクリス・オーウェンが共同監督した巨額のダイヤの争奪戦を描いたB級アクション・コメディであった。
出演者がジェームズ・ガーナー、メリナ・メルクーリ、トニー・フランシオーサ、サンドラ・ディーというのだが、私は未見である。
顔ぶれだけみるとなかなか興味深い作品なのだが、どうやらこれまでテレビ放映されたことはなく、国内外ともにビデオやDVD化されたこともないようなので、所詮その程度の出来栄えだったのだろうと推測される(笑)。

♪ ♪
ケンプフェルトは、1950年代から西独のポリグラム・レコードのプロデューサーをする傍ら、自身がバンドリーダーとなってオーケストラの活動も行っていた。
いわゆるイージー・リスニングだが、トランペット・ソロを生かした編曲に特徴があり、58年にリリースされた“MIDNIGHT BLUES”(真夜中のブルース)が日本でも大ヒット、続いて“TILL”(愛の誓い)、“WONDERLAND BY NIGHT”(星空のブルース)、“JINGO JANGO”(ジンゴ・ジャンゴ)などをヒット・チャートに送り込んでいる。
特に、“WONDERLAND BY NIGHT”は61年に全米1位、日本ではニッポン放送の<P盤アワー>のテーマ曲として知られているし、“JINGO JANGO”も全米8位を記録している。

また、日本では、ケンプフェルトの最初のヒット曲にあやかって、彼の楽曲の邦題に<ブルース>とつけられることが多かった。
さらに、アッカー・ビルクの“STRANGER ON THE SHORE”が<白い渚のブルース>、ナット・キング・コールのヒット曲“IT'S A LONESOME OLD TOWN”が<白い夜霧のブルース>という邦題になったり、後の日本のポピュラー音楽の邦題のネーミングに少なからぬ影響を与えている。

プロデューサーとしては、イギリスのリヴァプール出身の4人組のバンドの才能を早くから見抜き、1961年にハンブルグでレコーディングを行っている。
バンドの名前は“THE BEATLES”といった。

ちなみに、作曲者としては、自らのオーケストラでヒットした上記の作品のほか、ラジオ深夜放送でもおなじみだったハーブ・アルパート&ティファナ・ブラスの<マルタ島の砂>(THE MALTESE MELODY)、ナット・キング・コールの遺作ともいうべき最後のヒット曲<L-O-V-E>、コニー・フランシスの<ダンケ・シェーン>(DANKE SCHOEN)などの名曲を残している。

♪ ♪ ♪
さて、<夜のストレンジャー>だが、映画の方にはテーマ・メロディーが繰り返し流れるもののシナトラの歌は最後まで出てこない。
シナトラの歌はサウンドトラックに入っていないのである。

ある音楽出版社が、シナトラが設立に関与したレコード会社リプリーズに売り込みを図ったのだ。
同社の担当プロデューサーが、適当な歌詞がつけられたならばオーケイという条件付きで契約し、すぐに作詞家のチャールズ・シングルトンとエディ・スナイダーに作詞を依頼した。
だが、この作品に目をつけたシンガーが二人いたのだ。
人気歌手のフランキー・レインとジャック・ジョーンズである。
この時点で、レコード制作の準備はジャック・ジョーンズが先行していたというが、その情報をキャッチしたリプリーズは、フランク・シナトラの新曲としてリリースを急ぎ、3日間でアーニー・フリーマンにアレンジを依頼、オーケストラの音合わせを3時間、シナトラの歌唱の録音も1時間で済ませたという。


  ♪ 知らぬ同士が 夜に視線を交わす
    夜が終わるまでに 愛を交わす機会はないかと
    あなたの瞳は 私を誘い
    あなたの笑顔は 私を喜ばせ
    あなたを 私のものにしたいと語りかける

    夜 見知らぬ同士 寂しい二人
    私たちは 夜の見知らぬ同士
    初めてハローと声をかけるまで 互いのことは知らなかった
    愛は過ぎ去っていくきらめき 過ぎ去っていく抱擁のダンス
    そして…

    あの夜から 私たちは一緒
    一目ぼれした恋人たちは 永遠の恋に落ちて
    夜 為るべくして為っていく 見知らぬ同士
    Do Dody Dody Do Do Doo De La Da Da Da Da Ya…

夜の街でふと知り合った男女の不思議なロマンスを、フル・オーケストラが奏でるスロー・タンゴ調のリズムに乗せて、当時51歳だったシナトラが堂々たる歌唱を聴かせる。
ロック全盛の時代に登場したこの作品は、ケンプフェルトのメロディの素晴らしさとともに、フリーマンのアレンジの勝利ともいえるが、ポピュラー音楽の大国アメリカの伝統と懐の深さを改めて感じさせる。
これぞ、ポピュラー音楽の王道といってもよい仕上がりになっている。

