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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#574: 真心こめて

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蚤助の記事に時々登場する“ドゥー・ワップ”(Doo-Wop)は、ご承知のようにポピュラー音楽におけるコーラス・スタイルのひとつである。
“ドゥワップ”、“ドゥーワップ”、“ドゥ・ワップ”とかいろいろ表記されるが、主旋律のメロディ以外は「ドゥーワッ」、「シュビドゥビ」、「ドゥビドゥワ」など意味のない発音でリズミカルに歌うスキャット・シンギングになることから、“ドゥー・ワップ”と呼ばれるようになったのだ。

ドゥー・ワップの基本的なフォーマットはトリオの場合もあるものの、大抵はカルテットかクインテット編成で、ハイ・テナーのリード・ヴォーカル(しばしばファルセット)、よりメロウなセカンド・テナー、バリトンとバスの4パートでラヴ・バラードをコーラスするというスタイルである。
また必ずしも全部というわけではないが、バックが三連符のピアノやストリングスが鳴り響くというのも一応パターン化されている。

ドゥー・ワップは1950年代の半ば頃から1960年代の半ばにかけて流行し、黒人、白人を問わず数多くのコーラス・グループが生まれた。
特段、楽器の習得を必要としないドゥー・ワップ・コーラスは、都会に住む比較的貧しい黒人の若者の間のストリート・カルチャーとしてブームとなったのである。

楽曲の多くはプロのソングライターによるものではなく、シンプルでむしろ陳腐といってもよいほどのラヴ・ソングである。
テンポの早いリズムを強調した曲やコミカルな歌もあった。
アーティストの多くは素人同然で、小遣い稼ぎのためにステージに立ったり、レコードを制作したりしていたので、残されている楽曲も玉石混合である。
その中から、プラターズ、ドリフターズ、ムーングロウズ、オリオールズなどという実力も人気も兼ね備えたグループが生まれた。
彼らは高い音楽性を打ち出して成功を収めたのだった。
もっとも、この種の音楽に特に関心のない人には、どれも同じように聞こえるに違いない(笑)。
いずれにしても、ドゥー・ワップは、ロックンロールとともに、当時の若者文化、流行の一翼を担ったのである。


ロックンロールの生みの親ともいわれる伝説的DJ、アラン・フリードがバックアップした黒人5人組のムーングロウズが、1954年に録音した“Sincerely”は名作として名高い(こちら)。


(The Moonglows)
このドゥー・ワップのスタンダードは、そのアラン・フリードとムーングロウズのメンバー、ハーヴェイ・フクアの共作で、歌ったグループ名と曲名からしてリスナーを魅了するものだった。
何しろ“Moonglows”(月の光たち)と“Sincerely”(真心こめて)なのだから…(笑)。

Sincerely, oh yes, Sincerely
'Cause I love you so dearly
Please say you'll be mine

Sincerely, oh you know how I love you
I'll do anything foy you
Pleaee say you'll be mine…

心から そう 心から
僕のものになるって言ってほしい
こんなに君を愛しているから

知っての通りさ どんなに愛しているか 
君のためなら何でもするさ
どうか僕のものになると言って…
という実にシンプルな歌なのだが、粘っこくもソフトなリード・ヴォーカルに絡みつくような“バウン〜バウン”という低音パートがなかなか魅力的である。
泥臭いけどスイートだというちょっと不思議な歌であった。

♪ ♪
ロックンロールの熱狂がアメリカ全土に広がったのは1956年、エルヴィス・プレスリーが大手レコード会社のRCAに移籍してからのことだが、その前後、昔ながらの現象が起こる。
黒人の音楽で全盛だったドゥー・ワップ・コーラスのヒット曲を白人のグループがカヴァーして、全米級のヒットを出すというやり方である。
ジャズもそうだったし、ブルースやロックの世界でもそうだった“黒人が造り白人が売る”という構図が、ここでも再現されるのである。

“Sincerely”はムーングロウズの出世作であり大ヒットであるが、白人の美女三姉妹マクガイア・シスターズがそれを素早くカヴァーし、ムーングロウズのオリジナルをしのぐ成功を手にするのである。


(The McGuire Sisters)
マクガイア・シスターズは、往年のボズウェル・シスターズやアンドリュース・シスターズの流れを汲む女性コーラスで、55年にこの“Sincerely”を歌ってナンバー・ワン・ヒットとする(こちら)。
元々女性コーラスでも映える曲であったが、マクガイア・シスターズ版は、なかなかパンチが効いていてしかもキュートであった。
この時代の白人女性コーラス・グループはシングル用にR&Bのカヴァーを歌い、アルバムでは主としてポピュラー曲を取り上げるというセールス戦略が定着していた。
だが、マクガイア・シスターズはただのパクリ以上の魅力と実績はきちんと残していて、後のポップやR&Bのガールズ・グループの原型ともなっている。

♪ ♪ ♪
“Sincerely”は「真心を込めて」とか「誠実に」「心から」とかの意味である。
昨今の企業不祥事には、トップが雁首を揃えてカメラの前で頭を下げているシーンが繰り返されている。
世の中には、お詫び会見の際のアドヴァイスなどを行う危機管理の専門家やコンサルタントまでいるようだが…。

心からお詫びするのにリハーサル (蚤助)
こんなんでは、“Sincerely”とはほど遠いとおもうのだけど…。

#575: パール

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“SUMMERTIME”は、1935年の黒人フォーク・オペラ“PORGY AND BESS”の開幕まもなく披露される曲である。
初めてこのオペラを観たとき、こんな有名な楽曲がオープニングの方で使われていたのかとちょっと驚いた記憶がある。
「夏は楽しい、魚は元気、綿花も育つ…だからお眠り」と漁師の妻が赤ん坊をあやす子守歌である。
作詞は原作者デュボース・ヘイワード、作曲はジョージ・ガーシュウィン。
ガーシュウィンはニグロ・スピリチュアル(黒人霊歌)“SOMETIMES I FEEL LIKE A MOTHERLESS CHILD”(邦題「時には母のない子のように」)にインスパイアされて書いたといわれている。

最初のレコード・ヒットは、“PORGY AND BESS”が発表された翌36年、ブルージーに歌ったビリー・ホリデイの録音である(こちら)。
この歌、どことなく憂いにあふれた暗い楽曲のような印象が強いが、多分それはこのビリーのブルージーな唱法にあったのだと思う。
ジャズ、ブルースはもとより、R&Bなどのブラック系のカヴァーが多く名唱・名演も数多いが、ロック・ヴァージョンではやはりジャニス・ジョプリンを擁したビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの1968年の録音が代表的なものであろう(こちら)。


(BIG BROTHER & THE HOLDING COMPANY/CHEAP THRILLS)
現在では“SUMMERTIME”といえば、誰もがジャニスの歌声を想起するのではあるまいか。
絶唱であることは確かで、蚤助も初めて彼女の歌声を聴いたときは鳥肌が立ったのをよく覚えている。


1966年、ビッグ・ブラザー持株会社(ホールディング・カンパニー)のヴォーカリストとして突然彗星のようにロック界に登場したジャニスは、翌67年夏のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルで燦然と輝くロック・スターの座についた。
この時のドキュメンタリー映画「モンタレー・ポップ」には、観客席にいてジャニスの荒々しい歌を聴いていたママス&パパスのママ・キャスことキャス・エリオットが“Wow, that's really heavy !”と呟く場面が出てくる。
ジャニスが歌ったのはビッグ・ママ・ソーントンの“BALL AND CHAIN”であった。

ジャニスは1968年の年末にソロ活動を始めるが、なかなか思うようなバック・バンドに恵まれず、1970年になってようやく理想のバンド、フル・ティルト・ブギーと巡り合い、アルバムを制作することになった。
それがジャニスのニックネームをタイトルにした“PEARL”である。


(JANIS JOPLIN/PEARL)
だが、ジャニスはこのアルバムを録音中の70年10月4日、宿泊していたハリウッドのホテルの一室でドラッグ禍により27歳の人生を終えてしまったのだ。
“PEARL”はジャニスの遺作となった。

70年から71年にかけて、天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスや、ドアーズのジム・モリソンが急死するなど、ロック界には大物ミュージシャンの訃報が相次ぎ、いずれも享年が27歳だったことから、当時「呪われた27歳」とか「ロック界の厄年」という話題で持ちきりだった記憶が蚤助にもある。

アルバム“PEARL”は、ジャニスが歌うはずだったパートをそのままにインスト・ナンバーとして収録し、翌年の71年1月にリリースされた。
死という悲劇もあるが、収録された楽曲はどれも強く印象に残るものばかりで、ジャニスの代表作と呼ぶのに相応しいアルバムとなっている。

♪ ♪
アルバムの冒頭は“MOVE OVER”(邦題「ジャニスの祈り」)で、ジャニスの自作曲(こちら)。
ジャニスの迫力に圧倒されるが、ドラッグとアルコールの大量摂取、自由を謳歌しているようで閉塞感を打破できない、そんな彼女の心が投影されているような歌だ。

You say that it's over baby
You say that it's over now
But still you hang around
Now come on won't you move over…

もう終わったって言うのね
終わったって
でもまだあんたはつきまとってる
さあ もう出て行ってくれない…
「アタシには男が必要」、「アタシの恋人になるか、それとも出ていくか」と男に決断を迫っている。
“MOVE OVER”は直訳すると「消えな」という感じだろうか、自分を利用する男たちへの怒りを込めた歌である。

♪ ♪ ♪
7曲目に収められたのが“ME AND BOBBY McGEE”で、ジャニスと同郷テキサス出身のシンガー・ソングライター兼俳優のクリス・クリストファーソンが69年にフレッド・フォスターと共作した曲である。
カントリー歌手のロジャー・ミラーが歌ってヒットしたが、“PEARL”に収録されたジャニスの歌は、死後シングル・カットされると初の全米1位を記録することになる。
ジャニスはこの曲のヒットを知らぬまま世を去ったのだ。

Busted flat in Baton Rouge, waitin' for a train
And I'm feelin' near as faded as my jeans
Bobby thumbed a diesel down just before it rained
It rode us all the way into New Orleans…

列車を待ちながら バトン・ルージュでへこんでいた
俺は色あせたジーンズのような気分だった
ボビーは親指を立てトラックを止めた ちょうど雨が降る前だった
乗せてもらって二人が向かう先は ニューオーリンズだった…
素朴な旋律、シンプルなコード進行にのせて“俺とボビー・マギー”の放浪の旅が始まる。
バトン・ルージュはルイジアナ州の町だが、そこからニューオーリンズ、ケンタッキーの炭鉱町、太陽が降り注ぐカリフォルニアのサリーナスへと旅する2人を描いている。

ジャニスのレパートリーとしては異色だが、生ギターをフィーチャーしたフォーキーな仕上がりである。
テキサス娘らしい伸びやかでエネルギッシュな嗄れ声の奥に優しい女性らしさがにじみ出ているすばらしい歌唱だと思う(こちら)。
原曲の方は、ボビー・マギーは女という設定なのだが、ジャニスは“He”と男として歌っている。
“Bobby”というのは男女どちらにもある名前なのだ。

この曲の中に“Freedom's just another word for nothin' left to lose”(自由ってのは失うものが何もないということさ)という箇所があるが、とても印象に残るフレーズである。
続く“Nothin', that's all that Bobby left me”(何もない、ボビーが残してくれたのはただそれだけ)というのが泣かせる。

♪ ♪ ♪ ♪
8曲目が“MERCEDES BENZ”(邦題「ベンツが欲しい」)、ビートニク詩人マイケル・マクルーアの詩の一節を気に入ったジャニスが、それを使って仲間のボブ・ニューワースと共作した歌で、マクルーアには電話で歌って聞かせて、詩の使用の承諾をもらったという。

Oh lord, won't you buy me a Mercedes Benz?
My friends all drive all Porches, I must make amends
Worked hard all my lifetime, no help from my friends
So oh Lord won't you buy me
A Mercedes Benz…

神様 ベンツを買って
友だちはみなポルシェに乗っている アタシも改心しなくちゃ
これまでずっと働き通し 友だちの助けなんて借りないでさ
だから 神様 私にベンツを買って…
伴奏はなく、ジャニス自身がリズムを取る音と淡々としたハスキー・ヴォイスの歌声だけの録音である。
もともと発表予定のない音楽仲間の内輪向けの曲だったが、ジャニスの死後、音源を聴いた仲間たちがアルバムに加えたものだった。

ジャニスの死の直前の10月1日、録音スタジオに現れた彼女は、“I'd like to do a song of great social and political import. It goes like this”(これから社会的、政治的に重要な歌を歌いたい、こんな歌だよ)と宣言しながら歌い始める(こちら)。
真偽は明らかではないものの、ジャニスが遺体で発見されたとき、その手に現金4ドル50セント握りしめていたという話がある。
アカペラで足で拍子をとりながら独唱する声を聴くと、何だかどこか悲劇を暗示していたかのような気もしてくる。

この曲は、こんな彼女のつぶやきで終わる。
“That's it !”(おしまい、ヒャハハハハ!)
3日後、ジャニスは死んで本当の伝説になった。


(JANIS JOPLIN)
おしまいになるとせわしい砂時計 (蚤助)

#576: ショーシャンクの空に

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フランク・ダラボンが監督・脚本を担当した『ショーシャンクの空に』(The Shawshank Redemption‐1994)は、刑務所の所長や看守の暴力や虐待、囚人同士のいじめや友情、脱獄などのお膳立てが揃っていて、典型的な刑務所もの(?)として面白く仕上がっていた。

無冠に終わったもののアカデミー賞7部門にノミネートされたこの秀作が、公開当時は、興行的に当たらず赤字だったというのは信じ難い話である。
この年『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス監督)、『パルプ・フィクション』(クエンティン・タランティーノ監督)、『スピード』(ヤン・デ・ボン監督)などの話題作と公開時期が競合したことが災いしたようだ。

ところがDVD化されると人気が出始め、現在では「好きな映画」や「感動する映画」のアンケートやランキング調査などでは必ず上位に入る人気作品となっているのだから不思議なものである。

原作はスティーヴン・キングの「刑務所のリタ・ヘイワース」という170ページほどの中編小説で、新潮文庫の「ゴールデンボーイ」に入っている。
キングのホラー作品は怖すぎるのであまり読まないのだが、タイトルに惹かれて読んだのである。
この「恐怖の四季」という作品集はホラーの要素は少しあるものの、どちらかと言えば奇妙な味のする作品集で、姉妹作品に当たる「秋冬編」にはあの「スタンド・バイ・ミー」の原作も収められている。


1947年、成功した銀行員アンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)は、妻とその不倫相手の射殺容疑で逮捕される。
裁判で無実を主張するが、終身刑の判決が下され、ショーシャンク刑務所に投獄されてしまう。
この刑務所は、所長のノートン(ボブ・ガントン)が絶対的な権力を振るい、囚人たちを支配していた。
そして、看守長ハドリー(クランシー・ブラウン)が先頭になった囚人に対する虐待や、囚人同士の諍い、暴行が日常的に行われていた。
初めは戸惑い、孤立していたアンディだったが、決して希望を捨てず、未来の自由を信じていた。

そんな中、日用品やタバコなど何でも外部から調達してくる“調達屋”レッド(モーガン・フリーマン)と知り合う。
アンディ同様終身刑を宣告されているレッドは仮釈放が認められず、20年以上も服役していた。
アンディは少しずつ他の囚人とも馴染んで、レッドとの交流も深まっていく。
彼は元銀行員の経歴を発揮し、刑務所内の環境改善に取り組み、やがてレッドや他の囚人からの信頼を高めていく…

アンディがレッドから調達してもらう映画女優のポスターが、リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー、ラクエル・ウェルチと変わって行くことで年月の経過を物語っているのが面白いし、主人公のティム・ロビンス、映画の語り手役となるモーガン・フリーマンほか、共演者がそれぞれ良い味を出している。
特に、半世紀もの間収監されていて図書係を務める老囚人ブルックスを演じたジェームズ・ホイットモアが、地味だけれどもとても良かった。


(ジェームズ・ホイットモア)
あまりに長く収監されていたため、仮釈放されても世間に馴染むことができず自死してしまう悲劇を上手に表現していた。

ブルックスの死を知ったレッドはこう言う。
「収監されると、初めは刑務所の塀を憎み、やがてその塀に慣れ、そのうちに塀に頼るようになる」

そのレッドは、アンディから「なぜレッドと呼ばれているんだ」と訊かれて、「アイルランド系だからさ」と答えるのが笑える。
フリーマンはアフリカ系アメリカ人なので、人種をネタにした一つのジョークになっているわけである。
もっとも、原作でのレッドは本名のレディングにちなんだニックネームだということになっている。

