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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#552:スイート・ キャロライン

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この4月、アメリカの市民参加型スポーツ・イベントである伝統のボストン・マラソン大会で爆弾テロ事件が発生し、300人近くの市民が死亡もしくは負傷した。
アメリカ内外に大きな衝撃を与えた事件であったが、これとは別に、事件の余波のひとつとして、思わぬニュースも流れてきた。

テロ事件の発生直後から、かつてニール・ダイアモンドの歌でヒットした“SWEET CAROLINE(Good Times Never Seemed So Good)”(1969)という曲の売り上げが急増しているというのだ。

この曲は大リーグの地元チームであるボストン・レッドソックスのホーム・グラウンド『フェンウェイ・パーク球場』で行われる試合で必ず流され、地元のファンで知らない者はない、というボストンを象徴する曲である。
非公式ではあるが、いわば『フェンウェイ・パーク球場』のテーマ・ソングともいうべき歌で、ボストンへの応援歌とみなされているのであろう。

曲の中に具体的にボストンを示すような歌詞は出てこないのだが、かつて7回裏のレッドソックス攻撃の際に流すシンボル曲を選ぶ際、この曲の反応が一番良かったことから、それ以降、恒例のように流すようになったのだという。

テロ事件後、初めて行われたホームゲームでは、ニール・ダイアモンド本人が登場し、観客とともにこの歌を歌った(こちら)。
また、同じ大リーグのロサンゼルス・ドジャーズや、NBA(全米プロバスケットボール協会)のトロント・ラプターズも、テロ直後のゲームではこの曲を流したと伝えられている。


“SWEET CAROLINE”がシングル・リリースされたのは1969年のことで、発売された当時はさほど評判にならなかった。
ところが、1971年になってイギリスのヒットチャートで火がつき、やがて大ヒットするのである。
当時、私は進学のため田舎から上京し、下宿生活を始めたばかりの頃だったが、聴いていたFMの音楽番組などからこの曲がよく流れていたのを懐かしく思い出すのである。

ニール・ダイアモンドは、今でこそシンガー・ソング・ライターの大物だが、当初は全く売れずに相当苦労したようだ。
彼の才能を最初に認めたのはジェフ・バリーであった。
ジェフ・バリー自身、フィル・スペクターらとともにロネッツの“BE MY BABY”(1963)など、多くの曲を書いたヒット・ソング・ライターだが、彼の推薦で、ザ・モンキーズに提供した自作曲“I'M A BELIEVER”がヒットしたことで、ソング・ライターとしての地歩を固め、やがてこの“SWEET CAROLINE”や“SONG SUNG BLUE”などの全米ナンバーワン・ヒット曲を出すまでになっていく。

Where it began I can't begin to knowin'
But then I know it's growin' strong
Was in the spring and spring became the summer
Who'd have believed you'd come along
Hands, touchin' hands, reachin' out, touchin' me, touchin' you…
どこで始まったのか、僕にはわからないけれど
それがだんだん強くなっていくことを知っている
それは春 そして夏になった
誰が君が現れるって信じられただろう
両手に触れて 手を差し延べて 僕に触れて 君に触れる
可愛いキャロライン 「良い時は決して良く見えない」というけど
決してその諺通りじゃないと 僕は思い始めている

僕は今 夜を見つめている でもそんなに寂しいように見えない
二人だけで夜を満たしているから
僕が傷ついたときでも 痛みは僕の両肩から退いていく
君を抱きしめているとき どうして傷ついていられるだろう
温もりに触れて 手を差し延べて 僕に触れて 君に触れる
可愛いキャロライン 「良い時は決して良く見えない」というけど
決してその諺通りじゃないと 僕は思い始めている…

例によって下手くそな訳なのはご容赦願って、まあ、ざっとこんな内容の歌である。
なお『良い時は決して良く見えない』というのは“Good times never seemed so good”の訳である。

歌手としてのニール・ダイアモンドは歌声にちょっと独特のアクの強さとクセがある(こちら)。
この曲が大ヒットしていたころ、友人の一人が彼の歌に露骨な強い嫌悪感を示していたのを思い出した
当時は、この歌のドラマチックで力強いメロディの良さと作者自身の迫力ある歌をそれなりに擁護していた私だったが、その後ボビー・ウーマックがリヴァイヴァルさせたり、エルヴィス・プレスリーがライヴ・パフォーマンスのレパートリーにしたりするのを聴いているうちに、私もオリジナルのダイアモンドの歌唱よりも、ライヴで歌うプレスリーの歌の方を好ましく思うようになっていた。
というわけで、正直なところ、ダイアモンドの歌は今でも少し苦手なのだ。

♪ ♪
ところで、アメリカのオバマ大統領が、ルース駐日大使の後任に、キャロライン・ケネディ氏を指名したことで、メディアをはじめネット雀たちの声が喧しくなっている。

実は、この曲はそのJFKの愛娘キャロライン本人をイメージして書かれた曲だった、と今回の一連の報道で初めて知ったのだった。


ニール・ダイアモンドは、雑誌『LIFE』の表紙に載ったキャロラインの乗馬服姿を見てインスピレーションを得て、“SWEET CAROLINE”をほんの1時間ほどで書き上げたことを告白していたという。
キャロラインはホワイトハウスの庭でよくポニーに乗って遊んでいたというから、乗馬が得意だったのだろう。

父親のジョン・F・ケネディが暗殺されたのが1963年のことで、長女の彼女はまだ5歳であった。

父親が亡くなって間もなく、キャロラインは母ジャクリーン、弟のJFK・ジュニアとともにホワイトハウスを出て、当時はニューヨークの五番街のペントハウスで生活していたようだ。
その間、叔父のロバート・ケネディまで暗殺されたりするが、ケネディ家に対する世間一般の関心は高く、キャロラインも子供ながら『LIFE』誌の表紙を飾ることがあったのだろう。

ダイアモンドが曲を書いたとき、キャロラインは11歳になっていた。

彼女が、父と同じハーバード大学を卒業し、さらにコロンビア大学のロー・スクールで博士号を取得、弁護士、作家として活動してきたことは、すでに報道されている通りだが、2007年に、ニール・ダイアモンドはキャロラインのバースデイ・パーティーに招かれ、本人の前で、“SWEET CAROLINE”を歌った。
かつて、偉大な父親を亡くして哀しみに耐えていたいたいけな少女の姿に触発されて書いた曲を、その本人を目の前にして歌ったシンガー・ソング・ライターの心境たるや果たしてどんなものだったのだろうか。


政治や外交の経験がないことを不安視する声もあり、歌のようにいつも“SWEET CAROLINE”ではいられないことも多々あろう。
だが、ケネディ・ブランドの人気が今なお高い日本での大使就任が、今後の日米関係の絆の更なる強化につながることを期待しておきたい。

「人に歴史あり、うたにも歴史あり」
妻は外亭主元気にお留守番 (蚤助)

#553: あたしのベビー

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夏休みやお盆の帰省等もあり、あれやこれやで記事の更新をすっかりご無沙汰してしまった。
休眠中も本ブログにはそれなりのアクセス数があったようで、何とも恐縮である。
本ブログを定期的に訪問されている方々にはまことに申し訳ないことであった。
まだまだ夏休み気分が抜けきっていないが、そろりと再開したい。

英王室のロイヤル・ベビー誕生が話題になった。
全く関係のない我が国でもそれなりに盛り上がっていて、

英国のベビー商機にする日本 (蚤助)
ということもあるようで…
実は、我が家にも初孫、小さなお姫さまが誕生したので、やはり今回のお題は「ベビー」とさせてもらった(笑)。


13歳のフランキー・ライモンが兄貴たちと組んだザ・ティーンエイジャーズが“WHY DO FOOLS FALL IN LOVE”(邦題「恋は曲者」)をリリースしたのは1956年のことであったが、この曲にすっかり嵌ってしまったのがヴェロニカ・ベネットというアフリカ系アメリカ人の女の子。
彼女は実姉のエステル、従妹のネドラを誘って3人組のガール・グループを結成した。

ある日、この3人組はかなり派手なファッションで、ニューヨークのペパーミント・ラウンジというクラブに遊びに行った。
そのファッションからクラブのダンサーと間違われステージに上げられてしまう。
これがきっかけで、ツイストをはじめとするリズム・ダンス・チームとして活動し始めるのだが、やがてフィル・スペクターの目にとまりスカウトされるのである。
グループは、ヴェロニカの愛称ロニーをもじって『ロネッツ』(THE RONETTES)と名付けられた。
最初はスペクターの会社フィレス・レコードで他のアーティストのバック・コーラスなどをこなしていたが、彼女らに巡ってきた最大のチャンスは、1963年、フィレス入社の半年後に訪れた。


(フィル・スペクターとザ・ロネッツ)
ザ・ロネッツとしてのレコード・デビュー曲として用意されたのが“BE MY BABY”(邦題「あたしのベビー」)であった。
前稿でもチラッと出てきたヒット・ソングライターのジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチ、それにスペクター自らが協力して書き上げたもので、ホットなヴォーカルとコーラスに彩られたポップな曲であった。
録音を何度も重ねた「音の壁」(Wall Of Sound)と呼ばれた分厚いスペクター・サウンドの典型的な楽曲であり、スペクターが手掛けた代表的なヒット曲のひとつである。


1963年7月から8月にかけて、ハリウッドのゴールド・スター・スタジオにおいて録音され、実に42回に及ぶテイクを重ねた末に完成したものだという。
リード・ヴォーカルはヴェロニカ(ロニー)・ベネット、バック・ヴォーカルはエステル・ベネット、ネドラ・タリーというザ・ロネッツのメンバーに加えて、作者の一人エリー・グリーンウィッチ、ニノ・テンポ、ボビー・シーン、ダーレン・ラヴ、ファニタ・ジェームズ、グラシア・ニッツェ、ソニー&シェールというメンバーがつとめている。
さらに、伴奏は西海岸のスタジオ・ミュージシャンで構成された「THE WRECKING CREW」で、ギターにトミー・テデスコ、ビル・ピットマン、ドラムスにハル・ブレインが加わっている。
特に、ベテランのセッション・ドラマー、ハル・ブレインによるイントロのドラミングが非常に印象的である。
この特徴のあるイントロは、その後あちこちでずいぶん模倣されることになる。

♪ ♪
この曲は日本でも爆発的な人気を集めた。
その筆頭は漣健児の訳詞で「忘れられないひとみ…もっと愛して、うんと愛して…」と歌う弘田三枝子の日本盤も「うんと」ヒットした(笑)。


“BE MY BABY”はこんな歌詞である。

The night we met I Knew I Needed you so
And if I had the chance I'd never let you go
So won't you say you love me, I'll make you so proud of me
We'll make 'em turn their heads every place we go, so won't you please…
二人が出会った夜 あなたが必要だと知った
チャンスがあったら あなたを決して離さない
だから好きだと言ってほしい 私を自慢に思うようにしてみせるから
みんなを振り向かせましょう 私たちが行くところはどこでも だからお願い
(ビー・マイ・ベビー) 私の愛しい人になって
(ただ言ってほしい) 私の愛しい人になるって…
この曲をドライブ中に聴いて感銘を受けたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが、ロネッツとスペクターに捧げたのが“DON'T WORRY BABY”だったというのは、つい最近知ったハナシである。

“BE MY BABY”にすっかり夢中になってしまったブライアンは、ロネッツのヴェロニカ(ロニー)に歌ってほしいと作ったのが“DON'T WORRY BABY”だったというわけである。
残念なことにブライアンの願いは実現しなかったが、ビーチ・ボーイズのヴァージョンがヒットするのだ。
どちらの曲もタイトルが三語から成り、“BABY”という語が最後につくのも共通しているが、“DON'T WORRY BABY”の方はこんな歌である。

Well it's been building up inside of me
For I don't know how long…
こんな風に感じ始めたのって いつからだったろう
どうしてかは分からないけど 何だか間違ってしまうんだ
でも彼女は僕の目を見て 気づかせてくれる
そして「心配しなくていいのよ」と言うんだ
大丈夫だから 心配しないで
全部うまくいくから 心配しなくていいんだ…
二つの曲を合体して、「素敵ね、付き合って、大丈夫、心配しないで」という具合に、一つのボーイ・ミーツ・ガール物語として聴くことも可能である。

また、“BE MY BABY”が世に出てからほぼ10年後の1974年に、この曲のパクリのような歌がヒットした。
リンジー・ディ・ポールの“OOH I DO”(邦題「恋のウー・アイ・ドゥー」)で、これはほぼ確信犯というべきパクリであろう。
リンジーによるスペクターに対するトリビュート作品ということになり、公式にもそう位置づけられているようだが、それにしてもなんだかなあ(笑)。

♪ ♪ ♪
“BE MY BABY”はロネッツ最大のヒット曲で、永遠のキラー・チューンとなった。
ほかにも“BABY, I LOVE YOU”や“WALKIN' IN THE RAIN”などのヒットを出しているのだが、ロネッツは1960年代半ばに活動を休止、66年夏のビートルズ最後のコンサートツアーに同行して北米を回ったのを最後に解散した。
リード・ヴォーカルのヴェロニカは68年にスペクターと結婚し、ロニー・スペクターとなったが、スペクターがロニーの行動を極端に束縛するなどの異常行為により最終的に破局してしまった。

“BE MY BABY”は1970年にアンディ・キムの歌でリバイバル・ヒットしたが、さらに1988年のダンス映画『DIRTY DANCING』のサウンドトラックに使用されるとまたまたリバイバル・ヒットし、オリジナルがリリースされてから半世紀たった現在でもなお高い人気を保っている。

また、ロジャー・コーマンが1万2千ドルの低予算でたった2日間で撮った映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(1960)を、1982年になってアラン・メンケンとハワード・アッシュマンのコンビがオフ・ブロードウェイで同名のミュージカル作品に仕立て上げて大ヒットさせた。
1986年に、さらにそれをフランツ・オズが小品ながらまことに楽しい作品として映画化した。
このミュージカル映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』に三人の浮浪児が登場するが、彼らの名前が、シフォン(The Chiffons)、クリスタル(The Crystals)、ロネット(The Ronettes)というのだった。
このあたり必ずしも正確な記憶ではないのだが、いずれも人気のガールズ・ポップ・グループからとった名前であることは明らかで、大いに笑わせてくれたものである。
今週末あたり、このDVDを改めて観直してみたい。

♪ ♪ ♪ ♪
同じ「ベビー」だが、こちらは「愛しい赤ちゃん」の方である。

永六輔と中村八大のコンビによる『こんにちは赤ちゃん』という曲は、なかなか微笑ましい歌で、梓みちよの歌を聴くととても優しい気持ちになってくる。
特に、孫娘の誕生以来、赤ちゃんを見かけたり泣き声を聞いたりするととても気になるのである。


(生後2日目のうちのベビー)
赤ちゃんは見飽きることがない。
願わくば子育てを楽しんでほしい、ママはもちろんパパもね。

赤ちゃんの欠伸が移るママの午後 (蚤助)

#554: 「寅さん」に思うこと

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昭和44年(1969)から平成7年(1995)まで全48作、平成9年(1997)に特別篇が1本製作された『男はつらいよ』という映画シリーズは、世界最長の映画シリーズとしてギネス世界記録に認定されている。
2005〜2007年にNHKのBS−2で全作品が放送され、昨年にはWOWOWでも全作品が初めてハイビジョン画質で放送された。
私はこのWOWOWで放送された全作品を録画し、およそ4か月かけて、先日ようやくすべて鑑賞し終わったところである。

元々、この作品は映画製作の前年にフジテレビが制作・放送した人気ドラマから始まったことはよく知られている。
山田洋次によるこのテレビ版は大好評であったが、最終回に主人公の車寅次郎がハブに噛まれてその毒で死んでしまうという結末に多くの視聴者から抗議が殺到、それが映画化につながったのである。


テキヤを生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、故郷の葛飾柴又に戻ってきては周囲の人間を巻き込んだ騒動を起こすという人情喜劇だが、旅先で出会うマドンナに恋心を抱きつつも決して成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しく懐かしい風景とともに描いており、これが人気のひとつであったことは間違いない。
寅次郎が恋する女性が「まあどんな」マドンナであろうかと楽しみにしたファンも多かったはずだ(笑)。
この映画シリーズは全体として「寅さん」と呼ばれる場合が多い。

それにしても、若いころ実際にテキヤの体験があったという主演の渥美清の口上は見事であり、柴又に帰って異母妹のさくら達に旅先でのマドンナとの楽しい体験などを話して聞かせる場面の渥美の語り口は実に名調子で、映画スタッフや共演者達からは「寅のアリア」と呼ばれていたという。

