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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#634: ただの友だち

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好きになってしまった女性から、ある日突然「良いお友だちでいましょう」などといわれるのはとてもつらいことだ。「世界中に広げよう、友だちの輪!」でもあるまいし、これは「友だち」という言葉を最も悪用したケースではなかろうか(笑)。友だちとか友情とか、言葉そのものは美しく親しみやすいのだが、「良いお友だち」ということは、表向き「あなたと私の関係はこれからもずっと続くのよ」と言っておきながら、言外に(腹の底では)「あなたを愛するなんてできないわ」と宣言しているのも同然なのだ。

内気な男がいる。彼には秘かに思い続けている人がいる。ある日、彼が喜色満面で「彼女とお友だちになれた」と報告する。彼にしてみれば、片想いだったはずが彼女から「お友だち」と認められ、いずれはそれが発展して…という期待があったに違いない。実は、彼女には他に付き合っている男がいるのだ。ここは沈黙を守るしかない。何年か経って、その彼から結婚の案内状が届く。彼の名前の横には、その時の「お友だち」の女性の名前が並んでいる。まあ、時にはこんなことがあるかもしれない…。

しかし、“Just Friends”(ただの友だち)という古い歌は、残念ながらハッピー・エンドではない。

JUST FRIENDS
(Words by Sam M. Lewis / Music by John Klenner)

Just friends, lovers no more
Just friends, but not like before
To think of what we've been and not to kiss again
Seems like pretending it isn't the ending...

ただの友だち もう恋人同士じゃない
ただの友だち でも以前のようじゃない
過ぎた日々のことをあれこれ考える もう二度と口づけなどしない
まだ終わっていないフリをしている

二人は友だち やがて離れ離れ
二人は友だち でも心が砕け散る(One broken heart)
愛し合い 笑い そして泣いた
その恋が死に絶え 物語は終わる
そして 二人はただの友だちになる...
恋は突然終わったのである。恋人同士だったものが、ただののみすけ…じゃなくて、ただの友だち…になったのだから何とも悲しい状況なのだ。「これからはお友だちでいましょうね」とよくありそうな文句をそのままタイトルにしたスタンダード曲である。

それぞれ別々に曲を作っていたサム・M・ルイスとジョン・クレンナーが1931年に初めて共同で書いた作品。歌詞とは裏腹に、ルイスとクレンナーという二人のソングライターが仲良くなるきっかけとなった曲というわけだ(笑)。“broken heart”は「傷心」だが、ここではもっと痛々しいイメージだ。ひとつに溶け合っていたはずの心が切り裂かれてしまうのだから「傷心」くらいのレベルではなく、心がズタズタになっているに違いない。


チャーリー・パーカーが念願のストリングスを伴奏に録音したものが実に美しい。この曲の定番ともいうべき演奏で、多くのミュージシャンが好んでとりあげるきっかけとなった。

沢山のヴァージョンがあるが、ヴォーカルでは何といってもフランク・シナトラだ。この語り口の巧さはどうだろう。参ってしまうね。

女性歌手では若き日のサラ・ヴォーンの歌に惹かれる。90年にサラが来日したときのライヴでは、この曲を歌う前に「私の名前はエラ・フィッツジェラルドです」と言って会場を沸かしていた(YouTubeにはその場面がアップされている)。

もう一つ、個性的なヴォーカルを聴かせるのがチェット・ベイカー。おそらく満足に食事をしていないのだろう、腹に力が入っていない(笑)。ピアノはラス・フリーマンで、この二人は古くからの友人同士だった。


そしてジョン・コルトレーン。このアルバムは以前もこちらでとり上げたが、元々ピアノのセシル・テイラーがリーダーのセッションだった。サイドを務めたコルトレーンの名前が売れだしたので、いつの間にかコルトレーン名義にされた。この演奏はトランペットのケニー・ドーハムが前面に出ているのにもかかわらずコルトレーン名義。ミスター・コルトレーン、これじゃあ「ただの友だち」どころか友だちをみんな無くしてしまうぜ。決して彼のせいではないのだけれど…(笑)。

友だちに戻りましたとさり気ない (蚤助)

#635: アオイルカ通りで

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ジャズを歌うという触れ込みの日本の女性歌手が、「映画“恋のドルフィン街”の主題曲を歌います」と言って、“On Green Dolphin Street”を歌い始めたという話を耳にしたことがある。どうでもいいことだが、これが映画ファンとしては結構気になる話なのだ。“恋のドルフィン街”という邦題の映画はないのである!。

“On Green Dolphin Street”は確かに映画の主題曲ではあるが、映画の邦題は『大地は怒る』というのだ。原題が“Green Dolphin Street”なので、“恋のドルフィン街”と訳されてもおかしくはなさそうな気もする。直訳すると“アオイルカ通り”だろうか。まあ“ミドリイルカ通り”でもいいのだが…。「イルカ」は漢字だと「海豚」、「青い(緑の)海豚通り」。どうもあまりロマンティックなイメージじゃない(笑)。なお、映画の原題にはない“On”という前置詞が、曲の題名の方にはついている。

映画は未見だが、ヴィクター・サヴィルという監督の47年の作品で、ラナ・ターナー、ドナ・リード、ヴァン・ヘフリンなどが出ていたらしい。MGM映画が一般公募した懸賞小説を映画化したという。タイトルの“グリーン・ドルフィン・ストリート”というのは、小さな港町の名で、そこに住む旧家の姉妹(これがターナーとリードか)と元海兵隊の男(ヘフリンか)を巡るメロドラマだそうだ。しかし、本筋のドラマよりも話題を集めたのは、当時のカネで4百万ドルの製作費をかけたクライマックスの大地震、洪水の特撮シーンの生々しさの方だったという。同年のアカデミー特殊効果賞を授与されている。

この映画の音楽を担当したのがベテランのブロニスラウ・ケイパー、主題曲の歌詞はネッド・ワシントンが後からつけたものだという。

ON GREEN DOLPHIN STREET
(Words by Ned Washington/Music by Bronislau Kaper)

<Verse>
It seems like a dream, yet I know it happened
A man, a maid, a kiss, and then goodbye...

夢のようだったけど 本当に起こったこと
男、女、口づけ、そして別れ
芝居のテーマはロマンス 二人は役者
そのことを思うとため息なしにはいられない

<Chorus>
Lover, one lovely day, love came planning to stay
Green Dolphin Street supplied the setting...

恋人 素敵な日 恋が訪れとどまろうとした
舞台はグリーン・ドルフィン・ストリート
忘れ得ぬ夜のための舞台装置
時は過ぎ去っても 思い出は心に生き続ける
あの恋を思い出すたび 
グリーン・ドルフィン・ストリートの地に口づけをしたくなる...
あまり派手ではないがロマンティックなメロディが魅力的である。だが、歌詞に出てくる地名(グリーン・ドルフィン・ストリート)が限定されていることもあって、あまりヴォーカル向きの作品だとは思えない。歌詞を見ても映画のストーリーとは直接の関係はなさそうだ。正直を言ってしまえばどうってことはない歌曲だ。それでも冒頭の女性歌手のような人もおり、実は現在のジャズ・シーンには欠かせない一曲になっている。

というのは、58年にマイルス・デイヴィスが誰も取り上げようとしなかったこの曲を「ほら、こうやればすごくいい曲だろう」とすばらしいモダン・ジャズにしてしまったためだ。このマイルスのバラード・プレイが世に出てからというもの、多くのジャズメンやジャズ・シンガーが好むようになって、スタンダードの地位の一角を占めることになったのである。


(1958 Miles/Miles Davis)
マイルスの演奏は名作“Kind Of Blue”の吹き込み後間もないセッションである。キャノンボール・アダレイ(as)、ジョン・コルトレーン(ts)、ビル・エヴァンス(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)から成るマイルス・デイヴィス六重奏団で、マイルスはミュートを効果的に使った荘厳な雰囲気すら感じさせる名演を繰り広げる。彼はこの後も時代の経過やメンバーの異動に伴って、しばしばこの曲をステージで演奏している。なお、このアルバム・ジャケットは池田満寿夫の手によるもので、これもなかなかステキだ。

このアルバムに参加しているビル・エヴァンス、ポール・チェンバースが、ドラムスのフィリー・ジョー・ジョーンズとのピアノ・トリオで挑んだのがこちら


(Green Dolphin Street/Bill Evans)
59年の録音でボスのマイルスの元を離れて何とか自分たちのレパートリーにしようと汗をかいている様子が垣間見える。おそらくエヴァンスはこの演奏に満足しなかったのであろう、このアルバムは15年間も封印されたままリリースされなかった。

もう一つ、マイルスのアルバムに参加していたチェンバースとジミー・コブを従え、やはりマイルス・グループにいたウィントン・ケリーのピアノ・トリオ(こちら)。エヴァンス・トリオと同年の録音だ。


(Kelly Blue/Wynton Kelly)
ケリー・トリオはエヴァンスよりも軽めの演奏だが、実によくスウィングするのが身上で、聴いていて楽しくなる。

ピアノでは、オスカー・ピーターソンも何度も吹き込んでいるが、シカゴのロンドン・ハウスでのライヴ演奏がとても印象的だ(こちら)。


(The Sound Of The Trio/Oscar Peterson)
60年録音の実に華麗な演奏で、レイ・ブラウンのベース、エド・シグペンのドラムスから成る“ザ・トリオ”の魅力が満開である。また、ピーターソンにはミルト・ジャクソン(vib)とのアルバム“Very Tall”(62年)における出色の演奏もある(こちら)。

この曲は、転調を繰り返しながら下降進行していくというユニークな構成となっている。そのためか、器楽演奏家たちにとっては魅力的に思えるのだろう、インストにいい録音が多いのだ。特にピアノ・トリオには名演も多く、たとえば以前取り上げたウォルター・ビショップJr.の剛腕とジミー・ギャリソンのゴリゴリとしたベースが凄まじい(こちら)。また、デューク・ピアソン・トリオの演奏(こちら)は、ビショップが剛だとすれば、こちらは柔の技であろうか。ジーン・テイラーのベース、レックス・ハンフリーズのドラムスとともにピアソンのピアノはまさしく“Tender Feelin's”(59年)だ。

ヴォーカルも男女とも様々な歌手の録音があり迷うところだ。インストの紹介が長くなってしまったので、一枚だけ挙げるとしたらこれだろうか。


(The Swingin's Mutual/Nancy Wilson & George Shearing)
60年代初めの録音で、デビューしたばかりのナンシー・ウィルソンの姿を捉えた作品である。大御所ジョージ・シアリングとの共演で、シアリング五重奏団のインスト曲とナンシーのヴォーカル曲を交互に披露するという趣向。ナンシーは後年になるほど独特の癖のある歌い方をするようになって蚤助は苦手なシンガーなのだが、このアルバムでは、ミディアム・テンポでスウィンギー、若さではちきれんばかりの歌唱でこれは快唱だと素直に認めざるを得ない。

都会にも慣れて訛りも自己も消え (蚤助)

#636: 通信簿と恋のワンダフル・ワールド

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梅雨も明けていよいよ夏休みである。しかし、学期末になると学業成績や出欠状況などを学校から家庭に知らせる通信簿。当時は嫌な存在だったが、今となっては何だか懐かしいと思えるから不思議だ(笑)。


通信簿の連想から脳裏に浮かぶ曲がある。サム・クックが歌った“Wonderful World”だ。学科のことはよく分からないけど、君のことが好きだってことは分かってる…だってさ。


(Sam Cooke)
WONDERFUL WORLD
(Words & Music by Barbara Campbell)

Don't know much about history
Don't know much about biology
Don't know much about a science book
Don't know much about the French I took
But I do know that I love you
And I know that if you love me too,
What a wonderful world this would be...

歴史なんかよく知らない
生物なんかよく知らない
科学の本なんかよく知らない
専攻のフランス語なんかよく知らない
でも君が好きだってことは知ってるさ
君も僕が好きならば どんな素敵な世界になるだろう...
「歴史、生物、フランス語、地理、三角法(trigonometry)、代数(algebra)、計算尺(slide rule)など、とにかく勉強はわからないけど、君が好きなことは分かっている。そして、もし君も僕を好きになってくれたら、世界は何て素晴らしくなるかってこともよく分かっているんだ」と、けなげな少年の心情をサム・クックが独特のやや枯れた声で歌う(こちら)。

サム・クックは、ゴスペル歌手からR&B歌手に転向して数々のヒット曲を出した。作詞作曲、音楽出版、レコード会社経営と幅広く活躍し、ブラックミュージックの隆盛に貢献した一人である。また、公民権運動にも強い関心を持っていたアーティストでもあった。


“Wonderful World”は、1960年のヒットだが、このヒット曲を書いたバーバラ・キャンベルというのは架空の人物で、“Only Sixteen”などサムとルー・アドラーとハーブ・アルパートが共作したときだけ使用されたペンネームだった。サムがRCAレコードに移籍する直前のことで、これがバーバラ名義で書かれた最後の作品となった。チーム解消後、アドラーはダンヒル・レコードを設立、アルパートもA&Mを設立しやがてティファナ・ブラスを率いて自らも人気アーティストとなるのである。

サムは58年に音楽出版社を設立していた。これまで何度も書いたことだが、当時黒人のアーティストは、曲を作りそれがヒットしても満足な対価を得られず、白人社会に「搾取」されるのが常識だった。そんな世界に、自らの著作権を管理しようとしたのは画期的なことであった。

この歌の内容は、学生の恋の歌だが、歌詞の内容をよく見ると決して劣等生の歌ではないことがわかる。それはサムが黒人でしかも公民権運動に積極的に関わっていたことと無縁ではない。「歴史なんかよく知らない」というのは、当時のアメリカ社会の公民権運動の波の中で考えると、別の意味をもっているかもしれない。優秀な有色人種は白人優位のアメリカ社会では忌避される風土があった。白人にとっては言葉通りのラヴソングでも、当時の有色人種の人々にとっては、別の意味を持つ背景があったのだ。