この映画、あちこちに含蓄のあるセリフが出てくるので、蚤助のようにネタ探しをしている者にとってはなかなか楽しいのだ。


やがて、その教養に注目され図書係になったアンディは、スピーカーで所内に「フィガロの結婚」のアリアを流し懲罰を受ける。
レッドと懲罰房から戻ってきたアンディとのやり取りである。

「2週間懲罰房にいて快適だったと?地獄だったろう」
「音楽を聴いていた」
「穴蔵でレコードを?」
「頭の中でさ、心でも。音楽は決して人から奪えない。そう思わないか?」
「昔ハーモニカをよく吹いていたが、入所してから興味をなくした」
「心の豊かさを失っちゃだめだ。人間の心は石でできているわけじゃない。心の中には何かがある。誰も奪えない何かがある。君の心にも」
「いったいそれは何だ?」
「希望だよ!」
「希望は危険だぞ。正気を失わせる塀の中では特にな」

もうひとつ、アンディの尽力で図書室に新しい本が増えることになり、みんなで仕分け作業をしている。

「“宝島”。ロバート・ルイス・スティーヴンソン」
「冒険ものだ」
「自動車の修理の本、石鹸彫刻の本」
「教育図書だ」
「“モンテクリスト伯”、著者は…アレグサンドリ・ダマス」
「アレクサンドル・デュマだ。内容は脱獄のハナシだ」
「それは教育図書に分類すべきだ」

アンディは金融の知識を生かして、看守の税務や投資相談をやりはじめ、所長の会計係まで担当するようになっていく。
そして、やがてアンディの殺人事件の真犯人が別にいることが明らかになるのだが…。
キングの原作ではその犯人は「スタンド・バイ・ミー」で主人公の親友クリスを刺殺した人物と同一だという設定になっている。

やはり鑑賞後の後味がよい秀作というべきであろう。

権力とタマゴ中から腐りだす (蚤助)

#577: Gee Baby…

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1920年代から30年代にかけて、作編曲家、歌手、サックス奏者、バンド・リーダーとして活躍した才人ドン・レッドマンの作った曲に“Gee Baby, Ain't I Good To You”(1929)という作品がある。
詞をつけたのはアンディ・ラザフ
40年代になって、ナット・キング・コールがトリオを率いていた頃歌ってから、広く一般に知られるようになった。

Love makes me treat you the way that I do
Gee baby, ain't I good to you?
There's nothing in this world too good
For a girl so good and true
Gee baby, ain't I good to you?…

愛がボクをこんなに君に奉仕させる
ねえベイビー ボクは君に良くしてやってるよね

君のような女の子には 何をどうしても尽くしきれない
ねえベイビー ボクは君に良くしてるよね…
“Gee”というのは、アメリカ英語(俗語)における呼びかけの間投詞で、“ねえ”、“おい”、“おまえ”、“おや”、“へえ”、“ちぇ”とかのニュアンスで、どうやら“Jesus”の婉曲的な表現らしい。
“ain't”というのは歌詞などによく出てくる表現だが“am not”の略語である

“ボクでは不満かい? クリスマスには毛皮のコート、ダイヤの指輪、でっかいキャデラック、何でも買ってやったよね、それでもダメなのかい…”という男の心情が歌われている。
金に飽かして高価なものをプレゼントして女性の気を惹き口説くわけだが、曲が作られた当時のアメリカは大不況のさなかだっただけに、現実はともかく、せめて歌くらいは景気よくパーッと行こう、という雰囲気だったのだろう。
一度はこんな風に扱われてみたいと思うのか、どちらかといえば女性歌手に名唱が多いというのも頷ける。
スタジオやライヴなどで何度も録音しているビリー・ホリデイ、貫禄十分に歌うローズマリー・クルーニー、落ち着いたムードでピアノもファンキーなダイアナ・クラールなど、いずれも名唱で印象に残る。


(Peggy Lee/Black Coffe)
忘れてはならないこちらは、ペギー・リーの名盤“Black Coffee”に収録されているものだが、ハスキー・ヴォイスで語りかける彼女の歌は夜のムードで魅力的である。

ただ、女性歌手の場合には、自分の願望としてリッチな夢を歌っているということもあるかもしれないが、なんだか痛々しい感じがするところもあって、蚤助としては基本的に男性ヴォーカルをお薦めしたい(笑)。
とくれば、やはりジャイヴ感にあふれたナット・キング・コールの歌が一番である。
若々しいコールのヴォーカルにオスカー・ムーアのギターが絡む(こちら)。

また、オスカー・ピーターソンの伴奏で、ルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドが共演しているものが楽しい仕上がりである(こちら)。


(Ella Fitzgerald & Louis Armstrong/Ella & Louis Again)
インストも名演は多いが、蚤助の目下の愛聴盤は、ケニー・バレルの“Midnight Blue”(冒頭画像)におけるブルース・フィーリングにあふれたギター・プレイである(こちら)。

この歌、メジャーコードとマイナーコードがくるくる変わるせいなのか、ペーソスがあるけれどもどこか明るいムードを感じさせるところがミソである。

有り余る物に囲まれ出る不満 (蚤助)

#578: パパ・ジョーの悲劇

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ジョナサン・デヴィッド・サミュエル・ジョーンズ(1911-1985)は、シカゴ生まれで、本名の頭と尻を取って、ジョー・ジョーンズと名乗るようになった。
彼は本業のドラムスのほかいろいろな楽器をたしなみ、タップ・ダンスもマスターしながらキャリアを積んでいった。
やがてドラマーとしてベース奏者のウォルター・ペイジのバンド“ブルー・デヴィルズ”に参加したが、このバンドはそのままカウント・ベイシーのバンドに引き継がれた。

バンド・リーダーでピアノのカウント・ベイシー、ギターのフレディ・グリーン、ベースのウォルターペイジ、それにドラムスのジョー・ジョーンズの4人は、初期カウント・ベイシー楽団の屋台骨を支えたリズム・セクションであり、その素晴らしい演奏に“All American Rhythm Section”という敬称がつけられるようになる。
彼らはアメリカにおける音楽上の歴史的遺産ともいうべき伝説的な存在になり、ジョー・ジョーンズも、スイング・ジャズ時代を代表する名ドラマーになったのである。
冒頭画像の彼のバスドラムに“CB”の文字が見えるが、これは当然“カウント・ベイシー”の頭文字である。


後年、50年代にマイルス・デイヴィスが率いた「黄金クインテット」のリズム隊、ピアノのレッド・ガーランド、ベースのポール・チェンバース、ドラムスのフィリー・ジョー・ジョーンズの3人も“All American Rhythm Section”と呼ばれるようになり、フィリー・ジョーがモダン派ドラマーとして活躍するようになると、ジョー・ジョーンズは混同されるようになる。
そこで、音楽仲間はフィリー・ジョーと区別するため、大先輩のジョーの方を“パパ”の愛称で呼ぶようになった。
もちろん年長者ということだけではなく、ドラミングの『父』というリスペクトも込められていたのであろう。

パパ・ジョーのドラミングは正確無比で、シンプル、いつも笑顔を絶やさずニコニコしながらプレイをするので、ベイシー楽団の顔と言われる存在であった。
まずは、そのパパ・ジョーの楽しい至芸のドラム・ソロの一端をこちら(パート1)とこちら(パート2)で楽しんでいただきたい。

♪ ♪
ジャズ・ドラムにブラッシュ奏法というものがある。
スティックの替わりにブラッシュ(ブラシ)を使うのだが、ジャズ以外の音楽ジャンルではあまり使われることはない。
ジャズでは必須の技法であるが、繊細さとテクニックが必要である。
ブラッシュワークをうまくこなせればとりあえずはジャズ・ドラマーとして一人前であろう。
スロー・ナンバーでは、打面を円を描くようにこすりながら演奏をするし、早いテンポではスインギーに素早く叩く。
トコトコ、ガサガサ、シャカシャカ、ワサワサとブラッシュと革やシンバルがこすれる音が面白い効果をあげる。

パパ・ジョーは、タイムキープの役割をバスドラムからハイハットに担わせるようにし、ブラッシュ奏法を革新して積極的に使うようにしたドラマーで、ブラッシュワークの名手でもあった。
彼のブラッシュ奏法を堪能できるアルバムが“JO JONES TRIO”である。
レイ・ブライアントのピアノ、トミー・ブライアントのベースというブライアント兄弟を従えてパパ・ジョーがブラッシュでグイグイ引っ張っていく。
“EVEREST”という弱小レーベルに録音され、ほぼ幻の録音となっていたものの復刻アルバムで、蚤助の学生時代(もうかれこれ40年ほど前)に確か千円前後の廉価盤シリーズとしてリリースされたものを嬉々として入手したものだった。

ここでのパパ・ジョーのブラッシュは音楽というよりも人間が生み出す生命力、躍動感というようなものを感じさせるが、それはどこかスポーツ観戦などでスーパープレイを目の当たりにした時の感動に近いものがある。


(Jo Jones/Jo Jones Trio)
[Side A] 1. Sweet Georgia Brown / 2. My Blue Heaven / 3. Jive At Five / 4. Green nsleeves / 5. When Lover Has Gone / 6. Philadelphia Bound
[Side B] 1. Close Your Eyes / 2. I Got Rhythm I / 3. I Got Rhythm II / 4. Embraceable You / 5. Bebop Irishman / 6. Little Susie

パパ・ジョーの変幻自在なリズムと、優しいビート…そう、それである。
スウィングがモダン・ジャズと大きく違うのは、この「優しいビート」であろう、リスナーを楽しませ踊らせてナンボ、という世界で生きてきた音楽である。

このアルバムの録音は1959年3月、スウィング時代はとうに歴史の彼方、ジャズの世界ではすでにビバップからハードバップへと移り、モードジャズに突入するあたりなのだが、パパ・ジョーは30年代のスウイング感覚でパーカッシヴなリズムの万華鏡を披露し、そこにモダン・フィーリング一杯のレイ・ブライアントが絶妙に対応するという仕掛けになっている。

アルバム冒頭の“Sweet Georgia Brown”からして強烈である。
ドラムスとピアノのシンプルなテーマ部分からスタートし、アドリブ部分になるとパパ・ジョーのブラッシュワークが炸裂する。
ドラムセットのあらゆる部分を駆使、一人のドラマーが叩いているとは思えないようなプレイである。

また“Jive At Five”は、ベイシーとハリー“スウィーツ”エディソン共作の名曲だが、これを聴いて身体が揺れてこない人はいないだろう。
パパ・ジョーのブラッシュは控えめで絶妙、レイのピアノは音符の数が多いベイシー・スタイル(笑)、トミーの刻むベースも心地よい。

さらに“Philadelphia Bound”は、筆舌に尽くしがたい。
パパ・ジョーのブラッシュはスウィンギーでドライヴ感にあふれ、凄まじいほどの疾走感だ。
ブラッシュ奏法による一曲と言われたら、蚤助はこのナンバーをイチオシにしたい、それほど強烈で痛快な演奏である。

そして“I Got Rhythm II”もアクセル全開の演奏である。
パパ・ジョーのドラミングに鼓舞されてレイのピアノは冗舌なカウント・ベイシーという感じである。

♪ ♪ ♪
パパ・ジョーの妙技が聴けるアルバムをもう一枚挙げよう。
かつてのベイシー・バンドでの盟友レスター・ヤングと共演した“Pres And Teddy”(1956)である。
ベイシー・バンド時代のインスピレーションはすでに失われたとみられていたレスター・ヤングが、その晩年にみせた最後の名演が記録されている名盤である。
スウィングの優しさとアドリブの創造性が見事に発揮された感動のアルバムである。
おそらくテディ・ウィルソンのピアノがレスターに刺激を与えたのであろう。
二人の呼吸はピッタリで、パパ・ジョーのブラッシュワークも美しい。
パパ・ジョーは全てのナンバーでブラッシュを使い、プレイは控えめだが、絶妙なスウィングビートを生み出している。
「円熟」とはこのアルバムにこそふさわしい言葉であろう。
このアルバムからガーシュウィンの遺作“Our Love Is Here To Stay”をどうぞ。

♪ ♪ ♪ ♪
パパ・ジョーは1985年に亡くなったが、晩年は自分の音楽的功績が正当に評価されないことに随分悲嘆にくれていたそうだ。

で、ここからが本稿のテーマ“パパ・ジョーの悲劇”のオハナシの始まり…

大木トオルといえば、現在ではむしろ高齢者や障がい者に対するセラピー犬の普及活動の方が有名になっているが、元々はブルース・シンガーである。
鞄一つと古いギターを抱えて単身渡米して、ハーレムに居を据え、日本人として黒人社会の中でブルースの魂に触れようと苦闘した様子を自著「伝説のイエロー・ブルース」(講談社文庫)に記している。
この本、次々と出て来るミュージシャンをはじめとした人物名に誤記と思われる部分が散見され、蚤助はとても気になってしまったのだが、それはそれとしても内容の方はなかなか興味深く読ませてもらった。


(大木トオル/伝説のイエロー・ブルース)
この本の中に、後期オスカー・ピーターソン・トリオのドラマーだったルイス・ヘイズに紹介されて、パパ・ジョーのアパートを訪ねるくだりが出てくる。
少し長いが引用させてもらう(同書283〜5頁)。

 アパートは、64丁目の古ぼけたビルにあった。4階Aが彼の部屋番号で、階段をのぼるとき、薄汚れた天井を見上げて何となく不安な予感がした。
 ドアをあけ――いや、ドアに鍵はかかっていないから、だれでも自由に入れるのだが――紹介されて私が自分の名前を名乗ると、無精ヒゲを生やした白髪まじりの老人がベッドからよろよろと起き上ってきた。汚れたナイトガウンにプンと鼻をつくアルコールの匂い…。昼間から老人は酒をあおっているのだった。眼はどんよりと黄色く濁って、久しくシャワーをあびていないのか、黒人特有の体臭が匂った。
 私は自分の予感が正しかったのを知った。これがあの名ドラマー、ジョー・ジョーンズの成れの果てなのか。ワンルームにベッド一つ、こわれた白黒テレビ、小さなラジオ。それだけが“パパ”ジョー・ジョーンズの所帯道具である。

大木氏でなくとも目を疑いたくなる光景である。

私はこの“生きているジャズの歴史”に関心を抱いて、その後、暇をみつけてはジョー・ジョーンズのアパートを訪ねた。かつての名ドラマーがなぜこんな貧しい生活に甘んじているのかが、気がかりでならなかったからだ。“パパ”ジョーのレコードは、いまもレコード店にならび、そのアルバムはロングセラーをつづけている。

大木氏の疑問にヘイズが答える。
「教育もなく、文字の書けない黒人の名ドラマーは、マネージャーやレコード会社のお偉方から一時金やピカピカ光るキャデラックをあてがわれて、印税契約をしなかった。そのために、彼のレコードの売り上げはすべて会社のものになり、いまでも1セントたりとも彼の懐に入ることはない」のだと。

 私に自慢するためか、あるとき訪ねてみると、レスター・ヤングとの共演レコードが棚に飾られていたことがある。「どうしたんですか」と私が訊ねると、「これがオレなんだよ」とジャケットに写った黒人の若いドラマーを指さした。
 だが、レコードを買ったとしても、それを聴くステレオが部屋にはない。生活保護のわずかな金のなかから、1ドル59セントでセールの自分のレコードを買い、じっとそれを見つめる黒人の元ドラマー―――。背後に立っていて、私は何ともやり切れない想いに駆られた。この老いた黒人はその無知につけこまれ、搾取され、差別され、そして捨てられたのだ。

ハーレムに入り込んで暮らしはじめ、ミュージシャン仲間から信頼されるようになった一人の日本人が遭遇したあまりにも悲しい事実に愕然とさせられた。
おそらくパパ・ジョーが亡くなる数年前のことなのであろう。
「黒人が創造し白人が売る」というのはアメリカの音楽界の常識である。
だがこんな悲劇を知ると、哀しすぎて怒りを覚えるほどである。

 ジョー・ジョーンズの目がうるんでいた。ノロノロと身体を動かし、ベッドカバーの下からドラムをたたく二本のブラシを取り出した。手が自由に動かないいまとなっても、このブラシだけは手放せないのだろう。 
「お前さんは何もわかっちゃいない」
 刻み込まれた深い皺をつたわって、涙が頬に流れた。“パパ”ジョー・ジョーンズは私の存在を忘れて、子供のように泣きじゃくっていた。そして二本のブラシを握りしめながら、コブシで涙をぬぐった。私は何もいえずに、突っ立ったままだった。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪
パパジョーの悲劇セピア色のドラマ (蚤助)

#579: 不朽のラヴソング

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全米ヒット・チャートで、いずれも異なったアーティストが10回もランク・インさせたという曲があるそうで、リバイバルの最多回数記録だという。
タイトルはかの“UNCHAINED MELODY”である。

