ジョージ・ガーシュウィンの最高傑作、不朽の名曲といえば、十人十色、百人百様の答えが返ってきそうだが、“The Man I Love”を挙げると、大方の人は頷くのではなかろうか。
この曲、世に知られるようになるまで時間がかかった、いわくつきの名歌である。
それもミュージカル作品のために書かれながら、遂に一度もブロードウェイのステージで歌われることもなく、演奏されたこともなかったというおまけまでついている。
♪
物の本の孫引きとなるが、こんな具合である。
1924年のミュージカル“Lady Be Good”のために、兄のアイラの歌詞で、いくつかのナンバーを書いたジョージは、上演のための資金をオットー・カーンという銀行家に頼み込んだが、すげなく断られてしまった。
間もなくパリに渡ったジョージが、帰国する大西洋航路の船上で、偶然カーンと一緒になる。
たまたま同船していたあるオペラ愛好家のたっての頼みで、ジョージはサロンのピアノで自作曲を披露したが、その中に新曲があった。
ピアノを弾き終えたジョージに、カーンが声をかけてきた。
「今のはなんという曲か」と訊くカーンに、ジョージは「これは例のミュージカルで使う予定の“The Man I Love”です」と答えた。
カーンはジョージの返答を聞いて「それならばどんなことをしてでも資金を出さなければ」と、たちまち二人の間に資金提供の約束ができてしまった。
こうして“Lady Be Good”の公演が決まり、それに先立って行われた地方でのテスト公演ではフレッド・アステアの姉アデール・アステアが歌ったが、上演のスピード感が鈍るということで本公演ではカットされてしまう。
最初に出版された楽譜の題名は“Loved”とミス・プリントされていた上、楽譜も893部しか売れなかったという。
翌25年、やはり地方で行われたコンサートで、ジョージ自ら指揮をして、タイトルも“The Girl I Love”と男性向きに歌詞を変えて紹介したが、これまた評判にはならなかった。
自棄になったわけでもあるまいが、27年には“Strike Up The Band”というミュージカルの地方公演で使ったり、さらに28年にも“Rosalie”という作品でも使おうとしたが、これも地方公演だけで、ブロードウェイでは結局使われることがなかった。
演出上の都合もあったのだろうが、どうやらコード進行が変わっていて、扱いにくい歌だとみなされたようだ。
ジョージの執念もここまでかと思われたが、世の中面白いもので、ひょんなことからこの曲がヒットしてしまうのである。
たまたま米国を訪れていた英国の軍人マウントバッテン卿の夫人が、この曲を含むガーシュウィンのサイン入り楽譜をプレゼントされ、英国へ持ち帰った。
彼女はそれを英国のオーケストラに紹介し、その演奏を聴いたロンドン中のジャズ・バンドがこぞって演奏し始め、ドーヴァー海峡を渡ったパリでもヒットするほどになった。
巡り巡って、この名曲は英国から海を逆方向に渡ってアメリカに戻り、ヘレン・モーガンの歌うレコードがヒットするのである。
再版された楽譜は3か月間で6万部、レコードは16万枚売れたという。
ここでようやくガーシュウィン兄弟の念願が果されることになったのである。
♪ ♪
その後、映画には数えきれないほど使われている。
比較的新しいところでは『ニューヨーク・ニューヨーク』(マーティン・スコセッシ監督‐1977)でライザ・ミネリが歌い、『マンハッタン』(ウディ・アレン監督‐1979)ではサウンドトラックに使われた。
この歌、タイトルこそ『私の彼氏』だが、その彼氏はまだ私の前には現れておらず、未来の男なのである。
主人公はあまりモテない女性なのかもしれない。
Someday he'll come along the man I love
And he'll be big and strong the man I love…
“いつか現れる、私の愛する人が。彼はきっと大きくたくましい人。彼が現れたら何だってする。彼の微笑を見るだけで私には何でもわかる。やがて彼は私の手をとる。言葉は交わさなくとも。日曜日には彼に会える。月曜日には無理かも知れないけど、火曜日にはまた会えるはず。いつかは二人のために小さな家を建ててくれるはず。そんな愛する人を私は待ち続けている…”という風な内容である。
歌い手によってこの歌のニュアンスは変わってくる。
つまり、明るく歌う人にとっては「彼」は近い将来きっと現れる人であり、寂しげに歌う人にとっては、決して現実にはならない夢物語を歌っているようだ。