この作品にはこういう歌詞がでてくる。

I don't know claim to be an“A”student
But I'm tryin' to be
For maybe by being an“A”student, baby
I can win your love for me

優等生にしてほしいとは言わない
でもそうなろうと頑張っているんだ
優等生になれたら 君の愛を勝ち取れるんじゃないかなって
この部分に彼の人種の違いを超えた相互理解へのメッセージが込められているような気がする。いささか深読みかもしれないが、この“you”というのは白人に向けられたのではないかと思う。つまり、恋する相手は白人の女の子なのではないか。加えて「“我々だって”歴史、生物、科学、フランス語、地理、三角法、代数も学ばなければ素敵な世界にならない」というメッセージも込められているのではなかろうか。若い恋は、相手に自分を必要以上に良く見せようとするものだ。その気持ちは素直に伝わってくるし、シンプルな中にも深い意味が込められている歌詞だ。サム・クックというアーティストの才気がよく現れていると思う。ストレートなラヴソングだが、決して単なるアホ学生の歌でないのはお分かりか(笑)。

♪ ♪

話が一気に飛ぶが、85年に公開された『刑事ジョン・ブック/目撃者』(Witness−ピーター・ウィアー監督)は、凶悪事件ばかり追いかけている都会の刑事が、刑事殺しの目撃者となったアーミッシュの少年とその母親を守ろうとして格闘するサスペンス映画である。刑事は捜査の過程で、アーミッシュと呼ばれるアメリカの社会の中でいまだに産業革命以前の生活をしている特殊な共同体を知り彼らとの交流を始める。そうした姿を描いたヒューマンドラマでもあった。キリスト教の非主流派として前近代的な生活を営むアーミッシュの人々の生活や文化を広く紹介した作品として知られる。蚤助もこの映画で初めてアーミッシュの存在を知った。


近年は爺さまの役柄が多いハリソン・フォードのまだまだ若々しい姿が拝めるし、ストイックで静謐な母親の役柄のケリー・マクギリスの好演などなかなか秀れた作品であったが、実はこの映画の美しいラヴ・シーンの場面にこの“Wonderful World”が流れるのだ。

アーミッシュの村に住むことになった刑事ジョン・ブック(フォード)がある夜、自分が乗ってきた自動車の修理をしている。そこにマクギリスがお茶か何かを持ってくる。お互いにぎこちない。そのとき、カーラジオから聞こえてくるのが、“I know that if you love me too, what a wonderful world this would be”というサム・クックの歌声。二人の間にあった心の壁をやさしく崩していく。自分の素直な気持ちを相手に伝えることをためらっていた二人が、カーラジオから流れてくるラヴ・ソングに誘われて心を開き、いつの間にか踊り出す。身体と身体を微妙に寄せ合う。唇が触れ合いそうになるのだが、キスまで至らない。実に絶妙のラヴ・シーンであった。

“Wonderful World”がリリースされた60年代の初め、オーストラリアで高校生活を送ったピーター・ウィアー監督は、きっとこの歌が好きだったことは間違いない。

サムの衝撃的な死の翌年(65年)にハーマンズ・ハーミッツオーティス・レディング、78年にポール・サイモン&アート・ガーファンクル&ジェームズ・テイラーという三人によるコーラス・ヴァージョンがリバイバル・ヒットしている。各々の個性を発揮したカヴァーばかりだが、とりわけオーティス版は聴きものである。

♪ ♪ ♪
ということで、善男善女のみなさま、学期末にはこういうご経験はなかったかな。

通信簿帰りづらくて遠回り  蚤助

#637: ノルウエーの…

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連日、暑い日が続くので、少し涼しげなトップ画像を用意してみた。


村上春樹のベストセラー小説『ノルウェイの森』は、発売当時、蚤助も読んだ記憶があるのだが、あまり記憶には残ってはいない。
ベトナム出身のトラン・アン・ユンの手で映画化(2010)もされたが、こちらも未見である。
小説の方にはレノン=マッカートニーによるビートルズ・ナンバー“Norwegian Wood”が出てきたが、映画化が原作に忠実だったとしたら、映画の方にも当然登場しているはずだ。

65年の年末にリリースされたアルバム“RUBBER SOUL”A面の2曲目に収録されていた曲である。
ポピュラーミュージックのレコードにインドの民族楽器であるシタールが初めて使われた楽曲だと言われている。
シタールを演奏したのはジョージ・ハリスン。
リード・ヴォーカルはジョン・レノン。
まずは曲を聴いていただこう(こちら)。


LP“RUBBER SOUL”に封入されていた歌詞カードには歌詞と邦訳が載っていた。

NORWEGIAN WOOD (This Bird Has Flown)
(Words & Music by John Lennon & Paul McCartney)

I once had a girl or should I say she once had me
She showed me her room, isn't it good Norwegian Wood

She asked me to stay and she told me to sit anywhere
So I looked around and I noticed there wasn't a chair...

あの娘は俺のもんだった いやそれとも俺はあの娘のもんだった
部屋に案内してくれてさ ノルウェー・スタイル愛の巣さ

ゆっくりなさって 何処なと坐って
云われて見たけど 椅子なんかありゃしないさ

床に坐って時間をつぶしたのさ あの娘の酒を飲みながら
午前二時迄話したら おねンねの時間ときたもんさ

朝の仕事があるのよと あの娘は笑って云ったっけ
俺は休みだって云って 寝床へ這い戻ったのさ

目があいてみりゃ一人ぼっち あの娘は消えてしまってた
煙草をふかして俺一人 ノルウェー・スタイル愛の朝
内容としてはこの通りなのだろう。
だが、この歌詞カードの訳詞者である高橋淳一氏、“Norwegian Wood”を「ノルウェー・スタイル愛の巣」だとか「ノルウェー・スタイル愛の朝」とか(とても文学的に)意訳をしているようだし、さらには肝心な部分を省略していたりする。

さらに、この歌について、以前から不思議に思っていたことがある。
蚤助の持っているLPは70年代になってから再発売されたものだが、邦題は『ノーウェジアン・ウッド』と原題をカタカナにしただけで、巷間知られている『ノルウェーの森』という邦題ではない。

♪ ♪
歌詞を読んでも“Norwegian Wood”というのが何を意味するのかはっきりと書かれていないので、いろいろと詮索する人が出てくるわけだ。
で、蚤助流に訳してみたのがこれ…。

以前ボクには彼女がいた それともボクが彼女のものだったというべきか
彼女はボクに部屋を見せた “Norwegian Wood”イカスでしょ、だって

泊まっていきなさいよと彼女 どこでも好きなところに座って、だって
部屋を見回したけど 椅子なんてなかった

ボクは敷物の上に座って ワインを飲みながら時間をつぶした
二人で2時までおしゃべりをしていたら もう眠る時間だって彼女

彼女は朝から仕事なのと言って 笑い出したのさ
ボクは仕事は入ってないと言って 風呂場まで這って行って寝た

朝になって目が覚めたら ボクは一人だった
あの小鳥は飛び去ってしまった

そこでボクは火を点けたんだ
“Norwegian Wood”ってイカスだろ?
高橋訳の「煙草をふかして」、拙訳の「火を点けた」の原詞は“I lit a fire”で、「煙草に火をつけた」という解釈と「(暖炉に)火を点けた」という解釈が成り立つ。

この歌について、ジョンは「当時の妻に内緒で浮気を書いたもの」と説明しているようだが、“I lit a fire”の部分の歌詞を書いたというポールは、インタビューで、風呂で寝るはめになってしまった仕返しのために、その場所を燃やしてしまうことにした、と解説している。
してみると「煙草説」どころか「暖炉説」もかなり怪しくなり、「放火説」をとった方がよいのかもしれない。にわかに曲のイメージが変わってしまう。

♪ ♪ ♪
“RUBBER SOUL”のジャケットは緑濃い木々の前に並んだ4人の写真なので、このジャケットを眺めながら曲を聴くと“Norwegian Wood”が『ノルウェーの森』と訳されたのも無理はないという気になる。
しかし、当時ビートルズを担当をしていた東芝音楽工業のディレクターが邦題をつけるにあたり「意味をとり違えた」というコメントを残している。

これはどういうことであろうか。

“wood”は単数では「木、木材、薪」を表し、「森」という場合には“woods”と複数形にする必要がある。
あえて単数形を用いる場合には定冠詞“the”をつけて“The Wood”としなければならないのだそうだ。

ポールの証言では、「ピーター・アッシャーは部屋の内装を木造にしていた。多くの人が木材で部屋を飾り付けていたんだ。ノルウェー産の木材、安物の松材さ。でも“安物の松材”じゃタイトルにならないだろ?」ということで、「ノルウェーの木材」という意味だ、というのが定説になっているようだ。

つまり、彼女の部屋はノルウェー産の木材で内装されたウッド調だったのだ。
イギリスでは、そうした木材はしばしば労働者階級の人が住むアパートの内装に使われる安価な木材を指すともいわれている。
さらに言えば、そうした部屋の住人である彼女はあまり裕福ではない娘であることを示唆していて、事実、部屋には椅子もないと歌われている。

ジョンへのインタビュー等の後日談や村上春樹が紹介している説によると、この曲のタイトルは実はかなり下品なものだったという。
すなわち、“Norwegian Wood”は“(I was) knowing she would”のダジャレで「(ボクは)彼女がそのつもり(よりはっきり言えば「ヤらせてくれる」)と知っていた」の語呂合わせだったというのだ。
そのためレコード会社にタイトルを変更させられたという。
もしそうなら、若者の愛の喪失感を描いたというハルキ氏の作品にインスピレーションを与えたビートルズ・ナンバーは、「北欧のべニア素材(!)でできた安物のベッド」を歌ったものという感じになってしまう。

もっとも、当時はLSDやらマリファナやらドラッグがビートルズ周辺にも蔓延していて、それが作品に影響を与えていたのは確かだろうし、そういう状況下で生み出されたものに、本来の歌詞の意味がどうだこうだと議論してもあまり実のあることではなさそうだ。


う〜、さぶっ!、何だか一気に温度が下がってしまった気がする…。ということで、バディ・リッチ・ビッグ・バンドのホットな変拍子ヴァージョンでしめよう(こちら)。

大人への踊り場鼻ピアスはずす (蚤助)

#638: 愛する人が行ってしまったら

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1930年代という古い時代に活躍したアイナー・アーロン・スワンは、サックス兼トランペット奏者で、ソングライターでもあった。
若死にしたせいか、彼の作品として知られているのはそんなに多くはないが、“When Your Lover Has Gone”はブルー・ラヴ・バラードの傑作のひとつとして今日まで歌い継がれている。

31年のワーナー映画“ブロンド・クレイジー”(邦題「腕の男」)の主題歌として書かれたものだそうだ。
ジェームズ・キャグニーとジョアン・ブロンデルが主演したコメディで、この二人がコンビを組んで大物のボスに対して詐欺をはたらく騒動を描いたものだったという。
そんな映画の内容とは違ってスワンが作詞・作曲したこの主題歌は、悲痛な失恋の歌で、ブロークン・ハートのナンバーとして最右翼に位置する名曲といってよいかもしれない。

曲が世に出た31年に、ジーン・オースティン、サッチモ、ベニー・グッドマン、ユービー・ブレイク、エセル・ウォーターズらが次々とレコーディングして人気曲となったという。
スイング時代からジャズの素材として人気のあった曲である。

WHEN YOUR LOVER HAS GONE
(Words & Music by Einar Aaron Swan/1931)

What good is the scheming, the planning and dreaming
That comes with each new love affair
The love that you cherish, so often might perish
And leave you with castles in air

計画をたてること、構想を練ること、夢見ること、
それは何と楽しいことだろう
それは 新しい愛の出来事とともにやって来る
慈しみ育てる愛は しばしば枯死してしまうことがある
そしてただ空想の世界に あなたを置きざりにしてしまう

When you're alone, who cares for starlit skies
When you're alone, the magic moonlight dies
At break dawn, there is no sunrise
When your lover has gone...