日本では未公開だが、“UNCHAINED”(1955)という映画のために、作詞ハイ・ザレット、作曲アレックス・ノースの手で作られた。
劇中ではガーシュウィンのフォーク・オペラ“PORGY AND BESS”(1935)のオリジナルの上演で主役のポーギーを演じたことで知られる黒人バリトン歌手トッド・ダンカンが歌ったという(こちら)。
この曲、アカデミー主題歌賞にノミネートされたが、“慕情”(Love Is A Many-Splendored Thing)にオスカーをさらわれてしまった。

Oh, my love, my darling
I've hungered for your touch
A long, lonely time
And time goes by so slowly
And time can do so much
Are you still mine?
I need your love, I need your love
God speed your love to me…

ああ僕の愛する人、愛しい人
僕はずっと君に触れたかった
長いことひとりぼっち
時は遅々としか進まない
君のことを考える時間はたっぷりあった
君はまだ僕のものかい?
君が欲しいんだ
僕への愛が成就するように願っている…
最後のセンテンスの“speed”という動詞は「成功させる」「繁栄させる」という意味の古い用法のようで、辞書には“I wish you good speed”で「成功を祈る」と出ているし、さらに“good speed”から派生した“godspeed”を「道中安全(成功)(の祈願)」の意味だとしているので、「僕への愛が成就するよう願っている」と訳させてもらった。

昔から不思議に思っていることなのだが、この曲、タイトルが“UNCHAINED MELODY”だというのに、歌詞の中には“UNCHAINED”(解放される、自由な)という文言やそれを匂わすような表現が出てこない。
レイ・チャールズの“UNCHAIN MY HEART”のように「僕を自由にしてくれ、君は縛りすぎるんだ」というならよくわかるのだが、この曲はタイトルと歌詞が結びついていないのだ。

そもそも映画を見ていないので、何とも言えないのだが、刑務所を舞台にしたB級の社会派作品(ホール・バートレット監督)で、囚人が妻や家族のもとに戻りたい一心で脱獄を考え苦悩するというオハナシだったようだ。
そうであれば“君に触れたくてたまらない”という歌詞が、遠く離れた妻や家族に思いをはせる囚人を象徴し自由と愛を求める心情を物語っているのかもしれないし、単に“UNCHAINEDのテーマ”と解釈しておけばいいだけかもしれない。

レコードでは、映画公開の年に、デューク・エリントン楽団で名を挙げた盲目の黒人歌手アル・ヒブラーの朗々とした歌唱(こちら)や、レス・バクスターのオーケストラとコーラス(こちら)など、多くのアーティストの共作となりランキングを競った。
ヒブラー盤とバクスター盤はどちらもトップ5入りしミリオン・セラーとなっている。


(デューク・エリントンとアル・ヒブラー)
しかし、このナンバーをロック時代になっても通用する不朽のラヴ・ソング、スタンダード・ナンバーとしたのは、疑いもなくクリエイティヴだったプロデューサー、フィル・スペクターの手掛けた白人ソウルデュオ“Blue Eyed Soul”のライチャス・ブラザーズの功績であろう。
曲が世に出た10年後の65年に、リバイバル・ヒットさせた(こちら)。
ライチャス・ブラザーズといえば、背の高い低音担当のビル・メドレーと、背の低い高音担当のボビー・ハットフィールドのヴォーカルの絡み合いが醍醐味だが、この曲はボビーのソロなのであった。
相方のビルの方も歌いたがったため、結局コイン投げでソロを決めたという。


(左・ビル・メドレー、右・ボビー・ハットフィールド)
楽曲本来の魅力と、フィル・スペクターのアレンジ、抒情的な雰囲気を漂わせたボビーのソウルフルでドラマチックなヴォーカルが有機的に結びついて大ヒットした。

また、このライチャス盤が90年のデミ・ムーア主演の映画“ゴースト〜ニューヨークの幻”(Ghost‐ジェリー・ザッカー監督)のサウンドトラックに使われると、再度ヒット、同年ライチャス・ブラザーズが再録音を行うとそれもチャート入り、彼らはこの作品だけで3度ヒット・チャートに登場するという快挙を成し遂げている。

カントリーの大物ウィリー・ネルソン、ポップ・カントリーの天才少女としてデビューしたリアン・ライムス、ジャズ界のジョージ・ベンソン、ロックのキング・エルヴィス・プレスリー、ロイ・オービソン、バリー・マニロウなどもカヴァーしていて何年かおきにヒットするという幸運な曲である。
本来はメロディ、歌詞ともにさほど難しくない愛のバラードだが、深い表現力が必要とされるので、実は歌うのには難しい歌なのだろうと思う。

万葉の現代(いま)より熱いラブソング(蚤助)

#580: モナ・リザ

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世界で最も知られた絵、世界で最も鑑賞された絵、世界で最も語られた絵、世界で最も歌にされた絵、世界で最もパロディ作品が作られた絵…。
いずれもレオナルド・ダ・ヴィンチの油彩画「モナ・リザ」に対する形容の数々である。

元々はフランス王フランソワ一世(在位1515-47)が購入した作品で、フランスの国有財産とされていて、パリ・ルーヴル美術館で厳重な管理のもとに常設展示されている。
女性の上半身の肖像画だが、スケールの大きい画面構成と繊細な描写、謎めいた微笑とだまし絵的な雰囲気など、制作当時から人々を魅了し、現在もなお数多くの研究の対象となっている。
モデルは、フィレンツェの富豪の妻リザ・デル・ジョコンドだとされている。

あいにく、蚤助は未だパリを訪れたことがないのでルーヴル美術館のこともよく知らないのだが、ルーヴルで実物を鑑賞したことのある人によれば、想像していたよりもサイズが小さい、経年劣化なのか肌の色がくすんでいる、全体としてはどこなく漂う寂寥感と暗い印象を受けたという。
もっともこの印象を語ってくれた人は特に美術に関心があるわけではない、いわば素人だったのだが…。

ちなみに、この絵のモデルとされる「リザ夫人」の微笑の意味するところを「感情認識ソフト」なるものを使って解析した人がいる。
それによると、幸福度=83%、嫌悪度=9%、恐怖度=6%、憤怒度=2%という結果だったそうで、総じて幸福感に包まれ安定した立場、環境にいた女性だったのだろうと推測されている。

現存するレオナルドの描いた絵画は十数点しかないといわれているが、昨年春に、渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムで「レオナルド・ダ・ヴィンチ〜美の理想」と題する展覧会を鑑賞する機会があった。
「モナ・リザ」と同時期にレオナルドが描いた「ほつれ髪の女」、レオナルドとその弟子たちが描いたという「岩窟の聖母」など貴重な作品を目にするとともに、「モナ・リザ」の秘密に迫る企画展がなかなか興味深かった。
万能の天才レオナルドの描いた「モナ・リザ」が世界の至宝であることは論を待たないが、あの神秘的な微笑みが人々の心を虜にする秘密は現在に至るも「謎」なのである。

ところで、これまで何度となく述べてきたことだが、映画より主題歌の方が有名になった例はいくつもある。
本稿の「モナ・リザ」(Mona Lisa)という曲もそのひとつである。

1950年アラン・ラッド主演の映画「別働隊」(Captain Carey, U.S.A.)の主題曲として作られたものである。
映画は未見だが、第二次世界大戦中、フランス解放戦線に参加したケアリー隊長の活躍を描いた物語で、サイレント時代に美術監督として腕を振るったミッチェル・ライデンが監督したものだそうだ。
映画の方はさっぱり話題にもならなかったが、映画の中で旋律が流れたテーマ曲の方は大モテとなり、同年のアカデミー主題曲賞を受賞した。
ナット・キング・コールの歌唱で有名になったが、別に映画のサウンドトラックに彼の歌声が流れたというわけではないようだ。
ナット・コールの歌った歌詞は後でつけられたようで、作曲したレイ・エヴァンスとジェイ・リヴィングストンが歌詞も書いた。


(「モナ・リザ」とナット・キング・コール)
Mona Lisa, Mona Lisa, men have named you
You're so like the lady with the mystic smile
Is it only cause you're lonely they have blamed you
For that Mona Lisa strangeness in your smile…
モナ・リザ 人は君のことをそう呼ぶ
君は神秘的な微笑みをしたあのレディのようだ
君が孤独なのは モナ・リザの不思議(魅惑の微笑)にも似た
人を寄せ付けないところがあるせいなのか…
“いつも一人で過ごしている美しい人、どうしてだろう? なぜみんなの輪の中に入って来ないんだろう? 辛い過去を背負っているのか。君の美しさに心を奪われた若者たちが訪れてきても、君は心を開こうとしない。君は本当にそれでいいのかい? いつまでも人の温かさに触れないことを君は望んでいるの?”と歌う。

レオナルドの「モナ・リザ」を題材にしたことも歌の成功に資するところがあったかもしれないが、神秘的な微笑をモチーフにしたこのラヴ・ソングは、ナット・キング・コールにはぴったりの素材で、圧倒的な人気を呼び、ビルボードのヒット・チャートで8週連続一位を記録するミリオン・セラーとなった(こちら)。
彼は、アメリカ西海岸ロサンゼルスに誕生したばかりのキャピトル・レコードで、40年代半ばから本格的なレコーディング活動を行っていたわけだが、同社のドル箱ともいうべき大スターであった。
ロマンティックで高度に洗練されたヴォーカルによって、数多くのヒットを連発した。

そうしたヒット曲の数々は、ほとんどすべてといってよいほど、後に続く世代のあらゆるジャンルのミュージシャンにカヴァーされている。
このソフトでジェントルな「モナ・リザ」でさえ、コンウェイ・「思わせぶり」・トウィッティやジョニー・「ユアシックスティーン」・バーネットなど、いわゆるロカビリー歌手がリメイクしているのである。


(コンウェイ・トウィッティ)
トウィッティ盤は、ソフト&ジェントルな原曲をアップ・テンポのリズミックなポップ曲に仕立て直し、58年には全米チャート入りを果たし、以後のこの曲のロック・ヴァージョンのスタンダードともいうべき作品になっている。
トウィッティのヴァージョンはこちらでどうぞ。

ところで、「モナ・リザ」が初めて来日したのは1974(昭和49)年のこと、4月〜6月にかけて東京国立博物館で展示された。
当時、国立博物館の担当職員だった大川光雄氏の回想によると、フランス側の担当責任者と激しく衝突しながら、警備と保存に万全を期するため、展示ケースは、3層構造の防弾ガラスと、さまざまな素材を組み合わせた7層構造の壁面による頑丈なものを開発、温湿度も自動管理システムにしたという。
さらに同じケースをもう一つ製作し、事故などが起こった場合、瞬時に作品を避難させることができるよう、同じ温湿度に整えて展示ケースの後ろに置いた。
これにはフランス側も満足したようで、ルーヴル美術館でも、同様のケースに入れて展示するようになり、現在もそういう展示方法になっているそうな。

ということで、今回の一句…

傑作を出稼ぎさせる美術館(蚤助)
最後にとっておきのトリヴィアをひとつ…
この曲、ヒッチコックの映画「裏窓」(Rear Window-1954)にも使われていたのを覚えている人はいるだろうか。
主演のジェームズ・スチュワートの恋人を演じたグレース・ケリーのテーマとして使われていた。
さて、ここまででオチが判った方は相当のヒッチ通である。

そう、グレース・ケリーの役名はリサというのであった。
いかにもヒッチコックらしいお遊びであった(笑)。


(ビックリ!)

#581: 愛の讃歌

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パリの貧民街の、今でいうところのストリート・チルドレン出身で、不世出の歌手としてシャンソン界に偉大な足跡を残したエディット・ピアフ。
その数奇な生涯は、評伝や映画などさまざまな媒体で繰り返し描かれてきた。
彼女の歌は、実際にどこかで営まれていて、現在も営まれているにちがいない様々な人生を聴く者の心に甦らせてくれる。


(エディット・ピアフ)
“L'hymne A L'amour”(愛の讃歌)は、“La Vie En Rose”(バラ色の人生)とともにピアフの代表曲であるとともに、シャンソンの名曲中の名曲のひとつである(こちら)。


この曲が、恋仲だったボクシングの元世界チャンプ、マルセル・セルダンの飛行機事故による悲劇的な死を契機として生まれたというエピソードはよく知られているところだが、実のところはセルダンの生前に書かれていたのは間違いないようだ。
二人は相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子のいるセルダンとの関係に終止符を打つためにピアフが詞を書いていたものだと言われている。
曲を書いたのはマルグリット・マノー。
セルダンの死が1949年、ピアフの録音がその後の1950年5月2日だったことから、噂好きのパリジャンたちはピアフがセルダンの死を悼んで作ったものだと噂したらしい。

Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
Et la terre peut bien s'ecrouder
Peu m'importe si tu m'aimes
Je me fous du monde entier…

空が落ちてこようと 大地が引き裂かれようと
私は平気 あなたの愛があれば…
ピアフの書いた詞は、恋の喜びを少し激越なトーンで朗々と謳い上げたもので、スケールの大きさを感じさせ、ピアフの後も多くの歌手によって歌われて、今でも世界中で愛されている。

基本的に外国語の音楽には全く関心を示さないのがアメリカ人だが、ピアフの歌った楽曲はしばしば英語の歌詞がつけられてアメリカ人向けにレコード化されている。
ピアフの生涯を描いた伝記や残されたドキュメンタリー映像等によれば、彼女はショービジネスの本場アメリカで成功を収めたいという強い願望を持っていたようだし、事実、彼女は何度かアメリカ公演を行っている。
また、自分のレパートリーのシャンソンを自ら英語で録音していたりする。

♪ ♪
「愛の讃歌」の英語版では1954年にケイ・スターのものがヒットしたそうだが、蚤助としては何と言っても60年代の初め頃に録音されたブレンダ・リーのレコードの方がずっとなじみ深い。
ブレンダのこの歌のシングル盤は、1965年前後にリリースされたものを蚤助も持っていたのだが、何度か転居を繰り返しているうちにいつしか手元から消えてしまった。
カップリング曲は「バラ色の人生」であった。
「愛の讃歌」は、一時期、ブレンダ・リーのテーマ・ソングのようになっていた。
アメリカ本国では、ロックンロールやポップ・カントリー系の“ダイナマイト娘”として人気を得ていたが、日本ではあまりにもこの曲の人気が高かったおかげで、スタンダード歌手として認知されるきっかけとなった(こちら)。


(ブレンダ・リー)
ブレンダ版の英語詞はジェフリー・パーソンズの手になるもので、タイトルも“If You Love Me (Really Love Me”とされていた。

If the sun should tumble from the sky
if the sea should suddenly run dry
if you love me, really love me
Let it happen I won't care…

空から太陽が落ちてきたとしても
海が干上がってしたとしても
あなたが私を本当に愛してくれたなら
私にはそんなことどうでもいいの…
「たとえすべてをなくしても、微笑んで受け入れましょう。あなたが望むなら何でも叶えてあげる。まだ愛してるとあなたが言ってくれるなら」と続き、これもやはり熱烈な愛の歌になっている。

♪ ♪ ♪
日本では、つい先ごろ亡くなった岩谷時子の訳詞で越路吹雪が歌ったものが特に有名である(こちら)。


(越路吹雪)
あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていたいの…
越路吹雪の代表曲の一つで、生涯のレパートリーともなった曲だが、この曲を彼女が最初に歌ったのは1952年のことである。
彼女が出演するシャンソンショーの中で歌うことになり、当時越路のマネージャーだった岩谷が訳詞をつけたのである。
岩谷にとっても記念すべき最初の訳詞・作詞の仕事であった。

ピアフの書いた原詞には「愛のためなら月をもぎ取り、運命を変え、故郷や友人を見捨てたりもする」という刺激的かつ過激な表現が出てくるのだが、岩谷は甘いフレーズで日本人向けの「愛の歌」にしたことから、結婚披露宴などでも歌われる曲になるなど、日本でも広く親しまれるようになった。

空がくずれ落ちて 天地がこわれても 恐れはしないわ どんなことでも…
こちらは岩谷訳ほど知られていないが、音楽評論家の永田文夫の訳詞である。
岸洋子や美川憲一などはこの歌詞で歌っている。
もっとも美川の場合は岩谷の訳詞でも歌っているものがある。
そういえば、岸洋子のヒット曲「恋心」(“L'amour, C'est Pour Rien”エンリコ・マシアス曲)の訳詞(恋は不思議ね、消えたはずの、灰の中から何故に燃える…)も永田文夫のものだった。
永田は比較的原詞の内容に忠実に訳しているようだ。

