前稿を受けて『幕末太陽傳』の後編…
日活は歴史の古い映画会社であるが、この映画は製作を再開して三周年記念作品だということで、日活のオールスター・キャストが組まれた。
フランキー(佐平次)、裕次郎(高杉晋作)のほかに、南田洋子(女郎こはる)、左幸子(女郎おそめ)、芦川いづみ(女中おひさ)、二谷英明(志道多聞)、小林旭(久坂玄瑞)、小沢昭一(貸本屋金造)、西村晃(気病みの新公)、熊倉一雄(呑み込みの金坊)、殿山泰司(仏壇屋倉造)、金子信雄(相模屋伝兵衛)、山岡久乃(女房お辰)、梅野泰靖(息子徳三郎)、市村俊幸(杢兵衛)、岡田真澄(若衆喜助)など、キャスティングも見事にはまっていて、いずれも好演である。
フランキーは、芸名通りバタ臭い持ち味を売り物にしていて、ミュージシャンからコメディアンに転身して間もないころではあったが、古典落語の主人公を生き生きと演じている。
学生時代からジャズと同時に落語にも夢中になっていたというから、この役は願ってもなかったことであったろう。
羽織を投げ上げてヒョイと着てしまう仕草などは、まさしく佐平次そのもので喝采したくなるほど軽妙で粋であった。
♪♪♪♪♪♪
さて…
佐平次が相模屋の中をあまりにチョロチョロと動き回るので、幕府の密偵ではないかと疑った攘夷の志士たちは、佐平次を試すことにする。
高杉は、佐平次を舟で品川沖に連れだし、英国公使館焼き打ちの計画を打ち明けたうえで、刀を抜いて「斬る」と脅し、佐平次の出方を見ようとする。
ここで佐平次は反骨心をみせる。
怯えるわけでもなく、媚びるでもなく、見事な啖呵を切るのである。
「へへえ、それが二本差しの理屈でござんすかい。ちょいと都合が悪けりゃ『こりゃ町人、命は貰った』と来やがら。どうせ旦那方は、百姓町人から絞り上げたおかみの金で、やれ攘夷の勤皇のと騒ぎ回っていりゃ済むのだろうが、こちとら町人はそうはいかねえ」
「手前ひとりの才覚で世渡りするからにゃ、へへ、首が飛んでも動いてみせまさあ」
この映画の根幹をなす庶民のヴァイタリティがみなぎった名セリフである。
黒澤明の時代劇だと武士の方から見た庶民や町人が描かれるところだが、川島の世界ではあくまでも庶民の心情に重きが置かれ、視線も庶民側に貫かれているのである。
佐平次は、女中おひさから徳三郎との駆け落ちの相談をされていたが、当然タダでは引き受けない。
おひさは大枚十両支払うというのだが、「でも今すぐじゃないんです。毎年一両ずつ貯めて、十年経ったら返します」というおひさに、佐平次は答える。
「十年経ったら世の中変わるぜ」
明治維新はこの六年後で、佐平次の言う通り、世の中は大きく変わっていくのである。
労咳でセキが止まらぬ佐平次の十年後は果たしてどうなっていることやら…
だが、土蔵の中に幽閉されている徳三郎と女中おひさを一計を案じて助け出した佐平次は、一方で、英国公使館の普請をしていたおひさの父長兵衛を通じて絵図面を入手し、攘夷志士たちに手渡す。
やがて御殿山の公使館の方角からは、闇夜を通して炎が上がる。
「お前さん方を逃がせば、おいらここには居らんねえ身体だ、なあに潮時」と言いながら二組を同じ船に乗せて逃がしてやる。
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佐平次が相模屋に戻ると閉店時間(大引け)である。
いざ、いよいよ遁走しようとするその時、千葉の在所から出てきたお大尽杢兵衛(市村俊幸)につかまってしまう。
田舎者を嫌うこはるは杢兵衛から逃げ回っているので、杢兵衛は、しつこくこはるの消息を聞きたがる。
「実はオッ死んじまったんで」と煙に巻こうとするのだが、今度は「寺はどこだ、お参りするべえ」と付きまとわれる。
近くの墓地に連れていって、適当に誤魔化そうとするが、普段は要領のいい佐平次が杢兵衛相手ではサッパリ通用しない。
「あっしなんか若うござんすから、墓にはとんと縁がねえもんで」と言うと、杢兵衛に「いんや、おめえさっきから妙に悪い咳こいてるでねえか」と指摘され、佐平次はさすがに暗い表情を見せる。
ついに業を煮やした佐平次は、杢兵衛の「地獄さ落ちっど〜!」の声を背に全力疾走で逃げ出す。