孤独な時には 誰が星明りの空を気にするだろうか
孤独な時には 美しい月光は消えてしまう
夜が明けても 太陽は昇ってこない
愛する人が行ってしまったら

何と寂しい時間だろう 夕暮れの影がよみがえる
何と寂しい時間だろう 名残り惜しげな思い出とともに
枯れてしまった花のように 人生に意味があろうはずもない
愛する人が行ってしまったら...
原詞は韻を踏んだなかなか格調の高いものだが、蚤助の能力ではうまく訳出できなかった。
ただ、たとえ恋をしたとしても、結局は辛さが残るだけだと、多少皮肉っぽく囁きかけている内容であるらしいことはご理解いただけるだろう。

タイトルからも察せられるように、この歌、非常に珍しいケースだと思うが、恋人を失った本人ではなく、第三者が失恋した人の気持ちを語っていて、他の多くの失恋ソングとは一線を画している。
ただ、蚤助としては、一言、余計なお世話だと言っておきたい(笑)。

やはり、何といってもシナトラのしみじみとした語り口がいい。
彼は何度か録音しているが、これは55年のもので編曲と指揮をしているのがご存じネルソン・リドル。


シナトラのこの録音のちょうど30年後(85年)にそのリドルが、ロック娘だったリンダ・ロンシュタットのためにアレンジと指揮をして、大評判をとったのがこの録音。リドルとのコラボレーションを得て、彼女はリンダ嬢からリンダ姐と大人の歌手に脱皮していった。


この歌はサラ・ヴォーンの得意曲であり、知る限り3回録音している。
しかも、いずれも他の歌手ともちょっと違うアプローチをしているのだ。

まず61年の録音は、ピアノ伴奏のみのバラードスタイルで始め、やがてラテン・リズムと4ビートを巧みに織り交ぜてスイング・ナンバーに仕上げている。


81年の録音は、久しぶりのベイシー楽団との共演。
ドラムスの小粋なブラッシュとピアノの伴奏で1コーラス聴かせたかと思うと、スキャットに移ってリスナーを驚かせ、後半はベイシー楽団の生気あふれた伴奏を得てぐいぐいと迫る。


そしてサラの歌で一番のお気に入りは、78年のオスカー・ピーターソン・ビッグ4との共演盤だ。


この曲は、ルイ・ベルソンのドラムスとのデュエットだが、素晴らしいドラミングの刻むリズムに乗った大胆なスキャットを披露し実にスリリングな歌唱である。


いずれにしても、原曲に関係なくあくまでも自らのパフォーマンスの素材として自分の解釈を展開させるあたり、サラ・ヴォーンという歌手の凄味を感じさせる。

恋人が去ってしまったら、たいていの人は傷つき悲しむだろうということで、こういう失恋ソングが生まれるわけだが、中にはこんな猛者がいるかもしれない。

アハハハハふられましたとあっけらかん(蚤助)  

#639: 恋の気持ちで

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台風一過で、また戻ってきた猛暑。頭がぼーっとしている。
蚤助がぼーっとしているのは暑さのせいばかりではなくいつものことではないかとの声が聞こえてきそうだ。

もうずっと昔のことなのですっかり忘れてしまっていたが、「恋をする」とぼーっとしていたような気がする。何だかいつもの自分と違ってくるので、おや変だぞと気づくのだ。確か、恋をするとぼーっと星を眺めたり、ぼーっと歩いていて物にぶつかってしまったりするんだよね。


恋のことをよくご存じと思しきジョニー・バークとジミー・ヴァン・ヒューゼンのソングライター・コンビが恋する気持ちをそう教えてくれたっけ。

LIKE SOMEONE IN LOVE
(Words by Johnny Burke, Music by Jimmy Van Heusen/1944)

Lately I find myself out gazing at stars
Hearing guitars like someone in love
Sometimes the things I do astound me
Mostly whenever you're around me

Lately I seem to walk as though I had wings
Bump into things like someone in love
Each time I look at you I'm limp as a glove
And feeling like someone in love

近頃 ふと気が付くと星空を見ている
ギターを耳にしながら まるで恋をしている人みたいに
時として自分のすることに驚くこともある
そんな時にはたいていあなたがそばにいる

近頃 羽根が生えたような気がする
歩くと物にぶつかってしまう まるで恋をしたみたいに
あなたを見るたびに 手袋のようにぐにゃぐにゃになる
まるで恋をしているような気分になる

“I find myself 〜ing”は直訳では「〜している自分を見つける」なので「気が付いたら(無意識で)〜している」、“out”がついているので「屋外で」ということ。
“gaze at”は「〜をじっと見つめる」、“hear”だから「ギターの音色がどこからともなく聞こえてくる」ってことだろう。
“someone in love”は「恋をしている誰か」、“someone to love”なら「愛する誰か」で“someone”は愛の対象になってしまう。
“stars”と“guitars”、“astound”と“around”が韻を踏んでいる。

“seem to walk”は「歩いているように見える」、“as though”は「まるで」なので、「まるで羽根があるみたいな歩き方に見える」、要はふらふらと地に足がついていないという感覚だろう。
“bump”はズバリ「バン!」とぶつかった音だ。
“thing”はとても便利な言葉で、言い方がよく分からないものは“thing”で済ませられる。
“I must go back home to...do a thing”(ちょっと家に戻らなきゃ…用事があって)、“What's thing?”と訊かれたら、“It's nothing”とかなんとか適当にごまかせる(笑)。“wings”と“things”が韻。

さすがにジョニー・バークさんだね、“love”と韻を踏める単語として“glove”を持ち出してきた。「グローブ」ではなく「グラブ」だ。恋する脱力感をこの“glove”という一語に喩えていて実にお見事。
“limp”は足が悪い人の覚束ない足取りのことで、それを手袋みたいと関連づけているのも面白いアイデアだ。
“each time”は“every time”とは少し違ったニュアンスで、“every”よりも「ひとつひとつ」、「一回一回」に注意が払われている感じだろう。

ヴァン・ヒューゼンのメロディは非常にシンプルだが、優しくて、ほんわかしていて、歌詞の内容にピッタリだ。恋の始まりのふわふわした浮揚感のような気分がよく現れている。

44年の映画『ユーコンの女王』(Belle Of The Yukon)の挿入歌として書かれ、劇中ダイナ・ショアが歌ってヒットした。メロディ、歌詞ともに素晴らしい作品で、多くのアーティストによって取り上げられているが、面白いことに、この歌を特に得意のレパートリーにしているのがエラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーンの大御所二人。それも対照的な歌い方に、ご両人の個性が出ている点でも聴き比べてほしいところだ。

本来美しいバラードとして書かれたものだけに、エラはアルバムタイトルにするほどのほれ込みようで、しっとりとしたロマンチックな歌い上げは魅力たっぷりだ。


伴奏はフランク・デヴォール編曲指揮のオーケストラで57年の録音。艶のある若々しい歌声にしびれてしまうのデス。当時、エラさん37歳の女盛りで当然といえば当然か…。

サラの場合は、蚤助の知る限り三枚のアルバムで歌っているが、これがすべてライヴ盤だ。新しいもの順に、77年のロニー・スコット・クラブ(ロンドン)、73年の中野サンプラザ(東京)、58年のロンドン・ハウス(シカゴ)で、三か国を股にかけている。多少速さに違いがあるが、いずれも大胆なフェイク、スキャットもまじえてノリの良さを発揮している。


58年のシカゴのロンドン・ハウス(この辺がややこしい)のライヴで、伴奏はロンネル・ブライトのピアノ・トリオにベイシー・バンドからサド・ジョーンズ(tp)やフランク・ウエス(ts)らスター・プレイヤーがゲストとして参加している。エラの歌い方が、どちらかといえば、まだ恋知りそめし乙女の含羞の残る歌に聞こえるのに対し、サラの歌は、蚤助の耳には人生を知り尽くした女の歌のように聞こえる。う〜む、恐るべし。

男性ではやはりシナトラの歌が世評名高いが今回は省略。名演が多いインストからはジャズ・メッセンジャーズのものをひとつだけ…。


日本のジャズ・ブームのきっかけとなったパリ、クラブ・サンジェルマンでの演奏が有名だが、それと甲乙をつけ難いオリジナル・ジャズ・メッセンジャーズの演奏で、55年ニューヨーク、カフェ・ボヘミアでの録音。
メンバーはつい先ごろ亡くなったばかりのピアノのホレス・シルヴァー、トランペットのケニー・ドーハム、テナーのハンク・モブレー、ベースのダグ・ワトキンス、ドラムスのアート・ブレイキー。ブレイキーはその豪快なプレイとは裏腹にとても気配りの効いたドラミングをしているのがよくわかる。類まれなリーダーシップを持ったバンド・リーダーだ。
よく比較されるが、個人的には、サンジェルマンのトランペット、リー・モーガンの方がケニー・ドーハムの「すかすかペット」よりはるかにヴァイタル、全体としても生きがいい演奏だと思う。

バーク&ヴァン・ヒューゼンのコンビはほかに“But Beautiful”、“It Could Happen To You”、“Polka Dots And Moonbeams”などの名曲を送り出している。また取り上げたくなる曲だ。

デュエットが俺より上手い恋敵 (蚤助)
お盆休みの帰省ラッシュが始まった由。ということでもう一句。

恋だって休みたくなる盂蘭盆会 (蚤助)

#640: タンメイとリンゴ

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今夏は全く予定にはなかったのだが、長女夫婦が一歳の誕生日を迎えたばかりの孫娘を、お盆休みを利用して青森の親戚にぜひお披露目したいというので、急遽、一緒に帰省してきた。
蚤助自身は5月の連休に法事で帰省したばかりだが、その時は孫娘が風邪をこじらせて肺炎になりかかり入院する騒動があったりして長女夫婦は直前に法事出席をキャンセル、今回はそのリベンジということらしい。

急な話だったので、新幹線の手配は別々で、帰りの新幹線は運よく同じ車両の近くの座席が取れたものの、行きは一緒の列車が確保できず、蚤助は別の新幹線で向かうことになった。
「えきねっと」で検索すると、帰省客でいっぱいにもかかわらず、たまたま「はやぶさ」のグランクラスに一席だけ空席があった。グリーン席よりも上級の「グランクラス」すなわちファーストクラスは初体験である。

座席は本革製のバックシェル型で、全体としてゆったりした作りになっている。座席の右肩あたりから飛び出た読書灯が少し気になるがとても快適である。

   
大宮から乗り込むと女性アテンダントが、飲み物と和食か洋食どちらかの軽食の希望を訊きにくる。夕方、青森到着後に会食の予定があることから、サンドウィッチ中心の洋食にした。
和食は上りと下りでメニューが異なり、洋食の方も春・夏と秋・冬でメニューが変わるのだそうだ。出てきた洋軽食はなかなか美味で、特にタコのマリネが絶品であった。
乗車中、ドリンクはアルコール類も含めてオール・フリー、飲み放題である。
通路を挟んだ隣席のおじさんはビール、ワイン、日本酒を次々と注文、すべて飲み干した末に爆睡してしまった。
昼間のアルコールはよく効くものだが、蚤助も赤ワインの小瓶1本、白ワイン2本空けて、すっかりほろ酔い気分である。
一般座席と比べて料金が高過ぎると感じる人もいるのではないかと思うが、なかなか満足度は高い。
乗車時間は2時間半強で、個人的にはもう少し時間がかかってもいいな、などと本末転倒のことを考えたりしている。まあ、一度くらいは体験してみてもいいだろう。


ところで、つい1年ほど前までほぼ寝たきりに近い状況だった82歳になる老母がいたって元気であった。曾孫との対面が楽しみだったということもあったろうが、主治医に高齢のせいだと診断されたまま体調不良ということで入院生活を続けていたのだ。
必ずしもセカンドオピニオンということではないものの、別の医者に診てもらったところ、処方されていた何種類もの薬の飲み合わせによる副作用ではないかとのことで、薬の量と種類を減らしたら体調が快方に向かい始めたのである。退院すると、定期的なデイサーヴィスと、公的機関の主催による高齢者向けトレーニング教室に通い始めてからめきめきと元気になった。その老母が頻りに「タンメイケン」と言う。何のことかと訊けば「短命県」だという。

この7月に厚生労働省が発表したところによれば、2013年の日本人男性の平均寿命が初めて80歳を超え、80.21歳になったというが、同じく、同省が昨年発表した2010年の都道府県別生命表によれば、青森県の男性の平均寿命は77.28歳で、1975年以降、全国最下位なのである。「いったいどこのハナシ?」である。

市町村単位でみても、青森市をはじめ東通村、平川市、むつ市、黒石市の県内5市町村がワースト10内、下位50市町村には県内全40市町村のうち24市町村が名を連ねるという。青森の男性の短命は際立っているのだ。つまり、青森県の男性は一番安い給料で、他県よりも長く働き、一番早く死ぬのである。ちなみに女性の方も、10年の平均寿命は85.34歳で2000年以降、全国最下位を続けている。階上町、大間町、深浦町の3町がワースト10に入っている。参考までに、全国最下位は男女とも大阪市西成区だそうである。

青森県の男性の喫煙率と肥満度は全国で2番目に高く、長い冬の降雪等の影響もあってか1日の平均歩数も少ない。加えて食塩摂取量の多さと健康診断の受診率の低さがある。短命の背景には青森特有の生活習慣があるようだ。仮に青森県の平均寿命が全国トップの長野県並みになれば、消費の増加などで年間100億円の経済効果があるという試算もあるようだ。

こうしたことから、青森県は「健康長寿県の実現」という戦略プロジェクトを立ち上げたそうだ。減塩、野菜摂取量の拡大等の食生活の改善、子供の肥満対策、健康増進ツアーの実施、医療・健康関連産業の創出など様々な取組みを推進し、「短命日本一」の返上を目指すという。青森の金融機関も「がん検診」の推奨など社員への健康増進に積極的な取引先に対しては金利優遇措置を講じたり、銀行敷地内の完全禁煙に踏み切る方針を打ち出したりしているという。

ということで、我が母親が通う高齢者向けトレーニング教室は県の肝煎りによるものらしいのだが、先日、地元のテレビ局が、その教室を取材にきた際、最高齢の受講者ということで母がインタビューを受け、取材クルーが自宅の寝室まで撮影に押し掛けるという騒ぎになった。1年前にはほぼ寝たきり同然だった高齢者が適切な運動による奇跡の健康回復という筋書きは、「短命県」解消を標榜するニュース番組にはピッタリの素材だと思われたのだろう。母の出演(?)した番組は、無事ローカル局で放送され、母は周囲ですっかり「時の人」になっていた(笑)。



短命は様々な要素が長期間積み重なった結果から生じるものだ。ただし、平均寿命ばかりではなく、健康寿命を延ばすことも重要だといわれている。でも長生きには即効薬はなく、地道な対策を息長く続けるしかない。
青森県はリンゴ生産日本一として知られていて、県庁には「1日1個のりんごは医者を遠ざける」と記した看板が掲げられている。もっとも、現在のリンゴの品種改良は目覚ましく、昔にくらべて糖度も上がり、リンゴ1個も大きくなっていて、飽食時代の現代人にとっては、むしろ果糖が悪さをする可能性もないとはいえない。専門家によれば、現代では「1日1個ではなく1日半個で十分」ということらしい。
ともあれ、このヨーロッパの俚諺が、青森では「空言」、りんご生産2位の長寿県である長野では「至言」となっている現状というのは、蚤助にしてみるとやはり情けない。

長生きの秘訣どうやら女色(おんないろ) (蚤助)

#641: いちばん長い日

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今年は第二次世界大戦の戦況のターニング・ポイントとなった連合国軍によるフランス北西部のノルマンディー上陸作戦から70周年。
ノルマンディー上陸からナチス・ドイツが占領するパリ奪還までの一連の侵攻作戦には、正式には“オーバーロード”(大君主)という名が付けられているようだが、この上陸作戦はアメリカ、イギリス、カナダを中心にした連合軍によって1944年6月6日の夜明け前から開始された。