このほか、淡谷のり子が井田誠一の訳詞、美空ひばりが水島哲の訳詞で歌っているほか、美輪明宏、加藤登紀子、宇多田ヒカルはそれぞれ自分で訳詞したものを歌っているが、どれも原曲に近い詞となっている。

♪ ♪ ♪ ♪
マルセル・セルダンは、世界チャンピオン・ベルトのリターンマッチのためアメリカに向けて出発するに当たって、当初航路で向かう予定のところ、コンサートでニューヨークに滞在していたピアフの「早く会いに来て」との言葉によって空路にすることを決める。
ピアフは、マレーネ・ディートリッヒと空港でセルダンを迎える予定だった。
ディートリッヒはセルダンの死をピアフに伝え、この日発表する予定であった「あなたが死ねば、私も死ぬ」という歌詞がある新曲「愛の讃歌」を歌わぬよう忠告したが、ピアフは激しい衝撃と悲しみを秘めたまま舞台に立ち、あえて歌った。

パリの酒場で初めて出逢った二人はすぐに惹かれあったというが、セルダンはピアフに「どうして悲しい歌ばかり歌うの?」と訊き、ピアフは「どうして殴るの?」と返したという会話が残っているのが悲しい…。

また永久(とわ)の愛を誓ってバツ2です (蚤助)

#582: 物事は見かけほどには悪くない

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チャップリンの映画はチャップリン自身が音楽を担当しているものが多いが、『モダン・タイムス』(1936)のラストに流れた曲は、1954年になってジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズの二人によって歌詞がつけられた。
パーソンズは、前稿の「愛の讃歌」のエディット・ピアフの原詞を英語詞にした人である。
“SMILE”という実にシンプルなタイトルを付けられたその歌は、ナット・キング・コールで大ヒットした。

誰でも知っている簡単な単語ひとつだけの曲名というのは、それだけでも人を惹きつけるところがある。
この“SMILE”のほか、“LOVE”、“SING”など分かりやすい単語ひとつのタイトルこそ、シンプルな言葉の中に秘められた奥深いメッセージを感じさせるのかも知れない。


“DREAM”という曲も実にシンプルなタイトルだが、文字通り、夢見るような美しいメロディを持ったバラードである。

曲を作ったジョニー・マーサーは、「ムーン・リヴァー」や「酒とバラの日々」などの作詞家として有名だが、自ら曲も書き、歌も歌うという人だった。
太平洋戦争末期の1944年に、マーサー自身のラジオ番組のクロージング・テーマに使われ、その後いろいろなアーティストが相次いで吹き込んだレコードによって、大いにヒットした。
戦地の兵士や留守家族のノスタルジックな感情に強く訴えかけたのであろう。

恥ずかしながら、蚤助がこの名曲の存在を初めて知ったのは、「恋の季節」(1968)で大ブレークしたピンキーとキラーズのデビュー・アルバム『恋の季節〜とび出せ“キンピラ”』?、いや“チンピラ”?、いやいや“ピンキラ”(笑)の中で、ピンキーこと今陽子が英語詞で歌っていたものだった(こちら)。
当時、まだ高校生くらいだった彼女が、キラーズによるボサノバ・タッチの伴奏とコーラスを伴ってとても丁寧に歌っていた。
彼女と同年代の蚤助はそれを聴いてえらく感心し、以後ずっと心に残った歌であった。


(ピンキーとキラーズ/恋の季節〜とび出せ!ピンキラ)
Dream, when you're feelin' blue
Dream, that's the thing to do
Just watch the smoke rings rise in the air
You'll find your share of memories there
So, dream when the day is through
Dream, and they might come true
Things never are as bad as they seem
So dream, dream, dream…

夢を見て 気分がブルーな時は
夢を見て そんなときには夢を見るもの
今はただ 立ち昇る煙草の煙の輪を 見つめてごらん
きっと思い出がよみがえる
一日が終わるときには 夢を見て
そうすれば 夢が叶う
物事は見かけほどには悪くはない
だから夢を見て よい夢を…
こんな内容だが、次にこの歌を耳にしたのは映画を貪るように見始めてからのことで、1955年製作、フレッド・アステアとレスリー・キャロンが主演したミュージカル映画『足ながおしさん』(Daddy Long Legs‐ジーン・ネグレスコ監督)の劇中で流れたときであった。
やはりロマンティックないい曲だと思ったものである。

歌詞の中にさりげなく「煙草の煙の輪」というフレーズが入っているが、前述の通り、この曲はジョニー・マーサーが自身のラジオ番組のために書いたもので、この番組のスポンサーというのがタバコ会社(チェスターフィールド)だったのである…(笑)。

♪ ♪

(The Pied Pipers)
太平洋戦争の終わりも近い45年の3月頃からパイド・パイパーズのコーラスがうなぎ上りの人気でミリオン・セラー(こちら)となった。
続いてフランク・シナトラがアクセル・ストーダールの編曲でケン・ダービー・シンガーズを伴って1945年6月に録音、これもヒットし、スタンダード曲の仲間入りを果たすきっかけを作った。
シナトラはこの曲を2度録音していて、特にネルソン・リドルの編曲による1960年の再録音盤の歌唱が世に名高い。

ところで、ピンキーも、パイド・パイパーズも、シナトラも、みなコーラスから歌い始めている。
正直言って、この歌にヴァースがあるとは全く知らなかったのだが、エラ・フィッツジェラルドがシナトラと同じくネルソン・リドルの編曲で歌ったもの(1964)は、ヴァースからしっかり歌っている(こちら)。

ヴァースは結構扱いにくい存在で、あれやこれやの理由からあっさり割愛されることが多いのだが、実はヴァースあってこそコーラスが生きてくることもあるわけで、例えば、かの“STARDUST”をヴァース抜きで歌う人はさすがにいないであろう。

エラの歌うヴァースはこうである。

Get in touch with that sundown fellow
As he tiptoes across the sand
He's got a million kinds of stardusts
Pick your favorite brand, and …
冒頭に出てくる“get in touch with”は、「接触する、連絡をとる、渡りをつける」とかの意味だが、続く「日没野郎」(sundown fellow)というのが分かりにくい。
その後に「彼」(he)と出てくるので、これは「日没野郎」のことだろうし、英語の歌詞には大抵擬人化された表現が出てくるので、これは多分「沈んでいく太陽」のことなのだろう。
全体としては、日が暮れて、あたりが暗くなっていく様子を詩的に描いているらしいということが分かるのだ。
大ざっぱに訳すと「太陽が砂浜を爪先立って海の向こうに沈んでいく、その太陽をつかまえなさい。太陽はたくさんの星屑を手にしていく、あなたは気に入った星を選びなさい、そうすれば…」という感じだろうか。
そして素敵なコーラス部に入っていくわけである。

♪ ♪ ♪

(Roy Orbison)
「ヴェルヴェット・ヴォイス」といえば、ナット・キング・コールの歌声に相応しい形容だが、ロック&ポップの世界にもビロードのように艶やかで光沢のある声の持ち主がいた。
ロイ・オービソンは「クライング」とか「オンリー・ザ・ロンリー」などロック史上に燦然と輝く作品をいくつも残しているが、ハイトーンのドラマティックな歌声はなかなか印象的で、特に“ロンリー”(孤独)、“ブルー”(憂鬱)、“ドリーム”(夢)という言葉をキーワードにして多くの楽曲を作った。

そのオービソンも“DREAM”を歌っているのだが、まるで自作曲のようにしんみりとブルーに、しかしながらやがて朗々とドリーミーで美しい音楽世界に引き込んでいく。
歴代の大ヒット盤に比しても決して引けをとらない彼の歌唱は、こうした切々とした世界にはやはりピッタリである(こちら)。

♪ ♪ ♪ ♪
ピンキラの歌を初めて聴いて以来この曲は思い出深いものとなったが、特に大好きなフレーズがある。

Things never are as bad as they seem
物事は見かけほどには悪くない
苦しいとき、悲しいとき、こう考えられれば何とかなりそうな気がする…と思いたい(笑)!

白髪の苦労話がエンドレス(蚤助)

#583: あの虹の向こう側に

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生涯60編以上の童話を世に出したというライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」を初めて読んだのは、なぜか我が家にあった「世界児童文学全集」(こんな感じの名がついた全集で出版社も忘れてしまったが、全集の編集人の一人に文部大臣をやった作家・安倍能成の名前があったのをかすかに記憶する)の1巻(アメリカ編)であった。
かつて神童であった蚤助の小学生低学年の頃のハナシである(笑)。

読後の印象で今も記憶しているのは、オズの国へ向かうドロシー一行が、お花畑の中で突然眠くなってしまうという場面で、子供心にも結構強いインパクトがあった。
ケシのお花畑というのはそんなにも催眠作用があるものかと不思議に思ったものである…。

ボームは1900年頃から亡くなるまでのほぼ20年間に「オズ」のシリーズを14冊書いたそうだが、彼の死後にもいろいろな作家が「オズ」の続編を書き継いでいるそうだ。
それだけ世代を越えた多くの子供たちに愛されたシリーズだということであろうが、何といってもシリーズ1作目の「オズの魔法使い」が最もよく知られている名作である。


これをジュディ・ガーランド、レイ・ボルジャー、バート・ラー、ジャック・ヘイリーの主演でミュージカルとして1939年MGMが映画化した『オズの魔法使』(The Wizard Of Oz)も評価が高い作品である。
当時16歳だったジュディは、この映画でアカデミー特別賞を受賞、彼女が劇中歌った“OVER THE RAINBOW”(邦題「虹の彼方に」)もアカデミー作曲賞と歌曲賞を受賞、そしてこの歌をきっかけにミュージカル・スターへの道を歩み出し、生涯のテーマ・ソングとなったのだ。
伸びやかなジュディの歌声をオーケストラが優しく包む。
これを名唱といわずして何とする(笑)(こちら)。

Somewhere over the rainbow way up high
There's a land that I heard of once in a lullaby
Somewhere over the rainbow skies are blue
And the dreams that you dare to dream really do come true…

虹の向こうのどこか 空の高いところ
かつて子守歌で聞いた国がある
虹の向こうのどこか 空は青く
あなたの夢がまことになってしまう…
♪ ♪
この名曲誕生にはこんなエピソードがあった。

MGMから作曲を依頼されていたハロルド・アーレンは、ある日、ロサンゼルスで映画を観ようと妻を伴って車で出かけた。
その途中、ひとつのメロディが浮かんできた。
アーレン自身が語るところによれば、“Somewhere over the rainbow”という言葉もそのとき思いついたという。
翌日、アーレンは曲をまとめ上げ、作詞家のエドガー・イップ・ハーバーグに聴かせたところ、ハーバーグは「ネルソン・エディ(MGMミュージカルで活躍した人気歌手)にはいいが、カンサスの小娘には向いていない曲だ」と感想を述べた。
そこで、作詞家と作曲家は連れだってアイラ・ガーシュウィンに曲を聴いてもらうと、アイラは気に入ってくれた。
そこでハーバーグは腰を据えて詞を作り始めた。
こうして完成した“OVER THE RAINBOW”はジュディが歌い、ヴィクター・フレミングの手になる映画『オズの魔法使』の撮影もすべて終わった。

ところが、試写を見たMGMのお偉方にはこの曲の評判が悪く、この歌は少女が歌うのに相応しい曲ではない、と難癖をつけられカットを命じられたのだ。
しかし、この歌に惚れこんでいたプロデューサー補佐で、“SINGIN' IN THE RAIN”(雨に唄えば)の作詞者でもあったアーサー・フリードが強硬に抵抗して元に戻した。

ジュディは世紀の大スターとして、フリードは映画の大プロデューサーとして、「あなたの夢がまことになる」というこの歌の歌詞の通り、素晴らしい未来を手に入れることになったわけだ(笑)。

♪ ♪ ♪
ここに歌われる無垢な少女の思いこそ世代を越えた人々の夢なのかもしれず、そのためか、この曲には無数のヴァージョンが誕生することになる。


(Sarah Vaughan/In The Land Of Hi-Fi)
1950年代半ばに録音したサラ・ヴォーンは、原曲のファンタスティックな魅力と美しさを見事に表現している。
編曲・伴奏のアーニー・ウィルキンスのフル・バンドのうまさも際立っている(こちら)。


(The Modern Jazz Quartet/Fontessa)
インストでは、このモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)のものが優雅で、比類なく美しい(こちら)。
誰もが知ってる曲を、他のアーティストにはない何か言い難い風格を感じさせる演奏だ(56年録音)。


(Bud Powell/The Amazing Bud Powell Vol.2)
そのMJQとは対極にありそうなのがこちらのバド・パウエルのピアノである。
天才的な閃きによる奔放な演奏で、これを無視できるはずはないだろう。

このほか、エリック・クラプトン、ウィリー・ネルソン、レイ・チャールズ、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、ローズマリー・クルーニー、オリヴィア・ニュートン・ジョン、美空ひばりなどスタイルやジャンルを問わず多くのアーティストが取り上げている。
どれも聴きものであるが、特に紹介しておきたいのがハリー・ニルソン。


(Nilsson/A Little Touch Of Schmilsson In The Night)
彼が“WITHOUT YOU”というヒット曲を飛ばした直後に、いわばシナトラの専属アレンジャーだったゴードン・ジェンキンスを迎えて、古き良きアメリカのポピュラー音楽の世界をじっくり歌った名カヴァー集である(73年録音)。
蚤助はリリースされたばかりのLPを入手したのだが、それには全12曲の中にこの曲は収録されていなかった。
CD化されたとき、別テイクも含めて未発表の録音がボーナス・トラックとして何と10曲追加されたのだ。
それも入手することになったのは当然だが、エンディング曲に“OVER THE RAINBOW”を持ってきているのを知って、欣喜雀躍したものだった(笑)。
ロックの時代にあえて逆らうようなジェンキンスのドリーミーなアレンジに乗って、ニルソンのロマンティックな思いと、スタンダード・ナンバーに対する強い愛情が伝わってくる(こちら)。

このニルソンの歌は、トム・ハンクスとメグ・ライアンが、映画『めぐり逢えたら』(Sleepless In Seattle‐1993)以来、再びノーラ・エフロンの演出で共演した『ユー・ガット・メール』(You've Got Mail‐1998)のサウンドトラックにも使われた。
それがなかなか良いので、ちょっとおまけをしちゃおう(こちら)。

なお、蛇足ながら、この映画のサウンドトラックには前稿で紹介したロイ・オービソンの“DREAM”も使われていた。

♪ ♪ ♪ ♪
ビルと野を虹が結んだ雨上がり(蚤助)

#584: 素晴らしき哉、人生!

