夏休みやお盆の帰省等もあり、あれやこれやで記事の更新をすっかりご無沙汰してしまった。
休眠中も本ブログにはそれなりのアクセス数があったようで、何とも恐縮である。
本ブログを定期的に訪問されている方々にはまことに申し訳ないことであった。
まだまだ夏休み気分が抜けきっていないが、そろりと再開したい。
英王室のロイヤル・ベビー誕生が話題になった。
全く関係のない我が国でもそれなりに盛り上がっていて、
英国のベビー商機にする日本 (蚤助)
ということもあるようで…
実は、我が家にも初孫、小さなお姫さまが誕生したので、やはり今回のお題は「ベビー」とさせてもらった(笑)。
♪
13歳のフランキー・ライモンが兄貴たちと組んだザ・ティーンエイジャーズが“WHY DO FOOLS FALL IN LOVE”(邦題「恋は曲者」)をリリースしたのは1956年のことであったが、この曲にすっかり嵌ってしまったのがヴェロニカ・ベネットというアフリカ系アメリカ人の女の子。
彼女は実姉のエステル、従妹のネドラを誘って3人組のガール・グループを結成した。
ある日、この3人組はかなり派手なファッションで、ニューヨークのペパーミント・ラウンジというクラブに遊びに行った。
そのファッションからクラブのダンサーと間違われステージに上げられてしまう。
これがきっかけで、ツイストをはじめとするリズム・ダンス・チームとして活動し始めるのだが、やがてフィル・スペクターの目にとまりスカウトされるのである。
グループは、ヴェロニカの愛称ロニーをもじって『ロネッツ』(THE RONETTES)と名付けられた。
最初はスペクターの会社フィレス・レコードで他のアーティストのバック・コーラスなどをこなしていたが、彼女らに巡ってきた最大のチャンスは、1963年、フィレス入社の半年後に訪れた。
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(フィル・スペクターとザ・ロネッツ)
ザ・ロネッツとしてのレコード・デビュー曲として用意されたのが“BE MY BABY”(邦題「あたしのベビー」)であった。
前稿でもチラッと出てきたヒット・ソングライターのジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチ、それにスペクター自らが協力して書き上げたもので、ホットなヴォーカルとコーラスに彩られたポップな曲であった。
録音を何度も重ねた「音の壁」(Wall Of Sound)と呼ばれた分厚いスペクター・サウンドの典型的な楽曲であり、スペクターが手掛けた代表的なヒット曲のひとつである。
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1963年7月から8月にかけて、ハリウッドのゴールド・スター・スタジオにおいて録音され、実に42回に及ぶテイクを重ねた末に完成したものだという。
リード・ヴォーカルはヴェロニカ(ロニー)・ベネット、バック・ヴォーカルはエステル・ベネット、ネドラ・タリーというザ・ロネッツのメンバーに加えて、作者の一人エリー・グリーンウィッチ、ニノ・テンポ、ボビー・シーン、ダーレン・ラヴ、ファニタ・ジェームズ、グラシア・ニッツェ、ソニー&シェールというメンバーがつとめている。
さらに、伴奏は西海岸のスタジオ・ミュージシャンで構成された「THE WRECKING CREW」で、ギターにトミー・テデスコ、ビル・ピットマン、ドラムスにハル・ブレインが加わっている。
特に、ベテランのセッション・ドラマー、ハル・ブレインによるイントロのドラミングが非常に印象的である。
この特徴のあるイントロは、その後あちこちでずいぶん模倣されることになる。
♪ ♪
この曲は日本でも爆発的な人気を集めた。
その筆頭は漣健児の訳詞で「忘れられないひとみ…もっと愛して、うんと愛して…」と歌う弘田三枝子の日本盤も「うんと」ヒットした(笑)。
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“BE MY BABY”はこんな歌詞である。
The night we met I Knew I Needed you so
And if I had the chance I'd never let you go
So won't you say you love me, I'll make you so proud of me
We'll make 'em turn their heads every place we go, so won't you please…