シリーズの初期のものは、私の学生時代と重なるので劇場で何度か見ているが、中期から後期にかけての作品は社会人になってからのものでほとんど未見であり、時折テレビ放映される作品もあまり見る機会がなかった。
今回は、1作目から公開順に見ていったのだが、第42作目『ぼくの伯父さん』以降は、寅次郎のマドンナに加え、さくら(倍賞千恵子)と博(前田吟)の一人息子の満男(吉岡秀隆)と絡む若いマドンナが登場するようになり、寅次郎が甥の満男の相談役に回るシーンが多くなっている。
加えて、渥美が病魔に冒され明らかに演技に快活さが失われていくのが感じられて胸が痛む。
晩年の渥美の演技は痛々しくて涙なしには見ることができないほどだが、実際に撮影中、渥美は自分が登場するシーン以外はほとんど横になっていたという。
おそらくそれをカバーするために満男をメインにしたサブストーリーを作成せざるを得なくなったのであろう。

もっとも、四半世紀を超える時の流れは他の登場人物にもはっきりと見てとれる。
当たり前だが、赤ん坊だった満男がサラリーマンになっているし、さくらをはじめとする他の登場人物も老けてしまっている。
この長いシリーズを通してみると、観客はまるで自分の親戚の人々の動静を垣間見ているような気にさせられるのである。

♪ ♪
亡くなった作家の井上ひさしは『男はつらいよ』について、このシリーズが、世界中の神話とか説話にある「貴種流離譚」の裏返しだと指摘していた。
すなわち、貴い家柄に生を受けた英雄が、運命のままに故郷を離れて流浪の旅に出て、幾多の苦難を周囲の助けを借りながらも克服し、ついには故郷へ凱旋する物語が貴種流離譚であるのに対し、『男はつらいよ』の方は、ごく普通の家に生まれたバカな男が、つまらないことで故郷を離れて放浪し、大した苦難もないままむやみに女性に惚れ、人間的にも向上することなく、なすすべもないまま故郷へ戻って、そこでまた悶着を引き起こす物語だというのである。
貴種流離譚は、若者が英雄へと成長していく過程を物語として表現したものだが、『男はつらいよ』シリーズは、この人類普遍の物語のパロディとなっているところで、コメディとして長い人気を保つことができた、というのが井上の説のポイントである。

寅さんが故郷柴又に帰ってきても、そこに落ち着くことができないのは、彼の性格や生い立ちに起因する精神的な未熟さによるものである。
女遊びの好きな父親と深川の芸者の間に内縁関係で生まれた子であり、学業を放り出してテキヤの道に入って長い時間を過ごしてきた寅さんに対して、世間の目は冷たい。
彼には渡世人として生きるほかに道はなく、だからこそ彼は旅を続けなければならなかったのである。

彼は、失恋などの問題にぶつかったときに、問題の起きた場所を捨て旅に出てしまうため、問題を自分の試練として受けとめ、それを克服しようとする努力をしない。
そこに、彼が未熟なままにとどまっている原因がある。
そういえば、寅さんはタバコを吸わない。
かつてタバコというものが一人前の男の象徴であったことを考えると、それが彼の未熟さを示すひとつの証しとみてもいいかもしれない。

もっとも、自分の未熟さについて寅さんは全く無自覚なわけではない。
額に汗して働くことの大切さを知っていて、時には真面目に働こうとしたりするのだが、やはり失恋を契機に、傷心の彼はまた旅に出てしまうのである。
5作目の『望郷篇』では、舎弟の登(津坂匡章=秋野太作)に地道な暮らしをするように説いて、彼を故郷の八戸に帰らせるのだが、登もやはり故郷にとどまることができない。
寅さん自身が地道な暮らしをすることに失敗した人物なので止むを得ないのだが、「少しも変わっていないじゃないか」と言う登に、「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら体に悪いじゃないか」と寅さんは答えるのである。

ちなみに、この5作目には、テレビ版で、妹のさくら役をやった長山藍子がマドンナ役、その母親におばちゃん役をやった杉山とく子、寅さんの恋敵に博士(映画の役名では博)役をやった井川比佐志が出演している。
1、2作目を撮った山田洋次は、3作目を森崎東、4作目を小林俊一が監督をした後を受けて、再び監督を引き受け、この5作目でシリーズを終了させる予定であったそうだが、あまりにヒットしたため続編を製作せざるを得なくなったのである。

個々の作品を見る限りでは、寅さんの人間的な成長は分かりにくいのだが、四半世紀の間に、初期の寅さんのどこか荒っぽい感じは影をひそめていき、次第に義理人情に厚く、人に好かれるお調子者に変わっていくのがよく分かる。
だが、それでも、最後までテキヤ稼業を続け、結婚をして家庭を築き、地道な仕事に励むようにはならない。
彼は生涯「フーテンの寅」なのだった。

♪ ♪ ♪
シリーズ中、マドンナとして複数回登場した女優は何人かいる。
このうち、有名なところでは、浅丘ルリ子が歌手リリーとして『寅次郎忘れな草』(11作目)、『寅次郎相合い傘』(15作目)、『寅次郎ハイビスカスの花』(25作目)、『寅次郎紅の花』(48作目)、吉永小百合が著名な作家の一人娘の歌子として『柴又慕情』(9作目)、『寅次郎恋やつれ』(13作目)、光本幸子が帝釈天の御前様の一人娘の冬子として、『男はつらいよ』(1作目)、『奮闘篇』(7作目)、『拝啓車寅次郎様』(46作目)、後藤久美子が甥の満男のマドンナとして『ぼくの伯父さん』(42作目)、『寅次郎の休日』(43作目)、『寅次郎の告白』(44作目)、『寅次郎の青春』(45作目)、『寅次郎紅の花』(48作目)に同一人物の役で登場した。
しかし、同じく複数回登場したマドンナ栗原小巻、松坂慶子、大原麗子、竹下景子らはすべて別人の役柄であった。


(シリーズ第25作『寅次郎ハイビスカスの花』)
寅さんのおいちゃんとおばちゃんが営む柴又帝釈天(題経寺)の参道にある団子屋の屋号は「とらや」であった。
ところがモデルとなった団子屋が、この映画のヒットで実際に「とらや」と屋号を変更してしまったので、シリーズ40作目の『寅次郎物語』からは「くるまや」という屋号になっていることを初めて知った。

また、江戸川の土手沿いにあるさくらと博、満男が住む諏訪家の住居は、場所も間取りも毎回微妙に変わっているようだ。

♪ ♪ ♪
「寅さん」と黒澤映画、小津映画との関係など、まだ触れたいことは多々あるのだが、いずれまた機会をみて取り上げることとして、今回はとりあえずこの辺でひと区切りつけておきたい。

『男はつらいよ』の第1作が製作されたとき、原作・監督の山田洋次は38歳、寅さん役の渥美清は41歳だった。

若い時に見る映画は、人生とは何かを教えてくれるこれから歩む人生の予告編のようなものかもしれない。
ところが年齢を加えていくにつれて、人生の復習としての意味合いが強まってくるのではないだろうか。
自分が人生の中で経験した喜怒哀楽の諸々のこと、恋愛や離別、あるいは死…、そういう体験に想いをはせ、その意味を映画を通して人生を反芻し追体験をする。
映画は予告編から人生の総集編としての意味を持ってくるのではあるまいか。
そんなことを強く感じさせた「寅さん」であった。

「寅さん」は、毎年、お盆と正月の年2回の公開が恒例であったが、その後、渥美が病を得ると年1回、正月映画として公開されるようになった。
というわけで、「寅さん」は冬の季語になっているのだ。
これも初めて知ったことである。

お正月映画ホラーといわれても (蚤助)


#555: 歌うオードリー

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『ローマの休日』(Roman Holiday‐1953)でデビューして以来、オードリー・ヘプバーンの主演作はいずれも大当たりをしたが、最も華麗でゴージャスだったのは『マイ・フェア・レディ』(My Fair Lady‐1964)のイライザ役ではなかっただろうか。

日本での公開当時はヘプバーンが歌い踊るというので大きな話題を集めたが、実際は彼女の歌は吹き替えであった。
作品賞、監督賞をはじめ多数のオスカーを獲得した作品であったが、ヘプバーンは主演女優賞を獲れず、『メリー・ポピンズ』(Mary Poppins‐1964)のジュリー・アンドリュースに持っていかれてしまった。
オリジナルの『マイ・フェア・レディ』の舞台でイライザを演じ高く評価されたものの、映画化に当たって無名の新人にすぎなかったアンドリュースが起用されなかったことに対する同情票が集まったと囁かれたが、真相はおそらくアンドリュースが自ら歌ったのに対し、ヘプバーンの方は吹き替えであったことがマイナスになったのだろう。
ヘプバーンも自ら歌を録音したそうだが、あまり上手くなかったので吹き替えとなったとされている。

ヘプバーンの歌を吹き替えたのは、ソプラノ歌手のマーニ・ニクソンで、『王様と私』(The King And I‐1956)のデボラ・カー、『ウェスト・サイド物語』(West Side Story‐1961)のナタリー・ウッドの吹き替えも担当したその道の専門家であった。
ちなみに、彼女は映画『サウンド・オブ・ミュージック』(The Sound Of Music‐1965)に尼僧ソフィア役として出演、初めてその姿をスクリーンに見せている。


(Marni Nixon Sings Gershwin)
では、ヘプバーンは歌えなかったのか? というと必ずしもそうではないのだ。
ご承知のように、映画『ティファニーで朝食を』(Breakfast At Tiffany's‐1961)では、主題歌“MOON RIVER”を、劇中で彼女はギターを爪弾きながら窓辺で歌っている。
素朴な歌い方だが、まぎれもなく彼女自身が歌っているのだ。

さらにそれ以前には、スタンリー・ドーネンの映画『パリの恋人』(Funny Face‐1957)は、ヘプバーンが初めて主演したミュージカル映画として話題をさらったが、ここでは彼女は吹き替えなしで歌い踊っているのである。


この『パリの恋人』の映画化にはなかなか複雑な経緯があったようだ。

『パリの恋人』の原題である“FUNNY FACE”(1927)とは、フレッド・アステアが姉のアデールと主演を張った古い舞台ミュージカルで、ガーシュウィン兄弟の音楽が使用されていた。
『パリの恋人』でヘプバーンと共演し、一緒に踊ったフレッド・アステアの自伝によれば、こういうことになる。

アステアは、あるパーティでプロデューサーのロジャー・イーデンスから、「僕が企画している“WEDDING DAY”という脚本をオードリー・ヘプバーンが気に入って、フレッド・アステアが出るならやりたいと言っている」と聞かされる。
“WEDDING DAY”はレナード・ガーシュが書いた未発表のミュージカル作品で、これがやがて『パリの恋人』の元になるのである。

当時イーデンスはMGMスタジオに所属していて、この映画化のために、MGMは権利を所有していたワーナーからタイトルやガーシュウィンの曲を含めて買い取り、それ以外にいくつかの新曲を加えることを決めていた。
一方、アステアとの共演を熱望していたヘプバーンはパラマウント映画の専属だったので、関係者で話し合いが持たれたが、契約関係を巡って紛糾し、一時は企画が白紙になるところであった。

結局、パラマウントが企画・製作を行い、新しい脚本とガーシュウィンの曲、レナード・ガーシュとロジャー・イーデンスが書いた新曲を数曲追加して、パラマウントがタイトルを含めてすべてMGMから購入することで決着する。
そもそも原案の“WEDDING DAY”の作者だったガーシュは、自らの手で、自分を美人ではないと思い込んでいる娘を写真家がファッション・モデルに仕立て、彼女と恋に落ちるというストーリーに仕立て直した。
これはファッション・カメラマンとして有名なリチャード・アヴェドンが後に妻となるイヴリン・フランクリンを発見してトップ・モデルに育て上げたという実話をもとにしたものだった。
このため、タイトルは同じでも舞台版の“FUNNY FACE”とは全く別の物語となったのである。
パラマウントの作品だが、MGMミュージカルのテイストになっているのはこういった経緯があったからなのだろう。

♪ ♪
ともあれ、この作品のストーリーはこんな感じである。

知性と美貌を兼ね備えた新しいファッション・モデルを探している雑誌の編集長マギー(ケイ・トンプソン)とカメラマンのディック(フレッド・アステア)は、小さな書店で働く新しい思想にかぶれた店員ジョー(オードリー・ヘプバーン)に目をつけ、撮影のためパリへ誘う。
ジョーはモデル稼業には全く興味はないのだが、パリに行けば、尊敬する新思想の主導者である教授に会うことができると考え、誘いに乗ることにし、かくして3人はファッションの本場パリへ向かう…。

『マイ・フェア・レディ』同様、ヘプバーンが最初からきれいなのが難点といえば難点だが、ファッション写真という新しい世界をテーマに据えたことが功を奏したようだ。
ファッショナブルな映像(撮影はレイ・ジューン)は話題を呼んで、この映画の影響からファッション業界を目指す人が急増したという。

また、映画のヴィジュアル・コンサルタントとして、リチャード・アヴェドンが参加しているのもこの映画を成功させた理由のひとつであろう。
当時、彼が写真を掲載していたファッション雑誌「ハーパーズ・バザー」のフィーリングを持ったタイトルが非常に新鮮で素晴らしいのである。
劇中で使われたヘプバーンの大きな瞳と唇が浮き上がっている印象的な写真はアヴェドンの手によるものである。


アヴェドンはまだ若手の写真家だったが、当時すでにファッション写真のスーパースターであった。
こういう人物がコンサルタントについているからだろう、アステアのカメラマンぶりも自然で、カメラの扱い方、モデルのポーズのつけ方、ストップモーションのショットもとても素晴らしい。
また、ケイ・トンプソンの演じた雑誌編集長のモデルは、やはり「ハーパーズ・バザー」と「ヴォーグ」の伝説的編集長として有名だったダイアナ・ヴリーランドである。


(左からケイ・トンプソン、フレッド・アステア、オードリー・ヘプバーン)
♪ ♪ ♪
アステアがヘプバーンに向って言う。

「君は何を美しいと思う? 樹かい? だったら君は樹に似ているんだ」

これは写真を現像する、暗室のシーンである。
すぐ主題曲“FUNNY FACE”のナンバーになり、アステアが写真を引き伸ばししながら歌う。
写真の暗室だから赤いライトがついていて、これが実に音楽的というかミュージカルらしい。
主人公が写真家なのだから当然と言えば当然なのだが、こういうアイデアと映画的な処理はやはりスタンリー・ドーネン監督のセンスの良さであろう。

再びアステアによる回想。

こうしてようやく撮影が始まったが、パリのロケ予定地では雨が止まない。
地面がぬかるんで、足元がおぼつかない。
オードリーは休まず、ひたすら頑張り美しく踊った。
一言も文句を言わなかった。
何時間もリハーサルをし、とうとう撮影を始めようという時になって、彼女は初めて本音をもらした。
「フレッド・アステアと踊れる日を20年も待っていたのよ。なのにこの仕打ちは何? 泥だなんて!」…

体型を忘れて見てるニューファッション (蚤助)
(この稿つづく)

#556: いつの頃からか…(承前)

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ガーシュウィン兄弟の傑作の一つに“HOW LONG HAS THIS BEEN GOING ON”という曲がある。
彼らの数多い名曲の中でも、最高傑作と評する人もいるほど素晴らしい歌曲で、“いつの頃からか”という邦題がつけられている。

もともとは前稿でもふれたアステア姉弟のミュージカル“FUNNY FACE”(1927)の挿入歌として書かれたものだが、上演の間際に“HE LOVES AND SHE LOVES”という別の曲に差し替えられ、お蔵入りになってしまった曲であった。
翌年(1928)の“ROSALIE”という作品の主題歌として陽の目を見るのだが、ガーシュウィン兄弟にとっては本来“FUNNY FACE”で使いたかった曲である。
“FUNNY FACE”がパラマウントによって、ヘプバーンとアステアの主演で『パリの恋人』(1957)として映画化されたとき、劇中でヘプバーン自らこの曲を歌うことになった。
ガーシュウィン兄弟の念願は、いわば30年後にヘプバーンの歌によって実現されたというわけである。
ちなみに、舞台版で差し替えられた“HE LOVES AND SHE LOVES”の方もこの『パリの恋人』には使われている。

書店の店員であるジョー(オードリー・ヘプバーン)がカメラマンのディック(フレッド・アステア)に軽くキスされて、ぽーとなって夢見心地で歌いだす(こちら)。
ヘプバーンは歌手ではないからやはり上手だとは言えないが、可愛らしく健気に歌っていてなかなか良かった。

