Quantcast
Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
Viewing all 315 articles
Browse latest View live

#614: お〜んりぃゆ〜♪

$
0
0
何回目になったかはヒミツにしておくが、本日、すなわち4月5日は蚤助の誕生日である。何だか久方ぶりにオールディーズを聴きたい気分なのである。ということで選んだのはこれ…。

ギターが奏でるイントロに続き、リード・テナーのトニー・ウィリアムスが歌いだす。曲の冒頭のこの数秒間だけで胸がジーンと熱くなるポップス・ファンはかなりいるはずだ。いわずと知れたザ・プラターズの出世作であるとともに、ポップス史に残る名曲“Only You (And You Alone)”で、スロー・ドゥ・ワップの傑作である。

プラターズは53年に男性4人組で結成されたが、やがてオリジナル・メンバーのハーブ・リードのもとに、トニー・ウィリアムス、デヴィッド・リンチ、ポール・ロビ、そして紅一点ゾラ・テイラーが加わり男女混成5人組になった。55年の“Only You”の大ヒットから、61年にトニーとゾラが脱退するまでの足かけ6年間が彼らの黄金時代だった。

プラターズは、ナッキンコールとともに、最も白人ウケ、そして日本人ウケした黒人のアーティストだったといえよう。1955〜56年には7曲ものビッグ・ヒットを出した。特にリード・テナーのトニーのファルセット混じりの独特の唱法は一世を風靡した。その後はメンバーチェンジが頻繁に行われ、脱退したメンバーが新たにプラターズを名乗るなどして裁判沙汰にもなった。一時、プラターズを名乗るグループは全米に何組もあったという。50年代のロックンロール時代において最も洗練された黒人コーラスであった。

“Only You”は、作曲家でプラターズのプロデュースを手掛けたバック・ラムが作った曲(歌詞はアンデ・ランドの作)で、当初はマイナー・レーベルで発表した作品である。この時は全く注目されず、後にマーキュリー・レコードで再発売されたのだが、会社が宣伝に乗り気でなかったため、バック・ラムのスタッフが全米のラジオ局を訪ね、9か月間かけてプロモーションを行った結果、全米5位のビッグ・ヒットとなった。まさに、作者の作品へのこだわりと執念、血と汗が成功への扉を開いたのである。まずは、彼らの動画をこちらでどうぞ。

Only you can make all this world seem right
Only you can make the darkness bright
Only you and you alone can thrill me like you do
And fill my heart with love for only you…

君だけが この世をすべて正しいと思わせてくれる
君だけが 暗闇に輝きをもたらしてくれる
君だけが 君ひとりだけが 僕をこんなにときめかせてくれる
そして 僕の心は 君だけへの愛でいっぱいなんだ…
少々しつこいくらいに切々と恋人を賞賛するバラードだが、ちょっぴりロックンロールのテイストが隠し味になっているところがミソである。歌詞をよくみていくと、何だか「僕」の「君」に対する下心が透けて見えてきそうだ(笑)。

ポピュラー・ソングのタイトルは歌詞の中のフレーズの中からつけられることが多い。それは、曲に親しみをもたせセールスにつなげようという魂胆からくるものだろう。ある物好きなジャズファンが、1930〜40年代に生まれた主なジャズ・ソング500曲を調べたところ、およそ4割の歌は歌い出しの歌詞をそのままタイトルにしていたという。この“Only You”の場合は、歌い出しからこれでもかというほど“Only You”というタイトルフレーズを乱用している。数えてみると、全部で9回ほど“Only You”が出てくるが、これだけ続ければ曲名が忘れられることは決してないだろう(笑)。


(The Platters)
ただ“Only You”はプラターズの個性があまりにも強い歌なので、日本のキングトーンズのようにプラターズ路線の歌い方をするのがいわばお約束になっている。他の歌い方がしづらい曲なのだが、当時プラターズと競作としてリリースされたザ・ヒルトッパーズのヴァージョンがある(こちら)。白人コーラス・カルテットで非常に丁寧に歌っている。なお、映像ではメンバー全員、胸にWの文字をつけていて、まるで早稲田大学の学生のようだが、彼らはウェスタン・ケンタッキー州立大学(WKU)の学生バンド出身だったそうだ(笑)。彼らにはカリプソ・サウンドで「オールデイ&オールナイト、マリアンヌ」とほのぼのと歌う“Marianne”という57年のヒット曲もあった。また、76年には、ソフト&メロウなフィラデルフィア・ソウルのザ・スタイリスティックスが甘くて官能的なコーラスを聴かせた(こちら)。異色なのは、75年にヒットしたリンゴ・スターのヴァージョンで、ジョン・レノンに勧められて、カヴァーしたという。アレンジとギターがジョン、ニルソンがコーラスで参加するという豪華なメンバーのサポートで、リンゴらしい淡々とした持ち味を発揮、心が和む歌声を聴かせてくれる(こちら)。

余談になるが、マーキュリー・レコードはプラターズの宣伝にはまったく消極的だったが、この曲のヒットで態度が一変、プラターズを強力にバックアップする方針を打ち出すのである。プラターズのマネージメントもやっていたバック・ラムに、会社は“Only You”の人気が沸騰している時期に次作の準備を指示する。忙しいスケジュールの合間をぬい、ラムが滞在先のホテルのトイレで書いたのが“The Great Pretender”という曲だった。「僕はえらく見栄っ張り、道化師みたいに陽気に笑って…」と思いを寄せる女性の気を惹くための悲しい姿を歌った詞もラム自身が書いた。この歌詞がセンチメンタルなメロディに乗って大ヒット、プラターズに初の全米1位をもたらした。これが、ロックンロールが誕生した55年以降、黒人コーラス・グループが初めて全米1位を獲得した記念すべき作品となった(こちら)。

あらためて“Only You”を聴いてみると実に歌いやすい曲である。カラオケでも英語の歌で“My Way”なんかを聴かされるよりも、こちらの方が苦痛が少ない(笑)。それでは、小生も歌ってみるとするか、なーに、発音なんぞは気にすることはない、ワン・ツー・スリー・ハイ、♪お〜んりぃゆ〜…

君だけと何だお前も言われたか(蚤助)

#615: 黒→白カヴァー曲

$
0
0
これまで何度か書いてきたが、50年代半ば、ロックンロール時代の黎明期、黒人アーティストが作り歌った多くの名作が、白人のソロ・シンガーやコーラス・グループによるカヴァーによって人気を掠め取られた。黒人アーティストが創ったものをベースに白人が稼ぐという構図である。この状況はジャズやブルースなど他の音楽分野でも全く同じであった。現在でも多分にそうだが、当時もカヴァー曲は大はやりであった。ただ単に人の持ち歌を歌うのではなく、いかに自分の個性を入れてカヴァーするかがブレイクするかどうかのポイントであったろう。芸術の多くはコピーから始まるといわれるが、それは音楽にも言えることである。これから紹介するのは、黒人アーティストのオリジナルよりも白人アーティストで人気が出た二つのカヴァー曲である。


まずは50年代の黒人ドゥワップ5人グループのザ・コーズ(The Chords)が歌いトップ10入りさせた“Sh-Boom (Life Could Be A Dream)”である。ザ・コーズは、51年にブロンクスで結成され、路上で歌っているうちにレコード会社と契約するに至ったのだが、54年に作ったレコードのB面に入れた“Sh-Boom”が有名になった。作ったのは、ジェームズ・キーズ、クロード&カールのフィースター兄弟、バディ・マクレエ、ウィリアム・エドワーズ、すなわちザ・コーズのメンバー5人の共作だったが、後にも先にもヒットしたのはこれっきりで、結局は“Sh-Boom”の一発屋(One Hit Wonders)だった。まずは、彼らのオリジナル・ヴァージョンを聴いてみよう(こちら)。この“Sh-Boom”を、最初のドゥワップ、あるいはロックンロールのレコードとみなしてもいいという識者もいるようだ。

同年、これをカナダ・トロント出身の白人ドゥワップ・グループ、ザ・クルー・カッツ(The Crew Cuts)が録音した。


(The Crew Cuts)
基本的に、彼らの歌はザ・コーズと比べてそんなに変わったところはないのだが、オリジナルにはない“Sh-boom, Sh-boom”の後に、“Yadda da da yadda da da da da da…”などと合いの手を追加し、ちょっとだけソフィスティケートをしてよりポップなテイストにしたところが、広く白人層にもウケたというところだろうか。9週間首位の座を守り、20週間もチャートにとどまった(こちら)。

“Sh-Boom”に特別な意味があるわけではなく、ここではただの合いの手として使われている。元々は爆弾が落ちる時の音からきているようで、いわば「ヒュー、ドカーン!」という感じなのだろう。歌詞は同じフレーズの繰り返しなので、簡単に覚えられそうな気がする。ただ、擬音とスラングが用いられているようなので、そこの部分は日本人にはちと歯ごたえがありそうだ。“Life Could Be A Dream”(人生は夢かもしれない)と、擬音(ドゥワップ)の繰り返しの部分を省略してしまうと、こんな歌詞であった。

Life could be a dream
If I take you up in paradise above
If you would tell me I'm the only one that you love
Life could be a dream, sweetheart
Hello hello again, we'll meet again

If only all my precious plans would come true
If you would let me spend my whole life lovin' you

Every time I look at you
Something is on my mind
If you do what I want you to
Baby, we'd be so fine…
要するに、この歌が流行った50年代の半ばは、黒っぽい香りのする歌はまだまだ全米で広く受け入れられることはなかったのだ。

♪ ♪
さて、もうひとつは、サウス・カロライナの高校生たちによって結成された黒人コーラスのザ・グラジオラス(The Gladiolas)のリーダー、モーリス・ウィリアムスが57年に書いた“Little Darlin'”である。カリプソ・ビートのダンサブルなリズム・アンド・ブルースである(こちら)。素朴であまり垢抜けないコーラスだったせいか、小ヒットにとどまった。

ところが、54年に結成された白人ドゥワップ・グループ、ザ・ダイアモンズ(The Diamonds)のマネージャーを務めていたナット・グッドマンが、グラジオラスのオリジナルを聴いて興味を持ち、同年、ドゥワップ・スタイルに編曲したレコードを制作、リリースすると、これが大当たりした(こちら)。素っ頓狂な声を巧みに配したところがユニークで成功した一因であろう。低音での語りのパートも効果的だし、リード・ヴォーカルも気合が入っている。粗削りなところもあるが、かえってそれが印象的となった。

これも合いの手とドゥワップ部分をを省くとこんなとても簡単な歌詞だ。

Oh, little darlin', where are you
My love, I was wrong to try, to love two
Know well that my love was just for you
Only you

My darlin', I need you to call my own
And never do wrong to hold in mine
I'll know too soon
That all is so grand, please, hold my hand…

(The Diamonds)
ダイアモンズは黒人もののカヴァー専門でヒットを多く飛ばしたが、同様の先輩格“Sh-Boom”のザ・クルー・カッツと出身地が奇しくも同じトロントであった。ダイアモンズのこのカヴァーはオリジナルを凌ぐゴールド・ディスクを獲得したが、強敵エルヴィス・プレスリーの“All Shook Up”(恋にしびれて)に阻まれて1位を獲得することができなかった。また、60年、伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズによる日本版も非常に人気を集めた(こちら)。

♪ ♪ ♪
余談だが、“Little Darlin'”の作者、モーリス・ウィリアムスは、ザ・ゾディアックス(The Zodiacs)を率いて、60年には“Stay”を全米トップのヒットを放った(こちら)。蚤助の耳にはこのコーラスはあまりピンとこないのだが、少なくとも作者モーリスにとっては“Little Darlin'”の雪辱を果たした格好になった。そして63年にはホリーズ(英国チャート8位)、64年にはフォー・シーズンズ(全米16位)(こちら)がカヴァーしヒットさせているが、どちらの白人コーラスもオリジナルを超えることはできなかった。また、その後もブルース・スプリングスティーンやシンディ・ローパーなどがカヴァーし、いわばスタンダード化した楽曲になっている。60年代に入ると、ソウルやリズム・アンド・ブルースなど黒っぽいテイストやサウンドが広く受け入れられる土壌が整ってきたということなのだろう。

コーラスが終わると咳をひとしきり(蚤助)

#616: R&R讃歌

$
0
0
前稿で「“Sh-Boom”を最初のドゥワップ、あるいはロックンロールのレコードとみなしてもいいという識者もいるようだ」と書いた。これには少し注釈が必要かもしれない。

“Rock And Roll”(Rock'n' Rollとも表記する)の起源には様々な説がある。一般的には、ビル・ヘイリーと彼のコメッツが1955年に発表した“Rock Around The Clock”からというのが定説になっている。これは、ビッグ・ヒットになって初めて商業ベースに乗ったためである。ロックン・ロール自体は、きわめて曖昧な形で始まり、急激に注目を集め始めてから一気に人気が出たので、現在でもなお、ビル・ヘイリー起源説が最有力視されている。したがって、55年がロックンロール元年という見方がなされているわけである。


「ロックンロールは曖昧な形で始まった」というのは、55年以前から萌芽のようなものが誕生していたからである。いくつかの説の中で、最も信頼性の高いと思われるのが、ビル・ヘイリーのような白人アーティストではなく黒人アーティストたちの断片的なブルース、もしくはリズム&ブルースからのサウンドの変化によるものだという。ロックン・ロールの萌芽は、48年のロイ・ブラウン(Roy Brown)による“Good Rockin' Tonight”という曲だとみられている。続いて、ビル・ムーア(Bill Moore)の“We're Gonna Rock”、52年にはレイヴンズ(The Ravens)の“Rock Me All Night Long”が発表されるが、当時は一部でダンス・ナンバーとして受け入れられているだけであった。

53年に発表されたビル・ヘイリーの“Crazy Man Crazy”という曲が、ごく初期のロックン・ロール作品として位置づけられているが、それというのもこういうタイプの曲がヒット・チャートに初めて顔を出したからだった。前述の黒人アーティストによる3曲は、いずれもビル・ヘイリー以前に制作、発表されていることに留意すべきである。しかも、まだ“Rock”とか“Rock And Roll”という言葉がまだ社会的に広く認知されていない時代に、曲のタイトルに使われ、すでにそれらしきサウンドになりつつあったことが重要なのだ。例の“Sh-Boom(Life Could Be A Dream)”もそういう流れの中で把握しなければならないのだ。


(Alan Freed)
また、白人ながら50年代初期のリズム&ブルースに通じていたラジオの人気ディスク・ジョッキー、アラン・フリードは誰よりも敏感に来たる時代に流行する音楽の方向性を感じとり、51年には自分の担当する番組に“Rock'n' Roll”という言葉を使い、フリードは「ロックンロールの命名者」として知られるようになった。あれやこれやで、ビル・ヘイリー以前にロックンロールの起源があったとする説はきわめて有力なのである。要は、ジャズやブルースと同様、ロックンロールも一人のアーティスト(例えばビル・ヘイリー)などによって、ある日突然生み出されたわけではないということなのだ。

かくして世はロックンロールの時代になるのだが、チャック・ベリー(冒頭画像)が自作自演した“Rock And Roll Music”という曲は、まさにロックンロール讃歌のような曲であった。ベリーの回想によれば、当時ブームだったロックンロールの楽しさと魅力を歌詞とメロディに素直に書きとめることができた作品だったと自負しているのだ。彼の楽曲の中では、日本で最も知名度の高い作品かもしれない。

Just let me hear some of that rock and roll music
Any old way you choose it
It's got a back beat, you can't lose it
Any old time use it
If you wanna dance with me, if you wanna dance with me…

聞かせてくれよ R&Rミュージック
やり方はどうでもいい 間違えようのないバックビート
どんな時でも R&Rミュージック 俺と踊るなら(以下繰り返し)

モダン・ジャズにケチはつけない 良くないのはただテンポが速すぎて
メロディの美しさが無くなって
シンフォニーみたいに聞こえるときさ

彼女を裏町に連れて行った 泣かせるサックス吹きを聞かせたくて
あのバンドはロックしている
ハリケーンみたいにぶっ飛ばしている

遠い南部のお祭りで 皆がみんな大騒ぎ
自家製の酒(どぶろく?)をがぶのみ
踊る連中は盛り上がる

タンゴなんて聞きたくない マンボだって踊りたくない
コンゴには早すぎる
だからピアノでロックしてくれ
歌詞にあるように、当時、一方のブラック・ミュージック・シーンで全盛を極めていたモダン・ジャズのことを、あんなに速いテンポで演ったりメロディの美しさを変えたりしなけりゃ文句はない、と歌っているところなどとても面白い。