一つの歌が、楽天的な歌にも哀しい歌にも変貌するのである。
何しろ、この歌を歌った歌手、演奏した音楽家は星の数ほどあるので、絞り込むのは難しいのだが、1939年の暮れにビリー・ホリデイによってヴォカリオン・レコードに吹き込まれたものが名唱中の名唱とされている(こちら)。
間奏に登場するレスター・ヤングのテナーサックスも大きな役割を果たしていることを忘れてはならないだろう。
彼女の歌は、少し悲観的になっているようだ。
一方、明るい方の代表的なものといえば、何といってもエラ・フィッツジェラルドであり、バラード・スタイルからアップテンポのアレンジまで何度も録音している。
中でも、ピアノのポール・スミス、ギターのジム・ホールを含むカルテットを伴奏にして歌った1960年の西ベルリン(!)でのライヴ盤“Ella In Berlin”が有名である(こちら)。
この滑らかな歌唱と全体を包み込む優しさこそ、エラの真骨頂である。
終盤さりげなく転調して、歌の世界をさらに広げゴージャスに締めくくる構成も見事と言うしかない。
素直に幸福を夢みる女心を表現している。
以上の二人のほかに、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、ダイナ・ショア、クリス・コナー、リー・ワイリー、アニタ・オデイ、フランセス・ウェイン、べヴ・ケリーなど、女性ジャズ・ヴォーカリストのビッグ・ネームはこぞって歌っている。
男性へのほのぼのとした憧れを歌ったものだけに、男が歌うと気色が悪くなる(笑)。
これは基本的に女性の歌なのだ。
したがって、蚤助の知る限り、この歌を録音した男性歌手の話は聞いたことがない…。
と、思ったのだが、トニー・ベネットがいた。
ただし彼の場合には“The Man She Loves”と歌っていた。
英語というのは、こんな時ホント便利だね(笑)。
♪ ♪ ♪
インストの方も、ベニー・グッドマンの古典的名演をはじめ、8分以上にわたってスイングするピアノのエロール・ガーナーの大熱演、この曲を十八番にしていたテナーのコールマン・ホーキンスの名演、歌なしのナット・キング・コール・トリオ、アルトサックスのアート・ペッパーなど凄い演奏がたくさんある。
![]()
(Miles Davis And The Modern Jazz Giants)
その中で、一枚選べと言われたら、クリスマスの喧嘩セッションとして有名になったマイルス・デイヴィスのアルバムであろうか。
1954年のクリスマス・イヴに行われたマイルスとモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の共演アルバムだが、MJOのピアニストであるジョン・ルイスを嫌ったというプレスティッジ・レコードの社長兼プロデューサー、ボブ・ワインストックの意向で、セロニアス・モンクがピアノに座った。
マイルスは先輩格のモンクに「俺のソロのバックではピアノを弾くな」と注文をつけた。
スタジオに一触即発の冷たい空気が流れる。
“The Man I Love”のテイク2の収録が始まる。
マイルスのソロの間、鍵盤から指を離すモンク、マイルスのソロ、ヴァイヴラフォンのミルト・ジャクソンのソロに続いて、モンクのソロ・パートになっていく。
曲が始まってちょうど5分30秒当たりであろうか、突然モンクは自分のソロ・パートの最中にピアノを弾くのをやめてしまうのである。
パーシー・ヒースのベースとケニー・クラークのドラムスが刻むリズムだけが淡々と続く。
少したって、マイルスが警告するようなフレーズを吹くと、目が覚めたようにモンクがピアノを再び弾きはじめる…。
実に緊張感にあふれたセッションである(こちら)。
現在、このセッションは、多分に芝居がかった「演出」だったとする説や、音楽効果を狙った構成(アレンジ)の話に面白おかしい尾ひれがついた伝説だとか言われているのだが、伝説ならば伝説のまま信じておきたいエピソードではある。
モンクはその後二度とマイルスと共演することがなかったのは事実だし、一方“The Man I Love”を死ぬまで弾き続けていたので、モンクはやはりこのセッションには相当腹に据えかねた部分があったのだろうと想像する。
それにしても、そんなハプニングのような出来事から素晴らしい名演が生まれることがあるのが、ジャズという音楽芸術の面白いところである。
♪ ♪ ♪ ♪
私のカレシ、これも女心であろうか…?
