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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#594: 好きにならずにいられない

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前稿の最後でキング・エルヴィスが歌う“FOOLS RUSH IN”にふれたが、それでまた新たな連想が働いた。
エルヴィスのバラードの傑作“CAN'T HELP FALLING IN LOVE”(好きにならずにいられない)である。

クラシック至上主義者やジャズキチなどはエルヴィス・プレスリーの名前が出ただけで敬遠してしまうかもしれないが、蚤助は音楽に関しては雑食系なので全く拒否反応はない(笑)。
彼の主演映画は、コンサート・ライヴをそのまま映画化したいわゆるオン・ステージものを除いても、1956年の『やさしく愛して』からおよそ30本くらいあるらしい。
彼は除隊後の60年から61年にかけて『GI・ブルース』、『燃える平原児』、『嵐の季節』など映画に積極的に出演し始めたが、第8作目にあたる『ブルー・ハワイ』(ノーマン・タウログ監督‐1961)は、劇中歌にとどまらず映画の出来も良く、なかなか楽しめる作品であった。


劇中“ブルー・ハワイ”、“ハワイアン・ウェディング・ソング”、“ロカ・フラ・ベイビー”などの佳曲が出てくるが、中でも一番のヒットとなったのが“好きにならずにいられない”(CAN'T HELP FALLING IN LOVE)であった。
後年、エルヴィスのステージのクロージング・テーマともなった重要な曲である。
映画ではオルゴールから流れてくるメロディに合わせてエルヴィスが歌うという粋な演出がなされていた。

Wise men say only fools rush in
But I can't help falling in love with you…

賢人は言う 愚か者だけが事を急ぐと
でも 僕には止められない 君と恋に落ちることが
留まるべきだろうか それは罪なことだろうか
川が流れて海に注ぐように
ダーリン そうなるものなんだ
物事はそうなる運命なんだ
僕の手をとって 僕の人生をすべて受け入れて
だって 君を好きにならずにいられないから…
この曲の出だし“Wise men say only fools rush in…”という一節が、「恋に突き進むなんて愚か者だけがすることと賢者は言うけれど、僕は…」という、前稿の“FOOLS RUSH IN”の格言(天使も恐れるところへ愚者は飛び込む=盲蛇におじず)から来ていることがお分かりであろう。
前稿からの連想というのはこういうことであった。

どことなく懐かしさのある曲である。
作者としてジョージ・ワイス、ヒューゴ・ペレッティ、ルイジ・クレアトーレの3人の名前がクレジットされている。
ワイスはサッチモの『この素晴らしき世界』をジョージ・ダグラス(大物音楽プロデューサーであったボブ・シールの変名)と共作したことで知られる。
どこかで聞いたことがあるような感じを抱かせる曲だという印象ももっともなハナシで、実はフランスの作曲家(実はドイツ人)ジャン・ポール・マルティーニが書いた歌曲“愛の喜び”(PLAISIR D'AMOUR‐1780)が原曲なのである。
この原曲は多くの人が一度は耳にしたことがあると思うが、まずは名ソプラノ、エリザベート・シュワルツコップの歌で聴いてみよう(こちら)。

余談だが、シュワルツコップは蚤助の高校の音楽教師(女性)が自分のアイドルだというので、授業中にレコードを無理やり聴かされた歌手なので名前だけは頭に刷り込まれていた(笑)。
当時はシュワルツコップの良さが全く分からなかった蚤助だが、近頃ではその美声の素晴らしさに感服している。
ちなみに、“愛の喜び”はその題名とは裏腹に「愛の喜びは長続きしない、苦しみだけが長く続く…」という不実な恋人のことを嘆くもので、タイトルとメロディの美しさに惹かれて結婚披露宴のBGMに使ったりすると何か支障が出るかも知れない…(笑)。

“CAN'T HELP FALLING IN LOVE”の“Can't help doing”は学校で習ったね。
レイ・チャールズの名曲“I CAN'T STOP LOVING YOU”(愛さずにはいられない)の“Can't stop doing”もそうだが、それぞれ“help”、“stop”に続く動詞は“ing”になる。
蚤助はこの二曲のタイトルを知って覚えたのだ(笑)。

また、“ダーリン、そうなるものなんだ、物事はそうなる運命なんだ”と訳したところは“Darling, so it goes, some things are meant to be”で、この“Meant to be”は「そういうことになっている」とか「そういう運命だ」という感じだろうか。
他のいろいろな洋楽の歌詞にも出てくる表現である。

最後の“For I can't help falling in love with you”の“for”の使い方は、原因の説明というべきもので、「というのは〜だから」という感じである。
つまり、この“for”以下の事が原因で前の出来事が生じたということなのだが、“A, For B”という文では「“B”だったから“A”になった」と直接的な言い方ではなく「“A”になった、だって“B”なんだもん」という軽いニュアンスだと思う。
歌詞に即して言えば、「僕の手をとって、僕の人生も一緒に、だって君が好きなんだもの…」で、こういう感じだとなかなか初心で可愛い雰囲気が出てくるではないか(笑)。

アンディ・ウィリアムス、アル・マルティーノ、スタイリスティックス、UB40、そして何とボブ・ディラン(!)まで、いろいろなアーティストがカヴァーしている。
以前こちらでもとりあげた、65年のウィ・ファイヴの歌を聴いてみよう(こちら)。


なお、物の本には“好きにならずにいられない”は、映画『ブルー・ハワイ』のために書かれた曲だとあるが、ウィリアム・ワイラーが監督しオリヴィア・デ・ハヴィランドがアカデミー主演女優賞を獲得した49年の『女相続人』(The Heiress)のサウンドトラックでインスト・ヴァージョンが使われていたような記憶がある。
もっともそれはマルティーニの原曲“愛の喜び”であったかもしれない…。

だが、この曲をポピュラー・スタンダード曲にしたのはエルヴィス・プレスリーであることは間違いない(こちら)。
日本人が最も好きなエルヴィス・ナンバーだという人もいるほど、このキングの歌はしっとりと情感豊かである。

好きなこと好きな人とはまだ出来ず(蚤助)

#595: It Had To Be You

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先日、仕事帰りに所用で新宿に足を向けたが、余りの人の多さと動線の複雑さに目が回る思いをした。
人混みに酔ったのだろうが、本当に目が回って気持ちが悪くなりかかった。
首都圏に40年以上も暮しているというのに相変わらずの田舎者だと自嘲せざるを得ないが、全面改装で人気だという伊勢丹新宿本店に入ってみたらさらにビックリ。
想像以上に買物客が多く、特に地下の食品売り場に若い女性が溢れている。
どうやら人気ブランドのチョコレート売場らしい。

2月…
そういえば、蚤助にはもう縁がないが、愛のヴァレンタイン・デイが近いのだった(笑)。
ということで、これまで取り上げなかったラヴ・ソングを紹介してみよう。

It had to be you, It had to be you
I wandered around and finally found the somebody who
Could make me be true and could make me be blue
Or even be glad, just to be sad - thinking of you

きっと君だったんだ 君に違いない
周りを見渡してみたけれども、結局、君しかいなかった
自分を素直にしてくれたり、ブルーにさせたり
それに君のことを思って 悲しくなることが 嬉しいとさえ思わせる

今まで会った他の子は 意地悪じゃなかったし
いらつかされたり 指図されることはなかったけど
こんなにも胸をときめかせてくれる子はいなかった
欠点だらけの君だけど それでもやはり君を愛しているんだ
君に違いない 素敵な君 君しかいない…
曲は“IT HAD TO BE YOU”(1924)である。


別れたことが間違いだったことに気づいた「私」がヨリを戻したがっているというシチュエーションであろうか。
どこか江戸前の都々逸の風味(といってもよくは知らないが)を感じさせる粋な小唄である。
スタンダード通を自負していても、こういう極めつけの佳曲を知らなければ小僧扱いされてしまいそうだ(笑)。

作詞はガス・カーン、作曲のアイシャム・ジョーンズは、ウディ・ハーマン楽団の前身バンドを作った人である。
発表当時、多くの人の心を打ったようで、たくさんのオーケストラの競作となったそうだ。

歌詞にもあるように、別れた相手というのが、どうやら意地悪で、イライラさせられたり、あれこれと指図するタイプだったようで、それをけなしまくっているのだが、そんな欠点だらけの人でも、いやそんな人だからこそ、君が好きなんだ、と言っているのだ。
このあたり、かの名曲“MY FUNNY VALENTINE”を彷彿とさせるところがあるのだが、こちらの方は何でこうなっちゃうんだろうか?

have to は「きっと〜である」「〜しなければならない」という慣用句だが、これを had to と過去形にすることによって「気づいてみたらそうだったんだ」というニュアンスが込められている。

この曲、映画でも何度となく使われている。

未見だが『彼奴(きやつ)は顔役だ!』(The Roaring Twenties‐1939)ではプリシラ・レインが歌っているそうだし、、『アニー・ホール』(Annie Hall‐1977)ではダイアン・キートン、『恋人たちの予感』(When Harry Met Sally...‐1989)ではフランク・シナトラの歌が大晦日のシーンでバックに流れたし、サウンドトラックではさらにハリー・コニック・Jr.が派手めに歌っていたと記憶する。

そして忘れちゃならない『カサブランカ』(Casablanca‐1942)ではドゥーリー・ウィルソンが演っていたね。
男の美学とダンディズムの映画、ハンフリー・ボガードの魅力が画面いっぱいに発揮された『カサブランカ』では、“Play it again, Sam」と言われてドゥーリー・ウィルソン扮するサムが歌う“AS TIME GOES BY”ばかりが強く印象に残るのだが、実はサムは“IT HAD TO BE YOU”も弾いているのだ。
「君しかいない」というボギーの心のうちを表わした歌として使われたということであろうか。

こういう歌はやはりミディアム・スローで歌わなければ味が出ない。

シナトラはもちろん必聴盤だが、意外にいいのが飄々としたニルソンの歌で、ジャズ・スタンダードに挑戦したこちらが、彼の優しさを物語っている(73年)。


ヴァレンタインということなので、やはり女性からの愛の告白がお約束。


(Dinah Shore/Dinah Sings, Previn Plays)
ダイナ・ショアがアンドレ・プレヴィンのピアノ、レッド・ミッチェルのベース、フランク・キャップのドラムスというトリオ伴奏で歌ったもの(59年)が最高である(こちら)。
彼女はヴァースから歌っているが、女性に「あなたしかいない」とこういう風に言われてしまうと、多くの男性諸君は心を動かされないはずがなかろう(笑)。

あなたしかいないと君も言われたか(蚤助)

#596: Exactly Like You

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東京は大雪である。
もっとも生まれも育ちも雪国だった蚤助にとってはさほどのことはないが、自宅周りの雪片付けが面倒といえば面倒。
こんなことを言っていると、故郷の人々からお叱りを受けそうだ。

自分の初恋がいつどんな風だったか、覚えているだろうか。
人によっては、同級生や先輩だったり、近所のお兄さんやお姉さんだったり、あるいは学校の先生だったり、ひょっとして友達のパパやママの場合だってあったかもしれない。

蚤助の場合、あまりにも昔のことでもう忘却の彼方になってしまったが、こんなシーンだけは覚えている。
小学校の低学年のころ、放課後、たまたま教室に一緒に残っていた同級生の女の子から「お腹が空いてたらコレ食べて」と板チョコを一かけらもらったのだ。
当時チョコレートなどというものを口にしたことのなかった蚤助は「教室でこんな高級なお菓子を食べてもいいんだべが?」と思ったのか、思わなかったのか(いったいどっちじゃい)…いずれにしてもドキッとしたのだが、とにかく、あれがいわゆる「初恋の味」というものだったかも知れない(笑)。

女流作詞家の先駆者ドロシー・フィールズ(1905-74)は、庶民の生活感情を歌にするのがうまい人だった。
ドロシーの父リュー・フィールズはコメディアンで、二人の兄、ハーバートとジョセフは脚本家という芸能一家で育った。
高校の先生をしながら、雑誌に自作の詩を投稿しているうちに、作曲家のジミー・マクヒューと知り合い、コンビを組んで作詞家として活躍するようになった。
その後も、ジェローム・カーン、アーサー・シュワルツ、シグムンド・ロンバーグらの著名作曲家と組んで作詞を手掛けたが、最も彼女の個性を発揮したのがやはりマクヒューとのコンビであった。

マクヒューとのコンビで発表した代表作『捧ぐるは愛のみ』(I Can't Give You Anything But Love)が典型的だが、“Exactly Like You”という歌は、1930年の『レスリーのインターナショナル・レヴュー』というショウの挿入歌として書かれたもので、彼女らしさがよく出たラヴ・ソングである。

I know why I've waited
Know why I've been blue
I pray each night for someone
Exactly like you…

私が憂鬱な気分で待ってた
毎晩お祈りまでして待っていたのは
まさにあなたみたいな人

あなたみたいにラヴ・シーンがうまい人と
どうして二人でお金を払ってまでして
お芝居を見に行かなきゃならないの

とても素敵な気分
私の世界をあなたに渡したい
分かってほしい ささやかでバカみたいな私の夢

ママがいつも言っていたのは このことなのね いま分かった
夢は必ず叶うって それはあなたのことなのね…
これは実に初々しい恋心ではないか(笑)。
ずっと心の中に描いていた理想の恋人、初めてそういう相手にめぐり合えたという胸のときめきを歌っている。
夢見たことや夢に見たこともなかった様々な事柄がどっと心に押し寄せてくるのだ。
しかもそれは絵空事などではなく現実の「恋」なのである。
「あなたみたいにラヴ・シーンがうまい人と、どうして二人で…」というフレーズなど、どうです、都会的なセンスの良さと庶民感覚に近いユーモアが感じられませんか。

“Exactly Like You”は『あなたに似た人』とか『君にそっくり』とかいう邦題がつけられているが、『(まさに)あなたのような人』というのが一番内容に近いと思うのだが…。