I could cry salty tears
Where have I been all these years?
Listen you, tell me do. How long has this been going on?
しょっぱい涙を流すことだってできた
今までどこにいたのか分からなかったから
教えて いつの頃からこんな風になったのか
この背筋に走るスリル 心のときめき
言葉に出来ない お願い 聞いて まるで天国に昇るよう
コロンブスが新世界を発見したとき こんな気持ちだったのかしら
お願い もう一度キスして…
ある日突然、自分が恋をしていることに気づいた娘が、「いつからこんなことになったの」と恋の不思議を歌ったものだ。
“いつの頃から続いて来たのか”(How Long Has This Been Going On)というフレーズをキーワードにして、「新大陸を発見した時のコロンブスの気持ちが分かる」などという面白い表現が出てきたりする。
アイラ・ガーシュウィンの歌詞は韻を踏んだ見事な仕上がりで、数多い傑作の中でもアイラ自身お気に入りのナンバーの一つだった。


というわけで、曲も歌詞も非常によく出来ている美しいバラードなのだが、やや地味で渋い、いわゆる玄人好みの作りで、ビッグ・ヒット盤は生まれなかった。
しかし、男性、女性の別なくジャズ歌手に好まれている歌曲であり名唱も数多い。
例えば、俗に三大女性ジャズ・シンガーと称されるエラ、サラ、カーメンは、いずれも一、二を争う歌唱を残している。


(Ella Fitzgerald/Like Someone In Love‐1950)
今回はあえて訳さなかったが、この曲には美しいヴァースがついている。
エラは一度ならずこの歌を録音しているが、ヴァースを歌う場合と歌わない場合がある。
ここではヴァースを省略していて、エリス・ラーキンスのピアノ伴奏だけで歌うが、実に暖かい歌声だ(こちら)。
なおこの動画に1954年という表示があるが、1950年9月録音の誤りだと思われる。


(Sarah Vaughan/How Long Has This Been Going On?‐1978)
ここでのサラは意表を突いたアップテンポでスウィンギーに歌い上げている。
オスカー・ピーターソンのビッグ4がさすがのサポートを見せていて、素晴らしい仕上がりだ。
動画を見つけられなかったので、残念ながら省略。


(Carmen McRae/Book Of Ballads‐1960)
エラとは違って、カーメン・マクレエはいつもヴァースから歌う。
ここでの彼女は非常に陰影に富む語り口で丁寧に歌っていて忘れがたい。
やはり動画を見つけられなかったのが残念。


(Louis Armstrong Meets Oscar Peterson‐1957)
そして、忘れてならないサッチモである。
ルイ・アームストロングがオスカー・ピーターソンと共演した不朽のアルバムで、その中でも最高のトラックがこの曲である。
サッチモの表現は深く、温かく、胸に沁み渡る。
むせび泣くように声を絞り上げるサッチモのヴォーカルにピーターソンの抑えたバッキングもいい。
なお、このヴァージョンは録音の年代こそ異なるが、偶然にもサラの音盤(おサラ)の伴奏メンバーのうち、ギターがジョー・パスからハーブ・エリスになっているだけなのだが、全く異なった世界を繰り広げている(こちら)。
このサッチモもヴァースから歌っているが、「ヴェルヴェットのパンティー」だとか「ダンテの“地獄編”よりも凄い地獄」などという言葉が出てくるのでビックリしてしまう(笑)。
どうやらカーメン・マクレエあたりの真面目で上品なヴァース(笑)とは違う歌詞のようだが、それがいかにもサッチモらしくてとても可笑しい。

こんな聴き比べができるのもジャズの醍醐味ではないだろうか。

♪ ♪
“HOW LONG HAS THIS BEEN GOING ON”は直訳だと「これはどれだけ長いこと続いて来たのか」という意味になるだろうが、こんなシチュエーションに直面したら使えそうなセリフである。
ぜひ使ってみよう…

長話盗み見をする腕時計 (蚤助)
乾杯の音頭祝辞より長い (蚤助)

#557: パイプライン

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夏休みも終わり大勢の人で賑わった海辺も静けさを取戻しつつあるようだ。
海水浴など10年以上したことがないが、子供の時から泳ぎは得意な蚤助である。

今夏、江戸川区にある葛西海浜公園で東京23区内では半世紀ぶりとなる海水浴場が復活した、と報じられた。
長年にわたる関係者の東京湾の水質浄化に向けた努力の結果であろうが、それでも夏休み中の土曜日と日曜日の午前10時から午後3時までの期間限定だったという。
さらには、大雨の後など汚水が流入する可能性があるので顔を水につけない、などという条件がつけられたそうだ。
顔を水につけないで遊泳するというのもなかなか難しそうだが、要は、海水に浸かって浮かんでいる程度ならオーケイということなのだろう。

もう20年も前のことになるが、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに住んでいたころ、よくプライア(浜辺)に遊びに行ったものだ。
キャリオカ(リオっ子)は老若男女を問わず海が好きだが、泳ぐというよりもボディボード、ビーチサッカーやビーチバレーを楽しむ人が多いのである。
特に、若い女の子はほとんど半裸の健康的な肢体を人目に曝しつつ日光浴をするというのが一般的な浜辺の過ごし方であった。

もちろん、ヨットやサーフィンをやっている者もいるが、海岸線の長いブラジルは、入り江とか湾内などは別にして、大西洋に直に面したところは南(そう、南極方面)からの寒流の影響か意外にも海水温が低いので、浜辺からあまり沖合に出る人は多くなかったように記憶する。


さて、時期的にはやや遅れてしまった感があるが、夏と言えばハワイアン・ミュージックという人もいるだろうが、蚤助はサーフ・ミュージックである。
特に、私が個人的にサーフ・ミュージックの五指に入る名曲だと思っているのが“PIPELINE”で、日本での知名度でいえば人気ナンバーワンだと言い切ってしまっていいかもしれない。

唐突に飛び出すイントロのトレモロ、グリッサンド・ダウンと言ったらいいのか、いわゆる「テケテケ」サウンドである。
“PIPELINE”を初めて聴いたときは実に強烈な体験であった。

このあたり、芦原すなおが直木賞を受賞した青春小説『青春デンデケデケデケ』(河出文庫、後に大林宣彦が映画化)の主人公、藤原竹良(ちっくん)と全く同じような音楽的体験を蚤助もしていたということになる。
ただし、ちっくんは四国で、蚤助は北国で…(笑)。
芦原すなおは蚤助より少し年長の同世代、大学も同窓であり、北と南の違いこそあれ田舎生まれの田舎育ちであることも同じで、その感覚に相通じるものがある。

“PIPELINE”を最初に聴いたのは、おそらく1964年から65年のあたりではなかったかと思う。
日本人なら当然のことだが(笑)、ヴェンチャーズであった(こちら)。


ヴェンチャーズの「テケテケ」トレモロ・グリッサンドは、他のどのエレキ・バンドよりもソリッドで、リズム・ギターもエッジが鋭く、エコーも深くてシャープであった。
おそらくこの曲のベスト・ヴァージョンであり、「エレキ・バンドの帝王」の貫禄十分であった。

日本で、ヴェンチャーズの次に人気があったのは、アストロノウツ盤であろう(こちら)。
日本でもヒットしたリー・ヘイズルウッド作“MOVIN'”(邦題『太陽の彼方に』)のシングル盤にカップリングされたのが“PIPELINE”であった。


「乗ってけ、乗ってけ、乗ってけ、サーフィン〜」という日本語の歌詞もつけられた『太陽の彼方に』は人気を得て、後にはゴールデン・ハーフ盤もヒットした。
この人気に引っ張られる形で“PIPELINE”もよく聴かれたのだった。
ヴェンチャーズのヴァージョンと比較すると、結構粗削りなところが気になったものだ。
1965年にヴェンチャーズとともに来日したアストロノウツのライヴ公演のテレビ放送を夢中で見たことを割に鮮明に覚えているが、これがきっかけとなって日本ではいわゆるエレキ・ブームが起こるのである。

その次に聴いたのは多分“PIPELINE”のオリジナル・アーティストであったシャンテイズの演奏であったと思う(こちら)。


「テケテケ」のイントロはこのシャンテイズが嚆矢だったのだが、ヴェンチャーズと比べれば、正直言ってまったく迫力が不足していた。
当時、ヴェンチャーズに「テケテケ」のお株を奪われてしまい、ヴェンチャーズってズルいという声も聞こえたような気もするが、そこは職人芸のヴェンチャーズ、最も優れた「テケテケ」を演奏し続けたのはさすがである。
しかしシャンテイズがこのサーフ・インスト曲の名作のオリジネイターであることには変わりはない。
“PIPELINE”はシャンテイズのメンバー、ボブ・スピッカードとブライアン・カーマンの共作であった。
サーフ・インストは南カリフォルニアの特産品のようなもので、それまで全米チャートの上位ランキングなど考えられないことだったのだが、1963年に全米トップテン入りを果たした(最高位4位)。
ハイスクール・バンド出身でまだローカル色の残っていた五人組バンドのヒットはこれ1曲しかないのだが、もっとダイナミックに演奏すべきだったとか、サウンドに工夫の余地があったとか、後出しジャンケンのような評は別にしても、そういう演奏レベルでもなおチャートを駆け上がったのだから、この曲自体のパワーとかインパクトがよほど勝ったということなのだろう。

♪ ♪
ということで、“PIPELINE”は60年代サーフ・ミュージックの定番中の定番になったのだが、メジャー、マイナーを問わず、当時のあらゆるエレキ・バンドが演奏し録音したと言っても過言ではない。

最後に紹介しておきたいのは、当時メジャー視されていたチャレンジャーズのレコーディングである(こちら)。


そのチャレンジャーズ、もともとビートルズが登場する前夜、アメリカの西海岸のサーフ・バンドのパイオニア的存在だったベル・エアーズの中核メンバーでドラマーのリチャード・デルヴィが結成したバンドであった。
シャンテイズのような全米ヒットは1枚もないが、10枚以上のアルバムをリリースしていたことがメジャー・バンド視される理由だったのだろう。
しかも残された音源は、今なお何度も繰り返し再発売されているのである。
彼らの“PIPELINE”は、「テケテケ」の代わりにデルヴィのローリング1本やりで押すドラミングが担っていて、そのドラムに絡むシャープなサックスやハモンド・オルガン等、当時としてはとても完成度の高いものであったと思う。

60年代、私たちはまだまだ貧しく、エレキ・ギターを初めて手にできたのは、まずはお金持ちのドラ息子たちであった。
私の周りのそういうドラ息子たちは、単音弾きやコードを押さえる練習の前に、まず「テケテケ」サウンドに挑んでいたという事実が、その衝撃度を物語っている。
“PIPELINE”は、サーファーたちによって名付けられたパイプ状になる波の形の名前であることを私たちに教えてくれるとともに、日本のロック黎明期の“先駆け”の役割を果たした名曲であった。
しかも、発表当時からエレキ・バンドの必修曲のような作品であったと言えよう。
これをスタンダード曲と言わずしていったい何と言ったらよいのであろうか。

会社では波に乗れずにいるサーファー (蚤助)

#558: そんなことなの、よくあることサ

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チャールズ・ウォルターズ(1911‐1982)は、ハリウッドの映画監督として『イースター・パレード』(1948)、『リリー』(1953)、『上流社会』(1956)、『ジャンボ』(1962)など主として小粋なミュージカル作品を作った人である。
若いころ、歌って踊れる俳優として舞台に立っていたことがある。
彼の出演作として比較的よく知られているのは1935年のミュージカル『ジュビリー』であろう。
このミュージカル作品から、コール・ポーターの名曲”Begin The Beguine”が生まれたからだが、出演したウォルターズがジューン・ナイトとともに、ポーターのこれも傑作“Just One Of Those Things”を創唱したからである。

“Just One Of Those Things”は直訳すると「それらの事柄のうちのたった一つ」という意味であることから、『ただ一つのもの』と訳す人もいたようだが、一般的な邦題としては『よくあることさ』とか『そんなことなの』とされている。
曲の内容をあまりよく伝えていないからであった。


この曲にはヴァースがついていて、それがなかなか面白いのだが、次々と出てくる人物の名前が分からないと「リスナーの耳に念仏」ということにもなりかねない。

ドロシー・パーカーがボーイフレンドに「素敵」と言ったように
コロンブスがイザベルに「最高だった」と叫んだように
アベラールがエロイーズに「どうか手紙を忘れないで」と言ったように
ジュリエットがロミオに「なぜ現実に直面しないの」と叫んだように…
以上がヴァースで、そこから「そんなことなんてよくあることさ」というコーラスに入っていく。
だから、「そんなこと」の具体例として挙げられたヴァースの部分が理解できないと、コーラスの面白さも半減してしまうことになる。

ドロシー・パーカー(1893‐1967)はアメリカの女流詩人、劇作家で、「狂騒の20年代」、すなわち1920年代の美貌の才女として有名であった。
当時のアメリカで最も人気のあった雑誌『ヴォーグ』や『ヴァニティ・フェア』の編集や執筆陣の一人として活躍していた。
中でも彼女の劇評は「一度も褒めたことがない」と言われたほど辛辣なもので、そのために雑誌をクビになったのだそうだ。
没したのは1967年、つまり現代の人である。
曲が作られた頃はまさに現役だったわけで、アメリカ人なら誰でも彼女の名前を知っていたのだろう。
ただし「ボーイフレンド云々」とあるが、とりわけスキャンダラスな話題をふりまいた女性だったのか、蚤助には分らない。

1960年の映画『カンカン』でモーリス・シュヴァリエがこの歌をフランス訛りの英語で歌ったときは、ドロシー・パーカーをマダム・デュバリーと変えていた。
デュバリー夫人は、18世紀フランス社交界の花形で、ルイ15世の愛人とし名を馳せたが、フランス革命で処刑された。

余談だが、昨年亡くなったジャズ評論家の岩浪洋三氏のある著作に『カンカン』を『フレンチ・カンカン』と混同して書いたと思われる箇所があった。
『フレンチ・カンカン』はジャン・ルノワールのフランス映画(1954)で、ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌールのほかに、エディット・ピアフら多数のシャンソン歌手が出演した音楽映画、『カンカン』はウォルター・ラングのアメリカ映画(1960)で、シャーリー・マクレーン、フランク・シナトラ、シュヴァリエらが出たミュージカル映画で、気になった蚤助は出版社に誤りではないかとハガキを出したところ、出版社から丁重な謝罪とともにいくばくかの図書券を送ってきたことがある。

閑話休題。

次にコロンブスとイザベルが出てくる。
コロンブスは、言うまでもなく新大陸を発見した人、彼の名前はガーシュウィン兄弟の『いつの頃からか』の中にも出てきた(こちら)。
イザベルは、スペインのカスティリャの女王として、コロンブスの航海を後援したイザベル一世である。

アベラールは、フランスの哲学者フィリップ・アベラール(1079‐1142)のことで、39歳の時、彼の聴講生であった花も恥じらう17歳の娘エロイーズと恋をしてしまい、それが原因で彼女の後見人の手先に襲撃され、男性のシンボルをチョン切られてしまった。
アベラールは僧侶となり、後にエロイーズも修道女となった。
アベラールの著作に、二人の間に交わされた『エロイーズとの往復書翰』という書簡集があり、「手紙を忘れないで」というのはこれに由来している。

ロミオとジュリエットについては、今更説明の必要もないが、引用されている科白がシェークスピアの戯曲にあるかどうかについてまでは、蚤助は知らない(笑)。

♪ ♪
こうして、コーラスに入っていくが、ヴァースで「誰々が何々と言ったように」を受けて「そんなことなの、よくあることさ」と続くのだ。
コーラス部分は64小節のAABA型で16小節ずつの4つのパートに分かれている。
コール・ポーターの曲らしいヒネリの効いた作品だけに、ジャズにはピッタリのナンバーである。

どういうのが「よくあること」なのか、歌詞をたどっていくと、「気まぐれ」だったり、「時たま鳴るベル」、「いつもの夜」、「蜘蛛の糸に乗った月旅行」などだという。
「蜘蛛の糸に乗った月旅行」(a trip to the moon on gossamer wings)というのが分かりにくいのだが、あまりにも頼りないことだという意味なのだろうか。

またまた脱線するが、1977年に映画化もされたシドニー・シェルダンの初期の小説『真夜中の向こう側』(The Other Side Of Midnight)には、

…ステージで歌手が歌っていた。「くもの糸にのって月への旅…」<くもの糸>彼女は考えた。<あたしの結婚もくもの糸でつなぎとめられているんだわ>コール・ポーターはすべてを見通していたのだ…