発表されて以来、カントリー、ロックをはじめ、年代や分野を越えて幅広く長い人気を保っている曲だが、ベリー以降、リバイバル・ヒットしたのは、76年ビーチ・ボーイズだけであるのが不思議である(こちら)。

こう書くと、ビートルズが録音して大ヒットさせているじゃないか、とクレームがつきそうなので、一応弁解しておくと、ビートルズのヴァージョンは5枚目のアルバム“BEATLES FOR SALE”(アメリカでは“BEATLES '65”に収録されていて、ポール・マッカートニーがレコーディングで初めてピアノを弾いた曲としても知られているが、シングル・カットされたのは世界中で日本だけで、日本独自のヒット曲なのである(こちら)。66年の日本武道館の来日公演の冒頭1曲目はこの曲であった。


(The Beatles/Rock And Roll Music)
ちなみに、ビートルズは今もなお高い人気を誇り、その作品が売れ続けている稀有なアーティストなので、現在はどうか不明だが、手元にあるちょっと古いデータ(75年)では、日本で売れたビートルズのシングル盤のトップ3は、1位“Let It Be”(138万枚)、2位“Hey Jude”(102万枚)、3位がこの“Rock And Roll Music”(84万枚)ということになっている。つまり、この曲はビートルズが日本でリリースしたシングル盤で3番目に多く売れた曲なのである。参考までに、同じ75年のデータで全世界では、“Hey Jude”(1300万枚)、“I Want To Hold Your Hand”(1000万枚)、“Get Back”(900万枚)という順番になっている。

以上、二組のビッグ・アーティスト以外にも多士済々がロックンロールの定番曲として演っているが、特にライヴに映える作品として人気のある曲である。

楽器ソロさせて息つくロック歌手(蚤助)

#617: 「隠す」川柳

$
0
0
以前「嘘」について書いたことがある(こちら)。それと一部重複するところがあるかもしれないが、今回は『隠す』川柳である。


「嘘」と「隠す」。「嘘」が“事実でないことを言って偽ること”であるのに対して、「隠す」は“人の目につかないようにする、秘密にする”ことである。つまり、「隠す」の本質は“見せない、言わない”という点にあることで、事実でないことを言ったり見せたりする「嘘」とは決定的な違いである。

【隠】という漢字を調べてみると、左側の「こざと偏」は元々神様が上り下りする梯子(段のついた土山)を意味していて、ひいては「神」そのもの、あるいは神が宿る「山」を意味するのだそうだ。右側の方は、「上からかぶせた手+工具+手+心臓」を組み合わせた象形で「工具を両手でおおいかくす」ことをあらわし、すなわち「山に覆われて見えない」、もしくは「ひそかに神に祈る」様子を表しているという。ここから「かくれる」という意味合いが出てきたのだそうだ。

ことわざに「色の白いは七難隠す」というのがある。バーゲン品などで、商品に少々難があるからこの値段(要はいわゆる「ワケアリ商品」)というのはよくあるが、老婆心ながら、七難もあっては売れ残るだろうと気がもめてしまう(笑)。仏教で「七難」といえば、「火難」「水難」など七種の災難を表すのだが、ここでの「七難」は難点が七つという意味ではなく、「いろいろな」「種々の」「さまざまの」という意味である。「七面倒」とか「七転八倒」などという言い方と同じく、たくさんあることである。江戸の戯作『浮世風呂』(式亭三馬)には「まだしも色白だから七難も隠すけれど」とある。色白の人はさまざまな欠点があってもそれが目立たない、むしろそれを補って美しく見える、というわけだ。同じく江戸時代の『好色一代女』(井原西鶴)には当時の美女の理想像として「顔は少し丸く、目は細くなく、眉が太く両方の眉の間がゆったりとして、口は小さく、歯並びはくっきり目立つほどで、色が白く、生え際が美しく、胴はふつうの人より長い」とあったりするが、眉のあたりや胴長であることをのぞけば、現代の美意識とさほど変わらないようだ。美人の基準というのは時代によって変わってきているが、色白というのは、いつの時代にも歓迎される要素のようだ。

もうひとつ「隠す」で連想するのが「ネコババ」。江戸時代の後期から用いられている言葉だという。尾籠な話で恐縮だが、言葉の由来は、猫が排泄した糞(ババ)を土砂をかけて隠すことから、「見苦しいもの」をあたかもそれが無かったかのように隠そうとする行為からきたものだという。これが通説なのだが、他にも猫好きの老女(婆)が借りた金を返済しなかったことから来たという「猫婆説」も流布しているようだ。「ネコババ」は「悪い(見苦しい)ことを隠して知らぬふりをすること」(広義)だが、特に「拾得物をそのまま自分のものにしてしまうこと」(狭義)をいう。本来は、広義で使われるはずの言葉が、現在ではもっぱら狭義で使われているわけだ。広義の方は、要するに「狭義」ではなく「虚偽」のことで、真実ではないのに、真実のように見せかけること、つまり「嘘」と通じるのだが、「嘘」は必ずしも悪いことばかりとは限らない。「ネコババ」のように「悪いこと」が前提となっているのとは違うので、類義の言葉とはならないのだ。で、結論、「ネコババ」に正義はない(笑)。

♪ ♪
我々はいろいろなものを隠す。「人」、「物」はもちろんのこと、「事実」「情報」「事件」「醜聞」、時として「本心」や「正体」、「悩み」や「苦しみ」などだが、果たして、あなたは…?

平成22年7月 NHK文芸選評・川柳
課題「隠す」   安藤波瑠・選
もう少し隠して欲しい夏が来る   古野つとむ
隠し場所だあれも知らぬのも困る   山中洋子
根性は笑顔の中に包んでる   柴田園江
凡人は小さな爪も見せたがる   村越友吉
正体を見せず面接擦り抜ける   坂田佳友
隠さずに話して罰が重くなる   安田節子
最後まで猫を被ってほしい妻   有田澄子
隠しごといっぱいスリルある夫婦   高東八千代
説明が面倒だから貝になる   山下怜依子
墓場まで持ってくはずが酒に出る   川北英雄
不都合な金は雑費に身を隠す   田中由美子
善人の嘘隠すのは頭だけ   植村和一
次々と変えてはてなの隠し場所   杉原すみ子
思春期を覗けば隠すものばかり   蓮見 博
口止めは自分の口を先に止め   金具雄二郎
持ち帰る指名されないかくし芸   関根一雄
ケータイにばっちり残る隠し事   伊黒敬雄
神様が老眼鏡をまた隠す   平井義雄
さよならと帽子のつばを深くする   高橋寿久
軍事便真意は書けず悶えてた   松浦澄子


モザイクをかければ本音溢れ出る   松?竜人
寸分も地肌は見せぬ厚化粧   篠原也永美
あれだけで水着の役目果たす布   山本二郎
控え目な妻が見えない糸を引く   加納金子
ミスよりも隠したことで責めを負う   土屋昭三
冷蔵庫奥にないしょが期限切れ   酒向邦一
隠し場所思い出せずに大掃除   本田 弘
じっとしていられぬ孫の隠れんぼ   森 錠次
急な客隣の部屋は硬く締め   中村征子
特価品シールの下の気にかかり   吉野健司
匿名の寄付に静かな香気立つ   後藤洋子
おだてられ三歳ばかりサバを読む   高橋富士雄
アルバムに愛を隠した跡があり   吉田正男
初対面しばし私でないわたし   高橋由紀
番組で堂々と言う隠し味   岸 保宏
化けの皮はがされるまでまだ羊   今泉光士
ピンボケでよかった顔の皺隠し   三浦一見
美しい仮面をつける立候補   長田訓明
敵わない妻は鋭いポリグラフ   栗橋正博
そして、安藤先生に佳作に抜いていただいた拙句、隠したのは「本心」であった。

本心を言わぬ同士で仲が良い  蚤助

#618: 女はそれを我慢できない

$
0
0
もう5〜6年前のことになろうか、初めて入った中古レコード&CDショップで1本の洋画のDVDが目に入った。タイトルは『女はそれを我慢できない』(1956)という意味深長なもので、『七年目の浮気』(1955)でマリリン・モンローの相手役をつとめたトム・イーウェルと、バストが1メートル超もあったといわれるグラマー女優ジェーン・マンスフィールドの共演だというのに興味を惹かれたのだが、何よりもリトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、プラターズ、アビー・リンカーン、ジュリー・ロンドンなどの人気歌手が次々登場するらしいと知って、思わずエサ箱から救出してしまったのだ。


原題は“The Girl Can't Help It”というもので、“It”が何を指すのかなどと考えてしまうとなかなか訳しづらいのだが、おそらく「彼女にはどうすることもできない」というくらいの意味ではないかと思う。出演するアーティストの登場シーンは、現在ではそれぞれ YouTube にアップされているようだ。

蚤助は、この映画を監督したフランク・タシュリンという人を、ジェリー・ルイス(&ディーン・マーティン)主演の『底抜け』シリーズのコメディ映画くらいしか知らなかったが、調べてみると本国アメリカよりもフランスで人気が高かったようだ。ジャン=リュック・ゴダールはタシュリンを高く評価していた。ゴダールがフォード車やコカコーラなどアメリカ文明のシンボルを批判的に引用したり、劇中に俳優が観客に直接語りかけたりする演出は、タシュリンから影響を受けたものだろう。タシュリンは、この『女はそれを我慢できない』という作品でも、冒頭とエンディングに、トム・イーウェルが観客に向って語り始めるお遊び感覚いっぱいの演出をしている。また、フランソワ・トリュフォーも物語の合間にこういったお遊びを入れる手をよく使っていたので、「タシュリンはヌーベルバーグに不可欠な存在であった」と評する批評家もいたようだ。なるほどタシュリンのヴィジュアル・センスとユーモア感覚はなかなかのもので、再評価されるべきだと思う。

この作品は50年代のロックンロール&ポップスを散りばめた音楽コメディである。当時売り出しのロックンローラーや人気歌手が大勢登場するというので、後年になってカルト的人気が高まった作品である。また、新人のジェーン・マンスフィールドを売り出すためにわざわざ製作された映画ともいえるであろう。映画会社(20世紀フォックス)が第2のマリリン・モンローとして彼女を売り出そうしていたことは想像に難くない。キャラクターから表情、歩き方、仕草に至るまで、モンローにそっくりなのだが、モンローの持つどこか浮世離れしたファンタジーのような可愛い雰囲気はなく、マンスフィールドはより肉感的で、濃厚なセックス・アピールを漂わせている。ちなみに、彼女のプロポーションについては諸説あるが、上から102−53−91だったそうで、バストの大きさばかり話題になるが、蚤助としてはむしろウエストの極端な細さの方が気にかかる。67年に自動車事故で亡くなってしまったが、168センチといわれていた身長は検視報告では173センチとされた(享年34歳)。


♪ ♪
音楽界の敏腕エージェントだったが、現在は落ち目になりかかっているトム・イーウェルは、マフィアのボス、エドモンド・オブライエンに呼び出される。自分の婚約者でブロンドのグラマー美女ジェーン・マンスフィールドをスターにしてほしいというのだ。相手が無名の女性では結婚相手としては不足だという。オブライエンはずぶの素人である彼女を6週間でスターに仕立て上げるよう迫り、トムはすっかり頭を抱えてしまう。

トムはかつてスター歌手ジュリー・ロンドンを育て上げた実績があって身持ちも固く、そこをオブライエンに見込まれたわけだが、どこの誰とも知らぬ女性をいきなりスターにするのはトムにしても至難の技であった。せっかちなオブライエンは、さっそくジェーンをトムのもとへ送り届けてくるが、実は、ジェーンは家庭的な女性で、料理や家事はお手のもの、彼女自身も結婚して幸福な家庭を築くのが将来の夢だと語る。だが、トムの課題はいかにして彼女を売り込むかである。トムはセクシーなドレスに身を包んだ彼女を、ショー・ビジネス界の関係者が多数出入りするナイトクラブやレストランに連れて回り、店内を目立つように歩かせるようにすると、たちまち彼女は注目の的となる。やがて、契約の話がいくつか舞い込むようになったジェーンだが、トムは彼女の歌声を聴いてまたもや頭を抱えた。信じがたいほど音痴なのである。だが彼女をスターにしたいオブライエンはあきらめない。テレビでロックンロールを歌うティーン・アイドル、エディ・コクランの姿を見たオブライエンは、“これだ!”と閃いたのだ。

かくして、オブライエンが獄中で作った“Rock Around The Rock Pile”という曲を、一流バンドであるレイ・アンソニー楽団のロックンロールのリズムに乗って演奏、それにジェーンの素っ頓狂な悲鳴をフィーチャーしたレコードが録音された。オブライエンは半ば強引な手を使ってあちこちのジュークボックスにレコードを入れていく。それが功を奏して、この変テコな曲はたちまち若者の間で大ヒットしてしまう。しかし、スターになることよりも家庭に入ることを望むジェーンは成功を喜べなかった。トム自身もそんな彼女に惹かれていくのだ。やがて、ジェーンが初めて人前で歌うロックンロール・ショウの日がやって来る…


♪ ♪ ♪
“Rock Around The Rock Pile”と、主題歌の“The Girl Can't Help It”は“Route '66”などを作ったボビー・トループ(ジュリー・ロンドンの夫君)の作詞作曲である。主題歌は映画のタイトルバックでリトル・リチャードが歌っているが、映画の動画はあまりいいものを見つけられなったので、マンスフィールドのポートレイト集のバックで彼が歌っているものを紹介しておこう(こちら)。

ジーン・ヴィンセントが歌う“Be-Bop-A-Lula”は、ヴィンセント自身の作曲、作詞はシェリフ・テックス・デイヴィスによるもので、エルヴィス・プレスリーとともに、日本におけるロカビリー・ブームの火付け役を果たした(こちら)。ヴィンセントの正調ロックンロール(?)は断然光り輝いている。革ジャン、ブルージーンズ、リーゼントとロックンローラーの基本的スタイルが有名で、朝鮮戦争で負傷し不自由になった左足も何のその、バックバンドのブルー・キャップスとともに人気を集めた。彼のデビュー・ヒットで代表作でもあり、エコーのよく効いたセクシャルな歌い方はとても魅力的であった。この曲はソング・ライターのジェシー・ストーンが黒人ドゥワップ・グループ、ドリフターズのために書いたヒット曲“Money Honey”にインスパイアされて書かれたもので、リズムパターンがよく似ているが、アメリカン・コミックの“リトル・ルル”から題名を拝借し、大成功を収めたというわけだ。

Well, be-bop-a-lula, she's my baby
Be-bop-a-lula, I don't mean maybe
Be-bop-a-lula, she's my baby
Be-bop-a-lula, I don't mean maybe
Be-bop-a-lula, she's my baby
My baby love, my baby love…
だが、この映画では、ヴィンセントよりもエディ・コクランの歌の方がよりエルヴィス風だ。劇中、オブライエンがコクランの歌を聞いて「歌はシロウトでもスターになった」というセリフを言うが、音痴のマンスフィールドでもスターにできるはずだという意味も込められていて可笑しい。

また、プラターズの“You'll Never Know”は、メンバーであるポール・ロビが作曲、ジーン・マイルズが詞をつけたものだが、この映画の中では、リード・ヴォーカルのトニー・ウィリアムズをはじめ全盛期のメンバーが顔をそろえている(こちら)。

