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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#512: 恋をしましょう

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世の中、ふつう「落ちる」のは、人、物体、飛行機、人気、評価、売上、生産、品質、腕前、重要なポイント、試験、結果、オーディションなどである。
この他、「正道」が落ちたり、「市民的幸福」(?)が落ちたりする場合があるだろう。
いずれにしても「落ちる」のにあまり良いことはなさそうである。

だが、例外的ではあるが、「落ちる」のが良い場合だってある。
「汚れ」や「つきもの」が落ちるのはもちろん良いことだし、「恋」に落ちる(FALL IN LOVE)ことも悪いはずがない(笑)。


“LET'S FALL IN LOVE”というスタンダード・ナンバーは<恋をしましょう>という邦題がついている。

マリリン・モンローとイヴ・モンタンが共演した映画にも同名の『恋をしましょう』(1960)というのがあった。
ジョージ・キューカーが監督したロマンティック・コメディだが、こちらの方の原題は“LET'S MAKE LOVE”で、この曲とは全く無関係である。
“FALL IN LOVE”が「惚れる」というどちらかといえばプラトニックな語感なのに対して、“MAKE LOVE”の方は「愛を交わす」というニュアンスで、恋の行方がだいぶ進展した状態というところだろうか。

<恋をしましょう>と言えば、昭和37年(1962)、大きな扇子を手にした袴姿の畠山みどりが声を張り上げて「♪恋をしましょう、恋をして、浮いた、浮いたで、暮しましょう〜」(“恋は神代の昔から”星野哲郎作詞、市川昭介作曲)と歌っていたのをつい連想してしまうのが、我ながら滑稽で何だか情けない。

“LET'S FALL IN LOVE”という曲は、“OVER THE RAINBOW”(虹の彼方に)や“IT'S ONLY A PAPER MOON”(ペイパー・ムーン)と同じくハロルド・アーレンの手になるものだ。

この曲は、1934年同名の映画の主題曲として書き下ろしたもので、映画音楽としては彼の初仕事であった。
ものの本によれば、この映画のためにアーレンは4曲書いたそうだが、そのうち2曲は没にされたという。

ブロードウェイで上演される新作ミュージカルの場合でも、リハーサルをしながら脚本や演出、振付などの変更が行われるのがふつうで、それに伴って、曲が追加されたり削除されたりする。
だが、その場合には作詞者と作曲者は現場に立ち会って、自らの意見を述べたり、相談したりしながら、最終版を作っていくものである。
ところが、ハリウッドでは、作詞・作曲家は曲を提供したら仕事はそれでお終いなのである。
したがって、映画が完成してみたら、自分の曲が知らぬうちに削られていたということがしばしばあった。

ジョージ・ガーシュウィンが「ハリウッドの仕事は曲を作って渡すだけなので、ブロードウェイと違って面白くない」と語ったそうだが、アーレンもこれを「カリフォルニア・メソッド」と命名し、「まったく理解できない」と不満を述べていたという。

♪ ♪
さて、この曲の作詞はテッド・ケーラーで、「さあ、恋をしよう、恋をしてはいけないという理由はない」などとウキウキムードの歌詞を書いている。

 ♪ 恋をしましょう
   恋をしてはいけないという理由はないでしょう
   心というものは恋から作られる
   恋をするチャンスを逃す手はないでしょう
   なぜ恋することを恐れるの
 
   目を閉じて 私たちの楽園を作りましょう
   それがどんなものかわからなくても やってみることはできる
   なんとかうまくやってみましょう

   さあ、恋をしましょう
   恋をしてはいけないと理由はないでしょう
   私たちが若い今こそ 恋をするとき
   さあ、恋をしましょう…

アーレンの曲はノリのいいリズムに特徴があり、多くの映画に取り上げられ人気を高めてきた。
この曲が世に出てからも映画『愛情物語』(THE EDDY DUCHIN STORY‐1956)をはじめ多くの映画に使われてきたが、心地よいスイング感とメロディを少し崩すフェイク向きのフレーズが散りばめられているため、ヴォーカルだけではなく器楽演奏としても多くの録音が残されている。


エラ・フィッツジェラルドやアニタ・オデイ、ナット・キング・コール、ルイ・アームストロングなどの歌を聴くと何だかムズムズと本当に恋をしたくなってくる(笑)。
こんなところにも「春」を感じるのは、私もまだまだ若いということか(笑)。
最近のお気に入りは、ダイアナ・クラールのヴォーカルである(WHEN I LOOK IN YOUR EYES‐1999)。

インストでは、オスカー・ピーターソンの黄金トリオからレイ・ブラウン(b)とエド・シグペン(ds)が抜け、新たにサム・ジョーンズ(b)とルイス・ヘイズ(ds)へとメンバーが入れ替わったばかりのオスカー・ピーターソン・トリオが、軽快なテンポでグイグイ飛ばす演奏が聴きものである(BLUES ETUDE‐1965)。


中でも、デューク・エリントンとエリントン楽団の至宝ジョニー・ホッジス(as)の共演盤“SIDE BY SIDE”(1959)では、ハリー・“スィーツ”・エディスン(tp)、ベン・ウェブスター(ts)が加わり、寛いだスウィング・セッションを繰り広げている。
ここでの演奏は、リスナーが幸福感に包まれるような心温まるものである。

恋してもお茶から先に進まない (蚤助)

#513: 私の心がフェイドアウト

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なぜ映画を観るのか。

別に死にたくなるほど辛い現実を生きているわけではないが、それでも世の中、楽しいことばかりではない。
面白くないこともあれば嫌なこともある。
自棄酒を飲みたくなったり、人里離れた遠くの方へ行ってしまいたくなることだってある。

で、冒頭の答えだが、私の場合は、やはり泣きたかったり、笑いたかったり、ハラハラドキドキしたかったり、ロマンティックな気分になりたかったりするために映画を観るのだ。
ひとことで言えば、「気分転換」のためなのだが、突き詰めると「現実逃避」ということになるのだろう。

<蒲田行進曲>(深作欣二監督‐1982)や<ニュー・シネマ・パラダイス(NUOVO CINEMA PARADISO)>(ジュゼッペ・トルナトーレ監督‐1989)のように、映画そのものを題材にした映画がある。
いずれも、映画への愛が満ち溢れた作品で、ウディ・アレンの<カイロの紫のバラ(THE PURPLE ROSE OF CAIRO)>(1985)もそういう一本である。
それもごく平凡な映画の観客のお話である。


大恐慌の影響が色濃く残る不況の1930年代半ばのアメリカはニュージャージーが舞台である。
主人公のミア・ファローは、安食堂でウェイトレスとして働きながら、細々と暮している。
夫のダニー・アイエロは失業中だが、毎日酒やら賭け事やら女やらに時間を費やし遊んでばかりいる。
おまけに、都合が悪くなると暴力をふるう典型的なDV亭主である。
彼女は、そんな亭主に見切りをつけて、一人で暮す踏ん切りもつかず、一方、仕事場では皿を割ったり注文を間違えたりして、店主に叱られてばかり。


(ミア・ファロー)
そんな彼女の唯一の慰めは映画館である。
客がカップルばかりの土曜の夜、亭主はもちろん付き合ってくれる友人もいない彼女が気まずそうに「今夜は1枚でいいわ」とチケットを買うシーンが身につまされる。

上映中の映画のタイトルは<カイロの紫のバラ>で、彼女のお気に入りの俳優ギル(ジェフ・ダニエルズ)演じる冒険家バクスターの姿に彼女はメロメロになってしまう。
彼女はこの映画の世界にすっかりのめり込んでしまい、やがて食堂での仕事も手につかなくなる。
そして、いつも以上にミスを重ねた挙句、食堂をクビになってしまう。
がっくりした彼女は、その足でまた映画館に向かい、もうすでに何度も観ている<カイロの紫のバラ>に、束の間の安らぎを求める。

スクリーンを見つめていると、突然、映画の中の冒険家バクスターが「君はいつも見に来てくれるね」と客席に向かって話しかけてくる。
ざわつく場内、バクスターの視線の先は彼女だった。
「君って、私のこと?」と画面に向かって答えると、バクスターはスクリーンから出てきてしまう。
あまりのことに騒然とする場内、スクリーンの中でも共演者たちがパニックになっている。

現実に出てきたバクスターは彼女に一目惚れしてしまい、二人はとりあえず休園している遊園地に逃げ込む。
バクスターは彼女にキスしてから「ここでフェイドアウトするはずなのに」と言う。
映画の中の登場人物なので、現実を知らないのである。
彼女が答える。

「私の心がフェイドアウトしたわ。目をつぶったら次のシーンになりそう」

♪ ♪
出演者の一人がいなくなった後の映画はストーリーが停滞する

映画館の館主に、映画の出演者たちは「バクスターが映画から出て行った」と訴え、セリフも関係なしに勝手に言い争いを始める始末。

場内の観客も黙っていない。
年配の夫婦の奥方の方が、「座って話し合っているだけの映画なんてつまらない。お金を返してもらうわ」と言うのに対して、出演者の女優が「お黙り!」と応酬すると、「自分を何様だと思っているんだ」と今度は亭主の方が叫ぶ。
「私は伯爵夫人よ、あんたの古女房とは違うわ」と女優、それに歓声を上げる観客。

「先週と同じストーリーの映画を見せてくれ」と文句を言い出す観客、映画館に駆けつけたマスコミ、警察、やがて映画の製作者たちまで巻き込んだ大騒動へと発展していく。

そして、事態の収拾を図るために、バクスターを演じた俳優ギルが現地にやってくる。
しかし、困ったことに、ギルもまたミア・ファローに惚れてしまうのである。
「夢」であるバクスターと夢のような「現実」であるギル、同一人物でありながら同一人物ではない二人にみそめられてしまった彼女はいったいどうするのか。

彼女はバクスターに言う。

「夢には惹かれても現実を選ぶしかないわ」

この作品は分かりやすく軽妙洒脱なファンタジック・ラヴ・コメディである。
けれども、ウディ・アレン(監督・脚本)らしいテーマが語られている。
すなわち、「夢」は儚いものでしかなく、また「現実」は厳しく仮借のないものとして在るということがシニカルな視点でユーモラスな語り口で描かれる。
夢と現実は違うということである。

ラストで、彼女はハリウッドへ一緒に行こうと誘ってくれた俳優ギルにも忘れられ、さらに厳しい現実を知ることになる。
彼女はまた一人ぼっちで映画館のシートに身を沈めている。
その週は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの<トップ・ハット(TOP HAT)>(マーク・サンドリッチ監督‐1935)が上映されている。
アステア=ロジャースの極上のダンス・シーンを観ている彼女の顔に、再びまた笑顔が戻っていく。
彼女の現実が今まで通り厳しいものであることは想像に難くないが、ただ映画館にいるほんのひと時だけは、彼女の顔から微笑みが消えることはないだろう。
寂しい結末ではあるが、ミア・ファローの幸せそうな表情で映画が終わるのがとてもうれしかった。

夢と現実は違う。
ウディ・アレンの「映画愛」が純粋に感じられる名シーンである。

エンドロール密かに涙拭うとき (蚤助)

#514: 世紀をまたぐラヴシーン

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この絵は18世紀のイギリスの肖像画家ジョージ・ロムニーが描いたもので、モデルは当時17歳のエマ・ハートという娘であった。
全体的にさっと絵筆を走らせた程度の未完の作品であるにもかかわらず、エマの美貌ぶりが画布から溢れ出んばかりである。
それもそのはずで、彼女はロンドン社交界の華として、また絵画のモデルとしてもよく知られる存在であった。

元々、彼女は鍛冶職人の娘として生を受け、父の死後、正規の教育を受けたことのない母親に育てられたが、その美貌と自由奔放な性格によって、自らの運命を大きく変えていった女性である。


エマは、多くの男性と浮名を流した末に、チャールズという若い貴族と恋に落ち同棲するようになる。
チャールズは、生来利発だったエマにエチケットや礼儀作法など社交界で必要な基本的な知識を伝授する。
冒頭の絵のようにエマの肖像画をたくさん描いたロムニーはチャールズの友人でもあった。

だが、やがてチャールズは別の裕福な女性と結婚しようと決意し、エマを厄介払いするために、ナポリに旅立たせる。
ナポリには、チャールズの叔父にあたるウィリアム・ダグラス・ハミルトン卿が公使として駐在していた。
ところが、ハミルトン卿はすっかりエマに魅了されてしまい、二人は正式に結婚、こうしてエマは後に「ハミルトン夫人」(LADY HAMILTON)として知られるようになるのである。

エマは、数枚のショールを巧みに使いながら、踊ったり演技したりする“ATTITUDES”という見世物を得意とし、ナポリ王妃をはじめとした王侯貴族やゲーテなどの芸術家・作家たちをも魅了して、その名声はヨーロッパ中に広まった。

そうした中、エマは、ナポレオン率いるフランス共和軍と戦う英国海軍の特使であるホレイショー・ネルソンをナポリ公使夫人として出迎えることになる。

これが英雄ネルソン提督とハミルトン夫人の馴れ初めで、史上名高いW不倫スキャンダル事件のきっかけであった。

♪ ♪
このネルソン提督とエマことハミルトン夫人の恋愛物語を、格調の高い文芸映画として描いたのが、大プロデューサーであったアレクサンダー・コルダが自ら監督した<美女ありき>(LADY HAMILTON‐1941)である。
エマ・ハミルトン役はヴィヴィアン・リー、ネルソン提督はローレンス・オリヴィエが演じた。


(ヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエ)
この二人、役柄同様、不倫の関係にあった。
ようやくお互いの伴侶との離婚が成立して、結婚にこぎつけた最初の作品がこの映画なのである。
そのせいか、二人の熱い思いがそのまま画面に焼き付けられているようだ。

史実通り、エマは若いころから天衣無縫な女性として描かれているのだが、ナポリ湾を窓から眺めて、母親(サラ・オールグッド)にこう言う。

「ヴェスヴィアス火山は皇帝ネロが火をつけて、キリスト教徒のせいにしたのよ。このくらいのことを知っていれば貴婦人として通るわ」

エマの生まれ育ちと、利発さと野心を一言で表した素晴らしいセリフだと思う。

ネルソン提督には妻があり、エマにも夫があるのだ。
お互い愛し合ってはいるが、お互いに別れなければならない状況にある。
その別れを惜しむシーンは実に名場面である。

1799年の大晦日の深夜、ナポリの邸宅のバルコニー…

「我々は二つの世紀にわたって接吻をしたね」
「あなたがいた古い世紀はなんと美しかったのでしょう」

二人はキスをしつつ新世紀(19世紀)を迎えたのであった。
世紀をまたいで、何とスケールが大きいラヴシーンであろうか(笑)。

しかし、結局二人は別れられぬまま、噂がかしましい社交界や物見高いメディアをものともせず、ロンドンの郊外に同棲するが、やがてハミルトン卿の死や、トラファルガーの海戦におけるネルソン提督の戦死によって決定的な別離が訪れる。

♪ ♪ ♪
映画は、年老いて落ちぶれたハミルトン夫人が、フランスのカレーでワインを1ビン万引したことで警察に突き出され、牢獄で同房のイギリス人の女に、自分の過去を物語るという形式で作られている。
それをフラッシュバックで描くという構成になっているので、ヴィヴィアン・リーは若いエマと晩年のエマを演じることになる。
容色の衰えを当時のメーキャップで見せようとするが、美女はやはり美女である。
美女はトクなのだ!