二人が出会った夜 あなたが必要だと知った
チャンスがあったら あなたを決して離さない
だから好きだと言ってほしい 私を自慢に思うようにしてみせるから
みんなを振り向かせましょう 私たちが行くところはどこでも だからお願い
(ビー・マイ・ベビー) 私の愛しい人になって
(ただ言ってほしい) 私の愛しい人になるって…
この曲をドライブ中に聴いて感銘を受けたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが、ロネッツとスペクターに捧げたのが“DON'T WORRY BABY”だったというのは、つい最近知ったハナシである。
“BE MY BABY”にすっかり夢中になってしまったブライアンは、ロネッツのヴェロニカ(ロニー)に歌ってほしいと作ったのが“DON'T WORRY BABY”だったというわけである。
残念なことにブライアンの願いは実現しなかったが、ビーチ・ボーイズのヴァージョンがヒットするのだ。
どちらの曲もタイトルが三語から成り、“BABY”という語が最後につくのも共通しているが、“DON'T WORRY BABY”の方はこんな歌である。
Well it's been building up inside of me
For I don't know how long…
こんな風に感じ始めたのって いつからだったろう
どうしてかは分からないけど 何だか間違ってしまうんだ
でも彼女は僕の目を見て 気づかせてくれる
そして「心配しなくていいのよ」と言うんだ
大丈夫だから 心配しないで
全部うまくいくから 心配しなくていいんだ…
二つの曲を合体して、「素敵ね、付き合って、大丈夫、心配しないで」という具合に、一つのボーイ・ミーツ・ガール物語として聴くことも可能である。
また、“BE MY BABY”が世に出てからほぼ10年後の1974年に、この曲のパクリのような歌がヒットした。
リンジー・ディ・ポールの“OOH I DO”(邦題「恋のウー・アイ・ドゥー」)で、これはほぼ確信犯というべきパクリであろう。
リンジーによるスペクターに対するトリビュート作品ということになり、公式にもそう位置づけられているようだが、それにしてもなんだかなあ(笑)。
♪ ♪ ♪
“BE MY BABY”はロネッツ最大のヒット曲で、永遠のキラー・チューンとなった。
ほかにも“BABY, I LOVE YOU”や“WALKIN' IN THE RAIN”などのヒットを出しているのだが、ロネッツは1960年代半ばに活動を休止、66年夏のビートルズ最後のコンサートツアーに同行して北米を回ったのを最後に解散した。
リード・ヴォーカルのヴェロニカは68年にスペクターと結婚し、ロニー・スペクターとなったが、スペクターがロニーの行動を極端に束縛するなどの異常行為により最終的に破局してしまった。
“BE MY BABY”は1970年にアンディ・キムの歌でリバイバル・ヒットしたが、さらに1988年のダンス映画『DIRTY DANCING』のサウンドトラックに使用されるとまたまたリバイバル・ヒットし、オリジナルがリリースされてから半世紀たった現在でもなお高い人気を保っている。
また、ロジャー・コーマンが1万2千ドルの低予算でたった2日間で撮った映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(1960)を、1982年になってアラン・メンケンとハワード・アッシュマンのコンビがオフ・ブロードウェイで同名のミュージカル作品に仕立て上げて大ヒットさせた。
1986年に、さらにそれをフランツ・オズが小品ながらまことに楽しい作品として映画化した。
このミュージカル映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』に三人の浮浪児が登場するが、彼らの名前が、シフォン(The Chiffons)、クリスタル(The Crystals)、ロネット(The Ronettes)というのだった。
このあたり必ずしも正確な記憶ではないのだが、いずれも人気のガールズ・ポップ・グループからとった名前であることは明らかで、大いに笑わせてくれたものである。
今週末あたり、このDVDを改めて観直してみたい。
♪ ♪ ♪ ♪
同じ「ベビー」だが、こちらは「愛しい赤ちゃん」の方である。
永六輔と中村八大のコンビによる『こんにちは赤ちゃん』という曲は、なかなか微笑ましい歌で、梓みちよの歌を聴くととても優しい気持ちになってくる。
特に、孫娘の誕生以来、赤ちゃんを見かけたり泣き声を聞いたりするととても気になるのである。