自分の名カレの名字で試し書き (蚤助)
この曲、世に知られるようになるまで時間がかかった、いわくつきの名歌である。
それもミュージカル作品のために書かれながら、遂に一度もブロードウェイのステージで歌われることもなく、演奏されたこともなかったというおまけまでついている。
♪
物の本の孫引きとなるが、こんな具合である。
1924年のミュージカル“Lady Be Good”のために、兄のアイラの歌詞で、いくつかのナンバーを書いたジョージは、上演のための資金をオットー・カーンという銀行家に頼み込んだが、すげなく断られてしまった。
間もなくパリに渡ったジョージが、帰国する大西洋航路の船上で、偶然カーンと一緒になる。
たまたま同船していたあるオペラ愛好家のたっての頼みで、ジョージはサロンのピアノで自作曲を披露したが、その中に新曲があった。
ピアノを弾き終えたジョージに、カーンが声をかけてきた。
「今のはなんという曲か」と訊くカーンに、ジョージは「これは例のミュージカルで使う予定の“The Man I Love”です」と答えた。
カーンはジョージの返答を聞いて「それならばどんなことをしてでも資金を出さなければ」と、たちまち二人の間に資金提供の約束ができてしまった。
こうして“Lady Be Good”の公演が決まり、それに先立って行われた地方でのテスト公演ではフレッド・アステアの姉アデール・アステアが歌ったが、上演のスピード感が鈍るということで本公演ではカットされてしまう。
最初に出版された楽譜の題名は“Loved”とミス・プリントされていた上、楽譜も893部しか売れなかったという。
翌25年、やはり地方で行われたコンサートで、ジョージ自ら指揮をして、タイトルも“The Girl I Love”と男性向きに歌詞を変えて紹介したが、これまた評判にはならなかった。
自棄になったわけでもあるまいが、27年には“Strike Up The Band”というミュージカルの地方公演で使ったり、さらに28年にも“Rosalie”という作品でも使おうとしたが、これも地方公演だけで、ブロードウェイでは結局使われることがなかった。
演出上の都合もあったのだろうが、どうやらコード進行が変わっていて、扱いにくい歌だとみなされたようだ。
ジョージの執念もここまでかと思われたが、世の中面白いもので、ひょんなことからこの曲がヒットしてしまうのである。
たまたま米国を訪れていた英国の軍人マウントバッテン卿の夫人が、この曲を含むガーシュウィンのサイン入り楽譜をプレゼントされ、英国へ持ち帰った。
彼女はそれを英国のオーケストラに紹介し、その演奏を聴いたロンドン中のジャズ・バンドがこぞって演奏し始め、ドーヴァー海峡を渡ったパリでもヒットするほどになった。
巡り巡って、この名曲は英国から海を逆方向に渡ってアメリカに戻り、ヘレン・モーガンの歌うレコードがヒットするのである。
再版された楽譜は3か月間で6万部、レコードは16万枚売れたという。
ここでようやくガーシュウィン兄弟の念願が果されることになったのである。
♪ ♪
その後、映画には数えきれないほど使われている。
比較的新しいところでは『ニューヨーク・ニューヨーク』(マーティン・スコセッシ監督‐1977)でライザ・ミネリが歌い、『マンハッタン』(ウディ・アレン監督‐1979)ではサウンドトラックに使われた。
この歌、タイトルこそ『私の彼氏』だが、その彼氏はまだ私の前には現れておらず、未来の男なのである。
主人公はあまりモテない女性なのかもしれない。
Someday he'll come along the man I love
And he'll be big and strong the man I love…
“いつか現れる、私の愛する人が。彼はきっと大きくたくましい人。彼が現れたら何だってする。彼の微笑を見るだけで私には何でもわかる。やがて彼は私の手をとる。言葉は交わさなくとも。日曜日には彼に会える。月曜日には無理かも知れないけど、火曜日にはまた会えるはず。いつかは二人のために小さな家を建ててくれるはず。そんな愛する人を私は待ち続けている…”という風な内容である。
歌い手によってこの歌のニュアンスは変わってくる。
つまり、明るく歌う人にとっては「彼」は近い将来きっと現れる人であり、寂しげに歌う人にとっては、決して現実にはならない夢物語を歌っているようだ。
一つの歌が、楽天的な歌にも哀しい歌にも変貌するのである。
