身長193センチ、体重89キロという恵まれた体格を生かし、“デューク”(ジョン・ウェイン)亡き後、アメリカを代表するアクション・スターとして君臨したのがクリント・イーストウッド(1930‐)である。
さすがに昔日のように華麗なアクションを披露することはかなわぬご老体となってしまったが、その代わりと言ってはナンだが、監督業を見事にこなしていて、素晴らしい作品を次々と送り出し、「名匠」というべき存在になっている。
西部劇ファンの一人としては、彼の若き日、連続TV西部劇『ローハイド』のカウボーイ姿が懐かしい。
『ローハイド』でお茶の間のスターになった彼を、映画人にしたのはセルジオ・レオーネとドン・シーゲルという二人の映画監督であった。
セルジオ・レオーネはいきなり彼を『荒野の用心棒』(A Fistful Of Dollars‐1964)の主役に抜擢し、世界的なブームとなったイタリア製西部劇(マカロニ・ウェスタン)のトップスターに押し上げた。
マカロニ・ウェスタンは日本での呼称で、欧米ではスパゲッティ・ウェスタンというようだが、いずれにしても本場ハリウッドの正統派西部劇と比較して、どこか揶揄するような響きがあるのは否めない。
いっそパスタ・ウェスタンとかピザ・ウェスタンとしたら良かったのに…なんてくだらないことを考えてしまう(笑)。
マカロニ・ウェスタンの売り物は本場の西部劇にはない残酷な描写と、最大の見どころである決闘シーンの斬新なアイデアであろう。
しかし、本場の西部劇と違うのはどうやらそれだけではなさそうだ。
マカロニ・ウェスタンのほとんどはスペインでロケが行われていて、アメリカ西部の空気とは湿度とか吹きぬける風とか、何だか微妙に異なっているような気がする。
レオーネ=イーストウッドのマカロニ・ウェスタンは『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』(For A Few Dolars More‐1965)、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(The Good, The Bad And The Ugly‐1966)の三本で、俗に「ドル箱三部作」とか「名無しの三部作」とか呼ばれている。
いずれも大ヒットした作品であること、イーストウッド扮する主人公は「ジョー」、「モンコ」、「ブロンディ」と呼ばれるがこれは単なる渾名であって本名は最後まで明かされないことから、「名無し」と呼ばれるようになった。
また、三部作といっても主人公の服装と性格が似ているだけで、シリーズ作のようにストーリーの展開等に相互に関連性があるわけではなく、ゆるやかな関係なのである。
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映画監督のクエンティン・タランティーノは、この三部作のうち「続・夕陽のガンマン」を最高傑作に推している。
封切時には邦題に「地獄の決斗」というサブタイトルがつけられていたが、ビデオ化にあたって外されている。
原題は「善玉、悪玉、卑劣漢」で、隠された金貨をめぐって争う三人のガンマンの物語である。
善玉に相当するのは主人公のイーストウッド、悪玉はリー・ヴァン・クリーフ、卑劣漢はイーライ・ウォーラック。
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(卑劣漢と善玉)
(悪玉)
死臭を求めるハゲタカか野ギツネの如き風貌のリー・ヴァン・クリーフは、眼光鋭く、悪役を演じるために生まれてきたような俳優である(笑)。
ハリウッドの本場西部劇ではもっぱらチンピラ風の役回りで、開幕直後に殺されてしまう役が多かった。
『真昼の決闘』では保安官ゲイリー・クーパーに復讐をしにやってくる一味や、『リバティ・バランスを射った男』ではリー・マーヴィンの手下として登場したりしたが、『夕陽のガンマン』で復讐に燃える初老のガンマン役を演じて注目度が高まり、端役に終始したハリウッドとは異なり、マカロニ・ウェスタンでその才能を再発見された役者の一人だった。