(Carmen McRae/After Glow)
アイク・アイザックスのベース、スペックス・ライトのドラムスを率いて、自らピアノの弾き語りで歌いきる57年のカーメン・マクレエが実にいいですな(こちら)。

最近では、今や人気女性ヴォーカリスト兼ピアニスト、ダイアナ・クラールがレパートリーとしている。
2008年リオ・デ・ジャネイロでのライヴ・ステージから(こちら)。
あなたにこんなに思いを寄せています、と個性的に聴かせてくれる。


(Oscar Peterson With Herb Ellis/Hello Herbie)
そのダイアナ・クラールを発掘、抜擢して世に出した、巨匠オスカー・ピーターソンが、彼のトリオ(サム・ジョーンズのベース、ボビー・ダーハムのドラムス)とともに、旧友のギタリスト、ハーブ・エリスと再会セッションをしたものが素晴らしい(こちら)。
69年、当時の西ドイツでのスタジオ録音だが、その録音のクォリティの高さから今日に至るまで蚤助の愛聴盤になっている。

愛と恋大安売りの流行り歌(蚤助)
それにしてもよく降るなあ(笑)。

#597: 砂に書いた…

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ロックン・ロール全盛の50年代に、エルヴィス・プレスリーに対抗する存在として人気を集めたのがパット・ブーンである。
若者らしく清潔な容貌と服装、ポップで少しおっとりとしたいかにも良家の子息風の歌唱スタイルがロックン・ロールに批判的な保守的な人々にも歓迎された。
ある意味、善男善女向けの歌手ともいえるだろう。

そのパットが歌った永遠の青春の香り漂うロマンティックな名曲が『砂に書いたラブレター』(Love Letters In The Sand)である。
この作品は1957年の本邦未公開映画『バーナディン』(Bernadine‐ヘンリー・レヴィン監督の主題歌であった。

パット・ブーンが持ち前のスイートな歌声で世界制覇を果たし、彼の最大のヒットで生涯の財産となった曲だが、元々パットのところに来たハナシというのが、役者として映画に初出演するということだったらしい。
ところがその後、映画の製作者サイドから、前年(1956年)のウイリアム・ワイラー監督『友情ある説得』(The Friendly Persuasion)とアナトール・リトヴァク監督『追想』(Anastasia)という2本の映画主題歌をパットが歌ってヒットさせたことから、『バーナディン』の主題歌も歌って欲しいと追加の注文があったのだという。
パットが歌わなければ、果たしてこの主題歌を誰に歌わせる予定だったのだろうか。


この歌、パット・ブーンの創唱だったと信じ切っていたのだが、調べてみると、曲はその四半世紀も前の1931年、ニック・ケニー&チャールズ・ケニーの作詞、J・フレッド・クーツの作曲による作品で、創唱はラス・コロンボ、ジョージ・ホール楽団がバンドのテーマ曲として使用したことから広く世に広まったと物の本に書かれてあった。

さらに驚いたのが、この歌には元ウタがあって、19世紀のアメリカのトラディショナル曲“The Spanish Cavalier”(「スペインの騎士・紳士・伊達男」の意)だという。
Youtubeでその元ウタを見つけたので聴いていただこう(こちら)。
なるほど感じはかなり似ている。
パットの歌の方は、このメロディをアダプテーションしながらセンチメンタルなポップスに見事に変身している。
なおパットの歌のアレンジと伴奏を担当したのは、あのビリー・ヴォーンである。

On a day like today, we passed the time away
Writing love letters in the sand…

今日のような日 僕らは時を過ごした
砂にラヴという文字を書きながら

波がラヴという文字を流していくたびに
僕が泣くと君は笑ったよね

君はずっと誠実でいると誓った でも何の意味もなかった
今 僕の心が痛む 波が砂に書いたラヴという文字を
消し去っていくたびに…
“Love Letters In The Sand”は邦題『砂に書いたラブレター』とされているが、ここでは砂に書いたのは、一般に頭に浮かぶラブレターではなく、“LOVE”など愛を意味する言葉か文字列に違いない。
というのも、砂の上にラブレターのような本格的な文は書けないであろうし、“Letters”と複数形になっていることから、二人でいろいろな愛の文字を書いたけれど波が消してしまうので何度も書いた、と考えた方がより自然ではないかと思うからである。

ラブレターという言葉が日本で流行ったのは、石坂洋次郎の小説『青い山脈』(1947)と、原節子主演で映画化された同名映画(1949)以降のことだそうだ。
もちろん昔から「恋文」(古っ…)というのはあったわけだが、ラブレターというのは現在でいう流行語大賞のようなもので、この歌が日本でも大いに流行ったのはそれが一因ではないかと分析する人もいるようだ。


したがって、あえてそういうことを前提にした訳にしているが、「砂に文字を書いたが、打ち寄せる波がすぐに流していってしまう、でも愛するこの思いを書かずにはいられない」と歌う傷心の歌詞はアイデア賞ものかもしれない(笑)。

歌詞に季節を表わすキーワードは全く出てこないが、雰囲気としては夏の賑わいが去った「誰もいない海」というのがピッタリくる。
夏の終わりとともに消えた恋、今はもう秋…何たって「あなたと私」の二人で書いた文字だもん、「トワ・エ・モワ」だね。

ポケットに砂を残して過ぎた夏(蚤助)
歌は時代が変わっても歌い継がれていくべきものだと思うが、最近のように大量に生まれては消えていく、砂に書いたような歌ばかりでは正直寂しい。

ヴァレンタイン・デイを前にして傷心の歌を取り上げる羽目になったのは蚤助の計算違い、スミマセン。

#598: ラブレター

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さて、14日はバレンタイン・デイである。
本命のチョコレートにメッセージを添えるのを忘れてはならじ。

『砂に書いたラブレター』(Love Letters In The Sand)が出たところで、今回はズバリ『ラブレター』(Love Letters)である。

ジョセフ・コットンとジェニファー・ジョーンズが主演した45年の同名映画(ウィリアム・ディターレ監督)の主題歌として作られた。
この映画も未見だが、戦争中、手紙の代筆をきっかけにして起こる恋愛を絡めたサスペンス劇だそうだ。
ラブレターは決して人に頼んではいけないという教訓を、ここから学ばなければならないようで…(笑)。

以前こちらで触れたことがあるが、『ラブレター』の作曲者ヴィクター・ヤングは『80日間世界一周』(Around The World In 80 Days‐1956)でようやくオスカーを獲ったものの、すでに世を去っていたという気の毒な人である。
彼の書くメロディはあまりにも甘美過ぎたのだろう、この曲もノミネートはされたが、アカデミー賞は獲れなかった。
映画には、メロディのみが使われたそうだが、その後エドワード・ヘイマンの詞がつけられ、ディック・ヘイムズの歌でヒットしたものの、映画公開当時はさほど大きな話題にならなかったようだ。

こんなヴァースがついている。

The sky may be starless, The night may be moonless
But deep in my heart there's a glow
For deep in my heart I know that you love me, you love me
Because you told me so…

空に星はなく 月がない夜でも
私の心の奥深くには 輝きがある
あなたの愛を 心の底から感じているから
あなたが愛していると言ってくれたから…
コーラスの方はこんな具合に続く。

Love letters straight from your heart keep us so near while apart
I'm not alone in the night when I can have all the love you write…

あなたの心からのラブレター 離れていても側にいるみたい
暗い夜も寂しくはない あなたの書いた愛の言葉があれば
一言ももらさず心に刻んで あなたの名前に口づけをして
もう一度読み返す あなたから届いたラブレター…

この歌、“Love Letters”と複数形である。
一通だけではなく手紙の束になっているわけだ。
それを一行、一字一句残らず憶え、毎回、名前に口づけをする…何だか「それは忙しいだろう」とツッコミたくもなるが、情熱的であることは窺うことができる。
こんな経験を持つ人は幸せであろう、Eメールによるコミュニケーションが一般的になっている現在、やはり愛する人から届いた肉筆の手紙に、時代を超えて愛と温もりを感じてしまう。

62年に、黒人歌手のケティ・レスターがジャジーに歌ってミリオン・セラーを記録した(こちら)。
このケティ・レスター嬢のヴァージョンが1986年、20年以上の時を越えて再び脚光を浴びることとなるのだ。
デヴィッド・リンチ監督の『ブルー・ベルベット』(Blue Velvet)は、ボビー・ヴィントンのヒット曲をダシに使った狂気のサスペンス・スリラーだが、この映画にケティ・レスターの歌声が流れる。
しかも、悪役を怪演したデニス・ホッパーが、ヒロインのイザベラ・ロッセリーニを脅迫するセリフというのが“Love letters straight from your heart”というもので、『ラブレター』の歌詞そのままであり話題になった。

さらに、66年にはエルヴィス・プレスリーがリリースし、ミリオン・ヒットさせている(こちら)。
当時、エルヴィスは映画出演を活動の中心に置いていた時期だが、撮影の合間をぬってナッシュヴィルで録音したもので、バックのピアノは当時カントリー系のスタジオ・ピアニストであったフロイド・クレイマーが弾いているようだ。
ただ、一説には、クレイマーは録音に遅刻したので、ピンチヒッターでデヴィッド・ブリッグスが弾いている、ともいわれる。
いずれにしても、このピアノの伴奏は結構味わい深くてなかなか良い。
切々と哀感がこもったエルヴィスのこの歌は彼のバラードの名作のひとつではないかと思う。

このほか、実に多くのアーティストが歌い継いでいる名曲だが、個人的にはナット・キング・コールやジュリー・ロンドンあたりのもっと甘美なものが好みである。
特に、ジュリーは4拍子ではなくワルツタイムである点が面白く、彼女のハスキーな声も夫君ボビー・トゥループのオーケストラの軽いタッチの伴奏とよく調和している。

ジャズではソニー・ロリンズが2年余の雲隠れから復帰、ギターのジム・ホールらと録音したアルバム“The Standard Sonny Rollinss”(1964)で短いながら濃密な演奏を残している。
しかし、ピアノのケニー・ドリューがヨーロッパに渡り、コペンハーゲンで録音した傑作“Dark Beauty”(1974)における演奏が心に残る(こちら)。


(Kenny Drew/Dark Beauty)
ベースのニールス・ぺデルセン、ドラムスのアル・ヒースとのトリオ演奏で、アル・ヒースのドラムスが相変わらず少し騒々しいのが残念だが、ぺデルセンのプレイが素晴らしい。
こちらは「怪演」ではなく「快演」である。

返信用切手を入れたラブレター(蚤助)

#599: 手紙でも書こう

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週末、まさか2週連続で雪掻きをするはめになるとは夢にも思わなかった。
しかも、我が家の玄関アプローチに隣のアパートの屋根の雪が落ちてきて、除雪のやり直しである。
おかげで、久方ぶりの筋肉痛になりそうだ(笑)。

こんな足元が悪い日でも配達を欠かせない新聞や宅配の人のご苦労には改めて頭が下がる。
また、郵便物は届くまいと思っていたが、ダイレクメールが郵便受けに入っている。
そういえば、郵便配達もどんな天候でも各家庭を回らなければならない仕事だ。

だからというわけでもないが『手紙でも書こう』のハナシである。
ラブレターの歌が続いたので、ついでにラブレター三部作(?)のひとつを紹介しておこうというわけだ。


“I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter”とかなり長ったらしく舌を噛みそうな原題である。
ちなみに、長ったらしい題名のスタンダード曲を思いつくままいくつか挙げてみると、“Rock-A-Bye Your Baby With A Dixie Melody”、“Between The Devil And The Deep Blue Sea”、“Spring Can Really Hang You Up The Most”、“I'm Gonna Lock My Heart And Throw Away The Key”などがあり、どれも一々タイピングするのが面倒くさいので、ついコピーしてしまいたくなるものばかりである(笑)。

1935年に作られた『手紙でも書こう』は、最初に歌ったファッツ・ウォーラーのプレイがあまりにも素晴らしく、強烈なインパクトがあったためか、ウォーラー自身の作と誤解している人が多い。
作詞ジョー・ヤング、作曲フレッド・E・アーラートによるもの。
作詞のヤングの方は“Dinah”(1925)で有名、作曲のアーラートは20年代〜40年代にかけて人気のあった人で、代表作に“I'll Get By”(1928)、“Mean To Me”(1929)、“The Moon Was Yellow”(1934)などがある。

ファッツ・ウォーラー(1904‐1943)は愛嬌のある巨体とクリクリ眼(マナコ)、軽妙洒脱なストライド・ピアノと歌で人気者だった。
そのウォーラーのペーソスあふれる弾き語りの名人芸、歴史的歌唱(こちら)は、35年5月、出来たてほやほやの楽譜を渡されたウォーラーが気に入って録音したもので、結果それが同年最大のヒット曲となったそうだ。

この曲、失恋した男(もしくは女)の歌で、情けなくも可笑しいとぼけた歌詞と軽快な曲調のギャップが面白い。
いわば「明るい失恋ソング」、魅力たっぷりの曲だ。

<VERSE>
The mailman passes by and I just wonder why
He never stops to ring my front door bell…

郵便配達が通り越していく なぜ立ち止まって
我が家の玄関のベルを押さないのだろう
最後の「さよなら」から 愛しの君は音信不通
手紙が来なくなって ずっと悩んでいた
時々 君からもらった手紙の愛の言葉のひとつひとつを
思い返して 愛おしくなる
頭の中は君のことでいっぱい 
もう一度 立ち直ろうと 頑張っていること
君は全く知らないだろうね…

<CHORUS>
I'm gonna sit right down and write nyself a letter
And make believe it came from you
I'm gonna write words, oh, so sweet
They're gonna knock me off my feet
A lot of kisses on the bottom…