海沿いの街道を走り去っていくのである、「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」と叫びながら…。
エンドマーク。
♪♪♪♪♪♪
さらに、いくつか書いておきたい。
まず、川島監督の幻のラストシーンのエピソードである。
佐平次が幕末のセットから飛び出して、現代の品川の街並みへ走り出すというのである。
至るところに映画の登場人物たちが現代の姿でたたずみ、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去るというものだったらしい。
このアイデアの数少ない賛同者の一人だった小沢昭一によると、小沢は自転車に乗った貸本屋姿で、フランキーを見送るというものだったという。
しかし、フランキー本人や他のスタッフからあまりにも斬新過ぎると猛反対されて、現行のヴァージョンになったのだという。
もっとも、フランキーは後年になって監督の言う通りにしておけばよかったと述懐している。
この映画の幻のラストシーンは、映画のセオリーを無視しているが、なかなか面白いアイデアで、後年様々な映画人によって試みられ、あるいは実験されている。
川島監督の一番弟子だった今村昌平は長編ドキュメンタリー映画『人間蒸発』(1967)で、ラストシーンの部屋がセットであることをわざわざ観客に明かしているし、寺山修司の『田園に死す』(1974)のラストでは、東北地方の旧家のセットが崩壊すると、その背後から新宿駅東口の雑踏が現れるという衝撃的な映像を撮っている。。
また、ヌーヴェルバーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの傑作『気狂いピエロ』(Pierro Le Fou-1965)には、ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが車で逃走するシーンが出てくるが、突然ベルモンドが振り向きカメラに向かってセリフをしゃべる。
カリーナが「誰に言ったの?」と聞くと、ベルモンド答えていわく「観客にさ」。
こういった手法は、スクリーン上の虚構の世界を一気に崩壊させてしまうものすごい効果を持っているのである。
ラストの落語「お見立て」のエピソードに登場する杢兵衛を演じた市村俊幸(愛称はブーちゃん)はナット・キング・コール流のピアノ弾き語りの名手で、黒澤明監督の『生きる』(1952)や裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督-1957)などにも出演していた。
そのブーちゃんとフランキーによる「地獄さ落ちっど〜!」「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」という掛け合いはジャズ・ミュージシャン同士のインタープレイに相当するのではないか思うと、ますます楽しくなってくる。
川島監督の弟子は、今村昌平をはじめとして、野村芳太郎、中平康、浦山桐郎、藤本義一などがいるが、俳優としてはやはりフランキー堺の存在が大きいであろう。
フランキーは生前の川島と東洲斎写楽の映画を作ろうと約束していたそうだが、川島が早世してしまったので、独自に研究を続け、1995年『写楽』(篠田正浩監督)を企画・製作した。
年齢の関係もあって、写楽役は真田広之に譲り、フランキーは蔦屋重三郎役を演じたが、生前の川島は「写楽はフランキー以外考えられない」と語っていたそうである。
フランキー自身は師・川島との約束を果たした翌1996年死去した。
♪♪♪♪♪♪
舞台となった「相模屋」は実在した旅籠だそうで、事実、高杉晋作や久坂玄瑞らが逗留し、御殿山に建設中だった英国公使館の焼き打ちを計画していたと伝えられています。
建物は現存しませんが、品川区の歴史館に模型が保存されているそうで、これによると『幕末太陽傳』の相模屋のセットは細部に至るまで忠実に再現されているようです。
日活上層部に「太陽族映画」と警戒された『幕末太陽傳』ですが、もちろん佐平次は太陽族ではありません。
キャストを見てもわかるように、騒々しくて体制に反抗的である攘夷の志士たちこそ幕末の太陽族そのものでしょう。
彼らは「憂国の志士」でもあったわけですが、時代は変わっても、そこここに憂国の志士はいるはずです…