という箇所が出てくる(大庭忠男訳・早川書房刊)。
この歌の題名は作中に出てこないが“Just One Of Those Things”であることは明らかで、アメリカ人なら何の歌を指しているのか、きっとすぐ分かるのだろう。
シェルダンはブロードウェイ・ミュージカルや映画の脚本を書いたり監督をしたり才人ではあったが、結構ハチャメチャなストーリーを書く人だった…(笑)。

とにかく「そんなことのひとつだ」と歌詞はいうのである。
街中をハシゴして浮かれ始めた時、熱烈な愛はいつか冷めることに気づいたはずだ、だから「さよなら」、アーメン、時々会えるといいね、とても楽しかった、よくある話だったのさ…

♪ ♪ ♪
ということで、この歌は別れの歌なのだが、何だか別れを笑い飛ばそうとしている感じなのだ。
譜面にもコーラスからは「明るく」というポーターの指定があるので、ほとんどの歌手はリズミカルに歌う。
アップ・テンポで、ステージの最後や途中で雰囲気やペースを変えるための勝負曲として歌われることが多い。

何と言っても、フランク・シナトラのようなプレイボーイ風の雰囲気を持った歌手が歌うと説得力がある(こちら)。
伴奏の編曲と指揮はネルソン・リドル。


だが、蚤助のイチオシはナット・キング・コールである。
急速テンポでスウィングするナット・コールと、ドライヴ感あふれるバックのサポート(伴奏の編曲・指揮はビリー・メイ)は、素晴らしい出来である。
パンチの効いたビッグ・バンドに乗って、ナット・コールのヴォーカルにはまさに王者(キング)の風格が漂い、最後まで一気呵成に聴かせてしまう(こちら)。


シナトラもナット・コールも、ヴァース抜きでいきなりコーラスから歌っている。
せっかく紹介した面白いヴァースだが、実は、この歌、ヴァースから歌っている人はそんなに多くはないのだ。
いきなりコーラスから入って、ぐいぐいスウィングした方が、ジャジーであり、スリリングになるからだろう。
でも、ヴァースがあることを知っていて決して損はないだろう(笑)。

♪ ♪ ♪ ♪
よく冷えた妻の視線とぬるいBEER (蚤助)
そんなことなど、よくあることサ…

#559: ハンク・マーヴィン

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“パイプライン”の稿でヴェンチャーズが登場したので、大西洋を挟んだイギリスから、シャドウズに登場してもらうことにする(笑)。

元々、歌手のクリフ・リチャードのバック・バンドとして結成され、ビートルズ登場以前の1950年代後半から1960年代前半のイギリス・ポピュラー音楽シーンをリードしたバンドであった。
クリフ・リチャード・ウィズ・ザ・シャドウズとして人気を得たが、1960年にインストゥルメンタル曲として発表した『アパッチ』(Apache)が、全英ナンバーワンとなり、いわゆるエレキ・バンドのパイオニア的存在となった。
ジェリー・ローダン作曲の『アパッチ』というタイトルは、バート・ランカスターがアパッチ族の英雄を演じた異色の西部劇映画『アパッチ』(1954)から取ったものだが、すすり泣くようなギターの音色と印象的な独特のリズムが、当時としては革新的なものとして受け止められた(こちら)。

シャドウズのリード・ギターは、バディ・ホリー風の黒縁メガネをかけたハンク・マーヴィンであった。
彼のギターはエコーとヴィブラートを効かせたクリーンな音色で、シャドウズのサウンドを特徴づけていた。
かつてのエレキ・ブームの折、ハード・ドライヴのヴェンチャーズと対極にある別のエレキ・サウンドとして、多くのファンの耳に焼き付けられたものだ。
少し遅れて他のヨーロッパ各国から登場してくるエレキ・バンド、例えばスプートニクスなどのサウンドにその影響が見られると思う。

マーヴィンは、エリック・クラプトン、ピート・タウンゼント、マーク・ノップラーなど、名だたるブリティッシュ・ロック・ギタリスト達の最初のヒーローであったことはよく知られている。
このほか、ニール・ヤング(バッファロー・スプリングフィールド)、ランディ・バックマン(ゲス・フー)、カルロス・サンタナ(サンタナ)やジョン・フォガティ(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)らもマーヴィンから影響を受けたことを認めていて、マーヴィンのギター・サウンドが、実は世界中のロック・ギタリスト共通の必修科目だったことを示している。

シャドウズはイギリス最高の、というよりも、実力・技巧的には世界最高のヴェンチャーズと覇を争うエレクトリック・ギター・インストゥルメンタル・グループであったが、蚤助がひたすら美しいと感じ、いつも聴きほれてしまうのが『アパッチ』と並ぶ名曲『春がいっぱい』(Spring Is Nearly Here)である(こちら)。


シャドウズのメンバーであったブルース・ウェルチとブライアン・ベネットが書き、1962年のアルバム“OUT OF THE SHADOWS”に収録されていた曲だが、本国イギリスではシングル・カットされず、ヒットした記録はない。


日本では、この曲の良さを知ったレコード関係者がシングル・カットし、62年末に大ヒットした。
このころの日本の音楽関係者の嗅覚の鋭さはハンパなものじゃなかったね、ウン。

シングル・トーンでメロディを弾くだけなのにハンク・マーヴィンのギターはどうしてこうも美しいのか、彼のフェンダー・ストラトキャスターというギターはどれもこんないい音が出せるのだろうかなど、青春の入り口に立ちながら、家計の事情(要はビンボー)で、ギターを手にすることが叶わなかった少年(つまり蚤助)の興味を掻き立てたものだった。
また、サイド・ギターのブルース・ウェルチの弾くアルペジオの正確さに憧れた。
ストリングスの伴奏もついたスロー・ナンバーで、今の季節にはそぐわないが、邦題は見事に曲の雰囲気を伝えている。

ついでに言えば、1998年に亡くなった日本のギタリスト大村憲司の『春がいっぱい』は一聴に値する。
1972年に“赤い鳥”に加入、やがて渡米して武者修行、帰国後ソロとなって日本のフュージョン・シーンを切り開いた屈指の名ギタリストである。
1981年に『春がいっぱい』というアルバムを発表、ハンク・マーヴィンを敬愛した大村の愛奏曲としていつまでも忘れることはできない(こちら)。


蚤助にとって、エレキ時代の心のスタンダードといえばこの曲と、あとはやはり『ブルー・スター』かもしれないな…。

春爛漫それくらいだないいことは (蚤助)


#560: 峠の幌馬車

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親戚に染物屋のオヤジで職人のおじさんがいた。
ずいぶん以前に亡くなってしまったが、純日本的なその仕事のわりにはなかなかハイカラな趣味人であった。
ポピュラー音楽が好きで、自身でマンドリンを弾いたり、ハワイアンやラテン、映画音楽などのLPを何枚か持っていた。
小学生の私は宿題か何かだったであろうか、算数の問題の解き方を教えてもらった記憶がある。
なぜか今でもはっきり覚えているのは、そのおじさんがビリー・ヴォーンの『峠の幌馬車』をニコニコしながら聴いていた姿である。
かつては、ビリー・ヴォーンのレコードはそれだけ一般の人達の間で聴かれていたということなのだろう。

ビリー・ヴォーン(1914‐1991)は、いろいろな楽器をこなすマルチ・ミュージシャンで、歌も歌い、音楽プロデューサーとしても一流の人だったが、何といっても自ら率いた“Billy Vaughn & His Orchestra”の指揮者として有名である。
ロック時代に突入してから、パーシー・フェイス、マントヴァーニ、ヴィクター・ヤング等の名門を凌ぐ多数のオーケストラ・ヒットを放ったバンド・リーダーであった。


『峠の幌馬車』とは何とものどかな邦題だが、そのためか西部開拓時代頃のずいぶん古典的なイメージを感じさせる。
“WHEELS”(車・車輪)という即物的な原題を『峠の幌馬車』という邦題にしたのは実にうまい命名であり、西部の荒野を行く幌馬車が今や峠にさしかかりのんびりと走る…そんなイメージを彷彿とさせる。
だが、この曲のリリースが1961年のことであったことを考えれば、実は西部の幌馬車というよりはさしずめ田舎道をトコトコ走るピックアップ・トラックというところであろうか(笑)。
1960年代の末に、“WHEELS”という同名異曲がヒットしたことがあるということだが、こちらの方の“WHEELS”はモーターバイクだったようだ。
「クルマ」の意味するところは時代とともに変わっても、アメリカ文化のひとつの象徴が“WHEELS”であったことは間違いない。

日本では、確か、みナみかズみ(後の安井かずみ)の詞によるスリー・グレイセスの歌が流行ったのをかすかに記憶するが、実はこの『峠の幌馬車』という曲、ビリー・ヴォーンのオリジナル・ヒットではないのだ。

♪ ♪
ビリー・ヴォーンのヴァージョンが発売される半年ほど前に、このほんわかとしたメロディをれっきとしたエレキ・インスト・バンド“ストリング・ア・ロングス”という5人組が全米でヒットさせているのである(こちら)。
曲を書いたのは、ジミー・トーレス、リチャード・スティーヴンス、ノーマン・ペティという3人で、このうち蚤助が辛うじて名前を知っているのはノーマン・ペティだけ、彼はバディ・ホリーの数々の古典的名作を手掛けた人物であった。


オリジナルよりもカヴァーの方がヒットした例は日本もアメリカも少なくないが、レーベル契約の関係からか、日本の場合はさらに特別な事情があったようだ。
この曲はその好例で、すでに日本での知名度が抜群だったビリー・ヴォーンのカヴァー版の演奏が大人気だった一方、オリジナルの“ストリング・ア・ロングス”のヴァージョンは、当初ソノシートで控えめに発売されただけだったそうだから、ヒットという観点から言えばハナから勝負にならなかったのである。
もっとも後には通常のドーナッツ盤も発売されたが、いずれにしても“ストリング・ア・ロングス”というグループは一発屋で終わったようだ。

ビリー・ヴォーン&彼のオーケストラは、この『峠の幌馬車』を、オリジナルのギターを比較的忠実に再現しつつ、ストリングスとソプラノ・サックスを前面に押し出した独特のホーン・セクションを織り交ぜた軽快なロッカ・ルンバ(?)に仕立てていて、一聴して分かる彼のサウンドにしている(こちら)。

ビリー・ヴォーンはこのほかに『真珠貝の唄』、『浪路はるかに』、『星を求めて』など、ハワイアンからポップス、ラテン、カントリー、映画音楽等、あらゆるジャンルの楽曲を録音し続ける一方、パット・ブーンやゲイル・ストーム、フォンティン・シスターズなどのアーティストのレコード・プロデューサーとして活躍をしたのである。

♪ ♪ ♪
もうひとつ、挙げておきたいのが、ご存じ“MR. GUITAR”のチェット・アトキンス(1924‐2001)のヴァージョン。
カントリーやブルースの伝統的なギター奏法だったフィンガー・ピッキングを、極限まで洗練させた偉大なギタリストである。
例えば、なぎら健壱も推薦するフィンガー・ピッキングの名演、“Yankee Doodle Dixie”(1957)を聴いてみよう。
南北戦争時代のアメリカにおける北軍の行進曲“Yankee Doodle”を主旋律に、南軍の行進曲、日本では『アルプス一万尺』として知られる“Dixie”をベースラインにして、リズムを刻むドラムだけを従えたソロ・ギターで演奏しているのだ。

彼はアメリカ南部の大衆向けだったカントリー音楽にモダンな意匠を凝らして、ポピュラー音楽の一大ジャンルへと変貌させた大物ミュージシャンでもあった。


『峠の幌馬車』は、必ずしも彼の代表曲というわけではないが、その華麗なピッキングとアレンジの妙にはいつも脱帽させられる。
彼はこの曲を何度も録音しているが、こちらの演奏は、時期は不明ながらおそらく最も古い録音ではないかと思う。

♪ ♪ ♪ ♪
今回は『峠の幌馬車』らしく、少し古典的というか懐かしい雰囲気の句を見つけてきたので、いつもの蚤助の駄句ではなく、それを紹介して締めたい。

しゃんしゃんと峠を越えた頃の唄 (忠博)
野仏の顔もやさしくなる峠 (武彦)

#561: 夏の日の恋

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NASAの宇宙探査機“ボイジャー1号”が、人工物として初めて太陽系を完全に出たことが確認された、というニュースを先日の各紙が一斉に伝えていた。
“ボイジャー1号”については、かつてこちらで少し触れたことがある。
宇宙への伝言として“ボイジャー1号”に搭載されているレコードには、グレン・グールドの弾くバッハの平均律クラヴィア曲集の前奏曲をはじめとしたクラシック音楽はもちろん、邦楽やロック、ザトウクジラの鳴き声なども収録されていることも触れた。

蚤助がことさらこの探査機に思い入れがあるのは、打ち上げられたのが1977年で、いみじくも亡くなった女房と結婚式を挙げた翌月のことだったからで、今なお老体にムチ打って(?)果てしない未知への旅を続ける“ボイジャー1号”のことを考えると、何だか妙に親しみを感じ、つい応援したくなってしまうのだ。

台風18号が本州を縦断して各地に大雨と突風による被害を置き土産にして北方に去り、ついでに夏の空気を秋の空気へと入れ替えていったので、今回はボイジャーとは全く関係のない『夏の日の恋』…(笑)。


1959年に公開されたアメリカ映画『避暑地の出来事』(A Summer Place)は、スローン・ウイルソンの原作小説をデルマー・デイヴィスが脚色、監督をしたロマンスものである。
何と言っても、『風と共に去りぬ』や『カサブランカ』などの映画音楽の大家マックス・スタイナーの書いたスコアがあまりにも有名で、パーシー・フェイス楽団の演奏した主題曲『夏の日の恋』は永遠の夏のテーマとして現在もなお愛聴されている。
蚤助などは、ともすると映画の題名『避暑地の出来事』とその主題曲『夏の日の恋』というタイトルを混同してしまいそうになったりする。
どちらも原題は“A Summer Place”で、主題曲の方はただ“(Theme From) A Summer Place”というだけのハナシなのだが…。

映画は、当時人気絶頂だったトロイ・ドナヒューとサンドラ・ディーという若手の男女俳優に、リチャード・イーガン、ドロシー・マクガイア、アーサー・ケネディなどヴェテラン俳優が絡むというもので、今でこそ比較的好意的に評価する人もいたりするのだが、公開当時は、プロットやストーリーにあまり目新しさがないと指摘されるなど、どちらかといえば酷評された作品だった。
もっとも1970年代ころまでは、テレビの深夜放送などでちょくちょく放映されていたような記憶があるが、それもやはり主題曲の魅力であったかもしれない。
ハリー・ストラドリングの撮ったアメリカ東海岸メイン州にある島の風景は実に美しくドラマに大きな貢献をしているのだが、現在の目で見ると50年代という時代のムードや文芸映画のゆったりしたテンポに慣れていない人だと、古めかしさに苦痛を感じてしまうのではないだろうか。
そういうところが、最近めったに放映されることがなくなった一因であろう。
ただ、蚤助のようなオールド・ファンにとっては、貞節や節度がそれなりに重んじられていた当時の風俗やファッションなども貴重で興味深い見ものなのだが…。

♪ ♪
かつてメイン州にある島の高級リゾート・ホテルで働いていた男(リチャード・イーガン)が、ビジネスマンとして成功を収め、妻と娘を伴って島を再訪する。
この娘がサンドラ・ディーで、彼女は掛け値なしに可愛いので、それだけで蚤助はこの作品の評価を☆二つ分程度アップしたい(笑)。
この島には、かつてイーガンが恋した女(ドロシー・マクガイア)が、ホテルのオーナー(アーサー・ケネディ)の妻として暮らしている。
オーナー夫妻には息子がいて、これをトロイ・ドナヒューが演じている。
定番通り、若いディーとドナヒューが恋に落ち、しかもかつて愛し合ったことのある親同士の恋愛、要するに不倫が絡んでくるのだが、50年代のアメリカ東海岸のことだから社会的な階級意識などによって、二組の家庭が対立、崩壊していく、その過程で果たして若い世代の恋の行方はどうなるか…という筋立てである。


(トロイ・ドナヒューとサンドラ・ディー)
公開当時酷評された影響からか、パーシー・フェイスの演奏盤はレコードが発売されてからヒット・チャートに登場するまで3か月もかかったが、1955年ロックンロール時代に突入して以降、全米1位に連続9週間とどまる最長記録のインスト・ナンバーとなったほか、ミリオン・セラー、グラミー賞受賞のメガヒットとなった。
1940年代から幾多の映画やテレビの音楽を書き、演奏も担当したパーシー・フェイスは、このヒットのインパクトが強烈過ぎて、他のヒット曲がかすんでしまっているほどだ。


