ジャズ・コーラスの世界で、男声グループのリズム・ボーイズ(メンバーにビング・クロスビーがいた)のようにダンス・バンド(ポール・ホワイトマン楽団)の専属はさておき、全く独立したコーラス・チームとして、一本立ちした例は黒人グループに多かったが、その雄はミルス・ブラザーズであった。ジャズ・コーラスの草分けである。
日本でも床屋に集まる庶民の様子を描いた式亭三馬の滑稽本や落語の「浮世床」の世界でお馴染みだが、床屋はもともと人々が集まるところである。
19世紀末のアメリカでは、理髪店を中心にのど自慢が集まってコーラスを競い合うのが流行し、どこの床屋にもコーラス隊があるという時代があった。特に、男声カルテットはバーバー・ショップ・カルテットと名付けられ、やがて全米のコーラス・コンテストも行われるようになったという。
ミルス・ブラザーズは、オハイオ州でジョン・ミルス・シニア(1882-1967)が営んでいた床屋から生まれたグループである。
ミルス家には4人の息子がいた。ジョン・ジュニア(1910-1936)、ハーバート(1912-1989)、ハリー(1913-1982)、ドナルド(1915-1999)の4兄弟は父の理髪店で、客のコーラスを聴きながら育った。
末弟のドナルドが7歳になると、兄たちのコーラスに加わって一緒に歌うようになった。初めてステージに立ったのが1922年のことだといい、この頃、長男のジョン・ジュニアがカズーをよく使っていたので、当初は「フォー・ボーイズ&ア・カズー」というグループ名だったそうだ(笑)。地元では評判のグループになっていた。これがミルス・ブラザーズの始まりである。
ある日、自慢のカズーを忘れてきてしまったジョン・ジュニアは、カズーで吹くはずだったパートを、即興で口真似でやったのが大受けして、以後、ミルス兄弟の売り物として本格的にトランペット、トロンボーンを口真似の模写でアンサンブルを聴かせるようになっていった。
やがてオハイオからニューヨークに進出、31年にレコード・デビューを果たし、「Tiger Rag」が大ヒット、彼らの名前を不動のものにした。バーバー・ショップ・カルテットに、当時流行し始めたスウィングを導入してジャズ・コーラスの一つのスタイルを確立したというわけだが、彼らは、自分たちのスタイルを「Barber Shop Swing Chorus」と呼んでいた。
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ギタリストでもあった長男のジョン・ジュニアが36年に事故で他界した後、新たにギタリストを募集したところ、応募者が長蛇の列を作るほど殺到した。彼らは何と列の先頭にいた男を採用してしまう。これがノーマン・ブラウン(1912-1969)で、以後30年にもわたってミルス兄弟の一員となるのである。実のところ、彼はカウント・ベイシー楽団に不可欠のギタリスト、「ミスター・リズム」ことフレディ・グリーン(g)の推薦によるものだった。そりゃあ、イチもニもなく即、採用されるわけだ(笑)。
父親のジョン・シニアがメンバーに加わった時期もあったが、58年に親父さんが引退した後、残る兄弟3人+ギタリストという構成で活動を続けた。彼らはジャズやポップスのスタンダード歌曲をもっぱらレパートリーとし、これをジャズ・スピリットが横溢した唱法で処理した。そのコーラスは至芸というほかはない。
まずは、彼らの代表的なナンバー「Paper Doll」から。
「浮気な女たちより紙の人形の方がいい。独りでいるのはつらいけど、浮気な女を愛するのはもっとつらい」というこの曲は、ジョニー・S・ブラックが15年に作ったのだが、30年になるまで出版されなかった。夢とペーソスがあるキュートでノリのいい曲なのになぜか全然売れなかった。ところが、42年になってミルス兄弟がレコーディングすると、これがミリオン・ヒット。既に亡くなっていた作者のブラックは天国で悔しがったに違いない。彼らが何回もレコーディングしている看板曲である。
もう一曲、カウント・ベイシー楽団との共演で「April In Paris」、ベイシー楽団の得意曲だが、ミルス兄弟が客演、エンディングのアイデアに思わずニヤリとしてしまう。