報道によれば、Dデイ(作戦決行日)の6月6日、フランス北西部ノルマンディー地方で各種行事、記念式典が開催された。
70周年の式典には、アメリカのオバマ大統領、イギリスからエリザベス女王、カナダからハーパー首相、当時枢軸国側だったドイツからメルケル首相、イタリアからはナポリターノ大統領が参加したほか、ロシアのプーチン大統領ら19か国の王室、首脳が出席した。
主催国フランスのオランド大統領は、緊迫するウクライナ問題をはじめとする各地の内戦や地域紛争を意識したのであろうか、「世界平和の建設のための戦いは今も続いている」と演説したと伝えられている。


1962年に公開された映画『史上最大の作戦』は、FOXの大プロデューサーだったダリル・F・ザナックが当時で40億円以上の巨費を投じて製作した戦争映画で、Dデイをドキュメンタリー・タッチで描いた超大作であった。
無論、現在のようなCG処理など考えられない時代の作品である。
兵隊のエキストラの数が延べ15万7千人だったそうだから、それだけでも気が遠くなるハナシだ。
使用した爆弾が4万発、現実に上陸作戦に使用されたのは40万発というから、本当の戦闘の十分の一が映画のために使われたわけだ。
この数字は多分に宣伝用の匂いもしないわけではないが、ノルマンディー上陸作戦を描くためには、これほどの物量を投入しなければ、そのスケール感は表現できなかったということなのであろう。

原題は“The Longest Day”。このシンプルな原題は、開巻直後、タイトルが表示される前のドイツ軍ロンメル将軍(ヴェルナー・ヒルツ)のセリフからとられている。

「上陸作戦の勝敗は24時間で決まる。わが軍にとっても連合軍にとっても、いちばん長い日になるだろう」

邦題の『史上最大の作戦』というのは、「いちばん長い日」というタイトルにしたのでは日本では地味すぎると考えた水野晴郎がつけたものだそうだ。
当時、彼はFOXの宣伝部員だった。
「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」(笑)。

この映画を劇場で見たのは、蚤助が中学生になってからのことで、封切館ではなく、当時は普通にあった二番館、三番館といった地方のドサ回り上映だったと思う。
確か友人カップルとの映画のダブル・デートだった記憶がある。今となってはとてもデートにふさわしい作品だったとは思えないが…。
当時のガールフレンドがポール・アンカのファンだったこともあり、この映画にアメリカ陸軍のレンジャー隊員として彼が出演していたし、ラジオからは「史上最大の作戦マーチ」がしきりと流れていたものだ。


このテーマ曲はポール・アンカの自作だが、彼自身の歌はサウンドトラックには出て来ない。ミッチ・ミラーの一隊によるヴァージョンがエンディングに流れる。映画全体の音楽担当はモーリス・ジャール、ベートーヴェンのシンフォニー第五番(運命)をモチーフにした導入部が印象的であった。

エキストラや爆弾の数だけではない。英米独仏のスターを動員したことでも他に例をみないスケールであった。
アメリカから、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、ロバート・ワグナー、ロバート・ライアン、エディ・アルバート、レッド・バトンズ、エドモンド・オブラエン、ロッド・スタイガー、イギリスから、リチャード・バートン、ピーター・ローフォード、ショーン・コネリー、ドイツから、クルト・ユルゲンス、ピーター・フォン・アイク、ゲルト・フレーベ、フランスから、ジャン=ルイ・バロー、アルレッティ、ブールヴィルその他の名優が多数出演している。
今ならこれら俳優の顔と名前はすべて分かるが、中学生だった蚤助には、ウェイン、フォンダ、ミッチャム、ライアン、バートン、コネリー、ユルゲンス、ブールヴィルの顔くらいしか分からなかった。特にショーン・コネリーはこの映画が公開された直後、例のジェームズ・ボンドを演じて大スターとなったが、この作品ではまだコメディリリーフ的なチンピラ兵士の役どころだった。
余談だが、出番はほんのちょっぴり、連合軍の最高司令官、ドワイト・アイゼンハワー将軍(後のアメリカ大統領)を演じたのがヘンリー・グレイスという人。アイクの風貌に良く似たそっくりさんである(笑)。

♪ ♪
このオールスター作品において主役は誰かと言えば、アメリカ空挺部隊(パラシュート降下部隊)の隊長を演じたデュークことジョン・ウェインであろう。その存在感は抜群で、片脚を複雑骨折しながらも部隊を鼓舞し進軍しようとする。特にパラシュート降下中に攻撃されて、街路樹にぶら下がったままの部下の死体を見つめる悲痛な表情などまことに見事だった。


当初、この役はウィリアム・ホールデンにオファーされたものだったらしいが、彼が断ったため、デュークにお鉢が回った。それがデュークのプライドを傷つけたという。
さらに、プロデューサーのザナックは、デュークが製作・主演した大作『アラモ』の興行的失敗を批判していたこともあって、デュークと仲が悪かった。
しかし、オールスター映画にデュークが不可欠ということで、白紙の小切手を用意した。デュークの出した条件は、「主演扱いをすること、出演料は20万ドル」というものだった。他の大スターのギャラは最高で3万ドルだった。デュークはさすがにザナックも諦めるだろうと思っていたが、ザナックはこの条件を呑んだ。もっとも、デュークは後に「あんなに吹っかけてザナックに申し訳なかった」とのコメントを出している。

どうもカネのハナシばかりで恐縮だが、ついでに言っておくと、フランス人の出演料はアメリカの俳優より安く抑えられたそうで、当時、ほとんど新人だったパラシュート降下隊の一等兵を演じたリチャード・ベイマーでも、神父役のフランスの名優ジャン=ルイ・バローよりギャラが高かったそうだ。

撮影スタッフがとりわけ気を遣ったのが、デュークとその上官に当たる空挺師団の副師団長を演じたロバート・ライアンが会話するシーンだったそうだ。デュークが政治的にタカ派、ライアンはハト派の代表的な俳優と見られていたからで、現場スタッフは政治的な話題にならないよう細心の注意を払ったという。

♪ ♪ ♪
久しぶりにこの超大作をDVDで再見して、水平線に連合軍の大艦隊が現れてくるシーンや、長い海岸線に上陸する連合軍に機銃掃射を浴びせるドイツの戦闘機のコックピットから見た俯瞰シーンなど驚くばかりだ。また、改めて感心したのは、クリスチャン・マルカンが率いるフランスのコマンド部隊が、一つの町を死守するドイツ軍の部隊に突撃する情景を延々とカットを変えずに空撮した戦闘シーンなどまことに見事である。

ノルマンディーに向う駆逐艦の艦長を演じたロッド・スタイガーが部下に言う。

「よく覚えておけ。100年先まで語り継がれる作戦に我々は参加しているんだ。怖いことに変わりはないが」

また、最も突破が困難で多大な戦死者を出したオマハ・ビーチ上陸作戦の指揮官を演じるロバート・ミッチャムは、いつも葉巻をくわえているというキャラクター。彼が激しいドイツ軍の抵抗のため釘づけされてしまった海岸で言う。

「ここに残るのは二種類の人間しかいない。すでに死んだ者とこれから死んでいく者だ」


延べ15万7千人というエキストラによるモブシーンが素晴らしい効果を上げているのは確かだが、ミッチャムが戦闘が終わった後、葉巻をくわえて悠然とジープに乗るラスト・シーンなど、しょせん兵士はチェスの駒のように消耗され使い捨てられる存在、という戦争における冷徹な現実をよく表していると思う。

この映画の最後の方で、行軍の途中で所属部隊とはぐれてしまった一等兵リチャード・ベイマーが、重傷を負って動けなくなっているイギリスのパイロット、リチャード・バートンと出会い、遠くから届く爆音を聞きながら言う。

「どっちが勝ったんでしょう」


超大作で見どころも盛りだくさんな映画だが、今日の目でみると意外なほどプロパガンダ的な要素は薄く、観方によってはむしろ反戦・厭戦のムードすら感じられる。この映画が製作されるほんのふた昔ほど前、敵国同士として戦った人々が協力して一本の映画を作り上げているのだ。ただの勇壮なだけの戦争映画にしなかったところが、成功の一因であろう。
同年のアカデミー賞は『史上最大の作戦』と強敵『アラビアのロレンス』との一騎打ちと見られていたが、基本的にデュークを嫌っていたアカデミーは『ロレンス』に作品賞を含む7冠を与えたのに対し、『史上最大の作戦』には撮影賞(白黒)、特殊効果賞という比較的地味な2部門を与えたにとどまった。その夜、FOXの重役たちは「たとえ50万ドルのギャラを余計に払うことになったとしてもデュークを主演扱いにすることだけは断るべきだった」と言ってやけ酒を呷ったという。

♪ ♪ ♪ ♪
戦争を知らない子供たちが政治の中心となって、何だかきな臭いにおいが漂い始めている感もある日本の今日この頃。戦争を知らないならば、今後とも知らないままでいたいものだ。どうしても戦うというなら、せめてサッカーの試合あたりで決着をつけるっていうのはどうよ…。

個々人は何も恨みはない戦争 (蚤助)


#642: 地下鉄の駅名は?

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首都圏を網の目のように走る地下鉄路線。都心での通勤、通学をはじめとした生活の交通手段としては欠かせないインフラである。かくいう蚤助も、初めて親元を離れて東京での生活を始めた70年代初頭以来、通学に、社会人となってからは通勤に40年以上お世話になってきた。

そんな地下鉄について、先日の日本経済新聞にちょっと気になる記事が掲載された。地下鉄の路線図を眺めてみると、不思議な共通点が浮かび上がってくる、というのである。


現在、東京には東京メトロ(旧営団地下鉄)と都営地下鉄の2社の路線がある。その2社の路線の駅名に「○丁目」とつく駅名が8駅ある。「青山一丁目」(銀座線・半蔵門線・都営大江戸線)、「銀座一丁目」(有楽町線)、「六本木一丁目」(南北線)、「本郷三丁目」(丸ノ内線・都営大江戸線)、「四谷三丁目」(丸ノ内線)、「新宿三丁目」(丸ノ内線・副都心線・都営新宿線)、「志村三丁目」(都営三田線)、「西新宿五丁目」(都営大江戸線)である。この「○丁目」と名のつく駅がすべて奇数なのだ。

さらに、港区にある「青山一丁目」という駅を、地図と見比べてみると、謎がさらに深まる。港区には青山一丁目という住所はないのである。表記があるのは「南青山」(一丁目〜七丁目)と「北青山」(一丁目〜三丁目)だけなのだ。
また、「本郷三丁目」という駅は、実際は本郷二丁目にあるという。

そうすると、あえて駅名には奇数を選択しているのではないかという疑問が生まれてくる。かの徳川家康が活用したともいわれる避禍招福の術「陰陽道」では様々な事象で東と西のバランスをとるという思想があったそうだから、仮に大阪の地下鉄の駅名が偶数ならば、単なる偶然ということはあるまい、というのである。

で、大阪の地下鉄を調べてみた。
大阪の地下鉄路線図を眺めていると、「瑞光四丁目」(今里筋線)、「蒲生四丁目」(今里筋線・長堀鶴見緑地線)、「谷町四丁目」(長堀鶴見緑地線・中央線・谷町線)と四丁目が3駅、「天神橋筋六丁目」(坂井筋線・谷町線)、「谷町六丁目」(谷町線・長堀鶴見緑地線)と六丁目が2駅ある。ふ〜む、これはひょっとして…と目を下の方に向けてみると「谷町九丁目」(谷町線・千日前線)というのが目に入ってしまった。仮説はあっさり崩れてしまったのだ。

東京メトロの回答は「奇数」について「不思議だがたまたまでしょう」というもの。「青山一丁目」のケースでは、北青山と南青山のちょうど中間に駅があることから「青山一丁目」と命名されたのだそうだ。また「本郷三丁目」の場合は、駅名をつけた後、丁目の変更があり、住所の方が変わったのだという。
都営地下鉄の場合には、「青山」と「本郷」の2駅について「東京メトロの駅が先にあったので同じ駅名にした」とのことであった。

記者はさらに疑問を持つ。丁目は1から始まるので奇数が多くなるのは必然かもしれないが、そうすると大阪の偶数の多さは説明しにくくなるのではないか、というのだ。で、念のため陰陽道の影響を受けた神事を執り行っている、神奈川県寒川町にある寒川神社を直撃してみると、「地下鉄の例はわからないが、世界はすべて陰と陽で成り立っているというのが陰陽説」との回答で、記者のもやもやは結局解消されなかった、と記事は結んであった。


実は、東京にもかつて偶数の丁目がついた地下鉄駅があったのだそうだ。銀座線の「青山四丁目」と「青山六丁目」の2駅で、「青山一丁目」と区別がつきにくく乗客の乗降間違いが多発したため、1939年にそれぞれ「外苑前」と「神宮前」(現・表参道)と改称されている。また、地下鉄には「清澄白河」(半蔵門線・都営大江戸線)のように2つの異なる地名をつけた駅もある。その場合、どちらの地名を先にするかは「語呂の良さも重要な判断材料のひとつ」になるという。

駅名制定の基本的な考え方は、所在地の町名、都心部の場合には駅中心半径500メートル圏内(その他は1キロ圏内)の町丁のうち最も広い面積の町丁名、近くに存在する著名な建造物の名称(明治神宮前、国会議事堂前、国立競技場等)、所在地の由緒ある旧町名、所定の中心半径内で知名度の高い地名などを勘案しているとのことのようだ。

現在、日本で地下鉄が走るのは、北から札幌、仙台、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の9都市である。蚤助が調べた限りでは、このうち「○丁目」とつく駅があるのは、東京と大阪以外には、「長町一丁目」の仙台だけであった。

地下鉄の出口迷路のように出る (蚤助)
同じ駅のはずなのに、地下鉄の出口をひとつ間違えただけで、全く違う光景が眼前に広がって、途方に暮れる。こういう経験をした人は多いのではないだろうか。それに加えて…