You'll never know
You'll never know I care
You'll never know the touch I bear
You'll never know it, for I won't show it
Oh, no, you'll never, never know…
なお、プラターズのこの曲のほかに“You'll Never Know”という同名異曲があるが、これは『ハロー・フリスコ・ハロー』(1943)という映画の主題歌(アカデミー主題歌賞受賞曲)で、フランク・シナトラがソロ歌手となって最初に飛ばしたヒット曲(歌い出しは“You'll never know just how much I miss you…”)として知られている。余談だが、オスカーを獲って各レコード会社が競って録音しようとしたが、折からミュージシャン・ユニオンのストライキがあって録音できなかったことから、苦肉の策として演奏の代わりにコーラス・グループを使ったら大当たりしたというので、各社はスト中もっぱらその手法でヴォーカル盤を制作した、というエピソードが残されている。43年といえば戦争中で、日本でこんな時局にストライキなんぞやったら間違いなく死刑だったね(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪
そして、なんと言っても、ジュリー・ロンドン最大のヒット曲“Cry Me A River”が聴けるのだ(こちら)。作詞作曲ともアーサー・ハミルトンによる53年の作品。広く知られるようになったのは、このジュリー・ロンドンのレコードが大ヒットしてから。バーニー・ケッセルのギター、レイ・レザーウッドのベースの伴奏のみで歌うが、これで“Cry Me A River”=“Julie London”というイメージが定着してしまった。タイトルは「川のようにお泣き」という意味である。日本語でも「滝のように涙を流す」という言い方があるが、こちらは「川」である。正真正銘アメリカ産の楽曲なのに、これはどう聴いても日本の演歌(怨歌)・歌謡曲の世界である。だからこそ日本でもヒットし、いまなお愛され続けている理由なのだろうか。結局のところ、日本人の“ツボ”と共通するところがあるということなのだろう。


Now you say you're lonely
you cry the whole night through
well, you can cry me a river, cry me a river
I cried a river over you…

今になってあなたは寂しくなって一晩中泣いたという
ならば川のように涙を流しなさい
私はあなたに川のように泣かされたんだから

私を裏切って捨てたことを今ではすまなかったというのね
それなら川のようにたくさん泣きなさい
私だってあなたにずいぶん泣かされたんだから

気が狂うほどあなたに夢中だった私
なのにあなたは涙ひとつ見せなかった
あなたが言ったことはすべて覚えている
恋なんかつまらないとか 私たちはもう終わったとか言ったわ

なのに今さら愛してるって?
それならそれを証明するため さあお泣きなさいよ
川のように 涙が川になるように
私も あなたのために 涙が川になるように泣かされたんだから…
女心の歌ではあるが、ちょっと怖いような歌詞である。「今、あなたは淋しさのあまりに夜通し泣いたという。不実な私が悪かったという。だったらお泣きなさい。私だってあなたにずいぶんと泣かされたんだ」といった調子で、痛烈なしっぺ返しを受ける男の立場。何だか身につまされる御仁もあるだろう。さらにセクシーこの上ないジュリー・ロンドンのハスキーヴォイスで、じんわりと責められたら、これは完全に男の負けである。

映画の中では、ジュリーのエージェントだったということになっているトム・イーウェルの前に幻となって姿を現し、この歌を披露するのだが、ミュージック・ビデオを彷彿させるような演出が斬新である。撮影監督は大御所レオン・シャムロイ、本作のカラフルでイマジネーション豊かな映像は彼の功績である。

ということで、この作品、50年代の隠れたコメディの佳作の1本である。

非常時に美女は化粧を忘れない (蚤助)

#619: ジョニー・マエストロ

$
0
0
♪ Happy birthday, happy birthday, baby, oh I love you so…
このイントロがアメリカン・グラフィティの世界に誘(いざな)うのだが、この手の曲は何ゆえリスナーに郷愁を抱かせるのだろうか。

Sixteen Candles
この言葉の響きもドリーミーだが、歌っているのはドゥワップ・コーラスのザ・クレスツのリード・ヴォーカル、ジョニー・マエストロである。

50年代半ばのニューヨーク、ブルックリンには未来のスターを夢見る若者たちが大勢いた。彼らの多くはコーラス・グループを組み、街角で歌声を披露することで、デビューするチャンスを待っていた。同時期に活躍したデル・ヴァイキングスと同様、当時はまだ珍しかった黒人と白人の人種混合男性コーラスだったザ・クレスツもそういうグループのひとつだった。

1955年ジュニア・ハイスクールで出会った少年たちは、コーラスのエコーを求めて駅の構内で練習しているところをスカウトされた。リードを任されたのはイタリア系のジョニー・マストランジェロ、後に芸名をジョニー・マエストロと改名し、アメリカのポップス史の1ページを飾る歌手になる。ドゥワップ・コーラスを売りにして、彼らはデビューを果たす。入社したレコード会社で、彼らはルーサー・ディクソンとアリソン・ケントというソングライター・コンビと出会う。二人はクレスツのメンバーがまだ10代という若さに注目して、彼らのために新曲を書いた。それが16歳の誕生日を祝ったメロディアスで甘酸っぱいスロー・ナンバー“Sixteen Candles”だった(こちら)。1958年のことである。


Happy birthday, happy birthday, baby
Oh, I love you so

Sixteen candles make a lovely light
But not as bright as your eyes tonight (as your eyes tonight) (Oh)
Blow out the candles, make your wish come true
For I'll be wishing that you love me, too (that you love me, too)

誕生日おめでとう おめでとう
僕は君が好きなんだ

16本のロウソクが愛らしい灯りをともす
でも今夜の君の瞳ほど輝いちゃいない
ロウソクを吹き消して 君の願いを祈るんだ
僕も君が僕を好きになってくれるよう祈ろう

君はほんの16歳
でも僕の女王様(teenage queen)さ
君は僕にとって一番かわいい女の子なんだ

16本のロウソクが心にともる
いつまでも君を愛していられるように
16歳の初々しい恋心をロマンティックに歌ったシンプルでさわやかな楽曲であった。さらにマエストロの、若々しくきびきびした歌い方もあって、ジュークボックスを通じて、あっという間に若者の心をつかみ、58年から59年にかけて大ヒットになる。マエストロのテナー・ヴォイスは年齢層も人種の壁も飛び越えてしまったのである。余談だが、さる有名音楽誌で某評論家氏がジョニー・マエストロをはっきり黒人と紹介してあった(笑)。

クレスツはこの名作“Sixteen Candles”のほかに、58年から60年にかけて、“Six Nights A Week”、“The Angels Listened In”、“A Years Ago Tonight”、“Step By Step”、“Trouble In Paradise”といった曲を全米チャートに次々と送り出した。60年にマエストロがソロ活動を開始、以後、ソロ歌手として、あるいはジョニー・マエストロ&ザ・クレスツとして、61年に“What A Surprise”、“Mr. Happiness”などのヒット曲を出したが、中でも“Model Girl”という曲(こちら)が蚤助にとっては思い出深い。日本では坂本九がカバーしていた(こちら)。

以上の楽曲は“THE BEST OF THE CRESTS Featuring Johnny Maestro”というCDにまとめられていて、蚤助の愛聴盤の1枚となっている。


マエストロはソロ歌手としてもいくつかのヒット曲を放ったが、その後イギリス勢のアメリカ攻勢によってしばらく雌伏を余儀なくさせられる。転機となるのは、68年のことであった。マエストロがゲストとして参加したバンドコンテストでブラスバンドをバックに歌ったところこれが好評を博し、やがて“BROOKLYN BRIDGE”というコーラス+ホーン奏者、計11名からなる異色のバンドを結成する。69年にジミー・ウェッブのカバー曲“Worst That Could Happen”をレコーディング、全米3位の大ヒットとなるのである。以降、バンドの変遷はあったものの、マエストロは2010年に亡くなるまで、総計1千万枚以上のセールスを記録した現役のアーティストとして活躍したのである。 YouTube にマエストロ&ブルックリン・ブリッジが、クレスツ時代の“Sixteen Candles”と“Worst That Could Happen”を演奏しているライヴ画像がアップされていたのでご覧いただきたい(こちら)。若々しい歌声は健在だったようだ。

ということで、“Sixteen Candles”という曲、マエストロのヴォーカルが魅力的だし、時空を超えて、蚤助のような Young At Heart にとっては素敵なプレゼントである。リバイバル・ヒットは記憶にないが、フォー・シーズンズがカバーしている。フランキー・ヴァリのファルセットでは、マエストロのような清々しさは期待できないが、それでも個性的な16本のロウソクになっている。これを聴きながら今回はお別れである。それではまた…。

つい去年やったばかりの誕生日 (蚤助)

#620: Bang Bang

$
0
0
18歳だった“CHER”は、レコード・プロデューサーとして活躍していたソニー・ボノ(1935−1998)に見出された。日本ではシェールと表記するが、“CHER”は“シェア”とか“シェーア”に近い発音らしい。ここでは慣例に従ってシェールとしておく。彼女はソニーの妻となって、60年代に二人でソニー&シェールというデュオ・チームとして活動し始める。彼女がデュオ活動と並行してソロ活動をし始めたのは64年のこと。本名のシェリリンという名前でレコードを出したが、ファンの反応は全くなかった。65年にソニー&シェールとして“I Got You Babe”のヒットで注目されて、ようやく彼女のレコードにもファンの関心が注がれるようになる。

66年、通算4枚目のソロ・シングルとして発売したのが“Bang Bang”であった。現在の大スター、シェールの栄光の軌跡はここから始まった。公私ともにパートナーだったソニーの作品だが、父方がアルメニア系のジプシー、母方がチェロキー・インディアンの血を引いているというシェールのエキゾチックな個性を生かしたオリエンタル風なサウンドをポップ仕立てにして、ヒット・チューンとなった。

I was five and he was six
We rode on horses made of sticks
He wore black and I wore white
He would always win the fight

Bang bang, he shot me down
Bang bang, I hit the ground
Bang bang, that awful sound
Bang bang, my baby shot me down…

私は五歳 彼は六歳
二人は木の枝の馬に乗った
彼は黒い服 私は白い服
彼はいつも勝った

バン・バン 彼は私を撃った
バン・バン 私は地面に倒れた
バン・バン あの恐ろしい音
バン・バン あの子は私を撃ち倒した

季節は変わり 時は流れ
大人になって 私は彼をあなたと呼んだ
彼はいつも笑って言った
よく遊んだのを覚えているかい

音楽が始まり みんなが歌った
私のために 教会の鐘が鳴った

そして彼は去った 何故だかわからない
私は今も ときどき泣いている
彼はサヨナラさえも言わなかった
嘘つく時間もつくらなかった…
短い歌だが、幼いころから恋愛・結婚・離別に至るまでの年月が要領よく語られる。子供の頃から悪ガキだったこの男は身勝手で、ヒロインはたいそう悲しい思いをしている。かなり暗い内容の歌ではあるが、シェールは、途中“Hey!”と掛け声などを入れてリズミカルに歌った(こちら)。

当時、ソング・ライターとしてのソニーはしきりにオリエンタル・サウンド(?)を追求していたようで、同年ソニー&シェールとしてリリースした“Little Man”なども、二人がイチャイチャ、ベタベタと愛を交わす内容だったが、曲調はこちらのようにジプシーやギリシャ音楽を連想させるエキゾチック・ムードたっぷりの曲だった。ちなみに、これは蚤助が今も持っているソニー&シェールの唯一のシングル盤である。


71年から73年にかけては、ソニー&シェールのテレビショーで全米の人気を博した。また、ソニーは75年にシェールと離婚した後、ラジオで選挙キャンペーンのマネージャーを引き受けたことをきっかけに政治家に転身、芸能人が多数住むパーム・スプリングス市の市長となり、94年には共和党選出の下院議員として活動したが、98年にスキー滑降中に立木に激突、事故死してしまった。一方、シェールは、ソロ・シンガーとして数々のヒット曲を出し、“Believe”でグラミー賞を獲得するとともに、女優としてもノーマン・ジュイソン監督の『月の輝く夜に』(Moonstruck−1987)でアカデミー主演女優賞を獲得、歌手としても女優としても頂点を極めた大スターとして芸能界に君臨し続けている。また個性的なファッション・センスの持ち主で時々話題を振りまいているのは、今をときめくレディ・ガガの大先輩といったところか…(笑)。


蚤助にとっては、この“Bang Bang”という曲はシェールのオリジナルもさることながら、オランダのジャズ・シンガー、アン・バートンの持ち歌としてずっと耳になじんでいるのだ。69年にリリースした“BALLADS & BURTON”というアルバムは、同郷オランダのピアノの名手ルイス・ヴァン・ダイクのトリオをバックにした傑作で、その情感にあふれた歌声を聴いて、蚤助は成熟した女性ヴォーカルの虜になったのである。動画は見つけられなかったが、とにかく還暦を過ぎたらこういう歌を聴かなくっちゃ…(笑)。


蛇足だが、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』(Kill Bill Vol.1−2003)を観たら、冒頭にいきなりナンシー・シナトラの歌う“Bang Bang”が流れてきたのでびっくりした。雑踏の中で思いがけず、旧友にばったりと出会ったような気がしたものだ。この曲を録音した当時のナンシーはポップシンガーとして売れっ子で、ルイス・ギルバート監督の『007は二度死ぬ』(You Only Live Twice−1967)の主題歌を歌ったりしていた。父親フランクの後押しもあったろうが、兄貴のシナトラ・ジュニアが歌手としてパッとしなかったことを考えると、七光りだけとも言えないだろう。ミニスカートとブーツ姿が良く似合い、そこそこセクシーだったのが時代にマッチしていたのだろう。ナンシーはビリー・ストレンジのギター伴奏に乗せて、けだるく歌いながら、悲しい女性の物語をうまく表現していた(こちら)。


少しずつ汚れ大人になりました (蚤助)

#621: ウィンチェスターの鐘

$
0
0
66年、前稿のシェール“Bang Bang”と相前後する時期に、とても不思議で変な曲が大ヒットした。メロディはとぼけているし、歌詞もヴォーカルも何だか変だ。しかし一度聴いたら忘れられなくなるような曲であった。『ウィンチェスターの鐘』(Winchester Chathedral)という曲で、ニュー・ヴォードヴィル・バンド(The New Vaudeville Band)というイギリスのグループのレコードだった(こちら)。

原題の“Winchester Cathedral”はもちろんイングランド最大級のゴシック建築である英国国教会の「ウィンチェスター大聖堂」のことである。


作者は、作曲家でプロデューサーで骨董品の趣味があったというジェフ・スティーヴンスで、ウィンチェスター大聖堂の写真を眺めていたら、突然頭に浮かんだメロディが元になっているという。このジェフさんという人、忘れてはならないハーマンズ・ハーミッツのヒット曲で、カーペンターズがリバイバル・ヒットさせた『見つめあう恋』(There's A Kind Of Hush−1967)や、フライング・マシーンの懐かしき『笑って!ローズ・マリーちゃん』(Smile A Little Smile For Me−1969)などの作者としても知られている。彼は、この曲を書き上げた後、これをどのアーティストに歌わせるかというアイデアや明確なヴィジョンもないまま、何かに取りつかれたようにレコーディング・セッションを行った。スタジオには無名のミュージシャンが集められ、完成した作品には“Winchester Cathedral”という曲名と、全く実体のない“The New Vaudeville Band”というアーティスト名がつけられた。

ちょっとペーソスのあるヴォーカルはジョン・カーターという人が担当、その昔、マイクロフォンが無かった時代に歌手のルディ・ヴァレーがメガホンを口に当てて歌ったスタイル(こちら)を踏襲している。これを聴くと、今回の日本公演をウィルス性の病気に罹ったとして全部キャンセルしてしまったポール・マッカートニーの『アンクル・アルバート』(Uncle Albert)や『ホエン・アイム・シックスティ・フォー』(When I'm 64)などの曲と同様のノリを感じてしまうのは、蚤助だけだろうか。全体的に20〜30年代のイギリスのミュージック・ホール・スタイル、ヴォードヴィル・スタイルで書かれているようだが、リズム隊はブリティッシュ特有のしっかりしたビート感が感じられてなかなか面白い。

内容はこんな歌だ。

Winchester Cathedral, you're bringing me down
You stood and you watch as my baby left town…

ウィンチェスター大聖堂よ あんたにはガッカリさ
あんたは突っ立って 見ているだけだった ぼくのあの娘が街を出ていくのを

何とかすることが出来たろうに あんたは何もしなかった
全く何もしなかった 彼女が歩いていくのを放っておいたんだ

今じゃみんなが知っている 僕があの娘をどんなに必要だったか
彼女はそんなに遠くまで行かなかったはずさ
あんたがその鐘を鳴らしてくれさえしてくれたらな

ウィンチェスター大聖堂 あんたにはガッカリさ
あんたは突っ立って 眺めているだけだった ぼくのあの娘が街を出ていくのをさ…
とまあ、畏れ多くも天下の大聖堂に対して愚痴を言うという、なかなかイギリス風ユーモアで彩られた内容になっている(笑)。


