映画『ボディガード』は、サスペンスの体裁をとっているものの、大スターをつけ狙う犯人が比較的早い段階で推測できてしまうなど、サスペンス度がそんなに高いわけではない。
実際のところは、しがないボディガードと大スターの、しかも白人と黒人の人種を超えたラヴストーリーといってもよい。
この映画の脚本は、ローレンス・カスダンが、主人公をスティーヴ・マックィーン、相手役のスターにダイアナ・ロスを念頭に置いて1975年に書いたものだそうだ。
当時カスダンは広告会社に勤めるサラリーマンだったが、この脚本が売れたため映画一筋で生きる決断をしたのだという。
しかし、この脚本はマックィーンの気に入らず、映画化されないままオクラ入りとなってしまったのである。
1992年になって、カスダンは、ミック・ジャクソンを監督に据え、自ら製作に携わって自分の旧作シナリオの映画化を実現したというわけであった。
♪
アカデミー賞の有力候補となっている女優兼歌手のレイチェル(ホイットニー・ヒューストン)の元に、脅迫まがいの手紙が届くようになった。
マネージャーら周囲の者たちは、かつてレーガン大統領のSPを勤めたフランク(ケヴィン・コスナー)をボディガードとして雇う。
ビジネスライクに仕事を引き受けたフランクだったが、やがてレイチェルとフランクは次第に雇用者と被雇用者という関係を踏み越えた関係になっていく。
やがて、見えない脅迫事件の犯人の魔の手が迫ってくる中、アカデミー賞授賞式の日が訪れる…
ざっくりと要約すれば、まあ、こんなストーリーだが、当時売れっ子のハリウッド・スターであったケヴィン・コスナーに人気歌手ホイットニー・ヒューストンを配したところは製作者サイドのあざとさを感じるが、うまいといえばうまいキャスティングである。
カスダンの脚本は、「私が嫌いなの?」「お世辞を言う余裕がないだけだ」とか、「訊いてもいい?」「答えなくてもいい?」とか、特にフランクとレイチェルの会話が面白い。
クライマックスのアカデミー賞授賞式のシーンで、映画スタッフに贈られる賞の受賞者が「モスト・ハピエスト(Most Happiest)」と挨拶するのを聞いて、テレビ中継のクルーが文法の間違いを笑って、「脚本賞じゃなくてよかった」なんていうのも可笑しい。
かつてのSP時代の同僚が、フランクが今は大スターを警護しているのを知って言う。
「スターは国家の財産だ、それに今は政治家と芸能人の区別がなくなった」
これも、レーガン大統領が元ハリウッド俳優だったことをダシにした面白いセリフである。
♪ ♪
フランクは、レイチェルと日本映画を観に行くのだが、それが黒澤明の『用心棒』(1961)である。
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劇中劇というほどでもないが、三船敏郎演じる用心棒が、チンピラヤクザのジェリー藤尾の片腕を切り落とすモノクロ画面の一シーンが映し出される。
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デートに相応しい日本映画だとも思えないのだが(笑)、映画を観た後、レイチェルはフランクに尋ねる。
「彼(映画の主人公である三船)は死にたかったの?」
「死を恐れないというのと、死にたいというのは違う」
フランクはこの映画をとてもいい映画だと評して、今までに62回観たと答えるのである。
このやりとりは、外国の映画によくある「サムライ」とか「武士道」の突飛な解釈とは違って、用心棒に扮する主人公(三船)の行動をなかなか正確に把握していると思われる。
本作では詳しく語られていないが、ひょっとしてフランクがボディガードになったのは映画『用心棒』の影響があることを示唆しているのではないだろうか。
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事実、フランクは自宅に日本刀を置いてあるのだ。
それを珍しがってレイチェルは、三船の真似をするように危なっかしい手つきでそれを振り回し、刃先をフランクに突きつける。
フランクは彼女の首からスカーフをそっとはずし天井に放り上げる。
スカーフはそのままレイチェルの日本刀の上に落ちてくると、ハラリと二つに斬れるのである。
そして二人のラヴシーンへと移っていくのだが、素直に観るとなかなか美しいシーンになっている。
だが、待っていただきたい。
手の上の豆腐を包丁で切っても、刃を引いたりしない限り手が傷つかないことを、私たちは知っている。
刃の部分にスカーフが落ちてきたとしても、それだけでは普通スカーフが斬れることはない。
ここはファンタジックで、美しいシーンとして撮ろうという意図は理解できるが、なんだか妙な違和感が残ってしまうのは私だけであろうか。
もうひとつ、二人が『用心棒』を観た映画館が異様である。
日本映画の専門館のようだが、外観が寺院のようで、入り口は暖簾をかけたら銭湯にでもなりそうな切妻造りである。
ストーリーの展開上、日本映画館ということは分かるが、それにしても「?」が頭から消えない。
さらに看板には「アタシ」と書いてある。
何で「私」がでてくるのか?