エマは、トラファルガーの海戦でネルソンが戦死し、その知らせを受け取った途端に気を失ってしまうところまで語り終える。
映画は、「それからどうしたの?」と聞かれて、「“それから”は何もないわ」とつぶやくヴィヴィアン・リーの姿をカメラがとらえて終わる。

ネルソンが戦闘で片目と片腕を失っていたことは、この作品で初めて知った。
ただ、エマの夫であるハミルトン卿が二人の仲を見て見ぬふりをしていたというのが理解できない。
だが、史実はその通りだったようだ。

ネルソンの死後、エマは亡夫ハミルトンの残した年金を食いつぶした挙句、借金地獄に陥った。
ネルソンは弟にエマを扶養するよう遺言したものの、死後ネルソンは国家の英雄として祭り上げられてしまい、エマは全く無視された。
ネルソンの葬儀にも出席を許されなかったという。
エマは、債権者から逃れるためにフランスへ渡るが、酒に溺れ、困窮したまま肝臓病で亡くなった。
享年50歳だったという。

この映画、ウィンストン・チャーチルの大のお気に入りの一本で、ネルソン提督とハミルトン夫人の悲恋を何度も観て、その度に涙を流していたそうだ。
Vサイン、ブルドッグ宰相の目にも涙である。

好きな季節(とき)聞かれて君がいる季節 (蚤助)

#515: 「風」の川柳

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三月の「けやぐ柳会」は、裕雅さんから「風」と「投げる」という宿題が出されている。
東京は今週末にも桜が満開になりそうだということで、時季的には「春風」と言いたいところだが、寒い北風と暖かい南風がせめぎ合って、実際のところ全国的にはとんでもない気象状況もあった弥生三月である。

「風」といえば、NHK文芸選評・川柳に「風」という課題が出て、安藤波瑠先生に拙句を佳作に抜いてもらったことがある(平成19年5月放送)。

「風」は、空気の流れのことだが、流れる空気自体を指したりする。
「気流」と言ってもよいかも知れない。
風が無い状態が「凪」であるが、古来、眼に見えないものの象徴として使われたり、「選挙に新しい風が吹いた」などというように全体的な雰囲気の方向性の意味を持たせたりする。
流行やファッション、グルメなどで使う「○○風」というのもそういった使い方の一種であろう。

北風・南風など東西南北の方角に着目した風向きもあるし、空っ風・春一番・木枯らし・ヤマセ・六甲おろしなど季節や地域に着目した風もある。
さらには、海風・山風・谷風・潮風・ビル風などというものもあるし、気象用語としては、台風・竜巻・つむじ風・乱気流・砂嵐・偏西風などというのもある。


当時放送された「文芸選評・川柳」の作品集を紹介してみよう。
放送が5月だったので、すぐ「薫風」が頭に浮かんだのだが、果して実際にはどんな風が吹いたのであろうか。

課題「風」 (安藤波瑠・選)
ぬり絵からハタと困った風の色 (賀村昌平)
薫風に年金泳ぐ初節句 (遠山 勇)
ケータイも田植機にのり風薫る (高橋 勝)
絵ハガキになかった風に肌でふれ (鈴木正義)
隙間風かと振り返る先に妻 (矢野利喜)
胸中に風が吹く日は鍋みがく (富田保子)
考える姿で風をやり過ごす (日下部徳子)
ライバルの風の便りに凛となる (勝盛青章)
IT化風の便りが速過ぎる (田原せいけん)
追い風が少し怖くて振り返る (松下弘美)
向かい風鈍感力を借りてみる (宮?竹葉)
窓際で起死回生の風を待つ (田中和正)
大吉を財布に入れて風を待つ (植松一繁)
ほほえみの風が横切るベビーカー (竹鼻雅子)
台本のない晩年の風まかせ (関口修一)
生きている風を楽しむ万歩計 (中村義平)
虹色の風ころころと幼稚園 (岡本 恵)
分別もなく風に乗るシャボン玉 (奥山英男)
謝っておこう風力2のうちに (安元ふみき)
首は振らせぬ湯上りの扇風機 (田中良典)

吹き荒れる豆台風に目を細め (高原 繁)
散髪のうなじへ風も褒めにくる (徳長怜子)
反対はどこ吹く風か多数決 (藤中公人)
好奇心いつでも光る風を追う (西谷悦子)
一ランク下げろと風に教えられ (吉川孝夫)
ラップした噂を風が撒き散らす (林田厚子)
春風に誘われおにぎりをつくる (高橋寿久)
たんぽぽの綿毛気の合う風を待つ (伏見久江)
チョイワルの気分でバイク風を切る (竹中正幸)
いたずらな風はジーパンとは知らず (斉藤光雄)
マンネリを新人の風越えて行く (加藤金司)
一陣の風に乱れるバーコード (鈴木新八)
風向きに晩酌の量決められる (山根吉城)
ご機嫌な風が大凧唸らせる (関口カツ子)
風向きの見きわめうまい出世魚 (三浦武也)
パンジーは風に逆らう面構え (佐藤三夫)
ちぐはぐな恋のアンテナ風笑う (中田瑞穂)
少子化のブランコ風と二人ぼち (小棚木松静)
♪ ♪
佳作で抜いていただいた拙句はやはり「薫風」をイメージしたものだった。

自転車に乗れたときから風になる

#516: 首を持ってこい

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1990年代の半ばごろであったか、早春のニューヨークの路上で焼き栗を売っている黒人のオバサンがいた。
ひと袋所望すると、これがなかなかほくほくとして美味しい。
人の良さそうなそのオバサン、いかにも「お上りさん」然とした私たちに向って「このあたりはひったくりが多いから気をつけなさい」と忠告してくれる。
家人が身に着けていたショルダーバッグの掛け方が危ないといって、わざわざ安全な抱え方を指南してくれるのである
辺りは繁華街で人通りも多く衆人環視の状況なのであったが、改めて彼我の安全に対する意識の違いを感じたものであった。

1960年代以降のアメリカは、ベトナム戦争以降極度に悪化し、一流ホテルなどでも、エレベーターの中で見知らぬ人間と二人きりになったとしたら、何らかの暴力的な被害を警戒しなければならないといった時期があった。
もっとも、最近では、当時のアメリカほどではないにせよ、日本の安全神話を揺るがすような事件が多発しているのも事実で、これもアメリカ追随型なのかと思ってしまう。

銃の国これは追随しちゃならぬ (蚤助)

暴力は世に厳然として存在するし、人間の本能であるのかもしれない。
セックスについても同様で、この二つの強烈な要素を除いて現代の映画は考えられないといってもよい。
こういう意識が映画作家の間に広まっていった背景には、やはりベトナム戦争の暗い影があり、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」の台頭につながっていったのであろう。

映画監督サム・ペキンパー(1925‐1984)のフィルモグラフィーは闘争の歴史といっても過言ではない。
それほど、製作会社やプロデューサーとの確執が激しかった。
彼の作品のほとんどは編集権を奪われ、意に沿わない変更を余儀なくされてきた。
一方で、完璧主義者として知られ、予算の無視やスタッフの突然の解雇など現場での専横ぶりが叩かれ、映画界から冷遇された末に仕事を干されることもあった。
そのペキンパーが、徹頭徹尾思い通りに作った数少ない作品の一本が<ガルシアの首>(1974)であった。
原題は、「アルフレード・ガルシアの首を取って来い」(BRING ME THE HEAD OF ALFREDO GARCIA)で、新暴力派とも言うべきペキンパーが、メキシコで撮影した作品だが、かなり壮絶な暴力がドラマの軸となっている。
彼が生涯をかけて追求したのは、徹頭徹尾、男の、そして暴力の美学だった。

♪ ♪
メキシコの広大な牧場を支配する権力者の愛娘が妊娠した。
相手の男は誰だ?
それが女たらしのアルフレード・ガルシアという男だと知ると、父親たる権力者はガルシアの首に賞金100万ドルの賞金を懸けた。
「アルフレード・ガルシアの首を取って来い」と言うのである。
その一言で、強面の連中が賞金を目当てに先を争って大捜索を開始する。

アメリカ人観光客相手の場末のバーでしがないピアノ弾きをしているベニー(ウォーレン・オーツ)も金の匂いを嗅ぎ付ける。
ベニーの情婦エリータ(イセラ・ヴェガ)はかつてガルシアの女であった。
エリータからガルシアが事故死したことを聞いたベニーは、ガルシアが埋葬されている墓に向かい、証拠として首を持ち帰る決意をする…。


(ウォーレン・オーツとイセラ・ヴェガ)
人生を半ばあきらめかけた負け犬の主人公ベニーを演じるウォーレン・オーツは、決してスターではなく脇役専門の役者で、どちらかといえば薄汚れていたり、ずる賢かったりする屈折した役柄が多かった人だが、ペキンパーは彼を主役に登用し、その恩情に見事にこたえた一世一代の演技を披露する。
もっとも、主役といっても、これも相当薄汚いオッサン役であった(笑)。

エリータとベッドをともにした後、股間の毛じらみをテキーラで消毒するベニー、エリータとの明るい未来を夢想するものの、ふと死んだガルシアへの嫉妬心が湧き上がってしまうベニー、ともかくガルシアの首を持ち帰って賞金を手にしなければ再起を図れないのだ。
ギターと拳銃とテキーラを携えながら、嫌がるエリータを連れて、ベニーはガルシアの墓を目指すが、そんな二人をやはり懸賞金目当ての一味が跡をつけていた…。

正直いって、低予算の映画である。
だが、メキシコの空気、暑苦しい映像、男のプライドと意地、悲哀、復讐心、バイオレンス、銃撃戦、流血、スローモーション、これに男女の愛を絡ませることによって、ラストのカタルシスが倍加する。

出演者の中で私が知っているのは、エミリオ・フェルナンデス、ギグ・ヤング、ロバート・ウェッバー、クリス・クリストファーソンくらいで、スターと呼べるような役者は一人も出ていない。
典型的なB級映画と言えるだろう。
しかし、映像は安っぽくても、ロケを多用した画像は他のどの作品にも似ていない。
ロケーションでは、現場では何も足さず、何も引かない、あるがままの状態で撮影したそうだ。
そういう意味では、映画的な映像とはいえそうもないが、その分、現場の空気やリアル感が鮮烈に伝わる。

予算上の制約からオーディションで採用したというエリータ役のイセラ・ヴェガは、ちょっと婀娜な魅力がある。
時に母親、時に女や妻、初心な娘のようでもあり、しまいには聖母のような輝きを放って殺されるのである(笑)。

♪ ♪ ♪
墓場でガルシアの遺体を掘り返そうとし、何者かに殴打されベニーは気を失う。
気がつくと、ガルシアの首は盗まれ、エリータは惨殺されていた。
ベニーは首を盗んだ一味を追いかけ、皆殺しにし、ガルシアの生首を取り返すのだが、首は腐敗臭を放ち、ハエがブンブンたかり始めてくる。
この辺り、生首を見せることなく、その存在を感じさせるところが上手い。


ベニーは、なおもガルシアの首を追って追跡してくる賞金稼ぎたちや、墓を暴かれてその行手を阻もうとするガルシアの親族たちと次々と凄絶な銃撃戦をしていく。
そして、ついにガルシアの首を持って、賞金を受け取りに屋敷に行くのだが…

現在では傑作とされている代表作の一本<ワイルド・バンチ>ですら、公開当時、酷評の嵐に見舞われている。
この<ガルシアの首>も、アメリカ本国では、ほとんど無視された作品だが、ヨーロッパと日本では非常に高く評価されて、熱烈なファンのいるカルト映画となっている。
荒野、太陽、砂塵、汗、流血、ハエのたかる生首、こんな薄汚い強烈な世界がなぜかとても詩的に感じられるのが不思議である。

人間は暴力によることによってしか生き延びることができない、あるいはまた、是非を超えて暴力の存在を直視しなければならない、というのがペキンパーのメッセージなのだろうか。
いずれにしても、非常に冷酷で厳しい世界観であるが、この作品に吹き荒れる暴力には、身も心も打ち震えるのである。

できればテキーラとタコスを手にして観たい作品である(笑)。

余談になるが、サム・ペキンパーの一番好きな映画は黒澤明の<羅生門>だったそうだが、正統派のジョン・フォード信奉者であった黒澤の方は、ペキンパーを認めていなかったそうである。

葬儀屋が楽しげにする飾り付け (蚤助)

#517: ファンファン

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2003年のカンヌ映画祭のオープニング作品として公開された<花咲ける騎士道>(FAN FAN LA TULIPE‐2003)は、リュック・ベンソンの製作・脚本、ジェラール・クラヴジック監督で、フランスの人気俳優ヴァンサン・ベレーズとハリウッドの人気女優ペネロペ・クルスが共演するというので話題を呼んだ(画像)。
18世紀のルイ15世が統治するフランスを舞台に、名うてのプレイボーイであるファンファン・ラ・チューリップが活躍する剣劇、チャンバラ映画である。

この作品は、その半世紀以上前にジェラール・フィリップが主演した同名の映画のリメイク版なのだが、やはりオリジナル版の方がはるかに面白い。
1951年のオリジナル版の方が、ピリッと風刺が効いているし、ヴァンサン・ベレーズもジェラール・フィリップの軽快さと明朗さと比べると、何だかもさっとしてあまり垢抜けず重苦しい印象である。
また、オリジナル版のヒロイン、ジーナ・ロロブリジーダに比べ、リメイク版のペネロペ・クルスはなるほど美人には違いないが、風格と女っぷりではロロブリジーダに到底敵わない。

私の感覚はいささか古いかも知れないが、昔の俳優の方が演技に品格があるし存在感も圧倒的に大きかったのではなかろうか。


オリジナルの<花咲ける騎士道>は、クリスチャン・ジャック(1904‐1994)がメガホンをとり、この作品でカンヌ映画祭の監督賞を受賞している。
脚本はアンリ・ジャンソンとルネ・ファレ、クリスチャン・ジャックとの共同であった。

クリスチャン・ジャックという人は、ヌーヴェル・ヴァーグ以前のフランス映画界にあって、エンターテインメントのとても上手い監督だった。
古くは、ベルリオーズの半生を描いた音楽映画<幻想交響楽>(1944)、スタンダールを原作にした文芸映画<パルムの僧院>(1947)や、<青ひげ>(1951)あるいは<ボルジア家の毒薬>(1952)などのお色気たっぷりの歴史劇、感動的なヒューマンドラマ<空と海の間に>(1955)、ブリジット・バルドーを使った戦争コメディ<バベット戦争へ行く>(1959)など幅広いジャンルの作品を世に出している。


オリジナル版のジェラール・フィリップの演じたファンファン・ラ・チューリップは当たり役となり、以後、彼は「ファンファン」の愛称で呼ばれるようになる。
彼の透明感のある明るさと品位が、この作品の最大の魅力であろうし、ファンファン・ラ・チューリップは、彼のためのキャラクターだともいえる。

♪ ♪
時はルイ15世時代。
女好きだが結婚するのはイヤだという超モテモテの青年ジェラール・フィリップは、結婚を迫って追いかける一家から逃れるために軍隊に入る。
入隊の理由の一つは、徴兵係の軍曹の娘ジーナ・ロロブリジーダのイカサマ占いにあった。
入隊勧誘のために、「軍隊で出世し、王女と結婚することになる」と言いくるめられ、それを信じてしまうのである。

勇敢で腕っぷしが強い彼は次々と手柄を立て、やがてロロブリジータと恋に落ちるようになる。
ロロブリジーダに横恋慕する上官がいたり、王女に隠れてロロブリジーダを誘惑しようとするルイ15世やその腹心の官房長などが絡んで、彼は絞首刑にされそうになったり、決闘をする羽目になったり何かと忙しい。

彼の活躍で、敵軍に勝利すると、ルイ15世は最終的にロロブリジータを養女にし、結果的にイカサマの予言が実現、めでたしめでたし…という具合で、物語の展開が実にノーテンキで明るい。
だが、チャンバラや戦場のシーン、西部劇のような馬上の銃撃戦、馬車が疾走するシーンなどなかなか迫力があって見ごたえがある。

要所要所でナレーションが入るのだが、特に冒頭のナレーションが可笑しい。

「当時、戦争は王侯の気晴らしだった。戦場は王様が歴史的名言を残せるところである」

そのほかにも風刺たっぷりのナレーションやセリフがアチコチに出てくる。

「忠臣を従えたルイ15世、時に帽子を失おうとも沈着冷静さは決して失わない。意気揚々、唇に微笑、各連隊は優雅に殺し合い、美しく腹を斬りあった。バレエさながらのレースを身にまとった戦いである」