この作品が発売されると、これが想定外の反響を呼び、ニュー・ヴォードヴィル・バンドへの注目度が一気に高まった。慌てた作者のジェフさんは、ライヴ活動をするためバンドを急きょ結成したが、肝心の仕掛け人のジェフ自身はバンドに加わらなかった。したがって上記のジャケット写真にジェフの姿はない。

この曲、全米トップになり、66年の年間ランキングでも第2位になるというスーパー・ヒットとなった。なかなかおつなレトロポップスというべきで、当時、フランク・シナトラまでレコーディングしたのには蚤助も正直驚いたものだった(笑)。

寺町の花屋鐘の音聞き分ける 蚤助

#622: 「メガネ」の川柳

$
0
0
健康診断で「白内障の疑いあり」と指摘されてから、数年経ち、明るい光の下では物が見えにくい、目のかすみや視力の低下などの症状が次第に顕著となって、さすがに日常生活にも支障が出るようになったので、ようやく手術することを決意した。だが、目の手術というとさすがに腰が引けるのはしようがない。

学生時代に黒板の字が見えず、初めてメガネをかけてから、これまでサングラスも含めておそらく15個近くのメガネのお世話になってきた。冒頭の画像は、現在手元に残っているメガネである。度数の合わないレンズの方は御用済みだが、現役としで使用できるメガネフレームだけでも8個もある。運転免許証の写真にも年齢に応じたそれぞれのメガネ姿で写っている。裸眼視力は0.1以下で、メガネをはずすと周りがぼんやりとするだけでほとんど盲目であった。

5月24日の土曜日に右目、翌25日の日曜日に左目に手術ということに相成った。


白内障は目の中の水晶体が濁ることにより視力が低下するのだ。原因は、加齢、糖尿病等全身疾患の合併症、風疹などによる先天性のもの、目のけが、その他薬剤や強い紫外線によるもの等だそうだ。水晶体の濁り方もひとりひとり違うため症状も様々らしい。水晶体の周辺部(皮質)から濁りが始まることが多く、その濁りが中心部(核)に広がると「まぶしい」「目がかすむ」ようになる。中心部(核)から濁り始めると「一時的に近くが見えやすくなる」ことがあり、その後「目がかすむ」ようになるという。診断の結果、蚤助の場合は、両目とも周辺部(皮質)の濁りだという。あまり良いイメージ画像がないのだが、蚤助の症状に一番近いのはこんな感じであろうか。




蚤助の場合は上の1.のケースに近かった。とにかく眩しいので、午後になってオフィスの窓から陽光が差し込むとあたりが白っぽくなり、パソコンのモニター画面が見づらくなるので、ブラインドをすっかり下して仕事をしているような状況であった。

手術の半月ほど前(5月12日)に手術が問題なく行えるかを調べ、目に合う眼内レンズを選択するため、さまざまな検査が行われた。視力、眼圧、屈折検査、網膜の状態を調べる眼底検査、水晶体の濁りの状態を調べる細隙灯(さいげきとう)顕微鏡検査、角膜の内皮細胞が減っていないか調べる角膜内皮細胞検査、眼内レンズの度数を決める眼軸長検査、問診、血圧測定等である。検査といっても、ほとんど機械化されていて、検査技師の指示通り、片目ずつスコープを覗いて緑や赤の光を見つめるだけで検査が終わる。それぞれほんの数十秒くらいのものである。

眼内レンズはピントが一か所に固定されているので、自分のライフスタイルに合った度数を選ぶことが重要だ。もっとも、現在では、遠近両用の眼内レンズもあるようだが、これは今のところ健康保険の適用外だそうである(笑)。蚤助は、大多数の人が選択するという両目裸眼で1.0程度の眼内レンズを希望した。新聞や読書など手元の小さな文字は見えにくくなる。すなわち老眼は治らないのだ(笑)。だが。これは視力が安定してから、老眼鏡等で補正すればいいわけだ。

一般に、手術は、その後の管理も含めて3〜4日ほどの入院が必要とされるが、最近では、重篤な合併症等がないなど患者の全身状態や手術後の検査通院に問題がなければ、日帰り手術を実施している医療機関が多い。蚤助も日帰りである。白内障の手術は具体的にどうやるのかというとこんな具合だ。


つまり、濁った水晶体を超音波で砕いて取り出し(超音波水晶体乳化吸引術)、人工レンズ(眼内レンズ)を入れるという方法である。眼内レンズは直径6ミリほどの大きさで、後嚢に固定するためにループ(輪っか)がついている。一度挿入すれば交換する必要はないそうだ。もともと、イギリスの医師が、戦闘機の風防が目に刺さったパイロットに異物反応が起こらなかったことに気付いたことから、眼の中にレンズを入れるというアイデアが生まれ、眼内レンズの開発につながったという。素材はさまざまで、アクリル樹脂、シリコン樹脂、PMMA(ポリメチルメタクリレート)などが使われているらしい。

いよいよ手術である。数日前から目を清潔に保つために目薬をさし始める。使い残した目薬は病院に回収されてしまった。病院で廃棄処分にするという。まずは右目。15時30分に病院へ行くと、同じ時間帯に8人の同病患者が順番に手術を受けるという。蚤助は5番目、蚤助の前は同年代と思しき女性のSさん、ご主人が付き添いに来ていた。「ノーメイクという指示なので勇気が要った」とはSさんの弁(笑)。15分おきに3回、瞳孔を開かせる薬を点眼される。その間約45分、待合室でじっと待つ。血圧測定は平常よりもかなり高めだった。やはり少し緊張しているのかもしれない。

そして控室に案内され、着替えをするのだが、着替えといってもSTAP小保方女史で見直された割烹着のような着衣で、Tシャツの上から身に着ける。薬剤等で衣服が汚れるのを防ぐ意図があるらしい。ここで時計や指輪、人によっては入れ歯もはずすように指示され、頭にキャップをはめられて順番を待つ。名前を呼ばれると、手術室の手前の鏡のある部屋に入り、ナースが名前と手術を受ける部位を確認する。手術室には理容室や歯医者にあるような可動式の椅子がある。執刀医は、蚤助を診察した女医のS先生ではなく、比較的若い男性医師である。心電図の端末と血圧計を装着されると、椅子が倒れ、仰向けにされる。顔にシートのようなものがかけられ、右目だけ表に出して、ガムテープのようなもので瞼や目の周辺を固定、強制的に瞼が閉じられない状態にされる。

瞳孔が拡大していることを確認すると、麻酔薬を点眼、「始めます」と医師の声。青いライトがまぶしい、と思う間もなく消毒液やら何やらやたらと目に流される。水中から青空を見上げているようだ。白目と黒目の境目を3ミリ程度切開して、そこから処置をするという。痛みは全く感じないが、引っ張られたり圧迫されたりする感じはあって、無意識に体が強張ってしまう。その間、青いライトが上へ行ったり下に行ったりし、「できるだけ目を動かさないように」と先生が言うのだが、そんなこと言われてもなあ…(笑)。要所要所で左腕に装着した血圧計が腕を締めつけたり緩んだりして作動しているのがわかる。医師が「吸引済みました」と言うと、青色が消え、自分の角膜の組織らしきものが白い光を介して透けて見える。水晶体はなくても網膜があるからかしらん、などとぼんやり考えていると、「レンズを装着します」との声。また圧迫されたり引っ張られたりしているうちに、突然、また青色が見え出し、次第にはっきりと光源がわかるようになってくる。そこで「終わりました」。右目に大きな眼帯をさせられて、装着していた心電図やら血圧計がはずされてお終いである。控室から出て、戻るまでの所要時間がおよそ20分、実際の手術の時間は15分程度だったということだろう。熱いお茶が出て、一件落着である。

術後は片目で帰宅しなければならないので、付き添い人が必要と言われていたのだが、考えてみればよく見えない片目で帰らなければならないのだった(笑)。だが、幸いにも自宅まで遠くないし、住宅地で週末の交通量も少ないので、何とか帰宅できた。ご主人の付き添いがあったSさんは正解だったわけだ。

翌日は左目である。病院へ行くと、当たり前だが昨日の手術仲間の顔がある。ナースに右目の眼帯を外してもらうときが感動的であった。まず、目に入ったのがナースの白衣、その白さが強烈な印象であった。今まで見ていたのは何だったろう、と思わず感想を云うと周囲から笑い声。他の人も同じだという。見える世界の明るさが違うのだ。おそらく子供時代の蚤助はこんな鮮やかで美しい世界を見ていたのであろう。そうしているうちにまた左目の手術である。基本は右目と同じ、昨日ほどではないにせよやはり血圧がやや高めであった。待合室にはBGMとしてバロック音楽が流れているのだが、手術室には音量は低いが、モダンジャズが流れているのに気がついた。わざわざジャズ好きの蚤助のためというわけではなかろうが…。蝉坊氏の応援メールに「手術中はジャズの名曲のことでも考えながら…」などとあったことを思い出し、自然に笑みが浮かぶ。昨日よりも落ち着いていたことは確かである。しかも、今度は視力の上がった右目で帰るので安心である。抗生物質、胃薬、1日4回点眼するという目薬を3種類手渡された。目薬はしばらく続ける必要があるという。

今日現在、左目は問題ないが、右目にゴロゴロとした異物感がある。S先生によると傷口を縫合した絹糸が原因だそうだ。糸は時間の経過とともに自然にとれるそうだが、充血もまだ治まっていない。右目の視力は0.8〜0.9、左目の方は1.0〜1.2程度と視力に若干の差がある。視力は1か月程度で安定するそうだが、手元が非常に見えにくいのがことのほか辛い。いずれ老眼鏡等で補正する必要があるだろう。洗髪、洗顔、飲酒はしばらく控えるよう指示されたが、目に水が入らぬよう細心の注意をしながら、洗髪・洗顔の方は自己診断ですでに解禁、珍しくも飲酒だけはいまだ封印している(笑)。なお、後学のために記しておくと、蚤助の両目の白内障の手術費用(手術前後の検査料等込み)は、健康保険適用(本人3割負担)で約10万円程度であった。片目5万円である(笑)。

ということで、これまでずいぶんお世話になってきた「メガネ」の川柳である。

平成22年11月 NHK文芸選評  安藤波瑠・選 

いませんよ父のメガネに適う婿   松本守雄
ふたりしてメガネ違いを笑い合う   鈴木登史生
おメガネに適ったらしいしごかれる   吉岡 修
人を見る眼鏡を磨く向かい風   河内郷輔
耳打ちをされる眼鏡が曇りだす   天野弘士
よく見える眼鏡はずしてから平和   問可圧子
世渡りへ眼鏡かけたり外したり   岡部英夫
意見ない男はメガネ拭くばかり   多良間典夫
就活に迷う眼鏡かコンタクト   山根吉城
別人になって繰り出す伊達メガネ   黒崎和夫
メガネ取ったら貧相がぬっと出た   後藤洋子
イヤな奴イヤなメガネをはめている   伊藤弘子
ガリレオと一緒にのぞく遠メガネ   丸畑徳世
好奇心ここで芽を出す虫めがね   斉藤由紀
そこかしこ家中メガネ守備に就く   木山 清
度が合わぬらしい私を褒めている   栗林むつみ
欲しいのは老後の見える遠メガネ   加賀山一興
メガネして戸惑うキスのタイミング   菅井京子
嫁いだ子見守る母の遠眼鏡   村上和子
メガネでは冬のすき焼きもどかしい   伊藤 強

  

鼻ぺちゃの悲哀眼鏡が知っている   岡田貴志子
姑の老眼鏡が見えすぎる   高橋咲恵
サングラスちょっと勇気が湧いて来た   福西初子
ゼロの数メガネを上げて確かめる   阪口洋之助
眼鏡かけ顔を洗ったのは内緒   山地勝彦
度の合わぬ眼鏡と生きている呑気   村上ミツ子
自己評価メガネはいつもくもりがち   北川隆子
眼鏡代えても世の中は変化せず   橋爪徳成
よく見えるメガネに替えてくたびれる   伊藤石英
老眼にフレームだけはニューモード   酒向邦一
照れている父はメガネをかけ直す   伏見久江
皺の手が取りっこしてる虫眼鏡   門西勝子
眼鏡にもワイパーが要るラーメン屋   堀 敏雄
睨んでも孫には効かぬ鼻メガネ   妹尾安子
エンディングテーマへメガネ曇り出す   竹中正幸
猜疑心強くメガネの度が進む   椎野 茂
なぜメガネ昔勉強今ゲーム   塩沢達成
少しだけ翔んでみたくてサングラス   桐生静子
うろちょろの心を隠すサングラス   福土繁蔵
拙句は佳作20句に抜いていただいた。

お若いと言われたメガネいつもかけ  

#623: Good Time Music

$
0
0
64年に結成されたラヴィン・スプーンフル(The Lovin' Spoonful)のリーダー、ジョン・セバスチャンは独創的な世界観を持っていて、そのフィーリングがグループの個性、音楽を方向づけた。65年発売されたデビュー・シングル『魔法を信じるかい?』(Do You Believe In Magic)がいきなり全米9位、セカンド・シングル『うれしいあの娘』(You Didn't Have To Be So Nice)が全米10位、いずれもセバスチャンの作品であった。そしてグループの第3作目が『デイドリーム』(Daydream)だった。


What a day for a day dream
What a day for a day dreamin' boy
And I'm lost in a day dream
Dreamin' about my bundle of joy…

空想するには何という日
空想する男の子にとってはピッタリな日
僕は空想に夢中になって
楽しいことをいっぱい夢みる

たとえうまく行かないことがあっても
散歩に出かけるんだ
太陽を浴びながら歩いて鬱憤を晴らすんだ

気分が良ければ夜までずっと空想していようかな
明日の朝食には 君は耳をそばたててくれるかもしれないし
ずっとこのまま夢の中にいるかもね

空想するにはピッタリの日
僕のためにあつらえてくれたような一日
僕は空想に夢中になって
楽しいことをいっぱい考える…
ブルースとフォークをベースにした静かな旋律で、フォーク・ロックのミリオン・セラー(66年全米第2位)として音楽史に記録されている。ポップス少年だった蚤助は、当時、何だか不思議な音楽が流行っているなとボンヤリ思っていた。セバスチャンの楽曲はどれも素朴でトラディショナルなテイストを持っていて、一聴ほんわかムードなので、当時“Good Time Music”と呼ばれていた。古き良きアメリカの思い出を音楽によって現代に甦らせようとしたものだったのだ。歌詞の内容も、明るくポジティヴなものが多かったこともあり、彼らはあっという間に全米の人気バンドとなった。ロック&ポップスの世界はビートルズやローリング・ストーンズ、バーズなどが、次々と新しい音楽スタイルを生み出していた。そんな中、突如として時代の空気とは無縁の懐かしくハートウォーミングな音楽が登場したのだった。

蚤助の私見だが、ビートルズのアルバム“REVOLVER”に収録された“Good Day Sunshine”は、66年3月にリリースされた『デイドリーム』から大きな影響を受けたに違いないナンバーだと思っている。ほのぼのとしてゆったりとしたサウンド・アプローチや歌詞の内容をみると、ラヴィン・スプーンフル、というよりジョン・セバスチャンの世界にとても近いものがある(こちら)。“REVOLVER”は『デイドリーム』が発表された翌月からレコーディングが始まっているのだ。

そもそもジョン・セバスチャンは、相棒のザル・ヤノフスキーとともにフォーク・ロック・グループ“ザ・マグワンプス”(The Mugwumps)のメンバーとしてニューヨークで活動していた。このグループには、後にママス&パパスを結成するキャス・エリオットとデニー・ドーハティがいた。64年にキャスとデニーが脱退すると、セバスチャンとヤノフスキーはベース(スティーヴ・ブーン)とドラムス(ジョー・バトラー)を加え、ラヴィン・スプーンフルを結成する。すなわち、このマグワンプスというグループは、60年代のアメリカの東海岸と西海岸でそれぞれ時代を代表をする二つの名バンドの母体となった重要なバンドなのである。