いや、ちょっと待て、右から読むと「シタア」…「シター」、おおッ、ひょっとして「シアター」(映画館)であろうか(笑)!
もっときちんと考証してから映画を作ってくれよな、ミック・ジャクソン…(爆)。
この作品、シナリオの内容がありふれているという批評や、ホイットニー・ヒューストンの演技に対して批判的な意見もあるほか、以上のような小さなミスや傷もある。
また、ケヴィン・コスナーは時として格好をつけすぎて見ていて気恥ずかしくなることがあるのだが、この作品ではあまりそんなことは感じさせない。
確かに手垢のついたようなストーリーではあるが、会話などの小技がよく効いていて、世評でいうほどの駄作とも思えず、まずはなかなかよくできた脚本の部類ではなかろうか。
♪ ♪ ♪
レイチェルは『用心棒』の三船と同じく、自らの危険を知りつつステージに立ちたがりこう言う。
「人は直感的に馬鹿げた行動をするけど、それなしに成功はしないわ」
余談だが、『用心棒』がアメリカで公開されたときのタイトルは“THE BODYGUARD”で、前述のエピソード等を勘案すると『ボディガード』は黒澤の映画に対するオマージュ作品として捉えてもよいかもしれない。
実現しなかったとはいえ当初はマックィーンを想定したシナリオである。
フランクを演じたケヴィン・コスナーの髪型はマックィーン風なのだそうである。
確かにそういう目で観ればそう見える…
シャンプーでアトムに出来ぬ現在(いま)の髪 (蚤助)
実際のところは、しがないボディガードと大スターの、しかも白人と黒人の人種を超えたラヴストーリーといってもよい。
この映画の脚本は、ローレンス・カスダンが、主人公をスティーヴ・マックィーン、相手役のスターにダイアナ・ロスを念頭に置いて1975年に書いたものだそうだ。
当時カスダンは広告会社に勤めるサラリーマンだったが、この脚本が売れたため映画一筋で生きる決断をしたのだという。
しかし、この脚本はマックィーンの気に入らず、映画化されないままオクラ入りとなってしまったのである。
1992年になって、カスダンは、ミック・ジャクソンを監督に据え、自ら製作に携わって自分の旧作シナリオの映画化を実現したというわけであった。
♪
アカデミー賞の有力候補となっている女優兼歌手のレイチェル(ホイットニー・ヒューストン)の元に、脅迫まがいの手紙が届くようになった。
マネージャーら周囲の者たちは、かつてレーガン大統領のSPを勤めたフランク(ケヴィン・コスナー)をボディガードとして雇う。
ビジネスライクに仕事を引き受けたフランクだったが、やがてレイチェルとフランクは次第に雇用者と被雇用者という関係を踏み越えた関係になっていく。
やがて、見えない脅迫事件の犯人の魔の手が迫ってくる中、アカデミー賞授賞式の日が訪れる…
ざっくりと要約すれば、まあ、こんなストーリーだが、当時売れっ子のハリウッド・スターであったケヴィン・コスナーに人気歌手ホイットニー・ヒューストンを配したところは製作者サイドのあざとさを感じるが、うまいといえばうまいキャスティングである。
カスダンの脚本は、「私が嫌いなの?」「お世辞を言う余裕がないだけだ」とか、「訊いてもいい?」「答えなくてもいい?」とか、特にフランクとレイチェルの会話が面白い。
クライマックスのアカデミー賞授賞式のシーンで、映画スタッフに贈られる賞の受賞者が「モスト・ハピエスト(Most Happiest)」と挨拶するのを聞いて、テレビ中継のクルーが文法の間違いを笑って、「脚本賞じゃなくてよかった」なんていうのも可笑しい。
かつてのSP時代の同僚が、フランクが今は大スターを警護しているのを知って言う。
「スターは国家の財産だ、それに今は政治家と芸能人の区別がなくなった」
これも、レーガン大統領が元ハリウッド俳優だったことをダシにした面白いセリフである。