「兵士たちがあまりに戦闘を好んだために戦争は7年も続いた」

「四つ葉のクローバーだ、貴官は幸運の足を持っているな」

「貴官の顔から察するに国家の一大事か?」「いいえ、恋の問題です」「それはもっと重要だ」

「死というものがこんなものなら大したことはない」

「予想していた1万人の死者はどうなった?」「この次にとっておきます」

物語は痛快な西洋チャンバラ物語、軽妙なナレーションとセリフ、話の運びのテンポも良く、ラストまで一気に魅せる。

♪ ♪ ♪
フランスの二枚目スターとしてよく名前が挙げられる、1940年代のジャン・マレーは「感性の美」、1960年代のアラン・ドロンは「野心の美」と呼ばれるのに対して、1950年代のジェラール・フィリップは「知性の美」といわれているそうだ。
彼は悲劇的な役も多く演じたが、この役柄のように明るく颯爽とした芝居も見せて芸域の広さを示した。

そして何よりも、男性の観客にとっては、ロロブリジーダの美しいバストラインに惹かれる作品でもある。
ほぼ全編で、胸の大きく開いたコスチュームでその魅力を惜しみなく振りまいている。

「美しい谷間の入り口が見える」

劇中でも、屋根の上からジェラール・フィリップがロロブリジーダを見てこうつぶやくのであった(笑)。


老いたとて胸に目が行くその元気 (蚤助)


#518: いぶし銀のギター

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ギター奏者としてのケニー・バレル(1931‐)の魅力を問われたら、多くの人は「趣味の良さ」と答えるだろう。
これはいささか抽象的な言い方で、要は、泥臭さがなく、繊細で洗練されたテクニックを持ち、それがごく自然な形でプレイに滲み出てくる、ということである。

よく言われることだが、彼には駄作がない。
仮に失敗作があったとしても、そのアルバムにおける彼のギター・ソロはすべて見事なものばかりである。
実際、1956年の初リーダー作<INTRODUCING KENNY BURRELL>を発表して以降、どのアルバムにおいても常に第一級の出来栄えを示していて、甲乙つけ難い作品ばかりである。

若いころの演奏を聴くと、楽器やアンプの関係もあるだろうが、やや生硬だったギターの音色が時の経過とともにまろやかさが加わって、彼の持ち味であるブルース・フィーリングにしっとりと馴染むようになった。
まるで上等なウイスキーが樽の中で、時間をかけてじっくり熟成していくような感じである。
若々しさと瑞々しさにあふれたプレイが、一歩一歩と次第に貫禄をつけて行って、やがて「いぶし銀」と形容されるような独自の境地に達するのである。

「いぶし銀」のギターといえば、以前、ジム・ホールの稿でも使った覚えがある。
二人はどちらも同年代で、ほぼ独学でギターを修得したミュージシャンであり、端正なプレイぶりなど似通ったところがあるが、バレルの方は黒人プレイヤーだけにブルース・フィーリングがずっと濃厚である。


彼の音楽性、芸術性が多面的に発揮された<GUITAR FORMS>(邦題:ケニー・バレルの全貌)が、その代表作とされるのも、彼のギターの最高のプレイが収録されているからであり、このアルバムこそ「全貌」という邦題にふさわしい一枚でもある。

バレルの全貌とは何か。
ブルース感覚に根ざしたシングル・トーンがひとつひとつ磨き上げられており、適度のリラクゼーションを持ち、しかも感動的である、ということに他ならない。

 [A] 1. Downstairs
    2. Lotus Land
    3. Terrace Theme
    4. Excerpt From Prelude No.2 (George Gershwin)
 [B] 1. Moon And Sand
    2. Loie
    3. Greensleeves
    4. Last Night When We Were Young
    5. Breadwinner

1964年から65年にかけてのバレル30代前半の録音で、名アレンジャー、ギル・エヴァンスの墨絵のようなオーケストラ・スコアがこのアルバムの価値をより高めている。
エレクトリック、スパニッシュ、二本のギターを駆使するバレルの高い音楽性と、サポートするエヴァンスの絶妙なオーケストレーションが混然一体となっている。

トラディショナル・ブルース、クラシック、フラメンコ、モダン・ブルース、ボサノヴァ、フォークソング、スタンダード、モダンジャズといったさまざまなスタイルの演奏だが、バレルの繰り出す抑制の効いたフレーズとオーケストラが交錯する美しさは、聴く者の耳にまとわりついて離れない。
エヴァンスのアレンジャーとしての偉大さを示すという点で、エヴァンスの代表作のひとつに加えてもよいかもしれない。

さらに、4曲はよくスウィングするコンボの演奏、1曲はソロ・ギターにしてあるなど、多彩なアプローチが試みられており、バレルのあらゆる良質な面がきらびやかに披露された珠玉編でもある。
60年代に入ってから一躍頭角をあらわし、人気ギタリストに躍り出たウエス・モンゴメリーの後塵を拝した感があったケニー・バレルだが、これは異色の大傑作となった。

♪ ♪
東京の桜は満開になってからしばらく寒い日が続いたこともあって、まだまだ絢爛豪華に咲き誇っている。
これから桜前線はどんどん北上していく。
震災被災地では、大切な思い出になるはずの物や、宝物のようにしていた物が、今では一様に「瓦礫」と呼ばれるようになった。
それは本来ゴミ扱いされるものではなかったはずで、それゆえ、深く傷つくことになった被災地の人も多いだろう。
復興はまだまだ遠い先のようである。
せめて、被災地の人々の心が、桜の開花で少しでも慰められるように切に願っている。

桜色日本列島駆け上がる (蚤助)

#519: ミディアムで…

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“ジョン・ヘイリー・シムズ”は、かつて“四人兄弟”の一人であった。


こう書くと「何のこっちゃ?」と思う人もいるだろう。

ジョン・ヘイリー・シムズとは、サックス奏者ズート・シムズ(1925‐1985)の本名である。
“ズート”(Zoot)というのはかなり珍しいニックネームだが、その由来については、彼がいつもダブダブの服装をしていたからだとか、いつも酔っぱらって服装がだらしなかったからだとか、いろいろな説があるようだ。
辞書にも載っている“Zoot Suit”といえば、1940年代にアメリカで流行ったメンズ・ファッションで、肩幅が広く長めの上着とすそが細くなったダブダブのズボンからなるスーツのことを指すが、私なりに考えれば、彼が肩幅が広いいかり肩だったことからきているような気がする。
どなたか“ズート”という命名の真相をご存じの方がいたらご教示いただきたいものである。

ニックネームの由来はともかくとして、彼は16才のときにプロ入りして数々のバンドで活動をしたが、1947年、ウディ・ハーマン楽団のセカンド・ハードに加わると、一躍スター・プレイヤーとなった。

四人兄弟というのは、このウディ・ハーマン・セカンド・ハードの名演奏“FOUR BROTHERS”で組んだサックス・セクション4人組のことを指している。
それまでのビッグ・バンドのサックス・パートがアルトがリードするというスタイルだったのに対し、この曲ではテナーのリードによる“ソリ”と4人のサックス奏者によるソロ・パートからなる画期的なものであった。
このときのスタン・ゲッツ、ズート・シムズ、ハービー・スチュワード、サージ・チャロフが四人兄弟なのだった。
シムズはスタン・ゲッツとともにこの演奏で名を挙げるのである。

♪ ♪
前稿で、ケニー・バレルについて「駄作がない」と書いたが、シムズに関しても全く同じことが言える。
彼は、リーダー吹き込みに加え、サイドマンとしても実に多くのセッションに参加している。
アルファベットの最初の“A”と最後の“Z”の白人テナー奏者二人の組み合わせで人気が高かったアル・コーンとのコンビ作品(AL & ZOOT)のほか、コンボからオーケストラ、さらに歌伴まで加えると残されたレコーディングは膨大なものである。
これだけ多くの録音を残しながらも、一つとして凡打がないというのは、彼の高い音楽性を示すものである。


四人兄弟のもう一人のスター、スタン・ゲッツとは同年代で、同じレスター・ヤング派の一員としてプレイ・スタイルも似通っているのだが、ゲッツと比べると地味な存在であった。
それでも、時流に媚びることなく自分自身を守り通しただけあって、年を経るごとに大家の風格が備わるようになっていった。

彼の演奏は、「職人芸」と言う言葉がぴったりくる。
手にする楽器のコントロールやテクニックは熟練の極みだし、それでいてハッタリやケレン味がない、人間味あふれた表現力が彼の最大の魅力であった。

歴代の天才、巨匠、名人たちの中には、晩年期に至って、ひどく凋落した演奏しか披露できなかった人も多いが、シムズの場合は最後までその魅力を失わず、名手のままその風格を保ち続けた人であった。

♪ ♪ ♪
彼の個性が最も効果的に発揮され、即興演奏家としての本領を発揮するのが、ワン・ホーン・カルテットであった。
晩年にいたってもワン・ホーンの快演、好演を連発したシムズだが、今回挙げたのは“DOWN HOME”(1960)というタイトルの一枚である。


   1. Jive At Five
   2. Doggin' Around
   3. Avalon
   4. I Cried For You
   5. Bill Bailey
   6. Good Night Sweetheart
   7. There'll Be Some Changes Made
   8. I've Heard That Blues Before
   9. There'll Be Some Changes Made (Alt.)
   10. Jive At Five (Alt.)
   11. Doggin' Around (Alt.)
   12. Avalon (Alt.)
   13. Good Night Sweetheart (Alt.)
   14. Bill Bailey (Alt.)

シムズは、バラードでもアップテンポでも上手いが、最も得意としたのがミディアム・テンポで、ステーキの焼き加減ではないが「ミディアム」が一番美味しい。
このアルバムではミディアム・ナンバーを中心にしているだけあって、その本領を発揮していることに加え、リズム・セクションに第一級の人材が配されていることが大きな魅力である。

実力派で強力なジョージ・タッカーのベースをバックに、チャールズ・ミンガス・グループのドラマー、ダニー・リッチモンドが刺激的に煽り立てるドラムスに乗って、多芸多才なピアノの名手デイヴ・マッケンナが素晴らしい乗りで迫ると、シムズはハードなドライヴ感でダイナミズムにあふれた演奏を展開する。
快適で、理想的ともいえるスウィング感である。
この感覚は、黒人ジャズの粘っこい乗りとは異なるが、何だか生理的な快感に訴えてくるものがある。

彼は、常に「前衛」という言葉とは無縁の地点にいたが、その生涯を通じて、よく歌い、よくスウィングする第一級のソロイストであった。

円熟度を加えた晩年の作品もすばらしいが、このアルバムのように、重量感にあふれていながらも、タイトル通り“DOWN HOME”な(くつろぎに満ちた)演奏はやはり最高である。

レコード・CD棚をひっくり返してみたら、ズート・シムズは、いつの間にか、ソニー・ロリンズ、スタン・ゲッツ、ジョン・コルトレーンに次いで、我がコレクションの中で大きな分量を占めるサックス奏者になっていたのだった。

Mr. Sims, Medium, Please!
リラックスしなきゃならぬと力む癖 (蚤助)

#520: 牛追いの道

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ピーター・ボグダノヴィッチの<ラスト・ショー>(The Last Picture Show‐1971)という映画は、都会ではなく田舎町を舞台にして、1950年代のアメリカをノスタルジックに描いた秀作だが、その町でただ一軒の映画館が閉館になり、最後に上映されたのが、ハワード・ホークスの名作西部劇<赤い河>(Red River‐1948)であった。

<赤い河>はボグダノヴィッチ好みの映画だと思うが、私の好きな一本でもある。
<ラスト・ショー>に出てきた場面は、ジョン・ウェイン率いるカウボーイの一隊が1万頭もの牛をテキサスからミズーリに運ぶためにキャトルドライヴ(牛追い)に出発するところだった。
このあたりに寓意を感じるのだが、<ラスト・ショー>のジェフ・ブリッジスは、<赤い河>のこのシーンを観て朝鮮戦争へ出発して行くのである。


南北戦争が終わると、アメリカ東海岸の牛肉需要が高まった。
東部は鉄鋼・紡績など工業が盛んで、南部から大量に流入した黒人等労働者の食糧確保が課題となった。

広大なテキサスでは、牛は財産であり、富の象徴でもあったが、何しろ消費地まで遠すぎるのが難点であった。
商品価値としては、テキサスではせいぜい牛1頭1〜2ドル程度だったが、鉄道の駅のある町の仲買商人のところまで運んでいけば、20〜30ドルの高値になった。

それまでのキャトルドライヴはテキサスから北上してミズーリ州の鉄道駅までおよそ2000キロを超える距離を踏破する必要があった。
途中にはコヨーテやガラガラ蛇の生息する荒野や流砂、底無し沼などのある湿地帯などがあり、困難を極める旅である。

<赤い河>は、カウボーイたちが牛を追いながら鉄道駅の売買市場までたどるビッグ・トレイルの有様を描いた映画だが、ジョン・ウェインが初めて老け役に挑んだ作品としても知られている。
頑固で信念を曲げない牧場主をジョン・ウェインが、息子同然に育てられた牧童頭を若きモンゴメリー・クリフトが演じた。


南北戦争が始まる10年以上も前のこと、ジョン・ウェインは、仲間のウォルター・ブレナンとともに牧場を作ることを夢見て、レッド・リヴァーに向かおうとしていた。
そのため、恋人のコリーン・グレイとしばらく離れて、別行動をとることにする。
彼女は一緒に行きたいと訴える。

「一日は昼だけじゃなく夜もあるのよ」

仕事だけではなく安らぎも必要だという意味であろうが、なんだか少しセクシーなムードもあって妙に印象に残るセリフである(笑)。

ところが、別行動をとった矢先、彼女は同行した馬車隊ともども先住民の襲撃に遭って殺されてしまう。
まもなく、ウェインとブレナンは、やはり先住民に両親を殺されてしまった一人の少年に巡り合い、二人は彼を同行させることにする。

時は巡って1865年、ようやく南北戦争は終わったが、南部は疲弊してしまい、家や家財を失った南部人には牛を買う資金もなかった。
テキサスの牧場主たちは、牛を遥か遠い北部まで運ばなければ金にならなかった。

牧場主になっていたウェインは1万頭近い牛をミズーリまで運ぼうとしている。
ウェインは独身のまま齢をとって、すっかり頑固で意固地になっていた。
彼に息子同然に育てられた孤児のモンゴメリー・クリフトも無事に戦争から帰還して、牧童頭としてキャトルドライヴに参加することになる。
そして、ブレナンが料理人として、新たに拳銃の腕が立つジョン・アイアランドらがカウボーイとして一行に加わる。

このアイアランドは登場場面は少ないものの、なかなかいい役である。
クリフトと拳銃の腕比べのため空き缶を撃ってこんなことを言う。

「この世に拳銃よりいいものが二つある。スイスの時計と若い娘だ」

う〜ん、なかなかうまいことを言うね(笑)。

♪ ♪
出発してから数週間ほどはキャトルドライヴは順調であった。

だが、水に乏しい半砂漠を越え、一日中降りしきる雨の荒野を横切り、夜も牛の暴走や先住民の攻撃に備えて交代で見張りをしなければならないのである。
長旅に次第に疲れてくると、耐え切れず途中で逃亡するカウボーイも少なからずいた。

このあたりのホークスの語り口はなかなかうまく、逃亡したカウボーイに容赦なく厳罰を加えようとするウェインの描写で、彼の頑迷さや当時の牧場主の凶暴な一面がよく分かるし、また、ウェインに対してカウボーイたちの反感がつのって行く様子も観客に要領よく見せる。

ちなみに、キャトルドライヴのカウボーイは、ひと月も下着を替えないのは当然で、すっかり垢だらけになってしまうが、垢を落とすと風邪をひいてしまうので着いた町での風呂も長湯はしなかったという(笑)。
画面からでも凄い体臭が臭うようだ、こんな風に(↓)。


コヨーテの鳴き声で神経質になった牛たちは、ちょっとしたきっかけで大暴走(スタンピード)を始めてしまう。
1万頭近い牛の群れの暴走である。

西部劇ファンとしてはとても嬉しいことに、この作品には、往年の西部劇スターでこの年物故するハリー・ケリー(シニア)と息子のハリー・ケリー(ジュニア)が親子で出演している。
カウボーイ役のジュニアの方はこの牛の大暴走に巻き込まれて死んでしまうのだが、生前、牛が売れたら何に使うかと訊かれて、「妻が欲しがっていた赤い靴を買いたい」と話していたジュニア。
ジュニアの遺体を荒野に埋葬した後、ウェインが「奥さんに何か贈ってやれ」と言うと牧童頭のクリフトが「赤い靴を…」と答えるのが泣かせる場面である。