地下鉄の乗り換えやたら歩かされ (蚤助)
歩けなくなったら都会では生活していけない…という一席。

#643: あなたに起こるかも

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えてしてプロの作詞家というもの、ラヴソングを書くにしてもストレートな表現はしたくないものらしい。早い話が、“I Love You”と意思表示するにしても、それに代わるさまざまな表現をすることが腕の見せどころとばかりに、いろいろと持ってまわった表現をするわけだ。
加山雄三『お嫁においで』(作詞・岩谷時子)とか、新沼謙治『嫁に来ないか』(作詞・阿久悠)などの歌詞は、プロの作詞家としてはきっと直截過ぎて野暮なのだ…。なんちゃって、両先生、ごめんなさい!(笑)。

#639(恋の気持ちで)の稿で触れたジョニー・バーク&ジミー・ヴァン・ヒューゼンの代表作のひとつ“It Could Happen To You”(あなたに起こるかも)なんて歌は、あまりピンとこないタイトルである。
最初の4小節ほどは“My Foolish Heart”(ネッド・ワシントン作詞、ヴィクター・ヤング作曲)と同じコード進行を使っているようだが、曲自体はメロディ作りに独特の気品と哀感を備えていたヴァン・ヒューゼンらしい美しいバラードである。
ピンとこないのはジョニー・バークの歌詞のせいだろう。

IT COULD HAPPEN TO YOU (1944)
(Words by Johnny Burke/Music by Jimmy Van Heusen)

Hide your heart from sight, lock your dreams at night
It could happen to you
Don't count stars or you might stumble
Someone drops a sigh and down you tumble
Keep an eye on spring, run when church bells ring
It could happen to you
All I did was wonder how your arms would be
And it could happen to me…
歌詞は命令形になっているが、これを原文通り忠実に命令形で訳してしまうと意味が分からなくなるという不思議な内容である。
確かに空を見上げて星を数えながら歩いたりすると、けつまづいてしまうこと必至だろうが、だからといって、すんなりと歌の内容を理解するのは難しい。蚤助の手に余るところだ。
ここは命令形ではなく、“You'd”が省略されているものと考えてみた。

心の内を隠してしまったり 夜みる夢に鍵をかけてしまったり
そんなことがあなたに起こるかも
星を数えてはだめ さもないと躓いたり
誰かがため息をつくと 転んでしまったり
春に眠れなかったり 教会の鐘が鳴ると走り出したり
そんなことがあなたに起こるかも
あなたの腕に抱かれたらって 思ってみただけなのに
それが私に起こってしまった…
詩的なセンスに乏しいので、これでもわかりにくいが、おおよそ「何だか変、今までなかった症状が出てきてしまった。原因は分からないけれども、誰にも起こるかもしれない。私はただあなたのことを考えただけなのに」てな感じの内容だろうか。
要は「ムードに任せて恋なんかしたら、その先にどんなことが待っているかわからないでしょう?」という内容なのだが、最後は「私は想像しただけ、あなたの腕に抱かれたらどんなだろうって、そしたらそれが私に起こってしまった」と言っている。ありゃりゃ、結局、この歌が言いたいのは「恋しちゃった」と遠回しなオノロケだったってことか…(笑)。
というわけで、これは、恋心を持ってまわった言い方で表現した代表格のような歌だといってよいかもしれない。

44年の映画“And The Angels Sing”の挿入歌として書かれたもので、エンジェルズという4姉妹コーラス・グループを巡る恋物語だったそうだ。劇中、ドロシー・ラムーアとフレッド・マクマレイが歌ったという。
映画の公開後、パイド・パイパーズを抜けてソロ歌手となって間もないジョー・スタッフォードが録音、これがヒットし、広く世に知られるようになった。


ヴォーカルでは絶対はずせないジューン・クリスティ。52年にスタン・ケントン楽団から独立、ソロ活動を開始、ピート・ルゴロのアレンジでモノラルで録音した名盤“Something Cool”から。55年にLP化され、さらに60年にはステレオで再録音したほど世評名高い歌唱だ。クール・ヴォイスの彼女の歌声は、ハスキーだけど明るく溌剌としていて、重々しくならないところが持ち味、ここでは本来バラードで歌われるナンバーを思い切ったスイング・スタイルで歌っているところがミソである。


インストでは、ジャズの即興演奏の醍醐味を味わえるということで、二つのソロ・ヴァージョンを聴き比べてほしい。この二人の語り口が際立っているところが聴きどころである。まずは、ピアノのバド・パウエル。全盛期51年の演奏である。弾いている本人自身がご機嫌だったようだ。



続いてソニー・ロリンズ。無伴奏のまま3分40秒、朗々とテナーを吹き続ける。絶対に隙を見せない剣豪のような演奏である。57年の録音で、この後、彼は2度目の隠遁生活に入るのだが、隙を見せない武芸者的生活から逃れて休憩したくなる気持ちもわからなくはない…。


最後は、マイルス・デイヴィスのオリジナル・クインテットのアルバム“Relaxin'”(56)から。マイルスはミュートでメロディをカリカチュアしながら走り抜け、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランドのソロを挟んで、最後にマイルスがまたチョコンと締めて一丁上がりだ。リラックスした雰囲気の中にも緊張とスリルをはらんだ名演だ。


“It Could Happen To You”(あなたに起こるかも)というのは、なかなか含蓄のある言い方だ。この歌のように「起こる」のが「恋心」だったらいいのだが、年齢とともに起こる可能性が大きくなるのは「恋心」でないのが残念だ。

ときめきにかえて起こった不整脈  蚤助

#644: 水玉模様と月光

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1980年代の末頃に、どこかの国の何とかという宰相が水玉模様のネクタイばかり締めていて、そのファッション・センスの狭さを揶揄されていた。しかし、何事にも例外はあるもので、その一途さを称賛する人たちも一方にいたのも確かであった。
水玉模様といえば、草間彌生を連想する人もいるかもしれない。蚤助にとっては、どちらかといえば、かなりポップな「ゲージュツ」おばさまという印象ではあるのだが、水玉模様を基本モチーフにした多くの作品を世に問い続けている世界的なアーティストである。

その水玉模様は英語で“Polka Dot”というが、“Polka”とはもちろん「ポルカ」のことである。ボヘミア地方の民俗舞踏だ。
ボヘミアはチェコの中西部にあるポーランドと国境を接する地域で、かつては神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したボヘミア王国があったところである。
牧畜が盛んで、この地方の乗馬用の服装が、西ヨーロッパでは芸術家気取りとか芸術家趣味と受け取られ、ひいては自由奔放なロマ(ジプシー)の生活などを意味する「ボヘミアン」(ボヘミア風)の語源になったのだそうである。
そのボヘミアの風俗をチェコの人々は「ポーランド風」と呼んだ。それがチェコ語で“Polka”、すなわち「ポルカ」で「ポーランド風の舞踊」という意味になる。
さらに、ボヘミアの染物には水玉模様が多用されていたので、チェコ語で「ポーランド風の点々」というのが“Polka Dot”の由来だ、ということになっている。

大雑把だけどよく調べました、エヘン!てなもんである(笑)。


で、ジョニー・バーク&ジミー・ヴァン・ヒューゼンの作品の続きである。冒頭、水玉模様を無理やり出してきたので、今回は“Polka Dots And Moonbeams”、つまり『水玉模様と月光』という曲である。
ヴァン・ヒューゼンは、バークと組んだときにはビング・クロスビーのヒット曲が多かったのだが、これは当時トミー・ドーシー楽団の専属歌手だったフランク・シナトラのために書いた曲である。何事にも例外はあるものだ、ホント。ちなみに50年代以降のシナトラのヒット曲はほとんどヴァン・ヒューゼンとサミー・カーンのコンビの作になる。

POLKA DOTS AND MOONBEAMS(1940)
(Words by Johnny Burke/Music by Jimmy Van Heusen)

<Verse>
Would you care to hear the strangest story?
At least it may be strange to you
If you saw it in a movie picture
You would say it couldn't be true

僕の一番奇妙なハナシを聞いてくれないか
どう考えてもおかしいと思うかもしれない
映画にそういうシーンがあったとしたら
そんなこと ありっこないって言うかもね

<Chorus>
A country dance was being held in a garden
I felt a bump and heard an "Oh, beg your pardon"
Suddenly I saw polka dots and moonbeams
All around a pug-nosed dream

The music started and was I the perplexed one
I held my breath and said "May I have the next one?"
In my frightened arms, polka dots and moonbeams
Sparkled on a pug-nosed dream...

庭で開かれていたダンスパーティー
誰かにぶつかったと思ったら 「あら、ごめんなさい」って声が聞こえたんだ
振り向くと 水玉模様のドレスと月の光
子犬のように鼻が上を向いた女の子だった

音楽が始まり 僕は戸惑っていたのかな
思い切って「次の曲、踊ってくれませんか?」と言った
震える僕の腕の中で 水玉模様のドレスと月の光
子犬のように鼻が上を向いた女の子がキラキラし始めたんだ...

月明かりというのは、不思議なもので、たいていのものを美化してしまう。女性であれば、誰でもまずまずの美女に見えてしまう。でも、何事にも例外というものはあるからね…。
月明かりは、女性が恋を打ち明けるには絶好の条件であるが、男性としては惑わされぬよう、心していなければならない。戸締り用心、火の用心、というのがこの曲の内容である…、というわけはないか。
この歌、初めて出会った女の子に一目惚れしてしまった男の独白である。すなわち“A boy meet a girl”の物語なのだ。

“country dance”という言葉がコーラスの一番最初に出てくるので、洋画によく出てくるガーデン・パーティーでの出会いであろう。何ともロマンチック、かつ古き良き時代をしのばせるナンバーである。シチュエーションとしては、月並みな恋物語なのだが、ヴァ―スにある“You would say it couldn't be true”(そんなことありっこないって君は言うだろうね)という一節が、主人公の素直な気持ちを表していてなかなか微笑ましい。

“pug-nosed”というのは「パグのような鼻をした」という意味だが、「パグ」という犬種をご存じか。中国原産のちょっとプルドッグに似て鼻が短い個性的なご面相の犬だ。ペットショップなどで対面してみてほしい。蚤助は可愛いと思うのだが…。少なくとも、この女の子は可愛い上向きのお鼻をしていたらしい。主人公にとっても、魅力的な鼻に見えたのだろう。
“dream”は、ここではもちろん「女の子」のことを指していると解すべきだろう。

♪ ♪
で、この二人、その後どうなったか。

There were questions in the eyes of other dancers
As we floated over the floor...

周りで踊る連中は 物問いたげな目で見ていたけれど
僕たちは床を滑るように踊っていた
みんなのそんな目をよそに 僕はすべての答えを知っていた
多分 それ以上のことまでも

だから今 リラの花と笑い声に満ちた小さな家で
“ever after”という言葉の意味を噛みしめている
これからも 子犬のように上向きの可愛い鼻にキスするたびに
水玉模様のドレスと月の光の輝きが甦るだろう...
ポイントは“ever after”という言葉だ。「それからずっと幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」という昔話や物語のおしまいにいう決まり文句である。
このジョニー・バークの書いた歌詞、何というか、実に愛らしいですな。

♪ ♪ ♪
ジャズの世界でも人気のある曲なので、名唱・名演がたくさんある。

40年代にトミー・ドーシー楽団とグレン・ミラー楽団のものが人気を競った。この曲を捧げられたシナトラはドーシー楽団の伴奏で40年3月に録音しヒットさせた。一方、ミラー楽団の方はレイ・エバールの歌をフィーチャーして対抗した。以前にもふれたことがあるが、自分のために書かれた曲をライバルが歌って喧嘩にならないというのは、アメリカのショウ・ビズ界の懐の深さと、逆に、それだけ競争の激しさを象徴しているようなハナシだ。
シナトラの歌は、後年、再録音したものが断然いい。


61年の“I Remember Tommy...”というアルバムからだが、若き日のシナトラが3年弱、専属歌手として在籍したドーシー楽団のボスに捧げたもの。シナトラは同楽団で多くのことを学んだ。「センチメンタル紳士」と呼ばれたトミー・ドーシーの奏でるロマンチックなトロンボーンの音色は、シナトラに大きな影響を与え、その歌唱の基盤になっている。アレンジと指揮はサイ・オリヴァー。シナトラの語り口、ムード、説得力、表現力、どれも余人が及ばないところにある。ここではかのヴァ―スは省略されている。何事にも例外はあるものなのだ、ウン。


ウェス・モンゴメリーの名盤“The Incredible Jazz Guitar”(60)から。彼のプレイはオクターヴ奏法で有名だが、実のところ、シングル・トーン奏法やコード奏法を組み合わせてダイナミックに展開するのが特徴なのだ。ピックを使わず、親指だけで爪弾く独特のギター・サウンドの魅力がいかんなく発揮されている。トミー・フラナガン+パーシー&アルバートのヒース兄弟からなる伴奏陣も申し分なし。月の光の下で聴くには、やはりこれだろう。一家に一枚常備ということでお願いしたい(笑)。


そのものずばり“Moon Beams”というビル・エヴァンスのアルバム(62)から。「月の光」を最も感じさせる作品かもしれない。ベーシストの盟友スコット・ラファロを交通事故で失ったばかりのエヴァンスがそのショックから一時期ピアノに向かうことすらできなくなった最悪期。そこから這い上がってきて録音したもの。ラファロの後任チャック・イスラエルは、ラファロに比べ寡黙で控え目だが、それがかえってエヴァンスのリリシズムをよりくっきりさせることにつながっている。繊細なドラムスはポール・モチアン。エヴァンスがラファロに捧げた鎮魂歌である。

♪ ♪ ♪ ♪
とにかく何にでも例外はあるものなのだ。例外の中にすら例外はある(笑)。

例外を認めて事態山を越し  蚤助

#645: Imagination

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ジョニー・バーク&ジミー・ヴァン・ヒューゼンの作品が続いたが、このコンビによるビッグ・バンド時代を華やかに彩ったヒット曲について語って、ひとまず区切りをつけることにしよう。
前稿の“Polka Dots And Moonbeams”と同年の40年に発表された“Imagination”である。グレン・ミラー楽団の大ヒット曲として知られる。それに、シナトラとトミー・ドーシー楽団、ベニー・グッドマン楽団、アーティ・ショウ、当時バンド・リーダー兼歌手をこなしていたエラ・フィッツジェラルドなどが次々に取り上げ大好評を博したという曲である。

現代は、ITC(Information & Communication Technology)、すなわち「情報通信技術」の時代。世の中には情報があふれていて、情報社会というよりも情報過多社会と言いたくもなる。
しかもその情報は時々刻々垂れ流しされている。
空想とか想像とか、自分のイメージの世界に遊ぶことも、現代ではITCを通じて行われるというのが一般的になっている。ところが、ITCに慣れた若い世代の一部には、時々、空想と現実のけじめがつかなくなって、無理やり空想を現実にしようとして、思わぬ事件を起こしたりすることがある。
それが妄想というものであろう。
そんな時代の若い世代にはこの歌の良さなんて、もう理解されないのではないか、と危惧したりする。

IMAGINATION (1940)
(Words by Johnny Burke/Music by Jimmy Van Heusen)

Imagination is funny, it makes a cloudy day sunny
Makes a bee think of honey, just as I think of you

Imagination is crazy, your whole persprective gets hazy
Starts you asking a daisy, what to do, what to do...