なお、この決定版シナトラ以外のヴァージョンでは、私の贔屓歌手、ペギー・リーのものが忘れ難い。
彼女の少しハスキーなアルト・ヴォイスはとても魅力的で、この曲を女性が歌っても全く違和感のないことを見事に証明している。
また、珍しいところでは、“ファンクの帝王”“ナンバーワン・ソウルブラザー”“ミスター・ダイナマイト”こと、ジェームズ・ブラウンがシナトラ・ナンバーをピアノ・トリオの伴奏で歌うという超レア・アルバム(GETTIN' DOWN TO IT)での歌唱が凄い。
ファンク過剰な傾向のあるJBのヴォーカルの背景に、不思議な哀愁が微妙に見え隠れする。
そしてもちろん、作者ケンプフェルト自身のオーケストラによるものもいい。

♪ ♪ ♪ ♪
“STRANGER”というのは、“見知らぬ人”でもあるし“不慣れな人”のことでもある。

ニューヨークは、ほぼ東西南北まっすぐ街路が通っているので、基本的には歩きやすい街だが、どういうわけかいかにも“お上りさん然”とした私に道を訊いてくる“お上りさん”のアメリカ人がいるのだ(笑)。
私は何度かこう繰り返すはめになる、“SORRY. I'M A STRANGER HERE.”と…

悔しいな見知らぬ人とペアルック (蚤助)

#510: お変わりない?

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別れたカップル、夫または妻(今風にいえば“元カレ”“元カノ”)との再会はホロ苦いものに違いないが、ましてや、相手のことをまだ忘れられなかったりすると、何かと気になってしまうだろう。
その再会が偶然かつ突然だったりすると、話のきっかけすらつかめないことになってしまう。
だからといって、カレまたはカノジョを無視したり、見て見ぬふりもできない。


そうした状況を巧みに歌にしたのが“WHAT'S NEW”という曲である。

作曲したボブ・ハガートは、べース奏者で作編曲の才能もあり、ディキシーでよく演奏される“SOUTH RAMPART STREET PARADE”などという作品があるが、最も広く親しまれているのが“WHAT'S NEW”であろう。
ハガードは、ディキシーランド・ジャズをビッグ・バンドで演奏することで人気を博したボブ・クロスビー(大歌手ビング・クロスビーの実弟)のバンド<BOB CATS>で活躍した人である。

この曲は、1938年に同僚のトランペット奏者ビリー・バタフィールドのために書いた“I'M FREE”というタイトルの器楽曲であった。
その翌年、おそらくビング・クロスビーのためであろう、ジョニー・バークが歌詞をつけ“WHAT'S NEW”と改題した。
以後、多くの歌手、音楽家のフェイヴァリット・ソングとして愛されているスタンダード曲である。

“WHAT'S NEW”は、「どうしてる?」とか「お変わりない?」というニュアンスの日常の呼びかけ、挨拶である。

話が横道にそれるが、その昔、才人ウディ・アレンが脚本を書いて出演もした映画に<何かいいことないか子猫チャン>(1965)というのがあった。
クライヴ・ドナー監督の艶笑コメディで、ウディ・アレンのほか、ピーター・オトゥール、ピーター・セラーズ、ロミー・シュナイダー、キャプシーヌ、ウルスラ・アンドレス、フランソワーズ・アルディ、リチャード・バートンなど多彩な人が顔を出すなかなか賑やかな作品だったが、この映画の原題が“WHAT'S NEW, PUSSYCAT?”というものだった。
バート・バカラック&ハル・デヴィッドによる主題歌をトム・ジョーンズが歌ってヒットしたが、邦題はあまりに直訳に過ぎたように思う。
実際のところ、「どうしてる、カワイ子ちゃん」くらいのニュアンスであろう。

♪ ♪
ジョニー・バークの歌詞は、この曲が本来器楽曲として書かれたものとは思えないほどよくできている。
女(あるいは男)が男(あるいは女)と偶然出会った状況を想像してみてほしい。

 ♪ お変わりない? どうしているの?
   ちっとも変わらないのね
   今も素敵よ
   
   お変わりない? あのロマンスはどうしたの?
   あれからお会いしてないわね
   でも会えてよかった

   お変わりない?
   迷惑かもしれないけど 会えたのはうれしい

   やさしく手を取ってくれたけど
   わかってるの さようなら
   声をかけたりして ごめんなさい
   もちろん 知らないと思うけど
   わたしも 相変わらずよ
  (まだあなたを愛してるの)じゃあね…