この大暴走で、牛を数百頭失ってしまい、旅はますます苦しいものになっていく。
そんな時、ミズーリまで行かなくとも、カンサスまで新たに開発された近道ルート(チザムルート)があるという噂が伝わる。
カウボーイたちは行き先を変更しようと言い出すが、頑固なウェインは聞き入れず、牧童頭クリフトと対立する。

二人の対立は、善悪の対立というものではないが、本当の息子のように育ててきたクリフトに背かれて、ウェインが鬼気迫る形相で言う。

「うしろに気をつけろ。振り向くと俺がいるぞ」

クリフトを新たなリーダーとする一行は、ウェインと決別し、彼をひとり荒野に置き去りにしたままカンサスに向かう。
長年ウェインに連れ添ってきた料理番のブレナンも、彼のあまりの意固地さに愛想をつかし、クリフトに同行する。
クリフトの一行は、先住民の襲撃を受けている馬車隊に遭遇、彼らを救援するが、その中にいた若い女性ジョーン・ドルーと恋仲になってしまう。
牛を鉄道駅まで運ぶことを優先しなければならないクリフトは、ウェインの若いころの恋と同様、やはりいったん別行動を選択せざるを得ない。

クリフトとドルーの会話。

「俺はいつでも決心するのに時間がかかる」
「私が手伝うわ」

一方、復讐心に燃えるウェインは、新たな仲間を募って、クリフト一行の跡を追ってきて、ドルーの馬車隊の野営にたどり着き、若いドルーとクリフトとの恋を知るのである。
ウェインとクリフト、新旧の二つの恋がシンメトリーのように描かれるわけだが、このあたりボーデン・チェイスとチャールズ・シュニーの脚本がいい。

クリフト一行が目指すカンサスに着くと、果たして鉄道はそこまでつながっていた。
牛は高値で仲買商人に売れるが、クリフトたちが気になるのが跡を追ってくるウェインである。

追ってきたウェインは、クリフトに向かって発砲し、二人は争うが、ラストはドルーの取りなしもあって、激しい殴り合いの末に和解するのだが、老け役といってもジョン・ウェインがモンゴメリー・クリフトと殴り合って互角のはずがない(笑)。
勝負が互角になったのは、ひとえにウェインがアイアランドに一発撃たれていたためであった。
そのアイアランドはウェインにすぐ射殺されてしまうのだが…。

いぶし銀のように光る渋い個性派俳優で、悪玉、善玉、何でもこなし、しかもユーモアにあふれた演技で、通算3度のアカデミー助演男優賞に輝いたウォルター・ブレナンが、この作品でも笑いの部分を一人で担っていて好ましい。
主人公のお守り役のように脇にいて、表面には出ず、派手な立ち回りもしないが、作品のクォリティを一段も二段も高める役割を果たしている。


(右:ウォルター・ブレナン、左:チーフ・ヨーラチー)
劇中、ブレナンは、料理番助手のチーフ・ヨーラチーとのカードゲームで負け、入歯まで賭けのカタに召し上げられてしまう。
ヨーラチーは食事の時だけは返してやるというのだが、入歯なしでは普段の会話がしづらい。
ウェインからは「もっとはっきり話せ」と言われている。
ブレナンは御者台で隣りのヨーラチーに向って愚痴をこぼすのである。

「俺には入歯が必要なんだ。返してくれ。口にホコリが入る。5キロも食った。早くしなくちゃ州一つ分のホコリを食うことになる」

この作品、牛を追うカウボーイのキャンプ生活や、当時の鉄道駅での牛景気の様子が生き生きと描かれ、生きたアメリカ開拓史の教科書のような映画であった。
文句なしに西部劇の傑作である。

♪ ♪ ♪
今日は私の誕生日。
手の指は10本しかないので、何回目の誕生日になるのか、もう数えられなくなってしまった(笑)。

好きな映画を観たり、音楽を聴いたりしながら、一杯飲ることができるというのは至福である。

ついさっき過ぎた気がする誕生日 (蚤助)
そういえば、「ついさっき過ぎた気がする」前回の誕生日の記事も、前々回の誕生日の記事も西部劇ネタだった。
「まったくいい齢をして」とか、「相変わらずだな」とか、「雀百まで踊り忘れず」などという声がどこからか聞こえてきそうである(笑)。

#521: 「青い」川柳

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先週末、台風並みに発達した低気圧が大雨と強風をもたらして、北方へ去って行ったあと、首都圏はとても良い天気となった。
花散らしの嵐は、その名の通り東京の桜を跡形もなくすっかり散らしてしまったが、今週はようやく本格的な春を感じられるような陽気が続くようだ。
花粉情報も主役はスギからヒノキに移っているようで、花粉症による艱難辛苦、七転八倒ももう少しの辛抱である(笑)。

この時期から木々は新緑になりはじめ、次第に空や海も次第にその青さを増していき、季節はやがて初夏から盛夏へと確実に巡っていくのである。


NHK文芸選評(川柳)で、私が句を抜いていただいて、拙句が初めて全国放送の電波に乗ったのは、今から7年前の平成18年9月のことだった。
選者は内田昌波さんで、そのときは「青い」という兼題だった。
9月にはミスマッチの題のような気がしたものである。

個人的に、「青い」といえば、むしろ、春から夏へかけてのイメージが強いのだが、暦の上とは異なり、まだまだ残暑が厳しいというのが9月の現実である。
実のところ、「青い」という言葉がどういう意味合いを持つのか、例によって、辞書等で調べてみる。

♪ ♪
「青い」
?「碧い」とも書いて、青色をしている、広く緑系統の色もいう。青い空、青いリンゴ、青松、青い畳、青信号、紺碧など。?「蒼い」とも書いて、顔に血の気がない、赤みが足りない。青白い、真っ青、青ざめる、蒼白など。?未熟な果実などが青いところから、人格・技能や振る舞いなどが未熟である。考えが青い、など。

辞書では大体こういう具合に説明されている。
この説明を頭の隅に置いておいて、平成18年9月の「青い」にはどんな作品が選ばれたのか、見てみることにしよう。



課題「青い」 内田昌波・選
まだ青い意見しっかり受け止める (濱村 淳)
植樹して地球に緑着てもらい (安田秋峰)
八起き目の空は青いと信じ込み (椎野 茂)
躓きを舗道割る芽に教えられ (柳ちよ女)
躓いて里が恋しくなるブルー (菅井京子)
病室の窓から見える空と杜(もり) (荒井典昭)
果てしないロマンが咲かす青いバラ (後藤洋子)
青空の広さで包む思いやり (中村輝子)
鉛筆の端を噛んでる青い意地 (島 香代)
青春を汗と涙の甲子園 (帯ひろし)
力んでも力んでもまだ青い芸 (川瀬伊津子)
サムライブルー染め直すオシム流 (島 友造)
理想論父の拳固で知る青さ (小鈴卓央)
まだ捨てず秘かに青い志 (樋口 眞)
青空へ諍いなどはもう忘れ (佐藤裕子)
再建へ青い主張に賭けてみる (竹中正幸)
領海に線など見えぬ青い海 (中谷照正)
古稀はまだ未熟明日へ汗を積む (小西章雄)
山幾つ超えても居ない青い鳥 (清井厚之)
悔いのない選択だった青い空 (森 昇)
♪ ♪ ♪
青い鳥うちは居心地いいらしい (岡本 恵)
老妻を若返らせる青畳 (福田仁兵衛)
まだ苦労知らぬ子の描く青写真 (関口カツ子)
まだ青い嘴だけど眼が本気 (山西酸及)
地引網青い空まで引いている (七宮 明)
青臭い議論にもある旬の味 (手塚正夫)
叩き台青い意見を置いてゆく (小山しげ幸)
青いなと言われた頃の自尊心 (谷田部富義)
雑念をそっと吸いとる青い空 (常田千吉)
宣誓の掌が青空を一掴み (小林笑楽)
チェックイン疲れを癒す青畳 (中田俊次)
少子化で国の青写真がやせる (松田順久)
抱いた子に青信号と促され (秋山滋造)
退院日真の青さを知った空 (竹鼻雅子)
少年の夢はみだした青写真 (村上ミツ子)
信号は青だ迷いがふっ切れる (高橋寿久)
親離れした子の自信まだ青い (鈴木和子)
青空に一坪野菜呼吸する (難波澄雄)
まだ青い意見核心ついてくる (植村和一)

内田昌波先生から抜いていただいた拙句は、まだまだ「青い」一句だったかもしれないが、私の作句のモチベーションを一気に高めた大事な一句でもあった。

板前の手で海にする青磁皿

#522: タンゴの救世主

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タンゴという音楽は鑑賞音楽というよりも、むしろ独特なステップを踏むダンスの伴奏音楽として発展してきた、と言った方がよいかもしれない。

19世紀の終わりに、アルゼンティンで生まれたタンゴは、男女ふたりが抱き合った状態で繰り広げられる禁欲的でありながらも扇情的なダンスである。
アルゼンティンは、ラテンアメリカ諸国の中でも、特にヨーロッパからの白人移民が多かったお国柄、アフリカから連れてこられた黒人奴隷からの文化的影響が比較的少なかった。
正装した男女によるダンス・スタイルが生まれた土壌はそんなところにあったと思われる。

一方、大河ラプラタの河口に位置する首都ブエノス・アイレスには、世界中の船乗りが集まってきた。
特に下町にある港の周辺(ディエゴ・マラドーナが活躍したフットボール・クラブ、ボカ・ジュニオールのホームスタジアムがある)ボカ地区には、売春宿とか酒場が多く、そこには黒人ミュージシャンがいた。
そんな場所で演奏される音楽は次第にアフロ・リズムの色を濃くして行って、やがてストイックでありながらも官能的な「アルゼンティン・タンゴ」(タンゴ・アルゼンティーノ)の世界へとつながっていくのである。


タンゴがダンスの伴奏音楽から鑑賞音楽となったのは、20世紀に入って、伝説的な国民歌手カルロス・ガルデル(1890‐1935)が登場してからである。

ガルデル以前のタンゴにも無論歌詞はあったが、所詮ダンスの添え物でたわいない内容のものであった。
ガルデルは持ち前の美声と豊かな表現力で圧倒的な人気を得、タンゴを大衆歌謡として広く認知させた。
ガルデルは、後の歌手たちによって目標とされるほどの大きな影響力を持ったが、その歌手生活のピークで悲劇的な飛行機事故で亡くなってしまう。
だが、その後次々とスター歌手が現れて、タンゴはアルゼンティンのポピュラー歌謡として大きな人気を博していくようになる。

1950年代に入ると、第二次世界大戦の余波を受けた世界的な食糧危機で、アルゼンティンは肉や穀物の一大輸出国として大きな経済発展を遂げる。
その好景気を受けて、タンゴはワールド・ミュージックの中でも大きな地位を占めるようになった。
タンゴの絶頂期ともいうべき時代を迎えたのである。

しかし、その隆盛も長くは続かなかった。
大きな反動が待っていたのである。
アルゼンティンは国際化や時代の変化に沿った工業化等産業構造の変革が遅れ、農業依存経済から脱皮しきれず、隣国ブラジルなどと比べても経済力において大きく水をあけられるようになってしまう。
アルゼンティンの国力の衰えと歩調を合わせるように、タンゴもまた次第に忘れられ、過去の音楽へ堕していった。

♪ ♪
そんな時代にタンゴ界に救世主のように出現したのが、アストル・ピアソラ(1921‐1992)であった。
彼は、卓越したバンドリーダーであり、バンドネオン奏者であり、作曲家であったが、何よりもタンゴをクラシックやジャズの要素と融合させた新しいスタイルを世に示したのであった。
契機となったのは、クラシック音楽を学ぶために渡仏して、生涯の師となるナディア・ブーランジェと出会ったことである。
ピアソラは、ブーランジェによって、タンゴが自らの原点であることを自覚させられたのである。
多感な少年時代をニューヨークで送ったピアソラは、既にジャズから多くの滋養を得ていたが、加えてバロックやフーガといったクラシックの技法を用いて、タンゴに新しい意匠をほどこすことに成功した。



彼の影響は、タンゴの世界のみならず、クラシック畑のアーティストのギドン・クレーメル、ヨーヨー・マらにも及び、1990年代に世界的なタンゴ・ブームをもたらした。
このブームは、ほとんどピアソラ一人の力で生み出されたものであり、そのこと自体は彼の偉大さを証明するものであったが、彼の切り開いた音楽世界を承継・発展させるアーティストが登場しなかったことは、惜しんでも余りあることであった。

♪ ♪ ♪
ピアソラが自ら「生涯最高の録音」と語ったアルバムが<TANGO: ZERO HOUR>である。


(TANGO: ZERO HOUR/ASTOR PIAZZOLLA)
ラテン、ジャズ、ロックなどあらゆるジャンルを呑み込んだアヴァンギャルド作品を発表してきたミュージシャンで音楽プロデューサーのキップ・ハンラハンが設立したレーベル<アメリカン・クラーヴェ>に録音した何枚かのアルバムのうちの1枚だが、ピアソラというアーティストが全身全霊で取り組んだこの作品は彼の最高傑作と評されていて私も全く異論はない。

1986年、ニューヨークのサウンド・アイデア・スタジオにおいて、当時のピアソラのレギュラー・バンド<QUINTETO TANGO NUEVO>(新タンゴ五重奏団)で録音された。
パーソネルは、アストル・ピアソラ(バンドネオン)、フェルナンド・スアレス・パス(ヴァイオリン)、パウロ・シーグレル(ピアノ)、オラシオ・マルヴィチーノ(ギター)、ネクトル・コンソーレ(ベース)である。

  1. Tanguedia III
  2. Milonga Del Angel
  3. Concierto Para Quinteto
  4. Milonga Loca
  5. Michelangelo '70
  6. Contrabajisimo
  7.Mumuki

1曲目「タンゲディアIII」は、録音前年(1985年)の映画<タンゴ〜ガルデルの亡命>のために書かれた曲で、オープニングから緊張感みなぎるアグレッシヴな作品。
コンソーレのベースに乗って、パスのヴァイオリンとピアソラの格闘技のようなやり取りが聴きものである。

2曲目「天使のミロンガ」は、ピアソラの代表曲のひとつ。
ロマンティックながらどこか憂いを秘めた美しい曲で、ピアソラのバンドネオンが切なく響く。

3曲目「キンテートのためのコンチェルト」はドラマティックな曲で、9分を超える大作である。
緊張感をはらんだピアソラのバンドネオンが他のメンバーを統率していくが、緩小節パートになるとピアソラの音色は艶めかしくなり、急小節パートに入ると、バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ三者のバトルとなり、やがてギターまで加わり演奏が白熱していく。

4曲目「ミロンガ・ロカ」は不協和音を用いた急速調の短い曲だが、全員の熱気が感じられる印象的な作品である。

5曲目はピアソラの傑作「ミケランジェロ’70」。
コンソーレのドライヴ感にあふれたベースに導かれて、疾風怒涛の如く駆け抜ける痛快なトラックである。

6曲目の「コントラバヒッシモ」は、タイトル通り、コンソーレのベースをフィーチャーした曲で、彼の弓弾きやインプロヴィゼーションの腕前が披露される。
重々しく始まる出だしから、曲調が徐々に軽やかに優しい表情になっていくのが魅力的で、マルヴィチーノの渋いギターが華を添える。

エンディングの「ムムキ」は、ギターの奏でるセンチメンタルで哀愁漂うメロディで始まり、ヴァイオリン、ピアノ、バンドネオンが順次加わり、格調の高い室内楽風の演奏になっていくが、曲調が二転三転する。
抒情的な表情から厳しい表情を見せるかと思うと、再び哀愁のメロディーが顔を出したりする。
アルバムのエンディングを締めるのに相応しい名演である。

