1941年12月、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃、アメリカは第2次世界大戦に参戦した。
当時の日本は軍歌ばかりだったが、アメリカはスウィング・ジャズで賑わい、そうした中で、この名曲は生まれた。
“BLUES IN THE NIGHT”で、邦題は原題をそのまま訳した『夜のブルース』である。
♪
作詞ジョニー・マーサー、作曲ハロルド・アーレン、同年の同名映画のために書かれ、映画の中では、アーレンの親友ウィリアム・ガレスピー扮するブルース歌手が歌ったという。
この映画、私は未見なのだが、それもそのはず本邦ではどうやら公開されなかったようだ。
この歌は、同年のアカデミー主題歌賞にノミネートされたが、惜しくもジェローム・カーンの“THE LAST TIME I SAW PARIS”(雨の朝巴里に死す)にオスカーをさらわれてしまった。
とはいえ、息の長いスタンダードとして現在もなお歌い継がれている。
歌謡曲というか演歌っぽい雰囲気のタイトルだが、歌謡曲の世界にも、タイトルに“ブルース”とついた歌は、昔からずいぶん作られてきた。
しかし、以前もこちらでふれたように、その大半は本物のブルースではないブルースである(笑)。
最近でこそ、本格派の日本人のブルース歌手も登場してきて、ブルースに対する誤った認識も次第に正されてきている。
ひと昔、いやふた昔くらい前くらいの平均的日本人のブルースに対するイメージといえば、暗くて悲しいウェットな世界というものだったであろう。
ブルースという言葉が持つそういった感覚的な部分を借りて、歌謡曲の世界のブルースが次々と生み出されてきたわけである。
黒人の大衆歌であるブルースは、もちろん暗く悲しい要素はあるが、明るく楽しいブルースだってあるのだ。
ブルースとは、音楽的には、三行詩の歌詞による12小節という型が典型的な様式である。
そういう意味では、最も世に広く知られていると思われる“ST. LOUIS BLUES”もブルースの形式に則っていないのだ。
この“BLUES IN THE NIGHT”もブルース的なムードは色濃いのだが、サビ(ブリッジ)が16小節であったり、AABA形式にこだわっていなかったり、厳密な意味でのブルースとはいささかスタイルを異にしている。
作曲者のアーレンは、作曲を依頼された当初は12小節のブルースを考えていたようだが、結局、都会的なセンスの持ち主であった彼が書いたのは、ブルースの雰囲気を十分持っていながら、より洗練されたこの作品だったのである。
♪ ♪
歌詞はこんな感じである。
♪ 俺がまだガキのころ おふくろがよく言っていた
女が甘い言葉で近づいてきて お前に色目を使ってくるけど
女は二つの顔を持っている いつかお前は夜に棄てられ
ブルースを歌うはめになる
雨が降り出した ほら汽車の音が聞こえる
フーイー 寂しげな汽笛だ 土手を横切って吹き抜ける
フーイー フーイー エコーが戻ってくる
それが夜のブルースさ
夜風が木々をざわめかせ 月が光を消したなら
夜のブルースが聞こえてくる
大きな都会を渡り歩いて 暮らしてきた
うまい話を いっぱい耳にした
学んだのはひとつだけ 人は二つの顔を持っている
おふくろが言っていた
夜のブルースが残るだけだと…
故郷のおふくろの忠告をしみじみと回想する内容で、たとえストレートに歌ってもジャジーに聞こえるというとても得な歌である(笑)。
映画は、白人ジャズバンドが、獄中で黒人たちが歌うこの歌を聞いて、自分たちのレパートリーにして旅回りをするハナシらしいが、登場人物が次々と死んでいくというのだから、ある意味呪いの歌といってもいいかもしれない。
♪ ♪ ♪
世の中は、嘘と偏見に満ちている。
当てになるものなどありはしない。
笑顔で近づいてくるやつには下心がある。
きれいごとばかりがまかり通って、誰も本音は話さない。
嘘に騙されるのは、騙される方が悪いのさ。
この曲が世に出た41年に当時まだ新人歌手であったダイナ・ショアがヒットさせ、その後、彼女の愛唱曲として定着した。
ダイナは女性歌手なので、甘い言葉で色目を使ってきたり、二つの顔を持つのは「男」として歌っているのはもちろんである。
画像は、彼女がRCAに吹き込んだブルース曲集『ブルースの花束』(BOUQUET OF BLUES)である。
パンチの利いたオーケストラの前奏に続きスローテンポで歌い始める。
リード、ブラス、ストリングス、それぞれのアンサンブルも散りばめられ、少しハスキーな彼女の歌声には、気品に満ちた知性的な雰囲気が横溢している。
ジャズ・センスを発揮した堂々とした歌唱である。
なお、この曲は、大ヒットした映画『オーシャンズ11』(OCEAN'S ELEVEN‐2001)にも使われていたが、こちらはクインシー・ジョーンズによる演奏であった。
♪ ♪ ♪ ♪
本日の一句
「だましてるつもりのカレをだましてる」(蚤助)
当時の日本は軍歌ばかりだったが、アメリカはスウィング・ジャズで賑わい、そうした中で、この名曲は生まれた。