それなら 腰かけて自分宛の手紙でも書いてみよう
君から届いた手紙のつもりになって
飛び上がっちゃうほど甘い言葉で綴るのさ
最後の行には たくさんキスマークをつけて
もらったら大喜びさ 笑顔になって「ご機嫌いかが」なんて言って
手紙の最後に「愛をこめて」と書くつもり 君がするように
ここに座って自分宛に手紙を書こう
君から届いた手紙だというつもりになって…
ちなみに、ポール・マッカートニー初のスタンダード曲集『Kisses On The Bottom』(2012)は「お尻にキッス」という意味かと思ったのだが、この『手紙でも書こう』をアルバムのトップに持ってきていることからみても、A lot of kisses on the bottm (文末にたくさんのキッスを)というこの歌の歌詞の一節から引用したものに違いない。

タイトルの I'm gonna sit right down and...の I'm gonna は言うまでもなく I'm going to の口語的表現、 sit right down の right は「今すぐ」、「まさに」という意味の副詞で「今すぐ座って」ということになる。

ウォーラーの歌から20年以上も経った57年、ビリー・ウィリアムスが歌ってリヴァイヴァル、200万枚の大ヒットとなった。
このほか、同年、ビング・クロスビーがディキシー・トランぺッターのボブ・コスビーのバンドと録音したアルバム『Bing With A Beat』での歌唱が粋だし、もちろん、ナット・キング・コールの歌もいい。


しかし、何といっても、シナトラのアルバム『Swing Easy !』(54)での軽快な歌唱は、縁の下の力持ちネルソン・リドルの編曲・指揮のオーケストラをバックに、スウィングしていてウォーラーに劣らぬ名人芸である(こちら)。

出戻りの手紙の顔にない住所(蚤助)

#600: 絵短冊・その後

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けやぐ柳会のさしチャンこと京子さんのご実家である内田家は、江戸時代から商店を営んでいた旧家である。
その内田家三代目の守一氏と鳥類学者であった七代目の清之助氏(京子さんの祖父)が蒐集したという絵短冊は内田コレクションとして400点ほどあり、そのうちの一部が『絵短冊十二ヶ月〜四季の花鳥風詠』(芸艸堂)という画集にまとめられて出版されたことは、以前こちらで紹介させていただいた。


その内田コレクションが世田谷美術館(冒頭画像)に寄贈されたことは伺っていたが、現在、同館の「世田谷の文人たち」という企画展でその内田コレクションの一部が展示されている。
この企画展は、1月25日(土)から4月20日(日)までのおよそ3か月間、同館収蔵の文人画、文人的気質を感受できる作品を紹介するという趣旨のもとに行われているという。

同館の資料によれば、「文人画」は中国絵画から派生し、日本では南宋画を中心に、明清絵画の諸様式を取り入れた「南画」と呼ばれる独自の画風として展開したものだそうだ。
江戸時代の池大雅、谷文晁が代表的存在で、「写実」よりも「写意」を重んじるのがその画風の特徴で、精神の自由な動きが画面に横溢し、やがて明治、大正、昭和と時代が下るにつれて、文学の領域ともつながりながら、洋画家へも影響を与えるようになった由である。

一方、絵短冊を簡単にいえば、鎌倉時代の末頃から始まった和歌を書く色紙のようなものに、やがて細長い料紙に金銀箔をおいたりしながら、華やかで変化に富んだものが生まれ、いつしか和歌を書くのみではなく、絵を描く素材としても使われるようになったものである。

画像が非常に小さくて申し訳ないが、同館資料にあった内田コレクションの画像をご紹介しておく。

        
(左:谷文晁 右:小川芋銭 いずれも内田コレクション)
同コレクションには、江戸時代の酒井抱一、谷文晁、歌川広重から現代の大家、川合玉堂、川端龍子、前田青邨、伊東深水、武者小路実篤等、綺羅星のような画家のものがずらりと並んでいる。
いずれも、心を和ませるヒーリングの絵画、小宇宙というべきものである。

昨今流行の絵手紙の原型のようなものかという印象もあるが、元々和歌との関連性が強いところからより文学的な世界に近いものである。
そういうところが「文人画」と軌を一にするものがあるのだろう。
また、文人画の作家の中にも、内田コレクションの絵短冊を描いた者もいるのだ。
世田谷に縁の深い作家たちの文人画、文人的気質の作品とともに、内田コレクションをはじめとした絵短冊の世界の一端を出来る限り多くの人に見ていただければ幸いである。

白壁にやたら絵心湧いてくる(蚤助)
さて、始めるのも止めるのもチョー簡単というブロガーになったのが2008年4月のことで、この4月で丸6年になる。
大した目標もなく音楽、映画、川柳その他の駄文を綴ってきたが、今回が600回めである。
しからば、次の目標は700回を目指してということになるのだろうか。
これまで続けてこれたのも「けやぐの広場」を訪問・散策してくださる読者の皆様のおかげ、感謝、感謝である。

#601: 「許す」川柳

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「許す」という言葉について考える。

漢字の「許」は「言」+「午」である。
「言」は“口”の象形で“言う”(話す、口にする)、「午」は“取っ手のある刃物”の象形で、餅つきや脱穀などに使う道具「キネ」(杵)の形をした御神体を表わし、これが合体して「謹んで言う」の意味になるのだそうだ。
そこから神に祈ることで“ゆるす”や“ゆるされる”という意味を表わす文字として使われるようになったらしい。

「許す」を辞書で引くと「罪や過失などを咎めだてしないで済ますこと」などとある。
だが「咎めだてしない」ことを誰がどういう基準で決めるのだろうか。
よく考えてみると「許す」か「許さない」かの線引きは、自分自身が決めていないか。
そしてその判断の基準は自分の心の状態にあるのではないか。
心が穏やかなときはあまり気にならないことでも、心が荒立っているときは、ちょっとしたことでも気に障るということになりがちだ。
「許せない」という感情は、罪や過失という行為や人間というよりは、そこから生じた自分自身の怒りの心、その怒りを鎮めることができないことから生まれてくるのではなかろうか。

「ゆるす(許す)」の語源には諸説あるようだが、有力な説は「ゆるます(緩ます)」から生じたというものだ。
言葉は長年の間に人々の文化や生活から生まれたものなので、「ゆるます」から「ゆるす」に転訛したということは、それを受け入れる精神的な土壌が日本人にあったということだ。
相手を縛りつけずに緩ませてやること、自分を縛りつけず緩めることが「許す」ということの本質なのであろう。
すなわち、心が緩んでいると許すことができる、というわけである。

私たちは「許す」という言葉を普段こういう風に使っている。
(1)「営業を〜」…不都合はないと希望・要求を聞き入れて認める。
(2)「誤りを〜」…過失や失敗を責めずにおく、咎めない。
(3)「兵役を〜」…義務や負担を無くす。免除する。
(4)「我儘を〜」…相手のしたいようにさせる。
(5)「得点を〜」…自由にさせる。物事を可能にさせる。
(6)「心を〜」…警戒や緊張をゆるめる。打ち解ける
(7)「自他ともに〜」…高い評価を与える。世間が認めるなどである。
いずれの場合も、何らかの束縛から解放し、自由な思考や行動を認める、すなわち「ゆるます」というところが共通していそうだ、なるほどね〜。

見方を変えると、相手を縛りつけて拘束したり、自分自身をがんじがらめにして自由になれないところから「許さない」「許せない」という気持ちが生まれてくるというわけだ。
人から“石頭”とか“頑固”などと言われる人は、口をきつく結び、動きが硬く、視線も鋭く、言葉がきついというイメージである。
いかにも人を拒絶し、「許さないぞオーラ」を出している(笑)。


「許せない」と怒りそうになったときは、たいてい身体が固くなっていることが多いので、深呼吸をしたり、首や肩を回したり、身体を軽く動かしてリラックスさせる。
そうして心と身体を緩やかにすることによって事に当たる。
このような心の持ちようを体得できれば、より楽しく幸せに過ごしていけるような気がするが、あまりにも楽観的だろうか?

自分の行為について許してもらいたいときや、謝罪の意思を表すときに使う「ごめん(御免)」という言葉がある。
「免状」などのように許すという意味の「免」に尊敬の接頭語「御」がついたもので、本来は許してもらう人を敬う言い方として用いられたものだそうだが、次第に許しを求める言い方になり、相手の寛容を望んだり自分の無礼を詫びる表現になったものだという。
元々は「ごめんあれ」「ごめん候へ」などの形で使われていたが、「ごめんくだされ」とかそれを省略した形「ごめん」が多用されるようになったのだ。
「ごめんなさい」の「なさい」は、動詞「なさる」の命令形、「御免なすって」の「なすって」と同じ用法だね(笑)。

なお、他家を訪問する際の挨拶の「ごめんください」は、許しを乞う「御免させてください」の意味が挨拶として使われるようになったものだそうだ。
さらに「それは御免だ」などという拒絶の意を表す言い方は、比較的新しい用法で、江戸時代以降のものだという。

以上が「誘う」をめぐる長い、なが〜いイントロ…(笑)。

ここからは、その「誘う」をお題にしたNHK文芸選評・川柳の入選・佳作句集である。

平成22年5月 課題「許す」 安藤波瑠・選

神様の許しで今日の幕上がる  (大場 敬)
許された過去も飛び出す大喧嘩  (田村なり子)
許し合う度に絆が深くなる  (梅田君子)
見覚えのある石投げる反抗期  (柳澤柳平)
子を許す冷えたご飯を暖めて  (高井正勝)
遺伝子を持ち出されると子に負ける  (後藤洋子)
子の道を許して地図を書き直す  (岡部英夫)
二人から三人になり許される  (品川俊郎)
頑固者許す顔にも皺を寄せ  (加藤 語)
消しゴムに過去を許せと諭される  (木山 清)
ご先祖の許しを乞うて田を離す  (奥宮恒代)
ストレスの特効薬は許すこと  (河浦邦子)
許せたら沙漠に水が湧いてくる  (森次万喜子)
許すより許されること多くなる  (山野寿之)
許されたときから恋は朽ちてゆく  (本田純子)
部下のミス上司も度量試される  (竹中正幸)
L寸の堪忍袋買いました  (高東八千代)
許し請う水飲み鳥のように請う  (堀 敏雄)
許されて生きているから許しましょ  (荷堂てる子)



勉強は大目に見よう優しい子  (葉玉 久)
まあいいか見ぬ振りこれも処世術  (松井昌子)
許す気を見抜いて娘畏まり  (藤中公人)
特例をひとつ許すとあとはザル  (能田文夫)
ごめんねに許さぬ気持ち崩れゆく  (米原雪子)
ハイヒール踏んだと言えぬ僕の靴  (田中良典)
許し乞うわりに少ないお賽銭  (吉岡 修)
故郷に許しを請うて畑仕事  (森田岑代)
食べすぎを許してしまうゴムベルト  (伊藤石英)
広島で許すの意味を考える  (伊藤弘子)
詳しくは聞かない妻に感謝する  (古志野雪太郎)
小遣いの許容範囲で飲むまずさ  (土方昭光)
許さぬのセリフ言わせぬ妻娘  (戸中はるよ)
反抗に飽きた息子の酌を受け  (久保田見乗)
もういいよ忘却といういい言葉  (竹内田三子)
謝ればママは許すと踏んでいる  (高橋恵子)
許すまでママを揺すぶる児の根気  (桐生静子)
土地訛り使いこなして仲間入り (臼田嘉夫)
見ぬ振りの甘さへ悪の芽が伸びる  (栗橋正博)
寝たふりで許す言葉を考える  (高杉茂勝)
このときの蚤助の入選句がこちら。

神様が許していても妻がまだ  (蚤助)
英語でも、場面によって“Forgive”(許す、容赦する、免除する)、“Excuse”(許す、勘弁する、弁解する)、“Admit”(許可する、認める)、“Authorize”(認可する、認定する)などという語を使うことになるのだろう。
と、ここまで書いて、昔ある人に教えていただいた英語の LOVE という言葉についての薀蓄をひとつ思い出した。

“L”=“LISTEN”(聴くこと、耳だけでなく「心」で聴くこと)
“O”=“OBSERVE” (観察すること、目だけでなく「心」の眼で見ること)
“V”=“VOICE” (声に出すこと、一方的に喋るだけでなく「会話」をすること)
“E”=“EXCUSE” (許すこと、どれほど辛く苦しくとも最後に「許せる心」を持つこと)
“LOVE”とはこういうことであり、それを体得できた人こそ本当の意味の「愛」を勝ち得るのだそうだが、いかがかな?