この作品、残酷とユーモアがほどよくブレンドされているのが抜群で、特にウォーラックが演じた愛嬌のある卑劣漢の使い方がうまい。
ウォーラックの西部劇といえば、あの名作『荒野の七人』(The Magnificent Seven‐1961)の山賊の親玉が有名である。
ちょっと見には、残忍非道、凶悪な風貌なのだが、その面構えにもかかわらず、実は研究熱心なインテリ俳優で、アクターズスタジオの創立メンバーでもあった。
舞台俳優としては、古典劇、シリアス・ドラマ、コメディなどを演じ、幅広い演技力の持ち主であった。
オードリー・へプバーンとピーター・オトゥールが共演したウィリアム・ワイラーのコメディ『おしゃれ泥棒』(How To Steal A Million‐1966)でのアメリカの大富豪役などが懐かしい。
決闘シーンのアイデアも、この三人が互いに敵となって三すくみの状態になるという心理戦になるのが面白かった。
開巻まもなくウォーラックがイーストウッドに言う。
「この世には二種類の人間がいる。ドアから入る奴と窓から入る奴だ」
そしてラスト近く、今度はイーストウッドがウォーラックに言う。
「この世には二種類の人間がいる。銃を構える奴と穴を掘る奴だ」
エンニオ・モリコーネによる実に印象的な音楽と相まって長尺を全く感じさせない西部劇だが、物語の途中から、善玉と卑劣漢とのコンビで金貨の隠し場所に向かうロード・ムーヴィー風になるのもなかなか面白かった。
クリント・イーストウッドはマカロニ・ウェスタンで銀幕のスターになったわけだが、ハリウッドに戻ってからはドン・シーゲルの『ダーティ・ハリー』(1971)のハリー・キャラハン刑事役でさらに大きな人気を得るようになった。
イーストウッドがシーゲルを恩人のひとりと感謝する所以でもある。
クリント・イーストウッドの活躍する舞台は西部の荒野から大都会へと移ったが、その基本的スピリットは荒野の風を背負ってゆく男なのであった。
♪♪♪♪♪♪
160分を超す長尺の作品です。
邦題は「続・夕陽のガンマン」となっていますが、劇中では日中と夜間のシーンだけで、「夕陽」の場面は登場しないのが、昔から変だと思っていました。
看板に偽りある映画ですが、地球は丸いんだからまあいいか…(笑)
「裏側では夕陽こちらでは朝陽」(蚤助)
さすがに昔日のように華麗なアクションを披露することはかなわぬご老体となってしまったが、その代わりと言ってはナンだが、監督業を見事にこなしていて、素晴らしい作品を次々と送り出し、「名匠」というべき存在になっている。
西部劇ファンの一人としては、彼の若き日、連続TV西部劇『ローハイド』のカウボーイ姿が懐かしい。
『ローハイド』でお茶の間のスターになった彼を、映画人にしたのはセルジオ・レオーネとドン・シーゲルという二人の映画監督であった。
セルジオ・レオーネはいきなり彼を『荒野の用心棒』(A Fistful Of Dollars‐1964)の主役に抜擢し、世界的なブームとなったイタリア製西部劇(マカロニ・ウェスタン)のトップスターに押し上げた。
マカロニ・ウェスタンは日本での呼称で、欧米ではスパゲッティ・ウェスタンというようだが、いずれにしても本場ハリウッドの正統派西部劇と比較して、どこか揶揄するような響きがあるのは否めない。
いっそパスタ・ウェスタンとかピザ・ウェスタンとしたら良かったのに…なんてくだらないことを考えてしまう(笑)。
マカロニ・ウェスタンの売り物は本場の西部劇にはない残酷な描写と、最大の見どころである決闘シーンの斬新なアイデアであろう。
しかし、本場の西部劇と違うのはどうやらそれだけではなさそうだ。
マカロニ・ウェスタンのほとんどはスペインでロケが行われていて、アメリカ西部の空気とは湿度とか吹きぬける風とか、何だか微妙に異なっているような気がする。
レオーネ=イーストウッドのマカロニ・ウェスタンは『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』(For A Few Dolars More‐1965)、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(The Good, The Bad And The Ugly‐1966)の三本で、俗に「ドル箱三部作」とか「名無しの三部作」とか呼ばれている。
