なぜ映画を観るのか。
別に死にたくなるほど辛い現実を生きているわけではないが、それでも世の中、楽しいことばかりではない。
面白くないこともあれば嫌なこともある。
自棄酒を飲みたくなったり、人里離れた遠くの方へ行ってしまいたくなることだってある。
で、冒頭の答えだが、私の場合は、やはり泣きたかったり、笑いたかったり、ハラハラドキドキしたかったり、ロマンティックな気分になりたかったりするために映画を観るのだ。
ひとことで言えば、「気分転換」のためなのだが、突き詰めると「現実逃避」ということになるのだろう。
<蒲田行進曲>(深作欣二監督‐1982)や<ニュー・シネマ・パラダイス(NUOVO CINEMA PARADISO)>(ジュゼッペ・トルナトーレ監督‐1989)のように、映画そのものを題材にした映画がある。
いずれも、映画への愛が満ち溢れた作品で、ウディ・アレンの<カイロの紫のバラ(THE PURPLE ROSE OF CAIRO)>(1985)もそういう一本である。
それもごく平凡な映画の観客のお話である。
♪
大恐慌の影響が色濃く残る不況の1930年代半ばのアメリカはニュージャージーが舞台である。
主人公のミア・ファローは、安食堂でウェイトレスとして働きながら、細々と暮している。
夫のダニー・アイエロは失業中だが、毎日酒やら賭け事やら女やらに時間を費やし遊んでばかりいる。
おまけに、都合が悪くなると暴力をふるう典型的なDV亭主である。
彼女は、そんな亭主に見切りをつけて、一人で暮す踏ん切りもつかず、一方、仕事場では皿を割ったり注文を間違えたりして、店主に叱られてばかり。
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(ミア・ファロー)
そんな彼女の唯一の慰めは映画館である。
客がカップルばかりの土曜の夜、亭主はもちろん付き合ってくれる友人もいない彼女が気まずそうに「今夜は1枚でいいわ」とチケットを買うシーンが身につまされる。
上映中の映画のタイトルは<カイロの紫のバラ>で、彼女のお気に入りの俳優ギル(ジェフ・ダニエルズ)演じる冒険家バクスターの姿に彼女はメロメロになってしまう。
彼女はこの映画の世界にすっかりのめり込んでしまい、やがて食堂での仕事も手につかなくなる。
そして、いつも以上にミスを重ねた挙句、食堂をクビになってしまう。
がっくりした彼女は、その足でまた映画館に向かい、もうすでに何度も観ている<カイロの紫のバラ>に、束の間の安らぎを求める。
スクリーンを見つめていると、突然、映画の中の冒険家バクスターが「君はいつも見に来てくれるね」と客席に向かって話しかけてくる。
ざわつく場内、バクスターの視線の先は彼女だった。
「君って、私のこと?」と画面に向かって答えると、バクスターはスクリーンから出てきてしまう。
あまりのことに騒然とする場内、スクリーンの中でも共演者たちがパニックになっている。
現実に出てきたバクスターは彼女に一目惚れしてしまい、二人はとりあえず休園している遊園地に逃げ込む。
バクスターは彼女にキスしてから「ここでフェイドアウトするはずなのに」と言う。
映画の中の登場人物なので、現実を知らないのである。
彼女が答える。
「私の心がフェイドアウトしたわ。目をつぶったら次のシーンになりそう」
♪ ♪
出演者の一人がいなくなった後の映画はストーリーが停滞する
映画館の館主に、映画の出演者たちは「バクスターが映画から出て行った」と訴え、セリフも関係なしに勝手に言い争いを始める始末。
場内の観客も黙っていない。
年配の夫婦の奥方の方が、「座って話し合っているだけの映画なんてつまらない。お金を返してもらうわ」と言うのに対して、出演者の女優が「お黙り!」と応酬すると、「自分を何様だと思っているんだ」と今度は亭主の方が叫ぶ。
「私は伯爵夫人よ、あんたの古女房とは違うわ」と女優、それに歓声を上げる観客。