何しろ、この歌を歌った歌手、演奏した音楽家は星の数ほどあるので、絞り込むのは難しいのだが、1939年の暮れにビリー・ホリデイによってヴォカリオン・レコードに吹き込まれたものが名唱中の名唱とされている(こちら)。
間奏に登場するレスター・ヤングのテナーサックスも大きな役割を果たしていることを忘れてはならないだろう。
彼女の歌は、少し悲観的になっているようだ。
一方、明るい方の代表的なものといえば、何といってもエラ・フィッツジェラルドであり、バラード・スタイルからアップテンポのアレンジまで何度も録音している。
中でも、ピアノのポール・スミス、ギターのジム・ホールを含むカルテットを伴奏にして歌った1960年の西ベルリン(!)でのライヴ盤“Ella In Berlin”が有名である(こちら)。
この滑らかな歌唱と全体を包み込む優しさこそ、エラの真骨頂である。
終盤さりげなく転調して、歌の世界をさらに広げゴージャスに締めくくる構成も見事と言うしかない。
素直に幸福を夢みる女心を表現している。
以上の二人のほかに、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、ダイナ・ショア、クリス・コナー、リー・ワイリー、アニタ・オデイ、フランセス・ウェイン、べヴ・ケリーなど、女性ジャズ・ヴォーカリストのビッグ・ネームはこぞって歌っている。
男性へのほのぼのとした憧れを歌ったものだけに、男が歌うと気色が悪くなる(笑)。
これは基本的に女性の歌なのだ。
したがって、蚤助の知る限り、この歌を録音した男性歌手の話は聞いたことがない…。
と、思ったのだが、トニー・ベネットがいた。
ただし彼の場合には“The Man She Loves”と歌っていた。
英語というのは、こんな時ホント便利だね(笑)。
♪ ♪ ♪
インストの方も、ベニー・グッドマンの古典的名演をはじめ、8分以上にわたってスイングするピアノのエロール・ガーナーの大熱演、この曲を十八番にしていたテナーのコールマン・ホーキンスの名演、歌なしのナット・キング・コール・トリオ、アルトサックスのアート・ペッパーなど凄い演奏がたくさんある。

(Miles Davis And The Modern Jazz Giants)
その中で、一枚選べと言われたら、クリスマスの喧嘩セッションとして有名になったマイルス・デイヴィスのアルバムであろうか。
1954年のクリスマス・イヴに行われたマイルスとモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の共演アルバムだが、MJOのピアニストであるジョン・ルイスを嫌ったというプレスティッジ・レコードの社長兼プロデューサー、ボブ・ワインストックの意向で、セロニアス・モンクがピアノに座った。
マイルスは先輩格のモンクに「俺のソロのバックではピアノを弾くな」と注文をつけた。
スタジオに一触即発の冷たい空気が流れる。
“The Man I Love”のテイク2の収録が始まる。
マイルスのソロの間、鍵盤から指を離すモンク、マイルスのソロ、ヴァイヴラフォンのミルト・ジャクソンのソロに続いて、モンクのソロ・パートになっていく。
曲が始まってちょうど5分30秒当たりであろうか、突然モンクは自分のソロ・パートの最中にピアノを弾くのをやめてしまうのである。
パーシー・ヒースのベースとケニー・クラークのドラムスが刻むリズムだけが淡々と続く。
少したって、マイルスが警告するようなフレーズを吹くと、目が覚めたようにモンクがピアノを再び弾きはじめる…。
実に緊張感にあふれたセッションである(こちら)。
現在、このセッションは、多分に芝居がかった「演出」だったとする説や、音楽効果を狙った構成(アレンジ)の話に面白おかしい尾ひれがついた伝説だとか言われているのだが、伝説ならば伝説のまま信じておきたいエピソードではある。
モンクはその後二度とマイルスと共演することがなかったのは事実だし、一方“The Man I Love”を死ぬまで弾き続けていたので、モンクはやはりこのセッションには相当腹に据えかねた部分があったのだろうと想像する。
それにしても、そんなハプニングのような出来事から素晴らしい名演が生まれることがあるのが、ジャズという音楽芸術の面白いところである。
♪ ♪ ♪ ♪
私のカレシ、これも女心であろうか…?
自分の名カレの名字で試し書き (蚤助)