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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#586: 新年早々、追悼とは…

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年末から年始にかけて、大瀧詠一、海の向こうからフィル・エヴァリーの訃報が届いた。
新年早々、こんな記事からスタートさせるのは寂しい限りである。
だからというわけでもないが、年始のあいさつは省かせていただく。


12月30日に亡くなった大瀧詠一(享年65歳)については、今後とも多くの人によってさまざまな形で追悼がなされるだろう。
必ずしも熱心なファンとはいえなかった蚤助でも、アメリカン・ポップの香りがする洗練された楽曲やサウンドを我々に提供してくれた人が、東北(岩手)出身だったことにどこか親しみを感じていた。
彼の新譜はしばらく途絶えていたが、彼の新しいサウンドがもう聴けなくなったという喪失感が先に立ってしまう。
返す返すも残念なことである。


彼の作った歌で、蚤助が大好きなのは“夢で逢えたら”である。
おそらく日本で一番カヴァーされている曲のひとつであろうし、事実、多くのアーティストが歌っていて名実ともにJポップのスタンダード・ナンバーといっていい名曲だと思う。
吉田美奈子がオリジナルとされているが、元々アン・ルイスのために書いたものだそうだ。
吉田に続いて録音したシリア・ポールの歌も懐かしいが、ここは、本命、吉田美奈子の歌をお届けするとしよう(こちら)。

もう一曲、森進一の歌う“冬のリヴィエラ”。
年末のNHK紅白歌合戦、森にこの歌を演って欲しかったと思ったのは、蚤助ひとりではないだろう(こちら)。

そして、大瀧詠一自身のヴォーカルで“恋するカレン”…(こちら)。

彼のワン&オンリーの才能を偲んで、合掌。


フィル・エヴァリー(1月3日死去、享年74歳)は、兄ドンと組んだデュオ、エヴァリー・ブラザーズとして知られ、50年代後半から60年代前半にかけて絶大な人気を誇った。
日本では今ひとつの人気だったが、アメリカのポピュラー音楽史においては極めて重要な存在であったことは疑いようもない。

フィルの訃報を伝える新聞記事には、エヴァリー・ブラザーズをカントリー・デュオとするものが多かったようだ。
60年代の後半にボブ・ディランやバーズらによって、カントリー(もしくはフォーク)・ロックというスタイルが生み出されたが、それまで、別々のジャンルとされていたカントリー(フォーク)とロックの融合が革命的な出来事と受け止められたのだ。
すなわち、エヴァリー・ブラザーズが活躍し始めた50年代にはカントリー(フォーク)とロックの間には境界線などなく、両者はほとんど同じものだった。
彼らの音楽を聴くと改めてそう感じさせられる。
初期のソングライター、プロデューサー、ミュージシャンは、カントリーやフォークを専門とする連中だったのだ。
彼らのヒット曲は、カントリー・チャートにもポップ・チャートにもランクインしていたし、そういった楽曲は、現在ではロックのクラシック作品として広く親しまれている。

彼らの最大の武器は、何と言ってもその絶妙なヴォーカル・ハーモニーであった。
実の兄弟というばかりではなく、以前にも少しだけ触れたことがあるが、ミュージシャンであった両親から幼少のころから鍛えられたことが大きい。
これは、かのビーチ・ボーイズと全く同じだが、ビーチ・ボーイズの音楽的ルーツはジャズ・コーラスと教会音楽であり、スタイルもオープン・コーラスだったのに対し、エヴァリー・ブラザーズの方は、カントリーの伝統的なクローズ・ハーモニーであった。

何度か書いたが、クローズ・ハーモニーというのは、四捨五入して言うと、同じ歌詞を音程の異なるメロディ・ラインを同時に歌うスタイルで、彼らはこれを追求、ポップスの王道にまで高めたのだ。
どちらの旋律が主旋律か判別がつかぬほど2人のヴォーカル・パートが見事に共鳴するとき、クローズ・ハーモニーが最も効果的に響くのである。



エヴァリー・ブラザーズのヒット曲を中心に彼らの歩んだ道を駆け足でたどってみたい。

コロンビアから“KEEP A LOVIN' ME”という曲でレコード・デビューしたのが1956年のことだが、これは鳴かず飛ばずだった。
彼らの人気に火がつくのは、翌1957年にニューヨークのケーデンスというレーベルと契約してからである。
ケーデンスから出した“BYE BYE LOVE”が兄弟の輝かしいファースト・ヒットとなった(こちら)。

恋人が新しいカレシと幸せそうにしているところを見てしまった男の「恋よさようなら」という悲嘆の歌である。
二人はギターを抱え素朴にリズミックに二重唱を披露、多分にカントリー色の残るロックン・ロールに仕上げている。
作者のブードロー&フェリス・ブライアントは夫婦で、これ以降エヴァリー兄弟の曲をどんどん作り、良質のヒット作を生んだ名ソングライター・コンビである。
この曲、後にレイ・チャールズ、サイモン&ガーファンクル、ジョージ・ハリスンなどによってリメイクされるほどの人気曲となるのだが、エヴァリー兄弟には、ヒットの如何にかかわらず各々64ドルのギャラが払われる契約になっていたそうで、実のところあまり期待されていなかったというのが真相らしい。


このビッグ・ヒットで状況は一気に変わり、次に用意されたのがやはりブライアント夫妻の書いた“WAKE UP LITTLE SUSIE”(起きろよスージー)である(こちら)。
この曲、当初日本で発売されたときの邦題が「スージーちゃん起きなさい」といういささか子供っぽいものだったが、歌詞の内容は子供っぽさとは無縁の若い男女のきわどい状況を歌うものだったため、今では「起きろよスージー」という邦題が定着している。