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クリスマスを舞台や主題にした映画というのは結構たくさんある。

蚤助がすぐに思い浮かべるのは、古いところではジョージ・シートンの『三十四丁目の奇蹟』(Miracle On 34th Street‐1947)、以前にも紹介したことがあるジョン・フォードの西部劇『三人の名付親』(3 Godfathers-1948)、アーヴィング・バーリンの名曲が散りばめられたミュージカル『ホワイト・クリスマス』(White Christmas-1954)、比較的新しいところでは、主演したブルース・ウィリスを大スターにした『ダイ・ハード』(Die Hard‐1988)や、クリス・コロンバスのヒット作『ホーム・アローン』(Home Alone‐1990)などが、すぐに思い浮かぶ。
特に後の2本は続編まで製作されるほどのヒットとなった。


忘れてはならないのは『素晴らしき哉、人生!』(It's A Wonderful Life)という不朽の名画である。
アメリカでは、年末のこの時期、必ずといっていいほどどこかのテレビ局で放映されている。
この作品はパブリック・ドメインになっていて、著作権はフリーなのである。

2006年にアメリカ映画協会(AFI)が選んだ『感動の映画ベスト100』というランキングで第1位に選ばれている(この番組は日本でも数年前にNHKのBSで放送された)。

名監督フランク・キャプラの集大成ともいうべき作品である。
善意の人である主人公とその家族と周囲の人々はみな好人物であるが、一方でそれとは対照的に主人公に悪意を抱いている敵役のボスも出てくる。
そのボスのせいで主人公は窮地に陥るものの、周囲の人々の協力でハッピー・エンドを迎えるという語り口が、実にキャプラ的なのである。
しかも物語は、天使が主人公を見守るというファンタジー仕立てになっている。

この映画の原作は、リンカーンの伝記の著書もある歴史家のフィリップ・ヴァン・ドレン・スターンの手になるもので、ある朝、髭を剃っている最中にプロットを思いついたという。
何年か推敲を繰り返しながら、クリスマスという要素をストーリーに加え“The Greatest Gift”(最高の贈りもの)というタイトルで自費出版をした。
24ページほどの小冊子で200部ほど印刷したというが、これをクリスマス・カード代わりに友人・知人に送ったのである。

キャプラは自分が設立した独立系の映画会社リバティ・フィルムズを通じて、映画化権を持っていた他の映画会社から買い取り、早速フランセス・グッドリッチ、アルバート・ハケットとともに脚本の執筆にとりかかった。
『素晴らしき哉、人生!』はクリスマス映画として当初企画されているわけではなかったが、キャプラはそのストーリーに普遍性を見出したようだ。

♪ ♪

(ジェームズ・スチュワート)
ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュワート)は住宅ローン会社の社長である。
少年時代は冒険家、長じては建築家となって世界中を駆け回ることを夢見ていたが、父親の急死によって、夢を捨て、小さな町の小さな会社の経営を引き継ぐことになる。
幼馴染のメアリー(ドナ・リード)と結婚し、4人の子宝に恵まれ、会社の経営は厳しいものの順調に人生を歩んでいた。

クリスマス・イヴ。
折しも金融監査官が会社の監査にやってきた日、ジョージの叔父(トーマス・ミッチェル)の不注意により、銀行に預金するはずの8千ドルもの大金を失くしてしまう。
町のボスでジョージの活躍を快く思っていない銀行家のポッター(ライオネル・バリモア)が、8千ドルを隠してしまったのだ。
ジョージは善後策を講ずるため、町中を必死に駆けずり回るが、万策が尽き果て、もはや打つ手は残されていない。
ジョージが世を儚み橋の上から投身自殺をしようと欄干に足をかけようとしたとき、先に一人の男が、大きな氷塊が浮かぶ暗い川面に落ちていく。
一転、ジョージは男を助けるために川へ飛び込む。


(ヘンリー・トラヴァースとジェームズ・スチュワート)
橋のたもとの管理小屋で二人は濡れた体を乾かしている。
西部開拓時代のような古めかしい下着姿の謎の男に、管理人が「あんた、どこから来たんだね」と訊ねる。

「天国からさ、ジョージを助けるためにね」
「そりゃ面白い!なぜ俺の名を知っている」とジョージ。
「何でも知ってるよ。小さいころからずっと見ているからね。さっき神様に祈っていたろう?私がその答えさ」

これがクラレンス(ヘンリー・トラヴァース)という二級天使で、自分の翼をもらうためにジョージを助けるという使命を帯びて現れたのだ。

「酔っ払いか!」
「君がそんな言い方ばかりするなら、私はいつまでも翼をもらえない」
「戯言はどこかよそで言ってくれ」
「君が死ねば、家族も友人もみんな幸せになれると思っているのかね」
「知るか!俺は生まれてこなけりゃよかったんだ」

この映画のポイントは、苦難の主人公を救うために天使(といっても初老のおじさん天使だが)が天国から派遣され、生まれてこなければよかったと嘆く主人公に、彼が生まれなかった場合の特別な世界を見せるところである。

元の世界の妻や友人たちは、すれ違っても誰もジョージを知らない。
そこでは、自分がいない結果、悪徳銀行家のポッターが幅をきかせ利権を貪っていた。
ジョージが愛した人々が奴隷のように扱われ、互いに猜疑心を抱きあう不遇の人生を送っているのである。

次第にジョージは、自分の存在が無価値ではなかったこと、多くの人々に愛されていたことに気づき、激しく後悔するのである。
そして吹雪の中、橋に駆け戻って天に向かって叫ぶ。

「元の世界に戻してくれ!どんなに苦しくてもかまわない!」…

♪ ♪ ♪
キャプラの主張はおそらくこういうことであったろう。

「どんな状況にあろうと、人は生きるべきだ、生きていることに価値がある、人生は素晴らしい…」

第二次世界大戦後、マイホームを持つことはアメリカンドリームの一つとなり、戦場からの復員兵たちを対象にした郊外型分譲住宅地の建設が盛んになっていたが、この作品は、そんな時代の等身大の庶民生活を描いていた。

キャプラは自著で「自分の最高傑作だと思った。映画史上最高の名作だとさえ思った。ホームレスにも、愛を知らない人たちにも、この作品はあなた方への贈り物だと叫びたかった」と述べている。
だが、現在ではクラシックの名作とされているこの作品も、公開されたとき、戦争という過酷な現実を通り過ぎたばかりの大衆の心に十分訴えることができず、興行成績は全く振るわなかったという。
設立後わずか2年でリバティ・フィルムズは解散し、以後はユーモアとヒューマニズムとセンチメンタリズムの色濃い映画作家キャプラには、映画製作の機会が訪れてこなくなるのだ。

最後に、天使クラレンスはジョージに一冊の本を残していく。
クラレンスの「生前」に刊行されたばかりだという『トム・ソーヤー』である。
見返しにクラレンスのサインが書いてある。

「友人を持っている人間に敗残者はいない」

クリスマス・ツリーに飾られたベルがチリンと鳴る。
天国に戻ったクラレンスは晴れて翼を入手したのであろう…

♪ ♪ ♪ ♪
この作品は何度か観ているがそのたびに心が温かくなる。


(ドナ・リードとスチュワート)
主人公のジョージには『我が家の楽園』(You Can't Take It With You‐1938)と『スミス都へ行く』(Mr. Smith Goes To Washington‐1939)でキャプラと組んでいるジェームズ・スチュワートを起用、ヒロインのメアリーには清純さが漂う新人ドナ・リード、町の銀行家ポッターにはライオネル・バリモア、好人物だが粗忽な叔父にトーマス・ミッチェル、とぼけた二級天使クラレンスのヘンリー・トラヴァース、映画の冒頭で存在感を放つ薬局の店主ガウワーのH・B・ワーナーなど、はまり役でいずれも好演である。

ただ、一点腑に落ちないのは、例の8千ドルの扱いで、金がどうなったのか、ポッターのその後がどうなったのか全く描かれていない。
ポッターの行為は、日本の刑法で言えば少なくとも「遺失物横領罪」あたりの罪状、要するに「猫ババ」になると思うのだが…(笑)。

クリスマス近くになるとみな良い子(蚤助)

#585: 星に願いを

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ウォルト・ディズニーの長編アニメ第1作はグリム童話を原作にした『白雪姫』(Snow White And The Seven Dwarfs‐1937)であったが、この作品からは“SOMEDAY MY PRINCE WILL COME”(いつか王子様が)という名曲が生まれている。
ディズニーは当初から、音楽を大変重要視していたのだ。
そして、21世紀の現在においてもディズニーの製作する映画が一貫して上質なスコアを提供し続けているのは称賛に値することである。

『白雪姫』に続く第2作としてディズニーが選んだのは、カルロ・コッローディの原作による冒険譚『ピノキオ』(Pinocchio‐1940)であった。
だが、前作とは違って、物語に華がない、夢のある話になりにくいなどの理由から、キャラクター設定やストーリーの展開について、相当苦労したと言われている。
原作では、ピノキオは悪戯好きな腕白だとされているが、これを無邪気な性格に仕立て直したうえ、やはり原作ではピノキオにすぐに殺されてしまうコオロギに、ピノキオの良心、導師としての役割を与え、ストーリー展開の舞台回しを担わせるというのは、ディズニーの苦心のアイデアだった。
そのコオロギというのが、ジミニー・クロケットである。


(ピノキオとジミニー・クロケット)
劇中、ジミニーが歌うのが、おそらくディズニーの歌曲の中で最もよく知られている名曲“WHEN YOU WISH UPON A STAR”(星に願いを)であった。
ジミ二ーの声と歌を担当したのは、クリフ・エドワーズで、温もりのあるドリーミーな世界を提供し、観客を魅了した(こちら)。
エドワーズはウクレレ・アイクの別名でも知られる芸人気質のエンターテイナーで、ジミニーの人情味にあふれたキャラクター設定も彼の個性に負うところが大きかったようだ。
なお、『ピノキオ』が日本で公開されたのは1952(昭和27年)のことで、ジミニーの日本語吹き替えを担当したのは坊屋三郎だったそうだが、蚤助としては何だかそれも聴いてみたい。


作曲したリー・ハーラインは、ロサンゼルスで活躍したピアニスト兼シンガーで、後に映画音楽の作編曲者に転向した人、作詞は“MY FOOLISH HEART”、“STELLA BY STARLIGHT”(星影のステラ)、“HIGH NOON”(真昼の決闘)などで知られるネッド・ワシントンで、この曲によってディズニーが初めてアカデミー歌曲賞を授与された。

When you wish upon a star
Make no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you…

星に願いをかけるとき
誰であれ 心を込めて望むなら
どんな願いも叶うだろう

心の底から願うなら
夢みる人がするように
叶わぬ夢などないだろう…
いかにも子供の夢を大切にするディズニーらしい曲である。

映画公開の直後にレイ・エヴァリーのヴォーカルをフィーチャーしたグレン・ミラー楽団が吹き込んだり、オリジナルのクリフ・エドワーズも録音し、どちらもヒットしている。

♪ ♪
暖かいローズマリー・クルーニーの歌声をはじめ無数のヴァージョンが残されていてとても紹介しきれるものではないが、ここで蚤助が現代版の筆頭に挙げたいものがある。


(Linda Ronstadt/For Sentimental Reasons)
西海岸のロックの歌姫リンダ・ロンシュタットが、名アレンジャーのネルソン・リドル編曲・指揮のオーケストラのもと、スタンダード・ナンバーに挑んだ名盤三部作のうち最後にあたる“FOR SENTIMENTAL REASONS”(1986)のアルバム冒頭に収録されているヴァージョンである。
キャピキャピのお転婆娘だとばかり思っていた彼女が、実に細やかな情感を表現しているのに驚いたものである。
原曲をほぼ崩さずストレートに歌う彼女のヴォーカルには素直に好感が持てる。
感動ものである(こちら)。

また、ディズニーの歌曲の中では“SOMEDAY MY PRINCE WILL COME”とともにジャズの世界でも取り上げられることの多い人気曲であるが、特にピアノに優れた演奏が多いので、ピアノを中心に紹介すると…


(Kenny Drew/Kenny Drew Trio)
晩年円熟した演奏を聴かせ日本でも大変人気が高かったケニー・ドリューの若き頃の名作“THE KENNY DREW TRIO”(1956)で、ポール・チェンバース(B)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(DS)を伴って吹き込んだものが名高い(こちら)。
もっとも、ディズニーの楽曲はこのアルバム中これ一曲であった。

ジャズの世界に“WHEN YOU WISH UPON A STAR”を定番曲にするのに大きな功績があったのは、おそらくデイヴ・ブルーベックの“DAVE DIGS DISNEY”(1957)であろう。


(The Dave Brubeck Quartet/Dave Digs Disney)
全編ディズニーの楽曲をジャズ化するという初のコンセプト・アルバムであった。
かの“TAKE FIVE”を録音する2年ほど前の演奏だが、ブルーベック四重奏団の傑作のひとつであろう(こちら)。
ポール・デスモンド(AS)、ノーマン・ベイツ(B)、ジョー・モレロ(DS)にブルーベックのピアノ。
蛇足だが、ベースのノーマン・ベイツというは、かのヒッチコックの傑作スリラー『サイコ』でアンソニー・パーキンスが演じた役と同名である(笑)。


(Bill Evans/Interplay)
また、興味深いのはビル・エヴァンスの“INTERPLAY”(1962)である。
エヴァンスはピアノ・トリオかピアノ・ソロのイメージが強いピアニストだが、ここではフレディ・ハバード(TP)、ジム・ホール(G)、パーシー・ヒース(B)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(DS)らが加わったクインテットで、珍しくもトータルなサウンドを聴かせる(こちら)。
エヴァンスの異色作といえようが、ジム・ホールもつい先日亡くなり、このメンバー全員が鬼籍に入ってしまった。
寂しい限りである。

♪ ♪ ♪
“WHEN YOU WISH UPON A STAR”は「心を込めて星に願いをすれば願いはきっと叶う」と歌われるが、来年の干支は「午」。
商売繁盛、健康、良縁、合格といった人それぞれの願いは、「星」にではなく「絵馬」にすればよいのだろうか…

合格の折願とある祈願絵馬(蚤助)

さて、今年も駄文を綴ってきた「けやぐの広場」のご愛読を感謝します。
来年もよろしくお願いいたします。
それでは、皆さま、良いお正月をお迎えください。

#586: 新年早々、追悼とは…

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年末から年始にかけて、大瀧詠一、海の向こうからフィル・エヴァリーの訃報が届いた。
新年早々、こんな記事からスタートさせるのは寂しい限りである。
だからというわけでもないが、年始のあいさつは省かせていただく。


12月30日に亡くなった大瀧詠一(享年65歳)については、今後とも多くの人によってさまざまな形で追悼がなされるだろう。
必ずしも熱心なファンとはいえなかった蚤助でも、アメリカン・ポップの香りがする洗練された楽曲やサウンドを我々に提供してくれた人が、東北(岩手)出身だったことにどこか親しみを感じていた。
彼の新譜はしばらく途絶えていたが、彼の新しいサウンドがもう聴けなくなったという喪失感が先に立ってしまう。
返す返すも残念なことである。


彼の作った歌で、蚤助が大好きなのは“夢で逢えたら”である。
おそらく日本で一番カヴァーされている曲のひとつであろうし、事実、多くのアーティストが歌っていて名実ともにJポップのスタンダード・ナンバーといっていい名曲だと思う。
吉田美奈子がオリジナルとされているが、元々アン・ルイスのために書いたものだそうだ。
吉田に続いて録音したシリア・ポールの歌も懐かしいが、ここは、本命、吉田美奈子の歌をお届けするとしよう(こちら)。

もう一曲、森進一の歌う“冬のリヴィエラ”。
年末のNHK紅白歌合戦、森にこの歌を演って欲しかったと思ったのは、蚤助ひとりではないだろう(こちら)。

そして、大瀧詠一自身のヴォーカルで“恋するカレン”…(こちら)。

彼のワン&オンリーの才能を偲んで、合掌。


フィル・エヴァリー(1月3日死去、享年74歳)は、兄ドンと組んだデュオ、エヴァリー・ブラザーズとして知られ、50年代後半から60年代前半にかけて絶大な人気を誇った。
日本では今ひとつの人気だったが、アメリカのポピュラー音楽史においては極めて重要な存在であったことは疑いようもない。

フィルの訃報を伝える新聞記事には、エヴァリー・ブラザーズをカントリー・デュオとするものが多かったようだ。
60年代の後半にボブ・ディランやバーズらによって、カントリー(もしくはフォーク)・ロックというスタイルが生み出されたが、それまで、別々のジャンルとされていたカントリー(フォーク)とロックの融合が革命的な出来事と受け止められたのだ。
すなわち、エヴァリー・ブラザーズが活躍し始めた50年代にはカントリー(フォーク)とロックの間には境界線などなく、両者はほとんど同じものだった。
彼らの音楽を聴くと改めてそう感じさせられる。
初期のソングライター、プロデューサー、ミュージシャンは、カントリーやフォークを専門とする連中だったのだ。
彼らのヒット曲は、カントリー・チャートにもポップ・チャートにもランクインしていたし、そういった楽曲は、現在ではロックのクラシック作品として広く親しまれている。

彼らの最大の武器は、何と言ってもその絶妙なヴォーカル・ハーモニーであった。
実の兄弟というばかりではなく、以前にも少しだけ触れたことがあるが、ミュージシャンであった両親から幼少のころから鍛えられたことが大きい。
これは、かのビーチ・ボーイズと全く同じだが、ビーチ・ボーイズの音楽的ルーツはジャズ・コーラスと教会音楽であり、スタイルもオープン・コーラスだったのに対し、エヴァリー・ブラザーズの方は、カントリーの伝統的なクローズ・ハーモニーであった。

何度か書いたが、クローズ・ハーモニーというのは、四捨五入して言うと、同じ歌詞を音程の異なるメロディ・ラインを同時に歌うスタイルで、彼らはこれを追求、ポップスの王道にまで高めたのだ。
どちらの旋律が主旋律か判別がつかぬほど2人のヴォーカル・パートが見事に共鳴するとき、クローズ・ハーモニーが最も効果的に響くのである。



エヴァリー・ブラザーズのヒット曲を中心に彼らの歩んだ道を駆け足でたどってみたい。

コロンビアから“KEEP A LOVIN' ME”という曲でレコード・デビューしたのが1956年のことだが、これは鳴かず飛ばずだった。
彼らの人気に火がつくのは、翌1957年にニューヨークのケーデンスというレーベルと契約してからである。
ケーデンスから出した“BYE BYE LOVE”が兄弟の輝かしいファースト・ヒットとなった(こちら)。