最近、ヴォイス・パーカッションのブームなのか、様々な楽器の音を見事に口真似で表現する若い人がいる。ただ、今のところ、打楽器以外では、エレキベース、シンセサイザーその他の電子音が中心だとみえる。電子音に囲まれて育つ現代の人間はこうした音に違和感を感じないのだろう。
日本には「口三味線」という言葉があるように、口で楽器の音を真似ることは昔からあった。三味線などの楽器、日本舞踊の稽古の際には、口でやってみせる場合が多かったのだが、そうした中で三味線そっくりの音を出す名人も生まれてきた。
アメリカの場合、楽器の物真似をステージでやって人気となり、レコーディングまで行った最初のグループがミルス兄弟なのだ。
中でも「Caravan」は有名で、このスタイルは彼らの専売特許だ。ギターの伴奏だけで、サックス、トランペット、トロンボーン、ベースなどの音はすべて口でやっている。
ミルス兄弟以外にも優れた黒人グループとしてデルタ・リズム・ボーイズ、ゴールデン・ゲイト・カルテットなどもあったが、彼らはゴスペルや黒人霊歌を得意としており、ミルス兄弟のようにスタンダード中心ではなかった。
ミルス兄弟と並び称されるインク・スポッツにしても、テナーのソロ・ヴォーカルが主体で、これらのコーラスは後の黒人R&Bやドゥワップ・スタイル、ソウル・コーラスへと連なるもので、スタンダードなジャズ・コーラスとは一線を画している。
また、後に登場する白人コーラスのフォー・フレッシュメン、ハイ・ローズなどは洗練されたモダンなハーモニーを持ったグループとして人気を博したが、ミルス兄弟はそれら白人コーラスにくらべるといささか泥臭いが、それが逆に聴く者を優しく包み込むのだ。
最後に、80年代の初めにボストン・ポップス・オーケストラを伴奏に歌う彼らのステージをご覧いただこう。長男、父に続いて、ギターのブラウンも亡くなって、兄弟3人になってしまってからのものだが、どうやって彼らがトロンボーンやトランペットの音を出しているかよく分かる映像だ。曲は「Basin Street Blues」である。
世界中にこれほど温かみのあるスウィング・コーラスはないだろう。常に聴衆を楽しませることを目標にしているような、人間味あふれたほのぼのとしたコーラスだ。満員の会場で盛んな拍手を送る観客も楽しそうだ。聴いていると胸がいっぱいになってくる。
傷薬棚に常備の理髪店 蚤助
(歌ってばかりいて、髭剃り、また失敗しちゃったぜ…)
日本でも床屋に集まる庶民の様子を描いた式亭三馬の滑稽本や落語の「浮世床」の世界でお馴染みだが、床屋はもともと人々が集まるところである。
19世紀末のアメリカでは、理髪店を中心にのど自慢が集まってコーラスを競い合うのが流行し、どこの床屋にもコーラス隊があるという時代があった。特に、男声カルテットはバーバー・ショップ・カルテットと名付けられ、やがて全米のコーラス・コンテストも行われるようになったという。
ミルス・ブラザーズは、オハイオ州でジョン・ミルス・シニア(1882-1967)が営んでいた床屋から生まれたグループである。
ミルス家には4人の息子がいた。ジョン・ジュニア(1910-1936)、ハーバート(1912-1989)、ハリー(1913-1982)、ドナルド(1915-1999)の4兄弟は父の理髪店で、客のコーラスを聴きながら育った。
末弟のドナルドが7歳になると、兄たちのコーラスに加わって一緒に歌うようになった。初めてステージに立ったのが1922年のことだといい、この頃、長男のジョン・ジュニアがカズーをよく使っていたので、当初は「フォー・ボーイズ&ア・カズー」というグループ名だったそうだ(笑)。地元では評判のグループになっていた。これがミルス・ブラザーズの始まりである。
ある日、自慢のカズーを忘れてきてしまったジョン・ジュニアは、カズーで吹くはずだったパートを、即興で口真似でやったのが大受けして、以後、ミルス兄弟の売り物として本格的にトランペット、トロンボーンを口真似の模写でアンサンブルを聴かせるようになっていった。
やがてオハイオからニューヨークに進出、31年にレコード・デビューを果たし、「Tiger Rag」が大ヒット、彼らの名前を不動のものにした。バーバー・ショップ・カルテットに、当時流行し始めたスウィングを導入してジャズ・コーラスの一つのスタイルを確立したというわけだが、彼らは、自分たちのスタイルを「Barber Shop Swing Chorus」と呼んでいた。