“BLUES IN THE NIGHT”で、邦題は原題をそのまま訳した『夜のブルース』である。
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作詞ジョニー・マーサー、作曲ハロルド・アーレン、同年の同名映画のために書かれ、映画の中では、アーレンの親友ウィリアム・ガレスピー扮するブルース歌手が歌ったという。
この映画、私は未見なのだが、それもそのはず本邦ではどうやら公開されなかったようだ。
この歌は、同年のアカデミー主題歌賞にノミネートされたが、惜しくもジェローム・カーンの“THE LAST TIME I SAW PARIS”(雨の朝巴里に死す)にオスカーをさらわれてしまった。
とはいえ、息の長いスタンダードとして現在もなお歌い継がれている。
歌謡曲というか演歌っぽい雰囲気のタイトルだが、歌謡曲の世界にも、タイトルに“ブルース”とついた歌は、昔からずいぶん作られてきた。
しかし、以前もこちらでふれたように、その大半は本物のブルースではないブルースである(笑)。
最近でこそ、本格派の日本人のブルース歌手も登場してきて、ブルースに対する誤った認識も次第に正されてきている。
ひと昔、いやふた昔くらい前くらいの平均的日本人のブルースに対するイメージといえば、暗くて悲しいウェットな世界というものだったであろう。
ブルースという言葉が持つそういった感覚的な部分を借りて、歌謡曲の世界のブルースが次々と生み出されてきたわけである。
黒人の大衆歌であるブルースは、もちろん暗く悲しい要素はあるが、明るく楽しいブルースだってあるのだ。
ブルースとは、音楽的には、三行詩の歌詞による12小節という型が典型的な様式である。
そういう意味では、最も世に広く知られていると思われる“ST. LOUIS BLUES”もブルースの形式に則っていないのだ。
この“BLUES IN THE NIGHT”もブルース的なムードは色濃いのだが、サビ(ブリッジ)が16小節であったり、AABA形式にこだわっていなかったり、厳密な意味でのブルースとはいささかスタイルを異にしている。
作曲者のアーレンは、作曲を依頼された当初は12小節のブルースを考えていたようだが、結局、都会的なセンスの持ち主であった彼が書いたのは、ブルースの雰囲気を十分持っていながら、より洗練されたこの作品だったのである。
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歌詞はこんな感じである。
♪ 俺がまだガキのころ おふくろがよく言っていた
女が甘い言葉で近づいてきて お前に色目を使ってくるけど
女は二つの顔を持っている いつかお前は夜に棄てられ
ブルースを歌うはめになる
雨が降り出した ほら汽車の音が聞こえる
フーイー 寂しげな汽笛だ 土手を横切って吹き抜ける
フーイー フーイー エコーが戻ってくる
それが夜のブルースさ
夜風が木々をざわめかせ 月が光を消したなら
夜のブルースが聞こえてくる
大きな都会を渡り歩いて 暮らしてきた
うまい話を いっぱい耳にした
学んだのはひとつだけ 人は二つの顔を持っている
おふくろが言っていた
夜のブルースが残るだけだと…
故郷のおふくろの忠告をしみじみと回想する内容で、たとえストレートに歌ってもジャジーに聞こえるというとても得な歌である(笑)。
映画は、白人ジャズバンドが、獄中で黒人たちが歌うこの歌を聞いて、自分たちのレパートリーにして旅回りをするハナシらしいが、登場人物が次々と死んでいくというのだから、ある意味呪いの歌といってもいいかもしれない。
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世の中は、嘘と偏見に満ちている。
当てになるものなどありはしない。
笑顔で近づいてくるやつには下心がある。
きれいごとばかりがまかり通って、誰も本音は話さない。
嘘に騙されるのは、騙される方が悪いのさ。
この曲が世に出た41年に当時まだ新人歌手であったダイナ・ショアがヒットさせ、その後、彼女の愛唱曲として定着した。
ダイナは女性歌手なので、甘い言葉で色目を使ってきたり、二つの顔を持つのは「男」として歌っているのはもちろんである。
画像は、彼女がRCAに吹き込んだブルース曲集『ブルースの花束』(BOUQUET OF BLUES)である。
パンチの利いたオーケストラの前奏に続きスローテンポで歌い始める。
リード、ブラス、ストリングス、それぞれのアンサンブルも散りばめられ、少しハスキーな彼女の歌声には、気品に満ちた知性的な雰囲気が横溢している。
ジャズ・センスを発揮した堂々とした歌唱である。
なお、この曲は、大ヒットした映画『オーシャンズ11』(OCEAN'S ELEVEN‐2001)にも使われていたが、こちらはクインシー・ジョーンズによる演奏であった。
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本日の一句
「だましてるつもりのカレをだましてる」(蚤助)