(パーシー・フェイス)
パーシー・フェイス楽団の演奏は8分の6拍子のロッカ・バラード風にアレンジされているあたり、いわゆる60年代の息吹きを感じさせる(こちら)。
なお、パーシー先生にはコーラス入りヴァージョンもあってこちらも絶品だが、さらに76年にディスコ・ヴァージョンまで録音している(笑)。

♪ ♪ ♪
『夏の日の恋』という邦題通り、白い入道雲が浮かぶ真夏の青空と、美しい恋物語を想起させる素晴らしくロマンティックな楽曲である。
少年時代から夏が来るたび、海辺や飲食店などで様々な演奏盤を数限りなく聴いてきたが、そのマックス・スタイナーのメロディーにマック・ディスキャントが歌詞をつけたヴォーカル・ヴァージョンもよく耳にしたものだった。

There's a summer place where it may rain or storm
Yet I'm safe and warm for within that summer place
Your arms reach out to me
And my heart is free from all care…
歌詞は比較的易しいと思われるので、あえて訳さずにおく。
ヴォーカル盤では1962年に録音したアンディ・ウィリアムズが一番早かったようだが、艶やかなヴィブラートが印象的だったジョニー・ソマーズの同じく1962年の録音をお好みの人が多いはず。
かく言う蚤助もその一人で、彼女の歌は今でも愛聴盤のひとつである。
“雨も嵐もあるサマー・プレイスだけど、そこには二人の希望が、夢が、そして愛がある”と歌われる世界は、やはりアンディよりも、ソマーズ嬢のヴォーカルの方がふさわしいと思う(こちら)。


(ジョニー・ソマーズ)
また、パーシー・フェイス盤がヒットしていたころ、ロサンゼルスで新しいコーラス・グループが結成された。
大学のグリー・クラブ出身の若者二人に、既にプロ歌手として活動していた一人が加わった3人組である。
品行方正な学友会のイメージが強いグループだったが、そのコーラスは明らかにウェスト・コーストの音楽の潮流の中に位置づけられるものであり、例えばビーチ・ボーイズの名を挙げるときは、彼らのことも少しだけ思い出してもらいたいと思っている蚤助である。
そのグループの名はザ・レターメン。
彼らの爽やかな三重唱によるヴァージョンは、1965年にヒットした(こちら)。


(ザ・レターメン)
ついでにもう一つ、映画『避暑地の出来事』が公開された59年に、ボブ・ボーグルとドン・ウィルソンの二人がギター・デュオ・グループとしてシアトルで結成したのがヴェンチャーズであったが、そのヴェンチャーズによる1969年の『夏の日の恋』リメイク・ヒット盤も上々の出来であった(こちら)。

♪ ♪ ♪ ♪
かき氷ひと匙ごとに夏すくう (蚤助)
異常に暑かった今年の夏、あんなに秋風が恋しかったのに、いざ過ぎ去ってみれば何だかちょっと寂しくて惜しい気もするのが不思議である。
さらば夏の日…

#562: 追憶

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1962年にデビュー、特に64年の『ファニー・ガール』で注目を集めて以来、バーブラ・ストライサンドは歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督、果ては民主党を支持する政治活動家として多面的な活動を続けている。
アメリカのショウ・ビジネス界のスーパースターであり、まぎれもなく偉大な歌手であるが、一方で、その強烈な個性というか、存在感があり過ぎて、苦手な人も多いのだろう、アメリカ国内ではバーブラをネタにしたジョークは山ほどあるそうだ(笑)。

初期の頃の彼女のレパートリーがショウ・ナンバーやスタンダード曲中心であったことから、ミュージカル、映画女優としての印象が強いのだが、71年にローラ・ニーロの書いた傑作“Stoney End”を大ヒットさせたことから、コンテンポラリーなポップスやロックも積極的に取り上げるようになっていく。

だが、彼女が真にスーパースターとなったのは『追憶』(The Way We Were‐1973)という映画に出演、その主題歌が大ヒットしたからではなかろうか。
その邦題からは、つい甘いメロドラマを想像してしまいがちだが、さすがはシドニー・ポラック監督、スペイン戦争から、第二次世界大戦を経て、赤狩りの時代、その後、と激動の30年間ほどを過ごした一組の男女を描き、時代状況を見据えた骨太な展開の中に適度な甘さと苦さを織り交ぜた見応えのある作品にしてあった。
ちなみに、以前こちらでコメントしたように、『追憶』という邦題の映画は、このほかに2本あり、一つは戦後間もなく公開されたクローデット・コルベール主演のもので、教師夫婦が今は政治家となった教え子を追憶するというもの、もう一つはアン・ブライスが往年の大歌手ヘレン・モーガンに扮した伝記ものであった。


映画が始まってまもなく、苦学しながら大学に通うケイティ(バーブラ・ストライサンド)が演説をしている。

「本当に恐ろしいのは共産主義などではなく、平和のために立ち上がろうとしない人々なのです」

ここで彼女はスペイン戦争におけるソヴィエト連邦の態度を称賛するスピーチをして「モスクワに帰れ」などと野次られているのだ。
スペイン戦争、ルーズヴェルト対デューイの選挙戦、非米活動委員会、核実験などの社会的政治的な背景が、活動家であるケイティの主義主張と絡みあってストーリーが進行していく。
特にハリウッドの赤狩りを描いたところなどは、アメリカ映画が歩んだ、というか歩まされた苦い道を自ら振り返っている点で興味深かった。

ある映画の本を読んでいて、気づかされたことだが、開巻、遠景に映る映画館の看板に“ラリー・パークス”の名前が見える。
以前、こちらでまた触れることがあるかもしれないと書いたが、ここで少しいわゆる「赤狩り」について書いておく。

1947年10月、アメリカ下院の非米活動委員会はハリウッドにおける共産主義の浸透ぶりを調査する聴聞会を開いた。
多数の映画関係者が喚問されたが、特にこの委員会に非協力的(反抗的)だとして、刑を科された10人は“ハリウッド・テン”と呼ばれて注目された。
このあたりの経緯は、いろいろな本、ドキュメンタリー、アーウィン・ウインクラーの『真実の瞬間(とき)』(1991)のような映画作品など各種のメディアで繰り返し描かれているので、興味のある方はそれらを参照いただきたいが、ハリウッド・テンの中には、脚本家のドルトン・トランボ、映画監督のエドワード・ドミトリク、作家のリング・ラードナー・ジュニアらが入っていた。
ドミトリクは後に委員会に忠誠を誓って復帰したが、トランボが変名で書いたシナリオ『黒い牝牛』がオスカーを受賞し、授賞式には当然その脚本家は登場しないというエピソードがあったりした。
『ローマの休日』のシナリオも、事実上ゴーストライターとしてのトランボの仕事であったことは、今ではよく知られた事実である。
この赤狩りは50年代の半ば頃まで続き、今なお名誉が回復されず、終生現場復帰が叶わなかった映画人もいたし、チャールズ・チャップリンや映画監督ジョセフ・ロージーのように、アメリカへの入国が拒否されたり、ヨーロッパに居を移さざるを得なくなった例も数多くあった。

監督のシドニー・ポラックが、何気ない遠景にそこまで意識的にしたかは不明であるが、ラリー・パークスも赤狩りの犠牲者であった。。
同じ看板にはマルクス兄弟の名前もあった。
もちろん彼ら兄弟は、カール・マルクスやマルキシズムとは全く関係ない。
だが、ハリウッドのパーティで出席者は全員マルクス兄弟の仮装をすることになり、それぞれ俺はグルーチョになるとかハーポになるとかいう場面で、バーブラに「君はカールになれ」という人物がいる。
マルクス兄弟にはカールという名の者はおらず、これは明らかにシャレである。
そんなことを考え併せると、例の看板は偶然ではなく、ポラック監督が意図したものであることが推察される。

♪ ♪
ケイティは、学生時代から戦争や差別や、大衆が権力や体制へ迎合することに怒りをみなぎらせている女性である。
彼女のクラスメイト、ハベル(ロバート・レッドフォード)は、学生時代はノンポリのスポーツ選手、戦争中は勲章を授与されるような海軍士官であり、後に小説家になる。
楽天家で妥協することの重要性も知っている。
二人は愛し合いながらも、性格の違いから、衝突を繰り返してばかりいる。
彼は言う。

「革命家にもユーモアのセンスは必要だ」

でも、彼女の方は政治をジョークにするのは嫌いなのだ。
二人はこんな会話もしている。

「大切なのは人間だ。主義主張はほっとけ」
「主義があるから人間なのよ」

やがてハベルはハリウッドで脚本家になり、赤狩り騒動に巻き込まれていく…。

アーサー・ローレンツの原作・脚本だが、当時まだ若かった蚤助も身につまされた。
志とか、正義とか、ともすれば人生で見失いがちな大切なものが、美しく追憶されているのだ。

♪ ♪ ♪
『追憶』の主題曲“The Way We Were”は、バーブラ初の全米ナンバーワン・ヒットで、聴くほどに味わいの増す曲である。
マリリン&アラン・バーグマン夫妻の書いた詞に、マーヴィン・ハムリッシュが曲をつけたが、ハムリッシュはこの年、この作品でアカデミー主題歌賞、作曲賞、『スティング』で編曲賞、音楽部門のオスカーを独占した上に、グラミー最優秀歌曲賞も受賞し、ハムリッシュの年となった。

さて、原題だが、“Way”は日常的にも非常によくつかわれる多義語で、意味に含みのあることもあるので、完全に一つの訳に対応できないことが多いが、一般に“道”、“方法”、“様子”、“状態”、“姿”などという意味だろうから、それに“We Were”(私たちが〜だった)が副詞的(?)に使われて、全体として「私たちが歩んでいた道(人生)」、もっとくだけた言い方だと「あのころの私たち」というニュアンスなのだろう。
そこから『追憶』という邦題が派生してくるのだ。


Memories light the corners of my mind
Misty water-colored memories of the way we were…
思い出が 心の隅に灯をともす
淡い水彩画のような 二人の思い出

散らばった写真には 忘れてきた微笑
二人で交わした微笑 あのころの二人の微笑

あの頃すべては こんなに単純だったのか
それとも 時がすべてを書き換えてしまったのか
もう一度 やり直せたら
やり直せる? できる?

思い出は美しいものだけど
思い出すことが辛いこともある
忘れる方を選んでしまう
だから 思い出すのは あの笑い声だけ
あのころの私たちの…
バーブラのしっとりとしたハミングで始まるが、これは彼女のアイデアだったそうだ。
別れた恋人との思い出を回想する切ない心情が、少し感傷的な旋律にのって描かれている。
バーブラは、ナチュラルで豊かな情感をこの楽曲に吹き込んでいる。
それでは、バーブラ・ストライサンドの“The Way We Were”をこちらでどうぞ。

もう一つ、グラディス・ナイト&ザ・ピップスが74年に発表した素晴らしいヴァージョンを紹介しておこう。
52年に結成されたグラディス・ナイト&ザ・ピップスは、ブラック・エンターテインメントの古参グループだが、当時キャリア20年を超え、アーティストとして3度目くらいのピークの頃にあたる。


ライヴ録音で、グラディスの「昔のことを思い出してみましょう」という語りに導かれて歌が始まる。
冒頭に少しだけ“Try To Remember”の歌詞が語られ(笑)、やがて“The Way We Were”につながっていく、その構成が素晴らしいし、この感傷的な曲をソウルという枠にとどまらず広くヴォーカリストとしての実力を見せてまことに見事である。
それではこちらでどうぞ。

♪ ♪ ♪ ♪
渋滞の先頭にいて笑い顔 (蚤助)

#563: 夕焼け空の歌

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秋分の日、さいたま新都心のシネマコンプレックスへ李相日監督の映画『許されざる者』を観に出かけた。
いつもは浦和のシネコンを利用するのだが、今回、さいたま新都心へ出かけたのには少々理由があったのだ。

クリント・イーストウッドの秀作西部劇(Unforgiven‐1992)を明治時代の北海道を舞台にリメイクした作品で、寡黙でストイックな主人公に渡辺謙、冷酷な警察署長の佐藤浩市との間合いの緊迫感が全編を通じて持続する、なかなか見応えのある作品であった。
原作ではモーガン・フリーマンが演じた主人公の相棒を柄本明が飄々と演じ好感が持てたし、アイヌの若者を演じた柳楽優弥も意外であった。
アップでスクリーンに映し出される髭の精悍な顔つきは、時折、若いころの三船敏郎そっくりになり、驚くほど似てくる。
もっとも、セリフの言い回し、声の調子などは、まだ軽くて青臭さが抜けきれていないようで、到底三船の迫力には敵わないのは止むを得ないところであった。

朝いちばんの上映回を選んだためか、観客の入りは3分の1くらいだったが、映画館を出るとまだお昼前である。


実は、この3連休、さいたま新都心では「第10回さいたま新都心 JAZZ DAY」が行われているのだ。
3日間で、ビッグ・バンド31組、スモール・バンド27組が入れ替わり立ち代わり出演するジャズ・フェスティバルである。
出演者はアマチュアなのだが、過日、蚤助が通販でCDを入手したバンジョーの若手ナンバーワン奏者の青木研氏や、人気抜群のアメリカ空軍太平洋音楽隊のジャズ・コンボやビッグ・バンドもゲスト出演するという。
過去の9回は2日間行われていたものが、今年は10回を記念した3日間の会期ということで、出演バンドも大幅に増えている。


昼過ぎから、2〜3のスモール・バンド(コンボ)を聴いたあと、ビッグ・バンドのステージの方へまわることにした。
やはり各バンドとも人気なのはカウント・ベイシーのレパートリーで、必ずと言っていいほどベイシーが演奏される。
ベイシー・バンドに数々の楽曲を提供した様々なコンポーザーやアレンジャーのスコアが入れ替わり立ち代わり奏でられ、「ベイシー翁、永遠なれ」といった按配である。

アマチュアらしく各楽器のソロはあまり上手いとははいえないまでも、バンド全体で鳴らすアンサンブルの楽しさは充分感じらる。
特になかなか思うように練習時間がとれない社会人バンドともなると、各メンバーの熱い思いが聴衆に直に伝わってくる。
とても良い雰囲気である。

また、ヴォーカリストが標準装備されているビッグ・バンドがいくつかあったのに驚かされた。
ベイシー・ナンバーの合間に、専属ヴォーカリスト(女性)が数曲歌うのだが、別のバンドとたまたまヴォーカル入りの楽曲が重複し、図らずも聴き比べとなったのである。

♪ ♪
曲は“Orange Colored Sky”(1950)、ミルトン・デラグとウィリー・スタインの手になる曲で、ナット・キング・コールの得意曲として知られている。
“Orange Colored Sky”というのは「オレンジ色の空」、すなわち「夕焼け空」である。
少しコミカルな内容で、英語の早口言葉がポイントの歌なので、英語を母国語としない日本人のプロの歌手でも難しい曲である。
こんな難曲をアマチュア(あまちゃん)の歌手がよく歌うことにしたものだと、その無謀さに逆に感心してしまった(笑)。

I was walking along, minding my business
When out of the orange colored sky, Flash! Bam! Alakazam!
Wonderful you came by

I was humming a tune, drinking in sunshine
When out of that orange colored view, Wham! Bam! Alakazam!
I got a look at you…
一人で考え事をしながら歩いてた
そしたら オレンジ色の空(夕焼け空)から
「ワォ! バン! アラカザム!」
素敵な君が 突然目の前に

ハミングして陽射しに酔っていた
するとオレンジ色に染まった風景から
「ウァー! バン! アラカザム!」
いきなり君が 目に飛び込んできた

一目で僕は悲鳴を上げた
「梁が落ちる! 飛び散るガラスに注意!」
天井は落ち 床は抜け
僕はきりもみしながら こう叫んでた
「そう、これだ! これだ! これだ!」

それまで考え事をしながら歩いてた
なのに恋が目に飛び込んできて 
「ヒャー! バン! アラカザム!」
オレンジ色に染まった 紫色のストライプから
可愛い緑の水玉が 散らばった空になったんだ…

第三節目の「梁が落ちる…」は、なかなか訳しづらい歌詞である。
原詞では“One look and I yelled timber, watch out for flying glass”となっていて、その後に“Cause the ceiling fell in and the bottom fell out”と続くので、何とか辻褄合わせでこのように訳したわけである。
以下、“I went into a spin and I started to shout, I've been hit. This is it, this is it, this is it.”と続き、これを一気に早口言葉のように歌わなければならないのだ。