ラヴィン・スプーンフルは、前述のデビュー・シングルがいきなりヒット・チャートに踊り出て、ここから彼らの快進撃が始まった。『デイドリーム』の後、『心に決めたかい?』(Did You Ever Have To Be Your Mind?)が66年2位、『サマー・イン・ザ・シティ』(Summer In The City)が66年1位、『レイン・オン・ザ・ルーフ』(Rain On The Roof)が66年10位、『ナッシュヴィル・キャッツ』(Nasville Cats)が66年8位と、65〜66年はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

英国勢(リヴァプール・サウンドやマージ―・ビート)に代表されるビート・バンド全盛の時代に、彼らのような流行に逆らうような古いスタイルの音楽が受けたのはなぜだろうか。おそらく、彼らは他のバンドのモノマネではなかったからだろう。カントリー&ウェスタン、フォーク、リズム&ブルース、それにジャグ・バンド…ハハハ、ギャグ・バンドではないよ…を徹底的に研究し、それを現代風に甦らせたものだった。それはアメリカのポピュラー音楽の原点であったのだろう。ジャグは水差しのような大きな空き瓶だが、アメリカの開拓時代、これを吹いてベースやチューバの低音楽器の代用品にして使い、洗濯板のパーカッション、洗濯盥を使ったベース、カズーやバンジョー、フィドルなどの弦楽器を加えたバンドはジャグ・バンドと呼ばれたのだ。

彼らのヒット曲のいくつかは、エバーグリーンとして残っている。特にブルース・ウィリスが男を上げた人気映画シリーズの1作『ダイ・ハード3』(Die Hard With A Vegeance−1995)のタイトル・バックに突然、ラヴィン・スプーンフルの『サマー・イン・ザ・シティ』が大音量で流れてきて、蚤助などは狂喜したものだ。それまでウィリス演じる刑事マクレーンが活躍する前2作が冬(クリスマス)を舞台にしていたのだが、ここでは真夏のマンハッタンを主人公が駆け回るというストーリーなので、なおさらインパクトがあった。

Hot town summer in the city
Back of my neck getting dirty and gritty
I been down isn't it a pity
Doesn't seem to be a shadow in the city
All around people looking half dead
Walking on the sidewalk hotter than a match-head…

夏の街は暑くて 首の後ろが汚れてべっとり
惨めなほどうんざり
街には日陰もない
周りの人々は半分死んでるみたい
マッチの先より熱い歩道を歩いている

夜の世界は別 出かけて彼女を見つけるのさ
おいでよ 一緒に踊ろう 熱くなっても歓迎さ
君もがっかりだろ 夏の街の昼間が夜のようじゃないってこと

クールな街の夕暮れ
着飾ってオシャレした クールな雄猫が子猫を探して
街角を探しまわる
バス停のバスみたいに息を切らせて
階段を駆け上がり 君を屋上で見つけるまで…
だが、彼らのデイドリームのような栄光の日々は、あっけなく終わってしまう。メンバーのヤノフスキーがドラッグ所持の容疑で逮捕される。なお悪いことに、彼は自分の罪を他のメンバーになすりつけようとしたのだ。明るく健康的な音楽を売りにしていた彼らのイメージは地に落ちてしまう。それに追い打ちをかけるように、ロック界は、サイケデリック、ブルース、プログレッシヴなど次々に登場する新たな潮流によって、それ以前のロックを一気に過去のものにしてしまったのだった。

今やラヴィン・スプーンフルやジョン・セバスチャンの名は、人々の記憶から消えかけている。ラヴィン・スプーンフルというバンドと彼らの音楽そのものがまるで古き良きアメリカの記憶の一部になってしまったかのようである。

現実に戻り寂しい理想論 (蚤助)

#624: カリフォルニアのママとパパ

$
0
0
さて、前稿で登場したラヴィン・スプーンフルと同様、幻のバンド、ザ・マグワンプス(The Mugwunps)が分裂してできたもう一つのヴォーカル・グループ、ママス&パパス(The Mamas & The Papas)に触れないわけにはいかないだろう。彼らは60年代フォーク・ロック・グループの中でも、男女2組という他のグループにはない編成と、さわやかでソフトなハーモニーをセールス・ポイントに人気を集めた。

60年代初め、ママ・キャスことキャス・エリオットは、女性1・男性2(いわゆるPPMスタイル)のフォーク・トリオを結成し音楽活動をしていた。同じころデニー・ドハーティは、ザル・ヤノフスキーらとバンド活動をしていた。しかしどちらのバンドもすぐ解散、そのメンバーたちが集まって作った新たなバンドにジョン・セバスチャンが加わって、ザ・マグワンプスというバンドが結成されるのだが、彼らはアルバムを録音してすぐに解散してしまう。このアルバムは発表されずに終わり、それが幻のバンドとされる所以である。キャスは、この後、ジャズ・シンガーとして活動を始め、デニーは、ジョンとミシェルのフィリップス夫妻が在籍していたバンド、ニュー・ジャーニーメン(前身のジャーニーメンにはスコット・マッケンジーがいて、後の「花のサンフランシスコ」へとつながる)に加入する。時代はすでにフォーク・ロックへ向かっていて、ニュー・ジャーニーメンもエレクトリック・ギターなど電気楽器を導入、活動の拠点をカリフォルニアに移すのである。そこで、キャスと再会、ここにキャス、デニー、フィリップス夫妻の4人からなるママス&パパスが誕生することになる。1965年のことであった。


デビュー曲はジョンとミシェルのフィリップス夫妻が書いた『夢のカリフォルニア』(California Dreamin')で、1965年に発売されると、いきなり全米第4位の大ヒットとなり、彼らは一躍トップ・アーティストの仲間入りを果たすのだった。

All the leaves are brown and the sky is gray
I've been for a walk on a winter's day
I'd be safe and warm if I was in LA
California dreamin' on such a winter's day…

木の葉はみんな枯れ 空は灰色
ある冬の日に 僕は散歩に出かけた
ロサンゼルスにいたならば 安全で暖かかったのに
こんな冬の日 カリフォルニアの夢をみる

道の途中で教会に立ち寄った
ひざまずいて祈るふりをしたんだ
牧師は寒いのが好きだからね
僕がここにいるってこと 彼は知っているんだ
カリフォルニアの夢をみる こんな冬の日に

木の葉はみんな茶色くなった 空は灰色
散歩に出かけたある冬の日
もし彼女に言わなかったら 今日にでもここから出ていけたのに
こんな冬の日 カリフォルニアの夢をみる…
この曲を耳にするたびに、必ず高校時代のある日の放課後の教室のことを思い出す。教室には何人かのクラスメートがいて、誰からともなく“All the leaves are brown…”と歌い出す。それに合わせるように歌声が重なる。蚤助は黒板に向って、覚えたばかりの歌詞を書く。しばらくすると、教師が顔を出し「おおやってるな」という風な表情をする。次にその目は黒板の歌詞に注がれる。彼はおもむろに黒板に向うと、歌詞のスペルの間違いを訂正するのだ。蚤助は“gray”を“grey”と綴っていたのだった(笑)。懐かしくも恥ずかしい思い出である。なお、かつてこちらで触れたことがあるが、間奏に入る印象的なフルート・ソロはバド・シャンクである。

この後、彼らはグループが自然消滅するまでに15曲のヒット曲を残すのだが、全米チャートで1位になった曲は、セカンド・シングル『マンデー・マンデー』(Monday Monday)だけであった。しかも、この作品、当初はプロデューサーのルー・アドラーと曲を書いたリーダーのジョン・フィリップス以外の他のメンバーは歌うのを嫌がったという。理由は明らかにされていないのだが、とにかくジョンは嫌がるメンバーを必死に説得してレコーディングにこぎつけた。皮肉なもので、その結果がレコード・セールス600万枚という驚異の記録につながったのだ。


Monday, Monday, so good to me
Monday morning, it was all I hoped it would be
Oh, Monday morning, Monday morning couldn't guarantee
That Monday evening you would still be here with me…

月曜日 心地の良い日
月曜日の朝 僕がそうあるべきと望んだものだった
ああ、月曜の朝は保証できない
月曜の夜まで 君が一緒にいてくれるかどうかなんて

月曜日なんか信用できない
月曜日にあっさり裏切られることだってあるから
ああ、月曜の朝、君は何にも言ってくれなかった
ああ、あの月曜日に僕をおいて行ってしまうなんて

月曜日以外の他の日なら
一週間のうちの他の日なら大丈夫なんだ
でも月曜日が来るたびに 毎週来るたびに
僕は一日中泣いているのさ…
彼らは、元々ニューヨークを中心に活躍していたフォーク歌手たちの集まりであったが、当時まだ生まれていなかったウェスト・コースト・ロックのパイオニアであり、花を飾って西海岸を目指したヒッピーたちの先駆者でもあった。そういう意味でも「フラワーピープル」たちにとっての“ママス&パパス”であったわけである。

美しいハーモニーを持つ彼らは、サンフランシスコを中心に盛り上りつつあったフラワー・ムーヴメントの流れにも乗って、ある意味コミューンのような理想的なグループというイメージを売り物にしていた。しかし、その理想が幻想であったことはすぐに明らかになる。ラヴィン・スプーンフルの場合には、ドラッグ問題が契機だったが、彼らの場合には、何と不倫問題であった。デニーとミシェルが不倫関係にあることを知ったジョンはミシェルをグループから追放した。だが、ほどなくグループに復帰させ、理想的なグループの体面を保つことにしたのだ。ママ・キャスは激怒したという。そんな状況下で出したセカンド・アルバム(The Mamas & The Papas−全米4位)、サード・アルバム(Deliver−全米2位)とも大ヒットし、グループ内の不和は嘘のような活躍ぶりであった。

67年に開催されたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルでは、彼らは発起人とコンサートのトリを務め、まさしく主役であった(映画『モンタレー・ポップ』)。中でもママ・キャスとして多くのファンに親しまれたキャス・エリオットは、面倒見がよく、ジョニ・ミッチェル、CS&N(クロスビー・スティルス&ナッシュ)など後進のアーティストを支援するなどまさに母親的な役割を果たした。フィリップス夫妻作の『クリーク・アリー』(Creeque Alley−67年5位)という曲には、ザル・ヤノフスキー、ジョン・セバスチャン、ロジャー・マッギン、バリー・マクガイア等、フォーク・ロック界のアーティストのことが歌われている。

だが、夫婦間に亀裂が入っていたフィリップス夫妻は、68年に入ると再び衝突し、、ミシェルはグループから完全に追放されてしまう。ママ・キャスは、自分がリード・ヴォーカルを担当した楽曲を、ソロ・アルバムとして発表(この中に例の“Dream A Little Dream Of Me”も収録)、いよいよメンバーはバラバラになってしまうのである。

その後、レコード会社(ダンヒル)との契約上、アルバムを1枚制作しなければならなかったが、それは、各メンバーが別々に録音したものをダビングして作られたものだった(71年“People Like Us”)。そうしているうちにキャスは74年に心臓麻痺で急死してしまった。蚤助はキャスの個性的なキャラが好きだったが、特に初期(65年)の『青空を探せ』(Go Where You Wanna Go)がお気に入りだ。「行きたいところに行けばいい、したいことをすればいい、一緒にいたい誰かと…」と、キャスのリード・ヴォーカルで素晴らしいハーモニーが聴ける。80年代には、ジョン、デニー、スコット・マッケンジーでママス&パパスが再結成されるが、もはやかつての素晴らしいハーモニーは甦ってくることはなかった。なお、ジョンは01年、デニーは07年に死去している。

パパとママどっちも好きと如才ない  蚤助



#625: 僕たちが一日と呼んだ夜

$
0
0
まずは英語の問題である。

「(問)“The night we called it a day”というのはいったいどんな夜のことでしょうか。正しいと思うものを選びなさい。」

   a)長い一日が終わった夜
   b)僕たちが徹夜をした夜
   c)僕たちが昼間のことを話し合った夜
   d)僕たちが終わりにした夜
   e)僕たちが一日と呼んだ夜

“The night we called it a day”というのは、ソングライターで弾き語りの名手でもあったマット・デニス(1914〜2002)が1941年に作ったスタンダードナンバーのタイトルである。作詞したのは、デニスの楽曲にたくさん歌詞を提供したトム・アデア。蚤助がこの曲を最初に聴いたのは、おそらくヴォーカルではなく、ミルト・ジャクソン(vib)とジョン・コルトレーン(ts)との共演盤“BAGS & TRANE”(1959)(こちら)におけるバラード演奏であったと思う。ハンク・ジョーンズ(p)、ポール・チェンバース(b)、コニー・ケイ(ds)というメンバーも粒ぞろいで、ずいぶんと聴き込んだものだったが、この曲のタイトルの意味するところが長いことわからなかったのである。生来の怠け者で、敢えて調べようとする気にならなかったのだ。

その後、“PLAYS AND SINGS MATT DENNIS”(1953)で作者マット自身による弾き語りのライヴ録音(こちら)や、クリス・コナーの“CHRIS CRAFT”(1958)における歌唱(こちら)、最近ではダイアナ・クラールの“THE LOOK OF LOVE”(2001)における歌唱(こちら)などを耳にするにつけ、次第に意味を知りたいという欲求が強くなってきた。

蚤助の場合、辞書を引き引き歌詞の意味について思いを巡らせていくわけだが、いくつかの辞書にあたる中で恰好の辞書を見つけた。現在は、家庭を持って家を出た息子が、家に置いていった“LONGMAN”の英英辞典である。この辞書は、どうやら特に非英語圏の学習者のために編纂された辞書のようで、すべての単語を原則として2千語以内で説明してある。それも説明が易しいというユニークな特徴を持っているのだ。

そこで、このマット・デニスの佳曲“The day we called it a day”である。時を表す関係副詞“when”が省略されていて、本来は“The night when we called it a day”であるが、“night”と“day”が対として使われていてなかなか気の利いたタイトルである。だが、直訳すると「僕たちが一日と呼んだ夜」となって何のことか全くわからない。しょうがないのでいくつか手元にある英和辞書で引いてみると、辞書によっては“call it a day”というのが出ていないものがある。そこでかの“LONGMAN”を引いてみるとちゃんと“call”の項に出ているのだ。“call it a day”は“(informal)to stop working, usually because you are tired”と説明されている。“(口語)通常、疲れたために働くことを止めること”という意味だ。念のためお馴染み研究社の辞書を調べてみると“call”ではなく“day”の項に出ていて、“call it a 〜”として「(口)(その日の)仕事をお仕舞いにする」と説明してあった。ということで、冒頭の問の解答はd)である。

トム・アデアの書いたこの曲の歌詞はこうだ。

There was a moon out in space
But a cloud drifted over its face
You kissed me and went on your way
The night we called it a day

I heard the song of spheres
Like a minor lament in my ears
I hadn't the heart left to pray
The night we called it a day…
どうやら、充分恋をしてきてもう疲れてしまったので止めよう、というニュアンスだろうか、「最後の夜」という感じなのだろうか。

月が出ていた でも雲が漂ってその顔を隠してしまった
君は僕に口づけをすると行ってしまった 僕たちが終わりにした夜

天体の歌が聴こえた かすかな哀歌のようだった
もう祈る気力もなかった 僕たちが別れた夜

暗闇を通して優しく 空にフクロウが啼く
悲しい歌だが 僕ほどブルーじゃない

月が沈み 星も消えてしまった
でも夜明けが来ても 陽は昇らなかった

言うべきことはもう何もなかった 僕たちの最後の夜…
大事なことはただ「今していることを止めよう」ということではなくて、“because you are tired”、すなわち“疲れてしまったから”という、していることを止めようとする背景まで分かるように書いてあるのが“LONGMAN”の良いところではないかと思う。興味のある方は“LONGMAN”の辞書を入手されることをお勧めしておく。

なお、この歌、御大シナトラは3回ほどレコーディングしているようだが、57年のアルバム“WHERE ARE YOU?”に収録したヴァージョンは、当時最愛のエヴァ・ガードナーと離別の時期にあたり、そういう二人のエピソードを知ったうえで聴くと、シナトラの歌には特別な感傷が込められているような気がしてくる。シナトラは泣いている(こちら)。