「先週と同じストーリーの映画を見せてくれ」と文句を言い出す観客、映画館に駆けつけたマスコミ、警察、やがて映画の製作者たちまで巻き込んだ大騒動へと発展していく。
そして、事態の収拾を図るために、バクスターを演じた俳優ギルが現地にやってくる。
しかし、困ったことに、ギルもまたミア・ファローに惚れてしまうのである。
「夢」であるバクスターと夢のような「現実」であるギル、同一人物でありながら同一人物ではない二人にみそめられてしまった彼女はいったいどうするのか。
彼女はバクスターに言う。
「夢には惹かれても現実を選ぶしかないわ」
この作品は分かりやすく軽妙洒脱なファンタジック・ラヴ・コメディである。
けれども、ウディ・アレン(監督・脚本)らしいテーマが語られている。
すなわち、「夢」は儚いものでしかなく、また「現実」は厳しく仮借のないものとして在るということがシニカルな視点でユーモラスな語り口で描かれる。
夢と現実は違うということである。
ラストで、彼女はハリウッドへ一緒に行こうと誘ってくれた俳優ギルにも忘れられ、さらに厳しい現実を知ることになる。
彼女はまた一人ぼっちで映画館のシートに身を沈めている。
その週は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの<トップ・ハット(TOP HAT)>(マーク・サンドリッチ監督‐1935)が上映されている。
アステア=ロジャースの極上のダンス・シーンを観ている彼女の顔に、再びまた笑顔が戻っていく。
彼女の現実が今まで通り厳しいものであることは想像に難くないが、ただ映画館にいるほんのひと時だけは、彼女の顔から微笑みが消えることはないだろう。
寂しい結末ではあるが、ミア・ファローの幸せそうな表情で映画が終わるのがとてもうれしかった。
夢と現実は違う。
ウディ・アレンの「映画愛」が純粋に感じられる名シーンである。
エンドロール密かに涙拭うとき (蚤助)
別に死にたくなるほど辛い現実を生きているわけではないが、それでも世の中、楽しいことばかりではない。
面白くないこともあれば嫌なこともある。
自棄酒を飲みたくなったり、人里離れた遠くの方へ行ってしまいたくなることだってある。
で、冒頭の答えだが、私の場合は、やはり泣きたかったり、笑いたかったり、ハラハラドキドキしたかったり、ロマンティックな気分になりたかったりするために映画を観るのだ。
ひとことで言えば、「気分転換」のためなのだが、突き詰めると「現実逃避」ということになるのだろう。
<蒲田行進曲>(深作欣二監督‐1982)や<ニュー・シネマ・パラダイス(NUOVO CINEMA PARADISO)>(ジュゼッペ・トルナトーレ監督‐1989)のように、映画そのものを題材にした映画がある。
いずれも、映画への愛が満ち溢れた作品で、ウディ・アレンの<カイロの紫のバラ(THE PURPLE ROSE OF CAIRO)>(1985)もそういう一本である。
それもごく平凡な映画の観客のお話である。
♪
大恐慌の影響が色濃く残る不況の1930年代半ばのアメリカはニュージャージーが舞台である。
主人公のミア・ファローは、安食堂でウェイトレスとして働きながら、細々と暮している。
夫のダニー・アイエロは失業中だが、毎日酒やら賭け事やら女やらに時間を費やし遊んでばかりいる。
おまけに、都合が悪くなると暴力をふるう典型的なDV亭主である。
彼女は、そんな亭主に見切りをつけて、一人で暮す踏ん切りもつかず、一方、仕事場では皿を割ったり注文を間違えたりして、店主に叱られてばかり。

(ミア・ファロー)
そんな彼女の唯一の慰めは映画館である。
客がカップルばかりの土曜の夜、亭主はもちろん付き合ってくれる友人もいない彼女が気まずそうに「今夜は1枚でいいわ」とチケットを買うシーンが身につまされる。