想像力っておもしろい くもり空が晴れになる
ミツバチが蜂蜜を思うように あなたのことを思うわたし

想像力は陶酔 あなたの姿かたちがぼやけてくる 
ヒナギクに どうすべきか 何をすべきか と問い始める...
「想像力っておもしろい」と歌い出すから、どんなにおもしろいのかと思うと、「くもり空が晴れの日に」「ミツバチが蜂蜜を」なんていう程度である。恋というものを知ってしまった初々しい気持ちを歌っているわけだ。恋したものの、あれこれと相手のことを想像するだけで、胸を焦がしているという図であろうか。

でも、この歌の主人公は、ちょっと情けないようだ。このあと、同じ想像するにしても、相手が自分のことを思っているという想像はできないと、ひとりで悶々としているのだ。

Have you ever felt a gentle touch
And then a kiss and then and then
Find it's only your imagination again, Oh well
Imagination is silly, You go around willy nilly
For example I go around wanting you
And yet I can't imagine that you want me too

やさしく触れられた経験がある?
それからキス それから また それから
でも それって想像にすぎないって また気づいてしまう
ああ 想像力って愚かしい
あなたはわけもなく歩き回る
あなたを求めてうろつき回るわたしと同じように
でも あなたがわたしを求めているなんてことは
とても想像することができない
このバークの歌詞は、初心な恋心を可愛らしく表現しているが、さほどイマジネーション豊かとも思えない(笑)。だが、ヴァン・ヒューゼンのメロディがつくと、実にすばらしいバラードになってしまうのが不思議だ。このあたりが名曲の名曲たる所以であろうか。

蚤助がこの曲を初めて耳にしたのは、アート・ペッパーがマイルス・デイヴィスのオリジナル・クインテットのリズム隊と共演したものであったが、「美しい曲だなあ」と思った鮮明な記憶が残っている。


57年の録音で、レッド・ガーランド=ポール・チェンバース=フィリー・ジョー・ジョーンズという全米リズム・セクションを向こうにまわして、西海岸の白人アルトの雄が一発録りの真剣勝負に挑んだ名演だ。強力なリズム隊を前に、ワン・ホーンで文字通り“imaginative”なプレイを披露している。

ヴォーカルでは、エラ・フィッツジェラルドのヴァージョン。


54年のアルバム“Songs In A Mellow Mood”に収録されたものだ。名手エリス・ラーキンスのピアノ伴奏だけで歌う、彼女の透明感のあるロング・トーンが、このメロディにピッタリで、まさにバラードの名唱と呼ぶにふさわしい。

もうひとつ、やはりシナトラの再吹き込み。


前稿同様、アルバム“I Remember Tommy...”からで、エラとは違って、オーケストラをバックにミディアム・スイングのスタイルで歌う。この雰囲気はさすがだ。涼しくなっていくこれからの季節にはヴォーカルを聴きたくなるものだが、こんな歌を肴に晩酌をしたいものだ、と「想像」(妄想?)する蚤助である。

誰かより何かを想像させるヒト  蚤助

#646: 君がいなくとも人生は続く...

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2003年に公開された『死ぬまでにしたい10のこと』(My Life Without Me)という映画は、癌で余命2か月と宣告された23歳の主婦が、それを誰にも打ち明けずにおくことを決意し、「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出して、一つずつ実行していくという物語だった。

その前年、同じように癌に連れ合いを奪われた蚤助にとっては身につまされる映画であった。
連れ合いが何もその思いを告げることなく先立っていくというのは、苦悩を共有できなかったという無念さにさいなまれて、残された者にとっては、死の喪失感以上に辛くて悲しいことなのではないかと思ったりした。

劇中、ヒロインの主婦(サラ・ポーリー)が、家事をしながら歌を口ずさむシーンが出てくる。彼女の歌は調子っぱずれなのだが、いかにも楽しそうに歌う。曲のメロディは確かに聞いたことがあるのだが、タイトルが思い出せない。映画を観終わったあとも、不思議にそのシーンが長いこと心に残ったのである。

その曲はビーチ・ボーイズの“God Only Knows”であった。決して普通の主婦が口ずさむタイプの歌ではないし、素人には難しい曲である。でも彼女は頑張って歌う。たぶん素直で無邪気な彼女のキャラクターを表していたのだと思う。

ビーチ・ボーイズは、66年にアルバム“PET SOUNDS”を発表して、サーフ・ミュージックを脱皮して大きく変化した。それ以前の、若さあふれる無邪気でさわやか、元気溌剌のビーチ・ボーイズ(もちろんそれは素晴らしいのだが)とは、違った音楽を展開していこうとする意欲が前面に出ていた。

“God Only Knows”は“PET SOUNDS”に収録された楽曲だが、作曲家としてのブライアン・ウィルソンの音楽の一つの頂点を示した作品かもしれない。ブライアンは、面識のあった広告マンのトニー・アッシャーに作詞を依頼、トニーは8曲ほど歌詞を書いたという。「詞を書いたのは僕だが、ブライアンの翻訳者にすぎない」というトニーの証言があるが、基本的なアイデアはブライアンのものだったのであろう。

GOD ONLY KNOWS (1966)
(Words by Tony Asher/Music by Brian Wilson)

I may not always love you
But long as there are stars above you
You never need to doubt it
I'll make you so sure about it
God only knows what I'd be without you...

いつも君を愛するとはいえないかも
でも頭上に星がある限り
この想いを疑う必要はない
そのことは君にも分かるだろう
君のいない人生がどんなものか 「神のみぞ知る」のだ...
 
ポップスのタイトルに初めて「神」が登場した作品だという。
この曲を聴いたポール・マッカートニーは「今まで聴いた中で最高の楽曲」と絶賛し、“Here There And Everywhere”(アルバム“REVOLVER”に収録)を書くきっかけとなったとされている。

余計な形容や装飾がないストレートでシンプルな歌詞だが、なかなか一筋縄ではいかないラヴ・ソングである。

If you should ever leave me
Though life would still go on, believe me
The world could show nothing to me
So what good would living do me?
God only knows what I'd be without you

もし君が去ったとしても
人生は続くかもしれない でも信じてほしい
そんな世界では僕には何も見出せない
生きていて良いことなどあるだろうか?
君がいないということがどんなことか 「神のみぞ知る」のだ
歌詞はもちろん、従来にはない苦いテイストが滲むメロディーで、これはまさにブライアンの新境地を表したものであろう。しかも、いつまでも人を愛したいという若々しい熱い想いが失われていない。

「君がいなくなったとしても、人生は続くかもしれない」と、サラ・ポーリーは口ずさんだ。そう、人生は続くのだ。私たちの人生もそうだ。それがどんなに切ないものであったとしても…。

ひとつずつ選びやって来た人生  蚤助

#647: Good Vibrations

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ビーチ・ボーイズの続き。

ブライアン・ウィルソンは、フィル・スペクターのアルバム作りに啓発され、アルバム“PET SOUNDS”制作のころからより入念なプロデュースを心がけるようになる。時代とミュージック・シーンの変化に積極的に対応し、サイケデリックとエレクトリック・サウンドを追求し始めるのだ。そうした姿勢の中から生まれたのが、66年の“Good Vibrations”という曲であった。

当時としては、破格の大金と時間をかけ、4か所のスタジオで17回のセッションを行い、ダメ押しのミキシングを4回も行った末に完成させた。

GOOD VIBRATIONS (1966)
(Words by Mike Love/Music by Brian Wilson)

Ah I love the colorful clothes she wears
And the way the sunlight plays upon her hair
I hear the sound of a gentle word
On the wind that lifts her perfume through the air
I'm pickin' up good vibrations, she's giving me excitations...

彼女のカラフルな服が好き
彼女の髪が日光に輝いている様子が好き
優しい言葉が聞こえる 風に乗って彼女の香水の匂いがする
素敵な雰囲気を感じる 彼女は興奮を与えてくれる...

初期の電子楽器であるテルミンを使ったり、サイケデリック・サウンドを強く意識している。

Close my eyes she's somehow closer now
Softly smile, I know she must be kind
Then I look in her eyes she goes with me to a blossom world
I'm pickin' up good vibration...

目を閉じると彼女がそばに寄ってくる
少し微笑んで 優しく接してくれる
彼女の目を覗くと僕と一緒に花の世界に行ってくれる
いい感じになってきた...
歌詞の後半には、当時のヒッピー文化の基本モチーフ、キーワードであった“Blossom World”などという言葉も出てくるし、“Vibrations”というのも、ヒッピー用語で、「波長(心のゆらぎ)」「霊気」というような意味だ。この作品のアイデアは、ブライアンが子供のころから母親に聞かされていた“Vibration”の話が元になっているという。
“Pick”というのは、「数ある中から選び出す」というニュアンスで、“Choose”よりはもっとくだけた語感のようだ。
したがって“Pickin' up good vibrations”は「良い霊気を選ぶ」=「良い雰囲気を感じ取る」=「身持ちがいい」ということであろう。
サウンドはサイケデリックで不思議な感じ、コーラスも複雑だが、とても洗練されていて美しいハーモニーである。

ちなみに、ビートルズの最高傑作アルバムと評される“Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”がリリースされたのは、翌67年6月のことで、多分にビーチ・ボーイズのこういった楽曲やアルバム作りを研究した節がある。
また、蚤助の個人的な見解だが、ビートルズの“Back In The USSR”という楽曲は、“Good Vibrations”のコーラス・ハーモニーに対するビートルズなりの返歌ではないかと思っている。

ビートルズとは違って、コンサート・ライヴを積極的に行っていたビーチ・ボーイズ、さすがにこのナンバーはライヴで演奏するのは無理だろうと思っていたが、実はアチコチで披露している。
日本では、アカペラ・グループの“RAG FAIR”(だったと思う)が、テレビでこの曲を歌ったのを観てビックリしたことがある。

この曲がヒットしたのは66年の秋頃で、年末には世界中でヒット・チャートのトップに立っていた。同時期に流行っていたのは、シーカーズ“Georgy Girl”、タートルズ“Happy Together”、ジェファーソン・エアプレイン“Somebody To Love”、シュープリームス“You Can't Hurry Love” といった曲であったが、“Good Vibrations”には完全にノックアウトされてしまい、買ったシングル盤はそれこそすり切れるほど聴いたものである。
蚤助の特にお気に入りの曲だったのだ。

二番からマイク奪われ戻らない  蚤助
こちらは“Bad Vibrations”、お後がよろしいようで...。

#648: マルタの鷹

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『マルタの鷹』(The Maltese Falcon)は、ダシール・ハメットの書いた古典的なハードボイルド小説である。

ロイ・デル・ルース監督の『マルタの鷹』(1931)、ウィリアム・ディターレ監督の『Satan Met A Lady』(1936 - 日本未公開)、ジョン・ヒューストン監督の『マルタの鷹』(1941)と、過去3度映画化されているが、ヒューストンの監督デビュー作でもある41年の作品がフィルム・ノワールの古典とされている。

ハードボイルドの私立探偵サム・スペードにハンフリー・ボガートが扮したが、探偵という職業を、最も魅力的に(?)表現した作品であることに異論はないであろう。
ボギーの映画のベストは何かと言われると、困ってしまうことになるのだが、強いて一本だけ挙げなければならないとするならば、蚤助としてはこの『マルタの鷹』を選ぶかもしれない。

この作品で、ヒューストンは脚本も担当したが、これ以前のシナリオライターとしての彼の仕事は、ラオール・ウォルシュ監督の『ハイ・シエラ』(1941)であった。
それはボギーが42歳にして初めて主演した作品でもあった。
ボギーは刑務所を出所したばかりのギャングを好演、スターダムに駆け上がる切っかけを作った。
ウォルシュの演出もさることながら、シナリオで情に通じたギャングという人物像を造形したヒューストンが、ボギーの魅力を引き出したともいえる。
余談だが、共演した女優(後に映画監督)のアイダ・ルピノの方が格上で、ファースト・クレジットはボギーではなく、彼女の方だった。

プロデューサーのハル・B・ウォリスは、当初、サム・スペード役にジョージ・ラフトをオファーしたが、新人監督とは仕事をしたくないなどと言われ断られたため、ボギーにお鉢が回ったという。ヒューストンが前作『ハイ・シエラ』でのボギーの演技を見ていたことも大きく寄与したのだろう。

原作小説の方は、完全な客観描写のみで書かれているので、ヒューストンは秘書に小説の中から登場人物のセリフと行動のみを抜書きした原稿を作らせ、これをベースにしてシナリオを作ったという。なるほど原作に忠実なハズだ(笑)。