ギタリストでもあった長男のジョン・ジュニアが36年に事故で他界した後、新たにギタリストを募集したところ、応募者が長蛇の列を作るほど殺到した。彼らは何と列の先頭にいた男を採用してしまう。これがノーマン・ブラウン(1912-1969)で、以後30年にもわたってミルス兄弟の一員となるのである。実のところ、彼はカウント・ベイシー楽団に不可欠のギタリスト、「ミスター・リズム」ことフレディ・グリーン(g)の推薦によるものだった。そりゃあ、イチもニもなく即、採用されるわけだ(笑)。
父親のジョン・シニアがメンバーに加わった時期もあったが、58年に親父さんが引退した後、残る兄弟3人+ギタリストという構成で活動を続けた。彼らはジャズやポップスのスタンダード歌曲をもっぱらレパートリーとし、これをジャズ・スピリットが横溢した唱法で処理した。そのコーラスは至芸というほかはない。
まずは、彼らの代表的なナンバー「Paper Doll」から。
「浮気な女たちより紙の人形の方がいい。独りでいるのはつらいけど、浮気な女を愛するのはもっとつらい」というこの曲は、ジョニー・S・ブラックが15年に作ったのだが、30年になるまで出版されなかった。夢とペーソスがあるキュートでノリのいい曲なのになぜか全然売れなかった。ところが、42年になってミルス兄弟がレコーディングすると、これがミリオン・ヒット。既に亡くなっていた作者のブラックは天国で悔しがったに違いない。彼らが何回もレコーディングしている看板曲である。
もう一曲、カウント・ベイシー楽団との共演で「April In Paris」、ベイシー楽団の得意曲だが、ミルス兄弟が客演、エンディングのアイデアに思わずニヤリとしてしまう。
最近、ヴォイス・パーカッションのブームなのか、様々な楽器の音を見事に口真似で表現する若い人がいる。ただ、今のところ、打楽器以外では、エレキベース、シンセサイザーその他の電子音が中心だとみえる。電子音に囲まれて育つ現代の人間はこうした音に違和感を感じないのだろう。
日本には「口三味線」という言葉があるように、口で楽器の音を真似ることは昔からあった。三味線などの楽器、日本舞踊の稽古の際には、口でやってみせる場合が多かったのだが、そうした中で三味線そっくりの音を出す名人も生まれてきた。
アメリカの場合、楽器の物真似をステージでやって人気となり、レコーディングまで行った最初のグループがミルス兄弟なのだ。
中でも「Caravan」は有名で、このスタイルは彼らの専売特許だ。ギターの伴奏だけで、サックス、トランペット、トロンボーン、ベースなどの音はすべて口でやっている。
ミルス兄弟以外にも優れた黒人グループとしてデルタ・リズム・ボーイズ、ゴールデン・ゲイト・カルテットなどもあったが、彼らはゴスペルや黒人霊歌を得意としており、ミルス兄弟のようにスタンダード中心ではなかった。
ミルス兄弟と並び称されるインク・スポッツにしても、テナーのソロ・ヴォーカルが主体で、これらのコーラスは後の黒人R&Bやドゥワップ・スタイル、ソウル・コーラスへと連なるもので、スタンダードなジャズ・コーラスとは一線を画している。
また、後に登場する白人コーラスのフォー・フレッシュメン、ハイ・ローズなどは洗練されたモダンなハーモニーを持ったグループとして人気を博したが、ミルス兄弟はそれら白人コーラスにくらべるといささか泥臭いが、それが逆に聴く者を優しく包み込むのだ。
最後に、80年代の初めにボストン・ポップス・オーケストラを伴奏に歌う彼らのステージをご覧いただこう。長男、父に続いて、ギターのブラウンも亡くなって、兄弟3人になってしまってからのものだが、どうやって彼らがトロンボーンやトランペットの音を出しているかよく分かる映像だ。曲は「Basin Street Blues」である。
世界中にこれほど温かみのあるスウィング・コーラスはないだろう。常に聴衆を楽しませることを目標にしているような、人間味あふれたほのぼのとしたコーラスだ。満員の会場で盛んな拍手を送る観客も楽しそうだ。聴いていると胸がいっぱいになってくる。
傷薬棚に常備の理髪店 蚤助
(歌ってばかりいて、髭剃り、また失敗しちゃったぜ…)