#602: 地上より永遠に

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戦争や軍隊の非人間性を描いた映画といえば、日本ではさしずめ山本薩夫の『真空地帯』(1952)とか小林正樹の『人間の條件』(1959‐1961)、アメリカの映画だとスタンリー・キューブリックの『突撃』(1957)や『フルメタル・ジャケット』(1987)などを思い出す。

先日、WOWOWで放映されたフレッド・ジンネマンの『地上より永遠に』(From Here To Eternity‐1953)も、軍隊という組織の醜悪さを描いた一本だとばかり思っていたのだが、再見してみてその印象はやや変わった。


まだ小学生のある日、近所の銭湯に『地上より永遠に』の映画ポスターが貼られてあった。
あれはリバイバル公開時だったのか、それともくたびれてしまったプリントで地方の2本立て、3本立て館のドサ回り上映のものだったのだろうか。
もちろん、かの有名なバート・ランカスターとデボラ・カーの波打ち際のラヴシーン(冒頭画像)がデザインされているものだった。
テレビなどで放映される外国の映画やドラマのラヴシーンを、お茶の間で家族みんなで観ることさえ妙に気まずかった時代である。
蚤助はそのポスターが刺激的でとても気にはなったものの直視することができないまだまだ純情可憐な少年であった。
この作品は「“ちじょう”より“えいえん”に」ではなく「“ここ”より“とわ”に」というのだと教えられ「地上」を「ここ」と読んだりすると学校の先生からバツをもらうだろうと思ったことをはっきり覚えている(笑)。

太平洋戦争直前の1941年、ハワイに駐屯する米軍の兵営が舞台である。
ラッパ手のプルーイット(モンゴメリー・クリフト)が転属してくる。
中隊長のホームズ大尉(フィリップ・オーバー)はボクシング狂で、自分のチームを強くするためプルーイットを呼んだのだが、親友をボクシングで失明させた過去があるプルーイットには二度とボクシングをする気はなかった。
人柄がよく中隊長の職務をソツなく代行しているウォーデン曹長(バート・ランカスター)もボクシングをやるよう説得するのだが、ブルーイットは頑なに拒む。
そうなると上司にゴマをする分隊長のガロヴィッチ(ジョン・デニス)をはじめ、ボクシング部の連中は、訓練中やプライヴェートな時間を使って徹底的にブルーイットをしごき始める。
味方はイタリア移民の兵卒マジオ(フランク・シナトラ)だけだが、少数派の彼らは周りから嫌がらせを受けいびられ続ける。


(手前:モンゴメリー・クリフト、後ろ:フランク・シナトラ)
ホームズ大尉の妻カレン(デボラ・カー)は、夫の不実にすっかり愛想をつかしていて、無聊を慰めるため男性遍歴を重ねているが、夫の直属の部下であるウォーデンと不倫をしている。

プルーイットは、マジオに連れられて行ったクラブの女ロリーン(ドナ・リード)と恋に落ちるが、マジオは営倉主任のジャドソン(アーネスト・ボーグナイン)とトラブルを起こし、やがて職務放棄を問われ営倉にぶち込まれてしまう。
マジオは営倉内でジャドソンに徹底的に痛めつけられ、ようやく営倉を抜け出したもののジャドソンに受けた傷が元で死んでしまう。
プルーイットはマジオの遺恨を晴らすためにジャドソンを刺殺するが、自らも重傷を負ってしまい、ロリーンの家に身を潜める。


(左:モンゴメリー・クリフト、右:ドナ・リード)
そうしているうちに運命の12月7日、日曜日の朝、真珠湾に爆音が轟き、運命は大きく変わっていく…。

♪ ♪
要領よく立ち回って、ボクシングをやりさえすれば苛めなどに遭わずに済むと諭すウォーデンに対して、プルーイットはこう答える。

「自分の考えを貫けない人間は無です」
ウォーデンはこう言う。

「今は開拓時代じゃない。妥協するということも覚えろ」
ウォーデンはプルーイットにお前は要領が悪いと言っているが、それがプルーイットの生き方なのである。
ウォーデンは自分で要領がいいと言うが、実は職務に忠実であるがために無能な上官からいいように使われているだけなのだ。

プルーイットは、自らの意志を貫こうとして上官らに苛め抜かれる兵卒で、これをもってジンネマン監督の反戦映画だとか反軍隊映画だと解釈する見方も確かにあろう。
だが、プルーイット自身は孤独な人間で、軍隊を離れては生きていけないと思っているし、たとえどんなに苛められたとしてもアメリカの陸軍を愛している人物として描かれており、決して苛めや嫌がらせに屈しない強い意志の男である。
そんなプルーイットと、上官の妻と不倫をしつつも部下思いで事務処理能力に長けたウォーデンの生き方を対比させながら、ドラマが進行していくのを見ていると、単に軍隊批判の作品という風に捉えるのは視野が狭すぎるという気がする。

プルーイットにしろ、ウォーデンにしろ、カレンやロリーンにしろ、みな“Here”(ここ)にいながら、別のいるべき場所を夢想し求めている人物なのだ。
それがこの作品の原題の意味するところであろう(邦題も格調が高くてなかなかよろしい…)。
もっとも、パールハーバーがクライマックスとなるので複雑な感慨が生まれてくる。
ただ、原作のジェームズ・ジョーンズの小説は自らの体験を下敷きにしたものであろうが、ジンネマンの映画化はハワイとか軍隊とかというのは単なるドラマの素材に過ぎず、むしろさまざまな人間の愛憎と生き様を描いた人生ドラマだともう少し大きな枠として捉えた方が適切かもしれない。
この作品がヌーヴェルヴァーグの連中に称賛されたのも、人が到底たどりつくことができそうにない自由を求めるというメッセージ性を汲み取ったからかもしれないのだ。

♪ ♪ ♪
モンティことモンゴメリー・クリフトが玉突き(ポケット)をするシーンが二度ほど出てくる。
彼は、確か『陽のあたる場所』(A Place In The Sun‐1951)でも突いていたと思うが、かなりの腕前のようで、実際に玉突きが得意だったのだろう。

マジオ役のシナトラは歌手として人気が落ち目になっていた時期にあり、この作品にかける意気込みは相当のものがあったようだ。
生き方が不器用で不様に死んでいくダメ兵士という役柄にもかかわらず、格安のギャラで自らを売り込んだという。
そのあたりの事情は、フランシス・フォード・コッポラの名作『ゴッドファーザー』(1972)に、シナトラを彷彿させる人気落ち目の歌手(演じたのはやはり人気歌手だったアル・マルティーノ)が映画出演で起死回生を図ろうとするエピソードとして描かれていた。
やせっぽちだった当時のシナトラはよくはまっていて好演だった。
もっとも、助演男優賞としてオスカーを授与されるほどのものとは思わないが、結果的には役者としての実力を世に知らしめ、以後は本業の歌の方でも数々の名唱を録音していくことになり、亡くなるまでアメリカの芸能界の重鎮として君臨するきっかけとなった。

なおプルーイットは名ラッパ手という設定で、酒場で即興で吹いたりするが、特にマジオを追悼する葬送のラッパを朗々と吹くシーンは悲痛な思いが込められていてなかなかの名場面であった。
ラッパのマウスピースを小道具としてうまく使ってあった。

また、プルーイットの兵隊仲間で、彼の周囲でギターを弾いているのがマール・トラヴィスである。
16トン”の作者としても知られるカントリー・ミュージックの巨匠で、ここではギターのほかに映画のために作られたカントリー・ブルースも歌って聴かせている。
フィンガー・ピッキングの親指で5弦、6弦の低音でベースラインを刻み、他の指でメロディラインを弾く、いわゆる「ギャロッピング奏法」を完成させたチェット・アトキンスの師匠格に当たる。
ちなみに、トラヴィスにギターの手ほどきをしたのはマイク・エヴァリー(エヴァリー兄弟の親父さん)である。
登場する場面は少なくさりげなく地味な扱いになっているが、新しい発見で何だかとても得した気分である。

神経は太い人だが痩せている(蚤助)

#603: 「転」の川柳

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ローリング・ストーンズが8年振りに来日している。
日本公演は6度目だそうだ。
東京ドームのGC席(ゴールデン・サークル、すなわち花道周辺の一角の特等席)のチケットは8万円だという。
60年代初めのバンド結成以来、一度も解散したことがなく、一貫して半世紀以上ロックし続けているというのは驚きの不良ジジイたちである(笑)。
もっとも、ビートルズなどと比較するとメロディー志向が全般に希薄なので、ファンの好き嫌いが割にはっきりしているスーパーバンドではないかと思う。

ローリング・ストーンズのバンド名は“A Rolling Stone Gathers No Moss”(転石苔を生ぜず)という諺に由来する。
「同じ場所にとどまらない石には苔が生えない」という意味だが、この諺はイギリスとアメリカでは捉え方が異なるのだという。
イギリスでは「職業や住居を転々とする人は成功しない」というネガティヴな捉え方であるのに対して、アメリカでは「活動的にいつも動き回っている人は能力を錆びつかせない」というポジティヴな解釈なのだそうだ。
保守的思考が強いイギリスと、フロンティア・スピリットに価値を置くアメリカとの違いなのだろう。

日本では同じような意味で「淀む水には芥溜まる」とか「流れる水は腐らず」とか“水”にたとえることがあるのは、やはり「水の国」だからだろうか。
そのほか「使う鍬は錆びない」という言い方もあることを考えれば、日本ではこの諺をどちらかといえばアメリカ流の意味として解釈しているということだろうか。


「転」の旧字は「轉」で「車+專」である。
「車」はもちろん「くるま」の象形、「專」の上部は「糸巻き」で下部は「手」の象形だという。
そこから「車を回す」という意味が出てくる。

大部分の漢字は、類型を表す記号「意符」と発音を表す記号「音符」の組み合わせで出来ている。
これを「形声文字」というらしいが、その意符と音符の組み合わせの位置関係は左右だったり上下だったり様々なヴァリエーションがあり、字典で部首とされているものが意符であることが多いという。
「轉」という漢字の場合は「車」が意符、「專」が音符ということになる。

そもそも「転」は、
   (1) 「くるくる回る、ころがる」の意味で運転・回転など
   (2) 「方向を変える、変わる、変化する」の意味で転向・転身など
   (3) 「場所を変える、移る、移す」の意味で転居・転記など
という使い方をするが、もう一つ、大事な意味があったね。

例えば、ソチ冬季五輪フィギュアスケート真央ちゃんについての森元首相の「あの子、肝心なときに必ず転ぶ」という使い方である(笑)。
すなわち、
   (4) 「ひっくり返る、ころぶ」の意味で転倒、転落など
である。

♪ ♪
ということで、今回はストーンズ来日と浅田真央ちゃんで、未だ紹介していなかったNHK文芸選評・川柳ネタのひとつ「転」の川柳である。
特に「字結び」という指定はないが、「転」という文字が入った句が多かったようだ。
「転ばぬ先の杖」であろうか…。

平成22年6月 課題「転」 大木俊秀・選

先ず転ぶことから学ぶ柔道部 (鷲野勝未)
正門で転び裏門から入る (森 昇)
偏差値の丘で転んでばかりいた (中 博司)
校門で泣く転校生の花子 (宍戸智子)
歩き初め最後はママの手に転ぶ (遠山 勇)
転がした方も転げるボーリング (高橋 勝)
おかわりの欲しい徳利を横にする (妹尾安子)
千鳥足していて父は転ばない (勝盛青章)
転勤にマージャンパイもつれてゆく (中村充一)
家族から単身赴任命じられ (鶴田昌憙)
立ち寄れと転居通知が嘘をつく (安元ふみき)
ゴキブリの機転に勝ったことはない (平井義雄)
ビー玉に見抜かれている安普請 (岡さくら)
掃除機の妻が寝転ばせてくれぬ (松田順久)
手を離せ君まで転ぶことはない (河内郷輔)
おひねりの上に転がる斬られ役 (鈴木正義)
転作がすんなりほっとする田んぼ (河浦邦子)
里山で地味にエコする水車小屋 (瀬古 博)
無茶すると地球が自転放棄する (山地勝彦)
俺が世の向き変えてやる転轍機 (川北英雄)


ガンのやつ転がり込んで乗っ取る気 (鹿野文雄)
母の手は転がるような飯握る (佐藤雅雄)
転がせば塁に出られる草野球 (三浦武也)
目の前でわざと転んでみせた恋 (岡本 恵)
回転の早いお店で旬を買う (角日しち)
ついて行く単身赴任させません (川島きみ子)
シャッター街回転焼は生き残り (山根吉城)
ボーナスで回転しない寿司にする (石井正人)
草野球球は転々塀がない (田口洋悦)
転がれば早いよなんて失礼な (佐野由利子)
客次第今宵野党になる女将 (匂坂順一朗)
生きるとは逆らわぬことかざぐるま (大黒政子)
転勤の最後の町で買った墓地 (問可圧子)
まあいいか左遷地で見る天の川 (玉田政子)
お転婆のそれでもほほを染めるとき (能田文夫)
転んだら最後と足に言いきかせ (高橋ツネ子)
転勤へ妻は糠味噌抱いて行く (白石天平)
転んでも素手では起きぬ老の意地 (白水盛雄)
食べながら笑い転けてる熟女たち (多良間典夫)

そして、大木先生に佳作に抜いていただいた拙句…

寝転んで敬語の電話かけている(蚤助)

#604: みんな笑った

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だいぶ以前、ここで取り上げたことがある“HOW ABOUT YOU”は「ものづくし」の歌で、その中では「ガーシュウィンの歌が好き」と歌われていた。
作詞はラルフ・フリード、作曲はバートン・レーンである。

そのガーシュウィンのやはり固有名詞がたくさん入った歌をひとつ思い出したので紹介しておきたい。
“They All Laughed”(みんな笑った)という曲で、作詞はアイラ、作曲はジョージ、すなわちガーシュウィン兄弟による作品である。
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのコンビによる37年のミュージカル映画“SHALL WE DANCE”(邦題は『踊らん哉』)の中の一曲で、ジンジャー・ロジャースが歌い、アステアはロジャースと踊るだけという演出であった。
Youtubeにその場面がアップされているのでまずはご覧いただこう(こちら)。

こんなヴァースから始まる歌である。

The odds were a hundred to one against me
The world thought the heights were too high to climb
But people from Missouri never incensed me
Oh, I wasn't a bit concerned
For from history I had learned
How many, many times the worm had turned…

私に対するオッズは100対1
世間はその高さまで登るにはあまりにも高すぎると見ている
人が疑っても私は絶対へこたれない
そう 少しも心配していなかった 歴史というものを学んできたから
イモムシは何度も何度もひっくり返ってきたじゃないの…
アメリカのオッズ(賭け率)の a hundred to one (100対1)というのは、賭け事に疎い蚤助にはまるで見当がつかないが、後に続く歌詞から考えれば、その確率ははとても低い、つまり「百回に1回」(1%)程度でとても無理だということなのだろう。
3行目の from Missouri というのは「ミズーリ州から」という意味ではなく、「疑り深い」とか「証拠なしには信用しない」というイディオムで、ちゃんと英和辞典にも載っている。

以上のヴァースを経て、コーラスに入るのだが、いろいろな固有名詞が出てくる。

They all laughed at Christopher Columbus
When he said the world was round
They all laughed when Edison recorded sound
They all laughed at Wilbur & his brother
When they said that man could fly…

みんな笑った クリストファー・コロンブスが
地球は丸いと言ったとき
みんな笑った エジソンが録音しようとしたとき
みんな笑った ウィルバーと兄弟が
人間は飛ぶことができると言ったとき
みんなは マルコーニの無線なんてインチキだと言った

同じように あなたを待っている私をみんなが笑った
月に手を伸ばしているようだとも言った
私たちは幸せになれないと言った
みんな私たちを笑ったけれど ハ、ハ、ハ
最後に笑うのは誰だ?