上映中の映画のタイトルは<カイロの紫のバラ>で、彼女のお気に入りの俳優ギル(ジェフ・ダニエルズ)演じる冒険家バクスターの姿に彼女はメロメロになってしまう。
彼女はこの映画の世界にすっかりのめり込んでしまい、やがて食堂での仕事も手につかなくなる。
そして、いつも以上にミスを重ねた挙句、食堂をクビになってしまう。
がっくりした彼女は、その足でまた映画館に向かい、もうすでに何度も観ている<カイロの紫のバラ>に、束の間の安らぎを求める。
スクリーンを見つめていると、突然、映画の中の冒険家バクスターが「君はいつも見に来てくれるね」と客席に向かって話しかけてくる。
ざわつく場内、バクスターの視線の先は彼女だった。
「君って、私のこと?」と画面に向かって答えると、バクスターはスクリーンから出てきてしまう。
あまりのことに騒然とする場内、スクリーンの中でも共演者たちがパニックになっている。
現実に出てきたバクスターは彼女に一目惚れしてしまい、二人はとりあえず休園している遊園地に逃げ込む。
バクスターは彼女にキスしてから「ここでフェイドアウトするはずなのに」と言う。
映画の中の登場人物なので、現実を知らないのである。
彼女が答える。
「私の心がフェイドアウトしたわ。目をつぶったら次のシーンになりそう」
♪ ♪
出演者の一人がいなくなった後の映画はストーリーが停滞する
映画館の館主に、映画の出演者たちは「バクスターが映画から出て行った」と訴え、セリフも関係なしに勝手に言い争いを始める始末。
場内の観客も黙っていない。
年配の夫婦の奥方の方が、「座って話し合っているだけの映画なんてつまらない。お金を返してもらうわ」と言うのに対して、出演者の女優が「お黙り!」と応酬すると、「自分を何様だと思っているんだ」と今度は亭主の方が叫ぶ。
「私は伯爵夫人よ、あんたの古女房とは違うわ」と女優、それに歓声を上げる観客。
「先週と同じストーリーの映画を見せてくれ」と文句を言い出す観客、映画館に駆けつけたマスコミ、警察、やがて映画の製作者たちまで巻き込んだ大騒動へと発展していく。
そして、事態の収拾を図るために、バクスターを演じた俳優ギルが現地にやってくる。
しかし、困ったことに、ギルもまたミア・ファローに惚れてしまうのである。
「夢」であるバクスターと夢のような「現実」であるギル、同一人物でありながら同一人物ではない二人にみそめられてしまった彼女はいったいどうするのか。
彼女はバクスターに言う。
「夢には惹かれても現実を選ぶしかないわ」
この作品は分かりやすく軽妙洒脱なファンタジック・ラヴ・コメディである。
けれども、ウディ・アレン(監督・脚本)らしいテーマが語られている。
すなわち、「夢」は儚いものでしかなく、また「現実」は厳しく仮借のないものとして在るということがシニカルな視点でユーモラスな語り口で描かれる。
夢と現実は違うということである。
ラストで、彼女はハリウッドへ一緒に行こうと誘ってくれた俳優ギルにも忘れられ、さらに厳しい現実を知ることになる。
彼女はまた一人ぼっちで映画館のシートに身を沈めている。
その週は、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの<トップ・ハット(TOP HAT)>(マーク・サンドリッチ監督‐1935)が上映されている。
アステア=ロジャースの極上のダンス・シーンを観ている彼女の顔に、再びまた笑顔が戻っていく。
彼女の現実が今まで通り厳しいものであることは想像に難くないが、ただ映画館にいるほんのひと時だけは、彼女の顔から微笑みが消えることはないだろう。
寂しい結末ではあるが、ミア・ファローの幸せそうな表情で映画が終わるのがとてもうれしかった。
夢と現実は違う。
ウディ・アレンの「映画愛」が純粋に感じられる名シーンである。
エンドロール密かに涙拭うとき (蚤助)