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(生後2日目のうちのベビー)
赤ちゃんは見飽きることがない。
願わくば子育てを楽しんでほしい、ママはもちろんパパもね。
赤ちゃんの欠伸が移るママの午後 (蚤助)
休眠中も本ブログにはそれなりのアクセス数があったようで、何とも恐縮である。
本ブログを定期的に訪問されている方々にはまことに申し訳ないことであった。
まだまだ夏休み気分が抜けきっていないが、そろりと再開したい。
英王室のロイヤル・ベビー誕生が話題になった。
全く関係のない我が国でもそれなりに盛り上がっていて、
英国のベビー商機にする日本 (蚤助)
ということもあるようで…
実は、我が家にも初孫、小さなお姫さまが誕生したので、やはり今回のお題は「ベビー」とさせてもらった(笑)。
♪
13歳のフランキー・ライモンが兄貴たちと組んだザ・ティーンエイジャーズが“WHY DO FOOLS FALL IN LOVE”(邦題「恋は曲者」)をリリースしたのは1956年のことであったが、この曲にすっかり嵌ってしまったのがヴェロニカ・ベネットというアフリカ系アメリカ人の女の子。
彼女は実姉のエステル、従妹のネドラを誘って3人組のガール・グループを結成した。
ある日、この3人組はかなり派手なファッションで、ニューヨークのペパーミント・ラウンジというクラブに遊びに行った。
そのファッションからクラブのダンサーと間違われステージに上げられてしまう。
これがきっかけで、ツイストをはじめとするリズム・ダンス・チームとして活動し始めるのだが、やがてフィル・スペクターの目にとまりスカウトされるのである。
グループは、ヴェロニカの愛称ロニーをもじって『ロネッツ』(THE RONETTES)と名付けられた。
最初はスペクターの会社フィレス・レコードで他のアーティストのバック・コーラスなどをこなしていたが、彼女らに巡ってきた最大のチャンスは、1963年、フィレス入社の半年後に訪れた。

(フィル・スペクターとザ・ロネッツ)
ザ・ロネッツとしてのレコード・デビュー曲として用意されたのが“BE MY BABY”(邦題「あたしのベビー」)であった。
前稿でもチラッと出てきたヒット・ソングライターのジェフ・バリーとエリー・グリーンウィッチ、それにスペクター自らが協力して書き上げたもので、ホットなヴォーカルとコーラスに彩られたポップな曲であった。
録音を何度も重ねた「音の壁」(Wall Of Sound)と呼ばれた分厚いスペクター・サウンドの典型的な楽曲であり、スペクターが手掛けた代表的なヒット曲のひとつである。

1963年7月から8月にかけて、ハリウッドのゴールド・スター・スタジオにおいて録音され、実に42回に及ぶテイクを重ねた末に完成したものだという。
リード・ヴォーカルはヴェロニカ(ロニー)・ベネット、バック・ヴォーカルはエステル・ベネット、ネドラ・タリーというザ・ロネッツのメンバーに加えて、作者の一人エリー・グリーンウィッチ、ニノ・テンポ、ボビー・シーン、ダーレン・ラヴ、ファニタ・ジェームズ、グラシア・ニッツェ、ソニー&シェールというメンバーがつとめている。
さらに、伴奏は西海岸のスタジオ・ミュージシャンで構成された「THE WRECKING CREW」で、ギターにトミー・テデスコ、ビル・ピットマン、ドラムスにハル・ブレインが加わっている。
特に、ベテランのセッション・ドラマー、ハル・ブレインによるイントロのドラミングが非常に印象的である。
この特徴のあるイントロは、その後あちこちでずいぶん模倣されることになる。
♪ ♪
この曲は日本でも爆発的な人気を集めた。
その筆頭は漣健児の訳詞で「忘れられないひとみ…もっと愛して、うんと愛して…」と歌う弘田三枝子の日本盤も「うんと」ヒットした(笑)。

“BE MY BABY”はこんな歌詞である。
The night we met I Knew I Needed you so
And if I had the chance I'd never let you go
So won't you say you love me, I'll make you so proud of me
We'll make 'em turn their heads every place we go, so won't you please…
二人が出会った夜 あなたが必要だと知った
チャンスがあったら あなたを決して離さない
だから好きだと言ってほしい 私を自慢に思うようにしてみせるから