みんなはロックフェラー・センターを笑った
今じゃみんなが行きたがっている
みんなホイットニーの綿繰り機を笑い、フルトンと蒸気船を笑い
ハーシーの板チョコを笑い、フォードのリジーを笑った

それが人間というもの みんな私を笑った
私たちは「ハロー!グッドバイ!」で終わるだろうって言った
でも 今ではみんなが恥じている
二人は一緒になれるわけがないと言った
ハ、ハ、ハ 最後に笑うのは誰だ?…

コロンブスやエジソンはお馴染みの名前だが、ウィルバーと兄弟というのは、兄ウィルバーと弟のオーヴィル・ライト、すなわち飛行機で初めて飛んだライト兄弟のことである。

以下、グリエルモ・マルコーニはイタリアの発明家・科学者で、無線通信技術の開発によりノーベル物理学賞を受賞している。
ロックフェラー・センターはお馴染みマンハッタンの中心部にそびえる高層ビルで、バブル時代に三菱地所が買って、その後のジャパン・バッシングの一因になったことは記憶に新しい。
クリスマス・シーズン到来を告げる巨大なクリスマス・ツリーが飾られることで有名である。
イーライ・ホイットニーは綿繰り機を開発し特許を取得、ロバート・フルトンはハドソン河で蒸気船の実験をし、二人ともアメリカの産業革命の一翼を担った人物である。
また菓子メーカーの創業者ミルトン・スネーベリー・ハーシーは、ミルク・キャラメルの製造技術を応用し、ミルクチョコレート・バー(板チョコ)を売り出し、現在もなお定番の板チョコとして広く愛されている。
また、ヘンリー・フォードの初期モデルであったリジーは大衆車として売り出されたが、当時はポンコツ車の代名詞であった。

なお、蛇足ながら「みんなが恥じている」と訳した部分は、 eat humble pie で、直訳だと「ハンブル・パイを食べる」という意味である。
humble は「卑しい」、 humble pie は「豚などの臓物で作ったパイ」であまり上等な食べ物ではないことから、それを食べるということは「仕方がないこと」、転じて「甘んじて屈辱を受ける」「恐れ入る」「詫びる」というニュアンスになるのだという。
とまあ少しはお勉強をしておかないとね。

以上、解説めいたことを記してしまったが、実はアステア=ロジャースの『踊らん哉』をDVDで観るずっと以前に、60年代末に録音したトニー・ベネットの歌を聴いていて、なかなか面白い歌だと思っていたのである。
当時の録音ではなく、彼の最近の歌をこちらで見つけたのだが、この動画の作成者はなかなか凝っていて、歌詞に出てくる固有名詞の画像を次々と登場させているのがなかなか楽しい。

前述のとおり、『踊らん哉』の中でアステアはこの曲を歌っていないのだが、後年、自分のアルバムで何度も録音している。
さらに、アステアの映画の歌ばかりを歌ったメル・トーメの歌唱は、アステアの粋とセンスが相通じるところがある彼の真骨頂である。


(Mel Torme Sings Fred Astaire)
このほか、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングの楽しいデュエット盤もある。
そのエラ&ルイのヴォーカル・デュエットはこちらである。
というわけで、やはりとても面白い歌であるが、日本ではこういう曲を歌える人がいないのが残念と言えば残念である。


笑いじわアハハウフフと増えていく (蚤助)
坂道を笑い上戸の膝と下り (蚤助)
みんな笑って、句二句(苦肉)の作…?

#605: 卒業の日

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弥生、三月…。
世は卒業のシーズンである。
今月の「けやぐ柳会」の課題(久美子・出題)のひとつも「卒業」である。

卒業とは学業を終えて学校を去ることであるが、ある状況やある段階を体験して通り過ぎていくことにも使われる言葉なので、人生のさまざまな局面で「卒業」を体験するわけだ。
それまでの仲間、同僚、あるいは属していたいろいろな共同体、環境から離れ、人生の次の新しいステージへ踏み出そうとするけじめだということもできよう。


声を大にしてスタンダードだと言えるほどの曲ではないが、この時期にふさわしいので取り上げたいのが“Graduation Day”である。

ジョー・シャーマンとノエル・シャーマンの作で、この二人で有名なものとしては、かのナット・キング・コールのヒット曲“Ramblin' Rose”であろうか。
さらにジョー・シャーマンの方は、“ワシントン広場の夜は更けて”で一世を風靡したヴィレッジ・ストンパーズのアレンジャーとして、また“Diana”などポール・アンカの歌の共作者としても知られている。

将来への夢と希望と惜別の思いが交錯する卒業の日の情感を描いたこの歌は、元々ポップ曲として書かれたものである。
1956年、カナダのヴォーカル・グループ、ローヴァー・ボーイズ(こちら)と、フォー・フレッシュメンが、それぞれ同時期にビルボードのヒット・チャートにランクインさせている。

特に、オープン・ハーモニーを駆使したフォー・フレッシュメンは、その高度な技巧によって、この曲に単なるポップとは次元の異なる意匠を与えるとともに、彼らの代表的なレパートリーにしてしまうのである(こちら)。
ちなみに、フォー・フレッシュメンのヴァージョンは、最高位17位で、ローヴァーズ盤(16位)にわずかに及ばなかったものの、コーラス・ハーモニーの質と風格において、両者の間に雲泥の差があったことは誰の耳(!)にも明らかであった。
“Graduation Day”はまさにフォー・フレッシュメンによって名曲となったのだ。

There's a time for joy
A time for tears
A time we'll treasure through the years
We'll remember always
Graduation Day…

喜びの時があり 涙の時がある ずっと宝物のように思う時がある
僕らはいつも思い出すことだろう 卒業の日を

ダンス・パーティーで 夜中の3時まで踊った
あの時 君は僕にハートをくれたんだ
僕らはいつも思い出すだろう 卒業の日を

悲しみながら別れていくけれど 僕らが知ってるあらゆる喜びで
明日へと向き合って行けるだろう
分かるんだ 僕らは決して独りで歩んでいくことはないのだと
蔦の小道が 遥か昔のものになり
行く手がどこへ曲がっていようとも
僕らはいつも思い出すことだろう 卒業の日を

思い出すだろう いつも…
「ダンス・パーティーで」は、原詞では“at the senior prom”、アメリカの大学や高校で行われるダンス・パーティーのことで、『アメリカン・グラフィティ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』あたりの青春映画にも描かれているように、もうステディになっているカップルも、そうでないカップルも、好きな相手とダンスをするという、卒業や学年末などに開催される定番行事である。
「蔦の小道」は“the ivy walks”で、 学舎・キャンパスをイメージさせるものだが、ひょっとしたらアイヴィ・リーグ(ハーバードやエールといった伝統の古い名門大学)のことかもしれない。

フォー・フレッシュメンは、1948年インディアナポリスのバトラー大学に入学した4人の学生によって結成されたグループで、文字通り“4人の新入生”だったのだが、彼らはついに2年生になることはなかった。
その後、新入生のままでプロの道に入って行ったからである。
メンバー4人は、全員ソロ演奏が器楽専門のミュージシャンが舌を巻くほどの腕前を持っていて、自分たちの歌の伴奏は自分でこなしてしまった。
そのことが、ドライブ感のあるコーラスの魅力をさらに増し、彼らのライヴの素晴らしさの大きな要素でもあった。


(Four Freshmen/Graduation Day)
フォー・フレッシュメンは、モダン・ジャズ・コーラスのスタイルを確立した名グループである。
彼らが登場した当時、ミルス・ブラザース、ゴールデン・ゲート・カルテット、アンドリュース・シスターズ、ボズウェル・シスターズなどのコーラス・グループが活躍していたが、ジャズ特有の緊張と弛緩、スリルと寛ぎを楽器から肉声に置き換え、モダンなコーラス・ハーモニーを聴かせる新しいスタイルのグループとして高く評価された。
2011年に、ボブ・フラニガンとロス・バーバーというオリジナル・メンバー2人が他界して、フレッシュメンの黄金期を支えたメンバーが全員世を去ってしまったが、現在もなおメンバーを入れ変えて、年100回以上のライヴをこなしているという。

ハイ・ローズ、シンガーズ・アンリミテッド、マンハッタン・トランスファーなど、その後に活躍するグループに少なからぬ影響を与えている。
ロック&ポップの世界においても、ビーチ・ボーイズ、ママス&パパス、スパンキー&アワ・ギャング、レターメンなど美しいコーラス・ハーモニーのグループとして知られているが、彼らもフォー・フレッシュメンの影響を否定していない。
特に、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、フォー・フレッシュメンのコーラスを目標としたことを公言して憚らなかった。

そのビーチ・ボーイズは、特に初期のステージで、このフォー・フレッシュメン・クラシック“Graduation Day”を好んで取り上げていたが、そのチャレンジングな姿勢こそ、ビーチ・ボーイズの活動の原動力となったものであろう。
64年10月にリリースされた彼らのライヴ盤に収められたものを聴くと、ラストのコーラスを一人だけ騙されて歌ってしまうという演出(?)が施されていてなかなか楽しい仕上がりになっている(こちら)。


(Beach Boys Concert)
このアルバムは全米ナンバーワンを記録するのだが、彼らはこの年、クリスマス・アルバムも作っているので、1年間に4枚ものアルバムをリリースしたことになる。
デニス・ウィルソンの少し荒っぽい力任せのドラムスも微笑ましく、初期のビーチ・ボーイズの貴重なレコーディングとなっている。

なお、“Graduation Day”は、67年にアーバーズが歌ってリバイバル・ヒットさせている(こちら)。

おめでとう浮いた学費にありがとう (蚤助)


  

#606: 明けても暮れても

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恋が「悪魔」にたとえられるのは、珍しい事ではない。
周囲が見えなくなってしまって悶々と苦しむ恋心というのは、きっと悪魔の仕業に違いないというわけだろう。
ビリー・ホリデイの名唱がある“That Ole Devil Called Love”(恋とよばれる悪魔)は、恋を悪魔だと断じているし、恋心を悪魔の月にたとえた“Old Devil Moon”など、スタンダード曲のタイトルもそのことを如実に表わしている。

その悪魔というのは、結構マメなようであちこちに出没するようだ。
これに憑かれてしまうと大変、いろいろな症状が表れてくる。
祈祷師であろうと、悪魔祓い(エクソシスト)であろうと、陰陽師を連れてきても歯が立たないだろう。

例えば“Day In, Day Out”という曲である。

Day in, day out
The same old voodoo follows me about
The same old pounding in my heart whenever I think of you
And darling, I think of you, day in and day out…

明けても暮れても 同じヴ―ドゥー(魔教)がつきまとう
君を思うだけで ドキドキする
そうさ 明けても暮れても 君のことばかり考えている

暮れても明けても 一日がどう始まるか 君に言う必要はないけど
目覚めるときは ちょっと考えてしまう 君を見かける可能性なんかを

降っても晴れても 君と会えたらそれが良い日
キスをしたなら 大海原の唸り 千の太鼓のような激しい動悸が起こる

これは恋だと思わないか それは疑問の余地もない
こうして 一日が明け 一日が暮れていく…

どうみても愛の告白なのに、よせばいいのに自己分析などをして、「これは恋だと思わないか?」と言ってしまうのである。
どうやら頭がぼんやりして、熱にうなされているのかもしれぬ。
かなりの重症らしい、南無阿弥陀仏。

作詞ジョニー・マーサー、作曲はルーブ・ブルーム。
1939年にマーサー自身がベニー・グッドマン楽団のラジオ番組で発表したものだが、主にビッグバンドのレパートリーとして取り上げられた。

こちらは、ビリー・ホリデイの歌だが、他のスタンダード同様、この歌もビリーが歌ったことにより現在も歌い継がれるようになった。
晩年に近い57年の録音で、30〜40年代の若々しい溌剌とした歌唱と比べるとさすがに声は荒れているが、ベン・ウェブスター(ts)、ハリー・エディソン(tp)、ジミー・ロウルズ(p)、バーニー・ケッセル(g)、レッド・ミッチェル(b)、アルヴィン・ストーラー&ラリー・バンカー(ds)という錚々たるメンバーを従えて、寛いだ表情で余裕の歌唱を聴かせる。

この後、フランク・シナトラとナット・キング・コールが、この曲を再評価してレパートリーに採り入れリバイバルさせた。

まずは、シナトラの歌唱がこちら、伴奏はビリー・メイの編曲・指揮によるビッグバンドである。


(Frank Sinatra/Come Dance With Me‐1959)
続いて、ナット・コールの歌唱がこちら、テレビ番組の画像らしいが、詳細は不明である。
シナトラにしてもコールにしても、よくスウィングするビッグバンドを伴奏に歌っているのが面白い。

ところで、タイトルの“Day In, Day Out”について書き忘れた。
原義「一日が始まり、一日が終わる」というところからきたイディオムで「明けても暮れても」「来る日も来る日も」「絶えず」という意味である。
“Day In And Day Out”と記されることもある。
“Year In, Year Out”という言い方もあり、この場合は「年がら年中」「毎年決まって」「しゅっちゅう」とかの意味である。
またひとつ、賢くなったね…。

さて、蚤助の“Day In, Day Out”はというと…

いつも損ばかりするボク割と好き (蚤助)