歌のシチュエーションを補足しておくと、まず、夕陽の中を物思いにふけりながらトボトボと歩いていると思いねえ(笑)。
そこに曲がり角から、自転車かジョギング中か知らないが、彼女が突然ドーンとぶつかってきたわけだ。
「アラカザム!」は「アブラカダブラ!」と同様、古から呪文として知られている言葉で、「ワッ!何だ?南無阿弥陀仏!」とぶっ飛ばされたわけであろう。
このあたり、今ならば「ジェ、ジェ、ジェ!」と言うところだろう(笑)。
「だ、大丈夫ですか?」と彼女が駆け寄ってきて、ボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーの始まり、始まりというわけである。
最後の「紫色のストライプ、緑の水玉」は彼女の来ていた服の柄で、僕にはもうそれしか目に入らないのだった…。

♪ ♪ ♪
1950年、ナット・キング・コール・トリオがスタン・ケントン楽団の伴奏で、実に楽しそうに歌ったこの歌は13週間チャート・インするヒットとなった(こちら)。

1965年にコールが亡くなったとき、その死を悼んでオスカー・ピーターソンが、黄金のトリオを結成する。
本家のコール・トリオがコールのピアノ、ウェスリー・プライスのベースにオスカー・ムーアのギターだったが、ピーターソンの方はレイ・ブラウンのベース、ハーブ・エリスのギター。
ピーターソンはコールとの約束で封印していたヴォーカルを解禁した。
コールそっくりの歌声を“With Respect To Nat”というアルバムで披露しているが、動画は見つけられなかったのが残念。

さらに、もうひとつ、やはりナット・コールの愛娘ナタリー・コールの歌をこちらで…。
「Flash! (Wham!) Bam!」というのはアメリカン・コミックでよく出てくる擬音語だが、ここは「あまちゃん」風に「ジェ、ジェ、ジェ!」のノリで、弾けて歌うところでしょうな。


ところで、JAZZ DAYに登場したあまちゃんシンガーの出来はどうだったかって?
それはもう「ワォ! バン! アラカザム!」で、結構楽しかったぜ…(笑)。

伴奏が支えてくれるのど自慢 (笑)

#566: 慕情

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ある世代より上の映画ファンにとって、『慕情』(Love Is A Many-Splendored Thing‐1955)は忘れ難い恋愛映画ではなかろうか。
恋愛映画の古典のひとつとされているのは、世の中に甘くて哀しいラヴ・ストーリーが好きな人が多いということもあるのだろう。
現在の眼で見ると、それほどの傑作とも思えず、むしろカッタルイ部類に入る作品かもしれない。

監督のヘンリー・キングは、ジョン・パトリックのシナリオをシネマスコープで描いた。
本ブログでも、かつて『拳銃王』(1950)、『キリマンジャロの雪』(1952)、『回転木馬』(1955)など、キングの作品を取り上げたことがあるが、どれも悠揚迫らざる演出ぶりであった。

アメリカ人の新聞記者ウイリアム・ホールデンと英中混血の女医ジェニファー・ジョーンズの美しくも儚い悲恋物語だが、二人の恋には戦争が絡む。
戦争は必ず悲劇を生むのである。

だが『慕情』はシネマスコープの効果を活かした香港の観光映画である、という言い方も可能である。
現在のように海外旅行など身近に感じることのできなかった頃の作品だから、シネマスコープの大画面によって異国を旅行する気分を大いに味わうことができたはずである。
蚤助がこの作品を初めて観たのは70年代のリバイバル上映のときであったが、公開当時リアルタイムで観た人々にとっては、中国と香港の関係や朝鮮戦争を現実のものとして感じとることができたに違いない。
さらに、英国から中国に返還された現在の香港の状況を考えるとまた別の感慨も浮かぼうというものである。

ヒロインを演じたジェニファー・ジョーンズは、当時35歳で、とっても美人だと思った。
メイクのせいもあろうが、どことなくエキゾチックな雰囲気を感じさせたものである。
印象的だったのはこのシーン。


ホールデンが、浜辺で自分の喫っていた煙草の火を、彼女の煙草に点けてやる、今どき、見たくてもなかなか見られない光景である(笑)。

二人が初対面のとき、ホールデンが「あなたが医者だとは思えない」というと、ジョーンズが「メスがあれば切開してあげるのに」と言ったり、「記者と特派員とどう違うの」と訊くと「週百ドルの違いさ」と答えたり、結構洒落たセリフが多かった。

「あなたは強い人ね」
「君も強い女性だよ」
「あなたは優しいわ。優しさより強いものはないのよ」
極め付けのセリフはこれかもしれない、いかにも恋愛映画らしい(笑)。

ラストシーンで、丘の上に亡くなったはずのホールデンが幻として現れ、そしてやがて消える、それにかぶさるように大ヒットしたあの主題曲が流れるのだ。
このあたり観客は滂沱の涙であるが、何だかお尻のあたりがムズムズしそうな悲恋物語にとまどいながらも涙目になる蚤助…。
コンサートやテレビ番組などで映画主題曲集という企画があると、まず取り上げられる曲で、この曲が忘れられない限り、映画『慕情』も忘れ去られることはない、というわけである。

主題曲“Love Is A Many-Splendored Thing”は、この年のアカデミー主題曲賞を受賞したが、甘美でロマンチックな調べが心を打つ日本人好みの名曲である。
作曲したサミー・フェインは曲を書くのが早く2時間ほどでメロディーを書き終えたという。
作詞はポール・フランシス・ウェブスターで、このコンビはほかにもパット・ブーンの“April Love”(四月の恋)というヒット曲を世に出している。

Love is a many-splendored thing
It's the April rose that only grows in the early spring
Love is nature's way of giving, a reason to be living
The golden crown that makes a man king…

恋はとてもすばらしいもの
それは四月のバラ 早春にのみ咲く
恋は天から授かった本性 生きる理由
金の王冠は 人を王にする
かつて 高い風の丘で
朝霧の中 二人が交わした口づけに 世界は静止した
君の指が 私の静かな心に触れ どう歌えばいいのか教えてくれた
そう 真実の恋は とてもすばらしいことなのだと…
少し時代がかった歌詞とスケールの大きなメロディーなので、朗々と歌われることが多いが、何と言ってもフィラデルフィア出身の4人組コーラス、フォー・エイセスが世界的に流行させた(こちら)。

彼らのヴァージョンは、今の耳で聴くと基本は大時代的な斉唱スタイルではあるが、55年全米ナンバーワン・ヒットのミリオンセラーとなった。
『慕情』は彼らのコーラスで音楽ファンの心をとらえたのだった。

このほか、ジャジーでソウルフルなダイナ・ワシントンや、フランク・シナトラの情感あふれた歌唱など、聴いていただきたいヴァージョンはいくつかあるのだが、蚤助としてはやはりナット・キング・コールのベルヴェット・ヴォイスが好きだ。
朗々と歌い上げるのではなく、意外にもちょっと軽快なテンポでサラリと歌う。
そこが他の歌手と違うところで、さっぱりとした後味すっきりの『慕情』である(こちら)。

インストゥルメンタルものと言えば、一にも二にも1956年のクリフォード・ブラウン=マックス・ローチ五重奏団による素晴らしくジャズっている演奏が有名である(こちら)。
ブラウニーが交通事故死する4か月前の録音である。


(Clifford Brown & Max Roach/At Basin Street)
高校3年生のときに、初めてこの演奏を聴いてから、いったいどれだけの回数聴いたことか。
テーマ部分はワルツ・タイムを取り入れ、ソロ部分に入ると早いテンポのフォー・ビートに変わってスウィングし始める。
各人ともあまり長くはないが、ソロ・オーダーはブラウニー→ロリンズ→リッチー・パウエル→ローチの順で、特に先発のブラウニーのラッパはいつもながら歌心にあふれていて見事である。
テナーのソニー・ロリンズは、ブラウニーと出逢って即興演奏家として大成していく途上であるが、たくましい音色である。
『慕情』がすっかり『熱情』になっているところがミソ(笑)。

恋をするということは楽しくもあり、苦しくもあり、いずれにしても美しいものである。
その恋を失うのは辛いことだが、それを川柳で詩的に表現した人がいる。

落丁にする失恋の一頁 (村上氷筆)
面白うてやがて哀しき「失恋」である。

失恋を女は笑い男泣く (蚤助)
失恋と誰も思わぬ寝込む爺(じい) (蚤助)

#567: Somewhere

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シェイクスピアの“ロミオとジュリエット”の舞台を、1950年代のニューヨークに移し、イタリア系(ジェット団)とプエルトリコ系(シャーク団)の二つの非行少年グループの抗争と悲劇を描いた“ウエスト・サイド物語”(West Side Story)は、あまりにもよく知られているミュージカル作品である。

特に1961年に製作された映画版は、批評家、観客から大きな支持を得て、アカデミー賞の作品賞をはじめ10部門受賞という快挙を成し遂げ、日本でも丸の内ピカデリー劇場で、1961年(昭和36年)12月23日の封切りから、1963年(昭和38年)5月17日まで509日間にわたる空前のロングラン上映を記録した。

ジェローム・ロビンスの振付によるダンス・ナンバー、スティーヴン・ソンドハイムとレナード・バーンスタインの作詞作曲による音楽、映画の編集者出身のロバート・ワイズによるテンポが早くエッジの効いた演出は、アメリカの社会問題を作品のテーマに取り上げたストーリーと相俟って、以後のミュージカル映画の性質を一変させてしまうほどの大きな影響を残した。


(West Side Story 1961)
現在では、主役のナタリー・ウッドとリチャード・ベイマーの二人の歌が吹き替えだったことはよく知られているが、吹き替えの歌手の名前は映画にも、空前の売上げを記録したサウンドトラック・アルバムにもクレジットされていなかった。
ウッドの吹き替えは以前もふれたマーニ・ニクソン、ベイマーの歌はジム・ブライアントが吹き替えている。
映画のサントラ盤は不滅の音源として、世に出てから、一度たりとも廃盤になったことがなく常にカタログに載せられているという人気アルバムだが、現在発売されているものには、吹き替えの歌手の名前がしっかりとクレジットされているようだ。


この作品には“Tonight”、“I Feel Pretty”、“America”、“Cool”、“Maria”、“Something's Coming”など名曲、佳曲が多いが、蚤助が中でも気に入っているのが“Somewhere”というナンバーである。


(West Side Story/Original Broadway Cast 1957)
There's a place for us, somewhere a place for us
Peace and quiet and open air wait for us, somewhere…

二人の場所がある 二人のための場所がどこかにある
平和と静寂 開けた空が 二人を待っている どこかで

二人の時がある いつかやって来る
一緒に過ごせる時が 見つめ合って 癒しあう時が いつか来る

どこかに 新しい生き方を見つけよう
許し合う方法を見つけよう どこかで

二人の場所がある 二人のための時と場所が 手を取って
もうそこにある 手を取って連れて行こう
そのうちに いつの日か どこかに…
1957年のオリジナル・ブロードウェイ上演版と1961年の映画版では、歌やダンス・ナンバーの順番や歌い手、登場人物などにかなりの相違があることが知られているが、“Somewhere”はブロードウェイのステージでは、第二幕のトニー(ラリー・カート)とマリア(キャロル・ローレンス)の夢の場面、およそ7分半に及ぶダンスシーンで歌われるナンバーで、コロラトゥーラ・ソプラノのレリ・グリスト&アンサンブルが歌った。


(Reri Grist)
レリ・グリストは小柄で華奢な歌手だったが、その明るく美しいチャーミングな歌声は、現在では史上最高のモーツァルト歌手及びソプラノ歌手の一人として知られている。
ニューヨーク・シティ・オペラでデビューを果たしたばかりのグリストの歌を聴いたレナード・バーンスタインが、プエルトリコの娘コンスエロ役として大抜擢、“ウエスト・サイド物語”のステージに立たせたのである。
このナンバーは、カートとローレンスが「どこか遠くに…」と歌い出すのだが、この後はダンスの伴奏音楽となり2分半過ぎ頃からグリストのソプラノが聞こえてくる。
彼女はステージの陰で歌う(こちら)。

これに対し、映画版では、このナンバーは、シャーク団のリーダー(ジョージ・チャキリス)を刺殺してしまったトニー(リチャード・ベイマー)がマリア(ウッド)の部屋を訪れ、二人で歌うわずか2分ほどの短いデュエット曲に生まれ変わっている(こちら)。

♪ ♪
今やこの歌はポップスだけでなく、ジャズやソウル、ゴスペルの歌手もとりあげるスタンダード曲となっているが、代表的なものを2つご紹介しておこう。

長髪のビート・バンドばかりだった1966年、突然変異のように紳士然としたヘア・スタイルとダークスーツ姿で、ダンサブルなリズム&ブルース・ナンバーとして甦らせたのがレン・バリー。
そういえば、彼には“1-2-3”というヒットもあったね(ちょっと道草、こちら)。


(Len Barry)
元々、フィラデルフィアのドゥーワップ・グループ、ザ・ダヴェルズのリード・ヴォーカルだった彼は、この麗しのスタンダードをパワフルなブルー・アイド・ソウルへアレンジしてシャウトしたのだった(こちら)。

もうひとつは、クイーン・オブ・ソウル、アレサ・フランクリンの神々しいほどの歌である(こちら)。


(Aretha Franklin)
1973年のジャズもソウルもゴスペルも超越したドラマティックな歌声で、ゴスペル色の強いピアノは彼女自身が弾いている。
途中、登場するアルトサックスはフィル・ウッズで感動的なアレサの歌に華を添えている。

♪ ♪ ♪
朝の通勤・通学時間帯に台風26号の強風の影響で電車が止まり、通常の3倍ほどの時間をかけて通勤するはめになった一日だった。
台風は各地に大きな被害を残して足早に通り過ぎて行った…。

台風の進路誰かの故郷(くに)がある (蚤助)

#568: 恋人たちの協奏曲

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石田衣良はクラシック音楽に造詣の深い作家として知られる。
彼の連作短編小説集『池袋ウエストゲートパーク』(IWGP)シリーズは、新刊が出る度に読んできた。
IWGPは『あまちゃん』の宮藤官九郎の脚本で、テレビドラマ化されたことがあったが、印象としては原作とは少し違うテイストで、蚤助の口には合わなかった。

池袋の西口で女丈夫の母親とともに家業の果物屋を営むトラブル・シューター「マコト」(真島誠)が主人公で、彼の独白でストーリーが展開するが、やはりクラシック音楽ファンという設定になっている。
IWGPは、近くに東京芸術劇場、マルイシティ、(西口にある)東武百貨店、ホテルメトロポリタン、立教大学などがある池袋西口公園のことだが、池袋周辺で起こる大小の事件やトラブルとともに、自室の四畳半や果物屋の店頭でクラシック曲を聴く「マコト」の描写が必ず登場するのがお約束となっている。


シリーズ中の「千川フォールアウト・マザー」という一篇には、バッハの『アンナ・マグダレーナのための音楽帳』(クラヴィア曲集)が出てくる。
1725年、楽聖ヨハン・セバスチャン・バッハ(大バッハ)が、16歳年下の後妻アンナ・マグダレーナのレッスン用に作曲した作品である。

作者は「マコト」にこう語らせている。

自分の家庭むけの実用品の音楽でも、すごいメロディがむやみに投げこんであるところが、さすがにバッハ。こういうのをほんとうのハウスミュージックというのかもしれないな。

ハウスミュージックというのは、クラブ(昔でいう“ディスコ”のことだよ、オジサン!)などでよく流されるアップテンポで、極めて短い音や同じメロディラインを何度も繰り返すリズム感あふれるポップ音楽で、リスナーに陶酔感を与えるのが特徴とされている。
「マコト」は、このハウスミュージックを「パソコンの中だけで作られる」音楽と評していて、テクノとかラップとか、ほとんど無機質であまり歌を感じない昨今流行りの音楽には愉悦を全く感じない蚤助も、これには我が意を得たりと快哉を叫んだほどである(笑)。

もとより蚤助の耳は、あまりクラシック音楽向きにはなっていないので、バッハについても通り一遍の知識しか持ち合わせてはいない。
この駄文も、時代を超えた不滅のスタンダード曲などについて、気の向くままに綴っているにすぎない。
というわけで、今回は、60年代に蘇った最もポピュラーなクラシック作品である(笑)。

♪ ♪
ザ・トイズは、ニューヨーク出身のR&Bのガール・グループ、ファルセット・ヴォーカルを効かせたポップな作品で60年代の半ばに短期間ながら音楽ファンの心をとらえた。


(The Toys)
ハイスクール時代にトリオを結成したが、ボブ・クリューに出会って、運命の扉が開く。
クリューは、当時人気の頂点にあったフォー・シーズンズのプロデューサー兼ソングライターであった。
クリューはトイズのプロデューサーとしてサンディ・リンザーとデニー・ランデルを指名した。
二人はフォー・シーズンズに曲を提供するスタッフ・ライターでもあったが、トイズのデビュー曲にはクラシック作品を歌わせたら面白いのではないかという斬新なアイデアを出した。

