年が明けてから『芭蕉全句集』(角川文庫)を熟読していた。
松尾芭蕉(1644‐1694)の、現在知られている980余句におよぶ全作品を訳注したものである。
現代語訳付きというのが我ながら情けないが、それは致し方あるまい。
ご承知の通り、俳句には「有季定型」という基本ルールがある。
すなわち、季語があって、五・七・五のリズムを持っていることである。
これは「連歌」にルーツがあって、五・七・五・七・七を次々とずっとつなげていくわけであるが、その一番最初にくる五・七・五の「発句」が独立してやがて「俳句」となったわけである。
したがって、芭蕉の句は、本来は「発句」と呼ばれるべきものなのだが、現在の俳句を確立した正岡子規の登場以降は、子規以前の「発句」をも含めて、俳句と呼ぶようになったとされている。
いま『芭蕉全句集』を読み終えて、自分なりに日本人の自然に対する感性について思いを巡らせている。
♪
人気の俳人、黛まどかさんがこんなことを語っている。
「画家モネが大きな蓮池を描いた『睡蓮』には、蛙やトンボが一匹くらい飛んでいてもいいはずなのに、一匹も描かれていない。
西洋の絵画には、ごく一部の例外を除くと、小動物や昆虫が描かれていることがない。
一方、日本の場合には、鳥獣戯画でも琳派でも、虫や蛙や小動物というのは重要なモチーフとして描かれている。」
「ゴッホが弟のテオにあてた手紙に『日本の芸術を研究してみると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者である、日本人自らが、花のように自然の中に生きている。これこそ、真の宗教ともいえるのではないだろうか』とある。
ゴッホは日本人の自然観や観察眼、生き方を非常に賛美しているが、そのゴッホでさえ、自らの絵に小動物や昆虫を描くことはなかった。
詩でも、それらを描いた作品は極端に少ない。
花の周りを飛ぶ蜂や蝶が何かの比喩として登場することはあるが、それもやはり例外的なものである。
ヴェルレーヌの詩集に『蛙』という文字を見つけて、よくよく読んでいくと、『蛙が鳴けば、あたりを込めて悪寒が走る』というようなフレーズだった。
非常に忌み嫌うべきものとして描かれているのである。」
20世紀の初頭に来日したフランスの医師で哲学者であったクーシューという人が、フランスに最初に俳句を紹介したとされているが、黛さんによれば、クーシューは「動物を描くとき、日本人は動物たちと同じ立場でいようとする。日本人は、人間を基準にして動物を考えない。それどころか、未発達の動物たちの魂と同じ高さに身を置こうと努める」と書いているそうだ。
♪ ♪
蛙の詩人として有名だった草野心平を例に出すまでもなく、日本の詩歌では、小動物や昆虫は詩的な対象になる。
世界で最も有名で、人口に膾炙した俳句といえば、おそらく「古池や蛙飛こむ水のおと」であろう。
芭蕉庵の傍らには池があったそうだから、舞台はその池でのことなのであろう。
静かに水をたたえた古い池に、蛙の飛び込むポチャンという水音がする、というだけの句であるが、解釈や鑑賞は多様・多彩で、種々の見方ができる句だという。
それまでの俳諧では、詠む対象を和歌の伝統に則って把えていた。
「蛙」というのは、和歌や俳諧の世界では一般的に「鳴く」存在として認識され、「跳ぶ蛙」という動的な存在として把握する発想は、非常に珍しいが、初期の俳諧にいくつか先例がみられるという。
だが、この句のように、五・七・五に込められた幽玄、閑寂の趣と相俟って、当時はまことに斬新で革新的な対象把握だったのだそうだ。
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この句については、今なお様々なアプローチで研究が続けられているというが、背景には、芭蕉本人の理解が変化したことがあるようだ。
この句の初案は「山吹や蛙飛こむ水のおと」だったことが知られていて、『袋草紙』(歌人たちが腕を競い合う歌会・歌合の実態、古今の和歌や歌人たちのエピソードを記した書)の故事に依拠した滑稽味の強い作品だった。
上五を「古池や」に改めた後、芭蕉は「啓蟄の喜び」という新たな解釈をするようになったという。
♪ ♪ ♪
『袋草紙』の故事というのは、こんな話である。
小倉百人一首でもその名を知られる平安時代末期の歌人、藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん1104‐1177)は、『袋草紙』で、平安中期の能因法師(988‐1058?)と帯刀節信(たてわきときのぶ)の逸話を紹介している。
能因法師といえば、やはり小倉百人一首の歌で知られるが、のちに西行や芭蕉のアイドルとなった歌人で、当時から風流に執心する「数寄者」として有名であった。
東宮の警備長であった帯刀節信も「数寄者」だったことから、初対面ながら二人は意気投合してしまう。
能因は、懐中から錦の小袋を取り出し、「これは私の宝物です」と言って袋の中の鉋屑を取り出した。