♪ ♪
フランクは、レイチェルと日本映画を観に行くのだが、それが黒澤明の『用心棒』(1961)である。

劇中劇というほどでもないが、三船敏郎演じる用心棒が、チンピラヤクザのジェリー藤尾の片腕を切り落とすモノクロ画面の一シーンが映し出される。

デートに相応しい日本映画だとも思えないのだが(笑)、映画を観た後、レイチェルはフランクに尋ねる。
「彼(映画の主人公である三船)は死にたかったの?」
「死を恐れないというのと、死にたいというのは違う」
フランクはこの映画をとてもいい映画だと評して、今までに62回観たと答えるのである。
このやりとりは、外国の映画によくある「サムライ」とか「武士道」の突飛な解釈とは違って、用心棒に扮する主人公(三船)の行動をなかなか正確に把握していると思われる。
本作では詳しく語られていないが、ひょっとしてフランクがボディガードになったのは映画『用心棒』の影響があることを示唆しているのではないだろうか。

事実、フランクは自宅に日本刀を置いてあるのだ。
それを珍しがってレイチェルは、三船の真似をするように危なっかしい手つきでそれを振り回し、刃先をフランクに突きつける。
フランクは彼女の首からスカーフをそっとはずし天井に放り上げる。
スカーフはそのままレイチェルの日本刀の上に落ちてくると、ハラリと二つに斬れるのである。
そして二人のラヴシーンへと移っていくのだが、素直に観るとなかなか美しいシーンになっている。
だが、待っていただきたい。
手の上の豆腐を包丁で切っても、刃を引いたりしない限り手が傷つかないことを、私たちは知っている。
刃の部分にスカーフが落ちてきたとしても、それだけでは普通スカーフが斬れることはない。
ここはファンタジックで、美しいシーンとして撮ろうという意図は理解できるが、なんだか妙な違和感が残ってしまうのは私だけであろうか。
もうひとつ、二人が『用心棒』を観た映画館が異様である。
日本映画の専門館のようだが、外観が寺院のようで、入り口は暖簾をかけたら銭湯にでもなりそうな切妻造りである。
ストーリーの展開上、日本映画館ということは分かるが、それにしても「?」が頭から消えない。
さらに看板には「アタシ」と書いてある。
何で「私」がでてくるのか?
いや、ちょっと待て、右から読むと「シタア」…「シター」、おおッ、ひょっとして「シアター」(映画館)であろうか(笑)!
もっときちんと考証してから映画を作ってくれよな、ミック・ジャクソン…(爆)。
この作品、シナリオの内容がありふれているという批評や、ホイットニー・ヒューストンの演技に対して批判的な意見もあるほか、以上のような小さなミスや傷もある。
また、ケヴィン・コスナーは時として格好をつけすぎて見ていて気恥ずかしくなることがあるのだが、この作品ではあまりそんなことは感じさせない。
確かに手垢のついたようなストーリーではあるが、会話などの小技がよく効いていて、世評でいうほどの駄作とも思えず、まずはなかなかよくできた脚本の部類ではなかろうか。
♪ ♪ ♪
レイチェルは『用心棒』の三船と同じく、自らの危険を知りつつステージに立ちたがりこう言う。
「人は直感的に馬鹿げた行動をするけど、それなしに成功はしないわ」
余談だが、『用心棒』がアメリカで公開されたときのタイトルは“THE BODYGUARD”で、前述のエピソード等を勘案すると『ボディガード』は黒澤の映画に対するオマージュ作品として捉えてもよいかもしれない。
実現しなかったとはいえ当初はマックィーンを想定したシナリオである。
フランクを演じたケヴィン・コスナーの髪型はマックィーン風なのだそうである。
確かにそういう目で観ればそう見える…
シャンプーでアトムに出来ぬ現在(いま)の髪 (蚤助)