その計画の候補に選ばれたのが、大バッハ『アンナ・マグダレーナのための音楽帳』の中の“メヌエット”であった。
サンディとデニーは作品に手を加え、これを素晴らしくキャッチーなポップ曲にアレンジ、それが“A Lover's Concerto”である。
『恋人の協奏曲』というわけだが、あえて『恋人たちの協奏曲』とした方が語感が良い気がする。
トイズはこの曲を録音すると65年秋に全米2位のミリオン・ヒット、実にラッキーなデビューを飾ることができたのだ(こちら)。

♪ ♪ ♪
だが、意外にもこの事実は、日本ではそれこそポップ・ロック分野のレコード・ファンのほかには余り知られていないようだ。
それはなぜか。
というのも65年末、ジャズ・シンガーのサラ・ヴォーンがカヴァー曲として後追い録音すると66年の春頃から大ヒットするのである。
大歌手のサラがロック・ビートで歌ったという話題性もあり、一般的には、この録音がオリジナルと錯覚されているのであろう。


(Sarah Vaughan)
サラはその長い歌手生活において多くの新作ポップ・ソングを歌い、レコーディングしてきた。
その点は、偉大なビリー・ホリデイにしろ、エラ・フィッツジェラルド、カーメン・マクレエ、アニタ・オデイにしても同じだが、ただサラとエラの場合には、明らかにヒットを狙ったと思しきコマーシャルなアレンジ、サウンド、アプローチが施された例が多い。
それだけサラとエラの二人には幅広いファン層の対象となり得るポピュラリティがあったということなのだろう。
そして、サラ・ヴォーンは他のジャズ・シンガーの誰よりも多くのヒット曲を放ち、チャート入りしたレコードも多い。

サラは、ルチ・デ・ヘスースの編曲・指揮のオーケストラをバックにロック・ビートで歌っている(こちら)。
この当時のサラは、そのキャリアの中でも不遇・雌伏の時期に当たり、全体として重たい歌唱が多いのだが、このレコーディングはさすがに歌の巧さを感じさせる。

How gentle is the rain
That falls softly on the meadow
Birds high above in the trees
Serenade the flowers with their melodies oh oh oh…

草原に降る雨の 何とやさしいこと
木の梢で鳥たちが 野の花たちにセレナーデを歌う

見て 丘の向こうに 美しい虹が輝いている
今日 私たちが恋に落ちるように 空から魔法をかけている…
というような、ものすごく甘い歌詞である。

このポップ・ソングは、彼女のヒット曲のひとつにはなったとは言え、余りにもスイート過ぎる内容の曲なので、おそらくサラ・ヴォーン自身は、コンサートやライヴ・ステージでは一度も歌ったことはなかったのではあるまいか。

大バッハ聴きつたこ焼き食べている (蚤助)

#569: 針の眼

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21世紀に入ってからは、スパイ小説やスパイ映画の作り方は、ますます難しくなっていくだろう。
というのも、ソヴィエト連邦やベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦とか鉄のカーテンだとかいう言葉はもはや歴史上のエピソードの一つになりかかっているし、政治、経済、宗教等を含めて、単に善か悪か、敵か味方か、などという二元論では判断しきれない複雑な事象が多々発生しているからである。

スパイ小説やスパイ映画は、彼らがいかに自分の組織のために働いていようと、スパイ個人の行動に絞って描かれてこそ、ジワジワとスリルやサスペンス度が盛り上がっていくものである。
ところが、下手な作品になると、スパイを操る側や対抗する側の組織の話にストーリーが拡散していき、やがて大統領や首相、閣議や議事堂内などが登場して、結果サスペンス度がどんどん薄められていってしまう。

これはSFでも同じで、ごく普通の人間が、SF的大事件に遭遇した時に、彼または彼女がどうなるのかを丁寧に辿って行けば面白くなるに違いないところを、世界中の指導者や国家の閣僚連中に会議などを始めさせたりして、つまらなくしてしまう。
特にこれは日本の諸作品にほぼ共通してみられる欠点だと思う。
作家諸氏におかれては、ぜひ心してもらいたいものだ。
市井の平凡な人間が、ある日突然、得体の知れない状況に陥るいわゆる「巻き込まれ型」のストーリー展開が面白いのは、既にアルフレッド・ヒッチコックが証明しているではないか(笑)。


ケン・フォレット(1949‐)はイギリスの人気作家だが、代表作はやはり傑作『針の眼』(Eye Of The Needle)であろうか。
非常に面白い作品で、日本でもベストセラーとなった。
主人公が、連合国側に潜むナチの残置スパイであることが新鮮な設定だとして受け止められたのであろう。
これは、ドイツ軍の精鋭がチャーチルの暗殺を企てるジャック・ヒギンズのベストセラー『鷲は舞い降りた』と似た手法である。

1981年に、この小説をもとに、ウェールズ出身の映画監督リチャード・マーカンドが撮った同名映画(脚本はアラン・ヒューム)もなかなか上手く出来た作品で、珍しくも名バイプレイヤーのドナルド・サザーランドが主演したことでも話題になった。


(Donald Sutherland)
第二次世界大戦下の英国にナチドイツのスパイが暗躍していた。男の名はフェイバー、必要とあらば味方も冷酷に消してしまう男だが、殺人に必ず細身のナイフを使用することから「針」と呼ばれていた。
針ことフェイバーは、近々予想される連合国軍のフランス侵攻作戦(Dデイ)の上陸地点を探り出す命令を受け、英国側当局の追跡をかわしながら、それがノルマンディーであることを突き止める。
機密情報を得たフェイバーは、小船で海上に出て、Uボートで英国脱出を試みるが、暴風雨に遭遇、スコットランドの孤島に漂着する。
その島には、事故で半身不随となって以来、すっかり人間嫌いになった元英国空軍のパイロットとその妻とまだ幼い息子の三人家族と、飲んだくれの灯台守の4人が住んでいるだけであった。
フェイバーは、一家に介抱され、世話になりながらも、再度英国脱出を画策する。
そして、やがて、心ならずもその一家の孤独な妻と恋に落ちてしまう…。

要は、軍事機密を得た「針」が、彼を追う英国当局の捜索をかいくぐりながら、英国脱出を目指して逃げ回るという物語で、風の強い荒涼たる孤島でクライマックスを迎えるのだが、主人公のスパイが人妻と恋をしたために、話は思わぬ方に向かっていく。
追手をかわしながら逃走する前半部分と、島での行動の後半では、受ける印象が全く違う。
原作者フォレットのアイデアに負うところが多いのだろうが、前半はまさにエスピオナージュ的サスペンス、後半はスリラーという趣である。
スパイものとしては女性心理がよく描かれていると思うし、男と女の戦いのドラマとして見ることもできよう。
特に、後半は夫が殺害され、男が敵国のスパイだと知ってしまった女の恐怖を中心にしたところが、非情のラストにうまくつながっている。

♪ ♪
リチャード・マーカンドは、本作で評判を得て、ジョージ・ルーカスに認められ、後に『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐』(現在は「ジェダイの帰還」に改題)を撮ることになるのだが、ここではサスペンスの醸成よりも臨場感の再現に力を傾注したようであり、それはそれで成功している。
特に、クライマックスの舞台になるスコットランドの荒涼たる孤島の自然描写が素晴らしかった。
彼は働き盛りの50歳を目の前にして病死してしまったことが惜しまれる。

ただ、この映画には原作とは違う決定的な欠点が二つあると思う。

まず、孤島へ救出に向かう英国当局の面々が使うのは、原作では水上飛行機なのに対して、映画はヘリコプターである。
第二次世界大戦中はヘリコプターは実用化されていなかったはずで、これは明らかに考証ミスであろう。

また、映画では、フェイバーは人妻(ケイト・ネリガン)に射殺されるのだが、拳銃の扱い方もろくに知らないはずの専業主婦に、簡単に射殺されてしまう腕利きのベテラン・スパイというのもあまりピンとこない。
原作では、岩を落とされて死ぬ設定となっている。
この2点は、明らかに原作の改悪と断じて差し支えなかろう。


(Kate Nelligan)
いずれにせよ、計算外に恋をしてしまったベテラン・スパイ「針」は言う。

「戦争に愛はない」
まさにその通りであるが、このセリフは似たようなものがいくらでもできそうなところが面白い。

「戦争にルールはない」
「戦争に美学はない」
「戦争に真の勝利はない」…etc.

というわけで、

戦争の理由(ワケ)は平和を守るため (蚤助)
大いなる矛盾デアリマス…。

#570: 君を恋してから

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You made me leave my happy home
You took my love, and now you've gone
Since I fell for you...
これは“あなたは幸せな家庭を捨てさせ、私の愛を手に入れたのに、今、私のもとを去ってしまった”と歌いながら、まだ相手に未練がある、まだ愛している…そんな主人公が登場する胸が締め付けられるようなつらく哀しい恋の歌“SINCE I FELL FOR YOU”である。

“FALL FOR”という言い回しは、俗語で「(策略、宣伝、うまい話などに)だまされる、一杯食わされる」とか「〜を信じ込む、〜をうのみにする」とかいうニュアンスだから、あまり良い意味ではない。
邦題は『君を恋してから』とか『あなたを愛したときから』などとロマンティックなのだが、実のところは、相手の愛を信じたのに捨てられたと嘆いているのである。

この曲は、ブルース系の歌手兼ピアニストであったバディ・ジョンソンが1947年に自身のオーケストラを率いて発表したそうだが、ヒットさせたのは、同年末にアニー・ローリーのヴォーカルをフィーチャーしたピアニストのポール・ゲイテン&ヒズ・トリオだった。
そのポール・ゲイテンの音源は、現在のところ入手不能の状況らしくて、どこにも見つけられなかったのが残念である。
実は何を隠そう、蚤助がこの曲を初めて聴いたのはインストで、どんな内容の歌かを知らなかったのだ。
蚤助が高校生になったばかりの頃であろうか、かのラムゼイ・ルイス・トリオのベストセラーのライヴ・アルバム“THE IN CROWD”(1965)に収められていたものであった。


(Ramsey Lewis/The In Crowd)
60年代、タレント性豊かなベース奏者のエルディー・ヤングとドラマーのレッド・ホルトを従えたラムゼイ・ルイスはロック・ビートを積極的に採り入れたソウルフルなプレイ・スタイルで引っ張りだこの存在であった。
この曲はヒットチャートにも入るほどの大ヒットとなったアルバム・タイトル曲“THE IN CROWD”に続いて演奏されたのだが、ソウルフルなバラード仕立てだったのにはまったのであろう、一聴してお気に入りになったのだった(こちら)。

その次に聴いたのもインストで、リー・モーガンの人気アルバム“CANDY”(1957)の中の一曲であった
こちらは、前年に事故死したばかりのクリフォード・ブラウンの後継者とみなされていた当時弱冠19歳のモーガン唯一のワン・ホーン・アルバムである。
ソニー・クラークのピアノ、ダグ・ワトキンスのベース、アート・テイラーのドラムスというピアノトリオを率いて、若者とは思えぬほどのしっとりとしたバラッド・プレイを聴かせる(こちら)。


(Lee Morgan/Candy)
佳曲だとは認識していたものの、それまで歌ものとしては聴いたことはなかった曲だったが、ある日、ラジオを聴いていた蚤助の耳に飛び込んできたのが、女性1人が入ったピッツバーグ出身の白人ドゥー・ワップ・クインテット、ザ・スカイライナーズ(見出し画像)のコーラスであった。

スカイライナーズは、1950年代後半から60年代前半にかけて、この曲をはじめいくつかの珠玉のヒット・レコードを放っているが、おそらくもっとも有名なのは“SINCE I DON'T HAVE YOU”であろう(ちょっと道草でこちら)。
映画“アメリカン・グラフィティ”に彼らのこの歌が流れてきたときの感動は今もって忘れることはできない。
透き通るようなハイ・テナーのリード・ヴォーカルを担当していたのがジミー・ボーモントで、R&B感覚を身につけた卓越したシンガーであった。
爽やかでクリーンな歌声だが、よく耳を傾けるとどこか黒っぽく、それに絡む紅一点のジャネット・ヴォーゲルを含むのびやかなコーラス・ハーモニーとの微妙な按配がこのグループの魅力ではなかったかと思う。
蚤助も時としてこの二曲のタイトルを間違うことがあるのだが、“SINCE I DON'T HAVE YOU”あるいは“SINCE I FELL FOR YOU”のようなセンチメンタルな歌にぴったりのコーラス・グループであった(こちら)。

だが、真にこの曲が広く認知されるようになったのは、スカイライナーズと同時期の63年に吹き込まれたレ二ー・ウェルチのヴァージョンが、全米チャートの上位に食い込んだからである。


(Lenny Welch)
When you just give love, and never get love
You'd better let love depart
I know it's so, and yet I know
I can't get ou out of my heart…

ただ愛を与えておいて 決して愛を得られないなら
愛とはお別れすべきだ
そう知っていたし 今も知っている私なのに
私の心からあなたを追い出すことなんてできない…
ウエルチはスカイライナーズが省略した上記のヴァースから歌い始めている。
また、黒人シンガーながら、スカイライナーズとは逆にやや白人寄りのアダルト・コンテンポラリー・スタイルなのが面白いところである(こちら)。

もうひとつ、感動的だと思うのが、女性ソウル歌手ローラ・リーのヴァージョン(1972)である。


(Laura Lee)
およそ8分を超える長編になっていて、モノローグとヴォーカルを交ぜ合せながら、男女ふたりの出会いから物語っていく。
テンポの変化も聞き逃せない(こちら)。

不倫をしたのであろう、紆余曲折の末に一緒になったものの、相手にまた捨てられてしまうという歌である。

ままごとのパパも時折浮気する (蚤助)
子供の世界にだってそんなことはよくあるのさ(笑)。

#571: 私の彼氏

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ジョージ・ガーシュウィンの最高傑作、不朽の名曲といえば、十人十色、百人百様の答えが返ってきそうだが、“The Man I Love”を挙げると、大方の人は頷くのではなかろうか。
この曲、世に知られるようになるまで時間がかかった、いわくつきの名歌である。
それもミュージカル作品のために書かれながら、遂に一度もブロードウェイのステージで歌われることもなく、演奏されたこともなかったというおまけまでついている。


物の本の孫引きとなるが、こんな具合である。

1924年のミュージカル“Lady Be Good”のために、兄のアイラの歌詞で、いくつかのナンバーを書いたジョージは、上演のための資金をオットー・カーンという銀行家に頼み込んだが、すげなく断られてしまった。
間もなくパリに渡ったジョージが、帰国する大西洋航路の船上で、偶然カーンと一緒になる。
たまたま同船していたあるオペラ愛好家のたっての頼みで、ジョージはサロンのピアノで自作曲を披露したが、その中に新曲があった。
ピアノを弾き終えたジョージに、カーンが声をかけてきた。
「今のはなんという曲か」と訊くカーンに、ジョージは「これは例のミュージカルで使う予定の“The Man I Love”です」と答えた。
カーンはジョージの返答を聞いて「それならばどんなことをしてでも資金を出さなければ」と、たちまち二人の間に資金提供の約束ができてしまった。

こうして“Lady Be Good”の公演が決まり、それに先立って行われた地方でのテスト公演ではフレッド・アステアの姉アデール・アステアが歌ったが、上演のスピード感が鈍るということで本公演ではカットされてしまう。
最初に出版された楽譜の題名は“Loved”とミス・プリントされていた上、楽譜も893部しか売れなかったという。

翌25年、やはり地方で行われたコンサートで、ジョージ自ら指揮をして、タイトルも“The Girl I Love”と男性向きに歌詞を変えて紹介したが、これまた評判にはならなかった。

自棄になったわけでもあるまいが、27年には“Strike Up The Band”というミュージカルの地方公演で使ったり、さらに28年にも“Rosalie”という作品でも使おうとしたが、これも地方公演だけで、ブロードウェイでは結局使われることがなかった。
演出上の都合もあったのだろうが、どうやらコード進行が変わっていて、扱いにくい歌だとみなされたようだ。

ジョージの執念もここまでかと思われたが、世の中面白いもので、ひょんなことからこの曲がヒットしてしまうのである。

たまたま米国を訪れていた英国の軍人マウントバッテン卿の夫人が、この曲を含むガーシュウィンのサイン入り楽譜をプレゼントされ、英国へ持ち帰った。
彼女はそれを英国のオーケストラに紹介し、その演奏を聴いたロンドン中のジャズ・バンドがこぞって演奏し始め、ドーヴァー海峡を渡ったパリでもヒットするほどになった。
巡り巡って、この名曲は英国から海を逆方向に渡ってアメリカに戻り、ヘレン・モーガンの歌うレコードがヒットするのである。
再版された楽譜は3か月間で6万部、レコードは16万枚売れたという。
ここでようやくガーシュウィン兄弟の念願が果されることになったのである。