履くとすぐ割れたガラスの靴と恋  蚤助

#626: 風変わりな歌

$
0
0
スタンダード・ナンバーの中にはいろいろ毛色の変わったものがあるが、風変わりという点では、さしずめ“Miss Otis Regrets”という曲などはその最右翼に位置するかもしれない。スタンダードとはいっても、大向こうをうならせるような派手な曲ではないし、スタンダード・ファンの間でもあまり語られることのない、どちらかといえば地味な曲である。


まず、どんな内容の歌か紹介しておこう。煩雑なので繰り返しの部分は省略する。

Miss Otis regrets she's unable to lunch today, Madame
She is sorry to be delayed
But last evening down in lover's lane she strayed, Madame

When she woke up and found that her dream of love was gone, Madame
She ran to the man who had led her so far astray
And from under her velvet gown
She drew a gun and shot her lover down, Madame

The mob came and got her and dragged her from the jail, Madame
They strung her upon the old willow across the way
And the moment before she died
She lifted up her lovely head and cried, Madame
Miss Otis regrets she's unable to lunch today.....
“regret”は「後悔する、悲しむ、惜しむ、残念に思う」という意味で、“I regret I am unable to〜”とくれば、招待されたことに対してあらたまって断る際の慣用句的な言い方になるのだそうだ。「残念ながら(あいにく)〜することができません」という感じだろうか。

ミス・オーティスは残念ながら本日のランチにはお越しになれないとのことです、マダム
連絡を差し上げるのが遅くなって申し訳ありませんとのことです
でも昨夜「恋人たちの小路」で彼女は恋人とはぐれてしまったのです、マダム

今朝お目覚めになって愛の夢が消えてしまったことがわかったそうです、マダム
取り乱して男のもとに駆けつけ
ビロードのガウンの下から拳銃を抜いて恋人を撃ったのだそうです、マダム

暴徒が彼女を留置場から引きずり出したとのことです、マダム
通りの向かい側にある古い柳の木に吊るしてしまいました
そして死ぬ直前にその愛らしいお顔を上げて叫んだそうです、マダム
ミス・オーティスは残念ながら本日のランチにはうかがえません、と.....
♪ ♪
さるご婦人がミス・オーティスとランチの約束をしている。しかし、ミス・オーティスはやって来ない。その代わりに屋敷の執事が“マダム”と何度も呼びかけながら、女主人を襲った悲劇を伝えていくというドラマ仕立てとなっている。この展開は、どこなくビリー・ワイルダーの名画『サンセット大通り』(1950)を連想させるところがあってなかなか面白い。瀟洒な屋敷のロビーで、穏やかな口調で執事がマダムに語りかけるのである。ラストの断末魔で、ランチを一緒に出来ないことを詫びるというシチュエーションはまるで芝居を見ているようだ。また、フレーズの最後に“マダム”という気取った呼びかけが繰り返され巧まざるユーモアとなっている。

ミス・オーティスは恋人を撃ち殺す。それを知った民衆が暴徒化し、留置場から彼女を引きずり出し、柳の木に吊るして処刑しようとする。殺された男はよほど人望があったのだろうか。それとも、ミス・オーティスは町の人々からよほど忌み嫌われていたのか。はたまた、女性が男性を殺すとその逆よりもずっと重罪となるという時代だったのか。いずれにしてもこの町の人々の行為はあまりにも乱暴すぎるような気がする。舞台は「アメリカの西部」とする人が多いようだが、蚤助にはどことなく「南部」の感じがしてならない。木に吊るされる情景が、ビリー・ホリデイの“Strange Fruit”(奇妙な果実)を連想させるからであろう。こちらはより生々しい「私刑の歌」であった。

それにしても、息絶える直前に、「ミス・オーティスは残念だけど、今日のランチはご一緒できないって、マダムに伝えておいてちょうだい」と叫ぶミス・オーティスというのも何だかよくわからない。ひょっとして精神的に問題がある女性だったかもしれない。でも、だからといって吊るされても仕方がないと言うつもりは毛頭ないので、誤解なきよう…(笑)。

♪ ♪ ♪
作詞、作曲はコール・ポーター、1934年に出版された作品である。彼がレストランで食事をしているとき、他のテーブルから聞こえて来たウェイターの応対にヒントを得たとか、ラジオから流れたカントリー・ソングにインスパイアされたとか、曲の誕生のエピソードに複数説があるのだが、それにしても、刃傷沙汰や処刑まで登場するイメージの飛躍は、いかにも粋でダンディな才人ポーターらしい。しかも、悲劇的な歌詞とは裏腹にメロディはメジャー・コードで書かれており、ラヴソングのように優しく美しいのも心憎い。


この曲、世評名高いのはやはりエラ・フィッツジェラルドの“COLE PORTER SONGBOOK”(56)における歌唱だろう。ピアノの伴奏で、バラードとしてしんみりと歌い上げている。まるで命を落としたミス・オーティスの死を悼むかのようだ。

こちらが、その歌唱だが、この画像の冒頭に出てくるシーンにご注目あれ。NHKでも放映された英国制作のTVドラマ、アガサ・クリスティの「ミス・マープル」シリーズ(マープル役はジョーン・ヒクソン)の一篇「バートラム・ホテルにて」の導入部である。ホテルのフロント係が、電話口で話すセリフが“Miss Otis regrets she's unable to lunch today”なのだ。いかにも英国らしいウィットではありませぬか(笑)。もうひとつ、フレッド・アステアのTVスペシャル番組から、この歌をネタにしたコント仕立てのダンスを楽しんでいただこう(こちら)。ここでアステアと共演しているのは、彼の晩年のダンス・パートナーであったバリー・チェイスである。

♪ ♪ ♪ ♪
マダムやミス・オーティスに限らず、人はみなランチタイムは楽しみにしているはず。特にサラリーマンやOLにとってはどこで何を食べるかは頭を悩ます問題である。安くて美味い店は長蛇の列だし…、ということで、本日のランチは、手早くありつけるところで、なんて考えると…

行列を避けてやっぱり不味い店  蚤助

#627: ブルーに生まれついて

$
0
0
W杯ブラジル大会によせて、何かサッカーに関するネタを取り上げようと思っていたが、なかなか良いアイデアが出ないまま大会が始まってしまった。20年以上前だが、ブラジルに赴任していた経験があることから、ブラジル・ネタでも…などとも考えたが、これまでこのブログで散発的ではあるが記事にしていたこともあってあまり気が進まない。現在のかの国の状況は、当時とは変わっているが、変わらないままのところもあり、思い出を呼び起こしつつ、テレビで放送されるブラジルの映像や試合の様子を楽しむだけにして、おとなしくしていた方がよいだろう。

日本の初戦(対コートジボワール)は先制もむなしく後半逆転され、残念な黒星スタートとなってしまった。本稿はサッカー日本代表“SAMURAI BLUE”からかなり強引な“Blue”の連想である(笑)。


“The Velvet Fog”(ビロードの霧)の異名もあったジャズ歌手のメル・トーメ(1925‐1999)は、ドラマーとしての腕前もさることながら、曲作りの才能にも恵まれていた。有名なところでは、クリスマスの定番曲のひとつ“The Christmas Song(Chestnuts Roasting On An Open Fire)”は、メル・トーメがやはりドラマー出身のロバート(ボブ)・ウェルズと共作したものだ。同じく、メル・トーメ&ボブ・ウェルズの共作“Born To Be Blue”も傷心のラヴ・バラードの傑作である。

1947年に出版されているが、タイトル通り、どこまでもブルーな曲である。歌詞もブルー、メロディもブルー、隅から隅までブルーなのだが、陰隠滅滅としておらず、優しく美しく、どちらかといえば洒脱な歌の部類である。粋で都会的だったいかにもメル・トーメらしい作品である。しかも、上手い歌手でなければなかなか歌いこなせない難曲であることは間違いなく、それゆえにというべきか、この曲をレパートリーにしている歌手はそんなにいない。トーメ自身は何度か録音していて、心のこもった素晴らしい歌唱を残している。何気なくさらりとした語り口は彼ならではの至芸である(こちら)。

♪ ♪
Some folks were meant to live in clover
But they are such a chosen few
And clover being green is something I've never seen
'Cause I was born to be blue…

生まれつきクローバーに囲まれて暮らす人がいる
でもそれは選ばれたわずかな人たち
クローバーの緑なんて目にしたこともない
だって私は生まれつきブルーなんだから

空に黄色い月が浮かぶと
光にあふれているとみんなは言う
でも月光は黄金色で私の目には映らない
だって私はブルーに生まれたんだから

あなたに出会ったとき世界は明るい陽が照っていた
あなたが去ったら幕が降りてしまった
笑いたいけど笑う材料など何もない
今では世界は色の褪せたパステル

それでも私はまだ運の良いほうなのだろうか
あなたを愛するスリルを知ったのだから
それだけでも私には身に余ることだ
だって私はもともとブルーに生まれついているのだから…
イントロの一節にある“live in clover”は「クローバーに囲まれて暮らす」だが、「裕福に暮らす」という意味の成句で、研究社の英和辞典では「ぜいたくに遊び暮らす」と説明されている。要するに「お金の心配のない金持ちの暮らし」ということだ。このイントロを聴くと、クローバーが茂った広々とした庭の光景が脳裏に浮かぶのだが、この歌の「私」の目にはそうは映らないようだ。彼(彼女)は生まれついてのブルーだからだ。ブルーのフィルターを通してしか、世界を見ることができないと嘆息しているのである。

♪ ♪ ♪

(Born To Be Blue/Beverly Kenney)
“Born To Be Blue”といえば、この曲をタイトルにしたビヴァリー・ケニーの58年録音のアルバムがある。ソファに身を横たえる彼女の姿をしっとりとしたブルーの色調でまとめたジャケットが印象的だ。若くして亡くなった彼女の残した何枚かのアルバムの中では最も渋めの作品かもしれないが、ちょっと舌足らずのところがあって愛らしい彼女の歌声はよくコントロールされていてとても素晴らしい(こちら)。

だが、この曲は、ヘレン・メリル(冒頭画像)がクリフォード・ブラウン(ブラウニー)とともに吹き込んだ54年の名作アルバムの歌唱を何があっても忘れるわけにはいかない。


(Helen Merrill With Clifford Brown)
録音当時、24歳だったヘレンは、この繊細なバラードを歌うために全身全霊でマイクロフォンの前に立った。彼女の歌声には淡いブルーの幕がかかっている。ブラウニーのタイトなソロは、深いエモーションに満ちていて、ブルージー、そして何よりも潔い。彼女のブルーの幕をブラウニーがスタッカートを多用しながら切り裂いていく。ブラウニーのソロが終わると、彼女がサビの部分から歌い始めるが、そのあたりの呼吸はまことに見事でため息が出そうだ。そして、ブラウニーが引き裂いたところをヘレンは再びブルーの糸で紡ぎ直していくのである。アレンジャーのクインシー・ジョーンズの素晴らしい仕事ぶりも特筆される。彼女にはまさにピッタリのナンバーだ(こちら)。


(右からヘレン、ブラウニー、ジミー・ジョーンズ、オスカー・ペティフォード)
そういえば、メル・トーメの歌声が「ビロードの霧」だったのに対して、ヘレンの歌声の方は「ニューヨークのため息」と呼ばれていたが、どちらもフォギーでスモーキーな声質だったね。

♪ ♪ ♪ ♪
サッカー日本代表のサポーターも「嘆息」、「ため息」ばかりついていないで、より一層熱いエールを地球の反対側まで送ることにしよう。

カーテンの中のため息試着室  (蚤助)

#628: Am I Blue

$
0
0
“Blue”つながりでもうひとつ、“Am I Blue”(1929)という歌を思い出した。グラント・クラーク作詞、ハリー・アクスト作曲の古い歌で、発表当時エセル・ウォーターズが歌ってヒットした。

Am I blue
Am I blue
Ain't these tears in my eyes tellin' you
Am I blue
You'd be done
If each plan with your man done fell through

Was a time I was his only one
But now I'm the sad and lonely one, Lawdy
Was I gay till today
Now he's gone and we're through
Am I blue…

私はブルーなの 悲しいのね
私の目の涙 見てわかるでしょ
悲しいのよ あなただってそうなることがあるでしょ
男のために尽そうとして だめになってしまったら

彼のただ一人の女(オンリーワン)だったときがあったわ
でも今は悲しくて寂しくて ああ、なんてこと
楽しかった 今日まではね
もう彼は行ってしまった もう終わったのよ
私はブルーなの…
“Am I Blue”は疑問形だが、強調のため倒置形にしていると考えることもできる。蚤助なりに解釈してみると「悲しいのかって訊くの?もちろん悲しいわ」くらいの意味ではなかろうか。“Lawdy”というのが分かりにくいが、これはロイド・プライスの名曲として有名な“Lawdy, Miss Clawdy”の“Lawdy”と同じように、“Lord”のことだと思われ、「おやまあ、何ということ!」という程度の軽い意味であろう。おそらく最も近いのは津軽弁の“ワイハ!”、『あまちゃん』で有名になった例の“ジェ!”という間投詞かもしれない(笑)。“Was a time...”は“There was a time...”の“There”が省略されていると考えられる。全体にシンプルな歌詞だが、歌い手によって微妙に歌詞が変わっていることがあり、この部分も“There was a time...”と歌っている人もいる。

「この目の涙が何かを語っているでしょ。そうよ、彼は行ってしまったの。だから私はブルーなの」と、アチラでは失恋しても「行ってしまった」と割にカラッとしている。特に、ダイナ・ワシントンのようなヴァイタルな歌手だと「フン、こっちでポイしてやったんだ」と言う風に聞こえる(笑)。ちなみに、ダイナは“There was a time...”と歌っている。それはともかく「棄てられた」と被害者意識に陥ってしまう演歌の世界とはだいぶ違うようだ。もっとも、「棄てられる」というのもウェットながらそれはそれで素晴らしい言い方だと思うのだが…。で、この曲、蚤助の目下のお気に入りは、ネルソン・リドル編曲指揮のオーケストラの伴奏で、ミディアム・スウィングで、あっけらかんと歌うリンダ・ロンシュタットである。こちらは“Was a time...”と歌っている。


ところで、蚤助がこの曲を初めて知ったのはいつだったろうか。たしか映画の中であった。

はっきりと記憶にあるのは、ベルナルド・ベルトリッチ監督の力作『ラスト・エンペラー』(The Last Emperor‐1987)で、清朝最後の皇帝溥儀を演じたジョン・ローンが歌っていた(こちら)。もっとも、曲を聴いてすぐ分かったのだから、それより以前にタイトルとメロディは知っていたはずだ。今見直すと、ローンが歌っているのは27年の天津という設定になっているようだ。曲が29年に出版されているのだから、年代が合わないのだが、あまり目くじらを立てることもあるまい…(笑)。

その前といえば、フランシス・フォード・コッポラ監督の『コットンクラブ』(The Cotton Club‐1984)だったか。リチャード・ギア扮するコルネット奏者と歌手役のダイアン・レインがクラブのステージでこの曲をやっていた(こちら)。だがこの頃も既に曲を知っていたと思う。

多分、ずっと以前、テレビ放映された『脱出』(To Have And Have Not−1945)ではなかっただろうか。ヘミングウェイの原作をハワード・ホークスが映画化したもので、マイケル・カーティスの名作『カサブランカ』の二匹目のドジョウ狙いのような作品だったが、これはこれでなかなか面白い映画だった。“Am I Blue”が出てくるのはこういう場面である。この映像の冒頭でタバコに火をつけるのが、ご存じハンフリー・ボガート、歌い出すピアノ弾きがホーギー・カーマイケル(“Stardust”、“Georgia On My Mind”、“Rockin' Chair”など数々の名曲を作った人)、そしてピアノに近寄って行って歌に入っていくのが、ローレン・バコールである。蚤助はこのバコールにノックアウトされてしまった記憶があるのだ。

イラストレーターの和田誠氏はその著書で、このバコールの歌声は吹き替えで、実は無名時代のアンディ・ウィリアムスの声だと書いていて、ビックリしたものだった。もっとも、ハワード・ホークスがバコールの歌声を気に入って、最終的には彼女の歌声を採用したという説もあるのだ。その気になって注意深く聴くと、男声のような気もするし、バコールの声自体、女性にしては低く太い方なので、本人の声のような気もして、正直言って蚤助には判定できない…(笑)。