恋人が新しいカレシと幸せそうにしているところを見てしまった男の「恋よさようなら」という悲嘆の歌である。
二人はギターを抱え素朴にリズミックに二重唱を披露、多分にカントリー色の残るロックン・ロールに仕上げている。
作者のブードロー&フェリス・ブライアントは夫婦で、これ以降エヴァリー兄弟の曲をどんどん作り、良質のヒット作を生んだ名ソングライター・コンビである。
この曲、後にレイ・チャールズ、サイモン&ガーファンクル、ジョージ・ハリスンなどによってリメイクされるほどの人気曲となるのだが、エヴァリー兄弟には、ヒットの如何にかかわらず各々64ドルのギャラが払われる契約になっていたそうで、実のところあまり期待されていなかったというのが真相らしい。


このビッグ・ヒットで状況は一気に変わり、次に用意されたのがやはりブライアント夫妻の書いた“WAKE UP LITTLE SUSIE”(起きろよスージー)である(こちら)。
この曲、当初日本で発売されたときの邦題が「スージーちゃん起きなさい」といういささか子供っぽいものだったが、歌詞の内容は子供っぽさとは無縁の若い男女のきわどい状況を歌うものだったため、今では「起きろよスージー」という邦題が定着している。

起きろよスージー、すっかり寝込んじゃった、映画はもう終わっちゃってる、もう朝の4時だ、これはマジでヤバいよ、起きろってばスージー!…
夜の10時までに自宅に送り届ける約束で彼女をデートに連れ出したのに、ドライヴ・イン・シアターで寝込み、朝帰りになってしまったカップルのオハナシである。
彼女の家の扉の向こうには一睡もせず鬼の形相で待ち受ける両親、さてどうする?
とにかく土下座するしかない、いや、何にもしていないんだから堂々とホントのことを言えばいいんだ、オールナイトのドライヴ・イン・シアターで居眠りしてしまったって…、いや、そんなハナシ誰が信じるんだ、ボクの不注意で余計な心配をおかけしましたと、お詫びをするか? いやこれもダメだ…

こんなとき女の子の方が堂々としていそうだ、「何びくついてるのよ、もっと堂々としていてよ、今更どうしようもないでしょ」なんてネ。

実に楽しい曲だが、ケーデンスの社長が歌詞にクレームをつけ、一時レコードの発売にストップがかかり、危機を迎える。
結局、この作品はエヴァリー兄弟に初の全米1位をもたらし、後にサイモン&ガーファンクル、グレイトフル・デッドなどにカヴァーされるようになる。


こうして、スター街道を歩み始めた兄弟が、その人気をさらに強固なものにしたのが1958年にリリースした“ALL I HAVE TO DO IS DREAM”(夢を見るだけ)である(こちら)。
歌い出しの“Dream, dream, dream, dream”のリフレインだけで夢見心地にさせるが、切なさと甘酸っぱさが同居する十代の恋心をシンプルかつセンチメンタルな美しいメロディに乗せて描いている。
伴奏のギターはなんとチェット・アトキンスである。

作者のブライアント夫妻は、一瞬の閃きだけでこのポップス史に残る傑作ナンバーをたった15分で書き上げたという。
ブードローが後に「15分間の夢」と語ったこの作品はエヴァリー兄弟に2曲目の全米1位と300万枚のレコードセールスをもたらした。
以後、ボビー・ジェントリー&グレン・キャンベルのデュエット、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドなど多くのアーティストが取り上げている。
なお、この曲のシングル盤のB面として発表されたのが“CLAUDETTE”で、こちらもヒットしている。


こうして、エヴァリー兄弟は、50年代末までに、最高のロック・ロール・デュエット・グループとして高い評価と名声を確立したが、それでもまだ叶うことのできない夢があった。
それは、ヒットしたのがみなブライアント夫妻をはじめとした他人の楽曲だったので、自身のオリジナル作品でヒット・チャートの頂点を制覇することだった。
エヴァリー兄弟は59年末にレコード会社を移籍する。

津軽弁では、一人称を「我(わ)」、二人称を「汝(な)」と言ったりするが、まさに「私(ワ)と貴方(ナ)の会社」すなわち「ワーナー」への移籍であった(笑)。
ワーナーは、58年に設立されたばかりの新興レーベルだったが、なかなかヒット曲が出せず、経営が危ぶまれていた。
エヴァリー兄弟の獲得は社運を賭けた大勝負だったのだ。

エヴァリー兄弟がワーナー移籍第1弾として出したのが、自作の“CATHY'S CLOWN”だった(こちら)。
見た目は可愛いが自分勝手で人の都合を顧みず平気で嘘をつくカノジョ(キャシー)に振り回されて道化の役どころを演じてしまう男が自虐的に愚痴る、という内容の面白い歌だった。
冒頭一発、ハイトーンの見事なハーモニーで出る有無を言わさぬ仕上がりになっている。
余談だが、作品の題材になったキャシー嬢のモデルは、エヴァリー兄のドンが高校時代に付き合っていたガールフレンドだったそうだ。
兄弟の願い通りこの曲は全米第1位、セールスも最高を記録し、「私と貴方の会社」にとっても初のビッグ・ヒットとなった。


その後、以前紹介したジルベール・ベコー作シャンソンの翻案“LET IT BE ME”やキャロル・キングとハワード・グリーンフィールドが書いた“CRYING IN THE RAIN”などもヒットする(こちら)。
後者の作者コンビ、キャロル・キングにはジェリー・ゴフィン、ハワード・グリーンフィールドにはニール・セダカという楽曲作りのパートナーがそれぞれいた。
ともに同じ音楽出版社の専属ソングライターだったが、キャロルとハワードの二人はそれまで共同で作品を書いたことがなく、この曲が共同で書いた初めての曲で、しかも唯一の曲である。
後にキャロル・キングが自ら録音しているし、日本の某化粧品会社のテレビ・コマーシャルにアーハの歌ったカヴァー盤が使用されリヴァイバルしている。
男の女々しさが結構前に出てくる歌だが、なかなかの佳曲だと思う。

エヴァリー兄弟は、やがて兵役について、レコーディングの空白期間が生じ、そうしているうちに次第にヒット・チャートからも遠ざかってしまうのだが、彼らの残した遺産は確実に受け継がれた。
特に、ビートルズ、サイモン&ガーファンクルはエヴァリー兄弟のコーラスの忠実なフォロワーといっても差し支えないだろう。
また、スタイルこそ違いはあれ、ビーチ・ボーイズやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、それにイーグルスのハーモニーにも影響を与えている。

エヴァリー・ブラザーズはやがて兄弟の不仲によって解散、その後も何度か再結成と離合集散を繰り返した。
ブラザーのいない蚤助には窺い知れぬ未知の世界だが、ビーチ・ボーイズと同様、メンバーの確執というのは兄弟グループには不可避なものだったのかもしれない…。

R.I.P.(Rest In Peace) Philip Everly…


本名を初めて知った葬儀場 (蚤助)

#587: ブルー・スカイ

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関東地方の真冬の空は、たいてい乾燥した青空である。
この時期の空はいつになく澄んでいる。
蚤助には白内障の気があり陽光が眩しすぎるのだが、青空を目を細めて見上げる。
そうして気がつくと自然と口ずさんでいるのが“BLUE SKIES”という曲である。
のどかだなあ。

映画の中でビング・クロスビーが歌っていたことで知った曲である。
アーヴィング・バーリンの曲で、彼の楽曲を全編使用した1946年のミュージカル映画『ブルー・スカイ』(BLUE SKIES)であった。
スチュアート・ヘイスラーが監督、ビング・クロスビーとフレッド・アステアが共演していた。
アステアは歌もいけるので問題ないが、クロスビーがアステアに付き合ってあたふたと踊らされるのが何ともおかしかった。
アステアが一歩退いて、クロスビーに華を持たせたような作品で、アステアが好きな蚤助としては少しがっかりした(笑)。


この曲、もともとはバーリンが1926年(昭和元年!)にミュージカル『ベッツィ』のために書き下ろしたものだった。
ミュージカル自体はヒットしなかったが、観客はこの“BLUE SKIES”を何度もアンコールしたという。
翌年初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』でアル・ジョルソンが歌った。

リンドバーグの大西洋無着陸横断飛行、ベーブ・ルースのシーズン60本のホームラン記録など大衆に夢と希望を与える快挙とともに、この時代の浮き立つさまがこの曲にも感じられる。
最初マイナーで始まるブルーなムードのメロディだが、次第に明るくなっていく。
歌詞の方も陽性のバーリンらしくあくまでハッピーで明朗である。
古い歌だが、恋がもたらす効用を歌った普遍的な内容で今でも色あせることがない。
これも「恋のチカラ」かしらん(笑)。
確か、1998年のロビン・ウィリアムズが主演した映画『パッチ・アダムス』のサウンドトラックにも使われていた。

Blue skies smiling at me, nothing but blue skies do I see
Blue birds singin' a song, nothing but blue birds all day long…

私に微笑みかける青い空 青い空以外何も見えない
歌っている青い鳥 一日中耳にするのは青い鳥だけ
こんな眩しい太陽は見たことがなかった
物事がこんなにうまくいくとは思いもしなかった
恋をすると 毎日が飛ぶように過ぎていく
憂鬱な日々は去ってしまった これからはずっと青い空だけ…
この歌なぜか“SKIES”と複数形になっているのを不思議に思っていたのだが、“SKIES”というのは「天空」とか「大空」とか“SKY”よりももっと広々とした語感なのだそうだ。

映画『ブルー・スカイ』の画像をこちらで見つけた。
クロスビーの風格のあるヴォーカルは、やはりアメリカの夢と希望を象徴しているように思える。
なお、クロスビーの相手役はジョーン・コーンフィールドである。

ペリー・コモ、ローズマリー・クルーニー、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラなど多くの歌手が歌っているが、これほどの大スタンダード曲の割にはこれといった決定盤というものがない。
残念ながら動画を見つけられなかったが、とりわけ蚤助が気に入っているのが、“デイム”キリ・テ・カナワの歌である。


(Kiri Te Kanawa/Blue Skies)
ニュージーランドのマオリ族の血を引く世界のソプラノ歌手キリ・テ・カナワ(ファーストネームはキリだそうだ)が、ネルソン・リドルの編曲指揮のオーケストラを伴奏にアメリカン・スタンダード曲を歌ったアルバム(1985)である。
プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ヘルマン・プライ、バーバラ・ヘンドリックス、ジェシー・ノーマンなど、オペラ歌手がポピュラー・ソングをレコーディングした例は多いがこの作品は別格だ。

歌手の名前を伏せた「目隠しテスト」をしてキリの名を当てることはおそらく難しいだろう。
というのも、ここでのキリは、クラシックやオペラの唱法ではなく、一貫して完全に地声のポピュラー唱法で歌いきっているからだ。
それも往年のバンド・シンガーのスタイルである。
彼女はミュージカルが好きで、アルバイトでナイト・クラブで歌っていたこともあり、シナトラやエラのアルバムの編曲・伴奏を手掛けたリドルの大ファンだったそうだ。

おそらくリンダ・ロンシュタット&ネルソン・リドルのスタンダード三部作を聴いていたのであろう、キリはリドルの伴奏でスタンダードを歌うことを熱望し、実現させたのである。

“BLUE SKIES”はアルバムの冒頭に収録されておりアルバム・タイトルにもなっている。
ジャジーなリズム・セクションと美しいストリングスをバックに、よくコントロールされた粘り気のあるヴォーカルを聴かせる。
リドルはキリの歌を聴いたことがなかったそうだが、プロデューサーが送った“オーヴェルニュの歌”を聴いたリドルは即座にオーケイしたという。
ただひとつの条件は「決してオペラティックには歌わないこと」だった。
キリのクリーミーな美声から地声で十分だと判断したのであろう。
キリに「オペラ歌手がポップを歌ってみる、というサウンドにならないよう。そのためにはその美しい声の四分の一だけ使えばいい」とアドバイスしたそうだ。
リドルは、歌のキーを本来のキリのものより半音以上低くするという工夫までしている。

そしてこのアルバムは、その名アレンジャー、ネルソン・リドルの遺作となってしまった…。

体型はオペラ歌手だという例え(蚤助)

#588: リトル・ホンダ

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本田圭佑はミラン入団の記者会見で「心の中のリトル・ホンダに聞いた。そうしたら“ミランでプレーしたい”と答えた。それが決断した理由。すべきこと、それはピッチで結果を残すことだ」と語った。

「幼いころからの夢がかなった。12歳の時、いつかセリエAでプレーしたいと作文に書いた。10番をつけたいと思っていたので本当にうれしい。でもすべては今日から始まったばかりだ」とも語り、ご丁寧に12歳の彼が小学校の卒業文集に確かにそう書いていたことが報道されていた。

そこで、蝉坊氏からぜひブログの記事にしてほしいと要望があったのが、ズバリ“LITTLE HONDA”、実にタイムリーなリクエストである(笑)。


“YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA”

ホンダが二輪車で米国進出を開始したのが1959年のことだったが、状況は厳しいものだった。

1940年代末に設立されたバイク・クラブ、ヘルズ・エンジェルズの派手な示威活動がアメリカの一般市民に嫌悪されていたことや、1953年、史上初めて暴走族をテーマにした映画『乱暴者』(The Wild One)が公開され、主演したマーロン・ブランドが革ジャンとジーンズでオートバイにまたがる姿が一部の若者たちに支持されたものの、いわゆる良識ある社会にとっては看過できないようなマイナスの空気を醸成していた。
そうしたこともあって、二輪車はアウトローの危険な遊び道具という悪いイメージが定着していた。
当時、自動車社会の米国では二輪車のマーケットは年間わずか6万台にすぎなかったという。

そういう状況を払拭すべく、ホンダは上記の「ナイセスト・ピープル」を謳ったキャンペーンを展開し、バイクのある新しいライフスタイルを提案した。


主婦や親子、カップルといった“NICEST PEOPLE”がミニ・バイクに乗っている姿を提示し、米国の一般家庭にバイクという移動手段を認知させ、新しいおしゃれな乗り物として社会にアピールしたのである。
結果、若者たちの圧倒的な支持を得て対米輸出が急増し、65年には26.8万台に達した。

この「ナイセスト・ピープル」キャンペーンは、フォルクスワーゲンのビートル車の一連の広告と並んで、米国の広告史上最も成功した例として知られている。
当時、ケネディ大統領は日本の池田首相に「ホンダがアメリカの青少年に新しいライフ・スタイルを与えた」と語ったほど、アメリカ人のバイクに対するイメージを大きく変えたのだ。

♪ ♪
このキャンペーン効果は音楽にも及んだ。
ホット・ロッド・ミュージックである。
サーフ・ミュージックに次いで生まれ、ほぼ同時進行で流行したが、自動車やオートバイの疾走感を表現したものである。

おそらく広告代理店などの戦略もあったのだろうが、1963年にビーチ・ボーイズは“HONDA 55”(ホンダ・フィフティファイヴ)というラジオ用のCMソングを歌っており、コンサートではホンダのバイクに乗って登場する演出までしていたという。

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが、映画『ビーチ・ガール』(THE GIRLS ON THE BEACH‐1965)のために書き下ろしたのが“LITTLE HONDA”で、同じくビーチ・ボーイズのマイク・ラヴが詞を書いた。
若者に大人気のホンダ・ミニバイクを題材にした曲で、1964年にリリースされたビーチ・ボーイズ初のミリオン・セラー・アルバム“ALL SUMMER LONG”に収録された。
また、コンパクト盤“4 BY THE BEACH BOYS”にも収録され、EP盤ながら全米65位にランクされるヒットとなったが、ブライアンにはシングル・カットする気はなかった。

そこに目をつけたのが、アレンジャーのゲイリー・アッシャー。
アッシャーはヒットを直感し、バイクをテーマにしたアルバムの制作にかかる。
グレン・キャンベル(G)、トミー・テデスコ(G)、アル・デロリー(KEY)らに加え、チャック・ジラード(VO)、ジョー・ケリー(VO)など腕利きのスタジオ・ミュージシャンを集めたのだ。
こうして、実体のない「でっちあげバンド」“ザ・ホンデルス”が生まれたのだが、彼らの“LITTLE HONDA”が何と本家ビーチ・ボーイズよりもヒットしてしまうのだ(こちら)。


(THE HONDELLS/GO LITTLE HONDA)
1964年当時、音楽評論家の高崎一郎がこう解説している。

ホンデルスのリトル・ホンダが全米ヒット・パレードに飛び込んだのは9月12日。84位、60位、47位、29位、21位、13位、11位、9位と、一週ごとに上昇。全くホンダの車並みの大馬力のヒットでした。この曲は、サーフィンの元祖で、ホット・ロッドの親玉みたいなアメリカで最高に人気のあるビーチ・ボーイズのメンバーが作曲し、彼らのLPに入れた曲。それを「こりゃイカスよ。ホンダラ僕たちも歌おう」と、ホンダにあやかってホンデルスという名を付けたグループがシングル盤で発表。これが当たったという訳です。もちろん、ビーチ・ボーイズもその後すぐオリジナルのシングル盤を発売。これもヒットしちゃったんですから、すごい力ですね。最近ではパット・ブーンも歌っています。ナンタッテ、日本のホンダがアメリカの青年たちに愛され、おまけにアメリカのヒットパレード界をかきみだしたということは、痛快なこと。素晴らしい事です。

♪ ♪ ♪
I'm gonna wake you up early 'cause I'm gonna take a ride with you.
We're goin' down to the Honda Shop, I'll tell ya what we're gonna do
Put on ragged sweat shirt I'll take you anywhere you want me to.
First gear it's all right
Second gear a lean right
Third gear hang on tight
Faster it's all right…

君を早く起こそう 君を連れて一乗りしたいから
一緒にホンダ・ショップに行って これから何をするか教えよう
着古したスウェット・シャツを着たら 君の行きたいところへ連れて行こう
  ファースト・ギア オーケイ
  セカンド・ギア 少し屈んで
  サード・ギア しっかりつかまって
  さあ飛ばそう いい感じ…
曲もノリノリで最高だが、歌詞も“ragged sweat shirt”(着古したスウェット・シャツ)など、作詞したマイク・ラヴらしい洒落た小道具を出してきたりして、イメージを膨らませているのがニクイ。
余談だが、マイクは泉谷しげるって感じだよね…(笑)。
雪国生まれ、北国育ちの蚤助としては、古き良き時代の南カリフォルニアへの淡い憧れを掻き立たせてくれる。


(THE BEACH BOYS/ALL SUMMER LONG)
本家ビーチ・ボーイズのヴァージョンは、エンジン音をイメージしたバックのハミングコーラスがまことに素晴らしく、唸るベースとギターの絶妙なカッティングと相俟って、グングンとリスナーに迫ってくる(こちら)。
音楽の完成度からいえば、ホンデルス盤を完全に上回っているのを再確認した次第。
なお、ホンダのミニ・バイクはアルバム・タイトルとなっている名曲“ALL SUMMER LONG”の歌詞にも出てくるので、やはり当時はホンダの二輪車はマストアイテムとなっていたのだろう。

冷蔵庫満タンにしたミニバイク(蚤助)
GO! HONDA!