原作を未読、映画未見の人のためにストーリーを詳述することは控えるが、相棒の探偵を殺されたスペード(ボギー)が、マルタ島に伝わるという鷹の彫像をめぐる犯罪を暴くという筋立てである。

『マルタの鷹』は、全編早口のセリフの連続である。
検事を前に早口で供述しているシーンで、ボギーが速記で調書を取っている男に「書き取れるか?」と訊く場面があったりする。
また、画面には登場しないまま、殺されてしまった人物の名前が重要であったり、登場人物のしゃべることがウソであったり、字幕を追って物語を理解するのはそんなに簡単ではない映画である。

そんな作品なのに、なかなか面白いのは、ボギーのちょっといかがわしい雰囲気を持ったタフな魅力と、ピーター・ローレ、シドニー・グリーンストリート、エリシャ・クック・ジュニア、ウォード・ボンドなど脇役の面白さ、そういったアクの強い役者たちを自在に操ったヒューストンのスピード感あふれる演出の切れ味によるものだろう。
スペードに言い寄る悪女を演じたメアリー・アスターは好演だが、妖艶な雰囲気が不足しているように思われ、蚤助のテイストではないのが残念。実生活においては当時のスキャンダル女優として有名だった。
スペードの秘書エフィはなかなか気が利く有能でチャーミングなキャラクターだが、演じたリー・パトリックが蚤助の好みではなかったのもくやしい(笑)。


(左からボギー、P・ローレ、M・アスター、S・グリーンストリート)
シドニー・グリーンストリートとボギーとの初対面の会話。

「君は無口なんだね」
「話好きです」
「結構、無口の人間は信用できない。たまにしゃべると場違いなことを言う。話し方も訓練しないとうまくしゃべれない」

初めてこの作品に接したとき、正義や愛やユーモアこそ映画だと思っていた映画好きには少しショックであった。悪人・善人を単純に区別することの虚しさも教えてくれた。
後年、蚤助が大人になって再見すると、ボギーの冷静さや、ハードボイルドの仮面の下にヒューマンな思いが潜んでいることを知って感動した。

ラスト近く、メアリー・アスターとボギーの会話。

「あの人(殺されたボギーの相棒)ただの探偵でしょ?」
「相棒が殺されたら男は黙っちゃいないんだ。君がどう思おうと関係ない。俺たちは探偵だ。相棒が殺されたら犯人は決して逃がさない。それが探偵ってものさ」

ボギーがアスターの女の誘いを断る場面である。
相棒の死にはこだわっていても、情には決して溺れないハードボイルド精神を伝えてあまりあるものだ。

ラストで、マルタの鷹の彫像を手に取った刑事のウォード・ボンド、その重さを訝しみ「重いな、何だ?」と訊くと、ボギー答えて曰く、

「夢がつまっているのさ」

このセリフ、原語では“The stuff that dreams are made of”で、“stuff”は「材料、原料」のほかに「つまらぬもの」という意味もあり、「夢をつくる原料」と「夢のもくず」という意味をかけているようだ。
ストーリーの結末をつけるのにはまことにふさわしいセリフだと思う。なお、このセリフは原作には出てこず、ヒューストンの創作だったそうだ。

ボギーのサム・スペードは映画の中の探偵としては異色の存在であったが、これによってハードボイルド探偵の原型が作られ、ボギー自身の出世作ともなったのである。

#649: 荒れ模様

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今夏は全国各地で猛暑、大雨、土砂災害が頻発したが、ここにきて御嶽山の噴火で多数の犠牲者が出たというニュースである。
被害に遭われた方々はまことにお気の毒というほかなく、心からお見舞い申し上げたい。
日本は本当に災害の多い国で、いつどこでも誰もが災害に見舞われる可能性があるということを再認識させられた。

だからというわけではないが、久方ぶりの記事は自然現象からの連想で、空模様について。といっても、別に天気予報について語るわけではない。

“Stormy Weather”(悪天候、荒れ模様)というアメリカの楽曲のハナシである。

1930年の末に、デューク・エリントンがニューヨークのコットン・クラブから去った後、キャブ・キャロウェイが出演するようになり人気を集めた。
キャロウェイといえば、蚤助の世代だと、65年の映画『シンシナティ・キッド』(ノーマン・ジュイソン監督)に出演したとか、80年にジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイドのハチャメチャ映画『ブルース・ブラザース』(ジョン・ランディス監督)に出演し、自身の大ヒット曲“Minnie The Moocher”などを披露して、人気が再燃したあのハイ・デ・ホーおじさんである。


(キャブ・キャロウェイ)
コットン・クラブの頃の彼の人気は最高だったが、出演3年も経つようになると、人気凋落傾向となってきたため、テコ入れ用にと書かれたのが“Stormy Weather”であった。

とはいえ、作曲したハロルド・アーレン自身がレオ・ライズマン楽団の演奏でレコードに吹き込み、すでにヒットさせていた。
それを33年初演の「コットン・クラブ・オン・パレード」というミュージカルに使い回したのだが...、結局、歌の内容がキャロウェイ向きではないということになり、代わりに歌ったエセル・ウォーターズが大好評、彼女はスターの地位を不動のものとした。ハイ・デ・ホーおじさんはガックリというわけだ(笑)。


(エセル・ウォーターズ)
しかし、この歌を有名にしたのはレナ・ホーンで、41年に初めて録音しヒットさせ、43年には初主演した同名映画でも歌って、不朽のナンバーとしたのだった。


(レナ・ホーン)
テッド・ケーラーの書いた歌詞は少々長いが、アーレンの曲調同様、なかなかブルージーである。

STORMY WEATHER(1933)
(Words by Ted Koehler, Music by Harold Arlen)

Don't know why, there's no sun up in the sky
Stormy weather
Since my man and I ain't together
Keeps rainin' all the time

なぜ空に太陽が姿を見せないのだろう
荒れ模様の天気
彼と別れてからずっと雨が降り続く

Life is bare, gloom and misery everywhere
Stormy weather
Just can't get my poor self together
I'm weary all the time, the time, so weary all the time

人生はむき出しの裸 どこも陰鬱で悲惨
大荒れの天気
ただ哀れな自分自身を受け入れることができない
ずっと疲れ果てているばかり
“get oneself together”という言い回しは「自制する」という意味だ。ここでは“get my poor self together”となっているので、「哀れな自分自身を抑える」、少なくとも表向きは何でもないように振る舞うということで、それすらもできない荒れた感情が外に表れてくる状態を言っているのだと思う。

When he went away, the blues walked in and met me
If he stays away, old rocking chair will get me
All I do is pray the Lord above will let me
Walk in the sun once more

彼が去ってしまうと 憂鬱(ブルース)がやってきた
彼がいないならば 古いロッキングチェアが要ることになるだろう
天にまします主に祈るばかり
もう一度太陽の下を歩ませてください、と
この一行目はなかなか英語的な表現で、「彼が去るとブルースが歩み寄ってきて、私に出逢った」というのだからどうも訳しづらい(笑)。
ロッキングチェア云々のところは、正直いって蚤助にはよくわからないが、推測するに、憂鬱になるとロッキングチェアに座り物思いにふけるという情景を表現したものだろうか。

Can't go on, all I have in life is gone
Stormy weather...
 
もうだめ 私の人生のすべてが消えてしまった
荒れ模様の空...

I walk around, heavy-hearted and sad
Night comes around, I'm still feelin' bad
Rain pourin' down, blindin' every hope I had
This pitterin', patterin', beatin' and spatterin' drives me mad
Love, love, love
This misery is just too much for me...

重い心と悲しみを抱えて 歩き回る
夜になっても 気分はひどいまま
どしゃ降りの雨が 私の希望を覆い隠す
このサーザーという雨音が 私を苛立たせる
愛、愛、愛
この惨めさは辛すぎる...

“pitter-patter(pit-a-pat)”、“beatin'”、“spatter”は、いずれもパタパタ、バタバタ、ドキドキ、パラパラというオノマトペ的な動詞で、ここでは雨が降る音の描写であるが、アメリカとは違って、日本ではどしゃ降りの雨はやはりザーザーと降るのだ。
続いて、“love, love, love”と繰り返しが出てくるのは、おそらく雨音がそう聞こえるということなのだろう。

恋人にフラれて、とことん落ち込んで、身動きもならない。でも、その気持ちをぶつける相手がない。だから気持ちが荒れ模様になっていく。ああ、もう、神様もみんなバカーッ!ってところだろうか。荒れ模様の天気に託して人生の無常感を歌った名曲である。

それではアイス・ビューティ(氷の美女)こと、レナ・ホーンの極め付きの歌。



日本では過小評価されているが、欧米ではショー・ビジネスを代表する大歌手。多数の人から尊敬される偉大なアーティストのひとりであった。43年の彼女が初主演したオール黒人キャストによるミュージカル映画『ストーミー・ウェザー』(アンドリュー・L・ストーン監督)の1シーンから。彼女の十八番で、生涯の持ち歌であった。

天も地も憎い生命を呑んだ土砂  蚤助

#650: ILL WIND

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前稿で“荒れ模様”という記事を書いたら、台風18号の襲来で本当になっちゃった(笑)。
その“Stormy Weather”を書いたテッド・ケーラー、ハロルド・アーレンの作詞・作曲コンビは、翌年の1934年にも天候を題材にした名曲を世に出している。
“Ill Wind”という曲である。

これもハーレムのコットン・クラブの「パレード・イン・ハーレム」という出し物のショーのために書いたものである。
ショーの中では、女性歌手でエンターテイナーのアデレード・ホールが歌ったが、同年、早くもピアノの巨匠アート・テイタムがソロ・ピアノで、この曲を録音している。
テイタムは32年にニューヨークでデビューしたが、ホールの伴奏者として活動している間にその名を高めていったので、ひょっとしたらその録音もホールの勧めによるものだったかもしれない。

雰囲気的には“Stormy Weather”とよく似ているブルージーなラヴ・バラードである。
ポピュラリティーの点では、“Stormy Weather”の方が有名だが、こちらの方が地味な曲の割にはジャズ・シーンで取り上げられる機会が多いようだ。

原題を直訳すると「病風」だが、言葉のニュアンスを考えると「向い風」もしくは「逆風」、それとも「心ない風」であろうか。失意の身には吹く風もつれないというストレートな解釈もあろうが、口さがない周囲の噂話のことだと解釈することだってできる。そういういろいろな捉え方ができそうな意味深長なタイトルである。

ILL WIND (1934)
(Words by Ted Koehler/Music by Harold Arlen)

Blow, ill wind blow away
Let me rest today
You're blowing me no good, no good

Go, ill wind go away
Skies are oh so gray
Around my neighborhood and that's no good

You're only misleading, the sunshine I'm needing
Ain't that a shame
It's so hard to keep up with troubles that creep up from out of nowhere
When love's to blame...

心ない風よ 早く吹き去っておくれ
今日は私を休ませてほしい
私の方に吹いてはダメ

心ない風よ 吹き止んでおくれ
大空はこんなに灰色
私の周りもそう そんなのはダメ

心ない風はただ迷わせるだけ 私には日の光が必要
恥ずかしいことじゃない
どこからともなくしのびよるトラブルとつきあっていくのは難しい
愛が咎めるべきものである時には...
圧倒的に女性歌手好みのナンバーで、中でもエラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーンの二大歌手が、昔から得意にし何度も録音している。特にエラのオペラ・ハウスでの名ライヴ(下左)、サラのベイシー楽団との共演盤(下右)が魅力いっぱいだ。それぞれに独自のブルース・フィーリングを楽しめる。

       

男性歌手ならばフランク・シナトラのソフィスティケイトされた語り口が味わい深い。


フランシス・フォード・コッポラが撮った84年の映画『コットン・クラブ』では、この曲をロネット・マッキーが歌っていたが、これもなかなか良かった。


最後に、忘れちゃいけないビリー・ホリデイの歌唱があった。
長年の麻薬癖と人生の苦闘で、身も心もすっかりボロボロの姿になってからのもの。
かつての美声はどこへやら、凄絶な気迫で辛うじてメロディーをたどる姿は、音楽を超えた生々しく痛々しい感慨とともに、リスナーの胸を強く打つものがある。


これぞまさしく「病風」だ。一度聴いたら一生耳に残る。
風よ、早く吹き去っておくれ。今日は私を休ませておくれ...
この2年後にビリーは死んだ。

深いシワ風と仲良くした顔だ  蚤助

#651: あなたと夜と音楽と

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昨晩の天体ショー、皆既月食を無事にご覧になることができただろうか。
一部の地方では雲に邪魔だてされて見られなかったところもあるようだが、蚤助の住むさいたま市は雲がかかることもなくバッチリ観察することができた。
写真を撮ろうとしたが、手ブレでなかなかうまくいかなかった。


ワルツ王として知られるヨハン・シュトラウスⅡ世に“Wein, Weib Und Gesang!”(Op.333)という曲がある。ウィンナ・ワルツ「酒、女そして歌」(Wine, Woman And Song!)である。


ジャズのプロデューサー、ピアニストとして名高いジョージ・ウェイン(George Wein)が、ルビー・ブラフ(tp)やジョー・ジョーンズ(ds)らと吹き込んだ56年のヴォーカル・アルバム(もちろんウェイン自身が歌っている)のタイトルは、シュトラウスのこのワルツをもじって“Wein, Women & Song”というものだった。何だか落語の三題噺みたいなタイトルだと思ったものだ。

“You And The Night And The Music”(あなたと夜と音楽と)という曲もやはり三題噺風だが、曲の内容はこのタイトルでおおよそ見当がつきそうだ。

YOU AND THE NIGHT AND THE MUSIC (1934)
(Words by Howard Dietz/Music by Arthur Schwartz)

You and the night and the music
Fill me with flaming desire
Setting my being completely on fire
You and the night and the music
Thrill me but will we be one
After the night and the nusic are done?