淀川にかかる長柄橋を造ったときのものだと言う。
当時の歌人にとって、長柄橋は古来歌枕として有名で、古い物の代名詞であり、その鉋屑といえば、数寄者にとってはこのうえなく貴重なものであった。
とても喜んだ帯刀は、今度は自分の懐中から紙に包んだものを差し出した。
能因が開いてみると、ひからびた蛙のミイラ。
帯刀は「これは井手の蛙です」と言った。
井手は京都の地名だが、奈良と京都を結ぶ「山背古道」が通っていて、万葉の時代から多くの歌に詠まれてきた土地柄である。
井手は「山吹の里」ととしても知られ、清流には鰍蛙の鳴き声が響いていたことから、井手の枕詞は「山吹」と「蛙(かはづ)」とされていた。
その井手の蛙の干物(ミイラ)を持ち歩く帯刀に、能因は大いに感嘆して、それぞれ懐に戻し、別れていったという。
お互い数寄者同士、「お主、なかなかやるな」といったところであろう。
清輔朝臣は「さすがは数寄者、見習うべき」と紹介しているそうだ。
もっとも、「いくら宝物だといって大事にされたとしても、干物にはなりたくねえ」とは、蛙の独白である(笑)。
♪ ♪ ♪ ♪
つい「古池や…」のハナシが長くなってしまったが、「蛙」のほかに、小林一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」という句も有名である。
また、村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」など、日本の絵や詩歌に登場する小動物は、決して点景ではなく、主題そのものである。
蛙も雀も冬蜂も、人間の添え物や比喩ではなく、主人公になっている。
さらに、先に挙げたクーシューの記述そのままの世界ではないかと思われる作品があるので、もう一句『芭蕉全句集』から引く。
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
仕掛けにかかってしまった蛸なのだが、海にはいい夏の月が上っている。
明日の朝には、蛸壺ごと引き揚げられてしまう。
朝までの束の間に、蛸は淡い夢を見ているのだ。
このとき芭蕉の魂は蛸と同じ次元にある。
一体化であり、同化であり、いつしか作者と対象である蛸との境目が無くなっている。
はかなき夢を見ているのは蛸であり、そして芭蕉自身である。
そして読者もいつしか、蛸と同じようにはかなき夢に思いをはせる。
加えて、あまたの命を包む海上に輝く月光…
何ともいえない句柄の大きさを感じさせる。
日本人の感性の特徴を考えるヒントを与えてくれた一冊である。
松尾芭蕉(1644‐1694)の、現在知られている980余句におよぶ全作品を訳注したものである。
現代語訳付きというのが我ながら情けないが、それは致し方あるまい。
ご承知の通り、俳句には「有季定型」という基本ルールがある。
すなわち、季語があって、五・七・五のリズムを持っていることである。
これは「連歌」にルーツがあって、五・七・五・七・七を次々とずっとつなげていくわけであるが、その一番最初にくる五・七・五の「発句」が独立してやがて「俳句」となったわけである。
したがって、芭蕉の句は、本来は「発句」と呼ばれるべきものなのだが、現在の俳句を確立した正岡子規の登場以降は、子規以前の「発句」をも含めて、俳句と呼ぶようになったとされている。
いま『芭蕉全句集』を読み終えて、自分なりに日本人の自然に対する感性について思いを巡らせている。
♪
人気の俳人、黛まどかさんがこんなことを語っている。
「画家モネが大きな蓮池を描いた『睡蓮』には、蛙やトンボが一匹くらい飛んでいてもいいはずなのに、一匹も描かれていない。
西洋の絵画には、ごく一部の例外を除くと、小動物や昆虫が描かれていることがない。
一方、日本の場合には、鳥獣戯画でも琳派でも、虫や蛙や小動物というのは重要なモチーフとして描かれている。」
「ゴッホが弟のテオにあてた手紙に『日本の芸術を研究してみると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者である、日本人自らが、花のように自然の中に生きている。これこそ、真の宗教ともいえるのではないだろうか』とある。
ゴッホは日本人の自然観や観察眼、生き方を非常に賛美しているが、そのゴッホでさえ、自らの絵に小動物や昆虫を描くことはなかった。
詩でも、それらを描いた作品は極端に少ない。
花の周りを飛ぶ蜂や蝶が何かの比喩として登場することはあるが、それもやはり例外的なものである。
ヴェルレーヌの詩集に『蛙』という文字を見つけて、よくよく読んでいくと、『蛙が鳴けば、あたりを込めて悪寒が走る』というようなフレーズだった。
非常に忌み嫌うべきものとして描かれているのである。」
20世紀の初頭に来日したフランスの医師で哲学者であったクーシューという人が、フランスに最初に俳句を紹介したとされているが、黛さんによれば、クーシューは「動物を描くとき、日本人は動物たちと同じ立場でいようとする。日本人は、人間を基準にして動物を考えない。それどころか、未発達の動物たちの魂と同じ高さに身を置こうと努める」と書いているそうだ。