女言葉で書いたのは女性歌手が歌うことが多いからだが、シナトラやサッチモも歌っているので、女の歌というわけではない。

元カレ、元カノに偶然出会ってしまったのである。
歳月が経っても、やはりどこか相手に「昔」を探してしまう。
時間は「あの頃」で止まっていて「過去」を生きているのだ。
別れ際にさりげなく「相変わらず」というのだが、最後の「今も愛している」という未練は心の中のつぶやきである。
「哀切」の語がふさわしい歌だ。

投げかける言葉がそのまま歌詞になっていて、いわば話し言葉の歌なのだ。
日常会話をそのまま歌詞にした歌は、最近の日本の歌にも見られるが、かつては日本の歌の常識にはなかったものだろう。
加えてこの歌は、韻も踏んでいて、詩の様式をも備えている。
歌詞の中に出てくる「さようなら」は“ADIEU”とフランス語で、“WHAT'S NEW”の“NEW”とかけているのだ。

♪ ♪ ♪
ヴォーカル、インストともに多彩なヴァージョンがあって、数も非常に多い。

70年代は、MLBのLAドジャースのスタジアム・ジャンパーにローラースケートを履いてロックしていたリンダ・ロンシュタットは、80年代に入ると突然スタンダード曲集を発表する(画像)。
それまでの彼女のイメージとはうって変って、ヴェルベットのような布地の上に、ピンクのパーティ・ドレスに身を包んだリンダお姉さんが横たわる。
<WHAT'S NEW?>というアルバム・タイトルに、やや見にくいが、彼女の手元には今ではレトロっぽさを感じさせるSONYのウォークマンが写っているし、名アレンジャー、ネルソン・リドルという文字が見える。
彼女は83年にこの歌をリバイバルヒットさせたが、この歌を含むスタンダード・アルバム三部作は、今日も続くポップス&ロック歌手のスタンダード・ナンバーの録音ブームの号砲となったのである。

  
名作二枚。
左は、言わずと知れたヘレン・メリルの名盤<HELEN MERRILL WITH CLIFFORD BROWN>で、日本で一番愛されている“WHAT'S NEW”である。
情感あふれる名唱だが、やや過剰な感情表現がちょっと気になる。
右は、ペギー・リーの<DREAM STREET>、この人何を歌ってもホント上手い。
ヘレンよりコントロールされた情感が沁みる。


男性歌手を一枚。
やはりフランク・シナトラの<FOR ONLY THE LONELY>におけるブルージーな演唱が心に残る。

  
インストだと、アート・ペッパー、ビル・エヴァンス、MJQな、J.J.ジョンソン、ベン・ウェブスター、デクスター・ゴードンらが素晴らしい録音を残していて、選択に迷うが二枚だけ挙げる。
左は、スタン・ゲッツの初期の作品<QUARTETS>。
彼はこの録音のあと麻薬事件を起こし服役、出所後スウェーデンに居を移し、北欧で活動、61年に帰国してからボサノヴァと出会い、ボサノヴァを世界中に広める役割を果たすことになる。
“WHAT'S NEW”(お変わりない?)といいながら、いろいろ「お変わり」があったテナー奏者である(笑)。
右は、絶対はずせないジョン・コルトレーンの<BALLADS>、バリバリブリブリ…とリスナーに忍耐と陶酔を与えるごちゃごちゃした演奏よりも、こうしたしみじみ語りかけるトレーンの方がいいね、やはり。

♪ ♪ ♪ ♪
この曲のように、「お変わりない?」と挨拶を交わす大人の元カップルもいる一方で、世の中にはこんなカップルもいそうである。

お互いに連れの値踏みですれ違う (蚤助)
お若いですな〜(笑)。

#511: 字結び

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このところ、日替わりのように気温の上下が大きく、一日の中でも朝と昼の寒暖の差が激しいので、服装の調節、体調の管理がなかなか難しい。
だが、関東地方にも春の足音は確実に近づいているようで、我が家の沈丁花はほぼ満開になっていて、辺りに芳香を漂わせている。
とはいえ、今年は特にスギ花粉の飛散量が格別に多いということで、花粉にとてもナイーヴな私はその芳香を十分に味わうことができないでいるのが残念である。


さて、川柳の作り方には、作者自身がテーマや句の材料を選んで何ものにもとらわれることなく作る「雑詠」(自由吟)と、我が「けやぐ柳会」のように句のテーマや材料があらかじめ与えられ、それによって句を作る「題詠」(課題吟)がある。