あなたと夜と音楽が 私を燃え盛る欲望で満たす
私はすっかり燃え上がる
あなたと夜と音楽が 私をぞくぞくさせる
でも夜と音楽が終わった後でも 私たちの心はひとつだろうか

夜明けの光が差し込んでくるまで 心のギターをかき鳴らそう
でも前触れもなく朝が来ると 星を連れ去ってしまう
二人がこの瞬間しか生きられないなら
この時が終わるまで 愛し合おう
夜と音楽が消えてしまった後でも あなたは私のものだろうか
愛する人と二人っきりで夜を過ごしているのに、もう朝のことが気になって、「捨てられてしまうんじゃないか」とウジウジ考える。自分に自信がないのだろうか。ムードたっぷりの音楽が流れている夜だから、お相手はうっとりとしている。でも、それは自分に魅力があるからではなくて、シチュエーションの賜物なんだ…、という感じか?
でも何だかなあ(笑)。

♪ ♪
作詞のハワード・ディーツは、映画会社MGMの広報担当から、後に副社長を務めることになる人物である。
MGMといえば映画の冒頭に出てくるライオン(レオ・ザ・ライオン)でお馴染みだが、あのレオ君を囲む輪っかの上に文字が書かれてあるのをご存じだろうか。
“ARS GRATIA ARTIS”(芸術は芸術のために)と書いてあるのだが、MGMの標語だそうで、これを考案したのが広報担当時代のディーツの仕事であった。

彼は、映画の広報として多忙だったはずの30年代に、無声映画の伴奏ピアニストだったアーサー・シュワルツと組んで、ブロードウェイ向けに多くの歌を作った。“Dancing In The Dark”(31)や“Alone Together”(32)に続く大ヒット作となった“You And The Night And The Music”は、34年にミュージカル“Revenge With Music”(音楽で復讐)のために書いた曲である。

この曲の人気が特に高まったのは、53年のフレッド・アステア主演のミュージカル映画『バンド・ワゴン』(ヴィンセント・ミネリ監督)の挿入曲として使われたからである。当時のアステアはご老体で色恋沙汰がもはや似合わなくなっているが、いざダンスシーンになると、実に軽やか、無駄のない動きで重力から解放されたように舞い踊る。アステアがシド・チャリシーと踊れば、それ自体がエンターテインメントだった。
Yes, That's Entertainment!

♪ ♪ ♪
多くの歌手やジャズ演奏家によって歌われ演奏されてきた曲だが、61年のシナトラの名盤“RING-A-DING DING”に入ったものが有名だ。いつもシナトラの歌ばかりで恐縮するが、いいものはやはりいいのだ。


夜のムードをたっぷり味わいたいならば、59年のチェット・ベイカーが本命だろう。チェットのリリカルなトランペットとともに、オープニングとエンディングにポール・チェンバースの弾く弓弾きを配して、スロー・テンポを巧みに使った構成も見事だ。ピアノはビル・エヴァンス。


そのビル・エヴァンスは、この曲が好きだったようで、何度となく録音をしている。62年、フレデイ・ハバードやジム・ホールらとスウィンギーに演奏(アルバム“INTERPLAY”)したものが名高いが、ここでは、ベースの盟友スコット・ラファロと巡り会う前の59年、上記チェットとの録音と同時期のエヴァンス・トリオを紹介しておこう。このベースもやはりポール・チェンバース、ドラムスはフィリー・ジョー・ジョーンズ。


♪ ♪ ♪ ♪
ところで皆既月食の写真だが、あれこれ試行錯誤の上、我が家のベランダから三脚を使って撮影したのが冒頭の画像。素人にしては上手く撮れたのではあるまいか。

夜の闇心の闇もいつか明け  蚤助

#652: 暗闇に踊る

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ハワード・ディーツ、アーサー・シュワルツの作詞・作曲コンビの書いた“Dancing In The Dark”はロマンチックなラヴ・ソングである。
1931年のレヴュー『バンド・ワゴン』のために作られた。フレッド・アステアが姉のアデール・アステアと共演した舞台で、アデールはこの後、英国の貴族と結婚して芸能界を引退した。

“Dark”(暗闇)というのは当時の世相、すなわち「世界恐慌」の不況を喩えていて、当時の批評家連中から絶賛されたそうだ。53年に映画化された『バンド・ワゴン』では、アステアがシド・チャリシーと優雅な踊りを披露した。


DANCING IN THE DARK (1931)
(Words by Howard Dietz / Music by Arthur Schwartz)

Dancing in the dark 'til the tune ends
We're dancing in the dark and it soon ends
We're waltzing in the wonder of why we're here
Time hurries by, we're here and we're gone...

暗闇の中で踊る、曲が終わるまでは
でも暗闇の中では それもすぐに終わってしまう
二人はなぜここにいるのかと思いながら ワルツを踊る
時は駆け足で過ぎ去り 二人は別々の道を歩む...
この暗闇の中で光となってくれるのは「あなた」しかいない。たとえ刹那の恋であろうとも、恋する心は永遠、という風な歌だ。



男性歌手ならビリー・メイ楽団をバックに明るくスウィンギーに歌い上げたフランク・シナトラのものがとてもいいが、ここはレディー・ファースト、原曲のムードを的確に伝えてくれるジョー・スタッフォードの歌唱をどうぞ。バック・コーラスはスターライターズ(だと思う)。


インストでは、何といっても、ジャズ入門の基本的一枚とされる59年の“Somethin' Else”が美しい。キャノンボール・アダレイ名義の実質マイルス・デイヴィスのリーダー作だが、この曲はボスのマイルスにはお休みいただいて、キャノンボールが本領を発揮、全編ふくよかな情感がこもったアルト・サックスを披露する。素晴らしい出来栄え。


世のご婦人方も、アステアのような粋なダンスの名人と一緒なら暗闇でも大丈夫だろう。もっとも踊れればの話だが…。
事はそううまく行かないのが普通のようで…、ご用心なされませ。

暗がりにくるとカレシの荒い息  蚤助

#653: バンド・ワゴン

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このところ続けて、ディーツ&シュワルツの楽曲が出たところで、それらが使われた肝心の映画本編が登場しないのはおかしいではないかという声が……どこからも出て来ないのだが、蚤助としてはやはりこのままにしてはおけない(笑)。
ということで、今回は映画『バンド・ワゴン』(1953)について。

ハワード・ディーツとアーサー・シュワルツが得意としたのは、しっかりとしたストーリーを綴った台本に基づくミュージカルというよりも、ストーリー性にはこだわらず、いくつかの歌やダンスを束ねて披露するヴァラエティ・ショウ形式のものだったようだ。アデールとフレッドのアステア姉弟のダンス・チームによる31年の舞台版『バンド・ワゴン』もそんな形式のものだったという。アデールはこの舞台を最後に結婚、フレッドの方は姉が引退したためにハリウッドにやって来たのである。

映画版は、舞台版とは直接関係のないオリジナル・ストーリーだというが、使われた音楽はディーツ&シュワルツのものだった。つまり、このソングライター・チームにとっては初めての本格的なミュージカルだったということになる。

アーサー・フリードがプロデュースしたミュージカルはMGMの名物というばかりではなく、アメリカの映画史に燦然と輝く文化財で、ハリウッドの誇りともいえる。
『バンド・ワゴン』もそのフリードの輝かしい業績のひとつである。監督はヴィンセント・ミネリ、脚本はベティ・コムデンとアドルフ・グリーン。

ハリウッドで人気が過去のものとなったミュージカル俳優が、ブロードウェイで再起するという物語である。落ち目のミュージカル・スターにフレッド・アステアが扮したが、主人公がまるでアステア本人のように描かれるので残酷といえば残酷な企画であった。脚本のユーモアに惹かれたというアステアは自信があったとはいえ、そぅいう作品に出演をする勇気は偉いものである。


タイトル・バックはトップハットとステッキで、アステアのトレードマークだが、カメラがひくとこれが競売にかけられている。しかし、買い手がつかないのだ。いかにも一世を風靡したフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャースの時代は過去のものという描き方である。

半ば引退したような日々を過ごすかつてのミュージカル・スターのアステアは、久々にニューヨークにやって来る。駅に降り立つと大歓迎の群衆、と思うと歓迎されていたのは別の降り口に立ったエヴァ・ガードナー(本人のカメオ出演)であった。この駅のセットはMGMのスタジオに残っていて、映画『ザッツ・エンタテインメント』(1974)におけるアステアは、このセットで思い出を語った後、ジーン・ケリーを紹介、バトンタッチするという仕掛けになっていた。

駅でアステアを出迎えたのは、ナネット・ファブレイとオスカー・レヴァントのミュージカル作家夫婦。まるで、この映画のシナリオを書いたコムデン&グリーンの名コンビのようだ。二人は新作の脚本をアステア主演で舞台化すべく駅に駆けつけたのだ。
気乗りのしないアステアに、二人はとにかく舞台の演出家に会ってくれという。

この演出家に扮したのがイギリスの古い芸人、ジャック・ブキャナンという人。俳優兼演出家という役どころで、歌、踊り、怪しげな古典劇まで演じてみせるという活躍ぶりだ。蚤助はほかの出演作を知らないが、すこぶるつきの芸達者である。当初、クリフトン・ウェッブ、エドワード・G・ロビンソン、ヴィンセント・プライスなどのキャスティングが検討されたというが、ブキャナンはなかなかのはまり役だ。この映画の4年後に亡くなっている。

アステアは逃げ腰なのだが、ブキャナンは新作ミュージカルの演出をする理由をこう言って説得する。

「ビル・シェークスピアもビル・ロビンソンも精神は同じだ」
ちょっと分かりにくいセリフだが、ビルはウィリアムの愛称で、ウィリアム・シェークスピアをこう呼んでいるわけだ。それにしてもシェークスピアをビルと呼ぶのは極めて珍しい(笑)。ビル・ロビンソンは、30~40年代に活躍したタップの名人だった黒人ダンサーである。
こう言ってあの傑作ナンバー“That's Entertainment”を歌い出すのだ。

前述したとおり、ディーツ=シュワルツにとって初めての本格的ミュージカルということで、二人の多くのヒット・ナンバーから選曲することになったが、製作のフリードがそれだけでは不十分だと考え、新曲を書いてほしいと依頼した。二人が30分ほどで書き下ろしたのがこの曲であった。ショウの素晴らしさが存分に歌い上げられていて、アーヴィング・バーリンが『アニーよ銃をとれ』のために書いた“There's No Business Like Show Business”(ショウほど素敵な商売はない)とともにショウビズ讃歌の双璧といってよいだろう。


新しいショウを始めようとするとき、アステアを励ますようにブキャナンが歌うと、オスカー・レヴァントとナネット・ファブレイが加わり、やがてアステアも加わるという構成だ。歌の出だしの歌詞がちょっといい。

Everything that happens in life can happen in a show
You can make them laugh, you can make them cry
Anything, anything can go...

人生で起こることは全部ショウの中でも起こる
人を笑わせたり 泣かせたり
何でもありうるのさ...
ちなみに、歌詞の中に“A Gay Divorcee”(陽気なバツイチ女)という言葉が出てくるが、これはアステアとジンジャー・ロジャースが初めて主演した『コンチネンタル』の原題“The Gay Divorcee”をもじったものである。

こうして、アステアはショウ出演を承諾し、アステアの相手役にバレエ・ダンサーのシド・チャリシーが抜擢されることになる。チャリシーはこの作品が映画初出演で、しかも、少女時代から憧れの人であったアステアへの畏敬の念から、必要以上に緊張したという。一方、アステアは、チャリシーの身長が高すぎるのではないかと神経質になっていたそうだ。

「あなたの映画を博物館で見ました」
これは、チャリシーがアステアに言うセリフである。チャリシーは尊敬の念を述べたつもりだったが、アステアは骨董品扱いされたと思いカチンとくる、というわけだ。このあたりも売れなくなった元スターの立場をよく表現したセリフだ。

喧嘩が恋に発展するという話はよくあるパターンだが、歌曲の良さ、ダンスの良さ、そしてブロードウェイのミュージカル製作の舞台裏を戯画化したところなど、なかなかうまく出来ている。ショウ・ビジネスの世界でメシを食ったものでなければ描けぬような面白さである。

そのブロードウェイのステージ・ショウの最大の呼び物が“ガール・ハント・バレエ”。映画の製作当時、爆発的な人気を得ていたミッキー・スピレーンのいささか俗悪なハードボイルド小説のような世界をパロディ化したダンス・ナンバーで、ショウのクライマックスとなっている。典型的な優男のアステアが、マイク・ハマー風のハードボイルドの私立探偵に扮するが、これが実に決まっているのが面白い。真面目にハードボイルド探偵を演じているのがユーモラスだ。妖艶なムードを醸し出すチャリシーと踊るのだが、非常に新鮮なダンス・ナンバーになっている。振付をしたのは若々しく、メカニカルな振付をすることで知られたマイケル・キッドだった。


このショウの主人公の独白として画面の外から聞こえてくるのが、アステアのナレーション。

「奴らはうまくやった。だがひとつ間違いを犯した。俺を怒らせたことだ」
「彼女はワルだ。危険だ。だが俺のタイプだ」

あの粋で洗練されたアステアにこういうハードボイルドなセリフを言わせているのも面白い。このナレーションを書いたのは、作曲のフレデリック・ロウと組んで『マイ・フェア・レディ』などの歌詞、台本を書いたアラン・ジェイ・ラーナーだそうだ(これはTrivia!)。

長年にわたりB級・C級映画まで公平で誠実な批評をしたことで知られる映画評論家・翻訳家の故双葉十三郎氏が☆☆☆☆★(85点)と高い採点をした作品。この作品を愛する映画ファンは数多い。何を隠そう蚤助もその一人である。

最後になったが、『バンド・ワゴン』というのは「パレードの先頭を行進する楽隊車」などと辞書には載っている。お祭りのパレードの雰囲気を盛り上げるための先導車の役割を果たすのであろう。


エキストラ芝居しすぎて外される  蚤助
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