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蛙の詩人として有名だった草野心平を例に出すまでもなく、日本の詩歌では、小動物や昆虫は詩的な対象になる。
世界で最も有名で、人口に膾炙した俳句といえば、おそらく「古池や蛙飛こむ水のおと」であろう。
芭蕉庵の傍らには池があったそうだから、舞台はその池でのことなのであろう。
静かに水をたたえた古い池に、蛙の飛び込むポチャンという水音がする、というだけの句であるが、解釈や鑑賞は多様・多彩で、種々の見方ができる句だという。
それまでの俳諧では、詠む対象を和歌の伝統に則って把えていた。
「蛙」というのは、和歌や俳諧の世界では一般的に「鳴く」存在として認識され、「跳ぶ蛙」という動的な存在として把握する発想は、非常に珍しいが、初期の俳諧にいくつか先例がみられるという。
だが、この句のように、五・七・五に込められた幽玄、閑寂の趣と相俟って、当時はまことに斬新で革新的な対象把握だったのだそうだ。

この句については、今なお様々なアプローチで研究が続けられているというが、背景には、芭蕉本人の理解が変化したことがあるようだ。
この句の初案は「山吹や蛙飛こむ水のおと」だったことが知られていて、『袋草紙』(歌人たちが腕を競い合う歌会・歌合の実態、古今の和歌や歌人たちのエピソードを記した書)の故事に依拠した滑稽味の強い作品だった。
上五を「古池や」に改めた後、芭蕉は「啓蟄の喜び」という新たな解釈をするようになったという。
♪ ♪ ♪
『袋草紙』の故事というのは、こんな話である。
小倉百人一首でもその名を知られる平安時代末期の歌人、藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん1104‐1177)は、『袋草紙』で、平安中期の能因法師(988‐1058?)と帯刀節信(たてわきときのぶ)の逸話を紹介している。
能因法師といえば、やはり小倉百人一首の歌で知られるが、のちに西行や芭蕉のアイドルとなった歌人で、当時から風流に執心する「数寄者」として有名であった。
東宮の警備長であった帯刀節信も「数寄者」だったことから、初対面ながら二人は意気投合してしまう。
能因は、懐中から錦の小袋を取り出し、「これは私の宝物です」と言って袋の中の鉋屑を取り出した。
淀川にかかる長柄橋を造ったときのものだと言う。
当時の歌人にとって、長柄橋は古来歌枕として有名で、古い物の代名詞であり、その鉋屑といえば、数寄者にとってはこのうえなく貴重なものであった。
とても喜んだ帯刀は、今度は自分の懐中から紙に包んだものを差し出した。
能因が開いてみると、ひからびた蛙のミイラ。
帯刀は「これは井手の蛙です」と言った。
井手は京都の地名だが、奈良と京都を結ぶ「山背古道」が通っていて、万葉の時代から多くの歌に詠まれてきた土地柄である。
井手は「山吹の里」ととしても知られ、清流には鰍蛙の鳴き声が響いていたことから、井手の枕詞は「山吹」と「蛙(かはづ)」とされていた。
その井手の蛙の干物(ミイラ)を持ち歩く帯刀に、能因は大いに感嘆して、それぞれ懐に戻し、別れていったという。
お互い数寄者同士、「お主、なかなかやるな」といったところであろう。
清輔朝臣は「さすがは数寄者、見習うべき」と紹介しているそうだ。
もっとも、「いくら宝物だといって大事にされたとしても、干物にはなりたくねえ」とは、蛙の独白である(笑)。
♪ ♪ ♪ ♪
つい「古池や…」のハナシが長くなってしまったが、「蛙」のほかに、小林一茶の「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」という句も有名である。
また、村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」など、日本の絵や詩歌に登場する小動物は、決して点景ではなく、主題そのものである。
蛙も雀も冬蜂も、人間の添え物や比喩ではなく、主人公になっている。
さらに、先に挙げたクーシューの記述そのままの世界ではないかと思われる作品があるので、もう一句『芭蕉全句集』から引く。
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
仕掛けにかかってしまった蛸なのだが、海にはいい夏の月が上っている。
明日の朝には、蛸壺ごと引き揚げられてしまう。
朝までの束の間に、蛸は淡い夢を見ているのだ。
このとき芭蕉の魂は蛸と同じ次元にある。
一体化であり、同化であり、いつしか作者と対象である蛸との境目が無くなっている。
はかなき夢を見ているのは蛸であり、そして芭蕉自身である。
そして読者もいつしか、蛸と同じようにはかなき夢に思いをはせる。
加えて、あまたの命を包む海上に輝く月光…
何ともいえない句柄の大きさを感じさせる。
日本人の感性の特徴を考えるヒントを与えてくれた一冊である。