「居酒屋に憂国の志士たむろする」(蚤助)
日活は歴史の古い映画会社であるが、この映画は製作を再開して三周年記念作品だということで、日活のオールスター・キャストが組まれた。
フランキー(佐平次)、裕次郎(高杉晋作)のほかに、南田洋子(女郎こはる)、左幸子(女郎おそめ)、芦川いづみ(女中おひさ)、二谷英明(志道多聞)、小林旭(久坂玄瑞)、小沢昭一(貸本屋金造)、西村晃(気病みの新公)、熊倉一雄(呑み込みの金坊)、殿山泰司(仏壇屋倉造)、金子信雄(相模屋伝兵衛)、山岡久乃(女房お辰)、梅野泰靖(息子徳三郎)、市村俊幸(杢兵衛)、岡田真澄(若衆喜助)など、キャスティングも見事にはまっていて、いずれも好演である。
フランキーは、芸名通りバタ臭い持ち味を売り物にしていて、ミュージシャンからコメディアンに転身して間もないころではあったが、古典落語の主人公を生き生きと演じている。
学生時代からジャズと同時に落語にも夢中になっていたというから、この役は願ってもなかったことであったろう。
羽織を投げ上げてヒョイと着てしまう仕草などは、まさしく佐平次そのもので喝采したくなるほど軽妙で粋であった。
♪♪♪♪♪♪
さて…
佐平次が相模屋の中をあまりにチョロチョロと動き回るので、幕府の密偵ではないかと疑った攘夷の志士たちは、佐平次を試すことにする。
高杉は、佐平次を舟で品川沖に連れだし、英国公使館焼き打ちの計画を打ち明けたうえで、刀を抜いて「斬る」と脅し、佐平次の出方を見ようとする。
ここで佐平次は反骨心をみせる。
怯えるわけでもなく、媚びるでもなく、見事な啖呵を切るのである。
「へへえ、それが二本差しの理屈でござんすかい。ちょいと都合が悪けりゃ『こりゃ町人、命は貰った』と来やがら。どうせ旦那方は、百姓町人から絞り上げたおかみの金で、やれ攘夷の勤皇のと騒ぎ回っていりゃ済むのだろうが、こちとら町人はそうはいかねえ」
「手前ひとりの才覚で世渡りするからにゃ、へへ、首が飛んでも動いてみせまさあ」
この映画の根幹をなす庶民のヴァイタリティがみなぎった名セリフである。
黒澤明の時代劇だと武士の方から見た庶民や町人が描かれるところだが、川島の世界ではあくまでも庶民の心情に重きが置かれ、視線も庶民側に貫かれているのである。
佐平次は、女中おひさから徳三郎との駆け落ちの相談をされていたが、当然タダでは引き受けない。
おひさは大枚十両支払うというのだが、「でも今すぐじゃないんです。毎年一両ずつ貯めて、十年経ったら返します」というおひさに、佐平次は答える。
「十年経ったら世の中変わるぜ」
明治維新はこの六年後で、佐平次の言う通り、世の中は大きく変わっていくのである。
労咳でセキが止まらぬ佐平次の十年後は果たしてどうなっていることやら…
だが、土蔵の中に幽閉されている徳三郎と女中おひさを一計を案じて助け出した佐平次は、一方で、英国公使館の普請をしていたおひさの父長兵衛を通じて絵図面を入手し、攘夷志士たちに手渡す。
やがて御殿山の公使館の方角からは、闇夜を通して炎が上がる。
「お前さん方を逃がせば、おいらここには居らんねえ身体だ、なあに潮時」と言いながら二組を同じ船に乗せて逃がしてやる。

佐平次が相模屋に戻ると閉店時間(大引け)である。
いざ、いよいよ遁走しようとするその時、千葉の在所から出てきたお大尽杢兵衛(市村俊幸)につかまってしまう。
田舎者を嫌うこはるは杢兵衛から逃げ回っているので、杢兵衛は、しつこくこはるの消息を聞きたがる。
「実はオッ死んじまったんで」と煙に巻こうとするのだが、今度は「寺はどこだ、お参りするべえ」と付きまとわれる。
近くの墓地に連れていって、適当に誤魔化そうとするが、普段は要領のいい佐平次が杢兵衛相手ではサッパリ通用しない。
「あっしなんか若うござんすから、墓にはとんと縁がねえもんで」と言うと、杢兵衛に「いんや、おめえさっきから妙に悪い咳こいてるでねえか」と指摘され、佐平次はさすがに暗い表情を見せる。
ついに業を煮やした佐平次は、杢兵衛の「地獄さ落ちっど〜!」の声を背に全力疾走で逃げ出す。
海沿いの街道を走り去っていくのである、「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」と叫びながら…。