この『脱出』という映画については、まだまだ書きたいことがあるので次稿に続く。

見ただけでブルーになりそう鬱の文字  蚤助

#629: 脱出('44)

$
0
0
『脱出』という邦題の洋画は、知る限り2本あって、ひとつは44年の“To Have And Have Not”(ハワード・ホークス監督)、もうひとつはジョン・ブアマンが監督し、ジョン・ヴォイト、バート・レイノルズが主演した72年の“Deliverance”というサバイバル・アクションである。どちらも蚤助好みの映画だが、前稿のつながりからホークス作品について書いておきたい。

この作品は撮影当時19歳だったローレン・バコールの映画デビュー作である。しかも、ここで共演した25歳年上のハンフリー・ボガートと恋に落ち、やがて結婚、そしてボギーが亡くなるまで添い遂げるきっかけとなった記念すべき作品でもあった。ボギーとバコールは、この『脱出』の後、『三つ数えろ』(46)、『潜行者』(47)、『キー・ラーゴ』(48)の4本で共演することになる。

アーネスト・ヘミングウェイとホークスは友人だった。ホークスが「君の一番出来の悪い小説だって映画にしてみせる」と言うと、小説家が「それはどれだ」と訊いた。ホークスはベストセラーだった“To Have And Have Not”(邦題「持つものと持たざるもの」あるいは「持つと持たぬと」)と答えた。これがそもそもの始まりだった。脚本を担当したのは、ホークスとよく組んだジュールス・ファースマン(リオ・ブラボー)とノーベル賞作家のウィリアム・フォークナー(三つ数えろ)。ファースマンの当初の脚本はキューバを舞台にしたヘミングウェイの原作に忠実なものだったようだが、フォークナーがこれをカリブ海の別の島に舞台を移し、シチュエーションも変えて大胆に脚色し直したのだという。

この作品、よく言われるようにマイケル・カーティス『カサブランカ』(1942)と類似するところが多い。舞台はどちらもフランス植民地(片やモロッコのカサブランカと霧の飛行場、片やカリブ海に浮かぶマルチニック島と港)、時代は第二次世界大戦初期のドイツがフランスを攻略していた頃、気ままに暮らす主人公(片や酒場の店主、片や釣り船の船主)をボギーが演じ、政治的に中立の立場にいようとするが、行きがかり上レジスタンスの手助けをすることになる。結果としてナチを相手に闘うことになるわけだ。音楽にしても、片やピアノ弾きのサム(ドゥーリー・ウィルソン)の“As Time Goes By”、片や同じくピアノ弾きのクリケット(ホーギー・カーマイケル)の“Am I Blue”やカーマイケル自作の“Hong Kong Blues”、“How Little We Know”、“Baltimore Oriole”などが出てくる。ホークスがどこまで意識していたかは知らないが、まるで『カサブランカ』の姉妹編のような印象を受ける。ただ、ホークスの体質か、『カサブランカ』のようなムードあふれるロマンティイズムや詩情の要素は希薄で、どちらかといえばよりハード・ボイルドである。それはヒロインのイングリッド・バーグマンとローレン・バコールの資質、キャラクターの相違からくる要素であったかもしれない。

また、『カサブランカ』の有名な例のボギーの気障でクサいセリフ(そうアレです)…「君の瞳に乾杯」(Here's Looking At You, Kid)や、酒場の女客イヴォンヌ(マドレーヌ・ルボー)との「夕べどこにいたの?」「そんなに昔のことは覚えてないね」「今夜会ってくれる?」「そんなに先のことはわからない」といったやりとりに相当するセリフは出てこない。それでも印象に残るセリフは『脱出』の方にも出てくる。

最も知られているのは、バコールがボギーに言うこのセリフだろう。

「用があったら口笛を吹いて」
この部分、映画では“You know you don't have to act with me, Steve. Not a thing. Oh, maybe, just whistle.”となっているというが、一般的には、公開当時、宣伝用のキャッチコピーとして使われたという“If you want anything, all you have to do is whistle.”というフレーズの方がよく知られているようだ。このキャッチコピーが有名になって映画の中のセリフのように思い込む人が多かったのだろう。だが、ボギーの葬儀のとき、バコールは棺に向って、実際に口笛を吹いたそうだし、ボギーの墓石には「用があったら口笛を吹け」と刻まれているという。いやあ、恰好いいね。セリフも伝説化するのである。ちなみに、『脱出』におけるボギーの役名はハリーなのだが、バコールはハリーとは呼ばずわざとスティーヴと呼んでいるのだ。また、バコールはマリーという役名だが、ボギーは彼女をスリム(やせっぽち)と呼んでいる。

余談だが、ハリウッドにスターの手形とサインが舗道に刻まれているので有名なチャイニーズ劇場というのがある。この由来は、スターがオーナーのシド・グローマンに手形を贈ったことに始まるそうだ。したがって、サインは「親愛なるシド」へとか、「シド、あなたへの感謝をこめて」とか書かれているのだが、ボギーのは「シド、俺が殺すまで死ぬなよ」と書いてあるそうだ(笑)。これは和田誠氏の本からの孫引きである。


それにしても、バコールのクール・ビューティぶりは際立っていて、ボギーよりもハード・ボイルドな感じだ。煙草の火を借りるために部屋の入口に立ってボギーを上目使いに見る彼女は、ジャーナリズムが後に“The Look”と名付けたほど印象的な姿である。もっとも、彼女は緊張からくる身体の震えを隠すために無意識にした仕草だといわれているが、これが彼女のトレードマークになってしまった。映画はほぼシナリオの順番に沿って撮影されたようで、バコールとボギーの関係がストーリーが進むにつれて段々と親密になっていくように感じられるのは、蚤助の思い過ごしであろうか。なお、前稿でもふれたが、カーマイケルのピアノ伴奏でバコールが歌う場面が三回ほどある。本人の歌声か、吹き替え(アンディ・ウィリアムス?)か断定できないのだが、少なくとも一部は本人の歌声ではないかという気がする。


またこの映画には、ボギーの相棒で酒飲みの船乗りエディーに扮した名バイ・プレイヤーのウォルター・ブレナンが出ている。脚本家は彼にコメディ・リリーフの役柄を与えて、ストーリーに厚みというか遊びというか、アクセントをつけている。

ブレナンは、口癖のように、会う人ごとにこういう質問をする。

「死んだ蜂に刺されたことはあるかい?」
不思議な質問だが、彼はこう続ける。「死んだ蜂には気をつけた方がいい。奴らはひどく刺す。特に死ぬときに怒っていた蜂は怖い」。哲学的で、何か深い意味があるのか蚤助には分らないが、面白いセリフである。

酔っぱらうと物事を忘れる性癖があり、そのことを指摘されるとこう答える。

「俺は酒を飲んで忘れたことはない。もし忘れたら…水を飲む」
レジスタンスの活動家を迎えに行く船の上で、ブレナンとボギーはこんなやりとりをする。

「危険な仕事なのか」
「危険かどうかは俺たちが運がいいかどうかで決まる」

ラスト・シーンで、バコールはピアニストのカーマイケルに別れの挨拶をした後、腰を振りながら笑顔で客席の間を歩いていく。こういうシーンは、他では見られない彼女のお茶目な姿である。これから命がけで島から脱出しようというのに、何とも晴れやかな笑顔なのだ。そして、この映画は唐突といった感じで終わってしまう。そういう風に終わってしまうのがこの作品の欠点である(笑)。

なお、前述のとおり『カサブランカ』との類似性はあるが、この作品は以後2度リメイクされている。『破局』(The Breaking Point−1950)と『裏切りの密輸船』(The Gun Runners−1958)で、後者は若かりし頃のドン・シーゲルの作品、前者は『カサブランカ』のマイケル・カーティスの作品であった。『カサブランカ』との類似性を指摘されたホークスは、カーティスによって自作がリメイクされたことで、ひょっとして一矢報いたと思ったかもしれない(笑)。

触れるから触るになって恋進む  (蚤助)


#630: さよならを言うたびに

$
0
0
もう終了してしまったが、NHK地上波テレビで放送されていた土曜ドラマ『ロング・グッドバイ』(全5回)は、レイモンド・チャンドラーの原作を、終戦直後の東京を舞台に翻案、なかなか見どころの多い作品だった。意外なことに、連続ドラマは初主演だという浅野忠信が私立探偵(増沢磐二)に扮した。和製フィリップ・マーロウの感じがよく出ていて好感が持てた。ほかに綾野剛、小雪、古田新太、冨永愛、柄本明らが出演してなかなか骨太なドラマに仕上がっていた。以前、こちらでも触れたことがあるが、『ロング・グッドバイ』のキャッチコピーは、“To Say Goodbye Is To Die A Little”(「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」/村上春樹訳)である。人気を博した朝ドラ『あまちゃん』の音楽で名を上げた大友良英がこのフレーズをもとに曲を書き、歌姫役の福島リラが歌っていた。マイルス・デイヴィス風のミューテッド・トランペットを多用した劇中音楽も、混沌とした時代の雰囲気が出ていて、出色の出来ではなかったかと思う。

「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」は、原作“The Long Goodbye”のあまりにも有名な決め台詞であるが、このフレーズは、どうやらレイモンド・チャンドラーのオリジナルではないらしい。というのは、主人公の私立探偵マーロウは「フランス人というのはどんな場合にもぴったりとはまる台詞を持っている」と前置きをしてから、このフレーズを口にするからである。では、ここでいう「フランス人」というのは何のことか。調べてみると、フランスの詩人・劇作家エドモン・アロクール(1856‐1941)のことだそうだ。彼の詩にフォーレが作曲した歌曲もいくつかある。このフレーズは彼の『別れのロンデル』という詩の一節からの引用だという。

RONDEL DE L'ADIEU (1891)/Edmond Haraucourt

Partir, c'est mourir un peu,
C'est mourir a ce qu'on aime...

別れのロンデル(1891年)/エドモン・アロクール

出発することは、ほんのちょっぴり死ぬことだ
愛する人との死に別れ...
だが、この決め台詞をチャンドラーよりも先に世に出した人がいる。コール・ポーターである。“The Long Goodbye”が発表されたのが1953年、ポーターがレヴュー『Seven Lively Arts』のために書いた“Ev'rytime We Say Goodbye”を発表したのが1944年である。このレヴューはストラヴィンスキーのバレエを紹介するという趣向のミュージカルで、要所にポーターの歌が挟まるというものだったそうだ。ヒットした有名なナンバーなので、フィリップ・マーロウ氏にしたって、この言い回しは既に知っていたはずである(笑)。

まずは、ポーターの歌がどういうものか見てみよう。

EV’RYTIME WE SAY GOODBYE (words & music by Cole Porter)

Ev'rytime we say goodbye, I die a little
Ev'rytime we say goodbye, I wonder why a little
Why the Gods avobe me, who must be in the know
Think so little of me, they allow you to go...

さよならを言うたびに 私はすこしだけ死ぬ
さよならを言うたびに 少しだけ不思議に思う
私のことをよくご存じのはずの神様は
どうして私のことを考えてくれないのか
あなたを行かせてしまうなんて

あなたがそばにいると あたりが春の気配に満ち
どこからか春を歌うヒバリの声が聞こえてくる
これほど素敵なラヴソングはないのに なんて変なのだろう
長調(major)のはずが短調(minor)になってしまう
さよならを言うたびに
“be in the know”というのは、「よく知っている、事情に通じている」という意味の成句である。「なんて変なのだろう、長調のはずが短調になってしまう」という箇所は“how strange the change from major to minor”で、別れのつらさをこう表現しているのである。しかもこの部分は実際にメジャーからマイナーへと変化するコード進行となっていて、いかにも粋なポーターらしい。この曲、『いつもさよならを』という邦題もあるけれど歌の内容とニュアンスが違う感じがして、『さよならを言うたびに』の方が蚤助にはしっくりとくる。数あるポーターの作品の中でも最も美しいバラードのひとつである。


(After Hours/Sarah Vaughan)
基本的に、女心を歌っていると思われる内容なので、多くの女性シンガーに愛好されている作品だが、サラ・ヴォーンの軽やかなスウィング感を持ったバラード表現はとりわけ印象深い。伴奏はマンデル・ロウのギターとジョージ・デュヴィヴィエのベースのみ、61年の録音。


(Duet/June Christy & Stan Kenton)
サラより「さら」にシンプルにスタン・ケントンのピアノ伴奏だけで歌ったジューン・クリスティは、丁寧に歌いこんでいる。いわば美しき楷書体による歌唱である。55年の録音。

なお、87年にはシンプリー・レッドがノスタルジックに歌って、リバイバル・ヒットさせている。

インストではテナーの二大巨匠、ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズのプレイがやはり聴きものだろう。どちらも同じワンホーンのカルテット演奏だが、受ける印象はかなり違う。


(The Sound Of Sonny/Sonny Rollins)
ロリンズは、ソニー・クラークのピアノ、パーシー・ヒースのベース、ロイ・ヘインズのドラムスを従えて、ミディアム・バウンスで悠揚せまらぬプレイを聴かせる(こちら)。ここではこの美しい曲を単なるインプロヴィゼーションの素材として扱っているようだ。一筆書きで一気呵成に綴った風格漂う演奏(57年録音)。


(My Favorite Things/John Coltrane)
コルトレーンがマイルス・デイヴィスのバンドを脱退し、独自の世界を追求し始めた60年の録音。この曲はソプラノ・サックスでオーソドックスなバラードプレイに徹しており、トレーンの自信に満ち溢れた力強いソロ・ワークに魅了される。共演はマッコイ・タイナーのピアノ、スティーヴ・デイヴィスのベース、エルヴィン・ジョーンズのドラムス。“My Favorite Things”が有名すぎるほどの名演だが、これはその隠し味ともいうべき秀逸な演奏である(こちら)。

さよならのメールウィルス付けて出す  蚤助

#631: 眠るミツバチ

$
0
0
映画『脱出』でウォルター・ブレナンが「死んだ蜂に刺されたことがあるかい?」という珍妙な質問をしたことを紹介したばかりだが、ここからまた次の連想である。今度は「死んだ蜂」から「眠るミツバチ」である。


ハロルド・アーレン(1905‐1986)といえばアメリカの国民的作曲家の一人で、映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが歌った“Over The Rainbow”(虹の彼方に)を知らない音楽ファンはいないだろう。コットン・クラブのピアニスト兼歌手から、やがてハリウッドに進出、映画音楽で活躍するようになった。

そのアーレンが、トルーマン・カポーティの短編小説“House Of Flowers”(邦題「花咲く館」あるいは「我が家は花盛り」)をもとにした同名のブロードウェイ・ミュージカルに曲をつけた。1954年のことである。カポーティといえば『冷血』や『ティファニーで朝食を』などで知られるベストセラー作家で、今でいうオネエ的なタレントとしても活躍、後年、映画『カポーティ』の題材にもなった人物である。カポーティもアーレンもとびっきりの才人だったこともあり、作品の出来が悪いはずがない。しかも出演が黒人歌手パール・ベイリー、ダイアン・キャロル、ファニタ・ホール、レイ・ウォルストン、振付にジョージ・バランシン、演出にピーター・ブルックなど当時最高の顔ぶれが揃って、前評判も高かったようだ。このミュージカルの挿入歌のひとつが“A Sleepin' Bee”(眠るミツバチ)である。

♪ ♪
実はこの歌、内容がなかなか理解しづらい。

A SLEEPIN' BEE
(words by Truman Capote, music by Harold Arlen)

When a bee lies sleepin' in the palm of your hand
You're bewitched and deep in love's long-looked-after land

Where'll you see a sun up sky with a morning new
And where the days go laughin' by as love comes a-callin' on you…

手のひらでミツバチが眠っているなら
あなたは魅入られて愛の国にいる

新しい朝の空には太陽が輝き
愛が寄りそい 一日が微笑みつつ過ぎていく

ミツバチよ眠り続けて 目覚めないで
信じられない あの人が私のものになるとは
ようやく幸せがやってきた

夢かもしれない でもあの人は王冠の黄金のよう

眠るミツバチが教えてくれた
本当の恋を見つけたときは
足が地を離れて歩けるんだってことを...
どうだろうか。訳の拙さはさて置いて、すんなりと理解できるだろうか。舞台がハイチという設定なので、歌詞も“he don't sting”、“I dreams”、“I has found”“a sleepin' bee done told me”とかブロークンだし、物語の中ではヴードゥーのまじないがキーポイントになっているのだ。さらに、これは一般にミュージカルの歌曲の特徴なのだが、ストーリーの展開上、必要とされる場面に登場する歌なので、全体の筋の流れを知っているならばともかく、独立した歌曲として扱うためには、前口上に当たる導入部がないと、歌の意味するところが分かりにくいケースが多いのだ。