みんなを振り向かせましょう 私たちが行くところはどこでも だからお願い
(ビー・マイ・ベビー) 私の愛しい人になって
(ただ言ってほしい) 私の愛しい人になるって…
この曲をドライブ中に聴いて感銘を受けたビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンが、ロネッツとスペクターに捧げたのが“DON'T WORRY BABY”だったというのは、つい最近知ったハナシである。
“BE MY BABY”にすっかり夢中になってしまったブライアンは、ロネッツのヴェロニカ(ロニー)に歌ってほしいと作ったのが“DON'T WORRY BABY”だったというわけである。
残念なことにブライアンの願いは実現しなかったが、ビーチ・ボーイズのヴァージョンがヒットするのだ。
どちらの曲もタイトルが三語から成り、“BABY”という語が最後につくのも共通しているが、“DON'T WORRY BABY”の方はこんな歌である。
Well it's been building up inside of me
For I don't know how long…
こんな風に感じ始めたのって いつからだったろう
どうしてかは分からないけど 何だか間違ってしまうんだ
でも彼女は僕の目を見て 気づかせてくれる
そして「心配しなくていいのよ」と言うんだ
大丈夫だから 心配しないで
全部うまくいくから 心配しなくていいんだ…
二つの曲を合体して、「素敵ね、付き合って、大丈夫、心配しないで」という具合に、一つのボーイ・ミーツ・ガール物語として聴くことも可能である。
また、“BE MY BABY”が世に出てからほぼ10年後の1974年に、この曲のパクリのような歌がヒットした。
リンジー・ディ・ポールの“OOH I DO”(邦題「恋のウー・アイ・ドゥー」)で、これはほぼ確信犯というべきパクリであろう。
リンジーによるスペクターに対するトリビュート作品ということになり、公式にもそう位置づけられているようだが、それにしてもなんだかなあ(笑)。
♪ ♪ ♪
“BE MY BABY”はロネッツ最大のヒット曲で、永遠のキラー・チューンとなった。
ほかにも“BABY, I LOVE YOU”や“WALKIN' IN THE RAIN”などのヒットを出しているのだが、ロネッツは1960年代半ばに活動を休止、66年夏のビートルズ最後のコンサートツアーに同行して北米を回ったのを最後に解散した。
リード・ヴォーカルのヴェロニカは68年にスペクターと結婚し、ロニー・スペクターとなったが、スペクターがロニーの行動を極端に束縛するなどの異常行為により最終的に破局してしまった。
“BE MY BABY”は1970年にアンディ・キムの歌でリバイバル・ヒットしたが、さらに1988年のダンス映画『DIRTY DANCING』のサウンドトラックに使用されるとまたまたリバイバル・ヒットし、オリジナルがリリースされてから半世紀たった現在でもなお高い人気を保っている。
また、ロジャー・コーマンが1万2千ドルの低予算でたった2日間で撮った映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(1960)を、1982年になってアラン・メンケンとハワード・アッシュマンのコンビがオフ・ブロードウェイで同名のミュージカル作品に仕立て上げて大ヒットさせた。
1986年に、さらにそれをフランツ・オズが小品ながらまことに楽しい作品として映画化した。
このミュージカル映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』に三人の浮浪児が登場するが、彼らの名前が、シフォン(The Chiffons)、クリスタル(The Crystals)、ロネット(The Ronettes)というのだった。
このあたり必ずしも正確な記憶ではないのだが、いずれも人気のガールズ・ポップ・グループからとった名前であることは明らかで、大いに笑わせてくれたものである。
今週末あたり、このDVDを改めて観直してみたい。
♪ ♪ ♪ ♪
同じ「ベビー」だが、こちらは「愛しい赤ちゃん」の方である。
永六輔と中村八大のコンビによる『こんにちは赤ちゃん』という曲は、なかなか微笑ましい歌で、梓みちよの歌を聴くととても優しい気持ちになってくる。
特に、孫娘の誕生以来、赤ちゃんを見かけたり泣き声を聞いたりするととても気になるのである。

(生後2日目のうちのベビー)
赤ちゃんは見飽きることがない。
願わくば子育てを楽しんでほしい、ママはもちろんパパもね。
赤ちゃんの欠伸が移るママの午後 (蚤助)