いずれも大ヒットした作品であること、イーストウッド扮する主人公は「ジョー」、「モンコ」、「ブロンディ」と呼ばれるがこれは単なる渾名であって本名は最後まで明かされないことから、「名無し」と呼ばれるようになった。
また、三部作といっても主人公の服装と性格が似ているだけで、シリーズ作のようにストーリーの展開等に相互に関連性があるわけではなく、ゆるやかな関係なのである。

映画監督のクエンティン・タランティーノは、この三部作のうち「続・夕陽のガンマン」を最高傑作に推している。
封切時には邦題に「地獄の決斗」というサブタイトルがつけられていたが、ビデオ化にあたって外されている。
原題は「善玉、悪玉、卑劣漢」で、隠された金貨をめぐって争う三人のガンマンの物語である。
善玉に相当するのは主人公のイーストウッド、悪玉はリー・ヴァン・クリーフ、卑劣漢はイーライ・ウォーラック。

(卑劣漢と善玉)

死臭を求めるハゲタカか野ギツネの如き風貌のリー・ヴァン・クリーフは、眼光鋭く、悪役を演じるために生まれてきたような俳優である(笑)。
ハリウッドの本場西部劇ではもっぱらチンピラ風の役回りで、開幕直後に殺されてしまう役が多かった。
『真昼の決闘』では保安官ゲイリー・クーパーに復讐をしにやってくる一味や、『リバティ・バランスを射った男』ではリー・マーヴィンの手下として登場したりしたが、『夕陽のガンマン』で復讐に燃える初老のガンマン役を演じて注目度が高まり、端役に終始したハリウッドとは異なり、マカロニ・ウェスタンでその才能を再発見された役者の一人だった。
この作品、残酷とユーモアがほどよくブレンドされているのが抜群で、特にウォーラックが演じた愛嬌のある卑劣漢の使い方がうまい。
ウォーラックの西部劇といえば、あの名作『荒野の七人』(The Magnificent Seven‐1961)の山賊の親玉が有名である。
ちょっと見には、残忍非道、凶悪な風貌なのだが、その面構えにもかかわらず、実は研究熱心なインテリ俳優で、アクターズスタジオの創立メンバーでもあった。
舞台俳優としては、古典劇、シリアス・ドラマ、コメディなどを演じ、幅広い演技力の持ち主であった。
オードリー・へプバーンとピーター・オトゥールが共演したウィリアム・ワイラーのコメディ『おしゃれ泥棒』(How To Steal A Million‐1966)でのアメリカの大富豪役などが懐かしい。
決闘シーンのアイデアも、この三人が互いに敵となって三すくみの状態になるという心理戦になるのが面白かった。
開巻まもなくウォーラックがイーストウッドに言う。
「この世には二種類の人間がいる。ドアから入る奴と窓から入る奴だ」
そしてラスト近く、今度はイーストウッドがウォーラックに言う。
「この世には二種類の人間がいる。銃を構える奴と穴を掘る奴だ」
エンニオ・モリコーネによる実に印象的な音楽と相まって長尺を全く感じさせない西部劇だが、物語の途中から、善玉と卑劣漢とのコンビで金貨の隠し場所に向かうロード・ムーヴィー風になるのもなかなか面白かった。
クリント・イーストウッドはマカロニ・ウェスタンで銀幕のスターになったわけだが、ハリウッドに戻ってからはドン・シーゲルの『ダーティ・ハリー』(1971)のハリー・キャラハン刑事役でさらに大きな人気を得るようになった。
イーストウッドがシーゲルを恩人のひとりと感謝する所以でもある。
クリント・イーストウッドの活躍する舞台は西部の荒野から大都会へと移ったが、その基本的スピリットは荒野の風を背負ってゆく男なのであった。
♪♪♪♪♪♪
160分を超す長尺の作品です。
邦題は「続・夕陽のガンマン」となっていますが、劇中では日中と夜間のシーンだけで、「夕陽」の場面は登場しないのが、昔から変だと思っていました。
看板に偽りある映画ですが、地球は丸いんだからまあいいか…(笑)
「裏側では夕陽こちらでは朝陽」(蚤助)