#607: 邦題はいいけれど…

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コルネット奏者レッド・ニコルスの半生を描いた映画『5つの銅貨』(The Five Pennies‐1959)は、ニコルスに扮したダニー・ケイの好演もあって心に長く残る作品である。ルイ・アームストロングとそのオールスターズ、ボブ・クロスビー、レイ・アンソニー、シェリー・マンなどのジャズ・ミュージシャンが多数顔を見せるのも嬉しい。

病気の愛娘のために音楽界を引退して造船所に勤めるダニー・ケイが、ある日、家族とともにレストランに出かけるのだが、妻役のバーバラ・ベル・ゲデスが目の前を通り過ぎた人物を見て「あら、ボブ・ホープだわ」と言うシーンが出てくる。その人物が画面を横切るのはほんの1〜2秒、あっという間なので、以前は気がつかなかったのだが、改めて確認してみたら本物のボブ・ホープであった。もちろんセリフはなくクレジットもされていないカメオ出演で、おそらくノーギャラだったと思うのだが、ああいうのをいわゆる友情出演というのだろうか。

ダニー・ケイは、歌も踊りもうまく、さらに物まね、顔芸、早口言葉(初期のタモリがインチキ外国語を駆使する芸はおそらくケイにインスパイアされたものではなかろうか)など、とても器用で芸達者な俳優だったが、ボブ・ホープはそれにさらに輪をかけた偉大なコメディアン、俳優、エンターテイナーであった。ケイの先輩挌にあたる。

1936年のレヴュー“Ziegfeld Follies Of 1936”に出演したホープを映画関係者が見て、ハリウッドに招聘され映画に出演するようになっていくのだが、結局生涯に50作以上の映画に出演し、アカデミー賞を5回受賞、英国王室からもナイトの称号を授与されたほか、アカデミー賞授賞式の司会を永年担当したことでも有名である。また、コメディアンとして、第二次大戦から湾岸戦争まで、いろいろな戦地での慰問活動を続け、「私はあまりにも多くの戦争を見てきた」とのコメントを残している。2003年に100歳で亡くなったときは、ブッシュ大統領が「偉大な市民を失った」と追悼し、カリフォルニアのバーバンク・パサデナ空港は、彼を記念してボブ・ホープ空港と改名したほどであった。

映画入りのきっかけとなった36年のレヴューでホープが歌ったのが“I Can't Get Started”という曲で、その翌年(37年)に、トランぺッターのバニー・ベリガンが弾き語り(ラッパだから「吹き語り」か)をしてヒットさせた。作詞アイラ・ガーシュウィン、作曲はヴァ―ノン・デュークで、ベリガン以後、数知れぬ歌手やミュージシャンがレパートリーにする名スタンダードとなっている。シンプルな循環コードと伸びやかなメロディラインが特色で、美しい旋律だけにインストゥルメンタルの名演も多い。

インストで真っ先に頭に浮かぶのが、クリフォード・ブラウン&マックス・ローチによるライヴ演奏である(こちら)。ブラウン=ローチの双頭クインテットの旗揚げ公演(1954)のライヴで、当時23歳のブラウニーの信じがたいほどのソロ・プレイが聴ける。

こちらもライヴで、ソニー・ロリンズがニューヨーク、ヴィレッジ・ヴァンガードで行ったライヴ録音(1957)。このときロリンズは初めてエルヴィン・ジョーンズ(ds)と共演(ベースはウィルバー・ウェア)。ピアノレスのトリオ演奏だが、ヴィレッジ・ヴァンガードで録音されたライヴ盤はこれが嚆矢であった。

ブラウニー、ロリンズのどちらも音楽史上に残る名演である。

もうひとつ蚤助のお気に入りが、ソニー・スティットの痛快な演奏である(こちら)。72年、バリー・ハリス(p)、サム・ジョーンズ(b)、アラン・ドウソン(ds)というリズム・セクションの好サポートを得て、スティットがアルト・サックスをバリバリと吹き切る。


(Sonny Stitt/Tune Up!)
ヴォーカルの方は、歌い手によって歌詞が違っているのが面白い。日本では、森進一がオリジナルにないセリフを付け足したとして作詞した川内康範からクレームがついてトラブルとなった例の「おふくろさん」事件のように、作詞者の意向を無視して歌詞を勝手に改変するなどもってのほか、御法度というところである。

オリジナルのバニー・ベリガンのものがおそらくアイラ・ガーシュウィンが書いた歌詞なのだろう。少し時代がかっていて古めかしいのだが、ベリガンはこう歌っている。

I've flown around the world in a plane
I've settled revolutions in Spain
The North Pole I have charted
Still I can't started with you…

僕は飛行機で世界中を飛び回り スペインでは革命を鎮圧
北極点も特定したのに 君とは何も始まらない
ゴルフをやればアンダー・パー MGMからは出演依頼
屋敷もあるし劇場も持っている なのに君のそばには居場所がない…
その上、世界恐慌はうまく切り抜け、グレタ・ガルボからお茶に招待されたり、ルーズヴェルト大統領から意見を求められ、英国王室に招待されたり…と自慢する。憎めない、ほら吹き男である(笑)。でも「君の前に来ると話しかけることさえできなくなる」。アイラ・ガーシュウィンという作詞家は実にお茶目である。

フランク・シナトラの場合は、さらに、IBMがブレーンに欲しがるだとか、天下のデザイナーも俺のスタイルを真似するだとか、言いたい放題だ(笑)。だけども「君は僕に目もくれない」と嘆くのである(こちら)。ヴァースからじっくり歌うが、このゴードン・ジェンキンスのアレンジと伴奏はこよなく美しい。


(Frank Sinatra/No One Cares)
この曲、邦題が『言いだしかねて』というロマンティックで語呂もいいタイトルとして知られるが、どっこい、主人公の「僕」がこれだけホラを吹いていて、この邦題はないだろうと思う(笑)。あの手この手、口八丁手八丁で告白するのだが、まったく相手にされず、結局フラれてしまうという歌なのだ。君への想いを「言いだしかねて」いる純情な男の物語ではなく、「俺ってこんなにもすごいんだぜ」と自慢をしながらも彼女から無視されるという、哀れな男の歌なのだ。つまり、「君への想いを言いだせない」のではなく「君にはお手上げだ」という意味なのである。

いろいろな歌手が、歌詞を変えて歌っているので、聴き比べるのも楽しいが、女性歌手の場合は「性転換」して歌うのが普通(笑)。女優・モデルとしても有名なシビル・シェパードが、スタン・ゲッツと共演したアルバム(76年)の中では、「二度もミス・アメリカになっているほどの私なのに、さっぱり振り向いてくれないの」と嘆いているのが可笑しい(こちら)。


(Cybill Shepherd/Mad About The Boy)

大時代的な内容だけれど、なかなか面白い歌だ。

体重計女心は計りかね(蚤助)

#608: オシャレな日本酒で乾杯

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毎週土曜日の日本経済新聞朝刊には『NIKKEIプラス1』という生活記事を主体とした別刷り紙面がついてくる。その第一面は「何でもランキング」という特集記事で、人気のスイーツだとか、観光地だとか、毎週いろいろなジャンルのランキングが掲載される。日頃そういうものにあまり関心が向かない蚤助ではあるが、3月8日の記事は思わず熟読してしまった。というのも「スパークリング日本酒で乾杯!!」というヘッドラインに惹かれたからである(笑)。

「スパークリング日本酒」とは発泡日本酒のことで、発泡性のある炭酸ガスを含んでいる日本酒である。近年、日本酒の多様化の一環として酒造各社が「発泡日本酒」に力を入れているというが、『NIKKEIプラス1』の記事によると、ラベルも一見してワインと間違えそうな見た目におしゃれな意匠で、口当たりのよい酒として発泡日本酒の人気が高まっているのだそうだ。何でも日本国内で行われるモータースポーツのイベントでは、表彰式に行われる「シャンパンファイト」にシャンパンの代わりに発泡日本酒が使われることも多いと聞く。

搾りたての清酒の中には溶存炭酸ガスによって微発泡性をもつものがあり、それを発泡清酒ということは知っていたが、この発泡日本酒はそれとは別物のようだ。炭酸ガスを含んでいるため、口にすると舌に刺激を感じる。澱によって濁っているもの(発泡濁酒)やシャンパンを思わせる透明度と泡立ちがあるものまで種類は様々、アルコール度数は通常の日本酒のおよそ3分の1に当たる5%程度のものもあるそうだ。冷やして飲むのが基本、戦前からあったもののようだが、20年ほど前から酒造各社が本格的に参入し始めたらしい。記事によれば、現在では100を超える銘柄があるという。

発泡日本酒の製法には2種類あって、ひとつはシャンパンと同様の「瓶内二次発酵方式」、もう一つは「炭酸ガス注入方式」である。

前者は、アルコール醗酵が止まっていない醪(もろみ)を火入れせず酵母が生きた状態で瓶詰めし、瓶の中でさらに醗酵を進め、炭酸ガスを瓶内に閉じ込める方法である。これはまさしくワインに対するシャンパンと同じ製法であり、日本酒としては純米酒に用いられることが多く、米の味わいが楽しめるという。また「炭酸ガス注入方式」は、その名のように酵母の働きを止めて瓶詰めし炭酸ガスを充填したものだが、実態はそんなに単純なものではなさそうで、水も加えず濾過もしていない原酒に炭酸ガスを入れてから10日ほど経ったときに醪を絞り、もう一度酵母を入れて醗酵させ、出てくる炭酸ガスを低温で溶存させて出荷するというもので、こちらはすっきりした飲み口が特徴だそうだ。


歓送迎会が多い今の時期、女性同士が集まる女子会にもぴったりな一品を、酒に詳しい日本酒きき酒師やソムリエとして活躍する女性の専門家11人に、女子会に向く発泡性日本酒を推薦してもらい、インターネット市場での売れ筋も加味して31種を選定し、それを各専門家が試飲したうえで、味わいや香り、ボトルなどのデザイン性、コストパフォーマンスなどから順位をつけて10品選ぶというのが、今回の記事の趣向であった。

この中で、全国の酒造メーカーの銘酒を抑えて、最高得点376ポイントを獲得し圧倒的な一位を獲得したのが、青森市・西田酒造店の「FLOWER SNOW」である。


青森市の地酒「喜久泉」というより、銘酒「特別純米酒 田酒」の酒蔵の一品といった方が全国的な知名度が高いであろうか。口に含むと、最初は「酸味が勝る感じ」(ANAビジネスソリューション研修業務チーム主席部員・上田紀子さん)がするが、続けて純米酒らしいコクがあり「米をかむ時のような自然な甘さを感じる」(酒ジャーナリスト・葉石かおりさん)と評価されている。開栓すると勢いよく白い沈殿物が浮き上がり、瓶内で泡雪のように細かい澱が舞う濁り酒である。青森県産の酒造りに適した米「華吹雪」に八甲田山系の地下水と自社酵母を加えて熟成させた、とある。

「キリッとしてキレもよく、食中酒にお薦め」(酒料理研究家・渡辺ひと美さん)だといい、にごり部分を酒の重量比で2〜3割にとどめているため、のど越しもよさそうだ。ボトルのラベルなどの外観はワインを思わせ、「コストパフォーマンスも非常によく、日本酒好きにお薦め」とは新宿高島屋和洋酒売り場担当・福島美名子さんの弁である。アルコール度数は16度、720ミリリットル、1350円とのこと。2月中旬から5千本の限定生産で、主に東北・関東の酒販店に出荷しているらしい。この記事を読んで、早速飲んでみたくなり、ネット等の通信販売を調べてみたのだが、既に入手は困難のようであった。ああ、しばらくは幻の酒として夢に出てきそうだ(笑)。

なおランキング2位以下もいずれ劣らぬ銘酒ぞろいで、福井県鯖江市・加藤吉平商店の「梵 プレミアムスパークリング」(304ポイント)、山口県岩国市・旭酒造の「獺祭(だっさい)スパークリング50」(264ポイント)のベスト3に加え、「発泡純米 ねね」(山口県岩国市・酒井酒造)、「MIZUBASHO PURE」(群馬県川場村・永井酒造)、「八海山 発泡にごり酒」(新潟県南魚沼市・八海醸造)、「月の桂 吃驚仰天」(京都市・増田徳兵衛商店)、「発泡清酒 ラシャンテ」(秋田県大仙市・鈴木酒造店)、「奥の松 純米大吟醸スパークリング」(福島県二本松市・奥の松酒造)、「本生にごり酒 スパークリング大自然」(長野県伊那市・宮島酒店)と続く。

このリストを見るだけでノドが鳴る。いつの日かじっくり味わってみたいものだが、ご丁寧にも記事には飲みきれなかった場合の注意もあった。「きちんと栓をしておけば数日なら発泡性も残る。泡が抜けても日本酒としてうまみは残る」(トータル飲料コンサルタント・友田晶子さん)そうだが、大丈夫、蚤助は飲み残すことはまずありませんから…(笑)。ちなみに開栓の際にはシャンパンを開ける際のような注意が必要とのこと、さもなければ悲惨な結末が待っていそうだ。なにしろ「酒の一滴、血の三滴」である(笑)。

空き瓶が無言で語る酒の量(蚤助)

#609: この胸のときめきを

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寒く大雪にも見舞われた今冬だが、確実に春が近づいているようで、我が家の沈丁花も芳香を放っている。春がくると心がときめきだす。春は若い季節なのである。

イギリスの女性歌手ダスティ・スプリングフィールド(1939‐1999)は、1960年に2人の兄とともに、ザ・スプリングフィールズというグループを結成した。たまたまツアーで訪れたアメリカで、当時人気上昇中だったモータウン・サウンドにすっかり夢中になり、その後の活動に大きな影響を及ぼすことになる。彼女のヴォーカルにソウルフルでエモーショナルな味わいが加わるようになり、いわゆるブルー・アイド・ソウルのシンガーとして変貌を遂げるのだ。