題詠(課題吟)では、課題と句が呼応して生み出す世界や風景が作品を膨らませるのだが、課題の言葉を作品に取り込んで作る「読み込み」の場合と、課題の言葉を作品に直接取り込まずに暗示やシンボルを提示しながらイメージとして作る場合がある。
もちろん、どちらが良いとか悪いとかいうハナシではなく、課題の内容や性格によっておのずと使い分けられることになる。

題詠(課題吟)の中でも、特殊な出題方式として「字結び」というのがある。
通常は漢字一字だけ出題されることが多いが、一句の中に、課題の漢字一字を必ず読み込まなければならないというのがルールである。
字結びの場合、課題の漢字は、音読みであれ訓読みであれ、どんな形で用いてもよいこととされている。

たとえば、「空」という課題の場合には、「青空」、「空財布」、「空気枕」、「空振り」、「空しい」、「空々しい」でもいいし、「円空仏」や「孫悟空」であっても構わない。
むしろ意表を突いた「空」の着想が珍重されるのである。
このあたりが一般の題詠とは違うところで、多分に「お遊び」の要素が強いものとなる。

♪ ♪
NHK文芸選評・川柳は、題詠(課題吟)が原則だが、時々「字結び」とされることがあって、これが面白い。
満開の我が家の沈丁花ではないが、一昨年(平成23年)4月の課題は「満」の字結びであった。

辞書ではだいたい以下のように記載されてある。

「満」
「みちる」、「みたす」の意。
呉音で「マン」、漢音で「バン」、訓読みで「み‐ちる、み‐たす、み‐つ、みち、みつ、みつる、ま」。
熟語として「満悦、満額、満月、満身、満足、満タン、満面、充満…」

平成23年4月といえば、東日本大震災の翌月のことで、ちょうど昨日まる2年の追悼式が各地で行われたばかりであった。
そういう状況下にあったことを念頭に置いた上で、「NHK文芸選評・川柳作品集」(平成23年4月放送分)を見てみよう。
なお、この月は選者の大木俊秀さんから拙句を佳作として抜いていただいている。

♪ ♪ ♪
課題「満(字結び)」 (大木俊秀・選)
満身で呼べど捜せどがれき山 (葛西行雄)
満身創痍光るしかない蛍です (佐藤セツ子)
集落に喜び満ちる鯉のぼり (大窪りんず)
満開の花に肝臓会いたがる (吉川 勇)
満面の笑みも疲れる選挙カー (松岡七郎)
満期利子夫婦のランチにも足らず (松岡 篤)
解約の元気なく満期のふたり (伊藤石英)
満腹と言っていたのにもうケーキ (村松英明)
満腹へすぐ牛になる癖がある (正信寺尚邦)
硝子戸にまだ満更でない私 (富岡桂子)
若すぎる齢に見られるのも不満 (澤 磨育)
参観日満艦飾でこないでね (石田かね子)
判定に不満な方が負けている (丸山芳夫)
図書館で頭の空腹を満たす (松田順次)
当然と見えた満塁策裏目 (藤井道夫)
満点の妻に先立たれた誤算 (島 友造)
満たされて歌を忘れたカナリアに (岡本 恵)
仮設でも力の満ちる槌の音 (坂牧のぶ美)
東には済まぬが水は田を満たす (平松由美江)
列島は助け合う気で満ちている (平井義雄)

満塁に代打のいない草野球 (薄木博夫)
満員御礼の垂幕がみたい (桐生静子)
衣食住足りる私にある不満 (菅井京子)
満面で笑うとみんな油断する (伊藤三十六)
ご不満でしょうかわたしのお酌では (椎野 茂)
満載の支援が走る奥州路 (加藤敏子)
満腹の知恵に鋭い冴えがない (馬場美昭)
不満など無いはずがない妻の顔 (森 錠次)
満腹になると人間らしくなる (嶋田富士雄)
満点は互いに付けぬ嫁姑 (阪口洋之助)
満場一致に吹くうそ寒い風 (三村一子)
アンケートやや満足にまるをつけ (漆原千恵子)
ひとり部屋覗く満月なら許す (小倉慶四郎)
叱れない満点ママでないわたし (問可圧子)
夫婦円満へまた夫が折れる (天野弘士)
夫婦円満の妙薬は教えない (三吉伸子)
大丈夫かな満員のロープウェイ (江川寿美枝)
豊満な妻はんなりと帯を締め (平井翔子)
満開の桜浄土を見るごとし (多良間典男)
この月、拙句は佳作だったが、振り返ると社会的な視点が希薄だったと自省する私の「満」の句はこれだった。

満ち足りた一日メガネ拭いて締め

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