#589: 嘘について

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「嘘は泥棒のはじまり」という。

「嘘」とは、基本的に「事実でないこと」や「事実でないことをを本当であるかのように言うこと」である。
「嘘の文字を書く」といえば「間違った」ということだし、「ここで引き下がっては嘘だ」といえば「適切でない」ことである。
このように、多くの場合、「嘘」は悪いことだと認識されている。

だが、他人を喜ばせるための嘘は“WHITE LIE”と呼ばれて好意的に捉えられているし、年齢のサバを読んだり大げさなホラを吹いたりすることは、その心情への感情移入やユーモアなどと相まって大きな抵抗感もなく受け止められることが多い。
やはり「嘘も方便」ということなのだろう。

嘘をつくと、無意識のうちに眼がキョロキョロしたり身振り手振りが大げさになったりするが、これが俗に「目が泳ぐ」という状態である。
声が必要以上に大きくなったり、逆に、小さくなったりすることもある。
ある調査によれば、男性は嘘をつくと眼が合わせられなくなるが、女性は反対に嘘をつくと相手の眼をじっと見る傾向がある、という。
皆の衆、心しておかれたし!(笑)。

「嘘」といえば、論理学で学ぶような「嘘のパラドックス」というのもある。
よく推理クイズなどで出てくるような問題で、「クレタ人が“クレタ人は嘘つきだ”と言ったがこれは信用できるか」とか「天国と地獄に通じる分かれ道に正直者と嘘つきが立っていて、天国に行くためにどちらかに1回だけ質問することが許された場合、さて何と訊ねたらよいか」などというものである。
正直者は必ず正直に答え、嘘つきは必ず嘘をつくというのがミソのようで、解答の方はモノの本なりインターネットで検索してみてほしい。


話は飛ぶが、「嘘」について書かれた曲と言えば、昭和47年(1974)にヒットした“うそ”(山口洋子作詞、平尾昌晃作曲)を思い出す。
中条きよしのデビュー曲で、彼はこの曲でめでたく紅白歌合戦への初出場を遂げた。
この年流行したのが“なみだの操”(殿さまキングス)、“あなた”(小坂明子)だったそうだが、もうそんな昔のことだったのかという別の感慨も生まれてきそうだ(笑)。

海外の曲ではやはり“嘘は罪”(IT'S A SIN TO TELL A LIE)というスタンダード・ナンバーであろうか。
以前、こちらで紹介したこともある。
1936年に作られた古い曲だが、作者のビリー・メイヒューという人の素性ははっきりせず、いわば「謎のヴェール」に包まれた人物なのだ。
彼の作品はこれ以外に知られているものがなく、まさに名実ともに一発屋で、しかも特大の満塁ホームランだった。
何らかの事情で、誰かほかのソングライターがペンネームを使った可能性もあり、いわば「嘘」だったかもしれないのだ。

嘘は英語で“LIE”、嘘つきは“LIAR”だが、日本語よりもはるかに強烈な語感を持っているらしく、他人から“LIE”とか“LIAR”と言われたら、決闘をしなければならないほど相手の人格を傷つける強い言葉なのだそうだ。
日本では「嘘から出たまこと」とか言っているが、「嘘から出た決闘」などというのはシャレにはならない。
時として「嘘」が恐ろしい結果を招くことがあることを忘れてはならないだろう。


(真実の口)
♪ ♪
もう5年も前になってしまったが、平成21年11月のNHK文芸選評・川柳の課題が「嘘」(選者は安藤波瑠さん)であった。
どんな「嘘」が選ばれたのだろうか。
川柳を作る参考になれば幸いである。

 課題「嘘」 安藤波瑠・選

美しい嘘を並べた入門書 (柴田忠司)
ふつつかは嘘じゃなかったハネムーン (葉玉 久)
温かい嘘をきいてる千羽鶴 (加納金子)
ガン告知嘘じゃないかと空に問う (安藤キサ子)
傷つけぬセリフ選ぶと嘘になる (林田あつ子)
美しい嘘は気付かぬ振りをする (谷口嘉子)
嘘も罪でも真実はもっと罪 (赤津光治)
いい嘘が言えて大人の仲間入り (奥田 実)
繕えば一つの嘘が雪だるま (井岡 榮)
釈明の視線が少しずつ逸れる (野村信之)
流し目の嘘おっしゃいへ飲みに行く (石川禎紀)
綺麗だと嘘でも一度言われたい (樋口 眞)
ビタミンの顔にもなれる軽い嘘 (吉富 廣)
武勇伝少しの嘘は糺すまい (金井矩子)
嘘つきと泣かれ出勤日曜日 (小西章雄)
ばれたかな優しい妻の目を避ける (問可圧子)
神様が大吉ですと喜ばす (加賀山一興)
本物と信じて買った桐の箱 (足立 茂)
惚けてみる誰が一番優しいか (本田純子)



言い訳を考え乍ら終電車 (浦本狂児)
うそに嘘重ねた嘘が動けない (宮?竹葉)
泥海を泳いで渡る二枚舌 (釈 翔空)
総務部で叔父が死ぬのは三回目 (阪井 周)
生きている都合時々うそを言う (古渕さと子)
おふくろと妻の狭間でつらい嘘 (樋川眞一)
仮病の子ときにはそっと休ませる (川北英雄)
善人のつく嘘なんてたかが知れ (澤 磨育)
ほんわかとさせる嘘なら罪は無い (伏見久江)
嘘の羽根付けて噂は飛んで行く (赤井武次)
ドンファンの嘘は鼓膜に心地よい (清水展利)
嘘のない日記に鍵が欠かせない (古田哲弥)
嘘少し混ぜて自分史補修する (幸田益二)
年老いた母には笑顔だけを見せ (栗林むつみ)
世辞ひとつ言えば潤う世間体 (木村残の介)
嘘少し混ぜて宴会盛り上げる  (鈴木由美子)
うそつかれうそを見抜けるようになり (佐々木桂子)
仲人の嘘を笑って五十年 (さとうかず枝)
おれおれに泣かれ母性が耐えきれぬ (山口昭悦)
どちらかと言えばホワイト・ライの優しい句が多いが、それでも皮肉あり、自戒あり、願望ありで「嘘もいろいろ」である。
この回、以下の拙句を佳作に選んでいただいた。

言い訳の山場で妻が眉を上げ (蚤助)
久方ぶりの川柳ネタであった。


(書いたはずのない三角形が見える…)

#590: 私の小さな夢

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Stars shining bright above you
Night breezes seem to whisper "I love you"
Birds singin' in the sycamore trees
Dream a little drream of me…

星はあなたの上で瞬き
夜風は“アイ・ラヴ・ユー”とささやきかけているみたい
鳥はプラタナスの木々の間で歌っている
どうぞ 少しでも私の夢を見てください…
こういった調子の、どちらかと言えば控えめな女心の告白の歌である。
タイトルは“DREAM A LITTLE DREAM OF ME”、「私の夢を見ておくれ」とか「私の小さな夢」という邦題がつけられている。

“SIDE BY SIDE”、“I'M THROUGH WITH LOVE”、“MAKIN' WHOOPEE”など、人間味あふれた温かい歌を数多く書いたドラム・カーン(管)、いや、スイドウ・カーン(管)、もといガス・カーンが作詞した(笑)。
作曲したのは、ウィルバー・シュワントとファビアン・アンドレで、二人はウィスコンシン州出身の同郷でそれぞれギターとベースの名手として知られていたが、クラシック音楽の素養もあり、おもにラテン音楽を得意にしていた。
1931年、昭和6年の作品で、20世紀ポピュラー音楽の夜明けの時代であった。

古き良き時代の雰囲気を濃厚にたたえたラヴ・ソングではあるが、スウィートでよくスウィングする楽曲なので、古めかしさをあまり感じさせない。
リッキー・ネルソンの親父さんでスウイング時代のバンドリーダー兼作曲家であったオジー・ネルソンの楽団やウェイン・キング楽団が紹介し、ケイト・スミスが最初にヒットさせた。

オジー・ネルソン楽団やウェイン・キング楽団版はさすがに見つけられなかったので、まずは太めぽっちゃりのケイト・スミスのピアノ弾き語り(オーケストラ伴奏つき)を彼女のTVショウからどうぞ(こちら)。


(Kate Smith)
この歌、彼女のヒット以後しばらく忘れられていたのだが、47年に決してリスナーを裏切らないナット・キング・コールのキャピトル盤がリヴァイヴァル・ヒット、50年にはルイ・アームストロングとエラ・フィッツジェラルドのデュエット盤がヒットした。
特に、エラの名唱とルイの溌剌としたトランペットをフィーチャーしたデッカ盤は愛すべき出来栄えである(こちら)。

以後、ポピュラーソングのスタンダードとして多くの歌手によってカヴァーされることになるが、歌詞の内容がどちらかといえば女性向きの歌なので女性歌手によって歌われることが多かった。
ところが、不思議なことに多くの男性歌手がこの曲を得意にしているのだ。
ナット・コールをはじめビング・クロスビー、ミルス・ブラザース、ディーン・マーティンなどいずれも甲乙つけがたい出来で、どれも聴いていて楽しい。
ルイ・アームストロングなどは、エラとのデュエットのほかに、単独でも吹き込んでいて十八番にしていたナンバーなのである。

だが、数多くの歌手がカヴァーしたわりに、全米ヒット・チャートに入ったのは、フランキー・“ローハイド”・レインのヴァージョンだけだったというのが不思議といえば不思議である(こちら)。

68年にママス&パパスのママ・キャスことキャス・エリオットが再びリヴァイヴァルさせたが、ある意味で、この歌で最も記憶に残るヴァージョンではないだろうか。


(Mama Cass/Dream A Little Dream Of Me)
彼女は、フォーク・ロック・サウンドで成功した巧みなコーラス・ワークが売りのママス&パパスを経てソロに転じ、最初のヒット(全米12位)がこの曲であった。
さりげなく歌いつつも、温かいパーソナリティまで伝ってくるような表現力が素晴らしい(こちら)。
この歌の理想に近いヴァージョンではないかと思う。

ちなみに、エラも含めて、ここに紹介した女性歌手がいずれもぽっちゃり系であることは果たして偶然であろうか(笑)。
しかもみんなチャーミングだのがうれしいね。


ママが乗る体重計がかわいそう (蚤助)

#591: 魅惑の宵

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ピュリッツァー賞を受賞したジェームズ・ミッチェナーの『南太平洋物語』(Tales Of The South Pacific)は、第二次世界大戦中の南太平洋の島を舞台にした短編小説集で、これを元にしたのがミュージカル『南太平洋』(South Pacific)である。
リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン?世のコンビは43年の『オクラホマ!』から59年の『サウンド・オブ・ミュージック』まで合計9編のミュージカルを作っているが、これは第4作目にあたる。
49年ブロードウェイで幕が上がった初演ステージは54年まで足かけ6年1925回に及ぶロングランを記録、トニー賞8部門に輝いた。

この大ヒット・ミュージカルからはいくつものヒット曲が生まれた。
“バリ・ハイ”(Bali Hai)、“ワンダフル・ガイ”(A Wonderful Guy)、“春よりも若く”(Younger Than Springtime)、“ハッピー・トーク”(Happy Talk)、ほかにも佳曲が散りばめられているが、最大のショウストッパーは“魅惑の宵”(Some Enchanted Evening)で、全米チャートに6ヴァージョンがトップ・テン入り、全米ナンバーワンにもなるというメガ・ヒット曲となった。

ロジャース&ハマースタインは初演の主役を務めたミュージカルの女王メリー・マーティンとメトロポリタン・オペラの名高いバス歌手エツィオ・ピンザを想定して曲を書いたという。
大スターの二人が歌で競合しないように、女性には若々しく活発でいかにもヤンキー娘らしい歌を、男性にはソウルフルでハートフルな歌をということで、ランザがこの曲を歌うこととなった。
メリー・マーティンはこの曲を聴いてこのミュージカルに出演することを決心したという。

ピンザの歌う“魅惑の宵”は、貫禄十分で、オリジナル・キャスト盤はアルバム・チャートで1年以上も1位を続け、シングル・カットされたランザの歌は全米7位にランクされた(こちら)。

58年には、ブロードウェイで演出を担当したジョシュア・ローガンが自らメガホンをとって映画化、映画のサウンドトラック盤とともに、日本でも大ヒットした。


当然ながら、舞台版の方は知らないので映画版について少し語っておこう。

南太平洋に浮かぶ美しい小島にも太平洋戦争の影がしのびよっている。、ある日、特別任務を帯びて米軍のケーブル中尉(ジョン・カー)がやってくる。戦前から島に住むフランス人の農場主エミール(ロッサノ・ブラッツィ)に、日本軍の動向偵察のためガイド役を頼もうというのだった。だが、エミールは美しい従軍看護婦ネリー(ミッツィ・ゲイナー)に想いを寄せており、彼女も彼に好意を持っていて、危険を伴う任務を承知するはずもなかった。


ケーブルは、島で兵隊相手の土産売りをしているブラディ・メリー(ファニタ・ホール)の案内で魅惑の島バリ・ハイの見物に出かける。ここで彼はメリーの娘リアット(フランス・ニュイエン)に紹介され一目惚れしてしまう。メリーはケーブルを娘婿にしようと思っているが、ケーブルの方は、人種問題が頭をよぎってなかなか決断できない。メリーはリアットに彼と逢うことを禁じてしまう。


エミールの農場では、ネリーが幸福感に酔いしれていたが、いつも農園にいる二人の子供が、ポリネシア人の亡妻とエミールとの間の子供であることを知り、ショックを受け彼のもとを去ってしまう。エミールは失意のあまり偵察のガイド役を承諾し、ケーブルとともに日本軍のいる島に渡って偵察することに成功したが、ケーブルは戦死、エミールも行方不明となってしまう。ネリーはエミールをいかに愛していたか初めて知り、二人の子供とともに彼の無事を祈ることにする…

通常、舞台ミュージカルの映画化といえば、様々な理由でミュージカル・ナンバーの追加や削除など変更が行われるものだが、この作品はオリジナルの楽曲がすべて過不足なく使用されたという。
舞台演出をしたローガンが監督したということもあっただろうが、ロジャース&ハマースタインの音楽がそれだけ高い完成度を持っていたということなのだろう。
さらに、2か月間ハワイのカウアイ島で行われたというレオン・シャムロイによるロケーション撮影が素晴らしい。
だが、カラー・フィルターをかけた余計な色彩処理を行っているのが難点である。
ローガンはステージでの照明転換を意識したと弁解しているが、正直言って折角の美しい色彩と風景が台無しであるし、さらには長尺過ぎていささか大味な印象を与えるのが残念である。
ただ、ネリー役のミッツィ・ゲイナーの歌いぶり、舞台でもブラディ・メリーを演じたファニタ・ホールの存在感が素晴らしい。