♪ ♪
その後、映画には数えきれないほど使われている。
比較的新しいところでは『ニューヨーク・ニューヨーク』(マーティン・スコセッシ監督‐1977)でライザ・ミネリが歌い、『マンハッタン』(ウディ・アレン監督‐1979)ではサウンドトラックに使われた。

この歌、タイトルこそ『私の彼氏』だが、その彼氏はまだ私の前には現れておらず、未来の男なのである。
主人公はあまりモテない女性なのかもしれない。

Someday he'll come along the man I love
And he'll be big and strong the man I love…
“いつか現れる、私の愛する人が。彼はきっと大きくたくましい人。彼が現れたら何だってする。彼の微笑を見るだけで私には何でもわかる。やがて彼は私の手をとる。言葉は交わさなくとも。日曜日には彼に会える。月曜日には無理かも知れないけど、火曜日にはまた会えるはず。いつかは二人のために小さな家を建ててくれるはず。そんな愛する人を私は待ち続けている…”という風な内容である。

歌い手によってこの歌のニュアンスは変わってくる。
つまり、明るく歌う人にとっては「彼」は近い将来きっと現れる人であり、寂しげに歌う人にとっては、決して現実にはならない夢物語を歌っているようだ。
一つの歌が、楽天的な歌にも哀しい歌にも変貌するのである。

何しろ、この歌を歌った歌手、演奏した音楽家は星の数ほどあるので、絞り込むのは難しいのだが、1939年の暮れにビリー・ホリデイによってヴォカリオン・レコードに吹き込まれたものが名唱中の名唱とされている(こちら)。
間奏に登場するレスター・ヤングのテナーサックスも大きな役割を果たしていることを忘れてはならないだろう。
彼女の歌は、少し悲観的になっているようだ。

一方、明るい方の代表的なものといえば、何といってもエラ・フィッツジェラルドであり、バラード・スタイルからアップテンポのアレンジまで何度も録音している。
中でも、ピアノのポール・スミス、ギターのジム・ホールを含むカルテットを伴奏にして歌った1960年の西ベルリン(!)でのライヴ盤“Ella In Berlin”が有名である(こちら)。
この滑らかな歌唱と全体を包み込む優しさこそ、エラの真骨頂である。
終盤さりげなく転調して、歌の世界をさらに広げゴージャスに締めくくる構成も見事と言うしかない。
素直に幸福を夢みる女心を表現している。

以上の二人のほかに、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、ダイナ・ショア、クリス・コナー、リー・ワイリー、アニタ・オデイ、フランセス・ウェイン、べヴ・ケリーなど、女性ジャズ・ヴォーカリストのビッグ・ネームはこぞって歌っている。

男性へのほのぼのとした憧れを歌ったものだけに、男が歌うと気色が悪くなる(笑)。
これは基本的に女性の歌なのだ。
したがって、蚤助の知る限り、この歌を録音した男性歌手の話は聞いたことがない…。
と、思ったのだが、トニー・ベネットがいた。
ただし彼の場合には“The Man She Loves”と歌っていた。
英語というのは、こんな時ホント便利だね(笑)。

♪ ♪ ♪
インストの方も、ベニー・グッドマンの古典的名演をはじめ、8分以上にわたってスイングするピアノのエロール・ガーナーの大熱演、この曲を十八番にしていたテナーのコールマン・ホーキンスの名演、歌なしのナット・キング・コール・トリオ、アルトサックスのアート・ペッパーなど凄い演奏がたくさんある。


(Miles Davis And The Modern Jazz Giants)
その中で、一枚選べと言われたら、クリスマスの喧嘩セッションとして有名になったマイルス・デイヴィスのアルバムであろうか。
1954年のクリスマス・イヴに行われたマイルスとモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の共演アルバムだが、MJOのピアニストであるジョン・ルイスを嫌ったというプレスティッジ・レコードの社長兼プロデューサー、ボブ・ワインストックの意向で、セロニアス・モンクがピアノに座った。
マイルスは先輩格のモンクに「俺のソロのバックではピアノを弾くな」と注文をつけた。
スタジオに一触即発の冷たい空気が流れる。

“The Man I Love”のテイク2の収録が始まる。
マイルスのソロの間、鍵盤から指を離すモンク、マイルスのソロ、ヴァイヴラフォンのミルト・ジャクソンのソロに続いて、モンクのソロ・パートになっていく。
曲が始まってちょうど5分30秒当たりであろうか、突然モンクは自分のソロ・パートの最中にピアノを弾くのをやめてしまうのである。
パーシー・ヒースのベースとケニー・クラークのドラムスが刻むリズムだけが淡々と続く。
少したって、マイルスが警告するようなフレーズを吹くと、目が覚めたようにモンクがピアノを再び弾きはじめる…。
実に緊張感にあふれたセッションである(こちら)。

現在、このセッションは、多分に芝居がかった「演出」だったとする説や、音楽効果を狙った構成(アレンジ)の話に面白おかしい尾ひれがついた伝説だとか言われているのだが、伝説ならば伝説のまま信じておきたいエピソードではある。
モンクはその後二度とマイルスと共演することがなかったのは事実だし、一方“The Man I Love”を死ぬまで弾き続けていたので、モンクはやはりこのセッションには相当腹に据えかねた部分があったのだろうと想像する。

それにしても、そんなハプニングのような出来事から素晴らしい名演が生まれることがあるのが、ジャズという音楽芸術の面白いところである。

♪ ♪ ♪ ♪
私のカレシ、これも女心であろうか…?

自分の名カレの名字で試し書き (蚤助)


#572: 君を想いて 

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レイ・ノーブルは、蚤助の学生時代からのアイドル、クリフォード・ブラウンの名演も残されている曲“Cherokee”の作曲者として昔からその名を記憶していた人である。
1920年代末から30年代にかけて、英国で最高の人気を得たバンド・リーダー兼ピアニストであった。
当時、彼の人気はレコードを通じてアメリカにも広く伝わっていた。

1934年、長い不況を脱してようやく活気づき始めたアメリカに乗り込もうとしたノーブルだったが、音楽家組合の規定で、外国の楽団が興行目的で入国することはできないという障壁にぶち当たってしまった。

名前からしてノーブルすなわち“高貴な”というくらいの典型的な英国紳士であった彼はそこでどうしたか?
マネージャーを兼ねていたドラマーのビル・ハーティとバンドのスター歌手であったアル・ボウリーだけを連れて渡米したのである。
そして、当時すでに人気が出ていたグレン・ミラーの手を借りて、メンバーの人選からアレンジの一部まで手伝ってもらい、新しいバンドを結成したのだ。

早い話が実質的なグレン・ミラーのバンドをベースにして演奏活動に入ったのである。
言うなれば“他人の褌で相撲をとる”の類であった。
メンバーには、グレン・ミラー(TB)、バド・フリーマン(TS)、クロード・ソーンヒル(P)などアメリカの人気バンドマンを揃えたこの“新”レイ・ノーブル楽団は、全米ツアーを行い成功を収めた。

このツアーの各会場で披露されたのがノーブルが書いた“The Very Thought Of You”(邦題「君を想いて」)という曲であった。
英国から連れてきたお抱え歌手のアル・ボウリーの歌ったこの曲は、レコードも大当たり、以後スタンダード曲になっていく。
だが、やがて音楽上の意見の相違からグレン・ミラーが退団、彼は新しいサウンド・カラーを持ったグレン・ミラー楽団を結成するのである。
こうして主要メンバーが抜けたノーブル楽団は解散を余儀なくされるのだが、ノーブルは、その後も自身のキャラクターを活かしてラジオに出たり映画にも出演したり、見事な転身を図ってハリウッドで活躍するようになる。
一方、可哀想なのがオリジナルのヒットを飛ばしたヴォーカルのアル・ボウリーであった。
英国に戻って、クラブ歌手として歌い続けたが、1941年に、出演中のクラブがドイツ軍の爆撃機による直撃弾を受け、彼もその犠牲になってしまった。
ついていない人だったのである。


(アル・ボウリー)
この歌、映画『カサブランカ』(1943)にも使われたが、有名になったのは、夭折のトランペット奏者ビックス・バイダーベックの生涯を描いた1950年の映画『情熱の狂想曲』(Young Man With A Horn)でも使われたからである。
カーク・ダグラスが主人公のトランぺッターを演じ、共演したドリス・デイがこの歌を披露してから有名になったのだ。
この映画でダグラスのトランペットの吹き替えをしたのはハリー・ジェームズであった。
ドリス・デイとハリー・ジェームズの共演はこちらで聴ける。
『カサブランカ』も『情熱の狂想曲』も奇しくもマイケル・カーティスが監督した作品であった。

他には、サラ・ヴォーンのものが名唱としてよく知られている(こちら)。
伴奏の楽器編成がシンプルであればあるほど、歌唱力の差が如実に現れるものだが、ジョー・コンフォートのベース、バーニー・ケッセルのギターのみの伴奏で歌うサラは、アカペラでもいいと思えるほどの見事な歌を聴かせる。
安定感、説得力とも申し分ないバラードである。
サラは、61年に録音した“After Hours”という名盤でもやはりこの歌をマンデル・ロウのギター、ジョージ・デュヴィヴィエのベースのみの伴奏で歌っている。

I don't need your photograph to keep by my bed
Your picture is alway in my head
I don't need your portrait, dear to call you to mind
For sleeping or waking dear I find…

ベッドの側に君の写真はいらない
君の姿はいつも僕の頭にあるから
君を想い描くのにポートレイトは必要ない
寝ても覚めても君が分かるから…
この歌にはこんなヴァースがついているのは知らなかったのだが、それというのも、蚤助は、寡聞にしてこの歌をヴァースから歌った歌手を聴いたことがなかったのである。
ほとんどの歌手は以下のコーラスから歌い始めている。

The very thought of you and I forget to do
The little ordinary things that everyone ought to do
I'm living in a kind of daydream I'm happy as a king
And foolish though it may seem to me that's everything…

君のことを想うと 日常的な雑用をするのを忘れてしまう
白昼夢の中に生きているようで 王様のように幸せだ
愚かしいかも知れないけれど 僕にはそれがすべて…
愛する人に想いを馳せて告白するラヴ・ソングであり、ゆったりとしたテンポで、しみじみと情感をこめて歌われることが多い。
美しい旋律を持ったあまり飽きのこない味わい深い歌なので、多くの歌手に好まれている。

時が変わって、作曲者ノーブルと同様、やはり英国から登場したビートルズの曲がアメリカに初上陸した1964年のこと、このバラードが、ロック・ビートのポップス・ヒットとなってまたまた脚光を浴びることになった。
それが、ハリウッドのテレビスターから音楽界のアイドルへと転じたリック(リッキー)・ネルソンの、軽やかなロック・ヴァージョンであった(こちら)。


(Art Farmer)
最後にインストものを一つあげておくと、トランペットのアート・ファーマーが持ち前の歌心あふれるプレイを聴かせているのがこちらの名演(1958)である。
共演はハンク・ジョーンズ(P)、アディソン・ファーマー(B)、ロイ・ヘインズ(DS)のワン・ホーン四重奏である。
マイルス・デイヴィスとは一味違ったミューテッド・プレイに癒される。

想い出というものは、多くの場合、

想い出の中は憎めぬ人ばかり (蚤助)
というものなのだろうが、

想い出の中に無念も二つ三つ (蚤助)
というのも事実であろう。
きっと誰もが頷かれるはずである。

#573: 意地の悪い歌だけど

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アメリカにおけるラジオの本放送は1920年ピッツバーグから始まったといわれている。
ラジオから流された最初のニュースというのは、大統領選の結果で第29代大統領ウォーレン・ハーディングの当選を伝えるものだったそうだ。

アメリカでレコード盤の販売枚数が初めて年間1億枚に達したのはその翌年の1921年のことだった。
楽譜の販売部数に代わって、レコード盤の売り上げがヒット・ソングのバロメローターになったのは、何といってもラジオから流れる音楽の力によるところが大きかったであろう。
ポピュラー音楽史から見れば、ラジオ放送が開始したこのあたりから、一般大衆の間に流行する歌、いわゆるポピュラー・ミュージックの世界が成立したとみるのが妥当かもしれない。

レコードの再生機(プレイヤー)もまだまだ一般家庭に十分普及していなかった1923年のこと、バート・カルマー、ハリー・ルビー、エディ(テッド)・スナイダーの3人が共作した“Who's Sorry Now”という楽曲の楽譜が売れに売れた。

Who's sorry now, Who's Sorry now
Whose heart is achin' for breakin' each vow
Who's sad and blue, Who's crying too
Just like I cried over you…

今は誰が後悔しているのか?
互いの誓いを破ったことで誰が心を痛めているのか?
誰が悲しみ落ち込んでいるのか? 誰がまた泣いているのか?
私があなたを想って嘆いているように…
こう始まるのだが、少し意地悪で皮肉まじりの歌であった。
破局を迎えたカップルの心情が綴られている。

自分を捨てて去って行った男(もしくは女)がフラれる羽目になった。
それを知って“お気の毒”といっているのだが、決して同情しているわけではなく、逆にいい気味だと喜んでいるのである。
他人の不幸は蜜の味がするし、嬉しい。
成功談より失敗談、惚気よりヒジテツを食らった話の方が座が盛り上がるし、好奇の対象となる。
何しろ“I'm glad that you're sorry now”(あなたが今後悔してるのが嬉しい)と言っているくらいなのだ。
ざまあみろ!というわけである。
人間の本性ってやつはそんなものなのだ(笑)。

コニー・フランシスは、ニューヨーク大学で心理学を専攻する大学生だったが、歌の才能の方に賭けて大学を中退した。
順調にレコード・デビューを果たしたものの発売したレコード10枚はいずれも全く売れず、そろそろ歌手としての将来に見切りをつけるべきか不安を感じていた。

子供の頃から家族みんなが歌っていたというこの“Who's Sorry Now”は、コニーの父親が好きな歌でレコーディングを勧められていたが、コニー本人はカビが生えたような古めかしい楽曲だと感じていてあまり関心がなかったのだ。
しかし、最後の曲となるかもしれない11枚目のレコードとしてこの曲を選んで吹き込んだ。

“誰しもみんな悔やんでいる、泣いている、でもそれは自分がしたことなのよ”と、今にも泣きだしそうな切なげな声で歌ったこの曲は1958年に発売されると、全米4位を記録するコニー最初のヒット曲となり、以後、彼女は数多くのヒット曲を連発し、1960年代のポップ・ヴォイスとなるのである。
この曲がヒットしていた58年にテレビ番組に出演して歌っている画像をこちらでどうぞ。

当時、彼女はまだ20歳くらいのはずで、心理学専攻の学生だったことを受けて日本での紹介記事にも“心理学応用の声”とあったそうだ(笑)。
そういえば、70年代のポップ・ヴォイスといわれるカーペンターズのカレンの歌声もコニーの声とよく比較されたものであった。

この曲、20世紀の名曲のひとつと評する人もいるほどで、現在に至るまで音楽ファンの心に訴えかけてくるものがあるが、歌の内容ほどマイナー調のイメージはなく、コニーの歌でも分かるように余韻を残すロッカ・バラード仕立てになっている。
男女どちらでも歌えそうな内容ではあるが、どちらかと言えば、女性シンガーによるものが中心で、サリナ・ジョーンズやオズモンド・ファミリーの紅一点、マリー・オズモンドのカヴァーが知られている。
特に、1975年、当時15歳だったマリーが吹き込んだものはあどけなさが残っていて甘酸っぱいムードが漂っている。
このマリー版は全米チャート入りを果たしている(こちら)。


(Marie Osmond)
男性歌手では、50年代の初めにディーン・マーティンがスウィング・ジャズのテイストで歌っているが、曲の印象はまるで違う(こちら)。
珍しいところでは、ピアノを弾きながらロックするジェリー・リー・ルイスのちょっと投げやりな歌もあった(こちら)。
ジェリーのヴァージョンは、傷心というよりは、自暴自棄という趣である(笑)。


(Nat King Cole)
さらには、コニーの歌が発売になる前年の1957年、ナット・コールがすでに歌っていた(こちら)。
ビリー・メイの編曲・指揮のオーケストラをバックに軽やかにスウィングしていてさすが“キング”である。
これも名唱のひとつに挙げておきたい。

あのころの後悔はもう時効です (蚤助)
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