現代タンゴのひとつの奇跡ともいうべきアルバムではなかろうか。
100年以上の歴史と伝統を誇るタンゴであるが、ピアソラの音楽はもはや「踊れないタンゴ」になってしまい、実際のところ、その音楽スタイルも彼の生涯とともに終わってしまった。
今もなお、ピアソラの後継者といえるアーティストが見当たらないことを勘案すれば、タンゴの進化と未来は、ピアソラの先にはおそらくないのであろう。

将来、もしもピアソラを超えるようなアーティストがタンゴ界に登場することがあるとしたら、それはもはや「タンゴ」とは呼べない種類の音楽であろうと、私は密かに思っているのである。

ラストダンス踊った末にパパとママ (蚤助)

#523: まるめろ

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高木恭造(1903‐1987)は青森市出身の詩人で弘前で開業する眼科医でもあった。
医師として地域医療に尽力したのは当然として、詩人としては津軽弁による優れた方言詩や文芸作品を創作し、全国で方言詩の朗読公演を行うなど精力的に活動した人であった。

彼の名前が全国的にどれほどの知名度なのか知る由もないが、青森出身の文学者で太宰治、寺山修司の二人は別格にしても、少なくとも葛西善蔵、石坂洋次郎、今官一、三浦哲郎や長部日出雄、私とほぼ同世代の川上健一などと比べてみても、そんなに高いことはなかろうと思う。
かくいう私も、高木の存在を知ったのは高校生の頃であった。
確か、高校の国語の名物教師が授業の中で紹介したのではなかっただろうか。


彼を有名にしたのは、昭和6年(1931)、高木28歳のとき出版された「方言詩集 まるめろ」であった。


昭和28年(1953)に出版された復刻版においては、棟方志功が装丁を行ったこともあって今ではかなりの稀覯本となっていると聞く。


表紙に副題のように「亡き妻ふじ子へ」とある。
大正15年(1926)、高木は23歳で、青森日報社に入社し、当時主筆を務めていた詩人で作家の福士幸次郎(1889‐1946)の助言により方言による詩作に取り組むようになるのだが、この年、高木は岡村ふぢという女性を娶る。
その後満州へ渡った高木は、満州医科大学へ入学するが、妻ふぢと死別してしまうのである。
詩集「まるめろ」が世に出る2年前のことで、おそらく亡妻への鎮魂の意図もあったのであろう。

♪ ♪
私にとって、この詩集の中で最も衝撃的だったのは、津軽半島のさびれた漁村で暮らす古老の独白「陽(シ)コあだネ村」(陽の当たらない村)という作品である。
「津軽半島袰月村で」という副題が付いているが、県立青森中学校に入学して、弘前高等学校に入学するまでの間に父が亡くなり、19歳の高木は東津軽郡袰月高等小学校の代用教員を勤めたことが詩作のインスピレーションとなっているようだ。
袰月(現今別町)は津軽海峡に臨むロケーションにあり、晴れた日には北海道が遠望できる漁村である。

彼の方言詩は振り仮名の付し方や送りがなに独自の工夫があるように思われる。
自分たちが日常発音している言葉をできるだけ正しく表記したいという思いが強く現れているのではなかろうか。
一応は津軽弁をネイティヴ言語として育った私にしてみても、津軽の方言を文字で正確に表現するということに高木がどれほど苦心しただろうかと思うと頭が下がる思いがする。

たとえば「陽(シ)コあだネ村」冒頭の

この村サ一度(イツド)だて
陽(シ)コあだだことあるがジャ(この村には一度でも/陽の光が当たったことがあるだろうか)
をはじめ、

みんな貧ボ臭せくてナ
生臭せ体コしてナ(みんな貧乏くさくて/生臭い体をして)
とか、

あああの沖(オギ)バ跳(ハネ)る海豚(エルガ)だえンた倅等(ヘガレンド)ア
何處(ド)サ行たやだバ(あああの沖を跳ねる海豚のような息子たちは/どこに行ったというのだろうか)
のほか、結びの一節の

朝(アサマ)モ昼(スルマ)もたンだ濃霧(ガス)ばりかがて
晩(バゲ)ネなれば沖(オギ)で亡者(モンジャ)泣いでセ(朝も昼もただ濃霧がかかるばかりで/夜になれば沖で亡者が泣いているのさ)
などである。

さらに「まるめろ」からもう一つ引いてみる。
「指切(キンカホウ)」と題されたわずか二行の詩である。

「指切(キンカホウ)」
りんごの花の下の指切(キンカホウ)
彼女(アレ)ア先(サギ)ネ死ンでまたオンなア(りんごの花が咲く下で交わした指切り/彼女は先に死んでしまった)
何と哀切極まる独白であることか。

♪ ♪ ♪
高木は詩作のほかに、朗読活動にも力を注いだ。
同じ東北、山形出身の作家、藤沢周平(1927‐1997)は、高木による津軽弁の自作の朗読を初めて聴いて「血が凍りついた」と書いている。

残念なことに、かつて発売されていたフォルクローレのアタウアルパ・ユパンキ(1908‐1992)唯一の弟子ソンコ・マージュ(日本人)と、青森出身のフォーク歌手、三上寛が弾くギターの伴奏によるアルバム(1975)や、同様に、三上寛の伴奏で青森市民会館で録音した1981年のアルバムなど、高木の朗読作品はすでにレコード会社のカタログから消えて久しいのだ。

冒頭に掲げた画像は、私の「方言詩集 まるめろ」の新装版(津軽書房刊)である。
旧版は昭和42年に出版されたようだが、奥付をみると昭和47年(1967)発行で、昭和51年(1976)の第3刷となっている。
この新装版には、高木恭造自身による朗読ソノシート(!)が付いているのである。
マージュさんや寛さんには申し訳ないが、余計な伴奏のない朗読を聴いた方が、彼が音や人間の声に敏感な詩人であったことがよくわかるのだ。

やはり「まるめろ」と同じ時期に入手したものとみえて、高木恭造朗読のソノシート付き「方言詩集 雪女(ユギオナゴ)」(津軽書房刊)も手元にあるのだが、こちらは昭和51年の初版であった。


昭和51年といえば、私が社会人となった年で、故郷の言葉が懐かしくなったのであったろうか。
あるいは、国語の名物教師のことを思い出して、たまたま目にしたこの二冊を買い求めたものだろうか。
入手した経緯はよく覚えていないのである。

ただ高木が書いた詩句のような津軽弁を話す人は、もはや現在の津軽にはそんなに多くはいないのではないだろうか。
私にしても意味は理解できるものの話してみろといわれても、この詩句にあるような語彙やリズムというものはとても再現できそうにはない。

東北弁で詩を書き、東北弁で朗読するという行為は、ともすれば中央から軽視されたり、奇異な目で見られたり、いわば不当な扱いを受けてきたような気がするのだが、「まるめろ」は、海外でも翻訳され、その朗読とともに国際的に高い評価を得ている。

特に3・11以降の問題と絡める気は毛頭ないのだが、津軽弁に限らずとも、東北弁が共通してもつ純朴さ(naive)、飾り気のなさ(simplicity)、ユーモア(humor)などは、見直されるべきだし、見直される好機であるし、現に見直されつつあるのではないか。
あまりにも楽観に過ぎる見立てであろうか。

高木の死後、ローカルタレントの伊奈かっぺいらによって、高木の命日10月23日を「津軽弁の日」として、津軽弁を用いた文芸作品を披露するイベントも人気を博しているようだ。

余談だが、「検事霧島三郎シリーズ」などで知られるミステリー作家高木彬光は、恭造の甥にあたる。
また、「まるめろ」は「かりん」だと思っていたが、同じバラ科でもマルメロは中央アジア原産のマルメロ属、カリンは中国原産のボケ属だそうである。
果実もよく似ているが、マルメロの方はカリンより表面がデコボコしていて丸型なので並べてみるとよくわかるという。
そんなことなどを初めて知った次第である。

♪ ♪ ♪ ♪
高木恭造「陽(シ)コあだネ村」では、若者たちがみんな他所に行ってしまうと嘆く古老の姿が痛ましい。
高木恭造には及ぶべくもないが、今回の拙句である。

棄てた村今は都会の人が住む (蚤助)

#524: This Land…

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村上春樹の新作小説が話題となっている。
猫も杓子もハルキ、ハルキの「ハルキブーム」だが、白状すると、私は彼の小説よりも音楽に関するエッセイとか評論の方を好んでいる。
そういう意味で真っ当な「ハルキスト」でないことは確かである。

若いころジャズ喫茶を経営し、レコード・コレクターとしても知られているハルキさんは、ジャズに限らず、クラシックやロック、しかも洋の東西を問わず幅広い音楽を楽しんでいるようだ。
音楽を生業としている人の文章よりも、純粋に音楽ファンの目線での語り口が読む者に親密さを感じさせるところが魅力的である。

彼の「意味がなければスイングがない」(文春文庫)を読むと、ジャズ(シダー・ウォルトン、スタン・ゲッツ、ウイントン・マルサリス)、クラシック(シューベルト、ゼルキンとルービンシュタイン、プーランク)、ロック(ブライアン・ウイルソン、ブルース・スプリングスティーン)、日本のスガシカオまで論じられていてなかなか面白いのだが、最終章で「国民詩人としてのウディー・ガスリー」と題して、フォーク歌手のガスリー(1912‐1967)を取り上げている。

私が持っているガスリーのアルバムは「THIS LAND IS YOUR LAND: The Asch Recordings, Vol.1」と題されたCD1枚きりで、このCDは本来は4枚ほどからなるボックス・セットだったようだ。
それがバラにされて、その第1巻がなぜか私の手元にあるというわけだ。
したがって、私はガスリーの音楽をそんなに多く聴いているわけではないことを、あらかじめお断りしておく。

ガスリーは、元々、正規のレコーディングというのはそんなに多くはない人なのだが、1930〜1940年代にかけて1000編以上に及ぶ詩を書き、そのうちの一部はアメリカ議会図書館のアメリカン・ルーツ・ミュージックの研究者アラン・ロマックスの手によって録音されたビクター盤や、“Folkways”というレコード・レーベルに録音されている。

私の唯一のガスリーのCDタイトルに「Asch Recordings」とあるのは“Folkways”の設立者モーゼス・アッシュのことを指している。


ポーランド系移民のユダヤ人だったアッシュはホテルやホールなどへ音響装置などを提供する仕事をしていたが、1939年のある日、ひょんなことからアインシュタイン博士が「ユダヤ人の同胞をナチス・ドイツから救出せよ」と訴えるラジオ番組の録音を担当することになる。
アインシュタイン博士に仕事のことを訊かれたアッシュは答えているうちに、「埋もれているアメリカのアーティストを丹念に録音をし、後世に残すことが自分の使命だ」と自覚するようになったという。

アッシュは、それから1986年に亡くなるまでの半世紀近くの間、ほぼ毎週1枚のペースでアルバムをリリースし、しかも世に出したアルバムは決して廃盤にすることのないように腐心した。
大量の在庫を抱え、発送にも手間がかかるような非効率なビジネスのやり方について質問されると、「アルファベットの“Q”の文字はあまり使われることがない。だからと言って“Q”を使わないことにすることにできないだろう?」と答えていたという。
ジャズの老舗レーベル“Verve”の設立者ノーマン・グランツなどは、アッシュを相談役にしていたようだし、“Folkways”というレコード・ブランドはアメリカの良心と見なされていた。

アッシュが亡くなった後、アメリカの文化遺産たるルーツ・ミュージックのマウンテン・ミュージック、先住民の音楽、ブルース、ゴスペル、フォークなどを記録した“Folkways”の原盤は散逸が懸念されたのだが、関係者の努力によって、スミソニアン研究所のアーカイブスに引き継がれて“Smithonian Folkways Racordings”として現在に至っている。

こうした流れの中で、アッシュの行ったガスリーの録音は、いわばアメリカの国宝級の作品といってもよいかもしれない。

♪ ♪
ガスリーの生きた時代というのは、大恐慌からニューディール政策による復興、第二次世界大戦を経て、戦後の公民権運動に至るまでの時代であった。

ウォール街における株式の大暴落による経済破綻、大旱魃や砂嵐(ダストボール)、イナゴの大襲来による農業生産が壊滅的な打撃を受け、特にアメリカ中西部の農村は極端に疲弊し、小作人は追い立てられた。
土地を有する者も銀行からの借入金の担保として農地を取り上げられ、住む家さえ無くし、難民が大量に発生した。
さらには、その銀行さえ次々と経営破綻していったのである。
まさに、スタインベックの描いた「怒りの葡萄」の時代であった。
この辺の様子は、かつて#133#469などの記事でふれた。

ハル・アシュビーの撮った「ウディ・ガスリー/わが心のふるさと」(Bound For Glory‐1976)は、ガスリーの自伝に基づいた映画であった。
デヴィッド・キャラダインがガスリーを演じたが、彼はギターを抱えた渡り鳥として、そうした時代のアメリカ全土を放浪した。

ガスリーは不況下であえぐ不遇で貧しい人々の思いを肌身に感じ、その感情を代弁する歌を歌うことにした。
民衆の中で受け継がれてきたトラディショナルなバラッド(アメリカン・フォークソング)などの既存のメロディーにオリジナルの歌詞をのせて歌い、自らも作詞作曲をしたのである。


彼の代表曲“THIS LAND IS YOUR LAND”はそんな時代に作られた歌である。
「我が祖国」という邦題で知られている。
もちろん“LAND”を「国家」ととらえてもいいのだが、これは誤解を招く訳ではないかとも思う。
歌の内容をよく見ると、少なくとも国家賛歌とは言い難いからだ。
内容からいえば「この土地は君の土地」というくらいの意味だと思うし、ハルキさんもそんな風に解釈しているように見受けられる。

♪ ♪ ♪
この土地は君の土地 そして僕の土地 カリフォルニアからニューヨークまでレッドウッドの森からメキシコ湾まで ここは僕たちのための土地
果てしなく続く道を歩いていくと 無限の空が広がり足元には黄金の谷がのぞく ここは僕たちのための土地
足がもつれるほど歩くんだ きらめく砂漠の砂を踏みながら周りに風が響き渡る ここは僕たちのための土地
目の前に大きな壁が現れ立ち止まると 私有地と書いたサインがあるだが壁の向こうには何もない ここは僕たちの土地なんだ
太陽が出れば歩きはじめる 小麦畑の穂と空の雲がたなびく霧が出ると歌声が聞こえる ここは僕たちの土地なんだ…
ピーター・ポール&マリーやブラザース・フォーなどは、確かこういう歌詞で歌っている。

CD(輸入盤)の英文解説によるとこの曲はアメリカの国民的作曲家アーヴィング・バーリンの“GOD BLESS AMERICA”への反発から生まれたのだという。
ガスリーは、バーリンの書いた歌の世界は、幻想で自己満足に過ぎないと嫌悪し、当時人気歌手であったケイト・スミスの歌声がラジオから流れると耐えられなかったのだそうだ。

“THIS LAND…”のメロディーは、1930年頃にカントリー&ブルーグラスの名グループ、カーター・ファミリーが歌った“LITTLE DARLING PAL OF MINE”から借用されたものであることが知られているが、それ以外のガスリーの楽曲にしても他のアーティストの曲をオリジナルの歌詞で歌った例が多い。
ガスリーにとっては、メロディーより歌詞の方が重要だったのであろう。
ガスリーは、自身が経験した貧困、差別、飢餓などへの憤りや悲しみを感傷的に歌うのではなく、批判や抵抗のメッセージとして歌ったのである。

元来、バラッドは抒情と叙景を併せ持ったストーリー性のある歌であるが、ガスリーはその中にメッセージ性を込めた歌詞を書いた。
ポップ・ミュージックに対するガスリーの最大の功績といってもよいこのメッセージ性は、時代を超えてボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンらに継承され、日本では高田渡や岡林信康らのフォークにつながっていく。
そして、公民権運動の高まりを受けて、ガスリーはプロテスト・ソングの先駆者として担ぎ上げられることになる。