起きろよスージー、すっかり寝込んじゃった、映画はもう終わっちゃってる、もう朝の4時だ、これはマジでヤバいよ、起きろってばスージー!…
夜の10時までに自宅に送り届ける約束で彼女をデートに連れ出したのに、ドライヴ・イン・シアターで寝込み、朝帰りになってしまったカップルのオハナシである。
彼女の家の扉の向こうには一睡もせず鬼の形相で待ち受ける両親、さてどうする?
とにかく土下座するしかない、いや、何にもしていないんだから堂々とホントのことを言えばいいんだ、オールナイトのドライヴ・イン・シアターで居眠りしてしまったって…、いや、そんなハナシ誰が信じるんだ、ボクの不注意で余計な心配をおかけしましたと、お詫びをするか? いやこれもダメだ…

こんなとき女の子の方が堂々としていそうだ、「何びくついてるのよ、もっと堂々としていてよ、今更どうしようもないでしょ」なんてネ。

実に楽しい曲だが、ケーデンスの社長が歌詞にクレームをつけ、一時レコードの発売にストップがかかり、危機を迎える。
結局、この作品はエヴァリー兄弟に初の全米1位をもたらし、後にサイモン&ガーファンクル、グレイトフル・デッドなどにカヴァーされるようになる。


こうして、スター街道を歩み始めた兄弟が、その人気をさらに強固なものにしたのが1958年にリリースした“ALL I HAVE TO DO IS DREAM”(夢を見るだけ)である(こちら)。
歌い出しの“Dream, dream, dream, dream”のリフレインだけで夢見心地にさせるが、切なさと甘酸っぱさが同居する十代の恋心をシンプルかつセンチメンタルな美しいメロディに乗せて描いている。
伴奏のギターはなんとチェット・アトキンスである。

作者のブライアント夫妻は、一瞬の閃きだけでこのポップス史に残る傑作ナンバーをたった15分で書き上げたという。
ブードローが後に「15分間の夢」と語ったこの作品はエヴァリー兄弟に2曲目の全米1位と300万枚のレコードセールスをもたらした。
以後、ボビー・ジェントリー&グレン・キャンベルのデュエット、ニッティ・グリッティ・ダート・バンドなど多くのアーティストが取り上げている。
なお、この曲のシングル盤のB面として発表されたのが“CLAUDETTE”で、こちらもヒットしている。


こうして、エヴァリー兄弟は、50年代末までに、最高のロック・ロール・デュエット・グループとして高い評価と名声を確立したが、それでもまだ叶うことのできない夢があった。
それは、ヒットしたのがみなブライアント夫妻をはじめとした他人の楽曲だったので、自身のオリジナル作品でヒット・チャートの頂点を制覇することだった。
エヴァリー兄弟は59年末にレコード会社を移籍する。

津軽弁では、一人称を「我(わ)」、二人称を「汝(な)」と言ったりするが、まさに「私(ワ)と貴方(ナ)の会社」すなわち「ワーナー」への移籍であった(笑)。
ワーナーは、58年に設立されたばかりの新興レーベルだったが、なかなかヒット曲が出せず、経営が危ぶまれていた。
エヴァリー兄弟の獲得は社運を賭けた大勝負だったのだ。

エヴァリー兄弟がワーナー移籍第1弾として出したのが、自作の“CATHY'S CLOWN”だった(こちら)。
見た目は可愛いが自分勝手で人の都合を顧みず平気で嘘をつくカノジョ(キャシー)に振り回されて道化の役どころを演じてしまう男が自虐的に愚痴る、という内容の面白い歌だった。
冒頭一発、ハイトーンの見事なハーモニーで出る有無を言わさぬ仕上がりになっている。
余談だが、作品の題材になったキャシー嬢のモデルは、エヴァリー兄のドンが高校時代に付き合っていたガールフレンドだったそうだ。
兄弟の願い通りこの曲は全米第1位、セールスも最高を記録し、「私と貴方の会社」にとっても初のビッグ・ヒットとなった。


その後、以前紹介したジルベール・ベコー作シャンソンの翻案“LET IT BE ME”やキャロル・キングとハワード・グリーンフィールドが書いた“CRYING IN THE RAIN”などもヒットする(こちら)。
後者の作者コンビ、キャロル・キングにはジェリー・ゴフィン、ハワード・グリーンフィールドにはニール・セダカという楽曲作りのパートナーがそれぞれいた。
ともに同じ音楽出版社の専属ソングライターだったが、キャロルとハワードの二人はそれまで共同で作品を書いたことがなく、この曲が共同で書いた初めての曲で、しかも唯一の曲である。
後にキャロル・キングが自ら録音しているし、日本の某化粧品会社のテレビ・コマーシャルにアーハの歌ったカヴァー盤が使用されリヴァイバルしている。
男の女々しさが結構前に出てくる歌だが、なかなかの佳曲だと思う。

エヴァリー兄弟は、やがて兵役について、レコーディングの空白期間が生じ、そうしているうちに次第にヒット・チャートからも遠ざかってしまうのだが、彼らの残した遺産は確実に受け継がれた。
特に、ビートルズ、サイモン&ガーファンクルはエヴァリー兄弟のコーラスの忠実なフォロワーといっても差し支えないだろう。
また、スタイルこそ違いはあれ、ビーチ・ボーイズやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、それにイーグルスのハーモニーにも影響を与えている。

エヴァリー・ブラザーズはやがて兄弟の不仲によって解散、その後も何度か再結成と離合集散を繰り返した。
ブラザーのいない蚤助には窺い知れぬ未知の世界だが、ビーチ・ボーイズと同様、メンバーの確執というのは兄弟グループには不可避なものだったのかもしれない…。

R.I.P.(Rest In Peace) Philip Everly…


本名を初めて知った葬儀場 (蚤助)

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