エンドマーク。
♪♪♪♪♪♪
さらに、いくつか書いておきたい。
まず、川島監督の幻のラストシーンのエピソードである。
佐平次が幕末のセットから飛び出して、現代の品川の街並みへ走り出すというのである。
至るところに映画の登場人物たちが現代の姿でたたずみ、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去るというものだったらしい。
このアイデアの数少ない賛同者の一人だった小沢昭一によると、小沢は自転車に乗った貸本屋姿で、フランキーを見送るというものだったという。
しかし、フランキー本人や他のスタッフからあまりにも斬新過ぎると猛反対されて、現行のヴァージョンになったのだという。
もっとも、フランキーは後年になって監督の言う通りにしておけばよかったと述懐している。
この映画の幻のラストシーンは、映画のセオリーを無視しているが、なかなか面白いアイデアで、後年様々な映画人によって試みられ、あるいは実験されている。
川島監督の一番弟子だった今村昌平は長編ドキュメンタリー映画『人間蒸発』(1967)で、ラストシーンの部屋がセットであることをわざわざ観客に明かしているし、寺山修司の『田園に死す』(1974)のラストでは、東北地方の旧家のセットが崩壊すると、その背後から新宿駅東口の雑踏が現れるという衝撃的な映像を撮っている。。
また、ヌーヴェルバーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダールの傑作『気狂いピエロ』(Pierro Le Fou-1965)には、ジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが車で逃走するシーンが出てくるが、突然ベルモンドが振り向きカメラに向かってセリフをしゃべる。
カリーナが「誰に言ったの?」と聞くと、ベルモンド答えていわく「観客にさ」。
こういった手法は、スクリーン上の虚構の世界を一気に崩壊させてしまうものすごい効果を持っているのである。
ラストの落語「お見立て」のエピソードに登場する杢兵衛を演じた市村俊幸(愛称はブーちゃん)はナット・キング・コール流のピアノ弾き語りの名手で、黒澤明監督の『生きる』(1952)や裕次郎の『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督-1957)などにも出演していた。
そのブーちゃんとフランキーによる「地獄さ落ちっど〜!」「地獄も極楽もあるもんけえ、オレはまだまだ生きるんでぇ!」という掛け合いはジャズ・ミュージシャン同士のインタープレイに相当するのではないか思うと、ますます楽しくなってくる。
川島監督の弟子は、今村昌平をはじめとして、野村芳太郎、中平康、浦山桐郎、藤本義一などがいるが、俳優としてはやはりフランキー堺の存在が大きいであろう。
フランキーは生前の川島と東洲斎写楽の映画を作ろうと約束していたそうだが、川島が早世してしまったので、独自に研究を続け、1995年『写楽』(篠田正浩監督)を企画・製作した。
年齢の関係もあって、写楽役は真田広之に譲り、フランキーは蔦屋重三郎役を演じたが、生前の川島は「写楽はフランキー以外考えられない」と語っていたそうである。
フランキー自身は師・川島との約束を果たした翌1996年死去した。
♪♪♪♪♪♪
舞台となった「相模屋」は実在した旅籠だそうで、事実、高杉晋作や久坂玄瑞らが逗留し、御殿山に建設中だった英国公使館の焼き打ちを計画していたと伝えられています。
建物は現存しませんが、品川区の歴史館に模型が保存されているそうで、これによると『幕末太陽傳』の相模屋のセットは細部に至るまで忠実に再現されているようです。
日活上層部に「太陽族映画」と警戒された『幕末太陽傳』ですが、もちろん佐平次は太陽族ではありません。
キャストを見てもわかるように、騒々しくて体制に反抗的である攘夷の志士たちこそ幕末の太陽族そのものでしょう。
彼らは「憂国の志士」でもあったわけですが、時代は変わっても、そこここに憂国の志士はいるはずです…
「居酒屋に憂国の志士たむろする」(蚤助)