(ギターに、This Machine Kills Fascistsと書いてある)
♪ ♪ ♪ ♪
大統領に就任する前のバラク・オバマを迎えて開催されたコンサートに特別ゲストとしてピート・シーガーが登場したことがある。
シーガーは、聴衆と一緒に歌う“SING OUT!”スタイルを広めたアメリカン・フォークの父ともいうべき大御所だが、若いころガスリーとともに全国を放浪したことがあったのだ。
1950年代にはマッカーシズムでレッドパージを受け、17年間も公共の場で歌うことを禁じられていたのだが、このとき、シーガーが歌ったのがガスリーの“THIS LAND…”だった。
それもガスリーの書いたオリジナルの歌詞で歌ったのである。

オリジナルは、前述の歌詞とは若干異なっている。
最終節の「太陽が出れば歩きはじめる…」と励ましと希望を宣言する箇所は、連帯と自由への決意表明となっている。
ガスリー自身のレコーディングでも省略することが多かったようだ。

教会の塔の陰にいる人々が見える 貧民救護所にいる人々が見える飢えたまま列に並んでる人々に 私は訊ねるこの土地は私たちのための土地なのかと
誰も私を止めることはできない 自由の道を歩き続ける限り誰も私を後戻りさせることはできない この土地は君と僕の土地だから
保守的な人々からは、アカの手先だとかクズだとか呼ばれたガスリーだったが、歌詞に理不尽な体制への批判や抵抗の姿勢は垣間見られるものの、現在の感覚からみればさほど高い政治的メッセージがあるとも思えない。
それでも決して歴史に語られることのない人々やコミュニティへの共感から作られた歌であることは確かである。

1940年代の後半になって、ガスリーの健康は次第に悪化していく。
母親と同じハンチントン(舞踏)病の兆候が表れ始めたのである。
この病気は、現在に至るも治療法が確立されていない難病のひとつで、遺伝的要素が大きいという。
不随意運動(舞踏様運動)が特徴的な症状で、長い時間をかけて進行していき最後に死に至る。

ピート・シーガーがパージされたころ、ガスリーは既に入退院を繰り返していて、やがて次第に廃人となっていった。
そして緩慢だが確実に死は訪れ、この世を去って行った。
享年は46歳であった。

お隣りの挙手につられる多数決 (蚤助)
こういうことはいかにも周りにありそうである。
民主主義には、それにふさわしい民衆が必要なのだ。
これが民主主義の真実の一面というものかもしれない。

#525: 樹木の歌

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花の季節である。
これから夏に向って様々の花が咲き誇り、おじさんの割りには花好きな私も心がウキウキしてくる。

だが、日本の夏、特に東京の夏の暑苦しさは世界「トップクラス」なので「暮す」のもなかなかしんどい。
木陰でも蒸し暑くてなかなか安らげないというのが辛いところである。
海だとか高原だとか山ならばいざしらず、真夏の東京のど真ん中だとラブソングなど生まれそうにない。

以前、“AMAPOLA”(虞美人草・ひなげし)について書いたことがあるが、また花を題材にした曲について書く。

今回は“POINCIANA”、冒頭に掲げた画像がポインシアナの花で、マダガスカル島原産のマメ科の常緑樹である。
樹形はこんな感じ。


傘のように枝を広げて育つので、熱帯〜亜熱帯地域では街路樹として利用されるほどで、ちょうどこれからの季節、初夏に赤い花をつけ、色鮮やかな木陰を作る。
花一杯の枝が風に揺れるさまはいかにも涼しげである。

基本的にトロピカルな花なので、日本では沖縄に行くと出会うことができる。
英語では一般に“FLAME TREE”、すなわち火炎樹と呼ばれているそうだが、和名は「鳳凰木」(ほうおうぼく)というらしい。
ほうおうの木か、ほう(おう)、なるほど、なるほど…。


“POINCIANA”という曲は、1936年キューバのマヌエル・リソのスペイン語の歌詞にナット・シモンが曲をつけ、“THE NIGHT HAS A THOUSAND EYES”(夜は千の眼を持つ)の作詞者でもあるバディ・バーニアが“SONG OF THE TREE”というタイトルで英語詞を書いた。

【ポインシアナ(樹木の歌)】
ポインシアナ その梢は愛を語る 蒼い月が影を落とす
ポインシアナ それは なぜかジャングルの熱気
リズミカルな野性の鼓動を 感じさせる
愛は遍く存在し 神秘の香りが大気に満ちる
揺れる梢に 心も揺れることを知った
ポインシアナ 夜が明けようとも 二人の愛は永久に続く
南国の風よ吹け 木々の唄を歌わせてくれ ささやいてくれ
やがて 我が恋人があらわれるだろう…
拙い訳だが、この曲がエキゾティックな内容であることは分かっていただけるであろう。
今でこそこういう歌詞と幻想的な曲調がマッチした名曲ということになるのだが、異国情緒が過ぎたせいか、発表当時は全く売れなかったのである。
1940年代に入って、デヴィッド・ローズ楽団の演奏が評判となり、ビング・クロスビーが歌ってヒットした。
1950年にはアカデミー作品賞を受賞した映画「イヴの総て」(All About Eve)の中でも使われている。

だが、現在この曲がスタンダード曲とされているのは、何と言っても、1950年代の初めにフォー・フレッシュメンがレパートリーにしたからであろう。
フォー・フレッシュメンにとっても、“DAY BY DAY”などとともに、初期の代表的なレパートリーとなる作品であった。
それだけに、彼らはこの曲をスタジオでもライヴでも何度も録音しているのだが、オリジナル・メンバーであったトップ・テナー、ボブ・ブラニガンの素晴らしいファルセットが聴けるオリジナル録音がやはり最高の出来栄えである。


画像と音質に難はあるものの、1952年の彼らの歌と演奏を見つけたのでこちらでどうぞ。

インストで一番知られているのは、アーマッド・ジャマルであろう。
この曲をいろいろなアレンジで何度も取り上げており、“MR. POINCIANA”と呼んでもよい存在である。
中でも、世評名高いのが、1958年シカゴのパーシング・ラウンジでのライヴ盤“BUT NOT FOR ME”で、ラテン風味の効いた演奏を披露する。
ブラシュ・ワークの達人ヴァ―ネル・フォーニアのドラムスをバックにジャマルのピアノが段々と情熱的になっていく様子が生き生きと捉えられている。


ほかにも推薦盤はいくつもある。
私のレコード、CD棚を引っ掻きまわして出てきたものから何枚か掲載しておきたい。
私の心覚えという意味もアルノデス。

        
「歌う通訳」カテリーナ・ヴァレンテの“THE GREATEST HITS/THE INTIMATE VALENTE”は、ラテン・ミュージックのクロスオーヴァーといった按配で南国情緒溢れるポインシアナである(左)。
巨匠ソニー・ロリンズ、何度目かの失踪後の1972年6年ぶりに表舞台に登場したのが“NEXT ALBUM”というふざけたタイトルのアルバム。
姿をくらましていた間に勉強していたというヨガと東洋哲学の影響か、ポインシアナを吹くソプラノ・サックスが心なしかインドのコブラ使いのように聞こえるのは気のせいか(中)。
キース・ジャレットのスタンダーズ・トリオのパリでのライヴ“WHISPER NOT”(1999)は、ハイハットをスティックでフレキシブルに刻むジャック・ディジョネットに、歌うような自在なベース・プレイを繰り広げるゲイリー・ピーコックというリズム陣に、熱いジャレットのピアノが絡む。
現在のピアノ最強トリオのモダンなビートで奏でられる軽やかで洗練されたポインシアナである(右)。

♪ ♪
日本で花といえば、現在では「桜」と相場が決まっている。
今年はフライング気味だった桜前線も、その後の寒気の影響でだいぶペースが落ちてきたようだ。
北国はこれから桜の開花であるが、だいぶ前に桜祭りが終わってしまったところもある。

ちょっと時季がずれてしまったが、桜の二句…

満開に仏も酔った谷中墓地
公園を酒臭くして花終わる
満開のポインシアナの下での花見というのは想像しにくいが、ひょっとしたらなかなかの風情かもしれない。

#526: スイカズラ

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前稿の“POINCIANA”の流れで花にちなむ歌をもうひとつ紹介したい。

今回の花は「スイカズラ」で、初夏に甘い香りの白い花を咲かせる(冒頭画像)。
名前は「吸い葛」から来ているといい、砂糖がなかった時代、人々はこの花の甘い蜜を吸うことで甘味を得ていたのだそうだ。
要するに砂糖の代用品だったわけである。
英語では“HONEYSUCKLE”というが、これも「蜜を吸う」という意味に由来する名称で、洋の東西を問わず、花の蜜を吸うという行為が知られていたことが分かってなかなか興味深いものがある。

別名は「忍冬」(ニントウ)で、冬場の寒さにも耐える丈夫さからきている。
東アジア一帯に分布し、欧米では観賞用に栽培されており、特にアメリカでは野生化、丈夫なため森林を覆ってしまい、環境問題を引き起こしている例もあるとも聞く。




ということで、花にちなむ歌、その第3弾は「スイカズラ」、すなわち“HONEYSUCKLE ROSE”というのが今回のテーマである。

「ハニーサックル・ローズ(甘いバラ)」
君とでかけると ミツバチはみんな嫉妬する 
それも無理はない 君は甘いバラ
君が通ると 花はみんなしおれてしまう
なぜだか僕は知っている 君はもっと甘いから
砂糖を買うことはない 僕のコップにさわってくれればいい
君がお砂糖なんだ

君の唇にふれたら それは蜂蜜のしずくのよう
神のみぞ知る 君はお菓子だ 甘いバラだ
「ハニーサックル・ローズ」を「スイカズラ」とそのまま訳したら、何だか気分がのらないので、ここではあえて「甘いバラ」とさせていただいたが、なかなか意味深で艶っぽい内容である。
花の歌というよりは、恋人を「スイカズラ」の花にたとえた歌というべきであろうか。

作詞はアンディ・ラザフ、曲を書いたのはファッツ・ウォーラー、1929年の作である。
この作詞・作曲コンビについては、以前、こちらこちらで紹介した。

ウォーラーが、“AIN'T MISBEHAVIN'”(浮気はやめた)を作曲するのに要した時間が、約45分、この曲を書き上げたのが1時間といわれている。
誰が時間を測ったのか知らないが、ウォーラーの仕事の早さを示すエピソードである。

ウォーラーは、曲を未完にしたままで、飲みに出かけてしまった。
ラザフの方は歌詞を書き上げてしまったので、心当たりの飲み屋に電話をしてウォーラーをつかまえ、歌詞を読み上げると、電話の向こうでウォーラーがメロディーを歌って、ラザフがピアノで音を拾って曲を仕上げたという。
かくしてウォーラーはピアノではなく、電話でこの歌を作曲したということになっている。

お酒が大好きだったウォーラーだけに、こうしたエピソードが生まれたのも無理はない。
実際のところは、ラザフの歌詞を受話器で聞きながら、飲み屋のピアノに向かって作曲したともいわれるのだが、ウォーラーの人柄をしのばせる話としては前のエピソードの方が断然面白い。
そうしてできた歌が、多くの歌手がこぞって歌うスタンダード中のスタンダードになるとは、作者すら予想しえなかっただろうが、えてして名曲の誕生というものはそういうものかもしれない。

♪ ♪
いささか古いが、エミー賞の作品賞を受賞した“AIN'T MISBEHAVIN'”(1978)というブロードウェイ・ミュージカルは、ウォーラーの代表作をタイトルにしているように、彼が39歳で世を去るまでに、次々と作り出した歌の数々が主役といってもいいほどであったが、さしずめこの歌などは主役中の主役ともいうべきである。
狂騒の1920年代(ROARING TWENTIES)末期の粋な小唄、ジャズ・ソングというのはこうでなくっちゃというお手本のような曲である。

インスト、ヴォーカルともに種類があって選ぶのに苦労するほど名演、名唱も多い。
インストまではとても手が廻らないので、我がレコード・CD棚からヴォーカルだけを苦労して選び出したのがこの4枚、エラもトニー・ベネットも今回のリストに入れなかったのはスンマセン。。
いずれも甲乙付け難いが、あとは好みの問題であろう。

      
左から順に紹介していく。
“HONEYSUCKLE ROSE”といえば、大姐御アニタ・オデイの得意曲として知られているが、この「THIS IS ANITA」と題されたアルバムでの歌唱が一番有名であろう。
ウォーキング・ベースのみの伴奏で歌い始め、コーラスが進むにつれモダンにフェイクしていく。
セカンド・コーラスからカルテットが加わり、サード・コーラスでさらにトロンボーン4本が加わるという構成が光る。
彼女の絶頂期の1955年の録音だけに、これぞジャズ・ヴォーカルという醍醐味を味わえる。

ルイ・アームストロングがウォーラーの作品や得意曲ばかりを歌った「SATCH PLAYS FATS」(1955)。
サッチモは、ウォーラーが書いたミュージカル「ホット・チョコレート」に主演したことがあった。
期間は短かったものの共演した経験もあり、この曲の持つ楽しさ、明るさの点でピカイチの出来栄えである。
ヴェルマ・ミドルトンとのデュエットで、伴奏はサッチモ・オールスターズ。

ビング・クロスビーとバディ・コール・トリオの共演盤「SOME FINE OLD CHESTNUTS」(1956)。
ピアノとギター、ベース、ドラムスをバックにクロスビーが1コーラスをスウィンギーに歌った後、口笛でさらに1コーラス、アドリブを披露する。
これが鼻唄でも歌っているかのような調子でアステアのような洒落た雰囲気を漂わせる。
さりげなく洗練された大人の味と品が楽しめるが、こんな歌手、日本にはまずいないね。

比較的速いテンポで歌われることが多い曲だが、サラ・ヴォーン「SASSY SWINGS THE TIVOLI」(1963)は、ピアノ・トリオを伴って、スローでじっくりと歌いこむ。
彼女の名唱が目白押しのこのライヴ盤の中でも、最も素晴らしい歌唱であろう。
独特の少し粘っこいジャジーな節回しで、彼女の歌の世界にどっぷりと浸かることが出来る。

♪ ♪ ♪
ジョージ・ガーシュウィンにしろ、ファッツ・ウォーラーにせよ、天才的な音楽家というのはなぜか夭逝する者が多い。
どちらも40歳を目の前にして亡くなっているので、彼らがさらに長生きしてその才能を発揮していたら、音楽の世界がもっと豊かになっていただろう。

体重が130キロもあったという巨体のウォーラーは、こよなくジンを愛し、ピアノの傍らにいつもボトルがないと、仕事にも熱が入らなかったといわれている。
肥満とアルコールは、心臓病の大敵だが、それを自ら実証するように心臓マヒで世を去った。

携帯でやっとつなげる子の絆 (蚤助)
“HONEYSUCKLE ROSE”、「スイカズラ」の花言葉は「愛の絆」だそうである。

#527: 蓮の花

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ケニー・ドーハム(KENNY DORHAM 1924‐1972)というトランペット奏者がいた。
日本では「ドーハム」と呼ぶのが一般的であるが、「ダーラム」というのが実際の発音に近いのだそうだ。
ここでは、通例にならってドーハムと表記する。

彼は、いわゆるジャズ・ジャイアンツといわれるクラスのビッグ・ネームではなかった。
それでいて、不思議と私たちの心に残るプレイヤーであった。
“Durable Dorham”(長持ちするドーハム)という皮肉な讃辞を献上されるほど、チャーリー・パーカーらとともにビ・バップの初期から長い間、安定した水準でラッパを吹き続けてきた。
かつては過小評価されたミュージシャンの一人に数えられていたが、ドーハムという人はやはり一流の人ではなかったのではないかと思う。

彼のプレイの最大の問題は、上手いのだが、プレイスタイルが流麗ではなく、どちらかといえば朴訥としていて、あと一押しのスリルや飛躍に欠けていることで、それがどこか物足りない印象を与えたのは確かである。
偉大なるB級トランぺッターというべきであろうか、一流のプレイヤーは持っている威厳のようなものが感じられなかったのだ。


そんな彼が、死してなおジャズファンの記憶に残るミュージシャンであったのは、ひとえに“QUIET KENNY”(静かなるケニー)という一作によって、彼の存在を最大限にアピールすることができたからに他ならない。
“QUIET KENNY”はドーハムが残した唯一のワン・ホーン・アルバムであった。