グループは63年に解散し、兄のトムはプロデューサーとして独立、後にザ・シーカーズなどをプロデュースする。ダスティはソロシンガーとして最初に出した曲“I Only Want To Be With You”(邦題「二人だけのデート」)が大ヒットする(こちら)。以後、彼女は相次いでヒット曲を出し、名実ともにイギリスの大歌手となっていくのだが、彼女の最大のヒット曲といえば、何といってもやはり“You Don't Have To Say You Love Me”(邦題「この胸のときめきを」)であろう。

1950〜60年代にかけては、非英語圏の音楽、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネ、ラテン音楽のヒット曲が多数生まれた。日本の“Sukiyaki”こと「上を向いて歩こう」のヒットもその流れに沿ったものだと言えよう。この歌もその一つで、オリジナルは第15回サンレモ音楽祭(1965)で発表された“Io Che Non Vivo (Senza te)”(=I, Who Can't Live (Without You)〜あなたなしには生きていけない私)である。「毎晩独りで淋しい、でもあなたはもっと悲しいはず、…私を残して行かないで、あなたなしでは生きてゆけない、あなたは私のもの…」という内容の情熱的な愛の歌である。ヴィット・パラビチーニの詞に、映画音楽の作曲家として知られるピノ・ドナッジオが作曲したものだ。サンレモでは作曲者ドナッジオ自身とアメリカの女性歌手ジョディ・ミラーがチームを組んで歌い7位に終わった。

ちなみに、この年の優勝曲はボビー・ソロとニュー・クリスティ・ミンストレルズ(アメリカ)が組んだ“Se Piangi, Se Ridi”(邦題「君に涙とほほえみを」)で、このほか、同じくニュー・クリスティ・ミンストレルズとウィルマ・ゴイクが歌った“Le Colline Sono In Fiore”(邦題「花咲く丘に涙して」)が9位にランクされている。7位とはいえ、ドナッジオの歌ったレコードはイタリアのヒット・チャートで1位に輝いた。まずはそのオリジナル盤を聴いてみよう(こちら)。


この年、ダスティ・スプリングフィールドもサンレモ音楽祭に出場していた。イタリア語は解さなかったが、ドナッジオの歌に涙を流すほど感動し、英語で歌いたいと切望するようになった。

66年5月、この作品を英語圏のどのアーティストよりも早く発表するチャンスが訪れるが、肝心の英語の歌詞がない。彼女のプロデューサー、ヴィッキー・ウィッカムは、自分の友人でヤードバーズのマネージャーをしていたサイモン・ナピア=ベルとともに英語詞を作ることを決意する。ところが、二人とも作詞の経験がないうえに、イタリア語の原詞の意味もわからない。結局、原詞にこだわらず、とにかくシャレたラブソングを作ろうとして出来上がったのが、“You Don't Have To Say You Love Me”(愛してると言わなくていい)であった。

When I said I needed you, you said you wolud always stay
It wasn't me who changed but you and now you've gone away
Don't you see that now you've gone and I'm left here on my own
Then I have to follow you and beg you to come home…

あなたが必要だと言ったら いつもそばにいると言ってくれた
変わったのは私ではなく あなた そして今あなたは去ってしまった
あなたがいなくなって 私はここに一人
あなたを追いかけて 戻ってほしいと願う気持ちが 分らないのか

愛してるなんて言わなくていいから ただそばにいて
ずっとでなくてもいい わかっているから
信じてほしい 愛さずにいられない
信じてほしい 縛りつけるようなことはしないから
思い出とともに一人残されて 私の人生は死んだも同然
残されたのは寂しさだけ 何も感じられない…
邦題とはだいぶ趣きの異なる内容だが、昔は歌の歌詞とは関係なく、とにかくイメージや雰囲気で邦題がつけられることがよくあったのだ。だが、やや女々しすぎる印象はあるものの、素人が作ったにしてはなかなか良い歌詞で、情熱的なカンツォーネを少し複雑な感情を表現した歌に仕立て直してあった。


66年といえば、ビートルズが6月に来日、6月30日〜7月2日の3日間5ステージを日本武道館で公演、8月にはサンフランシスコでの公演を最後にライブ活動に終止符を打った年で、エリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースによるスーパー・グループ、クリームが誕生、モンキーズのTV番組「モンキーズ・ショー」がスタート、彼らがデビューした年でもあった。そうした中で、この曲が世界的にヒットしたのは、当時27歳ながら既に20年近くのキャリアを持っていたダスティ・スプリングフィールドの歌唱力と表現力が、曲に一層の魅力を加えたためであったろう。彼女の少し鼻にかかったハスキーな歌声は、ドラマチックな旋律に映え、全英1位、全米4位の大ヒットとなったのだ(こちら)。

蚤助がこの曲を初めて耳にしたとき、当時流行していた他のポップ&ロックとは一線を画すスケールの大きさを感じたものだが、それはちょうど同時期にヒットしていたフランク・シナトラの“Strangers In The Night”(邦題「夜のストレンジャー」)と同様、大人の雰囲気が少しだけわかりかけてきた少年にとって新鮮な感覚を与えるものだった。

ダスティ・スプリングフィールドにとっても自身に大成功をもたらした名曲であったに違いないが、今考えると、ひょっとしてマイナスではなかったのではないかという気もしないではない。愛の終わりを巧みに表現した英語詞とカンツォーネ特有の直接感情に訴えかけてくるメロディという強烈なイメージが、後々まで彼女の歌唱について回ることになったのだ。バート・バカラックの楽曲やソウルフルな歌を得意とした彼女の可能性を、逆に狭めてしまったのではないかと思うのだ。事実、この後、彼女はいくつかのヒット曲を出すものの、極端なスランプを経て薬物依存に陥ったりして音楽界からしばらく離れてしまう。そして、蚤助が久方ぶりに彼女のニュースを聞いたのは、1999年のことで、乳癌で亡くなったという死亡記事であった。

ダスティの歌でこの曲の魅力を知った多くのシンガーが、その後続々とリメイクし、カントリー、R&B、ロックと多種多様なカバー版が誕生するが、中でもやはり70年に録音したエルヴィス・プレスリーがいいと思う(こちら)。


ときめきがもとで起こった不整脈 (蚤助)

#610: 「あなたが私の頭に行く」って…?

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3月が終わると今年も残すところあと9か月、クリスマスである(笑)。東京都心で桜の開花宣言があったばかり、季節外れのハナシでまことに恐縮だが、“Santa Claus Is Coming To Town”(サンタが街にやってくる)というクリスマスの定番曲がある。1934年に作詞ヘイヴン・ガレスピー、作曲フレッド・クーツのコンビによって作られた曲で、出版されるやいきなり40万枚も売れる大ヒットとなってしまった。70年代にジャクソン5、80年代にブルース・スプリングスティーンがヒットチャートに送り込むなど、現在も多くのアーティストによって歌い継がれている。

だが、さすがに今回のテーマはこのクリスマス・ソングではなく、同じ作詞・作曲コンビが書いた“You Go To My Head”と題するスタンダード曲についてである。出版されたのが1938年で、この年の2月、カサ・ロマ・オーケストラとラリー・クリントン楽団という2つの楽団がいみじくも同じ日に録音し、ともにヒットしてポピュラーになった。どちらも売れてメデタシ、メデタシというわけである(笑)。だが、“You Go To My Head”というタイトル、直訳すると「あなたが私の頭に行く」で、何のことだか意味が分からない。まずはどんな歌なのかみてみよう。


You go to my head / And you linger like a haunting refrain
And I find you spinning 'round in my brain / like the bubbles in a glass of champagne
You go to my head / like a sip of sparkling Burgundy brew
And I find the very mention of you / like the kicker in a julep or two…

“You go to my head”、浮かんで消えるリフレインのようだ
脳みその中でぐるぐる廻る シャンパングラスの泡みたい
“You go to my head”、ブルゴーニュ産のスパークリングワインのひと口のようだ
あなたのことがよくわかる ジューレップの中のアルコール分みたいに…
辞書をたよりに調べてみると“Go To One's Head”で、基本的には「酔わせる」「興奮させる」という意味のイディオムだそうだ。道理で酒にまつわる文言がたくさん出てくるわけだ(笑)。

“like a glass of champagne”は「グラスに注いだシャンパンの泡のように」、“like a sip of sparkling Burgundy brew”は「ブルゴーニュ産(醸造所)のスパークリングをひと口飲むように」だし、“the kicker in a jurep or two”という表現の“kicker”は「刺激を与えるもの、カクテルに入れるアルコール分」、“jurep”は「ジンやラムなどの酒に柑橘系の風味を添えたカクテル、バーボンウイスキーに砂糖・ミントを入れたカクテル」のことである。酒にまつわるシャレた表現が多く、洗練された格調の高い歌詞だと思う。

で、“You go to my head”だが、「あなたは私を酔わせる(興奮させる・混乱させる)」、すなわち「脳の髄までジーンとしびれさせる」ということから「あきらめきれない」「忘れられない」という意味が出てくる。「頭を去らぬ君」という邦題もあるようだが、これはさすがに感心できない。「忘れられぬ君」や「忘れ得ぬあなた」とか「あきらめきれないあなた」という題ならばまだ許容できそうだ(笑)。

愛する気持ちを切々と訴える内容だが、そんじょそこらのラブソングと一緒くたにはできない。名フレーズを駆使して思いのたけを表現する。まさに相手をかき口説くといった感じである。面白い表現が上記のほかにも次々と出てくるので、おヒマの方はぜひ歌詞全文の一読をお勧めしたい。

例えば、“Smile that makes my temperature rise, like a summer with a thousand of Julys”(私の体温をぐっと上昇させるあの笑顔、7月が千回もある夏のよう)と身体が熱くなる感覚を“a thousand of Julys”と実に凝った言い方をする。東京にいると「灼熱地獄」のようにそんなに暑いのねとよくわかるのである(笑)。


(Dinah Washington/Dinah Jams)
ヴォーカルだとビリー・ホリデイもいいが、ダイナ・ワシントンの54年のジャム・セッションを収めたスタジオ・ライヴが断然すばらしい。クリフォード・ブラウン、クラーク・テリー、メイナード・ファーガソンによる3本トランペット、マックス・ローチのドラムスなどをバックにダイナの張りのあるヴォーカルが印象的だ。歌詞にある“a thousand of Julys”のような会場の熱気が伝わってくる(こちら)。


(Art Pepper/The Return Of Pepper)
ドラッグ禍で入退院を繰り返していたアート・ペッパーの起死回生の56年の録音。スリリングで美しいフレーズが流れ出る。自らの生命を削り取って音楽を生み出している。暗い情熱、こういうのは恐ろしい演奏である(こちら)。脇を固めるのはラス・フリーマン(p)、ルロイ・ヴィネガー(b)、シェリー・マン(ds)。


(Bill Evans/Interplay)
ビル・エヴァンス、ジム・ホール、フレディ・ハバード、パーシー・ヒース、フィリー・ジョー・ジョーンズの5人による「白熱の」といいたいところだが、熱くはならないクールな名演である(62年録音)。サッカーでいうゴールを狙う細かいパス回しみたいな実験的な内容の演奏で、美しい個人プレイの組み合わせから新しい局面が展開していく瞬間の芸術が捉えられている(こちら)。

さて、桜の季節、いよいよ「春」の到来であるが、報道によると、東京の桜の名所のひとつとして知られている谷中墓地、今年から花見は散策だけで飲食は禁止になったそうである。花見客のマナーの悪さに苦情が数多く寄せられたためという。やむを得ない措置であろうが、桜に罪はない。せめて谷中の桜木に歌ってやろうではないか、“You Go To My Head”と…(笑)。

大役を果たすつもりで桜咲く(蚤助)

#611: Shiny Stockings

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カウント・ベイシー楽団は、1950年代、作・編曲家のニール・ヘフティのペンによってレパートリーの充実が図られたが、もう一人、1953年から10年以上にわたりベイシー楽団に在籍したフランク・フォスター(1928‐2011)の存在も忘れてはならない。同期入団のテナー&フルート奏者フランク・ウエス(1922‐2013)とともに“TWO FRANKS”として活躍したテナー・サックスの名手であり、優秀な作・編曲者でもあった。フォスターは50年代のベイシー・バンドをペンとプレイで支えた重要な人材であった。

以前こちらで紹介したことがあるエルヴィン・ジョーンズとリチャード・デイヴィスの『HEAVY SOUNDS』というアルバムは、フランク・フォスターのプレイを堪能するアルバムとも言えるが、そこでも演奏されていた“Shiny Stockings”という曲は、フォスターがボスのベイシーのために書いたもので、彼の代表作である。AB形式32小節の親しみやすいスイング・ナンバーで、56年1月にベイシー楽団がレコーディングをして広く注目され、以後この名門バンドの重要なレパートリーとなる。まずはその録音を聴いてみよう(こちら)。


(Count Basie/April In Paris)
ミディアム・テンポで、強弱を明確にしながらテーマが引き立つようなアンサンブルになっている。まことに見事な演奏でベイシー楽団に最敬礼である。後半からエンディングにかけてのソニー・ペインのドラミングはビッグ・バンドのドラミングのお手本のようにバンドをプッシュしている。また、途中に入るミューテッド・トランペットのソロは、ジャズの世界ではハンク〜サド〜エルヴィンのジョーンズ三兄弟で知られる次男坊のサド・ジョーンズ(後に自身もビッグ・バンドを率いることになるし、ベイシー翁亡きあとはベイシー楽団を引き継いだ)。