褐色の肌の美女オティリーは、カリブ海に浮かぶ島ハイチの娼館の売れっ子ナンバーワン。客筋も良く、仲間からも可愛がられ楽しく暮らしている。ただ一つ、姉貴分が話してくれる「恋」という不思議なものだけはまだ知らない。そこでヴードゥーの祈祷師に相談に行くと、「ミツバチを捕まえて握ってみるとよい。刺されなければ恋を見つけた証拠」と教えられる。オティリーは帰り道に客のことを考えながら蜂を捕まえるが、思い切り刺されてしまう。

カーニヴァルの季節。オティリーは美青年ロイヤルと知り合う。二人で森を散歩しているうち、今まで知らなかった感覚がこみあげてくる。ロイヤルが眠っているところへ一匹のミツバチが現れ、オティリーがそれを捕まえると、祈祷師の言った通り、彼女の手の中でミツバチが眠っていて、オティリーは本当の恋だと知る…

このミュージカル、オティリーという愛らしい娼婦が本当の恋人探しをするという大人向けのファンタジーのようなプロットだったらしい。ブロードウェイではこのオティリー役でデビューしたダイアン・キャロルがこの“A Sleepin' Bee”を歌い、スター街道の第一歩を踏み出した。『ティファニーで朝食を』の娼婦ホリーもそうだったが、カポーティの作品に登場する娼婦はどれも無垢な存在なのだ。しかし、この作品、製作者とカポーティの意見の相違などがあって大もめにもめた結果、それぞれの才能が噛みあうことがなく、興業的には失敗に終わったという。この作品はその後も上演される機会はめったになく、今ではこの可愛らしい歌だけが、我々の心に残されているというわけだ。

♪ ♪ ♪

(Mel Torme Swings Shubert Alley)
この曲、これまで多くの歌手・ミュージシャンに取り上げられてきた。一例としてメル・トーメの歌を聴いてみよう(こちら)。都会的なマーティ・ペイチの編曲指揮のビッグ・バンドに乗って、まことに軽快に気持ち良くスウィングする。トーメらしい快唱として知られているが、いきなりコーラス部分から歌っている。多くの歌手が手っ取り早くコーラスから歌い始める歌なのだ。したがって歌の内容がよく分からないと嘆く蚤助のような人物が出てくることになる。加えて、軽快なアップテンポで、メル・トーメのようにスウィンギーに歌うスタイルも多くの歌手に共通している。

当然、オリジナルの歌には前口上に当たるヴァースがある。

When you're in love and you are wonderin'
If he really is the one
There's an ancient sign sure to tell you
If your search is over and done

Just catch a bee and if he don't sting you
You're in a spell that's just begun
It's a guarantee 'til the end of time
Your true love you have won, have won...

あなたが恋をして
その人が かけがいのない人なのか 迷ったら
恋人探しが終わったかどうか知るための 昔からのおまじないがある

ミツバチを一匹捕まえなさい その蜂に刺されなければ
愛の魔法が始まったしるし
時が尽きるまで(永遠)の保証つき
本当の恋を見つけたということ...
こういうヴァ―スがあって、初めてコーラス部分の意味がそれなりに理解できるはずなのだ。みんなヴァースを省略してコーラスから歌いたがる中で、トニー・ベネットはヴァースからきちんと朗々と歌っている珍しい存在である(こちら)。しかも他の歌手とは違い、スローテンポで歌い切っている。伴奏は長年ベネットの女房役をつとめているラルフ・シャロンのピアノのみ。さすがはトニー・ベネットだ。

インストは、ピアノ・トリオの一枚だけ挙げておこう。ビル・エヴァンスが68年のモントゥルー・ジャズ・フェスティヴァルで披露した白熱の演奏が有名だ。YouTubeで見つけられなかったのでこちらを紹介しておこう。データが分からないのだが、蚤助の耳判断では、ベースはエディ・ゴメス、ドラムスはマーティ・モレルではなかろうか。おそらく、69年のヨーロッパ楽旅中のライヴ録音ではないかと思う。だとするとデンマークのカフェ・モンマルトルでの演奏であろうか。控えめなドラムスに絡むベースプレイも熱い。


(Jazzhouse/Bill Evans)
ということで、「西インド諸島あたりにはそんなヴードゥーの恋のまじないがあったんだ」などと試してみるのはご法度。捕まえた蜂に刺されたりしたら目も当てられない。死んだ蜂に刺されるより危険なことはまず間違いない(笑)。

一匹の蜂が辺りを騒がせる (蚤助)

#632: 意表を突いたネーミング

$
0
0
“GS”というと、蚤助の子供たちの世代には、「ガス・ステーション」「ガソリン・スタンド」のことだと思われるかもしれない。蚤助が「美しき十代」(by Akira Mita、古ッ〜!)の頃、「グループ・サウンズ」(GS)が大ブームとなった。蚤助の高校の修学旅行は京都だったが、帰路立ち寄った東京の街をバスで移動中、銀座7丁目あたり(だったと思う)で、多くのGSがステージに立ったことで有名なジャズ喫茶“銀座ACB”(あしべ)はここです、などとガイドが紹介するとバスの中が暫し騒然となった。“ACB”の閉店はブームがすっかり去ってしまった後の72年のことだった。

当時はみんなミーハーだったのだ(笑)。ちなみに手元の国語の辞書(小学館)で『みいはあ』を引くと「みいちゃんはあちゃん」とあって「(俗語)趣味・教養のあまり高くない娘たちをひやかしぎみに言う語」とあり、そうか「ミーハー」は女性に向けた言葉なのかと、大いに気になってしまった(笑)。

振り返ってみると、66年のビートルズ来日を契機にして、GSブームが起きたわけだが、その期間は67〜69年の足かけ3年ほどの短いものだった。ビートルズの来日以前から活動していた“寺内タケシとブルージーンズ”、“田辺昭知&ザ・スパイダース”や“ジャッキー吉川&ブルー・コメッツ”は別格としても、フォーク・ロック系、ブリティッシュ・ビート系、ブラック・ブルース系、それにアイドル系(笑)など多くのバンドが生まれた。アマチュアに毛の生えた程度で聴くのも恥ずかしいようなバンドまであって、まさに有象無象、粗製乱造の最たるものであった。ブームが短期間に終わったのはそうした理由もあったのだろう。


さて、今回はそうしたGSの連中がこぞってカヴァーした曲を世に出したブリティッシュ・バンドの話である。ただしこのバンドはアメリカでは不発に終わったため、世界的にはあまり知られていないのだが、英国のヒットチャートには沢山の曲をランキング入りさせている。

バンドは“Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich”(デイヴ・ディー、ドジー、ビーキー、ミック&ティック)といい、メンバー5人のニック・ネームをただ羅列しただけという意表を突いたネーミングで登場した。長いバンド名なので、本国イギリスでは“Dave Dee & Company”、日本では“デイヴ・ディー・グループ”と呼ばれることが多かった。余程のファンでない限り、このバンドの正式名称を覚えている人はまずいないだろう。かくいう蚤助も調べてみて改めて知ったのだ(笑)。

ヴォーカルのデイヴ・ディー(デヴィッド・ハーマン)、ベースのドジー(トレヴァー・デイヴィス)、リズム・ギターのビーキー(ジョン・ダイモンド)、ドラムスのミック(マイケル・ウィルソン)、リード・ギターのティック(イアン・エイミー)の5人組である。彼らの活動歴はかなり古く58年にデイヴ・ディーが中心となってバンドを結成、62年頃にはビートルズ同様ドイツはハンブルグのクラブでライヴをしていたという。64年に、『ハヴ・アイ・ザ・ライト』を大ヒットさせていたハニーカムズのマネージャーにスカウトされ65年にメジャー・デビューを果たす。

♪ ♪
ポップに徹した明快なサウンド、無国籍風のエキゾチックなフィーリング、それに当時の“Swinging London”を象徴するカラフルなステージ・コスチューム。それは、やがて日本のGSにも影響を与えたが、音楽的には決してポピュラー音楽史に語り継がれるような功績を遺したわけではない。しかし、彼らの曲はなかなか面白かった。


67年に出した『オーケイ!』はロシア民謡やロマ(ジプシー)の音楽を思せるイントロから、ブリティッシュ・ポップのメロディが現れてくるというこのバンドの特徴がよく出ている(こちら)。国籍不明の佳曲(全英4位)。

これを日本ではカーナビーツがカヴァーしたのだが、デイヴ・ディー・グループのオリジナル盤がリリースされた2か月後にカーナビーツ盤が出たという。アイ高野のリード・ヴォーカルが懐かしいが、彼も亡くなってしまったね。ほかに確かシャープ・ホークスもシングル盤を出していた。


同じく67年の『ザバダク!』も国籍不明曲だった(笑)。こちらは全英3位。曲のイメージはアフリカらしく、単純なリフレインだけでできている(こちら)。彼らのアメリカでの唯一のチャート入り曲である(全米52位)。ジャガーズのほかいくつかのGSがカヴァーしていた。


そして68年に出したデイヴ・ディー・グループ最大のヒットが『キサナドゥーの伝説』で、英国チャート第1位のナンバーだ。イントロがフラメンコというかマリアッチというかラテン風味のメロディで、アレンジも実にエキゾチックな路線である(こちら)。これもジャガーズがカヴァーし、オリジナルとともに大ヒットした。

♪ ♪ ♪
彼らは日本でGSブームが終わろうとする69年に来日した。だが、年末にデイヴ・ディーがバンドを脱退、ソロ活動を始める。ドジー以下バンドに残ったメンバーもヒットを出した。バンド名は正式名称からデイヴ・ディーの名前を取っただけの手抜きだった(笑)。そしてどちらもやがて音楽シーンから消えて行った。メンバーの名前の羅列というなら、かの“Peter, Paul & Mary”“Simon & Garfunkel”、“Crosby, Stills, Nash & Young”、“Peter & Gordon”、“Hamilton, Joe Frank & Reynolds”だってそうじゃないかと言われそうだが、“Dave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tich”というのはメンバー全員の「ニックネーム」だったというところが変わっていた。

弔電のあだ名参列者が笑顔 蚤助

#633: Just In Time

$
0
0
ずいぶん前のことになるが、“Bells Are Ringing”というミュージカルについて触れたことがある。1956年にブロードウェイで上演された作品で、『雨に唄えば』、『バンド・ワゴン』、『踊る大紐育』などの名作ミュージカルを世に出したベティ・コムデンとアドルフ・グリーンの名コンビが脚本と作詞を、作曲はジュール・スタインが担当した。主演はジュディ・ホリデイ、それにチャールズ・チャップリンの長男シドニー・チャップリンが共演したが、これがシドニーのブロードウェイ・デビューであった。

60年にヴィンセント・ミネリの手で映画化され、ブロードウェイの舞台で評判をとったジュディがそのまま主演、舞台でシドニーが演じた役にはディーン・マーティンが起用された。ただ、この映画は音楽もコミカルなストーリーもそんなに悪くなかったのに、どうしたことか日本では遂に公開されなかった。現在ではDVDが発売されている。



ジュディ・ホリデイという女優は、歌って踊れる上に達者なコメディエンヌでもあり、『ボーン・イエスタデイ』でアカデミー主演女優賞を獲ったとてもいい女優だった。乳癌で早世してしまったのが惜しまれる。蚤助は彼女が残した数枚のヴォーカル・アルバムを時折引っ張り出して聴くことがある。女房の生命を奪った憎き病なので、乳癌で亡くなった女性歌手や女優にことのほか深い思い入れがあるのかも。きっとセンチメンタリストなのだろう(笑)。


(Judy Holliday)
ディーン・マーティンといえば、ジェリー・ルイスとの底抜けシリーズでコメディアンとして活躍、その後“ディノ”の愛称で、女たらしのアル中男の役柄がピッタリとはまる俳優であった。また、“Volare”、“That's Amore”、“Everybody Loves Somebody”などのヒット曲を放ったポピュラー歌手でもあった。彼の歌の粋なフィーリングは、なかなか魅力的で、ジャズ歌手としてもかなりの実力があったと思う。


(Dean Martin)
このミュージカルから生まれた“Just In Time”という曲は、劇中ディノとジュディによって歌われた(こちら)。ディノの歌は、同年にネルソン・リドルの編曲指揮のオーケストラの伴奏でスタジオ録音したものが大ヒットした。彼はポピュラー歌手であることは間違いないが、あの独特のノンシャランな唱法には、ジャズのセンスがなければ出せないフィーリングが秘められている。ゆとりある男の魅力と言うべきだろうか。

JUST IN TIME
(Words by Betty Comden, Adolph Green / Music by Jule Styne)

Just in time, I found you just in time
Before you came my time was running low…

ちょうどいい時にあなたと出会った
あなたが現れる前は 私の人生は落ち込んでいた
私は迷子で 勝ち目がないサイコロだった
私の橋は行く手を阻まれ どこへも行けなかった
今 あなたがいる どこへ行こうと 疑いも恐れもない
私は進むべき道を見つけた
恋がちょうどいい時にやって来た
ちょうどいい時に あなたは私を見つけ
私の寂しい人生を素晴らしい日々に変えてくれた…
いやあ、歌の主人公の人生はボロボロのどん底だったようだが、そういう時だからこそ、心機一転のチャンスはあるものだ。現状に甘んじてしまっていては、たとえ幸運の女神が鼻先を通りかかっても気づくわけなんてないからね(笑)。新しい恋の始まりを予感させる前向きなラヴソングである。

♪ ♪
フランク・シナトラが、親友であったデイノをさしおいて、金を払って聴くならトニー・ベネットだと評していたことはよく知られている。アメリカのポピュラー音楽界、いやエンターテインメントの大御所でもあったシナトラはベネットをベスト・シンガーだと言ったのだ。もっとも、そのシナトラにしてもベネットにしても、そういつでもヒット曲を出しているわけではない。ヒットを出すということと偉大な歌手であるということはまったく次元の違う話なのだ。ディノの歌が大ヒットした“Everybody Loves Somebody”はシナトラが最初に歌った歌だし、トニー・ベネットのエヴァーグリーン曲“I Left My Heart In San Francisco”にしたって、ベネットが創唱したわけではない。だからといって、自分の歌を他人が歌うなとクレームがつけられることはない。そういうところが、アメリカの音楽界が日本に比べてずっと大人なところである。

翻って、日本に目を向けると、その昔、ミニスカートが良く似合ったかの黛ジュンが『真赤な太陽』(♪真赤に燃えた太陽だから〜)を歌おうとしたら、私の歌を勝手に歌うなと美空ひばり(というより一卵性母娘と呼ばれたお嬢の母親の方だったか?…)が怒ったという。もっとも美空ひばりだって、デビュー当時、ブギの女王だった笠置シヅ子から、同じように自分のブギを勝手に歌うなと言われた経験があったのだ。こんな話はアメリカでは皆無であろう。紅白歌合戦のような発想も絶対にない。

ということで、正統派トニー・ベネットも“Just In Time”を度々コンサートの冒頭に歌って彼の十八番にした。「ちょうどいい時にあなたと出会った」という歌詞がライヴのオープニングにピッタリくるからだろう。もちろん、ディノからもほかの誰からもクレームなんかつけられたわけがない。こちらは85歳のトニーのコンサートからだが、こんな素敵な爺さまになりたいものだ(笑)。

もうひとつ、何回も登場するメル・トーメ。彼の名盤『Swings Shubert Alley』におけるヴァージョンにも聴きほれてしまう(こちら)。ウォーキング・ベースのイントロで始まりマーティ・ペイチの凝ったホーン・アレンジにのった素晴らしい快唱である。

♪ ♪ ♪
もし蚤助が女性に生まれたとして「ちょうどいい時にあなたと出会った」などと耳元でささやかれたら、果たしてどうしよう?(笑)。

早いのも時間ルーズになるだろか (蚤助)
Viewing all 315 articles
Browse latest View live