彼のラッパは、クリフォード・ブラウンの艶やかさや張りはなく、マイルス・デイヴィスのように澄んでシャープなところもないが、ちょっとくすんだ温かみのある独特の音色で、特に中音域に不思議な魅力があった。
この個性は、ミュートを使用したときに顕著に際立つように感じられる。
“QUIET KENNY”(1959)というアルバムは、そんな彼のプレイを存分に楽しめる作品である。

共演者はトミー・フラナガン(p)、ポール・チェンバース(b)、アート・テイラー(ds)といずれ劣らぬ渋好みのミュージシャンで、脇役に徹した時の巧さには定評がある無類の伴奏者であった。
特に、ピアノのフラナガンは、他のいくつかの作品でもドーハムと共演しているが、ソフトタッチのピアノがドーハムとは実に相性がよい。
この作品では、ドーハムの奏でる柔らかな中音が、あたかもヴォーカルのようなフレージングを紡ぎ出し、特有の憂いを秘めたマイナーなフィーリングを醸しだす様は、この手の音楽に弱い日本人の感性をいたく刺激するのであった。

このアルバムの冒頭を飾ったのが、ドーハム自作の“LOTUS BLOSSOM”(蓮の花)という曲である。
ドーハムの代表作であり、彼の名を有名にしたマイナー曲である。
ドーハムの名演としても知られているだけに、ここでの演奏がオリジナル・ヴァージョンのように思っていたのだが、それ以前にピアノレスのカルテットで録音したアルバムがあるという。
セロニアス・モンクとの共演(“BRILLIANT CORNERS”)で名を知られるようになったアルト奏者アーニー・ヘンリーとの共演盤なのだが、残念なことに私は未聴である。

♪ ♪
「蓮」は古称を「ハチス」といったらしいが、花びらや雄蕊、雌蕊、ガクなどがつく部分、花の土台でもある「花托」(かたく)が蜂の巣にみえることから転訛したものだという。


蓮は7月の誕生花、夏の季語でもある。
東京では上野の不忍池にある群生が有名であろうか。

2000年以前の花が現代に蘇ったことで有名になった「大賀ハス」の例を引きまでもなく、果実の皮が厚くて、発芽能力を長期にわたって保持できる植物としても知られている。
また、花の蕾が大ぶりで、開花のときに「ポン」と音がするというハナシが広く流布したことがあるが、これはウソである。
開花の音が聞いてみたくて、わざわざ確認して残念な思いをした本人が言うのだから間違いはない(笑)。


寡聞にして、この曲に歌詞がつけられてヴォーカル・ヴァージョンとなったというのは聞いたことがないが、しばしば他のアーティストによってレパートリーにされることが多いジャズのスタンダードといってよい名曲である。

今回はピアノ盤は除いて、ホーンによる“LOTUS BLOSSOM”の演奏を二枚紹介しておこう。

  
左はフランスのサックス奏者バルネ・ウィランの初期の名盤“BARNEY”(1959)で、パリのクラブ・サン=ジェルマンにおけるライヴ録音。
当時弱冠22歳のウィランが、作曲者ドーハム自身のトランペットと、デューク・ジョーダンのピアノを加えた米仏混合クインテットで、ハードバップの香り高い濃厚なプレイをする。
映画「死刑台のエレベーター」のサウンドトラックでマイルス・デイヴィスと共演して自信を深めた若武者ウィランは、全く物怖じすることなく若々しい感性を披露している。

右は、フレディ・ハバードとウディ・ショウという二人の大物トランペット奏者がバトルを繰り広げる“DOUBLE TAKE”(1985)というアルバム。
録音当時の気鋭だったミュージシャンを従えて、溌剌としたヴィヴィッドな演奏を聴かせる。

♪ ♪ ♪
私自身はよく知らなかったが、“LOTUS BLOSSOM”という曲は、デューク・エリントンの片腕であったビリー・ストレイホーン(“TAKE THE A TRAIN”の作曲者)に同名異曲があるという。
ストレイホーンの作にしては地味な曲のようだが、ミュージシャンの仲間うちではよく知られていたという。
ドーハムのこの曲が、別のタイトル“ASIATIC RAES”と表記されることがあるのは、ストレイホーンの曲と重複、混同を避けるという意味合いがあるのかもしれない。

“ASIATIC RAES”というタイトルの代表的な演奏としてはソニー・ロリンズを挙げておきたい。

(NEWK'S TIME / SONNY ROLLINS)
これも、“QUIET KENNY”と同じく、ワン・ホーン・アルバムで、共演はウィントン・ケリー(p)、ダグ・ワトキンス(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)というご機嫌なトリオである。
ロリンズは、二度目の雲隠れをする直前の録音(1957)で、彼の持ち味である男性的なトーンは絶頂期にあり、縦横無尽なテナー・プレイは圧倒的な迫力である。
「蓮」の花言葉は「雄弁」だが、ロリンズのこの演奏こそ「雄弁」という言葉がふさわしい。

♪ ♪ ♪ ♪
「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という。
仏教をはじめヒンドゥー教などの宗教においても、「蓮の花」すなわち「蓮華」は、清らかさや聖なるもののシンボルとされている。
「蓮」は東洋では極楽に咲く花なのである。

血の池に蓮を咲かせて楽園化 (蚤助)

#528: すみれの花

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夏の花である前稿の「蓮」と春の「すみれ」と、季節が前後してしまったのは、私の手違いであり、花の方には罪はない。

「すみれ」は、春に深い紫(菫色)の花を咲かせる。
ラッパのような形をしている花は、横向きか斜め下向きにつける。
すみれの花はうつ向いて、少し恥ずかしそうに咲くのである。
そのためかこの花は純情可憐のイメージが強い。
花弁は5枚だが大きさが一様ではなく、下の1枚だけ大きいので花の形がちょうど左右対称になる。
山間部の道端はもちろんのこと、都会のど真ん中のコンクリートのひび割れからも顔を出し、花の印象とは異なってかなり逞しい野草である。

知らなかったが、山菜としても利用されているようで、葉はてんぷら、茹でておひたしや和え物、花は酢の物や吸い物にしたりするそうである。
ただし、同じスミレ科の中には、例えばパンジーやニオイスミレのように、神経麻痺等を引き起こす有毒なものがあるため注意が必要らしい。
特に種子や根茎が危険部位だということで、素人は手を出さぬ方がよいだろう。
したがって、素人の私は食したことはない。

「すみれ」という名は、かの牧野富太郎先生は、花の形が「墨入れ」(墨壺)に似ていることによるというが、この説には異論も多く定説とは言い難いようだ。


「すみれ」といえば、(実際には観たことはないけれど)宝塚歌劇のステージや、(実際には聴いたことはないけれど)女学校の校舎から流れる「♪すみれのハァナ、咲ァくころォ」という女声コーラスである。
これはいずれもオジサンの妄想かもしれない(笑)。

原曲は、1928年にオーストリアのフランツ・デーレの“Wenn Der Weisse Flieder Wieder Bluht”(白いライラックの花が再び咲くとき)で、ドイツ語の歌詞はフリッツ・ロッターが書いた。
ドイツで大ヒットした後、フランスで“Quand Refleuriront Les Lilas Blancas”(白いリラが咲く頃)というシャンソンとなったが、ちょうどこの歌がフランスで流行していたころに、パリに留学していた宝塚歌劇団の白井鉄造(演出家)が、帰国後「すみれの花咲く頃」として、1930年に舞台の主題歌としたのが始まりだという。
リラ(ライラック)も春先に開花し、「春」や「若さ」、「純潔」をイメージするように、白井がこの歌の訳を、日本に広く自生し純情可憐なイメージの「すみれ」としたのは彼の感覚であろうが、なかなか日本人の好みに合っていたのではないかと思う。

ドイツでは1953年、ロミー・シュナイダーのデビュー作としても知られるこの曲を主題歌とした同名映画が製作されて大ヒットし、今でもドイツ国内で繰り返し放映されているというし、日本では宝塚歌劇とともに今なお広く愛されている。
シャンソンの方は、パタシュウだとかイヴェット・ジローの歌で聴いたことがあるが、最近ではあまり歌う人がいないようで、ちょっぴり残念である。

♪ ♪
冬のマンハッタンに 雪が舞っていた
舗道に薄氷が張っていた
だけど恋の魔力は 天気さえも一瞬にして変えてしまった
買ったスミレを君のコートに飾った あの束の間の春を覚えているかい
12月なのにまるで4月のようだった
雪は花に舞い降り そして融けていった
雪はまるで夏の花の露のように見えた
買ったスミレをコートに付けたら 冬空に陽が差した
君のコートにピンで止めたら 道行く人が微笑んだ
君も優しく微笑んだ あの時から気づいたんだ
二人が恋に落ちたことを
スミレをコートに飾った あの日から…
もうひとつの「すみれ」の歌、“Violets For Your Furs”(1941)である。
「コートにすみれを」という邦題で知られているが、原題には“Furs”とあるので、毛皮のコートである。
我々庶民が一般的に着る羊毛や綿のコートとはモノが違うのだ。
いささかお金のかかりそうなセレブの女性と殿方との大人のラヴ・ソングであることが、トム・アデアの書いた歌詞から窺える。

「私を好きになったのはいつから?」と訊かれて、「あの12月からさ」と答える何とも気障な歌である。
12月にすみれの花というのは時季的には少し早く、おそらく高価であったに違いない。
「この成金野郎!」と男を罵りたくもなるが、そこはじっと我慢、舞う雪がすみれの花に融けていくとともに、恋している自分にも正直になっていく。
そういう描写がなかなかいい歌詞で、メロディもとても美しいバラードである。
基本的に男の歌だが、ビリー・ホリデイのように、女性目線で歌った例もあり、その場合には立場が逆になるわけで、“VIOLETS FOR MY FURS”と歌われる。

元々は、マット・デニスが、トミー・ドーシー楽団の専属歌手であったフランク・シナトラのために書いたヒット曲である。
マットは駆け出しのソングライターだったが、ジョー・スタッフォードの紹介でドーシー楽団に入団、座付きソングライターとして、シナトラのために“ANGEL EYES”や“EVERYTHING HAPPENS TO ME”など多くの名曲を手掛けた。
マットは後に独立してピアノの弾き語りの名手として活躍した。

  
左は、作者マット自身の弾き語りが冴えるライヴ盤“PLAYS AND SINGS”(1953)、声量こそないが粋なピアノと歌声はまことに通好みである。
右は、マット盤と同年の録音、シナトラの“SONGS FOR YOUNG LOVERS”(1953)でこれぞ名唱の名にふさわしい。
50年代から10年ほどの間に録音されたシナトラの歌は、どれをとっても充実した素晴らしいもので、ビリー・エクスタインやナット・キング・コールといった名歌手を凌ぐ人気と実力を兼ね備えた全米ナンバーワンの大歌手となった。

  
インストでは、50年代最高のバラード演奏のひとつといってもよいジョン・コルトレーンの初リーダー作“COLTRANE”(1957)が有名である(左)。
アップテンポにおける激しいプレイと対照的に、バラードではほぼストレートにメロディーを吹くという彼の表現法には感服してしまう。
ジャケットの若き彼のポートレイトでは厳しい表情をしているように見える。
彼の目は何を見つめていたのであろうか。
右は、リーダー作が少なくてどれも貴重盤となっているテナー奏者J.R.モントローズの“STRAIGHT AHEAD”(1959)、演奏時間は3分弱と短いが、コルトレーンの名演にも匹敵するほど素晴らしいプレイである。

♪ ♪ ♪
すみれの花言葉は「小さな恋、誠実」である。
これも寡聞にして知らなかったことだが、すみれにも白い花や黄色い花をつけるものがあるとのことで、特に花の白いものは「謙遜、あどけない恋、無邪気な恋」、黄色いものは「牧歌的な喜び、慎ましい喜び」、一般的な菫色のものは「貞節、誠実」だそうである。
いずれにしても、すみれが純情可憐な花だということは古来多くの人が感じたことなのであろう。

花びらに嫌われ涙する乙女 (蚤助)

#529: 「おどる」川柳

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「おどる」は、「踊る」と表記する場合と「躍る」と表記する場合がある。
「跳」や「踏」と同様、「踊」も「躍」も足偏であり、それぞれ足による動作や行為を表していることは容易に推測できる。
だが、あまり明確にその違いを意識したことはなかった。

舞踊の「舞」というのは基本的には上半身の動きと旋回運動を意味し、「踊」の特徴は跳躍運動なのだという。
その理屈で言うと、跳躍運動が多い西洋舞踊はまさに「踊り」というべきで、日本の舞踊はどちらかといえば「舞」の要素が強いというのは何となく納得できる。

「おどる」を調べてみると、?「ワルツを‐」というように「音楽などに合わせて体を動かす」場合や、?「札束に‐政治家」という言い方のように「他者に操られて行動する」という意味で使うのが『踊る』である。
一方、?「銀鱗が‐」など「飛び跳ねる」、?「心が‐」や「血湧き肉‐」など「ワクワクする」、?「悪路に車が‐」など「激しく揺れ動く」、?「手紙の文字が‐」など「書いた字が乱れたり躍動している」という意味の場合には『躍る』を使うのだという。

いずれにしても、「おどりあがる」「こころがおどる」という語感から推察されるように「喜び」や、時には「狂気」など人間の感情の高まりからくる身体的な表現を指す言葉であることは間違いない。



3年ほど前になるが、平成20年11月、NHK文芸選評の課題は「おどる」であった。
私はこの「踊る」と「躍る」の違いをあまり意識しないまま投句したのだが、幸いにも安藤波瑠先生に入選作として抜いていただいた。

ステップを覚え青春やり直し (蚤助)
拙句にはたまたま「おどる」という語が入っていないので、下手にいいかげんな句を作って赤っ恥をかくことは避けることができたのである。

「おどる」というと、映画好きの私としては、アステア=ロジャース、ジーン・ケリーや、「ウエスト・サイド物語」などのミュージカル映画、邦画だと周防正行の「Shall we ダンス?」、古くは吉村公三郎(監督)、新藤兼人(脚本)の「安城家の舞踏会」などという作品を連想してしまうのだが、最近の若い人だとどうだろうか。
今では「クラブ」(平板アクセント)というらしいが、かつてバブルの時代に流行った「ディスコティック」(ディスコ)や原宿の「竹の子族」などの例を出すまでもなく、世代によって「おどる」イメージは随分違うのではないかと思う。

川柳に親しんでいる人はどちらかといえばやはり年配者が多いのであろう。
安藤波瑠先生の選による作品集では「盆踊り」というイメージが優勢のようだが、どうかさまざまに「おどる」姿を楽しんでいただきたい。

♪ ♪
課題「おどる」 安藤波瑠・選

背もシワも伸して踊る麦屋節 (室岡一夫)
夏祭りおどり上手が恋がたき (浅野範子)
雨音も弾むふたりで雨宿り (岡本 恵)
鍋一つ囲み家族の箸おどる (小西章雄)
歌ったり踊ったりして孫育つ (近藤 駿)
笛吹けど踊らぬ少女引きこもり (宍戸智子)
踊り場にためらいひとつ落ちている (八木孝子)
裏舞台諭吉主役で踊らされ (福嶋 裕)
金の鈴猫も杓子も踊り出す (早川一水)
安い米それでも踊るコンバイン (安藤キサ子)
血は涌くが肉が踊りに付いて来ぬ (平井義雄)
踊りにはふれず着物をほめられる (森 錠次)
ワンテンポずらして踊る天の邪鬼 (目方すみ子)
広告が踊れ踊れとけしかける (細井ヤス子)
アメリカの主役チェンジのミュージカル (坂牧のぶ美)
乱高下株価は踊る地球規模 (山内清和)
あれこれと数字がおどる選挙前 (石津弥好)
早よとめて薬缶の蓋が踊ってる (冨田 實)
どうせなら踊る阿呆であの世まで (田村なり子)