この演奏がなかなか粋ですばらしかったので、ジャズ歌手のジョン・ヘンドリックスが、器楽曲として誕生したこの曲に歌詞をつけてヴォカリーズ化してしまった。デイヴ・ランバート、ジョン・ヘンドリックス、そしてヨランド・べヴァンの男女三人組からなるコーラス・グループ「ランバート、ヘンドリックス&べヴァン」の『At Basin Street East』という62年9月の実況録音盤でそれを聴くことができる。サド・ジョーンズのトランペット・ソロのパートをヨランド・べヴァンがヴォカリーズでなぞって歌うのが聴きどころである(こちら)。

ジョン・ヘンドリックスの書くヴォカリーズの歌詞は、他の作品でも言えることだが、ネイティヴ・スピーカーでなければ理解できそうにもないものだ。しかも早口で歌われることが多いので、英語がかなりできる人でも聴き取ることは難しいだろう。ほとんど翻訳不可能なのだ。特に蚤助にはとても歯が立たない。だが、幸いなことに“Shiny Stockings”にはもう一つ別の歌詞があるのだ(笑)。作詞したのはエラ・フィッツジェラルド、あの大歌手である。63年7月、エラがベイシー楽団とアルバムをレコーディングするとき、彼女自身が歌詞を書いたのだ。今では、ほとんどの女性歌手はこのエラ・ヴァージョンの歌詞で歌うことが多い。


(Ella Fitzgerald/Ella & Basie!)
Those silk shiny stockings / that I wear when I'm with you
I wear 'cause you told me / that you ding that crazy hue
Do we think of romance? / When we go to a dance?
Oh, no! you take a glance at those shiny stockings…

あなたと一緒のとき この絹のきらめくストッキングを穿くの
あなたが 「すごくイカシてる」って言ったから
ダンスに行ったら 恋人同士に見えるかしら
あっダメよ! よそ見なんかしたら
他のシャイニー・ストッキング(「女の子」の比喩)なんか…
この後、「別の若い娘が上等なストッキングを穿いてあらわれ、彼は心変わりをしてしまう。私にはなぜかわからない。でも、そうよ、私も新しい彼氏を見つけなければ、私の絹のきらめくストッキングに心をときめかす人を…」というような歌詞が続く。ding は、「(くどくどと)繰り返し言う」、crazy hue は「狂おしいほどの色合い」で「すごくイカシてる」と訳させてもらった。

エラのこの歌を聴いて楽しい気持ちにならない人は、ほとんどビョーキであるにちがいない(笑)。なおこの編曲はクインシー・ジョーンズによるものである。作曲したフォスターはきっとベイシー楽団のバンドスタンドで、観客席の前列にいるシャイニー・ストッキングを穿いた女の子に見とれてしまったんだろうね。

それにしても女の子ってのも大変だね。コンビニエンス・ストアあたりで売っている普通のストッキングではなく、シルクの上質なストッキングで、好きな人とデートする、というのがオンナゴコロなのだろう。それなのに、ドラマのワンシーンにでも出てきそうなシチュエーションで、ちょっぴり切ないのだが、そこはさすがに“エラ”いもんで(笑)、落ち込む間もなく、私にはもっとふさわしいカレがいるはず、もう他の若い子にうつつを抜かすオトコなんて、ポイしちゃおう、という調子だ。

おんなってわからねぇよと小学生(蚤助)

#612: Waltz For Debby

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前稿で器楽曲として作られた作品が有名になって歌詞がつけられた“Shiny Stockings”をテーマにした。ついでに似たような例をもうひとつ挙げておこう。以前、こちらで、取り上げたことがある“Waltz For Debby”である。

日本で特に人気の高いピアニストの一人がビル・エヴァンス(1929‐1980)だが、この曲は、ジャズ・スタンダード中でも大変に人気のあるナンバーである。1956年の初リーダーアルバム『NEW JAZZ CONCEPTION』でスケッチ風にソロ演奏したものが最初である。エヴァンスの兄の娘(姪)のデビーのために書いたものだ。何度も録音しているが、中でもこの曲をアルバムタイトルにしたヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ盤(1961)の演奏が最も有名である。女性のシルエットをモチーフにしたアルバム・ジャケットも人気の一因であろう。


(Bill Evans Trio/Waltz For Debby)
このライヴ(6月25日)の日から11日後(7月6日)にエヴァンスの相棒で盟友だったベーシスト、スコット・ラファロが交通事故で他界してしまう。天才的なベース奏者であったラファロの遺作としての価値も高いアルバムである。残念ながらラファロとの共演の動画は残されていないようだが、ラファロの後任チャック・イスラエルと演った“Waltz For Debby”があるのでこちらで聴いていただこう。65年のロンドンにおけるライヴだと思われる。アルバムの方もそうだが、前奏はタイトル通りワルツ・タイム、インテンポに入るとフォービートになるのが特徴で、ドラマーのラリー・バンカーは全編ブラッシュでプレイしている。

メロディはプリティで親しみやすく、可憐であり、いかにもエヴァンスらしいリリカルでデリケートな美しさと心地よい躍動感を持っている曲である。この曲に詞をつけたのは、エヴァンスの親友であったジーン・リース。

In her own sweet world populated by dolls and clowns
And a prince and a big purple bear
Lives my favorite girl / Unaware of the worried frowns
We weary grown ups all wear…

その子のかわいい世界には 人形とピエロ
王子様や大きな紫色のクマがいる
そんな世界に住む僕の大好きなその子は
僕たち大人が身につけた疲れ切ったしかめ面など知る由もない…
以下、「太陽の下で、聞こえぬ調べに舞い、金で紡がれた歌を歌う、それはどこか小さな頭の中にあるもの、けれどいつの日か、あっという間に大人になって、人形や王子様、年老いたクマを手放してしまうだろう、彼女が“さようなら”とつぶやいて去っていくとき、置き去りにされた人形たちは涙を流すだろう、けれど、彼女との別れを悲しむ人形たちを心配する僕の方こそ誰よりも寂しくなるに違いない…」と続く。

この歌詞は、他愛がなくてつまらないという批評もあるのだが、子供の成長を見守る肉親の心情が淡いペーソスとともに綴られていて悪くない。最初に、この曲を歌ったのは1964年のジョニー・ハートマンとされているが、同年、スウェーデンを楽旅したエヴァンスが、同国の女性歌手モニカ・ゼタールンドとともに録音したものが異色の名盤として有名になった(こちら)。


(Monica Zetterlund & Bill Evans/Waltz For Debby)
ここでは“Monica's Vals”(モニカのワルツ)としてスウェーデン語で歌われている。「エンケル、バッケル、アー」と歌いだされる(と聞こえる)が、この歌詞は英語詞とは趣きが違ってているようだ。こちらの作詞者はよくわからないが、何を歌っているのかチンプンカンプン。インターネットで検索してみたら、こんな内容を歌っているそうだ。

「シンプルで美しく優しい、それが私のワルツのメロディ、私のワルツのファンタジー、夢の中で歌う、昇る朝日が窓を通して家中に絵を描く、単なる一日が美しい一日となり、新しい世界が来ることを知る、このシンプルで美しく優しいワルツが、二人で過ごした秋と冬を思い出させる、そして今、二人の夏はこのワルツとともにいつまでも…」

ジーン・リースは、ジャーナリスト、雑誌「ダウンビート」の編集者を経て、60年代初めから作詞を始めた。音楽評論、伝記作家の一面もあり、おまけにジャズ歌手としてアルバムも出している。ボサノヴァの泰斗アントニオ・カルロス・ジョビンとの関係は有名である。ポルトガル語で書かれたジョビンの歌詞を、数多く英語詞にしている。もっとも知られているのは、“Corcovado”を“Quiet Nights Of Quiet Stars”として世に出したことであろう。ボサノヴァが英語に訳されることによって世界的なものになったと考えると、ジーン・リースはジャズ、ボサノヴァにとって大きな貢献をした人といえるかもしれない。

ということで、このジーン・リースの歌詞で歌う男女の歌手がピアノ伴奏だけで歌ったものを一人づつ紹介して、この稿を終えたい。

まずは、トニー・ベネットが作曲者エヴァンスのピアノの伴奏で歌ったもの、75年の録音(こちら)。二人ともまだ40代の男盛りであった。もうひとつ、マンハッタン・トランスファーの女性メンバー、シェリル・ベンティーンの歌(こちら)。ピアノの伴奏はケニー・バロン、これもファンタスティックでいいね(04年録音)。“Waltz For Debby”は、今から5〜6年前になるだろうか、日産自動車のCMソングとしてメディアに登場したので驚いた記憶がある。歌っていたのは、ジャズ・シンガーの土岐麻子だった。

なお、56年にエヴァンスに曲を捧げてもらった姪っ子のデビーちゃんは当時2歳だったというから、現在はもう還暦ということになるわけだ。なんだ、蚤助と同世代じゃん(笑)。

火の車知らず欠伸をしている子(蚤助)

#613: Nature Boy

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1947年の夏、ロサンゼルスのリンカーン劇場に出演中のナッキンコール(ナット・キング・コール)の楽屋を一人の男が訪ねてきた。親切にも楽屋に招き入れて歓談したコールは、男が楽屋に置き忘れていった手書きの楽譜を見ると、タイトルは“Nature Boy”とあった。以前、こちらで触れたことがあるが、コールの人生を変えた歌との出会いだった。

ポピュラー・ソングとしては地味な、どちらかといえば渋いバラードだが、今なお愛され続けている。コールの愛唱曲だったこともあってか、彼の夫人マリア(ナタリーの母)がナットの思い出を綴った『ナット・キング・コール』という本の扉にはこの歌の歌詞の一節が引用されている。

実際のところ、楽屋を訪ねてきた男は、楽譜を置き忘れたただの一ファンというわけではなく、コールを見込んでわざわざ楽譜を渡しに行ったのであろう。その男の名は、イーデン(エデン)・アーベ(Eden Ahbez)。1908年、ニューヨークのブルックリンで生まれたが、幼いころ両親を失った彼は、少年時代から全米を放浪し、すべては自然のままでなければならぬ、という哲学を持ったヨガの信奉者であった。ひげも髪も伸びるにまかせ、サンダルを履いて歩きまわった。アルファベットの大文字は神のための文字だといって、自らの名を eden ahbez と小文字で綴っていたという。そのために周囲から奇人扱いされたようだ。いわば元祖ヒッピーともいうべき存在だったわけである。彼は曲を作ることを覚え、46年に書いたのが“Nature Boy”であった。

コールはアーべの書いた“Nature Boy”のスコアを一見したとき、身体中に戦慄が走るほど深い感銘を受けた。イディッシュ(ユダヤ)のエキゾチックで格調の高いメロディと歌詞だったからである。コールはこれをレパートリーに加えたいと考え、ステージで歌ったところ、一夜にして曲の素晴らしさが広まり、レコーディングにこぎつけることとなった。47年8月のことである。一方、行方が知れないアーべを探し回ったところ、映画撮影所のあるハリウッドを象徴するものとして丘に立てられた有名な“HOLLYWOOD”の大看板の“L”の文字のところで野宿をしているのが見つかった、というエピソードが残されている。


(Eden Ahbez)
There was a boy / a very strange, enchanted boy
They say he wandered very far / very far over land and sea
A Little shy and sad of eye / but very wise was he…

ひとりの少年がいた 不思議な魅力を持った少年が
陸や海を越えとても遠いところを彷徨ってきたのだという
少し恥ずかしがり屋で 悲しい目をしていたが とても賢かった…
この後は「そしてある日のこと、魔法の日が訪れ僕らはめぐり合った、僕らは飽くことなく語り続けた、愚か者たちや王様たちについて、彼は僕にこう言った、人生で一番大切なことは人を愛し人から愛されること、それを学ばなくてはならない」と哲学的な内容が続く。

アーべの作品で一般に広く知られているのはこの1曲だけである。当時ラジオ番組の音楽を担当していてその名を知られていたユダヤ人作曲家のハーマン・ヤブラコフの書いたイディッシュの歌を元に、放浪する少年のイメージをアーべが歌にしたものと伝えられている。コールの歌は当初はパッとしなかったが、48年に入って少しずつ人気を呼び、春から大ヒット、ビルボード誌のヒットチャートでは8週連続で1位となりミリオンセラーを記録した。コールが彼のレギュラー・トリオで歌った動画を見つけたのでご覧いただこう(こちら)。

この歌がヒットすると、フランク・シナトラ、サラ・ヴォーン、ディック・ヘイムズなどが吹き込んで、それぞれチャートインしている。61年にはボビー・ダーリンのロッカバラード風の歌(こちら)、77年にはジョージ・ベンソンのブラック・コンテンポラリー風ギター&ヴォーカル・ヴァージョンがヒットしている(こちら)。

インストでは、マイルス・デイヴィスがチャールズ・ミンガスやテディ・チャールズ、エルヴィン・ジョーンズらと吹き込んだ55年の録音(こちら)を思い出すのだが、マイルスのミューテッドプレイはともかく、メンバーが豪華な割には全体に地味でチマチマした演奏なのが残念だ。個人的には、ナッキンコールのヴァージョン以外で、最も好きなのはエラ・フィッツジェラルドとジョー・パスのものかもしれない。76年の録音で、エラおばさんは優しくそっと語りかけ、パスのギターは温かい。感動的なデュオだ(こちら)。

曲を作ったアーべのその後だが、60年に自分自身のアルバムを1枚吹き込んだものの、また姿をくらましてしまう。66年にブライアン・ウィルソンが制作したビーチ・ボーイズの“PET SOUNDS”というアルバムは、アーべの世界に影響を受けたものだったというのは調べていて初めて知ったことだが、そのころまではアーべの消息は分かっていたようだ。結婚して家族もあったようだが、寝袋で公園に寝泊まりするいわゆる「ホームレス」の状態だったという。まさに“Nature Boy”を地でいった存在だったが、1995年に交通事故で亡くなった。


(Eden Ahbez & Nat King Cole)
The greatest thing you'll ever learn is just to love and be loved in return.
人生で一番大切なことは人を愛し人から愛されること、それを学ばなくてはならない
親の喪が明けて少年期は終わる(蚤助)
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