“魅惑の宵”は初老の農場主エミールが若い女性看護師ネリーに年の差を越えて自分の思いを告げるナンバーで、ロッサノ・ブラッツィの歌はイタリアの歌手ジョルジオ・トッツィによる吹き替えである(こちら)。

Some enchanted evening you may see a stranger
you may see a stranger across a crowded room
And somehow you know, you know even then
That somewhere you'll see her again again…

ある魅力的な夜のこと その人の姿を見るかもしれない
客であふれた部屋の向こうに その人の姿を
そしてなぜか分かるのだ その時にはもう分かってしまう
きっとどこかで 何度も彼女に会うことになるだろうと

ある魅力的な夜のこと 多分その人は笑っているだろう
客であふれた部屋の向こうから その笑い声が耳に届く
すると毎晩 思えば不思議だが
彼女の笑い声が夢の中で 歌うように響くのだ

誰にも説明できない 誰にもなぜかわからない
詮索するのは愚か者 賢い人は微笑むだけ

ひとたび愛する人を見つけたら 決して彼女を離してはいけない…
エミールがネリーに“魅惑の宵”を歌って愛を告白している頃、近くの島では旧日本軍が飢えや病気に悩まされながら、ジャングルの中で苦闘していたかも知れないのだ。
そう考えると、このミュージカルを楽しく観るのもなかなかシンドイ…。

ヴォーカルではペリー・コモ、ビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ジョー・スタッフォードなどどれも素敵だが、特にペリー・コモはミッチェル・エアーズ・オーケストラの伴奏によるSP盤が日本でのデビュー(50年)だったということもあって、この曲の大本命と評する向きが多い。
比較的最近では、2007年にアート・ガーファンクルがこの曲をタイトルにしたスタンダード曲集を発表し、少しジャズっぽい歌唱を聴かせている(こちら)。

この曲、多くの人にとっては、おそらくマントヴァーニのオーケストレーションで耳に馴染んでいるのではないだろうか(こちら)。
マントヴァーニ・オーケストラの特徴であるカスケーディング・ストリングス(滝が流れ落ちるようなサウンドのストリングス)が見事な効果を挙げている。

マントヴァーニが出たところで、もうひとつ、マントヴァーニの作った“カラ・ミア”(Cara Mia)を大ヒットさせたジェイ&アメリカンズが、“カラ・ミア”に続くヒットを狙って1965年にこの曲を録音している(こちら)。


リード・ヴォーカルのジェイ・ブラックがこれを録音したのは、有名な歌を取り上げて実力を証明したかったからだというが、彼のパワフルなハイテノールは、この種の朗々とした歌には余りにもピッタリである。
ストリングスを交えた力強いアップ・ビートに乗せてコーラスが絡み合い美しいハーモニーを醸しだしている。
エンディングの“Once you have found her, never let her go!”(ひとたび愛する人を見つけたら決して彼女を離してはいけない)のところなどはまことにドラマチックなクライマックスでシビレること請け合いだ(笑)。
すこぶる上等のロック・ヴァージョンである。

星の名を知って夜空に魅惑され(蚤助)

#592: ラッシュ・ライフ

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デューク・エリントンが片腕、いやそれどころか分身のように愛し、その作編曲家としての才能を認めて重用したのがビリー・ストレイホーン(1915-1967)であった。
エリントンのアイデアを具体化し色づけするためのパレットのような存在であり、エリントン楽団のオープニング・テーマとなった“TAKE THE 'A' TRAIN”(A列車で行こう)の作者として有名である。

ストレイホーンは、母親が買い与えたピアノを学ぶことでクラシックの素養を身につけたが、聴音と読譜の才能は天性のものだったそうだ。
彼がエリントン楽団に入ったのは、39年24歳のときだが、その前年、エリントンのオーディション用に披露したのが“ラッシュ・ライフ”(LUSH LIFE)という曲である。
エリントンはこの曲を聴いて彼の才能を確信したのだった。

しかし、エリントンはオーケストラの演奏用には向かないと判断したようで、聴衆の前で演奏されるようになるまで10年の歳月を要した。
49年にストレイホーン自ら歌詞を書き、それをナット・キング・コールが歌ってヒット、以後美しい旋律を持ったバラードの傑作スタンダードとして多くの人に愛されるようになった。
ストレイホーン自身、この曲はピアノ伴奏で歌手によって歌われることが望ましいと思っていたという。

何人かの著名な音楽評論家の書いたものに、“LUSH LIFE”を『豊かな人生』だとか『みずみずしい人生』だとかと説明してあったのを疑うこともせずに信じていたのだが、今回この記事を書くにあたって歌詞の内容を調べていったら、はからずも諸先生方の解説があまりにも一面的すぎるのではないかと思うようになってしまった。

“LUSH”は、確かに「豪勢、豪華、実りの多い、(植物が)青々と茂る」などという意味で、直訳としては間違ってはいないのだが、アメリカの俗語として「やけっぱち、飲んだくれ」とかいう意味もある。
歌詞の中身をみると、ある意味“immoral”な歌で、『豊かな人生』だとか『みずみずしい人生』だとかになるはずがない。
もっとも蚤助にとっては相当歯ごたえがある歌詞で、咀嚼するのも難しいので、いいかげんな解釈なのだが…(笑)。

ストレイホーンは、非常に繊細な感性の持ち主で、自然を愛でるセンスは哲学的であり、独特の詩的情緒があった。
この曲には人生の明暗についてストーリー性のある長いヴァースがある。
コーラス部の歌詞の内容とあいまって、なかなかの難曲なのだが、ほとんどの歌手はこのヴァースからじっくりと歌っている。

<Verse>
I used to visit all the very gay places, those come what may places
Where one relaxes on the axis of the wheel of life
To get the feel of life from jazz and cocktails…

昔はよくいかがわしい場所に行ったものだ
そういう所ではジャズとかカクテルから生きる力を得て
生活の車輪が軸に収まりリラックスする
知っている女たちは悲しげで暗い陰気な顔をしていた
女たちの顔には濃い化粧跡が残り
それは一日中客の相手をしていたからだと
誰でもわかっていた
そんなとき君が現れ 狂わんばかりの誘惑をしてきた
君の影ある微笑は 私への悲しい恋のせいだと思った
だがそれは間違いだった またしても私は間違ったのだ…

<Chorus>
Life is lonely again and only last year everything seemed so sure
Now life is awful again…

人生はまた寂しくなる つい昨年まではすべてが確かなものに思えたが
また生活がひどいものになる 多くの人の気持ちもただうんざりするだけ
パリに一週間いればそんな傷も癒えるのに
だから私は微笑を心がけている
君が私の脳裏に焼きついているうちに 君のことを忘れてやるのだ
ロマンスというものは あくせくしている者たちには
息も詰まるような戯言だ
私はどこかの小さな酒場で やけっぱちの人生を送ろう
同じように寂しい人生を送っている連中と一緒に
そこで酔いつぶれ朽ち果てながら…
フ〜、なかなか難しいですな(汗)。

ジャズやカクテル、女性との出会いに人生の癒しを求めてきた者が、どこか場末の酒場のオネエチャンを見ながら酒を飲ませるような店で、そこのオネエチャンと恋に落ち、毎日を送っているうちに、やがて彼女はいなくなり、その恋を忘れるために酒浸りになっていく、というわけだ。

メロディといいハーモニーといいエリントン風で、曲調も優雅で優しい印象がするが、孤独ですさんだやけっぱちの人生を嘆く歌詞を知ると、とても『豊かな人生』とか『みずみずしい人生』とかというタイトルは似つかわしくないことが分かるであろう。
だが、ストレイホーンの意図が、ポジティブな意味とネガティブな意味を合わせもつ“LUSH”という言葉を使うことによって、自分の「やけっぱちの人生」を「豊かな人生」だったと皮肉な眼差しで振り返るという高等なレトリックだったかもしれないとも思えてくる。
もしそうだとすれば、そのメッセージの奥深さや普遍性がより強く感じられる。


ジョン・コルトレーンがヴォーカルのジョニー・ハートマンと共演したもの(63年)が屈指の名作である。
コルトレーンとハートマンのふたつの異なる個性のコラボレーションが新しい美を作り出している(こちら)。
ハートマンは、マッコイ・タイナー(P)の伴奏のみでヴァースを歌い始め、コーラスに入るとコルトレーン(TS)、ジミー・ギャリソン(B)、エルヴィン・ジョーンズ(DS)も参加する。
前半コルトレーンはオブリガートのみ、後半はダイナミックなソロを展開し、最後は再びテンポを落として渋く決めている。
なお、コルトレーンはこの曲をタイトルにしたアルバム(57年)も残している。


ストレイホーンは同性愛者で、生涯煙草を離さず酒浸りの生活を送っていて、彼が食道癌で死んだとき、友人たちは癌でなくともアルコールのため長生きできなかったはずだ、と思ったという。
彼は“LUSH LIFE”を自ら実践したのだった。

この曲、“LUSH LIFE”で、決して“RUSH LIFE”(忙しい人生)ではない。
人生の終着点が見えてきた今こそ“R”から“L”にしなければならぬと思う。
ただし、蚤助の“LUSH LFE”は、決して「やけっぱちの人生」や「飲んだくれ人生」ではないので、念のため…(笑)。

望みとは違う人生生きている(蚤助)

#593: フールズ・ラッシュ・イン

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一頃パニック映画がブームになったことがあったが、そのひとつにマーク・ロブソン監督の『大地震』(Earthquake‐1974)というのがあった。
ロサンゼルス大地震を題材にしたパニック映画で、チャールトン・ヘストン、エヴァ・ガードナーらが出演していた。
この作品が蚤助にとって懐かしいのは、今から20年ほど前、妻子とともに訪れたマイアミのユニヴァーサル・スタジオに「大地震」と名付けられたアミューズメント施設があって、結構楽しんだ記憶があるからだ。
地震によるビルの崩壊や火災、洪水などが映画の特殊効果等の技術によってリアリティいっぱいに再現され、客が映画の登場人物と同様のパニック体験ができるというものだった。

また、やはりパニック映画に「大空港」シリーズがあって4作ほど作られたが、たまたまバート・ランカスターが主演した『大空港』が大ヒットしたため、二匹目、三匹目のドジョウを狙って続く作品が製作されたものであろう。
だが、シリーズものによくあるように、これも後続の作品ほど出来が悪くなっていった。
豪華キャストを揃え、パニックの設定や描写もそれなりに工夫がこらされているのに、全体としてチープな印象しか残らないのは、肝心の人間のドラマが薄っぺらだからである。
まことに残念なシリーズというべきであった(笑)。

ところで、『大地震』、大空港シリーズの3作目『エアポート'77/バミューダからの脱出』、4作目の『エアポート'80』に、モニカ・ルイスというちょっとジョーン・フォンテーンに感じが似た美人女優が出演していた。
彼女は歌も上手くて、何枚かアルバムを出しているが、“FOOLS RUSH IN”と題したアルバムがあるのだ(冒頭画像)。
録音は50年代の中頃であろうか。

昨今、ジャケ買い、すなわち、内容はともかくジャケットに惹かれてアルバムを買うということが巷で流行っているが、中古レコード・CDショップではわざわざ「ジャケ買い」のためのコーナーを設けているところもある。
店主も心得たもので、客の気を惹きそうなものをあれこれと取り揃えている。
「蚤助のジャケ買いというのはどうせヌードだろう」という声がどこからか聞こえてきそうだが、それは若いころのハナシであって、最近はもっと現実的なのである(笑)。
モニカ・ルイス嬢のこのアルバムのジャケットはグラフィック・デザイナーのバート・ゴールドブラットの手になるもので、ジャケットの左下に小さく彼の名前がクレジットされている。
なかなかいいジャケットでしょ?
元々10インチ盤で出たオリジナル・ジャケットを使用したCDなのだが、これとは別に同一内容でジャケット違いの“BUT BEAUTIFUL”と題されたCDも出ている。

彼女が歌う“FOOLS RUSH IN”は、50年代の典型的な白人女性シンガーのスタイルで、ジャック・ケリーのアレンジとアンサンブルを伴奏に個性的な歌を披露している。
ちなみに、こちらに出てくる写真がジャケット違いの“BUT BEAUTIFUL”である。
この頃活躍した多くの女性シンガーの中でも、特にGIに人気があった歌い手だそうで、なるほどドラマティックながら時には優しく包み込むような母性を感じさせるところがあり、兵隊たちの郷愁を誘う声だったのであろう。

ということで、だいぶ長いイントロだが、今回のお題は“FOOLS RUSH IN”という曲なのである。
前稿が“LUSH LIFE”と“LUSH”だったので、今回は“FOOLS RUSH IN”と“RUSH”で、ラッシュはラッシュでも“L”から“R”へと話題は連想ゲームのように移ったのだ。

さて、この曲、歌手上がりで、作詞のセンスを買われて作詞家に転身し、みごとに大家となったジョニー・マーサーが作詞したものである。
アメリカの主な作曲家のほとんどに詞を提供し、数々の名曲を生み出し、キャピトル・レコードの設立者の一人としても知られる。
そのマーサーが、リューブ・ブルーム(作曲)と組んで、1940年に発表した。

かつて、ファンから“ザ・ヴォイス”(THE VOICE)という愛称を献上されたフランク・シナトラが素晴らしいバラードのひとつとして例に挙げたことがあるナンバーだが、40年当時トミー・ドーシー楽団の専属シンガーであった若き日のシナトラ自身が歌って大ヒットさせた曲なので、持ち上げるのも当然といえば当然であった(笑)。
以後、シナトラにとっては大切なレパートリーとなって、何度か録音しているのだが、60年にネルソン・リドルのアレンジで歌ったものが、特に素晴らしく蚤助お気に入りである(こちら)。


(FRANK SINATRA/NICE 'N' EASY)
このアレンジはそのままカラオケとして発売されたことがあるそうで、そのカラオケで歌ってシナトラの気分になってみたいものだが、気分はシナトラでも上手に歌えるかどうかはまた別のハナシであることは「十分承知の介」である(笑)。

“RUSH”は、「急ぐ、せきたてる、突進、殺到、忙しさ、勢いよく流れる…」などという意味だが、“RUSH IN”だと「駆け込む、飛び込む」という意味であろうか。
“FOOLS”はもちろん「馬鹿、愚か者」のことである。

Fools rush in where angels fear to tread
And so I come to you my love, my heart above my head…

愚か者は飛び込む 天使が踏み込むのを恐れるところへ
そして私も来てしまった あなたのもとへ
私の心は頭の上にあるようだ
危険は承知しているけれど でもチャンスがあるならかまわない

愚か者は駆け込んでいく 賢者が決して行かないところへ
でも賢者は決して恋をしたりしない ならばそんな人たちに何が分かるというのか

あなたに出会って私の人生は始まった だから心を開いてほしい
この愚か者のために…
“FOOLS”が“RUSH IN”するのは「恋」であって、恋をするのは愚か者だと言っているのだが、「私」は喜んで愚か者になろうというのである。
恋する男を愚か者に、それに賢者を対比させたちょっと凝った詞も、甘く悲しいムードをたたえたメロディも実に良い。
ここにいる恋する者を受け入れてほしい…といささかへりくだった表現の中に、恋はすべてのものに盲目となることを証明したような歌だ。
『恋は愚かというけれど』というなかなか秀逸な邦題がつけられている。

実はこの曲の歌詞の出だしがそのまま格言になっているのだ。

“FOOLS RUSH IN WHERE ANGELS FEAR TO TREAD”
「天使も恐れるところへ愚者は踏み込む」、すなわち「愚者はこわいものを知らない」という意味で、日本のことわざで言えば「盲蛇におじず」と、高校時代からお世話になってきたおなじみ研究社の新英和中辞典の“Angel”のところに出ている。
愚かな者は何が恐ろしいか、恐ろしくないかを知らないので、どんな危険なことでも平気でやってしまう、無鉄砲なことがある、というわけだ。

リッキー・ネルソンが古いスタンダード曲を取り上げた例はそんなに多くないが、だいぶ大人っぽくなった63年にこの“FOOLS RUSH IN”をシングル盤として発売し、リバイバル・ヒットさせている。
名前もリッキーからリックに変え、エコーをかけた多重録音でアップ・テンポで歌った(こちら)。
また、“キング”・エルヴィス・プレスリーも歌っているが、リック・ネルソンよりも少し重厚で渋く、はるかに上手い(こちら)。

喋らなきゃバカもしばらくわからない(蚤助)
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