汗まみれコンダクターの背は踊る (村上参太郎)
ねんぶつをとなえたくなる踊りぐい (平山和男)
旅先の踊りおぼえてきた手足 (小林としお)
盆踊り櫓の妻のしわが消え (山本二郎)
盆踊り明けていつもの過疎の村 (日月英昭)
おどる子も泣く子も晴着七五三 (坂向邦一)
婆さんの腰も艶めくフラダンス (沢田正司)
コスモスがダンスを見せる休耕地 (山本智子)
鰤網にマンボウ踊る温暖化 (米澤たもつ)
踊り手の指の先までズームイン (堀切多喜子)
妻の手で半世紀ほど踊らされ (加藤ゆみ子)
通販にまた踊らされゴミの山 (富田雅之)
中吊りの見出しに踊る好奇心 (中田克昭)
ロボットが何れ名取りで弟子をとる (奥田 実)
振り込めに老いの優しさ踊らされ (三浦武也)
納豆の次はバナナに踊らされ (武内 敬)
おどりの輪みんなまあるい顔になる (佐藤哲夫)
バイキングあれもこれもと目が踊る (宮本 実)
輪の中に子も孫も居て盆踊り (高杉心作)
編み笠に踊ればみんな美男美女 (中川 光)



#530: 秘めた恋

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女性にガンマンという言い方はおかしいので、女性ガンファイターと呼ぶべきかも知れないが、西部開拓時代に活躍したカラミティ・ジェーンは、本名をマーサ・ジェーン・カナリー(1852 or 1856‐1903)といった(冒頭画像)。
「平原の女王」という異名もあった彼女は自叙伝を書いているが、誇張や作り話が多くて、記述されている内容をそのまま信じることはできないという。
よく言われることだが、西部のホラ話とか、与太話はアメリカン・ジョークの原型のようなものでなかなか愉快なものもあり、彼女の自叙伝なるものもそんな類のものなのかも知れない。

「カラミティ(Calamity)」という言葉は「(地震などの)大災害、(失明などの)災難、(一般に)不幸、苦難」という意味だが、ジェーンにそんなあだ名がつけられたのは、彼女がプロの斥候(スカウト)として活躍していたころ、数々の困難を切り抜けたり、苦難を克服したからだとか、逆に彼女が次々と騒動を起こすので男たちから揶揄されて献上されたものだとか、諸説あるようだ。


その伝説的な西部の女丈夫カラミティ・ジェーンを描いた映画はいくつかあって、古いところでは、セシル・B・デミルの「平原児」(THE PALINSMAN‐1936)で、ジェーンを演じたのはジーン・アーサー、ジェーンと縁の深い北軍の兵士上がりのガンマン、ワイルド・ビル・ヒコックを演じたのはゲーリー・クーパーであった。


「腰抜け」シリーズで一世を風靡したボブ・ホープの「腰抜け二挺拳銃」(THE PALEFACE‐1948)では、ジェーンを「ジェーン」・ラッセルが演じている。
ノーマン・Z・マクロード監督のこの作品では「バッテンボー」で有名な主題歌“Buttons And Bows”(ボタンとリボン)がアカデミー主題歌賞を獲得したことでも知られている。


1953年の映画「カラミティ・ジェーン」(CALAMITY JANE‐デヴィッド・バトラー監督)ではドリス・デイがジェーンを演じた。

   
1924年生まれのドリス・デイは今年で89歳になる。
85歳になって新しいアルバムを出してヒットさせているトニー・ベネットに対抗したわけでもあるまいが、数年前にニュー・アルバムをリリースし、アルバムチャートの史上最高齢でのトップ10入りを果している。

以前ふれたことがあるが、ペギー・リーはビートルズのポール・マッカートニーのアイドルだったが、ドリス・デイも好きだったようで、彼らのラスト・アルバム“LET IT BE”(1970)に収録されたジャム・セッション曲“DIG IT”の歌詞には、FBI、BBC、B.B.キングやマット・バズビー(イングランド・サッカー・プレミア・リーグの名門マンチェスター・ユナイテッド<香川が在籍中>の当時の監督)のほかにドリス・デイという名前も登場する。

♪ ♪
彼女は、明るく気取らない親しみやすいキャラクターで、世界的な人気者になった女性歌手であり、多くの映画にも出演した。
だが「パジャマ・ゲーム」とか「二人でお茶を」などいくつかの例外を除けば、意外なほどこれといったミュージカル作品がない。
ひとつには、彼女が属した映画スタジオが、多くのミュージカル作品で定評があったMGMではなく、どちらかといえばフィルムノワールとか文芸物を得意としていたワーナーだったということもあったかもしれない。
MGMのミュージカルのような美しい色彩感覚や華やかさに欠けるのである。
映画スターとしては、ヒッチコックの「知りすぎていた男」でのシリアスな演技でその才能を開花させ、以後は芸能界を引退する70年代半ばまでコメディエンヌとして活躍した。


「カラミティ・ジェーン」はドリスが自ら手を挙げて出演を希望したのだそうだ。
同じ西部の伝説的な女傑アニー・オークレーを主人公にした傑作ミュージカル「アニーよ銃をとれ」の向こうを張った感じなのだが、アーヴィング・バーリンの不滅の楽曲がふんだんに詰め込まれた「アニー〜」と比べると、こちらは佳曲でも少々地味な印象がぬぐえない。
ただ、相手役のワイルド・ビル・ヒコックを演じた美声のハワード・キールとともに、若々しく元気いっぱいの溌剌としたドリス・デイの演技と歌唱は際立っている。
ドリス自身、この映画へ出演してから、その人気を不動のものとしたのだった。

特に、劇中ドリスが歌った“SECRET LOVE”(秘めたる恋)は、ワイルド・ビル・ヒコックへの恋心を歌ったもので、同年のアカデミー主題歌賞を獲得した。
作詞はポール・フランシス・ウェブスター、作曲はサミー・フェインである。

Once I Had A Secret Love
That Lived Within The Heart Of Me…
心に秘めた恋があった
その恋は自由になりたがって 仕方がなかった
だから 夢見る人がそうするように
親しい星に話したの
貴方がどんなに素敵なのか
なぜ貴方に恋をしてしまったのかってことを

今 一番高い丘の上から叫ぶわ
黄水仙に話したことさえも
ようやく 心の扉は開け放たれて
私の秘めた恋は もう秘密ではなくなるの…
こういう歌は、ジャズだとかポップスだとかと議論するのはまったく無意味であり、ドリス・デイの歌だ、ドリス・デイでなければ話にならない、ということで素直に耳を傾けるべきだと思う。

ドリスの歌は54年にミリオン・セラーとなり、日本でも多くの女性歌手が競って録音した。
同年にはドリスの歌とともにスリム・ホイットマン盤がヒットし、66年にはビリー・スチュワート、75年にはフレディ・フェンダーがリバイバル・ヒットさせていて、スタンダード化している。
ビング・クロスビー、フランク・シナトラ、イーディ・ゴーメ、カーメン・マクレエなども録音していていずれも好唱だが、やはりドリス・デイにはかなわない。

インストでは印象的なものを2枚紹介しておこう。

   
左はハンプトン・ホースの“THE GREEN LEAVES OF SUMMER”(1964)で、モンク・モンゴメリー(b)、スティーヴ・エリントン(ds)を従えたピアノ・トリオの好盤である。
モンクはウエスの兄貴、スティーヴは天才ドラマー、トニー・ウィリアムスの従兄弟といういずれも血筋の良いプレイヤーだが、ホースと比べると小粒で、ほぼ彼の独り舞台といった印象である。
ホースは、黒人ながらも明るく洗練されたブルース・フィーリングの持ち主で、ここでも流れるようなスムーズなタッチで軽快に聴かせる。

右は、日本のモダンジャズには欠かせぬピアニスト本田竹曠(竹彦・竹広)の名盤“THIS IS HONDA”(1972)で、共演は鈴木良雄(b)、渡辺文雄(ds)。
ジャケットのアフロ・ヘアを見ると時代錯誤のアンチャンといった風情だが、ハンプトン・ホースよりずっと黒っぽい感じがするブルース感覚は特筆に値する。
岩手県宮古出身だけに、日本人のソウルはどっこい東北人が持っていると思わせるほどである。
彼は惜しくも2006年に亡くなってしまったが、奥さんがナベサダの実妹のジャズ・シンガー(チコ本田)、本作で共演したドラマーがナベサダの実弟、また彼自身ナベサダのバンドのピアニストだったこともあり、渡辺貞夫ファミリーの一員といってもよい。
あまりにピアノのタッチが強いので、演奏中にピアノのチューニングが狂ってきたり、一晩のライヴで弦を二本も切ったり、ジャズ評論家の故・油井正一さんに「野武士の酒盛り」と評されるなど、そのピアノ・プレイの剛腕についてのエピソードにはこと欠かない。
ここでは、原曲のワルツ・タイムを見事なフォー・ビートのスウィング・ナンバーに仕立て直していてご機嫌である。
また、このアルバムは非常に優秀な録音盤であることでも知られていて、オーディオ・チェックなどには最適なアルバムであることを付言しておく。

♪ ♪ ♪
“SECRET LOVE”では、秘めた恋を「もう隠せない、だから貴方への思いを星に打ち明ける」と歌われるのだが、星と違ってお月様の方はちゃんと知っている。

澄む月に見透かされてる隠し事 (蚤助)

#531: 林檎の花咲く頃

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今年は3月の気温が高く、4月が寒かったためか、首都圏では例年になく早く咲いた桜が、北国では例年より開花が遅れたという。
せっかくの桜祭りも花冷えというよりもかなりの寒さで花見客も難儀をしたという便りもある中、次は「りんごの花」の季節に移っていく。

「りんご」は放っておくと樹高が10メートル以上にも達することがあるバラ科の落葉高木で、晩春に白い5弁の花を咲かせる。
中央アジアが原産地で、暑さに弱いので年中気温が高い地域では無理だが、高地や冷涼な地であれば世界中で見られるそうだ。
アダムとイヴのエピソードを引くまでもなく歴史の古い果実で、トルコの遺跡で紀元前6000年頃の炭化したりんごや、スイスの遺跡から紀元前2000年頃のりんごの化石が発見されているという。
ちなみに、英語の“Adam's Apple”といえば「のどぼとけ」のことで、アダムが食したりんごが喉に詰まってできたということになっている。

「本草綱目」という中国の書物には「林橘(りんきん)の果は甘く多くの禽(きん・鳥のこと)をその林に来らしむ」とあり、「来禽(らいきん)」とも呼ぶという記述があるそうだ。
わが国でも平安時代の「和名類聚抄」に「利宇古宇(りうこう)」と記されていて、これが「りんご」に転訛したのだという。


アメリカのポピュラー音楽界には「○○シスターズ」という名の女声コーラス・グループが数多く存在した。
その草分け的な存在が、1920年代に活躍したボズウェル・シスターズで、その後を追うようにして世に出たのがアンドリュース・シスターズ、さらにはマクガイア・シスターズ、パリス・シスターズ、レノン・シスターズやポインター・シスターズなどが登場してきた。

中でも1930年代から30年以上の長期にわたって活躍し、商業的に最も成功したのはアンドリュース・シスターズであろう。
アンドリュー・シスターズという人もいて、発音通りだとアンドルー(ス)・シスターズと表記すべきかもしれないが、ここではアンドリュース・シスターズと書いておく。

彼女らには“Bei Mir Bist Du Schon”(素敵な貴方)や“Rum And Coca-Cola”(ラムとコカコーラ)など数多くのヒット曲があるが、古いものは“HI-FI”ならぬ“LO-FI”録音なので、そんな音を現代の耳で聴くことに耐え難い苦痛を伴う人もいるであろう。
私などはそんな録音でも、例えばビング・クロスビーとの共演盤など今の耳で聴いてもなかなか楽しいものがある。


アンドリュース・シスターズは3人姉妹で、長女のラヴァーン(左)がコントラルトの低音部担当、次女マキシン(右)がソプラノで高音部担当、三女パティ(中央)がメゾソプラノでリード・ヴォーカルを担当した。
彼女らのコーラスは、各パートがオクターヴの音域の中に収まる一体感のある典型的なクローズド・ハーモニーであった。

“(I'll Be With You)In Apple Blossom Time”という曲は、1920年にネヴィル・フリーソンが作詞し、アルバート・ヴォン・ティルツァーという人が作曲した古いポピュラー・ソングである。
当時の人気歌手だったヘンリー・バーの歌でヒットし、その後もアメリカの“国民歌謡”のように親しまれてきた曲だが、1941年の春、アンドリュース・シスターズによるレコードが大ヒットしたのである。

「林檎の花の咲く頃」という邦題でも知られるが、「りんごの花咲く頃あなたと一緒になろう」という若い二人の結婚への浮き立つ気分を歌ったこの曲は、日本ほどではなかったにせよ、第二次世界大戦へと傾斜していく暗い世相の中で、多くの人々の心をとらえたのだった。

林檎の花咲く頃は あなたと一緒
5月のある日 私は言う
今日 陽の光を浴びる花嫁は幸せだと
きっとすてきなウェディング
二人の最高の日
教会の鐘が鳴れば
あなたは私のものになる 林檎の花咲く頃に…
♪ ♪
アンドリュース・シスターズのクローズド・ハーモニーに対して、一番高いパートがメロディーを担当するオープン・ハーモニーの開祖がフォー・フレッシュメンである。
アンドリュース・シスターズのコーラスで定着したこの曲の持つセンチメンタルな雰囲気は、フォー・フレッシュメンのコーラスによって見事に粉砕され、クールなスウィング・ナンバーになっている。


1962年リリースされた“The Swingers”と“The Stars In Our Eyes”という2枚のアルバムが2000年になって1枚にまとめられた企画CD(現在は廃盤?)ではかなりテンポ・アップし、堂々たるコーラスを披露している。
何度もメンバー・チェンジを重ねながら、現在も活躍しているキャリアの長いヴォーカル・グループだが、最も長期間にわたって在籍したボブ・フラニガン、ビル・カムストック、ロス・バーバー、ケン・アルバースの4人による息の合ったオープン・ハーモニーが堪能できる。
ちなみに、個人的な好みでいえば、この曲が収められた“The Stars In Our Eyes”というアルバムは彼らの中でも1、2を争う好盤だと思う。

もう一枚、バリー・マニロウ盤“Singin' With The Big Band”(1994)を紹介しておこう。


マニロウは、「哀しみのマンディ」、「歌の贈りもの」、「想い出の中に」、「コパカバーナ」、「涙色の微笑み」等のヒット曲で知られるシンガー、ソングライター、ピアニスト、プロデューサーだが、1973年のデビュー以来、精力的に活躍している。
彼が昔から好きで聴いていたという1930〜1940年代のジャズ、しかもビッグ・バンド黄金期のヒット曲で今もなおスタンダードとして広く親しまれている名曲を、ヒットさせたそれぞれのバンドの伴奏で歌っているのが本作である。

共演のビッグ・バンドはレス・ブラウン、ジミー・ドーシー、デューク・エリントン、グレン・ミラー、トミー・ドーシー、ハリー・ジェームスなどで、バンド・リーダーは既に他界しているのだが、楽団としてはそれぞれのビッグ・バンドのスタイルやカラーを保ちながら現在も存続しているのである。

マニロウは、アンドリュース・シスターズのコーラスのフレーズをちょっと引用したりしながら、ロマンティックなヴァージョンに仕上げている。
この手のアルバムは、眉間に皺を寄せて拝聴するのではなく、一日の最後にお酒のお供としてBGM的に聴くのが正しい聴き方かも知れない。

♪ ♪ ♪
アンドリュース・シスターズには他にも“Don't Sit Under The Apple Tree”(邦題・二人の木陰)というりんごのヒット曲がある。
グレン・ミラー楽団がオリジナル・ヒットだが、彼女たちのコーラスも人気があった。
1942年にサム・H・ステップ、リュー・ブラウン、チャーリー・トバイアスが共作したもので、「リンゴの木の下に座らないで、私以外の人と、私が故郷へ戻るまで」と、出征した兵士が故郷に残した恋人のことを思う、いわば戦時色にあふれた内容だが、それにしては実に明るい歌である。
りんごはなんにも言わないけれど……アメリカ版「リンゴの唄」といったところであろうか。

コーラスの舞台衣装はよくそろう (蚤助)

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