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Channel: ただの蚤助「けやぐの広場」~「けやぐ」とは友だち、仲間、親友という意味あいの津軽ことばです
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#516: 首を持ってこい

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1990年代の半ばごろであったか、早春のニューヨークの路上で焼き栗を売っている黒人のオバサンがいた。
ひと袋所望すると、これがなかなかほくほくとして美味しい。
人の良さそうなそのオバサン、いかにも「お上りさん」然とした私たちに向って「このあたりはひったくりが多いから気をつけなさい」と忠告してくれる。
家人が身に着けていたショルダーバッグの掛け方が危ないといって、わざわざ安全な抱え方を指南してくれるのである
辺りは繁華街で人通りも多く衆人環視の状況なのであったが、改めて彼我の安全に対する意識の違いを感じたものであった。

1960年代以降のアメリカは、ベトナム戦争以降極度に悪化し、一流ホテルなどでも、エレベーターの中で見知らぬ人間と二人きりになったとしたら、何らかの暴力的な被害を警戒しなければならないといった時期があった。
もっとも、最近では、当時のアメリカほどではないにせよ、日本の安全神話を揺るがすような事件が多発しているのも事実で、これもアメリカ追随型なのかと思ってしまう。

銃の国これは追随しちゃならぬ (蚤助)

暴力は世に厳然として存在するし、人間の本能であるのかもしれない。
セックスについても同様で、この二つの強烈な要素を除いて現代の映画は考えられないといってもよい。
こういう意識が映画作家の間に広まっていった背景には、やはりベトナム戦争の暗い影があり、いわゆる「アメリカン・ニュー・シネマ」の台頭につながっていったのであろう。

映画監督サム・ペキンパー(1925‐1984)のフィルモグラフィーは闘争の歴史といっても過言ではない。
それほど、製作会社やプロデューサーとの確執が激しかった。
彼の作品のほとんどは編集権を奪われ、意に沿わない変更を余儀なくされてきた。
一方で、完璧主義者として知られ、予算の無視やスタッフの突然の解雇など現場での専横ぶりが叩かれ、映画界から冷遇された末に仕事を干されることもあった。
そのペキンパーが、徹頭徹尾思い通りに作った数少ない作品の一本が<ガルシアの首>(1974)であった。
原題は、「アルフレード・ガルシアの首を取って来い」(BRING ME THE HEAD OF ALFREDO GARCIA)で、新暴力派とも言うべきペキンパーが、メキシコで撮影した作品だが、かなり壮絶な暴力がドラマの軸となっている。
彼が生涯をかけて追求したのは、徹頭徹尾、男の、そして暴力の美学だった。

♪ ♪
メキシコの広大な牧場を支配する権力者の愛娘が妊娠した。
相手の男は誰だ?
それが女たらしのアルフレード・ガルシアという男だと知ると、父親たる権力者はガルシアの首に賞金100万ドルの賞金を懸けた。
「アルフレード・ガルシアの首を取って来い」と言うのである。
その一言で、強面の連中が賞金を目当てに先を争って大捜索を開始する。

アメリカ人観光客相手の場末のバーでしがないピアノ弾きをしているベニー(ウォーレン・オーツ)も金の匂いを嗅ぎ付ける。
ベニーの情婦エリータ(イセラ・ヴェガ)はかつてガルシアの女であった。
エリータからガルシアが事故死したことを聞いたベニーは、ガルシアが埋葬されている墓に向かい、証拠として首を持ち帰る決意をする…。


(ウォーレン・オーツとイセラ・ヴェガ)
人生を半ばあきらめかけた負け犬の主人公ベニーを演じるウォーレン・オーツは、決してスターではなく脇役専門の役者で、どちらかといえば薄汚れていたり、ずる賢かったりする屈折した役柄が多かった人だが、ペキンパーは彼を主役に登用し、その恩情に見事にこたえた一世一代の演技を披露する。
もっとも、主役といっても、これも相当薄汚いオッサン役であった(笑)。

エリータとベッドをともにした後、股間の毛じらみをテキーラで消毒するベニー、エリータとの明るい未来を夢想するものの、ふと死んだガルシアへの嫉妬心が湧き上がってしまうベニー、ともかくガルシアの首を持ち帰って賞金を手にしなければ再起を図れないのだ。
ギターと拳銃とテキーラを携えながら、嫌がるエリータを連れて、ベニーはガルシアの墓を目指すが、そんな二人をやはり懸賞金目当ての一味が跡をつけていた…。

正直いって、低予算の映画である。
だが、メキシコの空気、暑苦しい映像、男のプライドと意地、悲哀、復讐心、バイオレンス、銃撃戦、流血、スローモーション、これに男女の愛を絡ませることによって、ラストのカタルシスが倍加する。

出演者の中で私が知っているのは、エミリオ・フェルナンデス、ギグ・ヤング、ロバート・ウェッバー、クリス・クリストファーソンくらいで、スターと呼べるような役者は一人も出ていない。
典型的なB級映画と言えるだろう。
しかし、映像は安っぽくても、ロケを多用した画像は他のどの作品にも似ていない。
ロケーションでは、現場では何も足さず、何も引かない、あるがままの状態で撮影したそうだ。
そういう意味では、映画的な映像とはいえそうもないが、その分、現場の空気やリアル感が鮮烈に伝わる。

予算上の制約からオーディションで採用したというエリータ役のイセラ・ヴェガは、ちょっと婀娜な魅力がある。
時に母親、時に女や妻、初心な娘のようでもあり、しまいには聖母のような輝きを放って殺されるのである(笑)。

♪ ♪ ♪
墓場でガルシアの遺体を掘り返そうとし、何者かに殴打されベニーは気を失う。
気がつくと、ガルシアの首は盗まれ、エリータは惨殺されていた。
ベニーは首を盗んだ一味を追いかけ、皆殺しにし、ガルシアの生首を取り返すのだが、首は腐敗臭を放ち、ハエがブンブンたかり始めてくる。
この辺り、生首を見せることなく、その存在を感じさせるところが上手い。


ベニーは、なおもガルシアの首を追って追跡してくる賞金稼ぎたちや、墓を暴かれてその行手を阻もうとするガルシアの親族たちと次々と凄絶な銃撃戦をしていく。
そして、ついにガルシアの首を持って、賞金を受け取りに屋敷に行くのだが…

現在では傑作とされている代表作の一本<ワイルド・バンチ>ですら、公開当時、酷評の嵐に見舞われている。
この<ガルシアの首>も、アメリカ本国では、ほとんど無視された作品だが、ヨーロッパと日本では非常に高く評価されて、熱烈なファンのいるカルト映画となっている。
荒野、太陽、砂塵、汗、流血、ハエのたかる生首、こんな薄汚い強烈な世界がなぜかとても詩的に感じられるのが不思議である。

人間は暴力によることによってしか生き延びることができない、あるいはまた、是非を超えて暴力の存在を直視しなければならない、というのがペキンパーのメッセージなのだろうか。
いずれにしても、非常に冷酷で厳しい世界観であるが、この作品に吹き荒れる暴力には、身も心も打ち震えるのである。

できればテキーラとタコスを手にして観たい作品である(笑)。

余談になるが、サム・ペキンパーの一番好きな映画は黒澤明の<羅生門>だったそうだが、正統派のジョン・フォード信奉者であった黒澤の方は、ペキンパーを認めていなかったそうである。

葬儀屋が楽しげにする飾り付け (蚤助)

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